2015年5月26日火曜日

ハイエクの市場社会論 - 「現場の人」と情報伝播としての「価格システム」 -

 


ハイエクの市場社会論

- 「現場の人」と情報伝播としての「価格システム」 -

                    平井俊顕


ハイエクの市場社会観を検討してみて浮かび上がってくる重要な特徴、それは彼が自らの立論を、絶えず2つの敵( 外なる敵と内なる敵) との戦いを続けながら展開しているという点である。外なる敵はハイエクのいうところの「設計主義的合理主義」思想であり、彼は自らの自由主義思想の視点からそれらに対して徹底した批判を展開し続けた(この対象としては、マルクス、サンシモン、コントといった純粋な「設計主義者」だけではなく、ケインズ、シュムペーター、ミュルダール等も含む) 。内なる敵は経済学の世界で支配的であるところのワルラス経済学の市場社会観であり、彼は(メンガーに始まりミーゼスに継承されたものとしての)オーストリア学派の視点からそれにたいし警鐘を鳴らし続けた。そしてこうした双方向への戦いの根底にはハイエク独自の自由主義哲学、ならびに市場社会観が存在するのである。
 通常、ハイエクを論じるさい、論者の関心は圧倒的に前者の側面におかれてきたといってよい。だがハイエク(さらに広くはオーストリア学派)の社会哲学を理解するには、後者の側面に注目することも、負けず劣らず重要なことなのである。この点は、近年のネオ- オーストリア学派の台頭によって証明されている。
 本稿ではハイエクの市場社会観を、次の2つの側面から検討することにしたい。最初に、ハイエクが市場社会をいかなる本性をもつものとして理解していたのかをみる。続いて、ハイエクの市場社会観をその根底にある思想的立場である「自生的秩序論」との関係で批判的に検討を加えることにする。



1.市場社会の本性

  ハイエクは、メンガーやミーゼスが展開したオーストリア学派的な立場を踏襲しており、市場社会を諸個人の行為の意図せざる進展の結果と成立した社会的制度としてとらえている。市場社会は諸個人に自由と正義を提供保証する場として絶対的な重要性が付与されている。それは原理的な重要性をもつものであって、便宜的なものとして位置づけられてはならないとされる。ハイエクにあっては、市場社会は人類の到達しえた最良の社会形態であり、それを侵害するような行為はすべて「隷属への道」につながるものであるとして断罪されることになる。
 この考えを包摂するハイエクの社会哲学は「自生的秩序」論の名で知られるものであり、それは2つの基本要素- 「個人主義」と「発生論的組織論」- を内包している。第2節で市場社会という機構を「自生的秩序」論との関係で論じることにし、本節では、市場社会の機構がハイエクによってどのように理解されているのかに焦点を合わせることにしよう。

  A.経済主体 -現場の人の知識
  市場社会で生活し行動する最も重要な構成単位(意思決定主体)は個人である。ハイエクによれば、それは彼の周囲についての限られた知識をもとにして行動する存在である。このことは次の2点を含意している。第1に、いかなる個人も社会全体をみとおす能力はないという認識である。

「……われわれが利用しなければならない諸事情についての知識〔は〕、集中された、あるいは統合された形態においてはけっして存在せず、ただ、すべての別々の個人が所有する不完全でしばしば互いに矛盾する知識の、分散された諸断片としてだけ存在する……」(Hayek, p.53)

  市場社会にいる諸個人は、非常に不確実な状況下で活動している。人間は非合理的な存在であるという認識こそが、ハイエクの人間観の根底に存在するものであり、これがハイエクのいう「個人主義」の出発点なのである。
 第2に、「知識」の内容規定が問題となる。ハイエクがここで問題にしているのは「科学的な知識」ではなく、「時と場所の特殊情況についての知識」である。それは諸個人がそれぞれの職業をつうじて経験的に獲得していく「現場の人」の知識である。諸個人はその点で他の人にはない特有の有益な情報を所有しており、そしてその情報に基づいて意思決定を行う存在である。「現場の人の知識」の特徴は、絶えず小刻みの変化を遂げていくという点にある、とハイエクは述べる。そうした変化が存在しないとすれば経済問題は生じてはこない。この変化に社会が急速に適応していくことができるための唯一の方法は、この事情を最もよく知っている諸個人に問題の解決を委ねるというものである
  以上にみたハイエクの社会哲学の根底にみられる個人像は、ベンサムの功利主義や、ルソーの社会契約論( さらにはそれを蘇生させたロールズの正義論) が想定する個人像とは、まったく性質を異にするものである。

