2015年9月26日土曜日

経済学はいずこへ向かうべきか







  経済学はいずこへ向かうべきか




平井俊顕


1. はじめに

ほぼ30年のあいだ、バッシングを浴びる傾向1がみられたケインズならびにケインズ的思考に、人々の肯定的な目が集まり出したのは、2008年秋に生じたリーマン・ショックの直後からであった。驚くべき勢いでの世界経済の破綻的展開は、「ネオ・リベラリズム」ならびに「新しい古典派」の脆弱性・問題性を露呈させることになった。
   信頼を喪失したネオ・リベラリズム・新しい古典派の向こうに人々が見出したもの、それがケインズであった。アメリカにあって、彼に注目の目を向けさせたのは、事実問題として「ニュー・ケインズ派」であり、彼らをブレーンとして登場したオバマ大統領であった。また、現実問題として膨大な額の公共投資政策を実行に移すことで、事実上、ケインズ的政策を最初に遂行したのは中国であった。さらにイギリス労働党の政策も明確にケインズ的政策を重視するようになった。到来した経済危機のなか、それまでの「新しい古典派」では有効な政策を打ち出せない状況におかれた世界は、1930年代の大恐慌下で果敢な政策を打ちだしたケインズに、自ずと目を向けたのである。
  だがこの傾向が長く続いたというわけではない。20106月頃を境に 一番大きな要因はユーロ危機の発生であった 世界中の政府は緊縮路線へと大きく舵を切ることになった。この傾向はその後益々強くなり、アメリカでも「ティー・パーティ」運動が勢いを増し、同年11月には中間選挙での共和党の大勝をもたらした。以降、アメリカにあっても大統領の方針は大きな制約を受けることになり、2011年夏の「デット・シーリング危機」で緊縮路線をいわば強制されるようになった。同年の11月下旬に、「スーパー委員会」は財政均衡案(向こう10年間に総額12千億ドルの赤字削減)の合意に達することができないという事態が生じた。そして、国防費と社会保障費が強制的に毎年1200億ドル削減されることになるのである。
ユーロ危機であるが、その後も解決をみるどころか、一時的なその場しのぎの方策 ベイルアウトと金融組織の救済 に終始する一方で、ますます超緊縮政策をPIIGSに強要することで、さらに大きな危機を現出させて今日(20124) に至っている。
これは「新しい古典派」が政策の現場で復活したというものではなく、むしろ「ネオ・リベラリズム」というイデオロギーが様々な国の政策現場で復活しているというべきであろう。そして他方で、諸国民のあいだでは超緊縮思想に反旗を翻す様々の動き アンチ・カット (イギリス)OWS (アメリカ)、インディグナドス (スペイン) 等々 が波状的に現出してきている。ユーロ圏やアメリカで重要な選挙が行われようとしている2012年にあって、世界の資本主義は、政策的にも、思想的にも、今後の方向を決定づける重大な岐路に立たされているといってよい。
 世界の資本主義のこのような混乱期を念頭におきつつ、本章で主題的に取り上げるのは経済学 (2 – 4) である。いったい経済学、とりわけマクロ経済学は今後いずこへ向かうべきなのかについて、いささかの指針を示すこと、これが本章の目的である。そのため、第2節では、「新しい古典派」を方法論的見地から批判的に検討し、第3節では、それに対峙するケインズ諸派の動向を概観し、第4節では、ケインズ『一般理論』にみられる(通常流布している理解とは異なる)スタンスを肯定的に論じる。最後の第5節では、欧米で今日とられている経済政策の特異性をみることにする。


2. 「新しい古典派」を懐疑する
         
ネオ・リベラリズム (= 市場原理主義) を、経済学の分野にあって後押してきたのは,「貨幣的ビジネス・サイクル理論」(代表者はルーカス)や「リアル・ビジネス・サイクル理論」(RBC. 代表者はキッドランドとプレスコット) を代表とする「新しい古典派マクロ」(以下、「新しい古典派」と呼ぶ) である。両者を識別する基本は、ネーミングが示唆するように、変動の起因を貨幣ストックのランダムな変動に求めるのか、それとも (技術もしくは要素量の自律的なシフトによる) 実物経済へのランダムな変動に求めるのか、にある。
本節では、この「新しい古典派」に共通する特質を、方法論的見地から批判的に検討する。彼らは、経済主体の「超」合理性、市場における均衡メカニズムの完全性を当然視する。そしてそれに依拠することで、厳密な理論モデルの構築、ならびにそれに基づき現実の経済の科学的解明が可能である、と主張してきた (「経済政策の無効性命題」もこのコンテクスト下にある)
だが、現代の世界経済危機に直面して彼らのモデルが何の役にも立たないものであったことは周知の事実である。なぜそうであったのか。それは彼らが依拠する経済学の方法論が現実離れしたものだったからである。このことを5つの論点から説明していこう。

