2011年6月7日火曜日

みどころと問題提起 『ケインズ・シュムペーター・ハイエク―― 市場社会像を求めて』




『ケインズ・シュムペーター・ハイエク―― 市場社会像を求めて』
(ミネルヴァ書房)

みどころと問題提起

 拙著で論じたこと、もしくは論じたかったことを、まとめてみようと思い、以下のものを作成してみました。すでに読まれた方、まだ手にされていない方、の両者を念頭において書いています。
 「ここの点はおかしい。私はこう考える」とか、「ここの説明は間違っている。本当はこうだ」とか、「ここのところは面白かった(あるいは、つまらなかった)」とか、いろいろお感じになるところがあるかと思います。いかなる点でもけっこうです。議論を通じて認識を深める場にしていきたい、と願っています。

                             ふくろうの友
                              20009月5日


本書は、20世紀前半の主導的な経済学者であるケインズを、時代状況、家庭環境、思想・文化環境、経済理論の構築、経済政策活動、市場社会観等の側面から検討することにより、立体的なケインズ像を提示すること、ならびにそれらを通じて同期間のイギリス経済社会の状況の一端を探ること、を主たる目的としている。あわせて、ケインズに負けず劣らず大きな経済理論的・思想的影響を及ぼしてきた、そして様々に比較されることの多い2人の経済学者シュムペーターとハイエクの市場社会観を示すことで(いずれもイギリス経済社会をその市場社会観展開の主たるモデルとしている)、経済学にとっての根源的な問いかけである「市場社会論」の序論を提供したいと考えている。




第1章 パックス・ブリタニカ――その弱体化と崩壊

(1)19世紀後半から第1次大戦にかけてイギリスの国際主義である「パックス・ブリタニカ」が相対的に弱体化していく過程、ならびに戦間期におけるその崩壊(=国際主義の喪失) の過程が扱われる。
 (2)前者は、新興国家ドイツ、アメリカの目覚ましい経済発展により、それまでの国際主義である「パックス・ブリタニカ」を支えてきた諸条件が弱体化していき、ついにはドイツの覇権要求が第1次大戦を引き起こすに至るという過程である。
 (3)後者は、工業生産力と金融力に圧倒的な影響力を及ぼすに至ったアメリカと相対的な停滞化に苦しむイギリスとのデリケートな確執、すなわち世界体制を安定化させる能力をもつがその意思を欠くアメリカと「パックス・ブリタニカ」の再興を目指すももはやその能力をもたないイギリスとの確執が認められる時期である。このためヨーロッパ経済の混乱は収拾されることなく、ドイツはナチズム国家として再度イギリスとの覇権争いを引き起こすことになり、第2次大戦を招来するに至った。
 (4)「覇権」がどのように推移していくのかは、世界システムを把握するうえで、きわめて重要だと思う。「平和」も「戦争」もこの「覇権」の均衡が保たれるか、破られるかにかかっている。そしてその際、「経済力」は覇権のきわめて重要なファクターである。




第2章 ケインズ (1)―― 誕生からヴェルサイユ弾劾まで

(1)生誕からヴェルサイユ講和会議への不満から大蔵省代表の座を辞す1919年までを、2つの資料を中心に描く。1つは父ネヴィルの日記であり、ここから1895年(ケインズ12歳)、1906年(ケインズ23歳。インド省への入省の頃)、および1908年(ケインズ25歳。フェロー試験の頃) を取り上げる。他の1つはケインズが画家ダンカン・グラントに宛てて出した書簡であり、これを用いて1908年から1919年(ケインズ36歳)頃までのケインズの青壮年期の生き様をみる。
 (2)資料に語らせることで、ケインズ の家庭環境、交友環境、性格等が、鮮明に浮かび上がらせようとした――親と子、文官試験、フェロー試験、教授選挙、同性愛、戦争、ヴェルサイユ講和会議。




