現代資本主義システム考
―「これまでの経済学」批判を絡めて
平井俊顕
世界経済は、この20年に限定しても、めまぐるしい変貌を遂げてきた。80年代後半から社会主義圏の崩壊が始まり、1991年にはソ連が崩壊、ここに戦後世界を規定してきた冷戦体制は終焉を迎えた。
90年代に入ると、資本主義圏でも大きな変化が生じた。IT産業、ならびに(金融グローバリゼーションにより) 金融セクターがアメリカで大きく発展をみたのにたいし、それまで唯一の経済的勝ち組であった日本は「失われた20年」を経ることで、世界経済におけるプレゼンスを著しく喪失するに至った。
同期間、プレゼンスを著しく増大させたのが中国であり、「漸進的改革」路線のもと体制の資本主義化(=「社会主義市場経済化」)に成功し、90年以降の年率10%を超える経済成長率の結果、いまや世界第2位のGDPを達成するに至っている。
こうしたなか、資本主義システムは不安定性も増大・増幅させてきた。とりわけ金融分野の自由化・グローバリゼーションは、経済活動の自由化要求のもと、(株式市場、債券市場、外為市場、一次産品市場などの)市場における投機活動の驚くべき増大を引き起こし、それによって世界の諸市場が翻弄される事態を引き起こしてきた。なかでも、1997年のアジア金融危機、2000年のドットコム・バブルは良く知られているが、そうした不安定性は2008年秋、「リーマン・ショック」で文字通り爆発・破裂したのである。
それから3年が経過しようとしているが、先進国地域は依然その後遺症から抜け出せずにいる。アメリカ経済は経済政策的失敗に加えて政治的行き詰まりをみせ、EUはギリシア危機がPIIGS危機へと拡大し、いまではユーロ危機に襲われている。これらの地域の金融・財政システムに亀裂が走ると、第2の「リーマン・ショック」の到来が懸念される事態になっている。
本章では、こうした状態にある「資本主義システム」を2つの視点 - 社会哲学的ならびに経済学史的視点 - から考察してみたい。ここでは社会哲学 - 「社会の根本的価値基準」・「社会の洞察と評価」・「社会のあるべき道」をめぐる考察の総称 - 的視点により重点がおかれるが、その理由は直面する経済・社会問題への導きの糸を探る有力な思考法だからである。そのうえで、これまでの経済学がいかにそうした問題にたいする処方箋を考えずにきたのか ― このことはとりわけ「正統派」に顕著である ― を批判的に指摘していくことにする (この箇所は「HET」[History of Economic Thought] という項目のもとで取り扱っていく)。
1. 資本主義システムの問題点
1.1 特性
資本主義システムを特徴づけるのは、何よりもその動態性 (ダイナミズム) にある。資本主義システムは成長を本質とするダイナミックなシステムである。それは二重の意味で動態的である。一方で、市場社会は分業の進展と競争を通じて、そしてそれらが誘発する技術革新を通じて、生産の増大・成長をもたらす。他方で、資本主義システムは、既存の社会システム・制度 (伝統社会とか既存の産業)を浸食・破壊していく。それは凄まじい力で自己を貫徹させようとする特性 (「解き放たれたプロメテウス」) を有する。資本主義システムは成長衝動を秘めるシステムであり,その爆発力が既存システムを破壊するため、不安定性を内在している。このプロメテウスをいかに制御できるかは、各国が資本主義化に成功するうえでの、じつは依然として重要な今日的課題である。
資本主義化は、「市場」と「資本」を通じて実現される。さらに、資本主義システムの根本的特性たる「動態性」を真に担っているのは企業である。企業は不確実な未来に向けて、大量の資金・人材を投入して、商品の開発、市場の開拓に乗り出していかねばならない。
以上の3点 (「動態性」、「市場と資本」、「企業」) が、資本主義システムを根本的に特徴づけている。市場という巨大なネットワークを通じて経済活動が展開されることにより、経済主体は自主的行動を許され、そして無数の経済主体による財・サービスが市場というメカニズムを通じて生産・交換され、さらには企業の活動を通じて、経済は動態的発展を遂げていく。
以上にみたのは、資本主義システムの「発展性」、「進歩性」といういわば利点である。労働の生産性が上昇を続けることで、一人一人の生活が豊かになる基盤を提供してくれるからである。同時に、資本主義システムでは、その基盤が経済主体による自発的な活動によって支えられるため、「経済的自由」から「政治的自由」をもたらし、それゆえに「民主主義」をもたらすことにも大いに貢献してきている。
だが、資本主義システムにはいくつかの、かなり深刻な問題点も認められる。第1に、それは、動態的であるがゆえの、さまざまな「不確実性」にさらされており、危うさ、脆弱性を有する。第2に、それは効率性・自由を追求するあまり、不平等や格差の拡大を是認、もしくは看過する (そしてその結果を自己責任に帰する) 傾向を有している。第3に、それは固有の「アバウトさ」(もしくは「あいまいさ」)を有する。プロメテウスの動態性には、既述のように二面性 ― 肯定的側面と問題的側面 ― が潜んでいる。
