2016年10月24日月曜日

冷戦体制2.0!?



冷戦体制2.0!?

すでに世界は、新たな地政学的変化の時代に入っている。しかも、それは以前の
冷戦体制よりも危険なものになっている。ゲームのルールも共通の言語も対話も
取れない状態に陥ってしまっているから。
 というのが、西側陣営の多くの政府要人に共通する見方である。
とりわけ、シリアにおいて、アサドが化学兵器を用いたのを、見て見ぬふりをして
見過ごしてしまい、その空白にロシアが入り込み、いまのようなかたちでシリア内戦に
大きなキャスティング・ボートを握るようになったのが、大きかった、とする声が
少なからずある。
 もはや、世界はソ連が崩壊してから20年続いた時代に戻ることはできなくなっている、と。
***
これはその通りであろう。
が、この長い論説で扱えていない問題がいくつかある。

・いまや世界は資本主義世界であり、かつてのように資本主義 対 共産主義 という構図のもとにはない。ある意味で、19世紀末の大国による帝国主義時代の再来のような様相をもっているようなところがある。ロシアも資本主義国である。この論説では、リベラルな民主主義として欧米をみて、いまのロシアをそれからの退却とみているが、いずれも資本主義体制をとっていることへの言及はなされていない。

・この論説では中国のことは扱われていないが、中国の動向を考察に入れての3どもえの
 地政学的変化としてみることが肝要である。冷戦体制のV.2というより、3極体制なのである。

・アメリカのヘゲモンとしての影響力がこの8年で著しく減退したという現実がある。いまでは、アメリカは外交・軍事交渉上において、発言すれば、皆だまって言うことを聞くという状況ではまったくなくなってしまっている。いわば、「カリスマ」性がはがれおちてしまっている。それはプーチン・ロシアだけではない、中国は有る意味ではもっと露骨にアメリカに対抗している。というのは、ロシアは軍事的行動の実践(それは、バルト海、シリア、ウクライナなどで明確にみられる)が中心であるが、中国は、自らを中心とする世界経済システムをアメリカに対抗して構築しようとする動きをみせているからである。もちろん、その背景には、これまでの驚異的な経済成長で得た富を軍事の増強に充てることで、軍事的強大国家(宇宙開発も視野に入れた)たることを自覚しているという現実がある。

・オバマは、初期の国内政策(オバマケア)や金融改革政策(ドッド=フランク法)で画期的な成果をあげることができたが、外交・軍事的な失敗を被ることになってしまった。ブッシュが行った一方的アフガン戦争、イラク戦争により、泥沼に入り込んだアメリカを救うという平和戦略をとったのだが、結果的に「アラブの春」への対応の失敗もあり、
 気がついてみれば、覇権国家アメリカの地位は地に落ちている。

・欧米は、リベラルな自由主義の擁護者であるという顔を、オポチュニスト的に示すことが多い。しかし、欧米のリベラルな自由主義はどの程度そうなのかは、疑問も多い。とりわけ、グローバリゼーションの進展のなかで、資本主義、自由主義の在り方に欧米の
 なかでも深刻な変化がみられるからである。巨大金融資本は政府との結託がアメリカにおいて著しく、かつ、企業倫理は地に落ちた状態にあることを指摘する必要がある。そのうえで、ロシアの資本主義、政治体制を比較することも必要であろう。

・EUに至ると、もはや中道左派・右派はかつての政治的影響力を大幅に喪失し、極右の方が諸国民に人気があるという、10年前には考えられなかったような激変が認められる。

・アメリカの政治システムも深刻な危機にあるように思われる。ヒラリーのような人物を選ぶに至った民主党、トランプのような人物を選ぶことになってしまった共和党、いずれの政党も自浄能力を喪失してしまっている。サンダースは腰砕けになったものの、彼を驚くべき数の国民が支持していたという現実は、アメリカのいまの政治経済構造の現状にたいする不満が充満していることの反映であるように思われる。同様のことは、現在のイギリス労働党が、コービンを指導者に選んでいることにも似た不満が大衆のあいだに存在していることをうかがわせるに十分である。


https://www.theguardian.com/world/2016/oct/24/cold-war-20-how-russia-and-the-west-reheated-a-historic-struggle


Cold war 2.0: how Russia and the west reheated a historic struggle

As chasm grows between a resurgent Russia and a divided US and Europe, diplomats say conflict is now more dangerous, with ‘no clear rules of the road’

