2013年7月29日月曜日



 似而非道徳律と経済的効率性
  ケインズ 


ケインズは『一般理論』を通じて,経済理論・経済政策の領域で「ケインズ革命」と呼ばれる巨大な変革をもたらしたということは周知のとおりである。だがそればかりではない。戦後の西欧を支配した社会哲学は,その重要な一翼をケインズに負っているのである。こうした巨大な影響力を与えてきた人物の市場社会観とはどのようなものであったのだろうか。

. 市場社会の本性

  ケインズの市場社会観の原点を形成するもの,それは,市場社会は本質的に「経済機構の主要な原動力として,諸個人の金もうけ本能および貨幣愛本能への強力な訴えかけ」(EL, p.293) に依存している,とみる視座である。こうした特性をもつ市場社会は,絶えず大きなジレンマにさらされている。それは貨幣愛本能を重視するがゆえに,道徳的にみるときわめて不快な社会である。だが他方,それはまさに同じ理由により,他のいかなる社会システムよりも経済的効率性を達成するうえで優れている。市場社会は,道徳性の観点からは否認すべきものであるが,効率性の観点からは当分のあいだ是認せざるをえない これがケインズの目に映じた市場社会の原像である。
 だが,市場社会が経済的にみて効率的なシステムであるとはいえ,そのことは自由に放任しておけばうまくいくということを意味するものではない。むしろ自由に放任すれば,市場社会は不安定になる性向を内在している。したがって,市場社会を効率的なシステムにするには,「自由放任の思想」からの脱却と,市場社会を賢明に管理する政策技術の探究が必要不可欠である,とケインズは主張する。
  市場社会は道徳的にみてきわめて不快なものであると述べるとき,ケインズが背後に抱いていたのは,市場社会では似而非道徳律が支配しているという考えであった。そこでは「貨幣愛,生活活動の十中八・九における貨幣動機への習性的な訴えかけ,努力の主要な目的としての個人的な経済的安全性の普遍的な追求,建設的な成功の尺度としての貨幣にたいする社会的承認,家族や将来への必要な備えの基礎としての退蔵本能への社会的訴えかけ」(SV, pp.268-269)が社会倫理を支配している。ケインズは問う われわれの時代の道徳問題とは,貨幣にたいするこうした考え方にどう対処すべきかという問題である,と。
  市場社会では,人間の品性のうちで最も不快なものが最高の徳性にまで奉られてしまっている。とはいえ,われわれは,これからも当分のあいだ,この倒錯した似而非道徳律のもとで暮らすしかない。人類が経済的必要というトンネルから脱け出すためには,これを利用するしか方途がないからである。

…少なくともあと百年,われわれは,自身および全員にたいして,公正なものは汚らわしく,汚らわしいものは公正である,と自らを欺かなければならない。汚らわしいものは役に立つが,公正なものは役に立たないからである(EP, p.331)

  市場社会システムにたいするケインズの嫌悪感は,レーニン主義の倫理的本質を個人や社会の貨幣愛にたいする態度への挑戦とみなして評価している点にもあらわれている。道徳的にみて大切な要素を含む共産主義に比べ,市場社会が生き延びるためには,その何倍も経済的効率性が高くなければならない,とケインズは考えている。
  では,経済的必要というトンネルから人類が抜け出したとき,どのような世界が現出するというのであろうか。この点についてケインズは次のように描写している。

富の蓄積がもはや社会的に重要なものではなくなるとき,道徳律に大きな変化が生じるであろう。われわれは,この二百年間われわれを悩ませてきた多くの似而非道徳原理…を除去できるであろう。…現在われわれが,それらが本質的にはいかに不快で,不公正であれ,それらが資本の蓄積を促進するうえできわめて有効であるがゆえに,あらゆる犠牲を賭して維持しているところのあらゆる種類の社会慣習や経済慣行……を,そのときには,われわれは……喜んで打ち捨てるであろう(EP, p.329)