  B.「価格システム」-情報の伝播機能
  市場社会における諸個人を上記のように規定したからといって、ハイエクは、こうした諸個人で構成される市場社会をアナーキスティックなものと考えているわけでは、まったくない。彼は、「人間の諸事象にみられる大部分の秩序を諸個人の行為の予期せざる結果として説明」(Hayek, p.9) できるという見解、すなわち「自生的秩序」論をもっており、市場社会もその典型的な事例であると考えているからである。
  ハイエクによれば、「自生的秩序」の典型的事例とされる市場社会が、限られた知識しかもちえない存在である諸個人を連結させて、1つの「秩序」として信頼するにたる機構となっているのは、それがもつ「価格システム」のおかげである。そこにおける諸個人は2つの要因 - ①限定されてはいるが「現場の人の知識」、②「価格システム」が与えてくれる価格についての情報 - に依拠して経済的決定を行う。
「「現場の人」は、彼に直接かかわる周辺の事実についての、限定されてはいるがよく通じている知識を基礎としてだけでは決定することはできない。ヨリ大きな経済システムの変化の全パターンに彼の意思決定を適合させるために必要であるような、彼の周辺の事実を超える情報を彼に伝達するという問題が、まだ残っている」(Hayek, p.63)。この問題を解決するのが「価格システム」である。ただし、個人が関心を払うのはつねに自己
に関連をもつ「特定の諸財の相対的重要性」だけである。当然、それは限定された情報知識であるが、それと「現場の人の知識」に基づいて各個人は意思決定を行う。
  市場社会はこうした意思決定を行う諸個人によって形成されている。諸個人の独立した意思決定を調整し、1つの市場として機能することを可能にしてくれるもの、それが価格システムである、とハイエクは考えている。

「関連のある諸事実の知識が多くの人々のあいだに分散しているシステムにおいては、……根本的には価格がさまざまの人々の別々の行動を調整する役割を果たすことができる。……全体がひとつの市場として働くのであるが、それは市場の成員たちの誰かが全分野を見渡すからではなくて、市場の成員たちの局限された個々の視野が、数多くの媒介を通して、関係ある情報がすべての人に伝達されるのに十分なだけ重なりあっているからである」(Hayek, pp.66-67)

注意すべきは、市場社会を構成する諸個人は完全に孤立した存在とはみなされていないという点である。ある情報は、その情報に敏感に反応する人々の行動を喚起し、その結果発生する新たな情報は、さらにその情報に敏感に反応する人々の行動を喚起していく。こうして情報が次々に伝播されていくことにより、経済に時々刻々生起する変化があらゆる成員のあいだに伝わっていく。こうした情報は実際には「価格」という形態をとる。不完全な情報と知識しか保有していない諸個人を、価格を中心とした情報を伝播していくことを通じて社会的に結合させているもの、それがハイエクのいうところの「価格システム」なのである。
 ハイエクは、この「価格システム」には次のような優れた点があると述べている -   非常にわずかの知識でもって作動できる能力  、② 資源の調整された利用を可能にする能力4 、③  「変化」に対処するのに適した能力

もしわれわれが問題に関連するあらゆる情報を所有するならばもしわれわれが所与の選好体系から出発することができるならば、そして、もし、われわれが利用できる手段についての完全な知識を握ることができるならば、残る問題は純粋に論理の問題である。……この最適問題の解法を満たす諸条件は、……どの二つの商品あるいは生産要素の間の限界代替率も、それらの相異なる用途すべてにおいて等しくなければならないことである。しかしながら、これは社会が直面する経済の問題では決してないのである」(Hayek, p.53)

  ハイエクの描写する市場社会は、ワルラス的な市場社会と比べると、非常にリアリスティックである。市場社会を構成する諸個人は不確実な情報と「現場の人の知識」を有する存在であり、そしてそうした諸個人のあいだを媒介するものとして「価格システム」が考えられているからである。そこには何ら恣意的な理論構成はみられない。そしてハイエクが市場社会のもつ利点として次のことを強調するとき、たしかにわれわれはそのことを認めないわけにはいかない。