2.1. 代表的主体
ミクロ的基礎から厳密な理論構成をもって組み立てられているのが「新しい古典派」のマクロ・モデルであるという見解は、当の論者によって強く主張されてきたところである (いわゆる方法論的個人主義の立場)
だが、実際に提示されてきたモデルは「代表的主体」の最適化行動 (とりわけ「代表的家計」による期待効用の極大化) 理論に依拠するものであって、ミクロ的基礎から厳密な理論構成をもって組み立てられたものではない。 「代表的家計」仮説に立って(しかも「基数的効用理論」が採用されている)、そこから出発することが科学的・演繹的手法として最も重要なものであるという考えには、大いなる疑問が投げかけられて然るべきである。それは「科学的事実」ではなく一部理論家の「信仰」にすぎないからである。
1に、現実の家計の行動がなぜ効用関数で表現されなければならないのか、第2に、その効用関数は、なぜ無限の期間におよぶ労働とレジャーの選択を勘案しつつ、その期待効用を最大化するかたちで定式化されなければならないのか、第3に、効用はなぜ基数的効用で捉えられるべきなのか、第4に、その効用の単位は何なのか、第5に、個人から出発するといいながら、それは「代表的」という言葉を用いることで、ただ集計化問題を回避しているだけではないのだろうか、等々の疑問が直ちに浮かんでくる。
これらの疑問にたいし、われわれは、説得的な回答を得ることはなく、ただその受け入れを強要されるのみである。このような行動をとる家計が経験的にみてどこにも見当たらないのに、なぜこれを経済変動分析の基礎に据えなければならないのだろうか。数学の場合、納得のいく「公理」から厳密な演繹性がスタートするのにたいし、「新しい古典派」の場合、そのような行動をとることが考えられない経済主体を措定することから理論がスタートしている。
この点にたいする明快な批判はフーバー (Hoover, 2006, pp.5, 7, 11) によって行われている。彼は、マクロ経済学のミクロ的基礎という着想に懐疑的であり、とりわけ代表的家計の想定を問題視している。この想定にたいする、より内在的批判としてカーマン (Kirman, 1992, p.134) もあげておこう。

2.2. 合理的期待形成 「合理」性の意味
「新しい古典派」を最も特徴づけるのは (ムースに始まる) 「合理的期待形成」仮説である。この仮説を採用する研究者は、 彼らの意味での「合理的に期待する」個人を措定し、その個人がマクロ構造についての情報を有するとの前提に立って、(例えば) 価格についての期待を形成する、との考えに立つ。
例えば、ルーカス・モデルでは、経済主体のとる「合理的期待」は次のように定式化されている。経済主体は、得られる限られた情報を最大限に利用する能力を有しており、またその情報の客観的確率分布を予め知っている、と想定される。さらに経済主体は、経済が繰り返し循環を経験すること、ならびにこの循環が予想収益率を歪めること、をも十分に知っている、と想定される。他方、経済主体は、実物投資の機会の一時的特性により、偽りの価格シグナルに反応する危険と、有益な価格シグナルに反応することに失敗する危険とのあいだでバランスをとることを強いられる、と想定される。こうした想定のもとに、経済主体は、(感知された相対価格を含む) 実物変数に基づき需要・供給に関する意思決定を行う、とされる。
マクロ構造についての情報を経済主体が保有するという想定を、現実の経済分析にもち込むこと自体、そうしたモデル構築の方法に疑問を投げかけるに十分である。経済主体にこうした能力を課すのは、「合理的」というべきではなく「超合理的」というべき類である。経済主体はマクロ経済についてのモデルを周知しており、しかも関連する確率分布を知っているという前提で予想形成を行うと想定することで複雑な動学モデルが構築されたからといって、それはいかなる意味で「厳密」なものといえるのであろうか。
「合理的期待」という着想に依拠するモデルは、純理論の場での問題だけで問題となったのではない。それは、政策論争の場で脚光を浴びたのである。経済主体は、政策の将来的効果を合理的に予測する能力をもつがゆえに、裁量的政策は無効になる、という「政策無効性命題」がそれである。これは裁量的政策の有効性を否定するのみならず、経済政策全般の無効性を唱えるイデオロギーを促進させることになったのである。
 