 市場社会の本性にたいするケインズのこのような把握の背後には,青年時代に深甚なる影響を受けたG.E.ムーアの倫理学 そこではJ.S.ミルやシジウィックの功利主義,スペンサーの進化論的倫理学,カントの形而上学的倫理学等が批判の対象とされた が横たわっているとみてよい。そしてこのことは彼もその一員であったところの「ブルームズベリー・グループ」の倫理的・文化的価値基準と深い関わりをもつ問題である
  以上にみたように,ケインズにあっては,市場社会は,効率性およびその技術的改善の可能性という見地からみて当面のあいだ是認せざるをえないものと考えられている。そしてこの技術的改善という問題は,政府がなすべきことと,民間に委ねておくべきこととを,「抽象的根拠」に基づいてではなく,その理非の個々別々の判定によって対処すべきものとされる。こうした立場は,市場社会を本質的に諸個人の政治的・経済的自由を保証するシステムであり,それゆえ個人主義に立脚した市場社会体制を理想的なシステムとみなすスミスやハイエクの社会哲学や,「快苦計算」に基づく諸個人の合理的な行動の見地から社会をとらえるベンサム流の功利主義哲学とは,立場を異にするものである。

Ⅱ.市場社会メカニズムについての認識 安定的経済観 対 不安定的経済観

  ケインズは,以上のように市場社会の本性をとらえた。ではそうしたヴィジョンに立って,ケインズは市場社会のもつメカニズムをどのように認識したのであろうか。結論を先取りすれば,ケインズは,まず,自由放任主義的社会哲学・経済学が提示する市場社会像を拒絶する。次に,彼はそれに対峙する「制度学派的」歴史観を承認したうえで,現代市場社会の安定に国家および組織が重要な役割を担っていることを強調するのである。

.  自由放任主義的社会哲学・経済学批判
 自由放任主義的社会哲学(以下「自由放任哲学」と呼ぶ),ならびにそれに依拠する経済学にたいするケインズの舌鋒は激しく,かつ鋭い。自由放任哲学,それは,個人が啓蒙された利己心に基づいて最大限の私的利益を追求することにより,最大の公共善が達成されるという社会観である。市場社会は自由放任の状態におかれれば(できるだけ国家が干渉しなければ),個人の利益と社会の利益が調和的に実現されるというのである。ケインズは,自由放任哲学(個人主義哲学および社会契約説が例示されている)の依拠する次の前提にたいして懐疑の目を向ける。

  (i) 個人は啓蒙された利己心をもっている。
  (ii) 公共善は啓蒙された利己心によって達成される。

  ケインズは述べる 市場社会には,私的利益と社会的利益を合致させるメカニズムは,天上からの規制によっても,はたまた地上のいずこにもビルト・インされてはいない。また個人は必ずしも組織よりも明敏であるとはいえない。社会は合理的な個人によって構成されているという前提に基づく社会哲学は,実際の世界が無知で弱い個人によって構成されているという事実を無視した虚構である。公共的利益の達成は,無知で弱い個人による私的な行動に任せておいては不可能である。それは実際の世界のなかに,人々が社会的な単位を組織することによってのみ可能となる,と。ここに明らかなように,ケインズの社会哲学は,きわめて現実主義的であり,理想状態から論議を組み立てる規範的な自由放任哲学の対局に位置している。
  次に,自由放任主義の経済学(以下「自由放任経済学」と呼ぶ)に移ろう。それは次の2つの仮定から成り立っている,とケインズはみている。

 (i) さまざまな目的への生産手段ならびに消費の理想的な配分は,諸個人の独立した行動を通じた競争の結果としてもたらされる。
 (ii) 最高の努力をおしまない誘因としての制限のない私的金もうけの機会というものは有効であり,かつ必要である。

  この2つの仮定から,諸個人の独立した利潤追求が社会に最大の生産量をもたらすという命題が導出される。
  またケインズは,自由放任経済学を,市場の需給に任せておけばよいという発想に立つものである,とも述べている。

…経済調整は需給の諸力が自由に発揮されることによってもたらされるし,また当然もたらされる…。…自由な競争と,資本および労働の可動性という想定のもとで生じる事態は,今日の経済生活においても実際に生じている〔という信念をもっている〕。…例えば,貨幣価値を変更するだけで,あとの結果は需給の力に任せればよい…(AI, p.305)