「……現存システムの一定の特徴 - たとえばとくに、個人が自分の職業を選択することができ、したがって、自分自身の知識と技能を自由に使える広汎さのような - が維持されうる代替的システムを設計することにいままで誰も成功していない……」(Hayek, p.71)

ケインズの場合、市場社会は、「似而非道徳律」の支配する社会であり、それが正当化されるのは「経済的効率性」の視点からのみであった。そしてケインズの場合、市場社会の後に来るべき社会がどのようなものになるのか、そして「似而非道徳律」を打破した社会が、どの程度職業選択の自由を保証しうるものになっているのかが明らかにされているわけではない。これに対し、ハイエクの場合、「金もうけ」を根底にする醜い道徳律の支配する社会というイメージはない。価格システムは「金もうけ」を最大の特性とするシステムとしてはとらえられていないのである。


  C.競争の機能 - 予見せざる変化の動因

 a.ハイエクの「競争」概念
  ではこうした「価格システム」にあって「競争」はどのような機能を演じると考えられているのであろうか。「現場の人の知識」や「価格システム」と同様に、ハイエクの考えている「競争」は非常にリアリスティックな概念であって、「議論を地上に引き戻して現実の生活の諸問題に注意を直接向けようとする」(Hayek, p.77) 観察眼に根ざしている。  「競争」は広告、値引き、生産される財やサービスの改善を通じて評判と愛顧を求めようとする行為である。こうした競争の過程をつうじてのみ、人々は何が、そしてだれが自分たちにとって役に立つのかを知ることができる。こうした知識ないしは情報は、当初から所与として与えられているものではない。それは競争の過程の産物として獲得されていくものである。

 「競争は本質的に意見の形成の過程である。すなわち、われわれが経済システムを一つの市場として考えるときに前提している、経済システムの〔もつ〕あの統一性と連関性を、競争は情報を広めることによって創り出すのである。競争は、何が最も良く最も安いかについて、人々がもつ見方を創り出す。そして人々が、少なくとも、いろいろな可能性と機会について現に知っているだけのことを知るのは、競争のおかげである」(Hayek, p.98)

競争がもたらす知識情報は不完全で部分的なものでしかない。なぜなら本性的に経済主体は不確実な知識しか保有しえない存在であるという状況を、競争は変えるものではないからである。競争はそうした状況下に確実な知識情報を諸個人に追加注入するのであるが、それは関心をもつ特定の諸個人にたいしてのみ有効なものであって、あらゆる経済主体に有効というものではない。
「競争」には、当然、様々な強度のものがある。「競争」が激しければ激しいほど、伝播する情報知識の量、関与する経済主体の数は大きくなるであろう。「競争」は1つの予見されざる変化を市場経済にたいして与える。この変化を受けて、諸経済主体は自らの意見を調整形成しなおし、そして新たな意思決定を行っていく。激しい「競争」は予見されざる激しい変化を市場経済にたいして与えることになる。
 逆にきわめて弱い「競争」の場合、そこでは伝播される情報知識の量、関与する経済主体の数はきわめて小さい。しかし、それはそれで重要な機能を演じているのであって、とくに処々にこうしたきわめて「弱い」競争が存在しているような場合、全体としては、競争のもつ情報伝播能力はきわめて高いということになる。
  「競争」と「価格システム」とはどのような関係にあるのであろうか。「価格システム」は情報伝達のシステムである、とハイエクはとらえていた。この特質が現実化するためには「競争」は取り去ることのできない要素である。「競争」があってはじめて、予見されざる変化が経済システムに生じ、それに応じて諸経済主体がそれに適応しようとして新たなる意思決定を行っていくことが可能となる。そのさいに、「予見されざる変化」は、通常は価格の変化というかたちで、「価格システム」を通じて伝播していくのである。「価格システム」という受け皿は、「競争」という原動力(moving force)があってはじめて「情報伝達システム」として機能することができる。
  では、「競争」は存在するが、「価格システム」は硬直的な状態にある場合はどうであろうか。このような場合でも、市場経済はそれなりにうまく機能しうる、とハイエクは考えているようである。「競争」が存在するため、「価格」を含めた情報は発信される。ただ「価格システム」が硬直的であるため、情報の伝播は「価格」を通じて行われる能力は落ちるが、ゼロになるというわけではない7 
 「競争」概念についてのハイエクの考え方を理解するうえでは、さらに次の2点に留意する必要がある - ①「競争」が機能するのは、「均衡」の状態においてではなく、ある「均衡」と他の「均衡」のあいだの期間においてである、②「競争の過程が連続して働くのは、変化の速度に比べて適応が緩慢な市場においてだけであ」(Hayek, p.94) り、かつそのような市場が常態である。

  b.ワルラス的「競争」観批判
 ハイエクの市場社会観が、ワルラス的な市場社会観と著しく異なる点は、「競争」というタームにも画然とあらわれている。両者の相違は次の言葉に明瞭である。