2.3. 効用理論倫理学との脆弱な関係
     「新しい古典派」が想定する代表的主体の典型である代表的家計は、基数的な期待効用を極大化すると想定されている。
功利主義哲学が効用理論のかたちで経済学に入り込んだのは、ジェヴォンズの『経済学の理論』 (1871) においてであった。功利主義の中核を占める「快苦原理」が、経済主体の行動の説明原理として経済学の中核に導入されたのである。この着想が、130年後の「新しい古典派」にあっても、「代表的家計」の行動原理として中枢的役割が付与されたのである。しかも、長年、効用関数は序数的であるべきとされてきたのに、ここでは基数的効用理論が復活・採用されている2
現代において、効用理論が大きな影響力をもつに至った大きな契機として、ノイマン=モルゲンシュテルンの『ゲーム理論と経済的行動』(1947) における「合理的意思決定理論」期待効用最大化仮説としての意思決定論の出現が考えられる3。近年におけるこの理論の普及が、「新しい古典派」による「基数的な期待効用理論」の採用と何らかの関係をもっているものと思われる。
ところで、ジェヴォンズによる経済学への「快苦原理」の導入があった後、功利主義と効用理論のあいだの関係が深く追究されたのかというと、じつはそうではなかった。哲学者は、功利主義の是非をめぐり激しい論争を展開してきたが、効用理論を採用する経済学者が、その根拠を問うことはなく、また他の経済学者による批判に応じるということもなかった。功利主義をめぐる議論と効用理論をめぐる議論は、独立した道を歩んできた感が強いのである。
この点に関して、ケインズの「エッジワース論」(Keynes, 1926) に、興味深い指摘がみられる。功利主義的倫理学および功利主義的心理学が健全なものなのかをめぐる懐疑である。功利主義との関係がうやむやであるにもかかわらず、そして「もとの基礎 (功利主義的倫理学・心理学のこと) の健全性を徹底的に探究することなく」経済学者が効用理論を信じるに至っている事態に、ケインズは重大な疑義をはさんでいる。この状態が、じつは現在にも妥当するのであり、今日も「棲み分け」が行われている。
功利主義的倫理学自体はその後、複雑な展開をみせてきている(例えば、ハルシャーニやゴティエの立論4)。だが、そうした展開が、代表的家計による基数的な期待効用理論に影響を与えているとはいえない。さらに、哲学者が功利主義をいかに批判しても (例えば、ロールズやセン)、「新しい古典派」の経済学者がそれを聞き入れて、効用理論に頼ったモデルづくりを変えるという話も、寡聞にして知らない。効用理論を駆使する経済学者の陣営の外にあっては、効用理論・功利主義に批判的な論陣を張る経済学者に事欠いてきたというわけでもない(例えば、ヴェブレン、ホブソン、カッセル、ミュルダール、ケインズ、ホジソンなど)。もかかわらず、正統派の経済理論にあって、「もとの基礎の健全性を徹底的に探究することなく」効用理論が重要な礎石として用いられてきているという事実、しかもこの傾向をいや増しに強めて近年にまで至っているという事実が存在する。ハチソンは、こうした状況を方法論的に問題視しようとすると、「経済学は方法論という哲学に関わる必要はない」(Hutchison, 2000, p.330) 、と反応されるという知的環境を指摘していた。

2.4. 実証について
マクロ・モデルにたいしては対応するマクロ・データが取り上げられ、そしてそれらをもとに実証研究が行われる。そしてその結果が非常に有意である(もしくは有意ではない)、との結論が出てくる。このさいに用いられる方法がカリブレーションである。これは上記のマクロ・モデルのままでは実証に用いることが難しいため、モデルを線型にし、さらにさまざまなパラメーターを過去の研究成果から借り、それらをもとにして内生変数の時系列を算出する。そしてこれを現実のマクロ・データと照らし合わせ、それに合致する度合いが高ければ、このモデルは現実のマクロ経済をよく代表するものとなっていると判断する。そうでない場合、マクロ・モデルを修正し、そのうえで再度、内生変数の時系列を計算しなおし、現実のマクロ・データとの類似度をチェックする。
だが、非現実的なミクロ的経済主体の最適化行動に依拠して演繹的に導出されたマクロ・モデルというものは、現実のマクロ経済とのあいだでの実証的有意性を検証するうえで、どのような意義をもつといえるのであろうか。一方で、ミクロ的行動仮説から演繹的方法で導出されるマクロ・モデルが「論理」として是認され、他方で、マクロ・モデルの有意性が「実証」を基準に評価されるという姿勢を取っているという意味で、「新しい古典派」には一種の論理実証主義的影響の残滓が認められる。
その弁明として用意されそうなのは、「仮定の現実性は問題ではない。問題は、そうして構築されたマクロ・モデルが実証的に有意な結果を得るかいなかである」といったものであろう。つまり、実証的箇所は実証主義的なイデオロギーで処理されるのである。そこにフリードマン (Friedman, 1953) の影が見え隠れする、といえるのかもしれない。