[HET]
経済学で上記の見方が主流になったことは、じつは一度もない。古典派は資本主義システムを動学的に補足しようとした (「富の科学」)。スミスは『国富論』で、「富」(いまでいうGDP)の増大をもたらす主因として労働の生産性をあげ、それは分業によってもたらされると論じた。が、企業の役割は無視されたし、自然価値を重視することで市場はそれほど重視されることはなく、動態性のとらえ方が一面的であった。
新古典派になると、「市場」での交換という側面に焦点が移され (「交換の科学」)、「経済主体」間の取引が均衡価格に達するところで決定されるという側面から資本主義システムがとらえられるようになった。企業活動は陽表化されたものの、受動的存在として捕捉され、市場は分析の中心におかれたものの、「市場」のもつ本質的特性は看過され静態的であった。企業 (者) が主役として扱われ、それを中心に資本主義システムのもつ動態性が理論的に展開されるのは、シュムペーターの『経済発展の理論』を待たねばならなかった。
経済学が資本主義システムのなかに「不確実性」を認めるということもほとんどみられなかった。資本主義システムは合理的で安定的なメカニズムを内蔵すると信じられていたからである。古典派・新古典派ともに、完全雇用や「セイ法則」(「一般的供給過剰の不可能性」命題) を当然視していたのはその証左である。資本主義システムにみられる不確実性と危険の識別の重要性を指摘した最初の人物はナイトであり、ケインズであったが、それは20世紀前半のことである。その後も、新古典派にあっては、数理的処理にのせやすいということから、確率論で不確実性を処理しようとする (処理できるとする) 傾向は根強いが、それはナイトのいう「不確実性」ではなく「危険」である。
「不平等や格差の拡大」に関してであるが、古典派はそれを認識していた。リカードウが『経済学および課税の原理』において、3階級間での「富」の分配ならびにその動学的変化を分析するなかで、その点は明示的である。だが、地主階級への分配が大きくなっていくという帰結にたいし、その傾向を是正する必要性が唱えられるということはなかった。それが資本主義システムのもつ自然的・客観的特性と考えられたのである。一方、リカードウの経済学から大きな影響を受けたマルクスは、資本主義システムを資本家による労働者からの「剰余価値」の収奪システムととらえることで、その解決策を資本主義システムそのものの革命的破壊に求めた。
19世紀前半の「産業革命期」のイギリスで象徴的であったのは、ベンサム功利主義の影響を受けた「哲学的急進主義者」による「新救貧法」(1834年。シーニョアやチャドウィックが中心人物) の制定である。これは労働市場の効率化を促進する運動であり、不平等・格差の是正ではなかった。
新古典派にあっては、所得分配は所与としたうえで、市場メカニズムが完全競争下でどのような状況をもたらすのかが追究された。その究極的成果が「パレート最適」概念である(ここでは「所得分配」は問題にされていない)。新古典派には、これとは別に、限界原理にもとづく(クラークなどによる)「完全分配定理」という所得分配論が存する。だが、所得分配そのもののあり方を問題視し、その是正を提案するという動きはみられなかった。資本主義システムに顕著な分配の不平等さを認識し、そしてそれを是正する必要性を強く説いたのは、「ケンブリッジ学派」(ピグー、ケインズ、ロバートソン、ホートリーなど) の経済学者、およびオックスフォードから出てきたホブハウス、ホブソン、ベヴァリッジなどの社会改良的知識人であった (ホブソンは「異端派」の経済学者として扱われてきている)。
「アバウトさ」については、アカーロフ=ミラー (2009) が述べるまで言及されることはなかったと思われる。
以上、資本主義システムの特性を、いわば原理的にみてきた。以下では、(利点として指摘した点ではなく) 現在の資本主義システムが抱えている問題点に関連して 次の3点を取り上げることにしよう。「バブル現象」、「腐敗と不正」、および「格差問題」である。
1.2バブル現象
囚われる企業・人 - バブル現象とは、経済が何らかの要因で過熱し、ついには政府がそれを抑制しようとしても不可能となり、爆発・炎上してしまう状況を指す。
バブル現象が経済システムにとって危険なのは、それが資本主義システム内で活動する人間の本性を「過剰なまでに」突き動かすからである。ライバル企業がバブル(不動産、株式、金融資産などの価格の異常な高騰)を利用して巨額の利益を得ているとき、「バブルは必ず破裂する」といってその波に乗らないというのは、企業組織のトップにとってほとんど許されない(耐えられない)ことである。ライバル企業に比べての財務・給与・配当状況の悪さが際立つことになり、経営幹部、一般社員、株主からの激しい圧力が押し寄せてくるからである。
経営幹部や一般社員にあっても、同僚が多額の注文を取り付けているとき、そして注文実績が公表されているときに、「バブルだから必ず破裂する」といって客の質 (バブルにあおられて桁外れの注文を出しているとか) を選別することは許されない。結果は売り上げ実績でのみ評価される世界であり、もしそういう態度を続けた結果、売り上げが落ち込めば (あるいは社内のライバルに比べて落ち込めば)、その人は給料・ボーナスを大幅カットされたり、あるいは左遷されたり、最悪の場合、リストラされることになるであろう。