‘The game has changed’: Vladimir Putin and Barack Obama meet at the United Nations headquarters. Photograph: Kommersant Photo/Getty Images
Patrick Wintour and Luke Harding in London, and Julian Borger in Washington
Monday 24 October 2016 09.35 BSTLast modified on Monday 24 October 201610.12 BST

Gen Sir Richard Shirreff remembers the moment he realised Nato was facing a new and more dangerous Russia. It was 19 March 2014, the day after Russia annexed Crimea from Ukraine.
Shirreff, then deputy supreme allied commander Europe, was at Nato’s military HQ in Mons, Belgium, when an American two-star general came in with the transcript of Putin’s speech justifying the annexation. “He briefed us and said: ‘I think this just might be a paradigm-shifting speech’, and I think he might have been right,” Shirreff recalled.
Isolating Russia isn’t working. The west needs a new approach
Mary Dejevsky

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The Russian president’s address aired a long list of grievances, with the west’s attempts to contain Russia in the 18th to 20th centuries right at the top.
Putin said: “They have lied to us many times, made decisions behind our backs, placed us before an accomplished fact. This happened with Nato’s expansion to the east, as well as the deployment of military infrastructure at our borders.”
He warned that Russia would no longer tolerate such pressure: “If you press the spring it will release at some point. That is something you should remember.”
Warnings of a return to cold war politics have been a staple of European debate for three years, but in recent weeks many western diplomats, politicians and analysts have come to believe the spring has indeed been released. Russia is being reassessed across western capitals. The talk is no longer of transition to a liberal democracy, but regression.
The post-cold war era is over, and a new era has begun. Cold war 2.0, different in character, but potentially as menacing and founded not just on competing interests but competing values.

・・・

2016年10月22日土曜日

(暫定稿) 経済学の理論史的考察から見えるもの ― 「二項対立的特性」を有する統合化




(暫定稿)

経済学の理論史的考察から見えるもの 

― 「二項対立的特性」を有する統合化

平井俊顕 (上智大学)

1. はじめに

2.  2組のキー概念

2.1貨幣的経済学と実物的経済学

2.2プルートロジーとキャタラクティクス

3. 経済学がたどった道
    ― スミスから現在までの描写

3.1古典派

3.2 新古典派

3.3ケンブリッジ学派

3.4 「新古典派総合」

3.5 直近30年

新古典派の内部分解

反新古典派の台頭

4. 隣接諸学からの影響と価値判断

4.1 隣接諸学からの影響

(1) 数学・統計学

(2) 論理実証主義 (哲学)

(3) 功利主義 (哲学)

4.2 価値判断

(1) 価値判断を重視する論者

(2) 社会哲学

5. (暫定的) むすび



















2016年10月7日金曜日

第2話 明治時代






2話 明治時代


幕末の混沌とした状況下から、近代日本がいかにして生まれたのかは、すこぶる興味深い問題である。

1.     西洋列強の開国要求は、幕藩体制を根幹から揺るがすものであった。鎖国を守りきれるのか、それとも列強の要求に応じて開国に踏み切るのかは深刻な問題、国体を揺るがす問題であった。
このような情勢のなかから、天皇に体制の根源を求める尊皇攘夷思想が生まれ、日本特有の二元支配が頭をもたげることになる。公武合体で国難を乗り切ろうとする陣営と尊王攘夷を唱える陣営とのあいだでの国内の権力争いは、薩長を重要な対立軸として展開していく。
薩摩藩は公武合体派であり、和宮と第14代将軍家茂との婚姻はその象徴である。
攘夷派の長州藩は、朝廷を自らの影響下におこうとして、蛤御門の変、禁門の変などを起こした。幕府はそれに対し、長州征伐を編成し第一次ではそれに成功する。
また薩長は攘夷思想により、西欧列強に戦いをいどみ、それに敗北する。だが、この敗北が彼らに大きな影響を与える契機ともなった。長州に対し、幕府はさらに第二次の征伐を試みるが、このとき、高杉晋作の率いる小さな軍に敗れ、ここから幕府は一気に敗北への、解体への道を歩むことになった。
西洋列強は、フランスが幕府を、イギリスが維新側を支援するかたちをとった。

2.     幕府が敗れるのが歴史的必然であったということはいえないであろう。だが、幕府側の力が弱体化していたのは事実である。長く続いた将軍制度は、この頃には知的にもひどい状況で、将軍にはカリスマ性、権力的威信のかけらもなく、家臣による将軍後継をめぐる内部争いに明け暮れる有様であった。時代の中心が外様およびその臣下に移動していたことは確かである。

