2017年2月15日水曜日

(第16講) (全16講義のうち) 「ケインズの今日性」を問う 平井俊顕(上智大学)






                      
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 「ケインズの今日性」を問う




                           平井俊顕(上智大学)




1. はじめに

マクロ経済学の主流がケインズ経済学から新しい古典派に移り20数年を経たのだが、2008年9月のリーマンブラザーズに端を発する世界経済危機をまえに、ニューケインジアンも含め、その無力さを露呈した。そしてそれまでの名声がうそのように瓦解してしまっている。そしてそれとは対照的に、ケインズは急速に再評価されるようになった。今日、何らかのかたちでケインズの名がマスコミに登場してこない日はないといっていいほどである。
ここで問題にしたいのは、経済理論のあり方である。「新しい古典派」が無力であったのは、たんに危機をまえにして無力であっただけではなく、経済理論のあり方として、そもそも本性的に非常な問題を含むものであったという点である。
注目を集めたケインズの経済学は、じつは1930年代の大恐慌期との関連で注目に値するだけではなく、じつは『一般理論』で展開された経済学の方法自体が今後の経済学の歩むべき道として、改めて認識されるべきなのではないのだろうか。これはマクロ経済学経済政策と現実の経済とが、その性質上非常に密接な関係にあるという点とも関係がある。
本講では、このことに関連して次の問いを発したい。「ケインズの今日性」とは何か、である。なぜいまケインズなのか、ケインズの何が注目されているのか、そしてケインズの何が注目されるべきなのか。これらについて述べていくことにしよう。それは今後の経済学、社会哲学のあるべき姿方向に大きく関係する問題なのである。      
本講は次のように進められる。第2節では、なぜいまケインズが注目されるのか、を述べる。『一般理論』がどのような内容をもつ書であるのかについては、すでに第14講で説明したとおりである。そこで第3節では、これを受けて『一般理論』が投げかける「今日性」に焦点を合わせることにする。第4節では『一般理論』後の展開について一瞥する。
        
2.なぜ、いまケインズなのか?