「……一般の見解はいまもなお、経済学者たちが現在使用している競争の概念を意味深いものとみなし、そして、実業人の競争の概念を誤用として扱っているように思われる。いわゆる「完全競争」の理論が現実の生活における競争の有効性を判定するための適切なモデルを与えており、かつ、現実の競争が「完全競争」から離れる程度に応じて、現実の競争は望ましくないものであり、有害でさえある、というふうに一般に思われているように見える。このような態度を正当づける根拠はほとんどなにもない、と私には思える。完全競争の理論が論じていることは、ともかくも「競争」と呼ばれて然るべき権利をほとんどもっていないこと、そして、完全競争理論の結論は政策への指針としては役に立たない」(Hayek, pp.77-78)

今日でもそうであるが、正統派のミクロ経済学では、「完全競争」にたいする深い思い入れがその根底にある。そしてこの「参照基準」からの乖離により、いかに資源配分が「歪められている」のかを判定しようとする。ハイエクは経済学のこうした傾向にたいし、批判的な警告を発しているのである。市場社会の働きにおいて重要な意味をもつ「競争」は、これらの完全競争を参照基準とする経済学ではほとんど何も論じられていない、と彼は考えている。そしてここでも「実業人の競争の概念」のなかにこそ「競争」の本来の意味があるというリアリスティックな立場が貫かれている。
ハイエクはワルラスの「一般均衡理論」を承認していないといってよい。ハイエクの価格理論(キャタラクティクス)は、市場社会を構成する諸個人の特性(「時と場所の特殊情況についての知識」をもつ人) 、価格システムの特性(情報伝達システム) 、競争概念( 変化の原動力) 、均衡分析にたいする批判的評価といった経済学の基本的論点において、ワルラス経済学とは対照的であるからである。むしろハイエクの価格理論の依拠する市場社会観には、戦間期に重要な景気変動論を展開した「ヴィクセルコネクション」(貨幣的経済論)と共有する点がある。

  D.リアリズムとイデアリズムの葛藤:フェイズⅠ
  これまでの検討からも明らかなように、ハイエクの描く市場社会は非常にリアリスティックであって、「かくあるべし」という理想像を描こうとしたものではない。「現場の人の知識」とか「実業人のイメージする競争」といったものが、ハイエクの市場社会把握の1つの重要なキーコンセプトになっている。市場社会は流動的であり、不確実性に満ちあふれ、そして絶えざる変化をこうむる社会として描かれている。
  しかし、われわれはここで立ち止まって考えてみる必要がある。ハイエクの描きだした既述の市場社会像には次の2つの問題が潜んでいるからである。

    ハイエクの視点からみて市場社会の「本質的な」(冷徹にいえば「都合のよい」)要因だけで構成されている。

  したがって、それは定義上、肯定的な価値評価を当初から含有している。実際、ハイエクはそうした点を彼のいう「設計主義的合理主義」批判を展開するさいに陽表的にもちだしてくるのである。

    「現実の」市場社会に存在する重要な要素が捨象されるかたちで概念構成がなされている。

「現実の」市場社会には、株式会社組織の巨大化、国家の果たす役割の増大、半自治的組織の増大、トラストやカルテルの増大、労働組合組織の巨大化といった現象が明白に認められ、しかもそれらが市場社会の決定的な意思決定主体になってきているといった事実は、ハイエクの市場社会像からは意識的に除かれてしまっている。これらの組織は、後述するハイエクの「自生的秩序」論からは、いわば「不純物」として断罪されるのであるが、そのように扱うことの根拠が明らかにされているわけではない。