3.     徳川慶喜は二条城で大政奉還に同意するも、大阪城に戻り、そこで京都側との連絡が途絶える。そして京都に攻め入る作戦をとる。これが鳥羽伏見の戦いである。これに幕府軍は敗れ、徳川慶喜は船で江戸へ逃げ帰る。そして勝と西郷の話し合いによる江戸城明け渡し、徳川慶喜の蟄居謹慎措置が下される。その後も、奥州での戦いや函館五稜郭での戦いが繰り広げられた。幕府側に統率のとれる将軍が存在していたならば、必ずしも幕府が崩壊するまでには至らなかったかもしれない。

4.     薩長同盟、そして大政奉還、こうして明治が始まった。

5.     大政奉還、王政復古という、時代がかったかたちでの体制の交代が、近代国家日本という形式をとるまでには、さまざまな試行錯誤がみられたことであろう。

6.     緊迫した国際政情のもと、明治維新は急速なテンポで封建体制から資本主義体制への変換を遂げざるをえなかった。だから、明治は多くの封建的要素を残しつつ進んだし(シュムペーターが思い出される)、その影響は深く明治の社会を規定することになった(農村は封建的要素を色濃く残したままであった。これは第二次大戦まで続いたといってよい)。

7. (ノーマンの見解)明治維新は、(1) 封建社会の内部的危機 藩の財政逼迫 [専売制度、マニュファクチュア等による藩政改革が試みられた]、武士の困窮、農民の困窮 (高率の年貢、地主-小作人制度の進行)(2) 西洋列強の圧力、という2つの圧力が偶然的に結びつくという政治環境に端を発している。
それは、下級武士階層(彼らは有力外様の藩政改革において指導的な力を発揮し、そこでの経験が明治維新に生かされることになる)を指導層とする上からの革命であった。彼らは大商人階層と結びつきつつ、幕藩体制を打破し(廃藩置県、地租改正等)、中央集権国家体制のもとで資本主義社会を創出することに成功した(官営事業 [主として軍需関連産業] の創出と払い下げ 財閥の形成)。

8 . 小泉信三の次の表現は適切である。

「明治の興隆は西洋の科学と個人尊重の思想との輸入に負うものであった。然るに当時先立ってこの西洋の学問と思想を学んだ者は、おもに諸藩の士族であった。伝統的な面目と廉恥の観念と、そうして儒教によって養われた強い義務心とは、彼ら日本の士族を道徳的背骨 (モラル・バックボーン) のある人間とした。西洋の学問思想と在来の教えとは彼らにおいてある幸いなる結合を形成した」(牧野III, 序より)

9. 何よりも、はっきりしていること、それは幕藩体制のシステムの解体と権力の中央集権化である。廃藩置県、地租改正はその象徴的存在である。これらは藩閥政治により薩長出身者によって断行された。
   明治の近代国家建設にあたって牧野伸顕(大久保利光の二男)が決定的な一歩としてあげているのが、廃藩置県と遣欧使節(この目的はわが国への殖産興業を明確に意識したものであった、と牧野は述べている)である。実際、この使節団は政府の要人を多数含んでおり、明治維新の政情不安なときに、よくこのようなことができた、と思わずにはいられない。
  この頃の政府部内の描写については、大隈重信、渋沢栄一によるものが正鵠を射ていると思われる(西郷や板垣はまったくこの問題には向いていなかった、と評されている)。大隈や渋沢は政府部内にあって、財政実務にもきわめて長けていた。
  殖産興業を1つの旗印にしたのは、おそらくは遣欧使節の後であろう。政府は(大久保利通を中心に)この問題に取り組んだ(正確には、大隈重信や渋沢栄一の方が先であろう。渋沢は1867年のパリ万博に出かけている)。官営企業(富岡の製糸工場など)の創設、そしてお雇い外国人の雇用がそれである。しかし、その成果ははかばかしいものとはいえなかった。それが官営企業の払い下げである。
  明治初年の近代的企業家の不在については、渋沢栄一の叙述や高橋是清の叙述に明白である。
  政府の財政収入を安定(増大)させるためにとられた方策が地租の金納である。これは松方正義(1835-1924)によって断行された(地租改正は松方正義が「命をかけて」行ったものである。これは、高橋是清が地租改正を変更しようとしたさいに、松方から直接聞かされた話である)。
この結果、政府は歳入の増大に成功するが、他面、農村における小作化(地主化)が急速に進行することになった(そのため小作争議は明治に入って、かえって拡大している)。これは幕末から生じていた現象であるが、それが地租の金納化によって加速されることになった。
  渋沢栄一は、明治初年、静岡においてさまざまな財政改革を断行している。米の販売方法、綿の販売方法、株式会社の設立など。そして大蔵省に入ってからも財政の安定化を訴えたが、大久保利通はそのことを理解してくれなかったと記している。
   明治初年、政府は極端な財源不足に陥っており、秩禄公債などは外国で公債を発行することでまかなっている。