資本主義システムに深く関わる組織、すなわち企業にあって、こうした心理は深く根ざすものである。売り上げを最大化することで利潤を最大化することが、企業の根本的な存在理由であるからである。それに、ライバルが儲けているとき (売り上げを伸ばしているとき) に、その状況を冷静に判定して座すことはできないという人間の特性が加わる。バブル状態が続けば、多くの企業・人はそのなかで踊り、そして少なからぬ企業・人は踊り「狂う」ことになる。そのなかで、多数の企業・人は、知らず知らずのうちに、モラル・ハザードの餌食になっていくことになる (例えば、1980年代末の日本での「地上げ」、「偽」預金通帳の発行、21世紀初頭のアメリカでの「ニンジャ・ローン」など)。
バブルは人間性を狂わせる。すべての人が濡れ手に粟的な利殖の獲得に熱中し、そしてその過程で生じる明白な不正行為が横行し、しかもその行為を正当化するような倫理観までもが正当化されるようになる。例えば、LBOや禿鷹ファンド的行為が正当化され、「どのような手段を使おうとも、儲ける者が勝者、路頭に迷うものはビジネス才覚に欠ける者」、「手に汗する労働は下等であり、知識をもつ者が高給を得るのは当然」といった倫理観が横行するようになる。それゆえ、資本主義システムにあって、バブル現象はひとたびある限度を超えて進展してしまった場合、その抑止を企業・個人・市場に委ねることは不可能であり、それは政府にしか求めることはできないのである。
バブル現象の事例 - バブル現象は昔から生じており、例えば17世紀オランダで起きた「チューリップ・バブル」、18世紀ヨーロッパで生じた「株式バブル」(ジョン・ローの名とともに知られる)がある。これらが残した爪あとは非常に大きく、株式会社制度の発展が非常に遅れた要因になっている。
が、バブル現象を語る重要性は過去にさかのぼる必要もない。何よりも、この20年、資本主義システムは世界中でバブル現象を繰り返してきており、いまだにその後遺症から抜け出せない日が続いているからである。
現代のバブル減少の代表的なものとして、80年代末から90年代初めにかけての日本の不動産バブル、90年代中葉から21世紀初めにかけてのアメリカのドットコム・バブル、それに続く住宅バブル、サブプライム・バブル、21世紀になってからのアイルランドやスペインの住宅バブルをあげることができる。いずれにあっても、バブル現象はマネー・サプライの異常な膨張とそれを利用しての過熱する投機活動に起因している。そしてその破裂は、政策当局がこうした暴走を止めることができなくなった結果、生じている。
2008年9月のリーマン・ショックに端を発するアメリカ経済のバブル崩壊は、世界経済を巻き込む重大な影響をおよぼすことになった。これは「シャドウ・バンキング・システム」(SBS) の拡大による「金融の自由化・金融のグローバリゼーション」に大きく由来する。野放図な金融の自由化システムが進展し、その暴走を抑止できない状況がつくられてしまったことに、根本的な原因がある。バブルの暴走を阻止し、資本主義を制御可能な状態に戻すには、金融システムの改組は必須のアジェンダである。2010年7月にアメリカで成立した「金融規制改革法」(「ドッド=フランク法」) はこうした認識に基づくものである (現在との関連でとりわけ重要な歴史的事例は1920年代の貨幣・信用の投機的動きとその暴発である。これを大恐慌の大きな原因とみたルーズヴェルト大統領によって制定されたのが「グラス=スティーガル法」[1933年] であった)。
政府がバブルの暴走を抑止できない事態は、とりもなおさず現在の資本主義システムが陥っている機能不全であり、そうした事態を放置するに至った諸政府の責任であり、機能不全の証左である。「制度改革」は、何よりもこの点をめぐるものである必要があるが、現状ではそうした展望は開けていない。
[HET]
「古典派の二分法」 - 経済学では、こうしたバブルやその崩壊は例外的事象として処理されてきた。さらにいえば、景気変動や失業問題も20世紀初頭になるまで、例外的現象とみなされてきた。それらは資本主義システムの抱える本質的な問題ではないとされ、経済学者は経済学の主要課題は「正常な」プロセスの分析・解明にあると主張してきたのである。「古典派の二分法」や「セイ法則」(「一般的供給過剰の不可能性」命題)にたいする信頼は古典派・新古典派ともに強固であった。
「古典派の二分法」に関係するが、実物分析と貨幣分析の分離は可能と考え、そのうえで、重点を前者においきたという点も、古典派・新古典派に共通する思考法である。いずれも貨幣が現実の経済に果たす役割を正面に受け止めて検討する知的環境は醸成されなかったのである。そうした方法に疑問が呈せられるようになり、いわゆる「貨幣的経済学」が勃興したのは、1920年代以降のことである。「ヴィクセル・コネクション」(ミュルダール、リンダール、ミーゼス、ハイエク、ケインズ) がそれである。
