2016年8月29日月曜日

大正・昭和  平井俊顕








大正・昭和

                            平井俊顕 

. 第一次大戦 (1914-1918)


1.     第一次大戦前 (1914年以前) のヨーロッパの情勢については、牧野伸顕の伝記に、詳細な描写があって参考になる。そのなかで、エドワード8世を褒め、ヴィルヘルム2世を低評価している箇所が印象的である。日露戦争をめぐるヨーロッパの反応なども印象的に叙述されている。

2.     バルカン半島はオーストリア=ハンガリー帝国からの独立をめぐり、緊張が高まっていた。そうしたなか、オーストリアがスラブ人の土地の併合を行った。このようなことでオーストリア皇太子暗殺事件が勃発する。オーストリアはセルビアに10項目の要求を出した。これにたいし、セルビア側は裁判への介入項目のみ拒絶した。こうしてオーストリアとセルビアとの国交は断絶し、戦いが始まった。

3.     この直後、ロシア、ドイツ、フランスが次々と参戦を表明することになり、最後にはイギリスも参戦することとなった。イギリス、フランス、ロシア、セルビアにたいし、ドイツ、オーストリア、トルコの戦いである。戦争は、各国で熱狂的な支持をうけた。これが第一次大戦と呼ばれるものに発展していった。イギリスでは、バッキンガム宮殿前の広場での民衆の興奮ぶりが知られる。

4.     第一次大戦で、日本は連合国側についた。1915年 対華21カ条要求



. 発展と混迷

1.     わが国が飛躍的な成長をみせるのは第一次大戦である。欧米での戦争の結果、戦争特需、そしてアジア市場の空洞化により、わが国経済は驚くべき活況をみせることになった。企業の数は飛躍的に増大し、海外取引活動も急激な拡大をみせることになった。

2.     しかし、この後、この後始末の先送り政策が大きな問題を後年に引き起こすことになった。政府は企業を救済する財政政策を採り続けたからである (これは高橋是清による「放漫財政」と揶揄されることもある)。この結果、ずさんな融資が延々と続けられることになった。金子商店と台湾銀行の関係はそれを象徴するものである。

3.     1919年、日本経済は反動不況を経験したが、その後、立ち直りをみせる。そして1923年の関東大震災は日本経済に壊滅的打撃を与えたが、それを救助すべく震災手形が乱発されることになった。大戦のひずみの解消の先送りと震災問題は、1927年には片岡蔵相の失言問題を契機に金融恐慌を引き起こすに至った。高橋は頼まれて、40日ほど大蔵大臣を務め、モラトリアムを中心として、この危機を脱出させることに成功した (この経緯は『随想録』に詳しい)

4.  1918年 ヴェルサイユ講和会議に、日本は西園寺公望を代表 (実際の中心は牧野伸顕 大久保利通の次男:1861-1949) として派遣した。

  大正デモクラシー
   (アメリカの影響) 第一次大戦へのアメリカの参戦 「デモクラシーの擁護」を旗印に 
       1918年の米騒動および原敬政友会内閣の成立

5.  1919年 カンリフ委員会報告

6.  1922年 ジェノア国際経済会議
  この詳細は、その前後の政治・経済状況を含め、参加した深井英五の『回顧70年』に記されている。
(これはヨーロッパ諸国のあいだでの会議であり、アメリカは参加していない。)
 金本位制への復帰 (6)、緊縮予算、均衡予算 (7) を唱道。

 Hawtrey, “The Genoa Resolutions on Currency” in Monetary Reconstruction, pp. 122-138.
   Manchester Guardian紙特派員としてのケインズの報告

   鶴見裕輔・上田貞次郎 「新自由主義」を唱える (1924年ころ)   

7.  モルガン商会  (ラモント) による震災への融資  (日銀総裁井上準之助からの依頼)

8.  19254月 イギリス(旧平価での)金本位制復帰

9.  19277月 ストロング、ノーマン、シャハト、リストのニューヨーク会議

10. 19273  金融恐慌 (銀行の取り付け騒ぎ。政府、見せ金の紙幣を増発)
                震災手形の不良債権化。しかしそれ以前からの第1次大戦のバブル崩壊により生じた不良債権問題が先送りになっており、この2つの要素が重なって金融恐慌は発生した。