 ケインズは,こうした考え方は50年ないしは100 年前の時代のものである,と論評している。以上のように描写された自由放任経済学が誰によって唱えられているのかを,ケインズは明らかにはしていないが,ワルラス,I.フィッシャー等に代表される「一般均衡理論」の体系であると考えてよいであろう。それらは市場における交換現象を,需給の自由な諸力を中心に捕捉する,そして貨幣数量説を内包する「古典派の二分法」の体系だからである。
  自由放任経済学にたいするケインズの批判は次の2点からなる。第1の反対理由は,それが次のような非現実的仮定に基づいて組み立てられているという点である (a) 生産および消費の過程とは組織的なものではない, (b) 条件や必要についての十分な予知が存在する, (c) この予知を得る十分な機会がある。
  しかし現実の経済においては,それらとは正反対の次のような事実がみられる,とケインズは批判する (d) 生産の有効単位は消費の単位に比べて大きい, (e) 間接費ないしは結合費用が存在する, () 内部経済の存在により生産の集約化傾向がみられる, () 調整に必要とされる時間は長い, () 無知は知識を上回る, () 独占や結託が交渉の平等性を損なっている。
  ケインズは論じる 自由放任主義の経済学者達は,()-()が事実に即さない仮説であることが分かっている場合でさえ,それが「自然」であり,それゆえ「理想」であると考える傾向が強い,と。こうしたケインズの姿勢は,自由放任哲学を実際の世界が無知で弱い個人で構成されているという事実を無視した虚構であるとして批判を加え,現実主義的なアプローチをとろうとしたことに照応している。
  第2の反対理由は,自由放任経済学は競争的闘争そのものがもたらす費用と特質,および富は競争的闘争があまり感知されないところで分配される傾向があるということを考慮することなく,最終結果の便益のみに注目しているという点である。
  自由放任経済学にたいするケインズのこうした批判的立場は,生涯を貫徹していたことは,ここで強調しておく価値がある。彼はその後,『貨幣論』(1930) や『一般理論』で,自由放任経済学(=実物的経済学) と対峙する「貨幣的経済学」を展開した。また最晩年の政策立案にあってもこの立場は堅持されているのである

.  ケインズの社会哲学
 A. 「制度学派的」歴史観
 ケインズは自由放任哲学に対峙して,自らの社会哲学をどのように展開したのであろうか。その基本的立場は,すでにみたように,市場社会は放任しておくとき,啓蒙された利己心に基づく諸個人の利益追求行動により,最大の公共善が実現されるという保証はない,というものであった。利己心はそれほど啓蒙されているわけではなく,個人はあまりにも無知で弱い存在である。ケインズが,ロックやヒュームによって打ち立てられた「個人主義」哲学(契約により諸権利を与えられた個人による合理的な利己愛の諸帰結をめぐる科学的研究)に批判の刃を向けたのはこの立場からであった。
 他方で,ケインズは個人主義哲学を歴史相対的な視点から批判を加えている。それは,18世紀および19世紀の現実には適合するものであったが,現代の条件には適合できなくなっている,という旨のものである。

私見によれば,その心が厳格に旧式の個人主義および自由放任 ―これらは19世紀の成功に大きく寄与したのであるが  のうえにおかれている人々の…居場所はいまやない。これらの教理がそれらを生み出した状況において誤っていたからではなく…,それらが現代の状況に適合できなくなっているがゆえに,私はこう考えるのである(AI, pp.300-301)