そして資本主義システムにおける失業問題を真正面にすえ、それを理論的に解明するという課題は、ケインズの『一般理論』(1936年) を待たねばならなかったのである。
方法論的個人主義 - (古典派とは異なり) 新古典派経済学には、バブル現象を解明できない大きな問題点が存する。方法論的個人主義がそれである。個人に合理的な選択能力があり、そしてそれを効用の最大化行動をとる経済主体として措定し、その行動が多数の個人によってなされる (相互間の影響はないと「前提」される)ことを通じて市場均衡が達せられるという方法論である。このもとになる哲学はベンサムの功利主義哲学であり、それはジェヴォンズの『経済学の理論』(1871年) によって経済学の根本原理として採用された。
ここにはバブル期に特有の集団的乱舞、集団的パニックといった現象 (ケインズの指摘した「美人投票」的事例に属する) が入り込む余地が当初から欠落しているのである。
「新しい古典派」 ― 何よりも重要な問題、それはこの20年、経済学の主流がケインズ以前の状況に戻る傾向が顕著であったという点である。「新しい古典派」は、「古典派の二分法」や「セイ法則」を擁護・当然視し、非自発的失業の存在を否認するスタンスに立って景気変動を論じてきた。「新しい古典派」にはバブル現象という事態への基本的認識が欠落したままである。メルトダウン以降、ケインズ的視点が大いに注目され、復活してきたのであるが、アカデミズムの主流は依然として旧態以前の状況下にある。資本主義システムのもつ「不安定さの繰り返しと増幅」という、いまの資本主義システムが有する本質的特性を真正面に据えた分析がいまほど必要とされているときはない。
1.3不正と腐敗
資本主義システムでは、市場を通じての財・サービスの交換を基本にするから、その取引は効率的・合理的であり、かつ参加する諸個人の自由、諸個人間の対等性・公平性が保証されるという利点を有する。この点において、他のシステムをはるかに凌駕していることは強調されてよい。だが、そのことを賛美するあまり、資本主義システムに無批判的になるようなことがあってはならない。このシステムも、他のシステムと同様に (ただし資本主義システム特有の) 不正と腐敗を生じやすいからである。以下、2点 - 帳簿操作と金融に関連する不正・腐敗 - をあげておこう。
帳簿操作に関連する不正・腐敗 - 資本主義システムでは、すべての経済活動は貨幣で評価され、(複式)簿記的に記帳される。それらを集計することで各企業のパフォーマンス ― 損益や利益額など ― についての判断が可能になる (逆にいえば、簿記記帳がなければ、パフォーマンスを知る方法は存在しない)。
だが、帳簿への記帳行為には、金額的な確定が本来的に困難な取引 ― 例えば減価償却費 ― や、根本的に解決の難しい問題 ― 例えば、原価会計か時価会計か ―も少なくないため、いろいろな落とし穴の入り込む危険性が存在する。
本来は赤字である業績を黒字にみせる会計操作なども行われ、それにより経営者が巨万の利得を手にするといったことが日常的に生じている。そしてこうした行為を抑止することはかなり難しい。それが合法的な利得なのか、非合法的なものなのかを識別・判定することは、ほとんどの場合不可能だからである。不正経理はその一例であり、2000年頃に発覚したエンロン事件は近年の代表的事例である。会計監査法人アーサー・アンダーソン会計事務所はこの件での加担により、倒産に追い込まれた。
何よりも非合法的な利得である場合、税務署による摘発が必要である。それは氷山の一角を突く行為であり、大多数は闇のなかである (現在、ユーロ危機に関連して、ギリシアやイタリアでは税逃れをいかに摘発し、税収を増やすかが大きな課題となっているが、じつはアメリカでもそれは大きな問題になっている)。
金融に関連する不正・腐敗 - 資本主義システムは金融抜きには成立し得ない。実体経済がある程度の規模になると、生産・サービス活動に必要な資金を次第に外部に依存せざるをえなくなる。それが金融の本来的役割、存在価値である。だが、金融は不正を働く余地がきわめて大きい分野でもある。金融が無制限の自由を享受するようになると、それに比例して不正を働く余地、したがって腐敗が生じる余地も拡大していく。
金融により生み出される不正・腐敗にはいくつもの種類があるが、ここでは代表的なものとして3点をあげておくことにしよう。
(1) 株式市場の悪用 ― インサイダー取引、デマ情報を流しての株価操作、LBO、M&Aなど。
(2) 市場の不存在と不透明化による利益の収奪 ― 近年粗製乱造された「証券化商品」。
(3)「強制貯蓄」- 信用を創出する権利を手にしている金融機関が、必要とする財・サービスを思いのままに取得できる方法
[HET]