「新しい古典派」は1990年代の、とくにアメリカ、イギリスの経済成長にどのような貢献をなしたといえるのだろうか。あるいはそれは経済学者のあいだでの知的遊戯にすぎなかったのであろうか。筆者には後者であったように思われるのだが、むしろ重要なのは、彼らが貢献したのはネオ・リベラリズムを「知的権威」の側面から強烈に擁護した点に求められる。

  2.5. 社会哲学
「新しい古典派」の経済学者は、市場経済における価格メカニズムの機能 (需給は即座に一致する) に絶大なる信頼を寄せてきた。そして社会哲学的には、自由放任主義の立場を標榜している。彼らは裁量政策を徹底して批判し、またそれまでのクライン=ゴールドバーガーに代表されるケインズ的計量経済学に基づく予測に激しい批判を浴びせてきた (いわゆる「ルーカス・クリティーク」)
完全雇用の前提 (失業は自発的なものに限定)、セイ法則の当然視、パレート最適概念の重視、(期待) 効用理論の重視、「貨幣数量説」の承認、経済主体に超合理性を認めるアプローチ(および関連する「政策無効性命題」)、すべての経済現象は均衡理論で捕捉できるという信念、「自由放任思想」等々を「ハード・コア」とする経済学が、理論的かつ社会哲学的に経済学の大きな潮流となったのは、 新古典派の時代になってから、じつに初めてのことである。このことは注目に値する現象である。ある意味で、これは「新古典派総合」のなかにあった「新古典派ミクロ経済学」の要素のみを、新しいかたちで再構築したものといえるのかもしれないが、社会哲学的には強力なネオ・リベラリズムが通底している。


3. ケインズ諸派

「新しい古典派」は激しいケインズ理論、ケインズ的政策、およびケインズ的社会哲学の全面的ともいえる否定のうえで、上記のような理論モデルならびにそれを用いての現実の経済分析を行った。そうした動きが、とりわけアメリカで勢いを増すなか、批判されるサイドにあったケインズ諸派はどのような動きをみせたのであろうか。本節では、そのなかで「ニュー・ケインズ派」および「ポスト・ケインズ派」を取り上げる5

3.1 「ニュー・ケインズ派」
ここでニュー・ケインズ派を最初に取り上げるのは、次の理由による。第1に、ニュー・ケインズ派はオバマ政権の経済政策を支えるブレーンである。第2に、ニュー・ケインズ派は系統的に「新古典派総合」の時代の「オールド・ケインズ派」とのつながりがある。彼らは「IS-LM理論」に寛容であり、かつ社会哲学的にみて、ケインジアンのサイドに立っている。
ニュー・ケインズ派は、価格の均衡化作用に懐疑的であり、「非自発的失業」の存在を承認し、「セイ法則」や「古典派の二分法」を否定している点で共通しており、「新しい古典派」とは明確に対抗的なスタンスを取っている。そして社会哲学的にみても、政府の裁量政策を肯定する立場に立っている (つまり、「政策の無効性命題」を否定する)。かくして、「ニュー・ケインズ派」は「新古典派総合」を継承しているといえるのであり、それゆえその考えは、しばしば「新しい新古典派総合」と呼ばれることがある. 
ニュー・ケインズ派は、市場経済における価格メカニズムの不全性を強調する立場であり、さまざまな価格硬直性が市場経済に生じているため、マクロ的な有効需要の減少が産出量や雇用量の減少がもたらされる、と論じる。彼らは、この価格の硬直性がなぜ生じるのかをミクロ的基礎から問うのであるが、そこからさまざまな仮説が登場してきている。価格の硬直性をめぐる「メニュー・コスト」仮説)、賃金の硬直性をめぐる「効率性賃金」仮説、利子率の上方硬直性6をめぐる理論などが代表的である。
「ニュー・ケインズ派」は、「新しい古典派」によるケインズ派攻撃のなか、守勢に立たされたケインジアンの中から、それに対抗しようとして生まれたものだが、次第に、「新しい古典派」が開発した「合理的期待形成」、「代表的経済主体」、「動学的一般均衡」といった基本的なツールを積極的に取り入れることで7、一大勢力を形成していく、という際立った特徴を有している。ニュー・ケインズ派によって展開された総合的なモデルとして、「新しいIS-LMモデル」(もしくは「IS-AS-MPモデル」) と呼ばれるものがある。これは上記のツールを積極的に取り入れたモデルであって、その名称にもかかわらず「新古典派総合」の時代のオールド・ケインズ派による「IS-LMモデル」との継承性はほとんど認められない。そして「新しいIS-LMモデル」が現在の世界経済危機の分析に有効な洞察を示すものになっているのかという点には、大きな疑問がつきまとう。
それは、すでに指摘した「新しい古典派」のもつ欠陥を背負い込んでいるからに他ならない。
こうして「ニュー・ケインズ派」は、一面でケインズ的社会哲学を有し、オールド・ケインズ派との親近性を有し、その立場からオバマ政権のブレーンとなっている。だが、他面で「新しいIS-LMモデル」という「新しい古典派」のツールを用いた理論展開を行う、という「複雑な様相」をみせてきている。いずれにせよ、オバマ政権下でのケインズ的な経済政策を推進してきたのは、この「ニュー・ケインズ派」なのである。