10. 秩禄公債の発行により、武士階級という存在はわが国から消えた。不平武士はさまざまな抵抗を試みるが、西南の役 (1877年。西郷隆盛 1827-) を最後になくなる。そして西南の役がもたらしたインフレは秩禄公債の価値を無価値なものにしてしまったのである。江戸時代の武士は、戦うことを職務としていたわけではなく、藩主から石高というかたちで給料をもらい、勤労を提供する事実上の官吏である。廃藩置県により雇用主を喪失した武士は、もはや武士ではない。秩禄公債をもらってもそれは利子生活者でしかなく浪人者である。
そして急速な近代化に取り残された武士階級(これは中央権力に上り詰めた一部武士階級とは異なり、それに失敗した者、ならびに思想的に封建的な人々からなる)は、新政府の方針に不満を募らせ、数々の反乱を引き起こす。その最大にして最後のものが西南の役である。西南の役をめぐる大久保、西郷の生の声は非常に興味深い (牧野伸顕に記載あり)。藩学校のなかから桐野利秋を指導者とする勢いを西郷は止めることができなかった。西郷は、北海道開拓計画、そして征韓論を試みるも、それらに失敗していた。
武士は秩禄公債を受け取ったが、その利子では生計を立てることはできず、何らかの職業につくしかなかったが、その道は厳しいものであった。そして西南の役により生じたインフレは秩禄公債の価値を下げることになった。

11. 西南の役によりインフレが発生、それを抑えるためにいわゆる松方デフレ政策。一
方、農村では地租改正による金納化による高率の税負担に耐えかねて小作化が進行し、後年の農村問題を引き起こすことになる。

12. わが国の産業技術は、鎖国という状況下で高度な発展を遂げていたとはいえ、国際基準からみると決定的な遅れをとるものであった。産業技術、機械工学、軍事技術においてそうであり、もちろん金融システムなどはまったく近代的意味では、ないも同然であった。
    明治の初期に日本には産業らしき産業は何もなかった、と牧野、渋沢、高橋是清は異口同音に記している。そこには江戸時代の商業とは、精神的にも技術的にも明白なる断絶があったのである。だからこそ、新政府の要人が中心となって工業を興すことが必要であった。
大久保利通は岩崎弥太郎を見つけ出し、彼に補助金を与えた。これが三菱の始まりである。当時、知識のある有為の若者は全員政府の役人になることを希望しており、実業家になろうとするものはいなかった、と渋沢は記している。また銀行業などはまったく理解するものがなく、第1国立銀行の設立に当たっての苦労を渋沢は語っている。

(ノーマンの見解)大商人は新政府を資金的にバックアップした(例えば、地租を担保にした金融等)。しかし彼らは自らの手で工業に投資する意欲はもたなかったから、当初あくまでも金融的側面から関与した(金禄公債や地租を担保にした金融) 。  
だから工業化への道は、軍事力に直結する軍需関連産業の育成というかたちで新政府がイニシアティブをとった (それは幕府や諸有力藩が行っていたことを継承しながら行われた)
その意味で大商人はいまだ「企業家精神」を有していたとはいえない。軍需関連産業はやがて払い下げられ、大商人は財閥を形成していくことになる。つまり、大商人は当初、銀行・金融資本として機能し、その後、払い下げられた工場を端緒として工業経営に着手していった。

13.  いかに技術的に遅れていたのかは、お雇い外国人を高給で雇用することにあらわれている。このあたりの事情は、わが国の灯台や鉄道建設を指導したイギリス人技師ブラントンの著作によく描写されている。

14.  明治の混沌とした時代のなかを生き抜いてきた高橋是清の『自伝』もすこぶる参考になる。彼は、横浜正金を外国為替の中心的銀行にした功労者 (その意味で実質的な創設者といってよい) であり、「正金の高橋か、高橋の正金か」と呼ばれたほどである。彼によると、当時、わが国には外国為替を扱う金融機関は存在せず、それは香港などの海外の金融機関(いまのHSBCの前身)が担当していた。