第3章 ケインズ(2) -新たな経済学の創設と政策構想

ここでは、多様な活動を誇ったケインズのなかでも、最も不朽の価値をもつ側面に焦点が当てられる。とりわけ『貨幣論』の執筆から『一般理論』の完成に至るケインズの理論的変遷過程-これは経済学史上における最も重要なドラマの1つである-の検討、ならびに1940年代の政策立案家としての活動-これは経済学者による経済政策立案の最もドラマチックな活動である(続く2章で戦後体制の構築をめぐる具体的な事例を取り上げる)-が扱われる。
 (1)1920年代から1930年代中葉に至る経済学者・政策立案者としてのケインズ の活動の大局的位置づけ(どの程度異端的であったのか)――(i)「自由放任主義」的な社会哲学は完全に時代遅れであった。(ii)「ケンブリッジ学派」自体、「思慮分別のある国家干渉」の必要性と「無制限な経済的自由」がもたらす弊害を認識するものであった。(iii)マーシャル的伝統の「ケンブリッジ学派」内での自壊作用。(iv)こうした環境下にあって、ケインズ はマーシャル的伝統にたいして批判的な貨幣的経済学の樹立を目指した。(v)経済政策面でのケインズ は「カサンドラ」であった。さりとて彼に対抗する政策を唱道した「正統派」の経済学者が存在したというわけではない。政府はただ伝統的な政策慣習に従っていただけである。
 (2)『貨幣改革論』の刊行直後から、ケインズ は、投資、対外投資、貯蓄といったタームで失業を論じるようになり、利子率はそのなかで中心的な位置づけを与えらるようになる。そして公共投資政策やそれに伴う財政の問題が論じられるようになり、『貨幣改革論』の「基本方程式」や「購買力平価説」は姿を消している。したがって『貨幣改革論』と『貨幣論』との差は、『貨幣論』と『一般理論』の差よりも際だっている。
 (3)「ヴィクセル・コネクション」――それは「貨幣数量説、セイ法則、古典派の2分法」を否定し、「自然利子率と貨幣利子率の乖離、もしくは投資と貯蓄の乖離を軸にして、景気変動を説明しようとする一群の貨幣的経済理論」として定義される。
  ケンブリッジ学派にあってマーシャルとは明確に異なる流れはロバートソンによって打ち出された。そしてロバートソンの理論に大きな影響を受けて成立したのがケインズの『貨幣論』である。ケインズは同書で、ロバートソンのおかげで投資・貯蓄の識別という正しい方向に向かうことができたと明言しつつ、そこで展開されている自らの理論をヴィクセルの流れに位置づけるのである。
 (4)『貨幣論』の理論構造における顕著な特徴は、ヴィクセルの流れに属する理論とケインズ固有の理論の双方がみられ、しかもそれらは(融合というよりも)併存しているという点にある。
 (5)『貨幣論』がヴィクセルの流れに属しているというのは、貨幣数量説にたいする批判(マーシャルの現金残高数量説および投機家の行動を重視した信用循環理論にたいする批判)のうえに、ヴィクセル的な論点を重視しつつ、自らの貨幣的経済理論が展開されているからである。
 (6)「ケインズ固有の理論」は、以下に説明する(メカニズム1)と(メカニズム2)の「TM供給関数」を通じた動学過程として表現できる。まずある期間における消費財および投資財の価格水準が決定される。
(メカニズム1)
  「任意の期」における消費財の価格水準の決定。当期の初めに決定さ
れている生産費および供給量のもとで、消費財への支出額が稼得から決定されると、それは消費財の売上げ額として実現され、そのとき価格と利潤は同時に決定される。これは周知の「第1基本方程式」と事実上同じである。
(メカニズム2)
「任意の期」における投資財の価格水準の決定。当期の初めに生産費および供給量は決定されている。投資財の価格は株式証券市場で(いわゆる「弱気関数の理論」)、または資本財があげると予想される収益を利子率で割り引くことによって決定される。そのとき利潤も決定される。
 (メカニズム1)により消費財の価格水準と利潤が、(メカニズム2)により投資財の価格水準と利潤が、それぞれ決定される。両部門の実現利潤(損失) に刺激されて、企業は来期の生産を拡張(縮小)するように行動する(便宜上これを「TM供給関数」と呼ぶことにする) 。来期にはこのようにして決定された生産量を所与として、ふたたび(メカニズム1)と(メカニズム2)が作動する。
 『貨幣論』で展開されている以上の理論には、3種類の「2重性」が認められる。まず消費財価格決定理論の「2重性」(消費額を決定する理論として、ときにはa稼得を、ときにはb利子率を採用)、投資財価格決定理論の「2重性」( ときにはc弱気関数の理論を、ときにはd予想収益を利子率で割り引くという考え方を採用) が根底にある。この2種類の2重性のうえに、ヴィクセルの流れに属する理論と「ケインズ固有の理論」の併存という「2重性」が横たわっている。つまり、前者としてはbとdを用い(主としてバンク・レートによる経済政策論の展開に使用)、後者としてはaとcを用いている。
 (7)『一般理論』――『一般理論』の最大の特質は、「不完全雇用均衡の貨幣的経済学」として特徴づけることができる。
 ここでいう「貨幣的経済学」は次のような含意をもつ―①「古典派経済学の二分法」(通常の意味での「古典派の二分法」と古典派の利子理論批判の双方を含む)批判のうえに成立、②「ヴィクセル・コネクション」の否定のうえに成立、③貨幣が本質的な役割を演じる経済の分析(具体的には、流動性選好説の提示、ならびに「自己利子率」概念を用いての貨幣のも
つ意味の探究)。また「不完全雇用均衡」は次のような含意をもつ (1)それは完全雇用以下の状態、(2) それは一種の「均衡」、(3) それはある意味で「安定」、(4) それはある範囲内で変動。ケインズはこの「不完全雇用均衡の貨幣的経済学」を因果分析に基礎をおく同時方程式体系として具体的に提示した。注意すべきは、『一般理論』に示されている市場社会像は、そ
れが2つの対照的な局面― 一方に安定性、確実性、単純性、他方に不安定
性、不確実性、複雑性 を具有するシステムであるという点である。いずれかを欠如させる『一般理論』理解は片手落ちである。
 『一般理論』が提示した最も重要な理論は、雇用量決定モデルである。それは次の「独立変数」によって構成されている。(1) 「賃金単位」、(2) 貨幣量、(3) 3つの心理的要因(消費性向、流動性選好、資本の限界効率表)。ケインズはこれらを基にして、「総需要関数」を「導出」し、他方、「古典派の第1公準」に依拠した「総供給関数」とのあいだで雇用量が決定され
ると論じた。ここで3つの注意をしておきたい― (a)「貨幣賃金」が「粘着的」( もしくは「硬直的」) であることが経済の安定につながると考えられている、 (b)「物価指数」概念や「全体としての産出量」概念が明確に否定されている、(c) 諸価格は伸縮的であると考えられている(「諸価格は賃金単位と雇用量に依存する」)。以上のような認識に基づき、筆者は、『一般理論』の理論を、「異質性- 期待アプローチ」と呼んでいる。そこでは、ケインズの理論が多数財モデルと期待を重視した理論であるとの判断から、ミクロ構造とマクロ構造の重層的調整メカニズムを扱ったものとして再構成できる、ととらえられている。この視点は『一般理論』が実際にとった理論構成を明らかにするうえで重要である。 (8)『一般理論』の世界への「転換点」-『一般理論』の世界への「転換点
」は1932年末の草稿「貨幣経済のパラメーター」(JMK.13, pp.397-405) に求めることができる。ここにおいて「TM供給関数」は財市場の分析から実質的に姿を消しており、その帰結として『貨幣論』とは著しく異なる理論モデルが提示されている。「TM供給関数」の消失は小さな転換ではなく質的な転換である。そのことにより価格や生産量の決定に利潤は関与しなくなり、モデルは投資・貯蓄の均衡を前提にした同時決定の体系になっているからである。
 (9)模索-1933年に執筆された3つの草稿から判断すると、この時期ケイン
ズは、『一般理論』の第3章「有効需要の原理」の源流に到達しており、雇用量の決定に関して、その均衡および安定条件を論じている。だがケインズの立論には多くのあいまいな点がみられ、その意味でケインズは「模索」状況にあった、といえる。第1草稿「雇用の貨幣理論」(JMK.29, pp.62-66)では有効需要の原理に通じる最初の方程式体系が展開され、第3草稿「雇用の一般理論」(JMK.29, pp.76-101, JMK.13, pp. 421-422)では「有効需要」の概念を中心に議論が展開されている。3つの草稿を検討するさいの核心的問題は、ケインズが「会計期間」という期間概念を用いつついわゆる「古典派の第1公準」を承認するとともに、「準TM供給関数マーク2」(利潤の関数として雇用量を示すものであり、均衡雇用量の、決定ではなくその安定条件を扱っている。これをこう呼ぶことにする)をも継承している第2草稿「雇用の一般理論」(JMK.29, p. 63, pp. 66-73, pp. 87-92, pp. 95-102) をいかに整合的に説明できるかにあるであろう。
 (10)変遷過程のなかで、とくに重要なのは雇用量の決定理論である。ケインズが分析の中心を雇用量の決定におくようになるのは、1933年の第1草稿からである。それより以前では価格が重視され、数量の決定は「TM供給関数」によって担われていたのである。『貨幣論』は過渡期の分析に重点をおいており、その動学性を担っているのが「TM供給関数」であった。他方『一般理論』は雇用量の決定に重点をおいていた。だからこそ1933年の第1草稿における雇用量決定の方程式がもつ意義は重要なのである。
 (11)比較
 『貨幣論』と『一般理論』との比較を、後者を基準として貨幣市場と財市場に分けて行なうことにしよう。
 貨幣市場については、「弱気関数の理論」は「流動性選好」の登場により消失するが、資産選択という基本的な発想は『一般理論』に継承されており、断絶がないわけではないが概して連続的である。両書に展開されている理論は、貨幣のもつ役割を重視する貨幣的経済理論である。『一般理論』においても、利子率のもつ調整機能は重要である。ある利子率のもとで、投資の変化は所得の変化を通じて同額の貯蓄の変化をもたらし、そのことによって国民所得が創出される。さらに利子率は、均衡国民所得に至る調整過程でふたたび重要な役割を演じる。
 財市場については、両書のあいだに理論上の連続性はみられない。ケインズは雇用量の決定メカニズムを提示した最初の経済学者であり、これが「ケインズ革命」の実体である。本書の立場は、『貨幣論』は流動性選好の本質を含んでいるが「有効需要の理論」を含んでいないという認識においては、パティンキン(1976)と同じ立場である。『貨幣論』は過渡期の分析に重点をおいており、その動学性を担っているのが「TM供給関数」であった。他方『一般理論』は雇用量の決定に重点をおいていた。だからこそ1933年の第1草稿における雇用量決定の方程式(上記で「有効需要の原理に通じる最初の方程式体系」と呼んだもの)がもつ意義は重要なのである。
 (12)「ケインズ革命」
 ケインズ革命を理論史的観点から語るさいには、2つの設問に答える必要がある。1つは『貨幣論』を当時の経済理論の潮流のなかでどのように位置づけるかであり、もう1つは『貨幣論』と『一般理論』の関係をどのようにとらえるかである。