3.2.「ポスト・ケインズ派」
 「ポスト・ケインズ派」は、「新古典派総合」の立場にたいし一貫して批判的であった。このことはイギリスの「ポスト・ケインズ派」(J. ロビンソン、パシネッティ等) が「新古典派総合」の立場に立つ経済学者 (サムエルソン、ソロー等) と闘わした1950年代中葉から1970年代の「ケンブリッジ=ケンブリッジ論争」によって、その存在が知られるようになった。 ポスト・ケインズ派は、その後もマネタリズムや「新しい古典派」にたいしても、また「ニュー・ケインズ派」にたいしても一貫して批判的スタンスをとってきている。
一口にポスト・ケインズ派といっても、そのスタンス、立論は多様であるが、ある程度通底するのは、ケインズの『一般理論』を「大なり小なり」重視するという姿勢、ワルラス「一般均衡理論」に批判的であるという点である。このことと密接に関連するがポスト・ケインズ派は、完全雇用、セイ法則、パレート最適、効用理論、経済主体の超合理性といった前提を否定するスタンスから立論を展開している。
ポスト・ケインズ派については、本書で多くの論及がなされているので、ここではこの派を代表するパシネッティとデヴィッドソンのスタンスを示すにとどめる。
パシネッティ8 ― 彼はこれまでの経済学を2つの代替的なパラダイムに分けてとらえる。1つは「交換パラダイム」、もう1つは「生産パラダイム」である。
「交換パラダイム」を代表するのはワルラスであり、その最もエレガントな形態としてアロー=デブルーがあげられている。これにたいし、マーシャルはこのパラダイムに属する不完全なかたちのヴァージョンとして位置づけられている。他方、「生産パラダイム」を代表するのはスミス、リカードウ、マルサスなどの古典派であるとされる9。注目すべきは、ケインズの理論も「生産パラダイム」に属するものであると主張されている点である。パシネッティは、1932年夏頃のケインズの発言 (それまでとは異なる理論、革命的な理論である「生産の貨幣的理論」10を作り出した、というケインズの発言) をきわめて重視しており、当時の「サーカス」に属する若手の経済学者との認識の違いを示すものである点が強調されている。
パシネッティは、いわゆる「ケインジアン」(「所得-支出アプローチ」)、クラワー=レイヨンフーヴッドに代表される「不均衡経済論」的ケインズ派、さらにはニュー・ケインズ派について、それらはケインズの理論を「交換パラダイム」に組み込もうとする「調停者」(reconciler)であると揶揄している。
そればかりではない。彼はアメリカのポスト・ケインジアン (デヴィッドソン、ミンスキー、アイクナーなどが念頭におかれている) にたいし一定の理解を示しながらも、問題の本質をとらえるには至っていないというスタンスをとっている。ケインズ革命はケインズの意図したかたちのものとしてはいまだ成就していない、というのがパシネッティの認識であり、ここで依拠しているPatinkin (1999) の題名の最後に「?」が付されている所以である。
デヴィッドソン11 デヴィッドソンは、 「新古典派ならびに新古典派マネタリスト」、「新古典派総合ケインジアン」、「ケインズおよびポスト・ケインジアン」の3 つの見解を比較しながら、第 3番目の見解のみが「現実の世界」(the real world) における経済分析としての妥当性を有するとみている。
「ポスト・ケインジアン」としてのデヴィッドソンの立論は次のとおりである。現実の世界では「計測不可能な不確実性」が存在しており、これに直面しているため、貨幣による契約と貨幣による支払が慣行化している。デヴィッドソンはこのような経済においては、不完全雇用均衡が発生することが避けられないと論じている。また方法論的立場としてデヴィッドソンは、理論を現実的な仮定のうえに基礎付けることの重要性を強調し、「新古典派イデオロギーの最後のよりどころ」たるフリードマン流の実証経済学的方法論にたいし厳しい批判を展開している。