8講の冒頭でも触れたことだが、この30年間、バッシングを浴び続けたケインズに、再び人々の注目が集まりだしたのは、1にも2にも、サブプライムローン危機に端を発したアメリカの金融危機からである。20089月のリーマンブラザーズの破綻からの驚くべき勢いでの経済破綻は、これまで時代をリードしてきた社会哲学経済学の脆弱性幼稚性欺瞞性をことごとく白日のもとにさらけ出した。自己責任原則のもとでの自由放任を主張し、それにより資本主義は限りなき成長が可能となる、と謳ったネオリベラリズム1、非自発的失業を嘲笑し、完全雇用を当然視する前提のもと、あやしげなミクロ理論に依拠しつつ組み立てられたマクロ理論としての「新しい古典派」2、これらが一瞬にして、80年ぶりのメルトダウンに飲み込まれて溶解してしまったのである。
 崩れ去った社会哲学、崩れ去った経済学の瓦礫の向こうに人々が見出したもの、それがケインズであり、ルーズヴェルト大統領であった。彼らを最初に見つけたのは ― 少数の例外はあったとはいえ―、社会哲学者でもなければ経済学者でもない (ましてや経営者ではない)。崩落した現場にあって経済を立て直さなければならないという現実的課題に直面した政治家である。
 証券化商品の瓦礫のもとで呻吟するメガバンクやシャドウバンキングシステム、莫大なローンを抱えたうえにリストラに遭遇した大衆、こうした現実を目の前にして、自己責任原則を唱えるネオリベラリズムの声は一気に力を喪失した。そしてそのうえに構築されている新しい古典派も同様である。対抗勢力としての「ニューケインジアン」3も理論としては変わるところはない。その手法は「新しい古典派」からの借り物により理論武装していたからである。(オールド)ケインジアンはといえば、古びたものとして忘却の彼方におかれていた。
 こうしたいわば、社会哲学経済学の「瓦解」状況にあって、政治家がなすべきことは、政府の力による経済システムの救済であった。公的資金の大量注入、これまでタブー視されていた財政政策の実施が、アメリカ、イギリス、中国で相次いで唱えられ、実行されたのである。 
こうした動きは、現在に救いの手が存しない状況下にあって、類似した1930年代の大恐慌時代のヒーローたるケインズ、ルーズヴェルト大統領に人々の目を向けさせたのである。それは懐古ではまったくない。現在の経済危機を救済する方策が、現在の社会哲学、現代の経済学のなかに不在であるがゆえに、そして同様の事態にあって大胆に対処しようとしたがゆえに、彼らから何かを学ぼうとしているからである。これは石橋湛山が「いまのわれわれに、安政文久時代の幕府や京都の政治家、学者らが踏んだかの損失の多かった道を、重ねて踏まぬ用意をしようと提議するのはやはり不合理のことだろうか。もしもそれが不合理であるならば、人間は歴史を学ぶ要もなければ、科学を研究する価値もない。われらはまずむだなまでも、その人為のかぎりをつくしてみようではないか」(石橋[1984] p.15819284)と述べたのと同様の信条からである。
 ケインズが脚光を浴び出したのはこうした背景からである。政治家が彼らに目を向けると、マスコミがその後を追う。そして時代の空気に敏感な部類の経済学者は、さらにその後を追うことになる。しかし、忘れてはならない。それを正当化する理論政策が新たな次元で打ち立てられたわけではない。そのようなものがにわかに生み出されるとは考えにくい。経済学者は右往左往しているというべきであろう。
 人々はケインズが、次のようなことを述べていた人物であることを、ジャーナリストや学者の著述から知るようになる。「資本主義社会は不確実性に満ちた社会であり、人々の心理的な変化により過敏に揺れ動く特性をもつシステムである。それは自由放任にしておくと非自発的失業を免れないシステムである。だから政府による経済安定化政策は不可欠である、云々」。こうした発言を行い、実際に大胆な政策提言を行ったケインズは、2008年秋以降の悲惨な経済状況を目の当たりにして、いわばメシアとして人々の眼前に姿を現したのである。
一体、ケインズとは何者なのか、30年にわたるネオリベラリズムとマネタリズム「新しい古典派」の支配するなかで経済学の教育を受けてきた人々にとって、こうした問いが発せられたとしても、不思議なことではない4。そしてそのことは、経済学の科学化が叫ばれ、かつ誇らしげに語られるなかで進行してきた経済学の狭隘化の産物であり、絶対史観と過てる論理実証主義の所産であるともいえる。

3.『一般理論』が投げかける「今日性」

本節では、これらとは異なる視点から『一般理論』を取り上げることにる。『一般理論』にみられる経済学のスタンスが、それまでの経済学の歩んできたものとは異なる特性を有しており、経済学の新しい方向を示している、という視点からである1

3.1 現在との関連

現在の世界経済危機を分析対処するうえで、新しい古典派ニューケインジアンも無力ななか、人々が注目したのが『一般理論』のもつ「不安定性不確実性複雑性」である。この点はミンスキーやデヴィッドソンといった「ポストケインジアン」が早くから着目していたが、彼らはアメリカでは異端視扱いされていたからその声は大きなものなることはなかった。今回の危機にあっては、アカーロフ、シラー、スティグリッツ、クルーグマンといった現代を代表するアメリカの経済学者がケインズのこの側面 (「合成の誤謬」、「美人投票」、「アニマルスピリッツ」等々) に着目したことで、ケインズにより一層の関心が向けられることになった。
しかし、もう1つ忘れてはならないこと、それは「安定性確実性単純性」の側面である。この点では、「ニューケインジアン」ではなくオールドケインジアン的側面の復興といってもよい。金融政策が限界にきているなか5、財政政策の出動を理論的に正当化できる唯一のマクロ理論だからである。