 第1の問題について-何よりも『貨幣論』は、新古典派体系批判に基
づいた貨幣的経済理論の構築を目指したものであり、その理論構成も半分はヴィクセル的流れに属するものであった。ただし弱気関数の理論に関するかぎり、それはマーシャル的貨幣理論の精緻化としてとらえることができる。

 第2の問題について-『一般理論』では、新古典派体系にたいする批
判は、『貨幣論』とは異なり、明示化されており、新しい貨幣的経済理論の構築が目指されている。そのかぎりでは『一般理論』もヴィクセル的流れの延長線上にあるといえよう。だがここでより重要なことは、『一般理論』においてはじめて雇用量決定の具体的な理論が提示されている、という点である。そしてそれが確立された時期が、すでにみたように、1932年の末から1933年の初めにかけての頃であった。ケインズ革命は、財市場の分析に独自性がみられ、それに『貨幣論』以来の貨幣市場の分析が調整されることにより、財市場と貨幣市場の相互関係で雇用量が決定されること( しかもそれは不完全雇用均衡に陥りやすいこと) を提示した貨幣的経済理論の誕生としてみることができる。
 (13) 雇用政策―ケインズは『一般理論』で不完全雇用均衡の論証を行なったのであるが、激務の連続ということもあって、その後、雇用問題についてどのような見解を表明していたのかについては、(『戦費調達論』(1940 ) をのぞけば)あまり知られていない。一般的にいって、この箇所ではケインズの実務家、現実主義的な政策立案家(いわば政治算術家) としての色彩が濃厚に出ている。しかもケインズは楽観主義的立場に立っており、かりに経済が悪くなりそうに思われる場合でも、政策によってそれを是正することができるという確たる信念を有しており、悲観的・消極的な論者(たとえばヘンダーソン)と激しく対立している。こうした批判は、ストーンと共同で行なった戦後の国民所得の推計作業に依拠している。そしてそれは、戦時中にイギリス産業の効率性はアメリカからの技術導入等により格段の発展をみせており、その成果が戦後の経済にも適用・拡大される、という強固な見通しのうえに立っている(さらにアメリカの高い賃金率を考慮すると、イギリスの産業の国際競争力には明るいものがある、とケインズはみている)。
 1940年代におけるイギリスの雇用政策にたいしてケインズが及ぼした理論・政策両面での影響力は圧倒的であった。それは、ケインズの影響を受けて育った若手の研究者であるミードやストーン、それに戦間期の市場経済のみじめなパフォーマンスにたいする懐疑から国家による積極的な政策を模索していたロビンズやベヴァリッジの精力的な活動を通じて、そしてそれを熱心に支持するケインズ自らの活動を通じて、波及していった。総需要分析、国民所得会計を用いての予測分析等が、1941年から政府の予算政策に取り入れられるようになったのは、その最初の成果であった。こうしたケインズ的政策思考の浸透にたいして最も頑強に抵抗したのは大蔵省の官僚である。この期間に大蔵省の指導的官僚がケインズ的政策思考にその考えを改めたという証拠はまったくといってよいほどみられない。だが、1944年の『雇用政策白書』は明白なるケインズ的政策思考の勝利である。このことは大蔵省(ウッド、ホプキンズ、イーディ、そしてヘンダーソン) の反対にもかかわらず、経済部(ミード、ロビンズ[部長] 、ストーン、チェスター) はもちろんのこと、商務省をはじめとする他の省庁の閣僚・官僚達(商務省のドールトン、ゲイツキル、内務省のモリソン)、それにベヴァリッジが熱烈にミード案を支援するという状況があればこそ、実現しえたことである。興味深いことに、そしてパラドキシカルなことに、失業の分析を主題として展開された『一般理論』は、インフレ期における総需要分析のかたちをとりながら、1940年代に雇用政策の基本的な原理として浸透していったのである。これは経済政策における「ケインズ革命」と呼ぶにしくはない。
 (14)「社会保障計画」( ベヴァリッジ案) に話題を移そう。この点をめぐる議論は、戦後の「雇用政策」をめぐる議論と同時平行的に、しかも密接な関連をもちつつ行われた。経済部の依拠する経済理論・経済政策の産みの親であり、かつ熱心な支援者であったケインズは、ミードとともにベヴァリッジ案の財政的側面の立案・改正を中心として重要な貢献をなしている。
 (15)雇用政策や社会保障計画の領域にあっては、経済部(その立案の中心はミードであり、これを部長であるロビンズが支えていた) とその理論的・政策的指導者ケインズ、ならびにベヴァリッジ対大蔵省官僚の対立・抗争という構図での展開がみられたのであるが、いずれにあっても最終的には前者の勝利で終わっている。こうして戦後のイギリスではケインズ= ベヴァリッジの社会哲学が支配的となるに至ったのである。