15. (ノーマン:旧藩主・農民・武士の命運)  新政府は、旧藩主にたいしても非常に寛大な措置をとることで、革命を円滑にした。それは莫大な金録公債や賜金の供与 (彼らはこれを元手にして銀行業を開設したり、土地を取得して大地主になった) であり、後には華族の称号を与えられるに至る。
    これとは対照的な扱いを受けたのが農民である。彼らは幕府時代と変わらない搾取を受けつづけた。過酷な地租、それに驚くほど高利の小作料 (地主―小作関係の進展)
新政府は当初、この地租以外には税収の手段をもたなかった(幕府が鎖国政策をとったために、西欧諸国とは異なり、海外貿易からの利潤の道が絶たれていた。そのため負担は農民にかかった。この影響が新政府をも規制していた)。また地主や金貸は、高利の小作料がとれる農業に魅力を感じていたが、それはあくまでも高利貸としてであって、農業資本家としてではなかった。また、暴利がここで得られるので、彼らが工業などに投資する誘因もなかった。なお、農民は貿易により安い綿、砂糖が入ってくることで、副業的家内工業を失うことになった (その結果として養蚕が登場する)。しかも彼らは、労働者として都市に流れ込むことはできなかった (まだ工業が誕生していなかったからである)
     武士階層の境遇は複雑である。彼らのごく一部は明治維新の指導者となれた (しかも彼らは薩長土肥のいわゆる藩閥である)が、階層としての武士は(農民、工・商とは異なり) 消滅する運命にあったからである。彼らの大多数は、わずかの秩録公債をもらえただけだから、非常に不安定な境遇にあった。彼らが新政府に不満をもったのも、ある意味で当然である。
    明治維新では(既述の大商人を除くと)都市住民(市民) は、社会の変革に何の役割も演じることはなかった。これはヨーロッパとの大きな相違である。

16.  1870年の普仏戦争でのプロシアの勝利  → 日本へのドイツの影響

17. わが国は幕末に不平等条約を締結させられていた。治外法権とともに、関税自主権の喪失である。関税を課する権限がないということは、独立国家として、著しい権利の剥奪である。いわばわが国は、経済的にみて、丸裸で外国に対峙していたことになる (無理やりの自由貿易。裸の自由貿易)

18. 明治20年代になっても、日本経済は殖産興業に成功してはいなかった。とりわけ海外に飛躍を求めるようなビジネスはいまだ開始されていなかった。この点は、高橋是清のペルー鉱山事件に象徴されている。高橋は殖産興業の進行の先駆者たらんとしてこのプロジェクトにだまされて参加したのであった。高橋はその後、日銀、大蔵省に入り、わが国の金融制度、財政政策を先導する人物になるわけだが、そのさい、金融政策を殖産興業の推進の手段として用いるという意思を明確に貫徹させていた。金融的融通を通じて産業活動を活性化させるというのは、生涯を貫く信条であったといってよい。

19. 新体制の中心的イデオロギーとして「自由主義」はいかなる意味でも入り込む余地はなかった(とはいえ、福沢諭吉は異なる [『学問のすすめ』。個人の平等と独立を力強く謳ったもの。明治六年に、である])。彼らの中枢思想は、海外列強の圧力から日本を救い、独立国家日本を再建する点にあった。だから彼らは西欧の技術の摂取に熱心であり、その点でプラグマティストであった。しかし、彼らは実際には、藩閥勢力として動いているし、一種のエリーティズムを熱烈に有していた。そしてその精神において彼らは武士であったし勤皇であった。明治憲法は、彼らに最もフィットしたプロシアに範を得たものであるということも、そのことを物語っている。
 「自由」や「個人」を語れるような時代環境ではなかったし、そうしたものが社会のなかに実在しなかったといえる。かりに町人文化のなかにそうしたものがあったとしても、それは指導的な精神にはなりえなかった。当時の商人はきわめて卑屈な精神状況にあったことは、渋沢が述べているところである。「自由民権運動」の挫折は、「自由主義」の挫折でもあった。
しかし、薩長による藩閥政治のままであってはいけないことは、自由民権運動その他から明らかであり、それにたいし、伊藤博文や井上馨はきわめて弾力的に対応したといえる。かれらは法整備に長けていた。

20. 産業革命が日本に生じるのは1880年代に入ってからである (明治維新はその前に生じているのである)

21.  金銀比価の推移 (銀の下落傾向)

   1871年 新貨条例
   1881-82年 松方デフレの頃
1885年 銀本位制実施
   189310月 貨幣制度調査会
1894年 日清戦争
           「三国干渉」により遼東半島返還
      賠償金 3,800万ポンド
  