11.  192810月 日本商工会議所 金解禁即時実行を決議
   (「金解禁」実施・・・金本位制復帰、「金解禁停止」・・・金本位制離脱)

12.  1929年 ヤング委員会 (金本位制に復帰しない国の参加を認めない)
   
        浜口内閣成立 (7月。大蔵大臣は井上準之助)
      浜口雄幸の東京放送局でのラジオ演説。
      井上、全国で金解禁の演説を行う。緊縮財政(予算の5%削減)
      井上の考えは、ジェノア会議の線に沿った動きであり、当時の世界の支配的な考えに沿っていたといえる。
緊縮は流行の唄にまでなった。ラモントも緊縮を支持。

   10月  ウォール・ストリート 株価の大暴落。
       井上、ラモントに1億円の融資を依頼。
       為替相場に介入、円を10 高くする(変動相場制の時代。ドル売り、円買い操作)
  
       イギリスと同じように、為替レートを人為的に高くした。しかも緊縮財政を採用し、消費節減の奨励を行った。
       デフレ政策を遂行
       金解禁準備声明直前 (1円 43ドル75)
旧平価(1円 49ドル85)。
              旧平価での復帰(大幅な為替レートの切り上げ)というのも、イギリスのとった方針と同じである。
 1930年 1月 (旧平価での)金本位制復帰 (金解禁)

13. 1930年、浜口内閣の大蔵大臣井上準之助により金本位制が採用されることになった。この失敗を救うべく再度、高橋是清が大蔵大臣となった。高橋は、金本位制を廃止し、変動相場制に制度を改め、低金利政策をとったが、それが功を奏し、日本経済は一転、好況に転じることになった。いわゆる「リフレーション政策」である(これについては石橋湛山が最も熱心な唱道者であった)。
  
14.   これらの経緯のなかで、重要な社会問題が発生していた。
1つはドル買い投機が金融資本家によって行われていたことや(大財閥による先物為替投機行動 [ドル買い、円売り])、鈴木商店(金子直吉を指導者とする)の政商的行動が社会問題に発展していた。
もう1つは農村の窮状である。このなかから軍部のなかに過激軍国主義的国体改造運動が発生してくることになった。

15.   軍部の予算増加要求を拒んだ高橋是清は、ついに2.26事件でその凶弾のまえに倒れた。83歳の波乱に満ちた生涯であった。満州事変を経ていた日本は、以降、軍部独裁のまえにだれもそれを統制することのできないまま、破滅への道をひた走り続けることになった。

      国会紛糾
     浜口雄幸暗殺
     井上準之助暗殺

1933年        ロンドン国際経済会議

この詳細は、深井英五の『回顧70年』にその参加者ならではの、生々しい状況が記されている。  

ラモントの文書はハーヴァード大学Baker Libraryに保管されている。

    為替投機
     ドル買い投機の出現。政府、ドル売りで対抗。

 高橋是清 金解禁の禁止 (つまりは変動相場制)。その結果、円が下落。
        低金利政策。大幅な財政支出 [リフレーション政策]。資本フライトの抑制。輸出好調に転じる。
         
(高橋が金本位制度に愛着をもっていたことは、深井英五の『回顧70年』で分かる。)
 
16.  金本位制について

 1円=49ドル85セントを平価とする (つまり政府はこれで対応する)
 金の移動の自由を認める。

 この条件が満たされれば、外為市場に政府は介入する必要はない。なぜなら、金の裁定を通じての企業の活動により (金輸出点)、外為市場の相場は平価になるからである。

 金の自由な移動が認められない場合、変動相場制になる。

Cf. 同じ固定相場制でも、IMF体制の場合、平価を政府は外為市場に介入することで維持するシステムである(外為市場と政府の介入の関係が金本位制とは異なる。)


参考文献

井上準之助 『金解禁 - 全日本に叫ぶ』先進社、1929
佐伯陽堂編 『高橋是清大論集』明星書院、1931
深井英五 『回顧70年』岩波書店、1941
高橋是清遺著『随想録』
今村武雄『評伝 高橋是清』時事通信社、1948年。
石橋湛山『現代不景気論』平凡社、1930
石橋湛山氏講術 『日本経済の現位置と若干の見透し』東京銀行集会所、19372 
 月
政友会 『浜口内閣の執れる不景気政策の実相』立憲政友会会報局、1930
後藤新一『高橋是清』日経新書、1977
片岡直温『大正昭和政治史の一断面』西川百子居文庫、1934
有竹修二『昭和大蔵省外史』上中下、財経詳報社、1969
津島寿一『芳塘随想 - 高橋是清翁のこと』芳塘刊行会、1962
牧野伸顕
Hawtrey, “The Genoa Resolutions on Currency” in Monetary Reconstruction,