経済学の主流、とりわけ新古典派は、「性善説」もしくは「啓蒙主義」に依拠して組み立てられている。経済主体を合理的な判断ができる存在であるということを「公準」にし、しかもそれを (功利主義的に)「効用」を極大化する存在とみることから理論を組み立てている。市場もこうした判断能力を有する経済主体が対等の立場で効用を極大化するところで取引を成立させる場としてとらえられている。経済学の外部にいる人が聞くと驚くべきことだが、いまの「新しい古典派」はさらに「上」を行き、「合理的期待形成」と呼ばれる能力をもつ「超能力的」個人を措定してモデルを構築し、さらにそれに基づいて「現実の経済」を分析してきている (もう1つの経済主体である企業も、同様に経済合理性に基づいて行動する主体としてとらえられ、収入と費用の差額である利潤を極大化するとみなされ、かつ他企業からの影響を受けることなく、意思決定を行うとみなされる)。
こうした立場からは、資本主義システムに内在する経済主体の不正・腐敗行為は当初から棄却されてしまっている。バブルに「踊り狂う」という企業や個人はその存在が認められていないのである。企業自体が不正を行う余地が、既述のように多々あるにもかかわらず、そして市場取引を放置・放任しておくとそうしたインセンチブが働く余地が多々あり、事実そうした行為が横行しているにもかかわらず、古典派、新古典派がそうしたことに関心を払うことはなかったし、さらに強調すべきことだが、「新しい古典派」もそうしたことに関心を払うことはない。
市場システムを無条件的に礼賛する人々が、市場そのものがもつ「あいまいな」要素に目をむけることはないが、じつはこのポイントは重要である。
「商品」は市場で取引されることが当然視されているが、(「市場の失敗」とは性質を異にする)「市場の不存在」という問題がある。これは21世紀のアメリカにあって、「証券化商品」の多層化が進行するなか、取引される市場も存在しないまま「商品」として粗製乱造されたという現象に典型的である。しかも取引が行われる場合でも、市場を通じてではなく、多くはきわめて不透明な状況 - 典型はOTC - で行われてきている。
これらがもつ問題は、市場システムを賛美する人々がこうした「闇の特性」に目を向けていないということにとどまらない点である。その多くの人々は、その点に「目をつけて」GDPを収奪する新たな方法 -「証券化商品」― を開発・販売してきている。GDPを民間部門から政府部門へ移転させる手法として、以前から、インフレ、「強制貯蓄」が知られているが、「証券化商品」は実体経済から金融部門へのGDPの移転もしくは収奪手法といえる。
1.4 格差問題
「所得格差・財産格差」も資本主義システムにみられる大きな問題である。これは他のシステムに比べて、ことさら大きいわけでない。資本主義システムにあっては、経済主体の行動の自由度は他のシステムとは比べものにならないほど高いからである。ここでは、いかに格差を是正・解消させるかたちで制度を組み込んでいけるかが問題である。
産業革命から福祉国家へ - (産業) 資本主義システムは、18世紀後半から19世紀半ばにかけて展開した「産業革命」を経てイギリスで最初に生まれた。それは自由放任主義的なかたちで ―政府が関与することなく ― 発展をみた。その結果は、資本家と労働者という2つの階級、およびそのあいだの著しい所得格差の出現であった。巨万の富を蓄え、貴族地主階級をも経済的に凌駕する資本家と、スラム街に住み、劣悪な労働環境で働く膨大な数の労働者の出現である。エンゲルスやメイヒューが目撃したのはこうしたスラム街である。マルクス=エンゲルスが資本主義システムを剰余価値の収奪システムととらえ、プロレタリアート革命を唱えたのもそうした環境下であった。
19世紀も後半になると、イギリスの資本主義システムは「富」が「労働貴族層」にも行き渡るようになっていった。だがそれと同時に、このシステムが依然として大衆の「貧困問題」を解決できていない現状を是正しようとする機運が社会的に広まりをみせてくることになった。その動きは時を追うにつれて強くなり、「ニュー・リベラリズム」的な社会哲学に後押しされつつ、次第に福祉国家の実現を目指す方向へと進んでいった。その象徴的存在が『ベヴァリッジ報告』(1942年)である。
「市場原理主義」の進展 - その後の歴史的進展は、80年代あたりから大きな転回をみせることになった。1991年には社会主義システムは消滅し、その前後から資本主義世界でも、市場と企業の自由な活動を唱道し、国家の介入や福祉主義的方策を否定する自由放任主義的グローバリゼーション (「市場原理主義」)が驀進することになった。
その結果もたらされた大きな特徴が、各国で進展をみせてきた所得格差(貧富格差)の拡大である。このことは、ジニ係数その他、所得格差を測定するあらゆる数値が雄弁に物語っている。このことは「新興国」BRICSにおいて顕著であるのは想像しやすいが、アメリカ、イギリスなどの先進国でも然りなのである。
アメリカでみてみよう。2006年度、最上位の1%が全所得の22%を占めるまでになっており、過去80年間で最大になっている。1979 - 2002年の税引き後所得でみると、最上位の1%がこの間111%上昇したのにたいし、第2階層では48%、最下層では5%であった。しかも2011年1月18日に報道されたニューヨーク・タイムズとフットノーティド・コムによる調査によると、最上位層はリーマン・ショック後も巨額の所得・資産を享受している。これにたいし、中間層やそれ以下の大衆は、長期にわたる失業や不動産ローン(いわゆる「アンダー・ウォーター」) に苦しんでおり、所得格差は拡大の一途をたどっている。巨額の富を濡れ手で粟状態で獲得しているウォール・ストリートとメイン・ストリートの鮮明な対照性が認められるのである。