DIVIV.
第4章 国際主義とナショナリズムの相剋――救済問題
DVV.
 (1)救済問題を処理するケインズのアプローチには、国際主義とナショナリズムが複雑に絡み合っている。
 (2)ケインズの理想はかつての「パックス・ブリタニカ」に替わる新たな「イギリス・ブランド」の国際主義(それは国際的な組織の設立による秩序維持であり、その中心にもちろんイギリスが位置する)であった。もし「イギリスを覇権国とする世界システム」が再建可能ならば、「ナショナリズム」の影は薄いものになる。国際主義に「ナショナリズム」は埋没するからである。
 (3)しかし、実際はアメリカの経済力を抜きにしては何事も解決することのできない時期であった。だから、ケインズは「アメリカ=イギリス・ブランドの国際主義」を目指した。
 (4)だが、それもかなわぬ局面では、「イギリス」を前面にすえた「ナショナリズム」が顔を出す。そのとき、イギリスのナショナリズムは、他の諸国のナショナリズムに似た様相(自国権益の利己的追求)を呈したものになる。




第5章 価格の安定化をめざして―― 一次産品の国際規制案

(1)市場による需給法則に任せておけば、最適な資源配分が達成されるという考えをケインズはとらない。それは現実を無視した想定に立つものであり、実際の市場社会を安定化させるには政府(もしくは何らかの機関) による介入・調整が必要である、と考えるからである。
 (2)「商品の緩衝在庫案」の基本的な発想も、上記に沿うものである。競争的市場システムは緩衝在庫を嫌うため価格の激しい変動を引き起こしており、それを防止する(ならびに生産者の所得を安定化させる)ためには「国際緩衝在庫案」が必要である、との認識に立っている。
 (3)この計画の基本理念は、適切な国際的政策とは、一方で短期の価格変動を安定化させ、他方で長期の「経済的価格」(これは独占とか、生産制限といった手段による人為的な高価格の回避を意味する)を実現させるという点にある。しかし、緩衝在庫計画だけでは、事態が悪化するような場合があるかもしれない。そのような場合には、制限計画が緩衝在庫計画を補完する(あくまでも)一時的な救済手段として用いられるべきである――制限計画は自由な国際競争のもつ利点を喪失させてしまうからである(以上、第5次草案)――だが、以降、緩衝在庫案は諸権益の衝突のなかで、理念的な後退を重ねていく。。
(4)第7次草案が第5次草案と大きく異なっているのは、第5次草案では「価格の安定化」(= 「安定化」)が絶対的な目標とされ、「産出量の規制」(=「制限」)は可能なかぎり避けるべきと言明されていたのにたいし、第7次草案では「産出量の規制」が「価格の安定化」と並ぶかのように位置づけられている点である。
(5)第8次草案では、「価格の安定化」という目標が相対的に後退している感がある。第7次草案では「ウォーレス副大統領の「常平倉」の国際版」という独立した節があり、緩衝在庫計画は前面に押し出されていた(それでも第5次草案に比べるとその位置づけは後退していた)のにたいし、第8次草案では、そうした点の強調を読み取ることは難しい。しかも「割当規制」について、第7次草案では「一時的である」という点が明記されていたが、第8次草案ではそうした指摘も消えている。さらにすでにみたように、緩衝在庫および割当規制以外にも、さまざまな規制が対象にされているのである。





第6章 ブルームズベリー・グループ――知・美・愛の狩人

 何よりもまず、20世紀前半のイギリスの代表的な文化人グループとは、どのようなものであったのかを、メンバーの業績と生き様、グループの交流の実態をご覧ください。
 錯綜した愛情関係はメンバー間に複雑な感情のうねりをいくたびももたらした。にもかかわらず「ブルームズベリー・グループ」のメンバーは絶交とか永遠の訣別に至ることはなかった。愛情が去っても友情は残り、彼らの交際・交遊は終生絶えることなく続いた。何よりもそれは、彼らが価値観・生活観において多くのことを共有していたからであろう。

基本的特徴
 (1)彼らは新しい文化の創造者である。彼らは文学、絵画、経済学、政治学等の領域で画期をもたらした。文化的創造は偶像破壊を伴う。彼らは無神論者であり、ムーアの「宗教」を共有する反功利主義者であり、男女の差別に反対し、後期印象派の芸術的価値を公衆に知らしめた。彼らの知的根源には、「ジェントルマンシップ」精神があった。彼らはそれを「ソサエティ」的な真・善・美の徹底した探究精神で武装することで、自らが育てられてきた「ヴィクトリア的価値観」に反旗を翻した。そして後期印象派の芸術的価値観を取り込むことで、その文化的創造のエネルギーを倍加させることに成功したのである。彼らには「知的な貴族」という雰囲気がただよっていた。 
 (2)彼らは根底においては自由主義者であり、個人主義者である。それは人間関係と美の評価を重視する思想に基づいている。しかし、それは社会哲学として野「自由放任主義」を容認するものではない。彼は基本的に「ニュー・リベラリズム」の信奉者であり、政治的にはアスキス的でありロイド・ジョージ的であった。つまり「自由帝国主義」的であったといえよう。彼らは自由党支持者であり、反保守党の立場に立っていた。

彼らがなじまなかった価値観
(3)彼らは「ブルジョア的な価値観」を有していないし、評価していない。ここで「ブルジョア的な価値観」というのは、家長たる夫の権威のもと、妻は家庭の管理に尽くし多くの子供を設け、共に家庭を第一義とすること、そしてプロテスタント的な禁欲でもって勤労に従事することを尊ぶというような意味である。このような価値観は「ヴィクトリア女王」一家の出現によって、大きな具体性を付与された。ブルームズベリー・グループのメンバーが育った時代環境には、こうした「家族」重視、そしてそこから来る個人への抑圧、とりわけ婦女子課せられた厳しい束縛が付きまとっていた。彼らは、そうした抑圧から自らを開放しようと行動したのである。グループの大半は事実、通常の意味での「家庭」の構築・維持に何ら意義をみいださなかったのである。「ヴィクトリア的道徳」、「ヴィクトリア的偽善」にたいし、彼らは日常生活を通じて批判的な実践を展開した。
 (4)彼らは「企業者的な価値観」を有していない。むしろケンブリッジ出身のメンバーは19世紀後半のイギリスの時代精神である「ジェントルマンシップ」教育の享受者であり、イギリス社会の知的エリートである。彼らの望む生活-それはロンドンを拠点としつつ、カントリーにも別荘を構え、知的・文化的討論をこよなく愛するというものであった。そして、それを実現するために必要な資産の確保には敏感であったが。それは文筆活動を通じて、あるいは投資活動を通じて(その中心にはケインズがいた) 実現していったのである。彼らにとって企業者的な営利追求行為は、「人間的交遊の享受および美的対象物についての享受」という至高の目標に比べると色あせたものであった。むしろ彼らは知的な「貴族」であったし、事実、彼らの名声が上がるにつれて、本物の「貴族階層」との交流も活発化したのである。
 (5)彼らは「労働者的な価値観」を有していない。20世紀初頭以降、イギリスにあっては労働者階級の社会的・政治的地位は著しい向上をみせていたが、ブルームズベリー・グループの人々の価値観は労働者階級のそれとは著しく異なるものであった。労働者階級の価値観は上記の「ブルジョア的な価値観」を継承しており、サミュエル・スマイルズ的なものであったからである。そして「集産主義的な動き」が強まるなかでも、グループとしてはとくにそれに与するということはなく、自らの個人的なグループ内部での交遊に意を注いだのである。