第2話 明治時代 平井俊顕






2話 明治時代

                                平井俊顕 

幕末の混沌とした状況下から、近代日本がいかにして生まれたのかは、すこぶる興味深い問題である。

1.     西洋列強の開国要求は、幕藩体制を根幹から揺るがすものであった。鎖国を守りきれるのか、それとも列強の要求に応じて開国に踏み切るのかは深刻な問題、国体を揺るがす問題であった。
このような情勢のなかから、天皇に体制の根源を求める尊皇攘夷思想が生まれ、日本特有の二元支配が頭をもたげることになる。公武合体で国難を乗り切ろうとする陣営と尊王攘夷を唱える陣営とのあいだでの国内の権力争いは、薩長を重要な対立軸として展開していく。
薩摩藩は公武合体派であり、和宮と第14代将軍家茂との婚姻はその象徴である。
攘夷派の長州藩は、朝廷を自らの影響下におこうとして、蛤御門の変、禁門の変などを起こした。幕府はそれに対し、長州征伐を編成し第一次ではそれに成功する。
また薩長は攘夷思想により、西欧列強に戦いをいどみ、それに敗北する。だが、この敗北が彼らに大きな影響を与える契機ともなった。長州に対し、幕府はさらに第二次の征伐を試みるが、このとき、高杉晋作の率いる小さな軍に敗れ、ここから幕府は一気に敗北への、解体への道を歩むことになった。
西洋列強は、フランスが幕府を、イギリスが維新側を支援するかたちをとった。

2.     幕府が敗れるのが歴史的必然であったということはいえないであろう。だが、幕府側の力が弱体化していたのは事実である。長く続いた将軍制度は、この頃には知的にもひどい状況で、将軍にはカリスマ性、権力的威信のかけらもなく、家臣による将軍後継をめぐる内部争いに明け暮れる有様であった。 時代の中心が外様およびその臣下に移動していたことは確かである。

3.     徳川慶喜は二条城で大政奉還に同意するも、大阪城に戻り、そこで京都側との連絡が途絶える。そして京都に攻め入る作戦をとる。これが鳥羽伏見の戦いである。これに幕府軍は敗れ、徳川慶喜は船で江戸へ逃げ帰る。そして勝と西郷の話し合いによる江戸城明け渡し、徳川慶喜の蟄居謹慎措置が下される。その後も、奥州での戦いや函館五稜郭での戦いが繰り広げられた。幕府側に統率のとれる将軍が存在していたならば、必ずしも幕府が崩壊するまでには至らなかったかもしれない。

4.     薩長同盟、そして大政奉還、こうして明治が始まった。

5.     大政奉還、王政復古という、時代がかったかたちでの体制の交代が、近代国家日本という形式をとるまでには、さまざまな試行錯誤がみられたことであろう。

6.     緊迫した国際政情のもと、明治維新は急速なテンポで封建体制から資本主義体制への変換を遂げざるをえなかった。だから、明治は多くの封建的要素を残しつつ進んだし(シュムペーターが思い出される)、その影響は深く明治の社会を規定することになった(農村は封建的要素を色濃く残したままであった。これは第二次大戦まで続いたといってよい)。

7. (ノーマンの見解)明治維新は、(1) 封建社会の内部的危機 - 藩の財政逼迫 [専売制度、マニュファクチュア等による藩政改革が試みられた]、武士の困窮、農民の困窮 (高率の年貢、地主-小作人制度の進行)(2) 西洋列強の圧力、という2つの圧力が偶然的に結びつくという政治環境に端を発している。
それは、下級武士階層(彼らは有力外様の藩政改革において指導的な力を発揮し、そこでの経験が明治維新に生かされることになる)を指導層とする上からの革命であった。彼らは大商人階層と結びつきつつ、幕藩体制を打破し(廃藩置県、地租改正等)、中央集権国家体制のもとで資本主義社会を創出することに成功した(官営事業 [主として軍需関連産業] の創出と払い下げ ― 財閥の形成)。

