2011年8月31日水曜日

国際ケインズ・コンファランス@ソフィア ― 学術交流記 ―




国際ケインズ・コンファランス@ソフィア

学術交流記

平井俊顕(上智大学経済学部教授)


1. はじめに

大学教員には、大別すると3種類の仕事がある。教師、研究者、行政者としての仕事だ。本稿で扱うのは、第2の活動に属している。
研究者として大学教員は、それぞれの専門分野を中心に活動している。そしてその成果を論文にまとめたり、学会で報告をしたり、あるいは学術雑誌への投稿を試みたりする。さらに、ある程度考えがまとまってきたりすると、それらをまとめて研究書として世に問うたりする。以上のほか、研究者としての大学教員は、たがいに関心を共有する研究者たちとともに研究企画を立案し、研究会を開催しながら、それぞれの専門分野での知見を増大させたり、問題解決法を見出すことに努めたりなどする。
本稿では、私たちがこれまで7年間にわたって開催してきた「国際ケインズ・コンファランス@ソフィア」 (International Keynes Conference at Sophia. 以下IKCSと呼ぶ) についての報告である。


2. なりそめ

いくばくかの偶然と意思があいなかばするかたちで、私たちがIKCSを思い立ったのは7年ほど前である。「意思」とは、研究者として国際レベルで遂行できていないことにたいする反省である。さまざまな環境から一種のトラップ状態におかれていたことへの反省の念が、私たちにはあった。研究をそのようなことで進めるのに、たしかに年はいきすぎている、という思いもあった。が、「年は関係ない、研究者としてやりたいと思うことは、思い立ったいま行うしかない」と考えることにした。私たちはエリートの研究者ではない。そう雑草の研究者なのである。
そこで、構想を練り、そのための資金として科学研究費を申請した。幸にも採用されたため、文字通り見よう見まねでプロジェクトを進めて行くことになった。「見よう見まね」というのは、この点で私たちを指導してくれる年長の研究者が周辺にいなかったこと、私たちは海外の大学で研究活動を行った経験はなく、純粋国産型の教育を受けてきたものであること、等のハンディを負っていたからである(これ自体、運命だと思う)。
 だが、悪いことばかりではない。他方で運もあった。同じような志をもつ仲間・同僚が複数名、身近にいたこと、海外の有力な研究者で私たちを心から支援してくれる複数名の知遇を、偶然にも得たこと、がそれである。
 こうして始めたIKCSではあったが、偶然も作用し、初回が望外にうまくいったことで、ある程度の手ごたえを感じ取ることができた。爾来、これまで計6回のIKCSを開催することができた。いずれも友好的な雰囲気のもとで、多くの熱のこもった研究報告が行われた。これは何よりもまず、内外の研究者たちがIKCSの意義を高く評価してくれたことによるところが大きい。また私たちは同時に若手研究者に報告機会を提供するように努めてきたが、その芽生えは確実なものになっており、経済学史研究の分野では、海外の学会で研究報告を行うということは、かなり日常的なものになっている。
海外の学会で報告というのは、日本の研究者にとっては想像以上に大変である。わが国の大学院教育はそのような機会に備えたものになっていないからである。IKCSは国内で開催されるものであるが、海外の一線で活躍する研究者と同席して、報告・議論する機会であり、非常に貴重なものになったと思う。そして、私の研究領域の周辺で、海外での研究報告が盛んに行われるようになったことに、いささかの貢献をはたしてきたのではないか、とひそかに思っている(似た趣旨のコンファランスやワークショップの数は、かなり増えてきているのが、より大きな要因である)。


3.内容の説明

ここでIKCSがどのようなコンファランスなのかを説明しよう。通常、IKCSはまる2日間の日程で組まれてきている。海外からは平均すると45名、それに国内からもやはり45名の研究者が、その時々のメイン・テーマに関連した研究報告を行い、それにコメンテーターによるコメントが加えられた後、フロアーとの質疑応答が続く(海外と日本とのあいだでの対等ベースをモットーにして行ってきている)。1つの研究報告には全部で70分ほどをかけることで、十分な議論を行える時間をとっている(海外の学会報告では30分が標準)。これで1日に5本、2日で計10本が取り上げられる。参加者は平均すると40人前後である。
 海外からの報告者であるが、アメリカ、イギリス、イタリア、フランス、ドイツ、ブラジル、インド、中国、と文字通り世界中におよんでいる。専門分野は経済学史を主体としつつも、金融論、マクロ経済理論、経済政策論を包摂している。いずれも一線で活躍中の大学研究者であるが、若手研究者の招聘にも配慮を払ってきた。
 IKCSは、いわゆるコール・フォー・ペーパーズ方式ではなく、主催者側で人選をして招待する形式を採用している。その資金の主力は科学研究費である(一度は、「ソフィア・シンポジウム」資金に拠っている)。