1978年の「改革開放」政策以来、驚異的な経済成長を続け、いまではアメリカに次ぐGDPを達成している中国は、所得格差・貧富格差が激しく進行している国であることが知られ、その点を突く批判も少なくない。だがその状況をアメリカが批判する資格はとなると、いささか心もとないのが実情である。
今日、世界中の指導者のあいだで、格差の是正を解決することが資本主義世界の喫緊の課題であり、それができない場合、資本主義世界は大きな危機を迎えることになる、という認識が日増しに強くなっている(例えば、『エコノミスト』2011年1月20日号を参照)。
[HET]
資本主義システムは経済活動の基盤を市場においている。新古典派はそのメカニズムをモデル化したものとしての (ワルラスの)「一般均衡理論」に、絶大なる信頼を寄せてきた。だがこのモデルは、財産の分配状況を所与としている。すなわち、財産の分配状況を所与としたうえで、市場における交換現象が説明されているのであって、財産がどのように分配されているのかは問われていない。
新古典派が「正義」を論じる場合、それは「交換的正義」を意味する。これは市場メカニズムが交換という行為により「正義」を実現しているとみなす考えであり、結果的に存在する分配状況が異常であったとしても、そのことにたいする価値判断は排除されている。これに対立する正義論としての「分配的正義」は、新古典派に属する命題ではない。
新古典派が有する関連した思想に「市場の自由な作用に委ねれば、経済システムは効率的な状況を現出する」というものがある。これは「パレート最適」概念に直結している。これも、財産の分配状況は所与として論じられており、分配状況がいかに決定されるかを論じたものではない。
財産や所得の獲得方法に大きな差がある資本主義システムにあって、市場の自由な作用のみに経済を委ねた場合、一層の格差を現出しがちである。この状況を市場の自由な作用の結果として是認するのか、それとも不当なものとして是正を要請するのか、という問題が絶えず登場してくる。この判断には倫理的価値判断が必須となるが、そのためには「妥当な格差」基準について何らかの合意が形成される必要がある。ケインズが述べたように、経済学は「モラル・サイエンス」であることを想起すべきである。
2.資本主義システムのあり方を問う
前節で、資本主義システムは、「市場原理主義」が無条件的に絶賛するほどは優れたものとはいえないこと、むしろ見落とされがちな、しかし小さくはないいくつかの問題を抱えるシステムであること、を説明した。そのうえで、改めていえば、資本主義システムは、他のシステムには代えがたい魅力をもっている。重要なのは、資本主義システムの廃止ではなく、「不適正な資本主義」もつ欠点を是正し、「適正な資本主義」を発展させるために、いかなる配慮を払っていくべきかを問うことである。資本主義システムは、野放しの自由放任状況におかれると、バブル現象に象徴されるような崩壊をもたらす危険性や、貧富の格差拡大をもたらすことで人々が不満を爆発させ政治的に崩壊をもたらす危険性を秘めている。
「適正な資本主義」・「不適正な資本主義」は、「科学的ではない」としてただちに新古典派から批判を浴びそうなタームである。「適正さ」の判断基準はあいまいな要素を逃れることができないからである。だが、それでもなお、この概念は経済学が「モラル・サイエンス」であるかぎり、「正義」「自由」「公平」などと同様に必要とされる。大事なのは、「適正さ」を否定することではなく、合意に値する「適正さ」を具体化していくことである。そして何よりも、眼前に存在する資本主義システムがこうした概念の具体化を希求しているのである。
ここでは「適正な資本主義」を模索するうえで重要と思われる4つのポイント ― 「金融部門と実体経済のあり方」、「ビジネス・エシックス」、「自由と規制」、「政府の役割」 ― を取り上げることにしよう。
2.1 「金融部門」と「実体経済」のあり方
資本主義システムは本性的に貨幣経済である。財・サービスの市場での取引は貨幣もしくは信用を用いて行われており、物々交換によっているわけではない。資本主義システムは本性的に動態的である。成長衝動を有する企業は、必要となる資金を外部から調達する必要があり、そのため金融部門が要請される。金融部門は実体経済の円滑な展開・成長を促進するために、当初は必要とされたのである。
だが、金融部門は実体経済とは無関係に、自己利益のために活動しがちな特性を合わせもっており、貨幣・信用そのものを売買する金融市場が自己増殖を続けていく可能性を秘めている。信用創造自体、中央銀行や金融機関が「意図的に」創造できるものであり、それが公益のためになされるという保証はどこにもない。本来、資金調達手段として発行される債券や株式もストックとして蓄積し、流通市場が出現してくると、やがて金融機関や機関投資家のポートフォリオの対象として扱われるようになり、さらには投機家が参入して投機の対象となる。外国為替市場でも、当初は対外取引の決済手段として使われていた (多数の) 貨幣が、やがて金融機関や機関投資家のポートフォリオの対象として扱われるようになり、さらには投機家が参入して投機の対象となる。