8 . 小泉信三の次の表現は適切である。

「明治の興隆は西洋の科学と個人尊重の思想との輸入に負うものであった。然るに当時先立ってこの西洋の学問と思想を学んだ者は、おもに諸藩の士族であった。伝統的な面目と廉恥の観念と、そうして儒教によって養われた強い義務心とは、彼ら日本の士族を道徳的背骨 (モラル・バックボーン) のある人間とした。西洋の学問思想と在来の教えとは彼らにおいてある幸いなる結合を形成した」(牧野III, 序より)

9. 何よりも、はっきりしていること、それは幕藩体制のシステムの解体と権力の中央集権化である。廃藩置県、地租改正はその象徴的存在である。これらは藩閥政治により薩長出身者によって断行された。
   明治の近代国家建設にあたって牧野伸顕(大久保利光の二男)が決定的な一歩としてあげているのが、廃藩置県と遣欧使節(この目的はわが国への殖産興業を明確に意識したものであった、と牧野は述べている)である。実際、この使節団は政府の要人を多数含んでおり、明治維新の政情不安なときに、よくこのようなことができた、と思わずにはいられない。
  この頃の政府部内の描写については、大隈重信、渋沢栄一によるものが正鵠を射ていると思われる(西郷や板垣はまったくこの問題には向いていなかった、と評されている)。大隈や渋沢は政府部内にあって、財政実務にもきわめて長けていた。
  殖産興業を1つの旗印にしたのは、おそらくは遣欧使節の後であろう。政府は(大久保利通を中心に)この問題に取り組んだ(正確には、大隈重信や渋沢栄一の方が先であろう。渋沢は1867年のパリ万博に出かけている)。官営企業(富岡の製糸工場など)の創設、そしてお雇い外国人の雇用がそれである。しかし、その成果ははかばかしいものとはいえなかった。それが官営企業の払い下げである。
  明治初年の近代的企業家の不在については、渋沢栄一の叙述や高橋是清の叙述に明白である。
  政府の財政収入を安定(増大)させるためにとられた方策が地租の金納である。これは松方正義(1835-1924)によって断行された(地租改正は松方正義が「命をかけて」行ったものである。これは、高橋是清が地租改正を変更しようとしたさいに、松方から直接聞かされた話である)。
この結果、政府は歳入の増大に成功するが、他面、農村における小作化(地主化)が急速に進行することになった(そのため小作争議は明治に入ってかえって拡大している)。これは幕末から生じていた現象であるが、それが地租の金納化によって加速されることになった。
  渋沢栄一は、明治初年、静岡においてさまざまな財政改革を断行している。米の販売方法、綿の販売方法、株式会社の設立など。そして大蔵省に入ってからも財政の安定化を訴えたが、大久保利通はそのことを理解してくれなかったと記している。
   明治初年、政府は極端な財源不足に陥っており、秩禄公債などは外国で公債を発行することでまかなっている。

10. 秩禄公債の発行により、武士階級という存在はわが国から消えた。不平武士はさまざまな抵抗を試みるが、西南の役 (1877年。西郷隆盛 1827-) を最後になくなる。そして西南の役がもたらしたインフレは秩禄公債の価値を無価値なものにしてしまったのである。江戸時代の武士は、戦うことを職務としていたわけではなく、藩主から石高というかたちで給料をもらい、勤労を提供する事実上の官吏である。廃藩置県により雇用主を喪失した武士は、もはや武士ではない。秩禄公債をもらってもそれは利子生活者でしかなく浪人者である。
そして急速な近代化に取り残された武士階級(これは中央権力に上り詰めた一部武士階級とは異なり、それに失敗した者、ならびに思想的に封建的な人々からなる)は、新政府の方針に不満を募らせ、数々の反乱を引き起こす。その最大にして最後のものが西南の役である。西南の役をめぐる大久保、西郷の生の声は非常に興味深い (牧野伸顕に記載あり)。藩学校のなかから桐野利秋を指導者とする勢いを西郷は止めることができなかった。西郷は、北海道開拓計画、そして征韓論を試みるも、それらに失敗していた。
武士は秩禄公債を受け取ったが、その利子では生計を立てることはできず、何らかの職業につくしかなかったが、その道は厳しいものであった。そして西南の役により生じたインフレは秩禄公債の価値を下げることになった。