  したがって、ハイエクの市場社会像は「リアリスティックな」視点からとらえられているにもかかわらず、同時にそれは「理想化」されたものであって、「現実の」市場社会に現出しているその他の本質的に重要な現象を「リアリスティック」にとらえることには失敗している。「イデアルティプス化」された「市場社会像」を理想的な市場社会と同一視し、そこからの逸脱は自由からの逸脱であるとか、隷従への道であるとか主張するのは、現実の市場社会を狭く解釈しすぎるという危険性をつねにはらんでいる。重要なことは、現存する市場社会を、巨大企業組織や巨大労働組合が重要な機能を果たしているという事実を視野に入れ、それらを前提にしたうえで、市場社会がいかに機能しているのか、そしていかに機能すべきなのかを検討することであろう。こうして「リアリズム」の強調からスタートしたハイエクの市場社会像は、いつの間にか「イデアリズム」の色彩を帯びてしまっているのである(このことを「リアリズムとイデアリズムの葛藤:フェイズⅠ」と呼ぶことにしよう)
 「現実の」市場社会に存在する上記の重要な諸現象をそのまま「リアリスティック」にとらえることで、市場社会のあり方を考察するという立場は、「ニューリベラリズム」( ホブソンやケインズもこのなかに含まれる) や制度学派の流れに沿った人々によってとられた。ハイエクがこうした流れに猛然と抵抗したことは、以上の立論からすれば当然のことであったといえよう。


 自生的秩序としての市場社会
- リアリズムとイデアリズムの葛藤:フェイズⅡ

  ハイエクは、自らが描いた市場社会像を肯定的に評価する。それは可能なかぎり「純」なかたちで実現維持されねばならないものであると考えられている。流動的であり、不確実性に満ちあふれ、絶えざる変化に取り巻かれた社会である市場社会は、なぜ弁護に値するのであろうか。これまでの議論の範囲内でハイエクがあげている理由は次のようなものであった。

経済的理由 - 「情報伝達」機構としての経済性、分割された知識を基礎とする資源の調整された利用が可能。「変化」に対処するのに適した能力。
社会哲学的理由 -分業に基づく職業選択の自由の保証された社会。

  ここで興味深い問題は、ハイエクは、市場社会は自らを安定化させる内在的な力があると考えていたのかどうかという点である。この点に関して、ハイエクの市場社会論は本質的にリアリスティックなものであり、市場社会が自らを安定化させる内在的な力があるということを理論的に論証しようとした形跡は認められない。市場社会は時々刻々、予見せざる変化の発生とそれにたいする調整を通じて動いていく、変転きわまりない、躍動感にあふれたシステムである。市場社会は、そうした変化とそれにたいする調整を経済的な「情報伝達」機構を通じて効率的に遂行していく。しかしそれは何か究極的な均衡状況に向かう過程として把握されたり、論証されたりしているわけではない。ハイエクの描く市場社会には基本的に目的論的発想は存在しないのである。むしろ、上記のような理由からだけでも、市場社会は擁護されるべき十分な価値をもっているのであり、それが安定的傾向を有するかいなかは証明できるものでもないし、証明する必要もない - ハイエクはこのように考えていたようにも思われるのである。
 ハイエクが市場社会にある種の安定化能力があることを主張する根拠は、実は別のところにある。すなわち、市場社会は「自生的秩序」(の代表的な事例) であるというのがそれである。
  「自生的秩序」論はハイエクの根本的な社会哲学観である。そしてこれこそがスミス(「自然的自由の体系」) 、古典派新古典派( 功利主義) の社会哲学観と異なる固有のものである。「自生的秩序」としての「価格システム」をハイエクは次のように説明している。

「……このメカニズム〔は〕人間の設計の産物ではない……、かつ、このメカニズムによって導かれる人々が、なぜ自分たちがしていることをするように仕向けられるのかを通常は知らない……。……すなわち、問題はまさに、資源の利用の範囲が誰か一人の人の管理能力の範囲を超えていかにして拡大するかであること、そしてそれゆえにいかにして拡大するかであること、そしてそれゆえにいかにして意識的管理の必要を省くか、そしていかにして、個々人に彼らの為すべきことを誰かが命令する必要なしに望ましいことをさせるような誘因を与えるか、である……」(Hayek, p.69)