  こうした相対主義的歴史観は,ケインズの現実主義的哲学観を反映したものであり,彼の市場社会観を理解するうえで重要である。事実,ケインズが「制度学派」の代表的論客コモンズの歴史観を全面的に受け入れた記述をしているのは,非常に興味深く示唆的である。
  コモンズによると,歴史にはこれまでに3つの時代があった。第1の時代は15-16世紀の「欠乏の時代」である。そこでは個人の自由は最小であるのにたいし,物理的強制を伴った政府規制は最大であった。第2の時代は,個人的取引が割当に取って代わった「豊穣の時代」である。そこでは個人の自由は最大であるのにたいし,政府による強制的統制は最小であった。この時代は,1718世紀の闘争を経た後,19世紀には自由放任と「歴史的な」リベラリズムの勝利というかたちで最高潮に達した。第3の時代は「安定化の時代」であり,これがいまわれわれが迎えているものである。そこでは,部分的には政府の制裁により,しかし主として共同組合,会社,組合,および製造業者,商人,労働者,農民および銀行家等の「集団的な行動」(collective action) により,個人的自由は第2の時代よりも減少する。
 ケインズは,われわれが突入しようとしているのはたしかに「安定化の時代」であり,しかもこのことは歓迎すべきものであると評価する。ケインズのいう「ニュー・リベラリズム」とは,「安定化の時代」における社会哲学を指し示すものである。

経済的アナーキー〔「豊穣の時代」〕から,社会的正義や社会的安定のために経済諸力を管理・統制することを意識的に目指す体制への移行は,技術的および政治的に巨大な困難を引き起こすことであろう。にもかかわらず,私は,ニュー・リベラリズムの本当の命運はそれらの解決策を探すことにあると提案する(AI, p.305)

  ケインズは,私的利益を追求する個人のみが経済主体であるような社会を理想とみなす考えにたいして批判的である。例えば,個人企業家が社会を指導する状況を礼賛するマーシャルの言葉を引き合いに出したうえで,個人企業家はいまや汚れた偶像となっており,われわれを天国に導いてくれると考えるのは誤りであると断じている。同様の疑問は,別の箇所で次のように表明されている。

いまやわれわれは,企業家がわれわれを現在の位置よりもはるかによいところへ導いてくれることを疑問視している。手段としてみると,彼はがまんできる。〔だが〕目的としてみると,それほど満足できる存在ではない(SV, p.268)

  むしろケインズは,理想的な組織とは個人と国家のあいだの規模のものである,と考える。そしてそのさい,市場社会の歴史的進展の結果として生み出されてきた組織の進展を高く評価するのである。具体的にあげられているのは,「半独立的な組織」の成長と,「巨大企業の社会化」という現象である。
 「半独立的な組織」というのは,活動の基準をもっぱら公共善においた組織(私的利益の追求を排除した組織)のことである。それは,通常の業務については,定められた制限内では独立して活動し,そして最終的には民主主義を具現する議会の権限に従うものとされる。そのような事例として,ケインズがあげているのは,大学,イングランド銀行,ロンドン港湾局,鉄道会社等である。「巨大企業の社会化」とは,株式会社が巨大化してくるにつれて,所有と経営の分離が進展し,ついには経営陣は株主への配慮(利潤追求)よりも公衆や顧客からの批判に,より注意を払うようになるという現象のことである。

この段階に到達すると,経営陣は,株主のために利潤を極大化することよりも,その組織の一般的な安定性とか評判を考慮するようになってくる。…このことは,彼らの大規模性とか準独占的地位とかにより彼らが公衆の目につきやすくなり,公衆の攻撃にさらされやすくなる場合には,なおさらそうである。…時の経過とともに,それら〔巨大組織〕は社会化しつつある(EL, pp.289-290)

 興味深いことに,ケインズがこれらの現象に言及しているのは,ここに差し迫った問題があるという認識からなのではない。このような時代の自然的傾向を十分に活用しなければならないという視点からなのである。市場社会の歴史的進展に伴って,「公共善」を意識的に追求する組織が増大していくとともに,株式会社そのものが巨大化するなかで社会化を遂げ,利潤追求を唯一の目的とすることをやめていく。こうした組織が市場社会の内部に多数現出することにより,従来の市場社会がもっていた似而非道徳性,不安定性が緩和されていく ―ケインズは,市場社会システムの進展をこのようにとらえている。 
  このようなケインズの論点は,「制度学派」の歴史観・社会観と通じるところが少なくない。また株式会社の社会化,ならびにそれを通じての市場社会の変容というとらえ方は,シュンペーターの市場社会認識とも通じるところがある。