11. 西南の役によりインフレが発生、それを抑えるためにいわゆる松方デフレ政策。一
方、農村では地租改正による金納化による高率の税負担に耐えかねて小作化が進行し、後年の農村問題を引き起こすことになる。

12. わが国の産業技術は、鎖国という状況下で高度な発展を遂げていたとはいえ、国際基準からみると決定的な遅れをとるものであった。産業技術、機械工学、軍事技術においてそうであり、もちろん金融システムなどはまったく近代的意味では、ないも同然であった。
    明治の初期に日本には産業らしき産業は何もなかった、と牧野、渋沢、高橋是清は異口同音に記している。そこには江戸時代の商業とは、精神的にも技術的にも明白なる断絶があったのである。だからこそ、新政府の要人が中心となって工業を興すことが必要であった。
大久保利通は岩崎弥太郎を見つけ出し、彼に補助金を与えた。これが三菱の始まりである。当時、知識のある有為の若者は全員政府の役人になることを希望しており、実業家になろうとするものはいなかった、と渋沢は記している。また銀行業などはまったく理解するものがなく、第1国立銀行の設立に当たっての苦労を渋沢は語っている。

(ノーマンの見解)大商人は新政府を資金的にバックアップした(例えば、地租を担保にした金融等)。しかし彼らは自らの手で工業に投資する意欲はもたなかったから、当初あくまでも金融的側面から関与した(金禄公債や地租を担保にした金融) 。  
だから工業化への道は、軍事力に直結する軍需関連産業の育成というかたちで新政府がイニシアティブをとった (それは幕府や諸有力藩が行っていたことを継承しながら行われた)
その意味で大商人はいまだ「企業家精神」を有していたとはいえない。軍需関連産業はやがて払い下げられ、大商人は財閥を形成していくことになる。つまり、大商人は当初、銀行・金融資本として機能し、その後、払い下げられた工場を端緒として工業経営に着手していった。

13.  いかに技術的に遅れていたのかは、お雇い外国人を高給で雇用することにあらわれている。このあたりの事情は、わが国の灯台や鉄道建設を指導したイギリス人技師ブラントンの著作によく描写されている。

14.  明治の混沌とした時代のなかを生き抜いてきた高橋是清の『自伝』もすこぶる参考になる。彼は、横浜正金を外国為替の中心的銀行にした功労者 (その意味で実質的な創設者といってよい) であり、「正金の高橋か、高橋の正金か」と呼ばれたほどである。彼によると、当時、わが国には外国為替を扱う金融機関は存在せず、それは香港などの海外の金融機関(いまのHSBCの前身)が担当していた。

15. (ノーマン:旧藩主・農民・武士の命運)  新政府は、旧藩主にたいしても非常に寛大な措置をとることで、革命を円滑にした。それは莫大な金録公債や賜金の供与(彼らはこれを元手にして銀行業を開設したり、土地を取得して大地主になった)であり、後には華族の称号を与えられるに至る。
    これとは対照的な扱いを受けたのが農民である。彼らは幕府時代と変わらない搾取を受けつづけた。過酷な地租、それに驚くほど高利の小作料 (地主―小作関係の進展)
新政府は当初、この地租以外には税収の手段をもたなかった(幕府が鎖国政策をとったために、西欧諸国とは異なり、海外貿易からの利潤の道が絶たれていた。そのため負担は農民にかかった。この影響が新政府をも規制していた)。また地主や金貸は、高利の小作料がとれる農業に魅力を感じていたが、それはあくまでも高利貸としてであって、農業資本家としてではなかった。また、暴利がここで得られるので、彼らが工業などに投資する誘因もなかった。なお、農民は貿易により安い綿、砂糖が入ってくることで、副業的家内工業を失うことになった (その結果として養蚕が登場する)。しかも彼らは、労働者として都市に流れ込むことはできなかった (まだ工業が誕生していなかったからである)
     武士階層の境遇は複雑である。彼らのごく一部は明治維新の指導者となれた (しかも彼らは薩長土肥のいわゆる藩閥である)が、階層としての武士は(農民、工・商とは異なり) 消滅する運命にあったからである。彼らの大多数は、わずかの秩録公債をもらえただけだから、非常に不安定な境遇にあった。彼らが新政府に不満をもったのも、ある意味で当然である。
    明治維新では(既述の大商人を除くと)都市住民(市民) は、社会の変革に何の役割も演じることはなかった。これはヨーロッパとの大きな相違である。