4. ケインズ的方法を再評価する
『一般理論』とは

2節では「新しい古典派」、第3節ではケインズ諸派を取り上げながら、現在のマクロ経済学に批判的な検討を加えた。本節では、それらのうち、「新しい古典派」とはまったく対立する立場に立つ、そして「ニュー・ケインズ派」とも非常に異なる理論的スタンスに立つ 社会哲学的スタンスは別として ケインズの『一般理論』(1936)を直接的な対象として、かつ肯定的にとらえていくことにする。それは『一般理論』にみられる経済学のスタンスが、それまでの経済学の歩んできたものとは異なる特性を有しており、経済学の新しい方向を示している、と思われるからである。
既述のように、今日の世界経済危機を前にして、改めてケインズに注目が集まっている。現在の世界経済危機を分析するうえで、「新しい古典派」に何の効力もないなか、また「ニュー・ケインズ派」の理論分析もさほど有効なものとはいえないなか、今回の危機にあっては、アカーロフ、シラー、スティグリッツ、クルーグマンといった現代を代表する経済学者がケインズの『一般理論』のもつ「不安定性、不確実性、複雑性」(「合成の誤謬」、「美人投票」、「アニマル・スピリッツ」等々) に注目したことで、理論的にもケインズは注目を浴びることになった。そのこともあり、また金融不安が続発するなかで早くからその点に注目していたポスト・ケインズ派の一角を占めるミンスキーへの評価が高まることにもなった。
とはいえ、マス・メディアなどでのケインズの捕え方は一面的であり、依然として財政政策に限定されたものである。『一般理論』の特性を再度検討しなおす価値12、および世界経済システムのグランド・デザイナーとしてのケインズをいまこそ見直すべきである13

4.1. 理論的特性 ―  2つの対照性のせめぎ合い
 『一般理論』の最も顕著な特徴は、市場経済が2つの対照的な可能性をもつものとしてとらえられている点である。すなわち、一方で、安定性、確実性、単純性、他方で、不安定性、不確実性、複雑性である。『一般理論』にみられる市場経済をめぐる基本的認識は、次のように要約できるであろう。

市場経済は、それが「不完全雇用均衡」の状態にとどまることができるという意味で、安定的である。だが、この安定性はある条件のもとでのみ保証されている。それを超えるならば、市場経済は不安定になり混乱に陥ることになる。

安定性、確実性、単純性 市場経済はいくつかのビルトイン・スタビライザーを備えているため、均衡に収束しようとする本性的傾向を有している。だが、このことは、経済が最適水準(すなわち完全雇用水準)に自動的に到達できるという意味ではなく、最適水準よりかなり低い雇用水準で安定するという意味である。これが、市場経済を自由に放任しておく場合に、通常到達する標準的な状態と考えられている。『一般理論』では、この他に、長期期待の状態との関係で言及されている「慣習」や、「不確実なことについてのさまざまな意見の存在」といった安定化要因が考察されている。
 こうした「楽観的」ヴィジョンに基づいて、雇用水準は総需要関数と総供給関数の交点で決定されるという理論モデルが、乗数理論これは投資の変化とそれに対応する雇用の変化の関係についての明解な数値的情報を提供するを組み込んだかたちで構築されている。このモデルは単純かつ明快である。そして、『一般理論』以降のケインズの政策提言はこのモデルに依拠して行われている。

不安定性、不確実性、複雑性『一般理論』では、繰り返し、上記の安定性はいくつかの条件が満たされないならば達成できない、と論じられている。その場合、市場経済は異常な動きを示し、不安定な様相を露わにするであろう。市場経済は、この意味で脆弱な基盤の上に築かれた構築物である。
 このことは、市場経済に本性的に潜む不確実性および複雑性と密接に関連している。『一般理論』では、市場経済の動きは、将来にたいする人々の態度に影響をおよぼすさまざまな心理的および期待的要因短期期待、長期期待、投機的動機に基づく流動性選好、および使用者費用の影響を受ける、とされている。
 長期期待に関しては、予想収益が推定される基盤の極端な脆弱性が強調されている。ケインズは、「慣習」の脆弱性を増長させる要因を指摘するとともに、所有と経営の分離、ならびに組織化された投資市場の進展(「投機」が「経営」を圧倒する危険性)の結果として経済システムを脆弱にする株式市場の特性を指摘する。さらに、「数学的期待値に依存するよりもむしろ、自生的な楽観に依存しているという人間本性の特徴に基づく不安定性」に言及している。
 こうして、『一般理論』のモデルは、主要な変数が「期待」に依存するように組み立てられている。
  市場経済を不安定にするもう1つの要因は、ある外生変数の大きな変化にたいしての脆弱性である。この点で、とりわけ、貨幣量および貨幣賃金の大幅な変化が問題にされている。というのは、これらは、企業家や労働者の抱く期待に大幅な変更を引き起こすことで市場経済を不安定にする危険性が大きいからである。ケインズが慎重な貨幣政策を提言するのは、このことが公衆の支配的な心理状況や期待構造の崩落を通じて、経済システムを不安定にさせることがないようにとの思いからである。さらに、彼は、市場経済が複雑で相互関連的に動くものであることを、繰り返し強調している。これらを考慮に入れるとき、『一般理論』で展開されているモデルは、経済をむしろ脆弱な基盤のうえに築かれたものとして描かれていること、そしてきわめて複雑な仕方で機能するものと想定されていること、が判明する。
 