 B.  市場社会と国家
  ケインズは,以上のように市場社会の歴史的進展を把握し,市場社会が,半独立的な組織の成長と巨大企業の社会化という現象を通じ,第3の時代たる「安定化の時代」に突入していくことを素直に歓迎した。だがこのことは,この趨勢を座して待てば,やがて今日の市場社会が抱えている難問は自ずと解決される,とケインズが考えていたことを意味するものではない。市場社会は準社会主義化しつつあるとはいえ,それでもなお,それを放任しておいた場合,公共善をもたらす保証はまったくない,と彼は考えているのである。
 ケインズは,今日の市場社会において,諸個人の自由意思に頼るシステムでは公共善をもたらすことができない問題として,以下の3つの領域をあげて論じている。そこでは国家が何らかのかたちで積極的に関与していく必要があるのである。

  リスク,不確実性および無知の存在 ケインズによると,今日の最大の経済的悪弊は,リスク,不確実性,および無知によってもたらされている。これらは,個人にとっては自らの利得を飛躍的に増大させる絶好の機会であるが,社会にたいしては非常に不公平な所得分配,失業,合理的な企業期待の阻喪,効率性の悪化等を引き起こしている。この悪弊を治癒する力は,市場社会で独立して活動する諸個人のなかにはない,とケインズは論じている。

私は,これらのことがらの治癒は,部分的には中央組織による通貨と信用の意識的なコントロールに,そして部分的には……ビジネスの状況にかんする大規模なデータの収集と伝播に求められるべきである,と信じている(EL, p.292)

  市場社会システムであるかぎり,既述のような半独立的な組織の成長や巨大企業の社会化といった組織的進展がみられたとしても,リスク,不確実性,無知が除去されてしまうということはない。ケインズは,これらの要因がいかに市場社会システムを不安定なものにするのか,そしてそれらはいかにすれば除去できるのかの探究を,その後深めていくのである。

  貯蓄額とその配分問題 二番目の領域は,貯蓄額とその配分にかんするものである。個人の自由に任せておく場合,貯蓄額の大きさ,貯蓄額のうち海外に投資される大きさ,貯蓄額が国内の生産的目的に配分される方法等が,社会にとって望ましいものになるという保証はまったくない,とケインズは考えている。

私は,全体としての社会が貯蓄するのが望ましい規模,これらの貯蓄額が海外投資のかたちで外国に流れていく規模,および投資市場の現在の機構が国内的にみて最も生産的な経路にそって貯蓄を分配しているのかどうか,についての何らかの知的判断による協同行為が必要とされている,と信じている。私は,これらのことがらが,現在のように完全に個人の判断や個人的な利潤といった偶然に委ねられるべきではないと考えている(EL, p.292)

  人口問題 三番目の領域は人口問題である。個人の行為に任せておく場合,適正な人口規模を達成することは不可能であり,国家が明確な政策をもって実行に移すことが不可欠である,とケインズは考えている。人口を適正規模に抑制することは,(戦争の回避と並び)人類の経済問題が百年以内に解決されるためには不可欠のことがらである,とされる。

3.  持続する市場社会観 ― 『一般理論』からの確証
 これまで主として,1920年代中葉にケインズが発表した諸論稿を通じて彼の市場社会観を検討してきた。だが,ケインズはこの市場社会観を以降も一貫してもち続けている。このことを『一般理論』で確認しておくことにしよう。
  『一般理論』にみられる市場社会観は,一言でいうならば,市場社会が「不完全雇用均衡」に陥りやすい内在的傾向を有しているというものである。このもつ意味は,次の2つの認識から把握する必要がある。第1の認識は,市場社会は非常に不安定な変動をこうむりやすく,また低位での均衡に陥りやすいというものである。ケインズは,この現象をもたらす代表的な要因として,それぞれ次のものをあげている。