こうして金融資産は、本来の目的から、しだいにポートフォリオの対象、さらには投機の対象へと、目的の多様化を遂げていくことになる。さらに、21世紀いなって異常な発展をみせた「証券化商品」に至ると、発行の目的は資金調達の手段からはほど遠い様相を呈するに至っている。これらは、GDPを実体経済から「強奪する」手段に化しているといってもよいほどである。
私たちは金融部門のこうした傾向をどのように評価すべきであろうか。
「証券化商品」の多層化現象を資本主義システムの正常な進化として手放しで喜べるものでない点には誰しも同意することであろう。実体経済とかけ離れ、マネー・ゲームが自己増殖的展開を続け、GDPの益々多くの割合を金融部門が実体経済から「強奪する」に至った近年の事態は、「適正な資本主義」でないことは確かである。金融部門の規模とGDPとの関係には自ずと「適正な比率」というのがあるべきであり、それを著しく逸脱する状況は政府による監視の目が不可欠である。例えば、ユーロ圏での「安定・成長合意」は予算赤字/GDPを3%, 国債残高/GDPを60%、バーゼル合意は自己資本比率を8%と設定している。こうした具体的数値に確たる根拠があるわけではない。それでいてこれらを設定してシステムの安定化を図ろうと努めているのである。
金融の自由化の美名のもと、金融機関が投機的な資金の調達・運用に明け暮れ、その結果、世界の資本主義システムが破壊されるような行動が組み込まれている場合、それは「不適正な資本主義」として規制される必要がある。
「適正」、「不適正」概念が、現実の資本主義システムを評価するうえできわめて重要な意味をもっていることを、今回のメルトダウンとその帰結でみておこう。
(1) 金融部門の肥大化は多層化された「証券化商品」が格付け機関によって「ほぼ無審査」で「AAA」のお墨付きを得ることで、販売が促進された。これは「不適正な」拡大の典型であるが、現在の資本主義システムはこうした行動を抑止するメカニズムが欠落している。
(2) メルトダウン後、金融部門は「大きすぎて潰せない」(TBTF) の考えのもと、巨額の公的資金によって救われたのにたいし、実体部門は基本的に「自己責任」原理にさらされたままである。
(3) 金融部門の肥大化はGDPの「不適正なまでに」大きなシェアを占めることになり、その結果、所得格差の「不当な」拡大を助長してきた。ウォール・ストリートとメイン・ストリートの所得格差は、労働生産性の相違に帰すことのできない要因をはらんでいる。
(4) メルトダウンから3年が経過したが、金融部門の体質は何も改善されることなく今日に至っている。2010年7月にドッド=フランク法が成立したのは大きな希望の灯かりであったが、いまは風前の灯状況にある。すなわち、第2のリーマン・ショックを防止するシステム構築は何もなされていない。
したがって、次のようにいうこともできるであろう。上記4点の事態が再現しないように金部部門の行動を監視できるようにすること、これがとりあえず、適正な比率のもつ現実的意味であると考えるのである。
「金融部門」と「実体経済」の「適正な」割合というコンセプトは、いまのところ存在していないのであるが、これには、下記のような要因も絡んでいると思われる。
(1) 産業構造が技術的に高度化するにつれ、実体経済にあっても、製品の付加価値に占める「知識」、「情報」、「技術」の重要性が急速に上昇した。しかも、マイクロソフトやグーグルのように、ソフトウェアそのものが独立した巨大企業化している事態になっており、ハードとソフトの識別はますます不明瞭になっている。
(2) 1980年代から、IT技術の驚異的な発展とそれに伴う情報処理産業の飛躍的な展開がみられた。これらの産業は、従来の「実体経済」的コンセプトではなかなか捕捉しがたいものであるが、この展開は「金融部門」自体の特性をも著しく変える大きな要因になった。同時期、金融のグローバリゼーションが進展するなか、金融部門でもIT技術、ソフトウェア技術を駆使して新たな金融商品を生み出し、それをもとにグローバル市場での収益獲得を目的とする企業 -投資銀行、ヘッジ・ファンド、エクィティ・ファンドなど - が金融部門に君臨するようになっていった。こうしたなか、金融部門の役割も実体経済に資本を提供するという従来の受身的存在から、積極的に商品(証券化商品)の開発・販売を行う積極的存在に転身していくことになり、結果として「実体経済」への関心を喪失していった。
(3)「金融部門」のこうした成長を、アカデミック、ならびに技術的に促進させたのが「金融工学」である。これは金融商品の開発に必要な技術を提供するものであったが、その「適正さ」を決めることに関心を払うものではなかった。