4.2. 政策論的特性
  以上、『一般理論』の理論的特性をみたが、ここで政策的特性にも目を向けておくことにしよう。そこでのケインズの処方箋は、主として、安定的な様相をもつ雇用理論モデルに基づいてなされている。経済理論に依拠して明快な政策手段を提唱するというのは、『貨幣改革論』、『貨幣論』、『一般理論』に共通する政策立案者ケインズの真骨頂である。
  『一般理論』で提示されている理論は、雇用量(および産出量)を決定するうえで、利子率が本質的な役割を演じるように構築されている。理論的にみれば、利子率に依存する民間投資は公共投資よりも重要である。政策的にみても、金融政策が最初に位置し公共投資政策はその次に来る。とはいえ、このことは、公共投資政策が金融政策よりも有効性において劣るという意味ではない。2種類の政策は同程度、強調されている。
 『一般理論』では、一貫して経済における貨幣の演じる役割が重視されている。流動性選好理論および自己利子率の理論を念頭におきつつ、ケインズは、完全雇用達成のためには利子率の引き下げが肝要であることを繰り返し強調する。とはいえ、ケインズは利子率引き下げの困難性のなかに不完全雇用均衡の主たる原因をみている14
  こうして、ケインズは政府の活動にその解決策を求める。国家は、「民間からの借り入れによって資金の賄われた公共投資と、同じ方法で資金の賄われたその他すべての経常的公共投資」(pp.128-129の脚注1)を含むものと定義された「公債支出」を大胆に開始すべきことを提案している。前者は投資の増加に、後者は消費性向の増大に寄与すると論じられている。
 投資に関し、国家が直接的に組織化する責任を引き受けることが期待されている。というのは、国家は、「資本財の限界効率を長期的な観点から、一般的、社会的利益を基礎にして計算する立場」(p.164)にある、と考えているからである。消費性向の現在の状態に関して、ケインズは、第1に、組織による貯蓄の急増の結果、消費性向の減少が認められること、第2に、重い相続税による所得再分配を目指すべきこと、を指摘する。
  最後に、次の点を指摘しておこう。ケインズは、真の投資を妨げる株式市場での投機的活動に強い懸念を抱いていた。株式市場での活動に何らかの参入障壁例えば、重い取引税を導入することで、株式市場の流動性を減少させるべしという提案は、この懸念から生じている。

5. 今日とられている経済政策の特異性

「はじめに」で述べたように、20106月から現在に至るまで、EU、アメリカは超緊縮財政を錦の御旗にしてきている。EUにあってはユーロ・システムの維持という観点から、ドイツ=フランスを中心に「フィスカル・コンパクト」(財政協定)の厳守というかたちで、アメリカにあっては共和党の躍進によってオバマ政権が妥協を余儀なくされるというかたちで、このような事態に陥っている。
ここでは、今日とられている経済政策にみられる特異な2点に言及しておきたい。

金融政策と財政政策の扱われ方の非対照性 すでにこの20年近くのアメリカおよびEUでとられてきた経済政策には、金融政策と財政政策の取り扱いに明確な非対照性が認められる。すなわち、金融政策は政府から独立しているべきであるとされ、さらにアメリカにあっては金融政策 [なかでも誘導金利政策] は景気対策のための唯一有効な手段であるとする考えが、グリーンスパンの時代にきわめて強固なものになったのにたいし、財政政策は否定的に捉えられる傾向が強くなっていった、という点である。
 金融政策は、FRB (ECB) が独立して行うことにだれも干渉することは許されないという仕組み・雰囲気が確立しているのにたいし、財政政策は議会を通じて激しい議論が展開され、絶えず批判・監視の対象にされてきている。金融政策により、FRB (ECB) は資金を、無尽蔵に、かつだれからの干渉も受けることなく円滑に市場に流せるのにたいし、予算、とりわけそれが財政赤字をもたらすような項目は、議会というガラス張りの場でひどく批判的・論争的な対象として晒される。政府が悪い、財政赤字が深刻である、という批判は、金融政策にたいする甘い見過ごし、ならびに市場経済のもつ内在的欠陥(需要不足)にたいする見過ごしに立っており、一面性の謗りを免れないのであるが、そうした視点は、現時点でほとんど省みられることはない。