  資本の限界効率の異常な変動  投資は,本来ならば長期的な視野に立ってなされるべきものである。ところが,所有と経営の分離が進行した結果として,株式市場において日々の利鞘を追い求める投機筋の動きが資本の限界効率を牛耳ってしまっている。このため資本の限界効率は異常に激しい変動を繰り返すことになり,投資量は少ないか,もしくは変動が激しい。『一般理論』第12章はこれを主題としている。

  ある水準以下に下落しないという(貨幣) 利子率の存在 生産が増大していくとき,諸資産のなかで貨幣の「自己利子率」は最も下落しにくい。これは貨幣のもつ「流動性プレミアム」(liquidity premium)のため,人々が貨幣を選好してしまうからである。そのため,諸財の生産はある段階(すなわち不完全雇用の段階)で停止せざるをえない( 『一般理論』第17章を参照) 。こうした思考は,「持越費用」(carrying cost)を増大させるための方策として「日付入り貨幣」構想にたいするケインズの賛意( 『一般理論』p.234)や利子生活者の「安楽死」を希望する発想(『一般理論』p.376)と密接につながっている。さらにそれは,人々の「貨幣愛」にたいするケインズの既述の倫理的批判を理論的分析のサイドから補強するものとなっている。「貨幣愛」が利子率の低下をさまたげ,そして完全雇用の達成をさまたげているからである。
  第2の認識は,市場社会は極端にまで落ち込むことはないというものである。すなわち,市場社会では,完全雇用よりはずっと低位であるが,かといって生活の危機を招くような雇用水準よりはずっと上の,中間の状況で変動を繰り返すというのである(『一般理論』p.254)。それは,次のような安定化要因(一種のビルトイン・スタビライザー) があるからである () 乗数は1よりは大きいが,非常に大きいということはない(この性質は限界消費性向に由来する), () 資本の限界効率表の形状は極端には弾力的ではない, () 貨幣賃金の変化のもつ特性, () 資本の限界効率への投資の反作用 (『一般理論』pp.250-251)
  市場社会観をめぐるケインズのもう1つの特徴は,こうした市場社会の不安定性は,政策により克服することができるという強い信念である。「投資の国家管理」とか「貨幣政策」の重要性はこの見地から強調されるのである( 『一般理論』p.164)。ケインズの経済理論の大きな特徴,それは『貨幣改革論』(1923)以来,一方で不安定な市場社会を不安定なものとして理論的に分析するとともに,他方でその不安定さを除去する政策手段の提唱がなされているという点である。この点はシュンペーターやハイエクとは著しい対照をみせている。

  以上,ケインズの市場社会観をみてきたが,ケインズはそれをニュー・リベラリズムと表現している。ニュー・リベラリズムは,自由主義とも,また社会主義とも異なる。それはいかなる困難を伴うにせよ,両者の中道を目指そうとするものであった。この立場は,第2次大戦後の長きにわたりヨーロッパを支配してきたものであり,今日でも依然としてそうなのである。現在の世界を席巻する「市場社会化現象」を客観的に評価しようとするさいに,この視点は看過すべきではないであろう。なぜなら,政治家の掛け声や新保守主義者の社会哲学とは裏腹に,現在進行している現象は,畢竟「中道」のポジションをどのあたりに定めるべきかという問題にほかならないからである。