16.  1870年の普仏戦争でのプロシアの勝利  → 日本へのドイツの影響

17. わが国は幕末に不平等条約を締結させられていた。治外法権とともに、関税自主権の喪失である。関税を課する権限がないということは、独立国家として、著しい権利の剥奪である。いわばわが国は、経済的にみて、丸裸で外国に対峙していたことになる (無理やりの自由貿易。裸の自由貿易)

18. 明治20年代になっても、日本経済は殖産興業に成功してはいなかった。とりわけ海外に飛躍を求めるようなビジネスはいまだ開始されていなかった。この点は、高橋是清のペルー鉱山事件に象徴されている。高橋は殖産興業の進行の先駆者たらんとしてこのプロジェクトにだまされて参加したのであった。高橋はその後、日銀、大蔵省に入り、わが国の金融制度、財政政策を先導する人物になるわけだが、そのさい、金融政策を殖産興業の推進の手段として用いるという意思を明確に貫徹させていた。金融的融通を通じて産業活動を活性化させるというのは、生涯を貫く信条であったといってよい。

19. 新体制の中心的イデオロギーとして「自由主義」はいかなる意味でも入り込む余地はなかった(とはいえ、福沢諭吉は異なる [『学問のすすめ』。個人の平等と独立を力強く謳ったもの。明治六年に、である])。彼らの中枢思想は、海外列強の圧力から日本を救い、独立国家日本を再建する点にあった。だから彼らは西欧の技術の摂取に熱心であり、その点でプラグマティストであった。しかし、彼らは実際には、藩閥勢力として動いているし、一種のエリーティズムを熱烈に有していた。そしてその精神において彼らは武士であったし勤皇であった。明治憲法は、彼らに最もフィットしたプロシアに範を得たものであるということも、そのことを物語っている。
 「自由」や「個人」を語れるような時代環境ではなかったし、そうしたものが社会のなかに実在しなかったといえる。かりに町人文化のなかにそうしたものがあったとしても、それは指導的な精神にはなりえなかった。当時の商人はきわめて卑屈な精神状況にあったことは、渋沢が述べているところである。「自由民権運動」の挫折は、「自由主義」の挫折でもあった。
しかし、薩長による藩閥政治のままであってはいけないことは、自由民権運動その他から明らかであり、それにたいし、伊藤博文や井上馨はきわめて弾力的に対応したといえる。かれらは法整備に長けていた。

20. 産業革命が日本に生じるのは1880年代に入ってからである (明治維新はその前に生じているのである)

21.  金銀比価の推移 (銀の下落傾向)

   1871年 新貨条例
   1881-82年 松方デフレの頃
1885年 銀本位制実施
   189310月 貨幣制度調査会
1894年 日清戦争
           「三国干渉」により遼東半島返還
      賠償金 3,800万ポンド
  
  18969月 金本位制度実施

   『日本銀行百年史』、『日本金融史資料』
森鴎外「金銀銅価考」

19. 日清戦争 (1894) は結果的には、近代日本の大きな出発点になった。朝鮮支配をめぐる日清の帝国主義的争いであるが、この勝利により、莫大な賠償金と台湾を手に入れた。このことで民衆のあいだにも中国人蔑視の思想が芽生えてくることになる。と同時に、日本の強国としての意識が民衆のあいだにも広がることになった。

20.日露戦争 (1904) の勝利は、この傾向を一層加速化することになった。大国ロシアに小国日本が勝利を収めたことで、そしてその条約 (ポーツマス条約) を屈辱的 (賠償金なし。南樺太の割譲。朝鮮への支配権) とみる民衆による日比谷焼き討ち事件は、日本の民族意識を昂揚させることになった (臥薪嘗胆)
日露戦争において重要であった1つの勝因は戦債発行による外貨の獲得であった。これに孤軍奮闘したのが高橋是清である。彼の自伝によると、ほとんど何のツテもない状態での国際交渉であった。ユダヤ人シフとの知己が大きな影響を及ぼすことになった(またカッセル(あの経済学者ではない)も登場してくる)。
   伊藤博文(18411909年)は、日露戦争を「日本の滅亡」と考えて、反戦・非戦論を展開した。

21. 19世紀末から20世紀初頭のヨーロッパの政治状況については、牧野伸顕の自伝がすこぶる参考になる。