3.2 政策論的特性

ケインズの処方箋ケインズは彼の有名な言葉「長期的には皆死ぬ」が示すように短期的な見方をとっていただから資本主義経済の欠陥を是正可能なものであるとして非常に詳細な経済政策論が展開されることになった (この点は第11で取り上げたシュムペーターとは対照的である)
大不況との関連では、1934年に「アメリカ政治経済クラブ」で報告された「有効需要の理論」6が興味深い。そこではアメリカ経済立て直しのために赤字財政による政府支出の増大の必要性が強調されている。ケインズはこの視点から、『ニューヨークタイムズ』誌上で、ルーズヴェルト大統領宛の公開書簡を寄稿している7

『一般理論』の政策的側面に目を向けよう。そこでの処方箋は、主として、安定的な様相をもつ雇用理論モデルに基づいてなされる。
『一般理論』で提示されている理論は、雇用量を決定するうえで、利子率が本質的な役割を演じるように構築されている。理論的にみれば、利子率に依存する民間投資は公共投資よりも重要である。経済政策的にみても、金融政策が最初に位置し公共投資政策はその次に来る(後者が前者よりも有効性において劣るという意味ではない)
 ケインズは、流動性選好理論および自己利子率の理論を念頭におきつつ、完全雇用達成のためには利子率の引き下げが肝要であることを、繰り返し強調している。それには貨幣政策による貨幣量の増大が考えられる。
とはいえ、他方で、彼は貨幣のもつ特性により利子率引き下げが困難になることに不完全雇用均衡の主たる原因を認める(いわゆる「リクィディティトラップ」であり、クルーグマンが日本経済の分析にさいし着目した点である)。この点を解決するために、「スタンプ付き貨幣」案の提案もみられる。
  こうして、ケインズは政府にその解決策を求める。国家は、「民間からの借り入れによって資金の賄われた公共投資と、同じ方法で資金の賄われたその他すべての経常的公共投資」を含むものと定義された「公債支出」を大胆に開始すべきこと提案ている(前者は投資の増加に、後者は消費性向の増大に寄与する)
投資に関し、国家が直接的に組織化する責任を引き受けることも期待されている。国家は、「資本の限界効率を長期的な観点から、一般的、社会的利益を基礎に計算できる立場に」ある、と考えるからである。消費性向の現状に関しては、組織による貯蓄の急増の結果、消費性向の減少が認められること、ならびに高い相続税率じた所得の再分配を実施すべきこと、が指摘されている。
  最後に、次の点を指摘しておこう。ケインズは、真の投資を妨げる株式市場での投機的活動に強い懸念を寄せていた。そのため、株式市場での活動に、例えば高い取引税を課すこと提案ている。

ケインズ的側面からの批判的評価繰り返すと、ケインズは政策的診断を下すさいには、明確な処方箋を提示している。「新しい古典派」はもとより「ニューケインジアン」も「彼らの前提のなかに問題の存在を否定する諸条件を導入したために、問題を無視し、経済理論の結論と常識の結論とのあいだに分裂をきたす結果となった」。彼らは、ケインズのモデル、もしくはケインズ的モデルはミクロ的基礎をもたないアドホックなものであるとして、それにたいしきわめて批判的であった。だが、彼らのモデルはといえば、現実のメルトダウンにたいし何ら明確な回答を与える類のものではなく、単純とされるケインズのモデルの方が説得的現実的ですらある。
むしろ長期的には、高度資本主義社会における消費の維持の難しさ、そして爆発的な消費を喚起できる商品開発の困難さ、こうした問題が日本をはじめ欧米経済に突きつけられている問題なのである(この点を中国はいまのところれている。キャッチアップすればよいのだから)
 これまで財政政策は、今回のオバマ政権の出現までほとんどタブー視されていた (42参照。この点で中国日本は例外である)。景気の調整は「グリーンスパンプット」というマジックでいけばいいという発想、あるいはインフレターゲット論のような、人々の「期待」に期待を寄せる政策論に基づいていた。そこに、ケインズ的な財政出動が現実的必要性に迫られて登場してきたのである。経済理論は現実を前にして、置き去りにされてきたといってよい。
もちろん、日本のような財政状況にあっては、中国とは異なり財政政策の発動は大きな問題を抱えている。だが、それも環境問題への真の取り組みによって乗り越えることは可能である (むしろやっかいなのは、わが国特有の政治的利権に深く絡んだ「談合」や「縄張り」といった構造的問題の解決である)。そしてこうした問題は、「抽象的論拠に基づいて解決することはできず、その詳細にわたる功罪の検討に基づいて論じなければならない」。現代のケインズが待たれるゆえんである