第7章 回顧的反省――「若き日の信条」考

 ケインズ 自らの手になる非常に凝縮されたかたちの思想的回顧録(1938年)―ケインズ の根源的思想の変遷を知るためのきわめて貴重なエッセイ―の内容を説明することが目的である。

 (1)1903年(20歳)の頃――ケインズ 達は「熱烈な観照と交わり」(ムーアの「宗教」)を最高に重視しており、しかも人性の合理性に深い確信を抱いていた。他方彼らは、ベンサム主義や一般的ルールに従うというムーアの「道徳」を拒絶した。
 (2)1914年(31歳)の頃――人性の合理性にたいする信仰がゆらいでいく。
 (3)1938年(55歳)――人性の合理性にたいする懐疑は、ますます深くなっていく。この点についての反省こそが、「若き日の信条」において最もめだつ点であり、繰り返し強調されている点である。
 ケインズは1938年においても、ムーアの「宗教」は内面的には自分の「宗教」であり、いかなる他の「宗教」よりも真実に近いと考えている(そこで展開されている「基本的な直観」を、ケインズは1938年においても重視している)。そのうえで、ムーアの「宗教」のもつ狭隘性についても、明確に自覚しているのが、1938年のケインズである。
 この批判は、上述の「合理性への懐疑」にもつながっている。「価値ある感情」についてのすべてのカテゴリーが、ムーアの「宗教」からは欠落している、とケインズは論じ、かつての自分達は豊かな種類の経験を、美的鑑賞の領域内で解釈していた、と反省するのである。。
 ベンサム主義への嫌悪は、1938年に至ってもまったく変っていない。ケインズは「経済的基準」を最優先させる種類の思想をひどく嫌っていた。このことはムーアの「宗教」を奉じるケインズからみれば当然であろう
「若き日の信条」に示されているケインズの1938年の考えのなかで最も特徴的であるのは、現存の秩序の維持を強調している点である。人性の合理性にたいしての懐疑が深まるにつれて、「規則」や「慣習」の重要性にケインズはめざめていくのである。
 ケインズのこの「保守化」は結果からみると、ムーアの規則主義に回帰したことになる。しかし、それは『倫理学原理』の規則主義をめぐる論理にあらためて感服したために生じたものではないであろう。
 最後に、この保守化は、これまでの自分達の個人主義が極端にまでいってしまっていたという反省を伴いつつ生じている。このことも合理性にたいする懐疑と関係がある。理性にたいする懐疑が生じると、個人主義への信頼もその分揺らぎ、伝統や慣習に依存する傾向が生じてくるからである。
 (4)要約 1903年頃のケインズは、ムーアの「宗教」を受け入れていた。それは合理的で科学的なものであった。他方、ムーアの「道徳」を拒絶した。人間の合理性にたいする信頼をもった個人主義の立場に立っていたからである。やがて、ケインズは人間の感情を重視し始め、合理主義にたいして懐疑的になっていく。このことは慣習にたいする信頼の度合いをケインズが高めていくことと関係がある。合理主義の適用と個人主義のいき過ぎに歯止めをかけ、ムーアの「宗教」も狭小であると考えるようになる。このこともすべて、合理主義にたいする懐疑から発生している。一貫して変らないのはベンサム主義批判である。




第8章 ケインズ の市場社会観――似而非道徳律と経済的効率性のジレンマ


 ケインズは資本主義社会をどのようなものとみていたのであろうか。これを1920年代中葉の時点での彼の見解(『自由放任の終焉』をはじめとする一連のエッセイ)に焦点を合わせて検討している。

 (1)1920年代のケインズの市場社会観
a)資本主義社会は道徳的にはきわめて不快なものである。それは金もうけや蓄財を道徳的に重視する社会であるからである。他方、資本主義社会は、経済的効率性を達成するという点では非常に優れており、事実、この点でこれに優るシステムは現在のところ存在しない。資本主義社会はこうしたジレンマを内在するシステムなのである。
 (b)資本主義社会は、歴史的進展のなかで、公共善の達成を目的とする「半独立的な組織」の成長や巨大企業の社会化という現象を通じ、個人主義的な資本主義社会の欠陥を是正してはきた。だがそれでもなお、資本主義経済は、放任しておくだけでは経済的にうまく機能するものではない。個人的な行為が公共善をもたらす保証はないのである。
c)ケインズは、多くの場合、個人と国家のあいだの規模の組織が理想的である、と考えている。そしてそのさい、資本主義社会のいわば歴史的進展の結果として資本主義社会内部に生み出されてきた組織の進展を積極的に評価するのである。ケインズが具体的にあげているのは、「半独立的な組織」の成長と、巨大企業の社会化という現象である。資本主義の進展に伴って、「公共善」を意識的に追究する組織、ならびに株式会社そのものが巨大化するなかで社会化を遂げ、利潤追究を唯一の目的とする組織であることをやめていく。そしてそのような組織が資本主義社会の内部に多数出現することによって、従来の資本主義がもっていた非道徳性、不安定性、および無知が緩和される-ケインズは、資本主義体制の進展をこのようにとらえている。
d)「ニュー・リベラリズム」――ケインズは、われわれが突入しようとしているのは「安定化の時代」であり、しかもこの突入は歓迎すべきものであると評価している。ケインズがいう「ニュー・リベラリズム」とは、「安定化の時代」における社会哲学を指す。
 「経済的アナーキーから、社会正義および社会的安定のために経済的諸力をコントロールし指導することを意識的に目的とする体制への移行は、技術的ならびに政治的両面で、極度の困難を現出するであろう。にもかかわらず、私は、ニュー・リベラリズムの真の命運はそれらの解決策を求めることである、ということを提案したい」。
 この姿勢は、19世紀以来の自由主義とは、「社会正義および社会的安定のために経済的諸力をコントロールし指導することを意識的に目的」とする点で明確に異なるものであり、また社会主義とも、AgendaNon-Agendaを識別し、個々の理非に応じて対処していくという点で異なるものである。それは如何に困難を伴うにせよ、中道を目指そうとするものであった。
 「人類の政治問題は次の3つのことを結合させることである-経済的効率性、社会正義および個人の自由がそれである。第1の項目は、批判、予防策、および技術的知識を必要とする。第2の項目は、普通の人を愛するという非利己的で熱情的な精神を必要とする。そして第3の項目は、とりわけ例外的な人々、向上心に燃えている人々に制限のない機会を与えることを好むという多様性と独立という長所にたいする寛容、寛大および評価を必要とする。第2の項目は、プロレタリアートの偉大な政党の最良の保有物である。しかし第1と第3の項目は、その伝統と古くからの同情により、経済的個人主義と社会的自由の根拠地であった政党の資質を必要とするものである」。