「自生的秩序」は人間が意識的に創造したものではないとされる。諸個人の自発的な行為の結果ではあるが、彼らの行動の意図せざる結果として生み出されたものである。この発想は、人間の創造物ではあるが、どの人間にもその創造についての責任と貢献は帰せられない、というものである。しかも「自生的秩序」は、いったん発見された以上は、必ず守っていくべき価値をもつものとして高い評価が与えられている( 社会的に意図せざる結果として創出された制度であっても、それが「ハイエク的基準」からみて「優れた」制度でない場合には、それは「自生的秩序」とは呼ばれていない点に注意が必要である)

「われわれがここで出会う問題は、けっして経済だけに固有なのではなく、ほとんどすべての真に社会的な現象、言語およびわれわれの大部分の文化的遺産に関して生じるのであって、まさしくすべての社会科学の中心的理論問題を構成する。……われわれは、自分では意味がわからない公式、記号、規則を絶えず利用し、それらの使用を通して、われわれ各自が所有しているのではない知識を利用する。われわれは、それぞれの領域でうまくいくことが明かされた慣習や制度を頼りにして、こうした常習的行為制度を発展させてきたのであり、そしてそういう常習的行為や制度が、次には、われわれが作り上げた文明の基礎になったのである」(Hayek, pp.69-70)

  ここに示されているように、「自生的秩序」論は、すべての社会科学の中心的理論問題を構成するとされている。市場、貨幣、言語、都市といったものが、この点の例証としてよく取り上げられる。それらの発展には、特定の個人の力や設計は何の意味ももたないものとされる。ただ関係するのは「うまくいくことが証された慣習や制度」である。
 諸個人の意図せざる結果として生み出され、そしてそれが「うまくいくことに」気づいた場合に、人々はそれを常習化していく。こうして成立した「慣習や制度」がもとになって、さらに諸個人の意図せざる結果が生み出されていく。こうしてハイエクの市場社会が安定的であるのは、そのシステムがもつメカニズムに内在する要因によるよりは、むしろ「うまくいく」ものとして「慣習や制度」によって保証されてきたことによるとされているのである。
 しかし、ここでもわれわれは立ち止まって考えてみる必要がある。「自生的秩序」論そのものの妥当性という問題である。
 第1に、自生的秩序という概念は、ハイエクの視点からみて、価値があるもの、善なるもの、という価値評価を内包している。人間社会に存在する組織のなかには、ある視点からみて、価値のないもの、悪なるもの、も存在するのが実際である。犯罪組織、暴力団、科学技術の悪用といったことに、われわれは事欠かない。そしてそうした組織も、ある意味では諸個人の「意図せざる」成果として出現してきたのだといえる。しかしハイエクの自生的秩序には、これらのものはすべて排除されており、「有益である」ことを偶然に発見した人間がそれらを「慣習」を機軸にすえて発展させてきたもののみを「自生的秩序」として取り上げるのである。しかし「自生的秩序」と「非- 自生的秩序」をどのような規準により識別することができるのかについて、ハイエクは何ら具体的な基準を提示してはいないように思われる。
  第2に、自生的秩序であげられている事例、例えば、都市について考えてみたとき、世界の多くの都市が、一人の為政者の企画によって建設され、それが何百年にもわたって存続してきているという事実に遭遇する。「東京」を例にすれば、徳川家康という1人物の手になる設計が決定的な意味をもっていることは、だれも否定できないであろう。
 第3に、人々の意思とは独立に生成発展してきた発生論的組織としての「自生的秩序」はできるかぎり「純」なかたちで実現維持されねばならない、という価値観が陽表的に導入されている。すでに、ハイエクの市場社会像自体、リアリスティックななかにもイデアリスムが浸透しているということを指摘したのであるが、ここでは、イデアリズムは陽表的になっており、その分独断的になっている。そして現実の市場社会が「自生的秩序」としての市場社会からますます乖離していくという動きが19世紀の末から第2次大戦にかけて進行していった様子をハイエクが「隷属への道」として断罪するとき、そして「自生的秩序」の実現に妨害を加えるような行為は文明の自殺行為であるとハイエクが声高に叫ぶとき、彼は明白な観念論的保守主義に陥ってしまうのである。ここに至って、「リアリズムとイデアリズムの葛藤」は「フェーズⅡ」に到達しているといえよう。

 一言で要約すれば、ハイエクの市場社会論は「リアリズム」(「現場の人の知識」、「価格システム」、「競争」という3つの枠組みによる把握)と「イデアリズム」(3つの枠組み以外の要素の排除、および「自生的秩序」論による弁護)の狭間で宙づりになっている。