  18969月 金本位制度実施

   『日本銀行百年史』、『日本金融史資料』
森鴎外「金銀銅価考」

19. 日清戦争 (1894) は結果的には、近代日本の大きな出発点になった。朝鮮支配をめぐる日清の帝国主義的争いであるが、この勝利により、莫大な賠償金と台湾を手に入れた。このことで民衆のあいだにも中国人蔑視の思想が芽生えてくることになる。と同時に、日本の強国としての意識が民衆のあいだにも広がることになった。

20.日露戦争 (1904) の勝利は、この傾向を一層加速化することになった。大国ロシアに小国日本が勝利を収めたことで、そしてその条約 (ポーツマス条約) を屈辱的 (賠償金なし。南樺太の割譲。朝鮮への支配権) とみる民衆による日比谷焼き討ち事件は、日本の民族意識を昂揚させることになった (臥薪嘗胆)
日露戦争において重要であった1つの勝因は戦債発行による外貨の獲得であった。これに孤軍奮闘したのが高橋是清である。彼の自伝によると、ほとんど何のツテもない状態での国際交渉であった。ユダヤ人シフとの知己が大きな影響を及ぼすことになった(またカッセル(あの経済学者ではない)も登場してくる)。
   伊藤博文(18411909年)は、日露戦争を「日本の滅亡」と考えて、反戦・非戦論を展開した。

21. 19世紀末から20世紀初頭のヨーロッパの政治状況については、牧野伸顕の自伝がすこぶる参考になる。

 


2016年9月25日日曜日

石橋湛山について 平井俊顕





石橋湛山について

平井俊顕

日蓮宗僧侶の家に生まれた湛山 (1884-1973) だが、幼少時から、他寺に預けられて育っている。早稲田で彼が学んだのは哲学である。ジャーナリストの道に入ったのは、かなりの偶然が作用している。東洋経済新報社に入ったが、かれはそのために入ったわけではなく、たまたま社の事情でそうなる方向に運命づけられたのである。
湛山は、戦前の日本が生んだ最大級の政治・経済ジャーナリストである。彼
は自らを一貫して自由主義者と名乗っている。共産主義、社会主義には批判的であり、政治や軍部の行動にたいしても絶えず批判的であった。そして湛山が日本の自滅の原因としてもう1つあげていたのは、これらの政治・軍部の行動にたいし抑止力となり本来の自由主義的な国家の建設に寄与すべきはずの政党が貧困であり矮小化であったという点である。湛山が最も重視しているのは、政党が具体的な政策を明示し、そしてそれをいかに実行するか、という点である。
議会制民主主義を重視し、なによりも言論の自由の重要性をたえず訴えてい
た。

だが何よりも、湛山の名を歴史的に残すのは経済ジャーナリストとしてである。1920年代後半から生じた金解禁論争において、旧平価による金解禁を唱え、
デフレ政策をとりながら、19301月、それを実行に移した井上準之助に反対し、新平価による金解禁を一貫して唱道した点がそれである。だが、アメリカの大恐慌の発生の影響も受け、193112月には、浜口内閣は金解禁の禁止を行うことになった。この後、為替相場の大幅な下落と、高橋蔵相のもとでの財政支出の大幅な増大により、経済は大幅な改善をみせることになる。湛山はこれらの政策を「リフレーション政策」と名付けている。
湛山は、歯切れよく日本の財政、金融、経済状況を分析している。あまり凝り固まったイデオロギーといったこととは無縁で、事実をかなり大胆に分析しながら、己の見解を相当自信をもって語っていること、そして必ずといってよいほど、具体的な案を提示していることが印象的である。
この点に関して2点をあげておこう。1つは、湛山は通貨体制そのもののあ
り方に大いなる関心を示し、金本位制そのものにたいして批判的であり、「紙幣制度」(=「統制通貨」)が今後の貨幣制度になっていくことに賛意を表明している。もう1つは、1937年以降は、一転してインフレ抑制政策を主張している点である。日本経済がインフレ傾向を示していることから、為替相場を引き上げ、増税を断行することを、その後唱道している。
 己の見解を相当自信をもって語って語るというスタンスは、おそらく大学時の哲学(とりわけ早稲田時代の恩師田中王堂)からの影響によって培われたところが大きいように思われる。なにせ経済を勉強し始めたのは28歳の頃で、しかも上記のような偶然に由来している。ただ、以降の湛山は世界や日本で生じている経済・政治現象についての情報を入手するだけではなく、関連する経済学についても幅広く読みこなしている。
 なかでも湛山が多くの注目を払い続けたのは、ケインズである。『貨幣論』、『一般理論』などについてただ読むだけではなく、1932年には社内に「ケインズ研究会」をつくり、『貨幣論』についての検討を行っているし、『一般理論』についてはその翻訳をめぐり、読み合わせ会を10数回にわたって開いている。
 