諸批判
e)自由放任思想にたいして――19世紀を通じて、自由放任思想は人々の考えを強力に支配し続けた。自由放任思想は、様々の異なった思想潮流の奇蹟的な結合体なのである。そしてこれは、対立する提案-ケインズはマルクス派の社会主義および保護貿易主義(これはチェンバレンの関税改革運動を指しているであろう) をあげている-が質的に貧弱であったがゆえに、より健全な人々が自由放任思想の方に向かうことを助けた、とケインズは考えている。
 ケインズは、人々の思想の根底を依然として支配し続ける自由放任の思想を以上のように分析した。そしてこの思想を根底において支えてきた主要な思想潮流-すなわち、個人主義哲学、自然的自由の思想、正統派経済学-にたいして、根底的な異議申立てを行ったのである。そのさいのケインズの立場とは、人間を形而上学的にとらえる立場-個人主義哲学、自然的自由の思想および正統派経済学は、いずれもそのような立場に多かれ少なかれ依拠している-の否定である。人間は啓蒙もされていなければ、独立して行動する場合無知で弱い存在であるという認識が、ケインズの人間観の基底には存在している。
 (f)社会主義にたいして―― 明示的に述べている場合を除き、ケインズは「社会主義」という用語を19世紀に発生したベンサムに由来するものとして用いている。ケインズは、社会主義を自由放任主義と同一の知的状況から生まれたものである、と把握している。つまり、ケインズの目からみれば、社会主義という思想は、19世紀の知的産物であり、それは自由を強調するあまり、社会に存在するすべての独占的要素を廃絶しようとしたものであり、そのために政府の役割を過度に重視するものであった。これは自由放任的個人主義が、自由を強調するあまり、政府の役割を過少に把握しようとしたのと対照的である。そして両者とも19世紀の知的環境の産物であると考えるのである。
() 共産主義にたいして――「この新しい宗教[共産主義]は、(1)現代人の魂にたいして、部分的には誠実であり、同情的であるのだろうか。(2)それは物質的な側面において、その存続を不可能にするほど非効率的なものなのであろうか。(3)それは、時間とともに十分薄められ不純物を加えられて、多数の人々をとらえるのであろうか」。ケインズ の答えは、(1)については両義的、(2)についても両義的、(3)については肯定的であった。
(2)1920年代のケインズの市場社会観と193040年代のケインズ の市場社会観とのあいだには、少なからぬ変化がみられる。前者を特徴づけていた「市場社会の似而非道徳性」について、相当な譲歩がみられ、個人の自由や生活の多様性の最善の擁護者としての個人主義の重要性が強調されている。彼の社会哲学の根源的なレベルにおける変化は小さなものとはいえない。
(3)ケインズの見地のこの基本的な変化にもかかわらず、もう1つのレベルにおいては、ケインズのスタンスは1920年代から1940年代に至るまで一貫している。進化的プロセスを通じて市場社会は、道徳的にも効率的にも、理想的な社会に漸次的に近づきつつあるという信念、ならびに、もし自由放任の原理に委ねておくならば、市場社会は本性的に不安定にさらされるから、その管理のための政策手段が追究されるべきであるという信念がそれである。