3.3 方法論的特性

経済分析のために自らのモデルを使用するにさいし、ケインズは、考察されていることは現実の世界を単純化したものにすぎないこと、もし現実世界がより正確に描かれるべきだとすれば、それは相互作用的叙述的方法によってのみ可能なのであって、数学的技法のもつ能力をはるかに超えるものであること、を繰り返し述べている。この点で彼は明らかにマーシャル的である
 ケインズは『確率論』 (1921) に明らかなように、数学にはかなり長けた学者である。だが、彼の経済学の著述には、(統計は別として) 数学的叙述はほとんどられない。このことは、経済学にたいする彼の基本的なスタンスに由来する。今日の「新しい古典派」にみられるような形式の数理経済学は、彼が最も嫌ったタイプのものである8
ケインズはまた、独自の哲学的論理学的視点からティンバーゲンの計量経済学的手法に懐疑的否定的であった。そのさい、彼は自らのスタンスを次の2点におく。1つは、経済学を論理学の一分野とみなす点である。経済学はモデルの改善によって進歩するが、可変的な関数に実際の数値を当てはめるべきではない。統計的研究の目的は、モデルのレリヴァンス有効性をテストする点に求められる、と (この背後には『確率論』で展開した理論が確実に存在する)。もう1つは、経済学をモラルサイエンス内省と価値判断を用い、動機、期待、心理的不確実性を扱う科学と特徴づける点である9。「新しい古典派」のような「フォーマリズム」と真っ向から対立する方法論である。
しかもケインズは現実の経済を分析することにきわめて鋭敏な直感を働かせる能力に長けており、また統計の重要性を生涯を通じて強調した (この点に関しては、今日の国民所得統計の確立に彼がミードやストーンと共同で大きく貢献したことを指摘しておこう)
ケインズが示した上記の方法論的スタンスは、現代のマクロ理論家がいうような、ケインズの経済学の未発達性としてとらえるべきものではない。既述のごとく、ケインズは市場経済を複雑で相互関連的に動くものとして、強烈に認識している。方法論的に厳格になろうとするあまり(それでいてその厳格性はあやしげである)、現実の複雑性「合成の誤謬」、「美人投票」などを捨象したモデルを導出し、それに複雑な経済のデータを無理やり押し込める、という手法のもたらす弊害はあまりにも大きい。論理や言語 (レトリック)、複雑な制度や人々の心理、そうした要素を絶えず気にとめながら、データを扱い、数学を用いる(場合によっては、マクロデータから得られる帰納的法則を活用する)。ケインズが行おうとしたことはそのような方向であり、それはこれからの経済学のあり方を考えるうえでも重要な示唆を有している。




4.『一般理論』後の展開
                         
ところでケインズはその後もこの微妙なバランスをもったかたちで資本主義をとらえていったのであろうか。資料的に明らかなことは、1937年に発表された論文雇用の一般理論ではそうであったが、その後の政策立案家としてのケインズの活動にあっては、前者、すなわち「安定性確実性単純性」の方のみに光が当てられたといってよい10
 第1に、『一般理論』で展開されたケインズ理論は、消費と投資からなる総需要により雇用が決定されるという単純素朴なものとして、政策論議の場で使われるようになった。これは、ケインズ自らが、そしてまたミード達が、例えば雇用政策をめぐる論争の基礎に用いたものである(繰り返しになるが、彼は国民所得統計の確立にミードやストーンとともに大いなる貢献をしている)。『一般理論』はそうしたかたちで、若手経済学者のあいだに大きな影響力を及ぼしていったのである。
  2に、この単純な理論的枠組みに基づいて、非常に豊富な政策ツールが開発されていった。国民所得勘定の整備、総需要管理政策や予算政策といったかたちで、従来にはみられなかった理論と政策の融合がみられた。これらはケインズを抜きにしてはなしえなかったことである。
第3に、この領域ではケインズの現実主義的な政策立案者政治算術家としての側面が濃厚に現れている。しかも彼は一貫して楽観主義的立場(かりに経済が悪くなりそうな場合でも、政策によってその是正は可能であるという確固たる信念をもっていた) に立っていた11