. むすび

 第7章から第10(本章)にかけて, 戦間期ケンブリッジの指導的な経済学者が市場社会をどのようにみていたのか, そしてそれにたいしてどのような変革が必要であると考えていたのか, を検討してきた。そこで得られた結果を, ここでまとめておくのが有益であろう。
 彼らに共通しているのは, (ヒュームやハイエクとは異なり) 資本主義社会システムのもつポジティブな側面を理論的・社会哲学的に正当化することに,ではなくそのもつ悪弊に注目し,いかにしてそれを除くことができるのかに力点がおかれているという点である。いずれも自由放任主義は市場社会の状況改善に役立つものではないとの認識を共有している。そして所得分配の不平等や失業を,市場社会システムが招来している悪弊であると認識し, その是正を目指している点で, さらに個人の不完全性を意識している点も共通している。
 ピグーはシュムペーターの二元論,ワルラスの一般均衡理論的な思考法,そしてランゲ的な思考法を用いて資本主義と社会主義を比較・論評している点が ― とりわけピグーがケンブリッジ学派の正統的ドンであるがゆえに ― 興味深い。ピグーの基本的なスタンスは,資本主義の現在の機構を当分のあいだ受け入れるが,それは漸進的に 相続税・所得税の累進化による財産・機会の不平等の是正,重要産業の国有化,国家による投資計画の推進なとを通じて ― 変更していかなければならない。そしてピグーは,資本主義と社会主義を 富および所得分配の平等化,生産資源の配分,失業,利潤と技術的効率性,インセンティブ等ごとに 比較・評価を試み,そのうえで総合的にみて社会主義に優位性がある,と結論づけている。
 これにたいし,ロバートソンは,資本主義システムを「産業のコントロール」,すなわち,資本主義経済における最も重要な単位組織である企業が産業 ここでは資本主義経済とほぼ同義 内においてどれほどのコントロール力をもつことができるのか,そしてそのコントロールはリスクといかなる関連を有しているのか,という視点からみている。「非-調整」のシステムである市場社会という大海のなかにあって,企業規模が巨大化し,さらにはカルテル,トラスト,企業合同といった手法で「バター・ミルク桶のなかで凝固しているバターの塊」が大きくなってきているが,しかしそれは依然として大海のなかでは小さなものである。ロバートソンの基本的なスタンスは,市場システムを維持しつつも,民間企業の是正のみならず,様々なかたちでの集産主義や協同組合等の充実を通じ,「差別の先鋭化」 命令を下す人と下された命令を遂行する人への社会的分化という現象 ならびに「リスクとコントロールの現状」 産業のコントロールのいかなるシェアも所有することはないが,重要な種類のリスクを負う多数の人々である労働者 の是正を目指すことの価値を唱えるものである。ロバートソンが自らのスタンスを「自由主義的干渉主義」と呼んでいる所以である。
 ホートリーは,ホートリー的意味における倫理的価値(=厚生),根底基準におき,その見地から,個人主義システムの欠陥を批判する,というスタンスに立っている。彼は,人間のもつ鑑識力の弱さにより,財市場で決定される市場価値は倫理的価値との乖離を引き起こしているという認識,そして労働市場は「故障」しているという認識(賃金決定の困難性)を表明することで,個人主義システムのもつ根本的な欠陥を指摘する。これが個人主義システムの,いわば「静態」的側面の欠陥であるとすれば,次に「動態」的側面の欠陥の指摘が続く。個人主義システムが利潤獲得を動機として企業活動が行われ,それにより資本の蓄積,そして所得分配の過度の不平等を招来している点の指摘がそれである。
  それらの根本は,結局のところ利潤にあり,それを廃絶することが,厚生の達成という真の目的にとって必須となってくる。こうして利潤に基礎をおかない,したがって偽りの目的である金儲け(金権主義)を廃絶し,真の目的である厚生の達成を,国家を中心にしたシステムによって目指す道,すなわち,コレクティヴィズムへの道が志向されることになる。
  ケインズは市場社会を,似而非道徳律と経済的効率性のジレンマに陥っている社会とみていた。そしてそのなかに中間組織の増大してくる状況を歓迎し、そして政府の政策により、市場社会のもつ悪弊を除去することの重要性を強調した。