9章 シュムペーターの市場社会観(1)――「創造的破壊」を通じた進化過程
第10章 シュムペーターの市場社会観(2)――文明的・歴史的視座から


 第9章では主として『経済発展の理論』に基づきつつ、また第10章「では主として『資本主義・社会主義・民主主義』に基づきつつ、彼の市場社会観を検討する。

 (1-a)シュムペーターの「経済理論」は、あくまでも資本主義経済の循環的成長のメカニズムを説明するために提示されたものであり、企業者(および「追随する企業者群」)による「新結合」をつうじた「創造的破壊」がその主たる動因である。それに「信用創造」を供与する「銀行」、ならびに(かなり弱い機能であるが)貯蓄を供与する「資本家」が、いずれも貨幣供与者として参加する。労働者(それに地主)、「単なる業主」は何の機能もはたさないと考えられている(労働者はせいぜい賃金からの消費需要者として登場してくるぐらいである)。
 (1-b シュムペーターの経済発展の理論には2つの理論的支柱がある。1つは、「企業者」による「新結合」の遂行、ならびに「追随的企業者の群生的出現」である。もう1つは、貨幣的要因、すなわち「信用創造」である。それは資本主義社会を発展した信用機構をもつ社会としてとらえるということである。
 これらのうち、いずれにより大きな特徴があるのかといえば前者ということになるであろうが、そうはいっても、後者が経済発展にたいして果たす役割もそれに劣らず重視されているという事実を見落とすことがあってはならない。シュムペーターは「新結合」という現象を、資本主義社会に固有のものと考えているわけではない。それは「封鎖経済」や「流通経済」にも生じるものとされている。それにたいし、「信用創造」という現象は資本主義社会に特有の現象であると考えられている。それほど、信用の果たす役割はシュムペーターの「経済発展の理論」においては重視されているのである。
 (1-c)シュムペーターは、企業者、競争、均衡、価格の機能を、すべて「経済発展」の理論の領域で考察している。
 (2-a シュムペーターが指摘する「文明としての・歴史としての」資本主義社会の「積極的」特性は、以下のとおりである。
(1) 資本主義は貨幣単位を計算単位にまで高める。
(2) 資本主義は、近代科学の心的態度、すなわち、一つの問題を設定する
ことと、ある方法でそれに解答を与えようとすることからなりたつ態度、を生み出したのみならず、さらにその人材と手段をもつくり出した。
 (3) 資本主義文明は「反英雄的」である。この意味するところは、「合理的精神」を本質とするところの資本主義文明は本性的に争いを好まないということである。
(2-b) 「文明としての・歴史としての」資本主義社会はその「積極的(=肯定的)」側面にすぎない。シュムペーターの資本主義社会把握はここにとどまるものではない。上記のような特性を有する資本主義社会は、じつは自己を崩壊させる要因を内包しており、ついには自壊していく存在である、ととらえられているのである。
 資本主義社会の「消極的(=自壊)」側面の諸要因は3つのタイプに識別できるであろう。第1は資本主義社会を牽引ないしは支えるべき階層-企業者階層、資本家階層、擁護階層-の消滅・弱体化である。第2は資本主義をささえる重要な制度的要因たる「私有財産制度と契約の自由」の崩壊・消失である。第3は資本主義社会に敵対的となる知識人階層の出現である。
 (2-c)シュムペーターの「社会理論」は、資本主義社会の崩壊を説明するためのものである。「企業者機能の無用化」がその出発点におかれており、これに他の制度的・社会心理的要因が追加されて、その崩壊現象が説明されている。しかも、「企業者」や「資本家」といった資本主義社会を指導・牽引してきた階層、およびそれを擁護してきた階層、それに敵対的な知識人階層、の心理的・社会的変化、ならびに擁護制度基盤の喪失といった制度的変化が重視されている。ここでも労働者階級の役割(地主階級の役割もそうであるが)についてはまったく言及がなされていない。なお、「銀行」の役割についての言及もこの領域ではないが、これは「社会階層」としては「資本家」階層に含められているのであろう。経済的要因としてあげられているのは1つだけで、それは「競争過程」が中小企業を消滅させるというものであり、そのことにより制度的基盤があやうくなるという制度的要因への言及がなされている。
 (2-d) 以上のようにして資本主義社会が「その成功のゆえに自壊してしまったとき」、眼前に現出している社会とはどのような姿をもつものなのであろうか。「企業者」、「資本家階層」は存在せず、私有財産にたいするこだわりも減退もしくは喪失している社会(「所有や財産は……まさしく商業社会に所属する概念である」(CSD, p. 264) 、敵対的な感情も減退している社会(敵対する階層が存在しなくなっているから)、「非ブルジョア的性格」を有する政府をもつ社会、「経済発展の自動機械化」されている社会、つまり「事物と精神とがますます社会主義的生活様式に従いやすいように」「転形」した社会-こうした社会がイメージされる。
 (2-e)社会主義社会の「青写真」――だが、この状態はシュムペーターの考える「社会主義社会」そのものにはまだ到達していない。というのは、それは次のような社会として定義されているからである。
「……社会主義社会とは、生産手段に対する支配、または生産自体にたいする支配が中央当局にゆだねられている……ような制度的類型にほかならない」(CSD, p. 262)
 資本主義社会の自壊によって出現する社会から社会主義社会に至るには、「中央当局」による「生産手段に対する支配、または生産自体にたいする支配」の確立することが必要である、というのである。
 (2-f) 社会主義社会では、商業社会とは異なり、「分配」は「生産」から切り離される。そして「分配」問題は共同体の規約によって解決しなければならない問題となる。そのさい、シュムペーターが典型的なケースとして取り上げているのは、「平等主義」的基準であり、かつ消費者には選択の自由があるような場合である。各成員にたいして消費財にたいする「指図証券」が発行されるが、それは当該期間だけ有効とされ、それ以外では無効となるようなものである(成員の所得は機械的に平等であり、その人の能力とは関係なく決定されるのである)。ここで「価格」は固定されているわけではない、という。「中央当局」が決定するのは「暫定価格」にすぎない。
 シュムペーターはこの方法でうまく分配が機能するという楽観論を述べているのであるが、これは疑問である。消費者に選択の自由があり、しかもその状況を「中央当局」が正しく予想しえないとすれば、ある商品は品不足に陥り、ある商品は売れ残る、という事態が発生することは避けられない。前者の場合、価格は上昇し、後者の場合、価格は下落する。しかも「指図証券」は当該期間しか有効でないのであるから、この傾向には拍車がかかることになる。また消費財には家屋や自動車などの耐久資産も含まれており、それらもこの「指図証券」で購入するわけであるから(消費者信用は考えられていない)、問題はますます困難となるに相違ない。
(2-g) 以上をまとめてみると、次のようになる。中央当局の権限としては、まず生産手段の価格決定権、生産手段の保有権と配分権があり、それらは各産業管理者と関係する。さらに中央当局には指図証券を成員に配分する権利がある。社会の成員は配分された指図証券によって財を購入する。ただし指図証券は1年で無効となるから使いきるしかない。したがって「貯蓄」ということは意味をもたなくなる。私有財産は存在しないのである。各産業管理者は必要な生産手段を、消費財を販売することによって獲得した指図証券で中央当局から購入する。
(3)シュムペーターの理論的基盤は一種の歴史主義であったといいえよう。シュムペーター理論はシステムに内在する内的要因を重視し、その発展により、システムが崩壊したり進展するというシェーマをもっているという意味においてである。資本主義経済を「創造的破壊」を通じた動態的過程として把握したり、文明としての資本主義社会を「その成功」を通じての自壊として説明する、というのはこの基盤に依拠しているのである。
(4)「経済理論」、「社会理論」のいずれにあっても、「企業者」の役割が強調される-まことに「企業者」はシュムペーター理論のαでありωである
-一方で、労働者階級はまったく登場してこない、というのが、シュムペーターの理論の最大の特徴なのである。
(5)シュムペーター・ツイスト――シュムペーターはワルラスからは「経済発展の理論」における出発点として「経済の循環」もしくは「参照基準」を採用し、マルクスからは「壮大な構造」を継承した。
 前者の採用は非常に奇異に思われる。「静学」と「動学」の分離が鮮明であるため、同一の市場社会の動向を分析しているにもかかわらず、それらを説明する理論分析が完全に分離しているからである。シュムペーターは彼の本来の理論体系とは無縁であるように思われるワルラス理論を「純粋理論」としてはきわめて高く評価し、自らの理論体系の「前座」に据えることに固執したのである。
 後者については、その精神のみが継承されているのであって、シュムペーターはマルクスとはまったく異なる分析技法を用いたのである-マルクスの分析用具の大半を否定したにもかかわらず、シュムペーターの理論の本体である「動態」はマルクス的立場に近い、という表現も可能である。
 以上の意味でシュムペーターは、ワルラスからは完全に独立した存在であり、またマルクスとは精神的に共有する側面を有していたといえる。いずれにせよ、両者にたいするシュムペーターの姿勢には少なからぬ「ツイスト」(ひねり)がある。




第11章 ハイエクの市場社会観――知識・価格・競争と自生的秩序

 ここでは、「社会における知識の利用」、「競争の意味」等の1940年代に執筆された諸論稿をもとにしつつ、ハイエクの市場社会観を検討する。

 (1)ハイエクの市場社会論はリアリズム(3つの枠組み(「現場の人の知識」をもつ    諸経済主体、情報の伝播機能を有する「価格システム」、および「予見せざる変    化」への適応過程として機能する「競争」)による現実認識)とアイデアリズム    (上記の枠組み以外の要素の独断的排除、および「自生的秩序論」による観念論    的弁護)の狭間で宙づりになっている。