 以下の表は、これまで開催してきたIKCSの概要を示している(なおIKCSは少なくともあと2回は開催を予定している)。


年月日

メイン・テーマ

1
2005924日(土)、25日(日)

Keynesian Legacy and Modern Economics: A Dialogue between History of Economic Thought and Economic Theory (「ソフィア・シンポジウム」)
2
2006323日(木)
Keynes’s Influence on Macroeconomics

3
2007314日(水)、15日(木)
Keynes’s Economics and His Influences on Modern Economics
4
200831920
Keynes’s Influence on Modern Economics: The Keynesian Revolution Reassessed
5
200931718
Global Crisis and Keynes: Present and Past

6
201032日(火)、3日(水)
The World Economic Crisis and Keynes: Manifesto of the Transformation


これらの成果をもとにして書籍の刊行計画が出てくるのは自然の流れである。私たちは2冊の本を企画している。そのうち、1冊は、The Return to Keynes edited by B. W. Bateman, T. Hirai and M.C. Marcuzzo, Harvard University Press, 2010として本年の2月に刊行されている。もう1冊は現在企画中である。


4.ケインズについて

IKCS国際ケインズ・コンファランス@ソフィア)は、「ケインズ」という名が冠せられている。そこでなぜこの名がつけられているのかについて、説明しておくことにしよう。
ケインズがどのような人物であったのかであるが、拙著『ケインズ100の名言』(東洋経済新報社、2007年)からの次の1文が適当かと思われる。

ケインズの活躍した時代、それは第一次大戦で瓦解した「パックス・ブリタニカ」を回復させようとする努力が挫折し、世界は混乱と分裂の度合いを深めながら第二次大戦に突入していく、という時代である。こうした時代状況を打開すべく、ケインズは新たな経済理論・経済政策論、ならびに新たな世界システムを次々に提唱していった。これらの点で彼に比肩する人物は皆無である。そればかりではない。周知のように、ケインズは『雇用・利子および貨幣の一般理論』(以降、『一般理論』1936)を通じて、その後のマクロ経済学、経済政策論、ならびに社会哲学の領域で「ケインズ革命」と呼ばれる深甚なる変革を引き起こした・・・。

とりわけ、ケインズを今日的意味で重要にしているのは、次の点である。
彼は深い理論を構築する能力を有していたが,それに溺れることはなかった。彼は、制度、不確実性、人々の心理、歴史といった点に絶えず配慮を払う人物であった。
彼は、数理のための数理に走るような(当時の)数理経済学的手法に異を唱えた。経済分析のために自らのモデルを使用するにさいし、ケインズは、考察されていることは現実の世界を単純化したものにすぎないこと、もし現実世界がより正確に描かれるべきだとすれば、それは相互作用的・叙述的方法によってのみ可能なのであり、それは数学的技法の能力を超えたものであること、を繰り返し述べている。
 ケインズはまた、独自の哲学的・論理学的視点からティンバーゲン(ノーベル経済学賞受賞)の計量経済学的手法に懐疑的であった。ティンバーゲンに対するケインズの評価は徹頭徹尾、厳しいものであった。
そのさい、ケインズは自らの経済学に対するスタンスを次の2点におく。1つは、経済学を論理学の一分野とみなすスタンスである。経済学はモデルの改善によって進歩するが、可変的な関数に実際の数値を当てはめるべきではない。統計的研究の目的は、モデルのレリヴァンス・有効性をテストすることにある、と。この背後には、若き日に刊行した『確率論』(この原稿を書いているときに、出たばかりの邦訳書を受け取った。生前刊行したケインズの著作のなかで唯一邦訳のなかったものである)で展開した理論が確実に存在する。もう1つは、経済学を「モラル・サイエンス」と特徴づけるスタンスである。これは、内省と価値判断を用い、動機、期待、心理的不確実性を扱う科学として定義されている。
しかも、驚くべきことだが、彼は現実の経済分析にきわめて鋭敏な直感を働かせる能力に長けており、統計の重要性を生涯を通じて強調したのである。この点は、今日の国民所得統計の確立に、彼はミードやストーン (いずれもノーベル経済学賞受賞)と共同で多大なる貢献を果たしたという点を指摘するだけで十分であろう。