 湛山は、非常に多くの具体的提案をするとともに、それらを数多くの研究会や講演会を組織して全国的に講演するというような行動力・実行力のある稀有なるジャーナリストであった。経済倶楽部の創設、(後に)金融学会となる学会の創設、さらには英文雑誌オリエンタル・エコノミストの発刊は、いずれも彼のイニシアティブによるものである。そして何よりも、東洋経済新報社という自由主義的伝統を掲げる組織を困難なる時代にあって、ここを拠点として自らの政治・経済についての見解を発表し続けたことが、特筆されるべきである。



2016年9月11日日曜日

石橋湛山と現代日本の政治経済とに関する講演会





さて、ケインズ学会では、ケインズと現代の問題との関連して、毎年2回、講演会を開催

してきていますが、今回(第9回目)は、石橋湛山と現代日本の政治経済とに関する講演

会を開催する予定です。皆様方におかれましては、ふるってご参加ください。


               記


日時:2016年10月29日(土)午後3時~6時

場所;立正大学 品川キャンパス 334教室(3号館3階)

講師:増田 弘先生(立正大学教授)

   中岡 望先生(東洋英和女学院大学教授)

   田中 秀臣先生(上武大学教授)

論題:石橋湛山の業績と現日本の政治経済とに関連した話題


 

2016年9月3日土曜日

24 経済学は論理学、そしてモラル・サイエンス(一九三八年)





拙著『ケインズ100の名言』東洋経済新報社から


 24 経済学は論理学、そしてモラル・サイエンス(一九三八年)

 経済学は論理学の一分野であり、思考の一方法です。……経済学は本質的にモラル・サイエンスであって自然科学ではありません(ハロッド宛書簡、一九三八年七月四日付。JMK. 14, pp. 296-7)。

 これは計量経済学の先駆的業績であるヤン・ティンバーゲン(Tinbergen1939])をめぐり、ケインズとハロッドのあいだで交わされた書簡の一節である。ティンバーゲンに対するケインズの評価は徹頭徹尾、厳しいものであった。その際、ケインズは自らの経済学に対するスタンスを次の二点におく。

一つは、経済学を論理学の一分野とみなすスタンスである。経済学はモデルの改善によって進歩するが、可変的な関数に実際の数値を当てはめるべきではない。統計的研究の目的は、モデルのレリヴァンス・有効性をテストすることにある。この背後には『確率論』(JMK. 2)で展開した理論が確実に存在する。だがケインズの経済学が、計量経済学および一般均衡論の発展と連携してマクロ経済学の主流となったのは皮肉である。

もう一つは、経済学をモラル・サイエンスと特徴づけるスタンスである。これは、内省と価値判断を用い、動機、期待、心理的不確実性を扱う科学と定義されている。「新しい古典派」のような「形式主義」と真っ向から対立する方法論である。

 関連項目→18


Hayek, Law, Commands, and Order (in The Constitution of Liberty, 1960)




Hayek, Law, Commands, and Order
(in The Constitution of Liberty, 1960)


ここでいうLawは「抽象的な法」(abstract law)である。抽象的なルール。
そしてそれは自生的秩序の一例である。

「・・・法は、もちろん、言語とか貨幣、いや社会生活が依存するほとんどの 
実際や慣習と同様、だれか特定の人によって発明されたものではまったくな 
い。」(p.148)

次の一文は中心的重要性を有している。

本書の中心的な関心である「法のもとでの自由」という概念は、われわれへの適用とは関係なく制定された一般的で抽象的なルールという意味において、われわれが法にしたがうとき、われわれは他の人の意思に服しておらず、それゆで自由である、という主張に依存している。

ハイエクにとって「自由」とは「抽象的な法」にわれわれが従う、遵守するという意味である。そしてそれは他者の意思に服さないわけであり、したがって「自由」なのだ、と。

 「この一般性は、われわれがその「抽象性」と呼んだところの法の属性の、おそらく最も重要な様相である」(p.153)