 (2)「自生的秩序論」は観念論的保守主義である。

 (a)ハイエクの自生的秩序論はハイエクの視点からみて、価値があるもの、善なるも    の、という価値評価を濃厚に内包している。だが、「自生的秩序」と「自生的秩序」をどのような基準により識別できるのかは、語られていない。
 (b)自生的秩序はできるだけ「純」なかたちで実現・維持しなければならないという   (理想主義的)価値観が陽表的に導入されている。
 (c)諸個人の「意図せざる」結果として、あらゆる文化が生まれてきたとするのは、    歴史に参画する諸個人の功績を過小評価している。
 (d)何か神秘的な導きの糸(「自生」という言葉は、換言すれば、そのように解せら    れる)に、人間社会についての理解を託しすぎている。



  

補章 遺言の語るもの――19412

 (1)優れた立案・事務能力で作成され、その行間からは近親者にたいする彼の細やかな気配りと愛情がほとばしり出ている。そのうえで、私たちを驚かせるのは、ダンカンが――金額の多寡ではなく、情愛の点において――妻リディアよりも重視されているという事実である。このことをいかにとらえればよいのであろうか。
 (2)遺言は死に臨んでの財産処分の表明。それは経済行為の衣をまとった心情告白。遺言の内容は近親者を嫉妬に狂わせ、時に深刻な騒動を引き起こす、古今東西を通じ、数限りなく繰り返されてきた人間ドラマ。ともあれ、57歳のケインズ がどのような心的状況にあったのかを雄弁に物語るものとして、ひどく興味をそそられる。 


  


「市場社会」考――あとがきに代えて
筆者自身は「市場社会」をどのようにとらえているかのスケッチ。
(1)市場社会は2重の意味でダイナミックである――「内延的深化」と「外延的拡大」。市場社会のダイナミズムは革新的企業の発生に支えられている。市場競争、価格、利潤は動学的なコンテクストで理解されねばならない。
(2)企業-かつてベンサムが述べたように、企業活動の本質は将来にたいする冒険的な投資活動にある。それは不確実な将来に自らの存在を賭けるという特徴をもっている。とりわけ成長する経済社会においては、そうであり、かつ彼らの活動は本質的な重要性をもっている。ソニーやホンダといった企業の活動はそうした典型である。
 企業はある程度は合理的であり、かつ臨機応変な行動のとれる存在である。だが、反面、経済全体が熱狂的になるときには、きわめて不合理な行動に走る危険性をもっている。景気が加熱し、同業他社が拡張行動に出たとき、企業は追随的な行動をとるのが通例である。企業も「社会心理的」存在である。同業他社があることでもうけていることが分かると、組織としての企業は神経質になり、その後を追おうとする。営利を追究するという企業の本性は、そのとき合理性を失うことがままにしてある。バブル時のように、すべての企業が投機的行動に走るようなときに、ひとり一社だけが座していることは難しい。目前で異常なまでの活気が呈せられているのに乗り遅れることは、ほとんど耐えられぬことであるからだ(それに社内での派閥的対立が存在することも看過しえない)。市場による競争というものは、つねにこのような不合理性を引き起こす危険性をもっている。ミクロ的・短期的には合理的にみえたとしても、それがマクロ的・長期的には不合理な行動であることはままある。だが個別企業がそのことに合理的に・冷静に対処することは、きわめて困難である。活発な動きをみせる者がここでは称賛されるからである。今回のバブルで大多数の経営者がとった「愚かで次元の低い」行動は、そうしたものであった。こうしたなかで、「合理的な経営管理システム」に立つ企業組織といった神話は崩壊してしまった。銀行が信じられないほどでたらめな貸付に走ったり(担保もとらない融資、プロジェクトの真偽をろくに調べもしないで行われた巨額融資等)、大企業が我を忘れて「財テク」活動に狂奔したりする行動をみせたのは、昔のことではない。平成のできごとなのである。
(3)政府の役割-市場社会における企業組織のもつこうした特性(いかに不合理である場合でも、一団となってそのような方向に突っ走ってしまうという集団心理的性向)は市場社会を非常に不安定にする要因である。それは貨幣経済のもつ脆弱性を直撃する危険性がある。これを止める力は政府にしかない。
 市場経済における主要な経済主体が民間企業であることは事実である。しかし、その意義とともにその限界についてももっと配慮すべきである。企業も家計も合理的ではないが、とりわけ企業がそうである。家計行動の場合、かなり慣習的要素が効いているという意味で合理的存在、ないしは突発的な行動には走りにくい存在だといえる(家計費の内訳を考えてみよ。食費、光熱費、教育費、将来の事態に備えての貯蓄等でほとんどが埋まってしまう)。これからも政府による舵取りの重要性がなくなることはないであろう。産業革命期のイギリスにおいては、その暴力性を抑えるべく、さまざまな行政改革・制度改革が必要とされた。市場経済の円滑な発展とは、同時に国家ないしは政府の市場メカニズムへの介入の過程でもあった。まして後発国の場合には、政府による指導のもとで、先端技術を慎重に導入していく必要があった。このことはドイツ、日本、そして韓国や台湾にも妥当することであり、けっして市場メカニズムに自由に振る舞わせることによって経済の発展に成功してきたわけではない( いずれの国も、かなり経済的に強くなって初めて対外的な自由化を唱えはじめるという点で、共通している) 。ソ連のように国家が180 度責任を放棄した社会では、マフィアとインフレのもと、激しい所得格差、弱肉強食が渦舞く、きわめて不安定な経済になっている( このような事態は近いうちに何らかの暴発を引き起こすことであろう) 。中国のように国家が賢明な舵取りを行うことで、混乱を抑えながら市場社会化に成功してきている国もある( 中国の今後の問題は、この舵取りがいつまでこのようなかたちでできるかどうかにかかっている。何らかの政治的変革が必要となることであろう) 。さらに、世界の市場化は、後進国経済を非常に不安定なものにしてきている( かつての一次産品の不振、伝統社会の破壊等) 。これらの点は、今日の世界的な市場社会化現象を考察するさいに、自由放任論者、規制緩和論者によって看過されてきている。
(4)市場社会は、完全な自由放任と完全な社会主義を両端にもつスペクトラムの中間(middle way)にしか位置しえない。中間のいずこが最適であるかの見極めはきわめて困難な作業であるが、それでもわれわれは現実主義的に最適点を探していかなければならない。
(5)21世紀世界の六大問題――(i)産業主義(産業化)の継続的進行、(ii)民族主義、(iii)人口問題、(iv)ロシアの行方、(v)中国の動向、(vi)世界の市場化(=「グローバル資本主義」という名の市場イデオロギー)。