5.今日的問題

私が専門とする経済学史には、対象をその時代的コンテクストに即して分析するという課題と、現在の経済学の状況を多様な歴史的・空間的視座から分析・批判するという課題がある。
ケインズはどの経済学者よりも後者の問題を考察していくうえできわめて重要な位置を占める存在である。この点について少し説明をしてみたい。
ケインズが打ち立てたマクロ経済学(ならびに社会哲学)をめぐっては、この70年間に大きな変動の歴史がある。かつてはマクロ経済学といえば「ケインズ経済学」であったが、この30年間は、それに批判的な「マネタリズム」、さらにはケインズ的思考そのものに破壊的な立場をとる「新しい古典派」がアメリカの学界を席巻してきた(それは同時に、「ケインズ=ベヴァリッジ社会哲学」から「ネオ・リベラリズム」への移行であった)。
 IKCSはそうした傾向にたいしては懐疑的である。それは、理論史的・社会哲学的・方法論的に問題を抱えている。経済分析の手法として「新しい古典派」のとるアプローチに経済学の未来を託すことはできない。代表的家計、合理的期待形成、効用理論、完全雇用やセイ法則を当然視するスタンスで、現実の世界経済を分析し政策提言を行うことは不可能である。IKCSは、こうしたスタンスを多かれ少なかれ共有しつつ、いってみれば「ケインズ・スピリット」をいだく研究者によって進められてきた。
 こうした折り、(2008年9月の)リーマン・ショックに象徴されるメルトダウンが生じ、現実経済と経済学を取り巻く状況が一変したのである。
 これまでの主流派マクロ経済学は、事実によって背後に置き去りにされた。そして経済危機の問題に直面してその解決を図らねばならない政治家は部分的には「直感」、部分的には「事実」によって、経済学者が主導してきた考えをうち捨てた。「グリーンスパン・プット」のように、経済変動の制御は金利政策で十分、景気対策としての財政政策は不要、といったスタンスは、政治家の実践により圧倒的なスケールで否定されてきた。アメリカ、EUをはじめ、これまでの金融の野放図な自由化運動は厳しく批判され、政府による金融規制の必要性が強く認識されるようになっている。自己責任原則の旗印のもと、グローバルなスケールでの金融自由化の先頭を走っていたウォール・ストリートのメガバンクは真っ先に助けを請い、そして救われた。非自発的失業など存在しないと主張していた経済学者は、膨大な失業者を前にして発言力を喪失してしまっている。そしてこれらは、社会哲学としての「ネオ・リベラリズム」(市場原理主義)の敗退でもある。新しい社会哲学、新しい経済学はいかなるものであるべきなのか。こうした大きな変化をまえに、
IKCSも現在の世界経済危機に大きな焦点を合わせてきている。


6.むすび

最近になって、アメリカでは金融規制改革法案が紆余曲折を経て、ようやく成立しそうな状況にある。これは1980年代からの金融グローバリゼーションの波のなかでいわゆるSBS (Shadow Banking System) が肥大化し、それが資本主義の不安定さを増長させてきたことへの深い反省に立つものである。「自由」概念、「市場」概念が歪曲化されてきたことへの反省、市場を重視するといいながらも現実にはそれを隠れ蓑に「市場の不在化」、「市場の不透明化」が進み、モラル・ハザードが高進するなか、世界経済は、ついには深刻なメルトダウンに襲われることになった。
本年3月にケンブリッジ大学キングズ・カレッジにINETInstitute for New Economic Thinking. http://ineteconomics.org/initiatives/conferences/kings-college)が創設されたが、創設の理念はそうした問題意識によるものである。資金提供はあのジョージ・ソロスであるが、かねてから彼はそうした哲学的・経済的問題意識を提示してきていた。
稀代の投資家ソロスが稀代の経済学者ケインズの母校にINETを設立するというのは、一見すると奇妙な組み合わせであるが、ソロスの経済学にたいする考え方、そして熱烈なポッパリアンとしての立場を知ると、じつは自然な帰結である。
 何らかの意味での「ケインズ・スピリット」をもつ研究者による新たな経済学の展開、新たな社会哲学の展開がいまほど必要とされているときはない。IKCSもそうした問題の追究に大きな焦点を合わせていくことになる。

2010年5月31日脱稿)