個人は「現場の人の知識」に基づき、自発的に行動することができる。こうした自由は、「抽象的な法」という枠組みのなかで発揮される自由行動である。それは分かるが、では「抽象的な法」自体は、いかにして創られるのか、そこに人間が関与しているように思われないところに、自生的秩序論の神秘主義が潜んでいるように思われる。

「命令」(Command)は、それを発する人の目的にのみ資する、誰かが誰かにたいし行う命令である。

「秩序」(Order)は、自生的秩序の意味で用いられている。

「この秩序性は、もし諸個人が彼らだけが知っている特殊な環境に、そしてだれか特定の人が全体についてけっして知られていない彼らの行動を調整することをわれわれが望んでいるのであれば、統合化された指令の結果であるはずがない」(p.160)

「状況についての知識が非常に多数の人々のあいだに分散されている、そういう状況への調整を行う秩序であれば、それが中央の指令によって達成されることはありえない」(p.160)

「・・・われわれは社会における秩序の形成の状況をつくることはできるが、その要素が適切な条件のもとで秩序付けられる方法をアレンジすることはできない。」 (p.161)


                                                                                                                                                                                            

2016年9月2日金曜日

The Origins and Effects of Our Morals: A Problem for Science, A Speech delivered at the Hoover Institution, November 1, 1983.  平井俊顕






The Origins and Effects of Our Morals: A Problem for Science,
A Speech delivered at the Hoover Institution, November 1, 1983.

                                平井俊顕

システムについての価値判定ルールの欠如
 ハイエクの自生的秩序はやはり「良いモノ」との暗黙裏の価値前提がある。悪い「自生的秩序」はまったく念頭にない。議論の対象から完璧にはずされている。換言すれば、人間社会をみるときにハイエクは「良い」と思うモノにだけ焦点を合わせ、そうでないもの(例えば戦争、争いごと、犯罪など)は考察の対象からはずしている。
 本来、人間社会には、いわば「悪い自生的秩序」も存在する。戦争は人間社会から切り離すことのできない悪い「自生的秩序」といえなくもない。それは1つ1つの戦争は単発的ではあっても、人間社会が存続するかぎりなくなることのないものだからである。その意味で戦争も1つの制度である(国防の延長線上で戦争は生じる)。ヤクザ組織も、売春も然りである。いまの社会にはびこっていて消えるどころではないであろう。

 したがって「良い」「悪い」を判定する基準がハイエクの自生的秩序論にはないのである。
 そうした人間社会に厳然として存在し続ける「悪い自生的秩序」に目を向けないで、ハイエクの批判は、唐突に、そしてすべからく理性主義者、社会主義者に向かうのである。これは、何か一方的な評価法なのではないだろうか。

神秘主義
ハイエクは、個人の認識の無知を強調する。その点で彼は現実主義的である。だが、社会を論じるとき、「天蓋」(=自生的秩序)が強調される。それは、個人がその形成に寄与するところはまったくなく、いわば諸個人の外から社会に被せられるかのようである。「天蓋」の上には神がいて、諸個人は見えない糸で操られているかのようである。社会には諸個人しか存在しないのに、だからすべての秩序は彼らがつくっているはずであるのに、彼らには何の寄与もないのだという。これは一種の「神秘主義」(観念論)ではないのだろうか。くしくも彼はこの論文で transcend” (超越する) という言葉を使っている。

理性主義=社会主義直結論
もし人々が少しでも、「伝統」にたいして異を唱え、自らの望むようにそれを変革しようとする動きをみせるならば、ハイエクはそれを「理性主義者」の愚挙として糾弾する。そしてその矛先はストレートに社会主義批判に向かう。自生的秩序に反旗を翻す行為は、理性主義者のおごりであるとされる。

この論文では、進化論的考察が、ハイエク本来の自生的秩序論に加味されるかたちで論じられている。そしてその進化論は社会ダーウィニズムとは異なるものであることが強調されている。
 彼によれば、グループがあるシステムよりもこのシステムを選択することにより、人口が増大していくことが、そのシステムが歳月を超えて生き残っていく条件であるという。そうして生き残ってきた制度は、価値ある伝統として、われわれは守らなければならない、というわけで、現存秩序を非常に重視する保守主義である。
 だが、本来、個人主義的に社会をみる (もっとも他方で、「天蓋」論があるのだが) ハイエクが、グループをもちだしてくるとき、何か矛盾するものを彼の社会哲学に導入してきてはいないだろうかという気がしてくる。個人ではなくグループがシステムを選択するというとき、これは集団としての意志決定のようにもみえる。しかし、もちろん自生的秩序にあってはそうした集団の決定といったことを許容する余地はない。