 もし,上記4名を政治的スタンスからスペクトラム上に並べてみると,次のようになるであろう。明確に社会主義にたいし,軍配を上げているのは,ピグーであり その意味で最左翼といえよう ,その論拠に社会主義経済計算論争におけるランゲ的見解をおいているのは,彼がケンブリッジ学派の正統派のドンであるだけに,興味深い。最も鋭い批判を市場社会に向けているのはホートリーであり,ホートリー独自の倫理的価値(=厚生),根底基準におかれている。ホートリーはある意味で,ピグーより左であり,ある意味でピグーより右に位置する。ケインズとロバートソンは同じような所に位置するといえる。市場社会のもつ深刻な欠陥を認識し,それにたいし政府が積極的に関与することの重要性を強調する立場であるが,そのことは共産主義への移行を是認するものではない。あくまでも「社会正義および社会的安定のために,経済的諸力をコントロールし指導することを意識的に目的」とするものである。
 このようにして,今日完全に忘れられてしまっているケンブリッジ学派の社会哲学の実際の姿が明らかになり,そして第7章の冒頭で述べた「今日の新古典派のイメージから,ほとんどの人々は,彼らが市場社会を肯定的に評価するスタンスをとっている,と推定することであろう。だが,これほど誤った見解はないのである」の意味も明らかになったものと思われる。
 以上にみたように,戦間期ケンブリッジを代表する経済学者は,市場社会にたいし,そのもつ欠陥 金儲け動機, 所得分配の不平等, 繰り返される失業等々 を深刻に受け止め, いかにすればそれが是正されるのかに意を用いた。そして自由放任主義哲学は批判の対象とされ,政府が果たすべき役割が強調された。このことが展開される論法,ならびにコレクティヴィズムへの移行をめぐるスタンスは四者四様であるが,以上の点は彼らに共有されていた認識である。もちろん、このことは彼らが生活し、探究した資本主義経済の状況と無縁ではない。戦間期の世界経済はきわめて混乱した状況にあり、資本主義システムは自信喪失状態に陥る一方,ナチズム・ファッシズム,それにソヴィエトが逆に活気を帯びるものであった。
 第7章から第10章で明らかにしたことは,現在の経済学を評価する際にも,重要な示唆を与えてくれるものであることを最後に強調しておきたい。この20年,新古典派は,合理的期待形成やリアル・ビジネス・サイクル理論に代表されるように,経済主体の合理性の強調,市場における均衡メカニズムへの信頼という点で,際立ってイデオロギー色を打ち出す人々によって彩られてきた。彼らは,これらの前提によって理論が探究されるだけではなく,それによって現実の経済を科学的に説明できる,というスタンスをとっている。そしてこれは,彼らの市場社会観にもなっているわけである。そしてわれわれは,この傾向の背景に, 正に戦間期とは逆の方向へのこの20年間の世界経済の激変 社会主義体制の崩壊, 旧社会主義社会での市場社会化の進展, サッチャリズム, 新自由主義哲学の再興 があることを知っている。
 最近にみられるこの傾向と,戦間期のケンブリッジの状況とを比較してみるとき,市場社会観のあまりの違いに直ちに気がつくであろう。簡単にいえば,前者ははるかにスペクトラム上において右の方に位置している。
そればかりではない。経済理論の立て方にも,大きな,そして明確な相違が認められるのである。
 以上の点は,戦間期ケンブリッジ学派の社会哲学が完全に忘れられてしまっているがゆえに,まず事実認識として重要である。そして,現在の新古典派の状況を,少し離れた視点から批判的に検討するうえで重要な示唆を与えてくれるがゆえに,なお重要である。


 ) 戦後イギリスを支配した社会哲学はケインズとベヴァリッジに帰せられる。Cutler,T.=Williams,K.= Williams, J. (1986)を参照。
  ) ムーアの倫理学は第二次大戦に至るまで20世紀の倫理学を支配していた。塩野谷(1984)40ページを参照。なおムーア倫理学をめぐるケインズの受け止め方については平井(1987)を参照。
  ) この点については平井(1993)を参照。
  ) 一例としてKeynes(1980)に収録の,ケインズが中心となった「国際緩衝在庫計画案」(1941-1943)をあげておこう。
  ) これは,例えばCommons(1934)pp.773-788 に展開されている。
 6) この点でケインズが唯一批判するのが株式市場の進展である。
  ) 制度学派は,社会の進展を慣習的・保守的な「制度」と進歩的・破壊的な「技術と科学」のあいだの相剋過程として理解する。そしてその視点から古典派・新古典派の経済学が功利主義的・個人主義的哲学に依拠する静学的なものであることを激しく批判する。1930年代のアメリカでは制度学派は非常な勢いを有するものであったが,このことは「ケインズ革命」をアメリカが受容するさいの1つの重要な要因であった。