ユーロ圏の経済政策の特異性 ユーロ圏首脳は「フィスカル・コンパクト」 の厳守を標榜している。財政危機に陥ったメンバー国には超緊縮予算の遂行を交換条件にベイルアウトを行うとともに、ECBの金融政策 (国債の買い支えや銀行への低利融資 [LTRO]) により金融セクターの安定化を図っている。彼らは危機克服は財政緊縮の徹底化および構造改革で達成できると信じており、その結果、社会的・政治的不安・不信に陥っているPIIGS国民の苦境には、まったくといって無関心・無頓着である。
ユーロ圏首脳は「緊縮財政信仰」を玉座の座に祭り上げており、景気刺激策を放棄するばかりか、極度の有効需要削減策を遂行し続けている。ユーロ首脳が行っているのは、「ワシントン・コンセンサス路線」であり、国有部門の売却、労働組合の解体を通じて民間市場の効率性を増大させ、小さな政府の実現を目指している。だが、これで賃金の切り下げが生じても、景気の回復がもたらされる保証はない。メンバー国が一斉に同じことを行っているから、結局、ドイツの労働生産性の優位は温存されたままであり、周辺国が経済を回復させるのは不可能である。ユーロは、ユーロ圏首脳の遂行するこの政策の失敗が、それに苦しむ諸国民にいっそうの苦しみを与えることで、やがて政策的に行き詰まり、社会的な爆発を引き起こす可能性が高くなっている。


6. むすび

本章の主要な結論は次の点にある。最初に、近年、マクロ経済学の主流となってきた「新しい古典派」 にたいする懐疑を5点から明らかにした。続いて、それに対峙するケインズ諸派のなかから、「ニュー・ケインズ派」と「ポスト・ケインズ派」を取り上げ、その特性を簡潔に示した。最後に、『一般理論』 でケインズが採用している方法を再度特徴付けることが肝要であるとの認識に立ち、
筆者の理解する『一般理論』の本性的特質を明らかにした。この特性が経済学の今後のあり方を探りにあたり、1つの重要な示唆を与えていると思われるからである。
 

  1) 誤解されがちだが、これは経済学のある分野、およびマス・メディアでの話しであって、ケインズへの多様な領域からの研究・関心は、じつは恒常的に展開されてきている。この点は、冒頭で強調しておきたい。
2) 効用を測定するという実験は、これまでに幾度も行われてきている。例えばよく知られているものにI. フィッシャーによるものがある。
3) サヴェッジ (Savage, 1954) は「デ・フィネッティの主観的確率に関する研究と、1940年代に展開されたフォン・ノイマンとモルゲンシュテルンの「ゲーム理論」における効用の分析を総合させるかたちで、一つの体系を構成することに成功した」(伊藤, 1997, p. 212)。デ・フィネッティの理論はラムジーの理論 (Ramsey, 1926) と類似しており、通常、「ラムジー = サヴェッジ理論」と呼ばれる。
4) 松嶋 (2005, 5) を参照。
5) 戦後のマクロ経済学の展開をめぐるケインズ諸学派の展開については、平井 (2003, 17章「ケインズ解釈と戦後マクロ経済学の展開」)を参照。
6) 「失われた10年」での わが国の政策論争にあって利子率政策を重視するニュー・ケインジアンが影響力をもつことはなかった。それはオールド・ケインジアンと経済理論的基礎をもたない構造改革派によって展開された。
7) ただし、「ニュー・ケインズ派」にあっても、スティグリッツは「合理的期待形成」や「代表的経済主体」には批判的・否定的なスタンスをとっている。
8) 以下はPasinetti and Shefold, B. (1999) 所収の論考に依拠している。
9)  この理解に筆者は懐疑的である。ケインズは古典派の対岸に位置しているし、ケインズ自身、そう明言しているからである。
10) このあたりについては、平井(2003, 8章第2節「草稿「生産の貨幣的理論」、および第9章「質的転換」) を参照されたい。ケインズの転換は1932年中葉の草稿「生産の貨幣的理論」ではなく、1932年末の草稿「貨幣的経済のパラメーター」で生じている、というのが筆者の理解である。
11) 以下はDavidson (1994) に依拠している。
12) 以下に本節で述べる点の詳細は、平井(2003, 15)を参照されたい。
13) この点については、平井 (20125) を参照されたい。
14) これは「リクィディティ・トラップ」であり、近年、クルーグマンや小野が日本経済の分析に当たって着目した点である。



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