5. むすびに代えて 戦後のケインズ経済学を
ケインズはどうみただろうか12

ケインズ自らは計量経済学の役割にたいしては懐疑的否定的であったが、戦後のマクロ経済学は、確実な雇用理論、国民所得統計、そしてエコノメトリックスが車の両輪のごとく作用して、飛躍的な発展をみせることになった。ここでいう確実な雇用理論とは、「IS-LM理論」のことである(これはほとんど『一般理論』のなかに存在していた)。そしてこの単純化を図ることで、『一般理論』のもつ既述の資本主義像 - 2つの対照性のせめぎ合いは喪失してしまうという代償払われることになった。ここ、われわれは、オリジナルケインズとケインジアンのいずれを、どのように評価するのか、という問題に逢着する13
今回の世界経済危機にさいしてケインズが注目をあびた1つの理由は、彼資本主義がもつ不確実性、脆弱性を見通していたという点にある。その意味では、ケインジアンにはないオリジナルケインズの再評価である。
あるいは次のような見方も可能である。『一般理論』のもつ「2つの対照性のせめぎ合い」は、その後、2つに分断された。「安定性確実性単純性」に着目するIS-LM理論と「不安定性不確実性複雑性」を重視するポストケインズ派、にである。ともに『一般理論』に端を発しているが、前者では政策論における明快性操作性に優れており、マクロ経済学の主流を形成することになったのにたいし、後者では『一般理論』のもつ「不安定性不確実性複雑性」が重視され、反主流を形成することになった。前者では、計量経済学との連携により、実証性、経済予測といった領域での進展がみられたが、方法論的にみれば、『一般理論』とはかなり距離を隔てることになった。後者では、不確実性を強調するあまり、操作性、計量的可測性への道閉ざされることになった。 
だが、繰り返し強調したいのは、2つの対照性のうち、いずれか一方のみを取、他方を捨てるようなスタンスは、『一般理論』からの本質的な乖離をもたらすという点である。
もしケインズが長生きしていたとして、マクロ経済学の展開にたいし、彼はどのように反応し、行動しただろうか。ケインズは、自らの理論がIS-LM理論に集約されたことにたいして、そのもつ狭隘性を問題にしたことであろう。またIS-LM理論がエコノメトリックスとドッキングしたことにたいしても、かなり異議えたことであろう。すでにべたように、彼はティンバーゲンの始めたエコノメトリックスの手法に非常に懐疑的であった。
 国民所得統計が世界の各国で整備され、それがマクロ経済政策の判断に用いられるようになっていったこと、さらに1960年代のアメリカのように、経済学者が経済予測を行っていったことにたいして、一定の評価をくだしていたかもしれない。
 他方、「不確実性」の側面が無視されていることにたいして、彼はそれを批判的にみたかもしれない。資本主義システムを評価するには、この側面を忘れることは許されないことである、とケインズは考えていたからである。しかし、ポストケインズ派が行ったように「不確実性」ばかりを強調するというスタンスに、賛成しなかったであろう。「確実性」と「不確実性」の微妙なバランスを保ちつつ、資本主義社会をみることこそがケインズ立ったスタンスであったからである。
 ケインズは、経済学がその後歩んだ数学化に批判的であったことであろう。彼は数学へのなまじっかな信仰、現実の経済の複雑で、かつ経済主体の心理的な影響のもたらすことがらを捨象してしまう危険性に絶えず警告を発していたからである14



1) ネオリベラリズムについては、第2講第2節を参照。
2) 「新しい古典派」については、第8講第3節を参照。
3) 「ニューケインジアン」については、第8講第4節を参照。
4) ケインズが何者であるのかは、第13講でみたとおりである。
5) 「政策金利」が限界のなか「非伝統的金融政策」と称して「量的緩和政策」(QE)がとられるようになっている。これについては、第5講と第6講を参照。
6)  Keynes [1973a] pp.457-468.
7)  Keynes [1982] pp.322-329.
8) 『一般理論』(Keynes [1936]) pp.297-298を参照。数理経済学一般への批判が展開されている。
9) 経済学は論理学の一分野であり、思考の一方法です。……経済学は本質的にモラルサイエンスであって自然科学ではありません」 (ハロッド宛書簡、193874日付。Keynes [1973b] pp. 296-7)。
10) ケインズが『一般理論』後、「確実性」の方を強調した活動をしたのは、政策立案家としての活動に忙殺されたからだと思う。雇用政策案、救済案、一次産品案、国際清算同盟案などの立案を打ち出し、その国際的な実現に尽力したため、アカデミックな側面ともいうべき「不確実性」に時間を費やすことができなかったからであろう。『一般理論』刊行直後のKeynes [1937]をのぞけば、ケインズが行った仕事というと、『戦費調達論』(Keynes [1940])や国民所得統計の確立があげられるが、いずれも政策的視点の濃厚な、それゆえ「確実」的側面のかなり色濃い仕事である。
11) ケインズが楽観的であったのはなぜか。多分にもって生まれた性質に起因す
るところが大きいものと思われる。キングズカレッジのフェロー資格試験に落とされても、彼は「確率論の問題のあらゆる側面を問題にしたのだから、誰かが何かを問題にすることは可能だ」と、落とされて落胆するどころか、自らのスタンスへの自信を表明していた。また、1920年頃に外為投機に失敗して巨額の損失を抱えたとき、それを大富豪アーネストカッセルに手紙を書き、投資指南を示し、その成功を説得した。これは功を奏し、彼は短期間で損失を取り戻すことができた。こうした冒険的な気質をケインズは備えていた。
12) マクロ経済学全体の展開については、第8講を参照のこと。
13) そのためには、『一般理論』は実際にはどのように書かれているのかを知る必要がある。第14講を参照のこと。
14) ケインズ学会編 [2014] I部「グローバルな視点から、ケインズの現代的意義を考える」は、海外の一線で活躍中の研究者6 (J.Kregel, A. Carabelli, M. Cedrini, R. Backhouse, C. Marcuzzo, R. O’Donell) からの寄稿で構成されており必見である




Backhouse, R. and Bateman, B. [2011] Capitalist Revolutionary: John Maynard Keynes, Cambridge University Press (西沢保 監訳栗林寛幸 [2014]『資本主
義の革命家:ケインズ』作品社).
Keynes, J.M. [1936] The General Theory of Employment, Interest and Money, Macmillan.
Keynes, J.M. [1937] “The General Theory of Employment”, Quarterly Journal of Economics, February 1937.
Keynes, J.M. [1940] How to Pay for the War, Macmillan.
Keynes, J.M. [1973a] The General Theory and After: Part I, Preparation, Macmillan.
Keynes, J.M. [1973b] The General Theory and After: Part II, Defence and Development.
Keynes, J.M. [1982] Activities 1931―9: World Crises and Policies in Britain and America. 舘野敏北原徹黒木龍三小谷野俊夫訳『[2015] 世界恐慌と英米における諸政策:193139年の諸活動』.

石橋湛山 [1984]『石橋湛山評論集』岩波書店.
伊東光晴 [2006]『現代に生きるケインズ』岩波書店.
平井俊顕 [2003]『ケインズの理論』東京大学出版会.
ケインズ学会編平井俊顕監修 [2011]『危機の中で<ケインズ>から学ぶ』作品社.
ケインズ学会編平井俊顕監修 [2014]『ケインズは<<>>、なぜ必要か?』作品社.
酒井泰弘 [2015]『ケインズ フランクナイト経済学の巨人は「不確
実性の時代」をどう捉えたのか』ミネルヴァ書房.
吉川洋 [2009]『いまこそ、ケインズとシュンペーターに学べ 有効需要とイノベーションの経済学』ダイヤモンド社.






以上で


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資本主義&グローバリゼーション