(4) 経済学そのものに深く根ざす「論理実証主義」的思考がある。これは「適正」とか「不適正」といった倫理的カテゴリーを科学的でない (形而上学的) として経済学から排除しようとする考えである。そのため経済学は巨大化する「金融部門」を後追い的に是認するばかりで (ファーマの「効率的市場仮設」など)、「適正な評価基準」を用意しておかなければ、資本主義システムそのものが破壊されることになる、というスタンスを持ち合わせていなかった。
労働倫理観 - 「不適正な資本主義」が横行するなか、とりわけ先進国にあって忘れられてしまっている問題がある。労働倫理観の悪い方向へのシフトである。
資本主義システムには、勤勉な労働(額に汗して働くことで収入を得る)と濡れ手に粟的な労働(証券化商品を開発し、それを格付け機関の評価を得て販売することで莫大な収益を手にする)の2種類が存する。その倫理観には大きな相違が存在する。前者はウェーバーのプロテスタンティズムの労働倫理に属するもので、労働と禁欲的職業倫理が一体化している。これにたいし、後者は絶えず他者をだます、他者にババを渡す、という行為への誘惑が潜んでいるのみならず、そうした行為を正当化する労働倫理に属する。金融工学の美名のもと、誰も責任をとることのない証券化商品を氾濫させ、自らがババを引かないように立ち回ればよい、だまされた方が無知なのだ、という倫理観である。その行動を徹底化させることで、ある国をデフォルトに陥れたり、為替危機に陥れることで、平然と巨額の利益を獲得する、そしてその実現をもって労働評価をくだすような倫理観である。
こうした労働倫理観のシフトには、近年の「労働市場の自由化」がいきすぎた結果、労働のなかに「非正規労働」の占める割合がきわめて高くなり、企業は状況に応じて必要な労働を適宜増減できる状況が現出してきていることが、大いに関係している。
[HET]
経済学の歴史にあっては、既述のように、貨幣部門と実体経済を切り離して考えても、資本主義システムを考察するうえで影響はない、とする見解がきわめて強い。貨幣が決定するのは物価水準(もしくは絶対価格)であり、実体経済はそれとは独立に相対価格を決定する (新古典派)、もしくは「富」を決定する (古典派) というような考えである。
このため、貨幣部門と実体経済の相互的作用を論じるという発想をとるいわゆる「貨幣的経済学」の展開は、1920年代の「ヴィクセル・コネクション」やケインズの『一般理論』を待つ必要があった。
だが、1970年代からマクロ経済学は、マネタリズムや「新しい古典派」が隆盛になり、新古典派の旧来のスタンスに戻ってしまったのである。これは経済学を後退させる方向に貢献したように思われる。
労働倫理観という問題であるが、経済学は労働問題を主として「効率的な労働市場」を理想とする観点からとらえる傾向が強かったように思われる。経済が停滞している国にあっては、その大きな原因を労働市場の硬直性に求め、そうした硬直性の原因をさらにクローズド・ショップ制や強い労働組合などに求め、その解体を迫るという発想である。実際にこの考えの影響力は強く、この20年ほどのあいだに、ほとんどの国において労働組合は弱体化を続けてきており、労働市場は「自由化」への道を歩むことになった。
いまでは、ウェーバー的な労働倫理観は色あせ、むしろ低賃金の非正規労働の激増は、マルクス=エンゲルス時代の労働観に戻っているといえるほどである。非正規労働者は労働の切り売りをするものであり、誇りがもてず、身分保障もきわめて乏しい。それとは対照的に、金融部門で働く者には、不当に高い給与が支払われている。その彼らにあっても、プロテスタント的使命観があるわけではなく、ただ高給を稼げる場所であるがゆえに、そこで働いている。
2.2 ビジネス・エシックス
資本主義システムの動態性を請け負うのは企業である。企業は利潤をあげられそうな領域を探り出し、開拓・創造していくことで自ら成長するとともに、資本主義システムの発展を牽引していく。成功した企業は、短期間のうちに巨額の利潤をあげ、巨大化していくことになる。
この点を考察するさいに(経済学では)軽視されてきた重要な問題がある。今日の発達した資本主義システムにあっては、きわめて多く人が企業組織にポストを得て暮らしているわけだが、そうした企業はいかなる倫理観 (ビジネス・エシックス)を有しているのかという問題である。
この点で考える必要があるのは、「証券化商品」の多層的展開とレヴァリッジの手法などを通じ、金融部門、とりわけシャドウ・バンキング・システム (SBS) がGDPの多くのシェアを奪う状況の現出である。これらの企業組織が巨大化することで、資本主義システムのビジネス・エシックスが大きな影響を受けている。
次のような発言は、マスメディアや市場原理主義者を通じて、さかんになされてきた。
「自己責任に基づいた意思決定によって将来を切り拓く、そして失敗した場合には市場で淘汰されことで自らの責任をとり退出する。こうしたメカニズムによって資本主義システムは経済効率性と成長のみならず自由と正義を実現させることができる。」
しかるに、現状はというと、資本主義システムの先頭を走ってきたはずの金融部門の大企業が「大きすぎて潰せない」(“Too Big To Fail”) を後ろ盾にして、政府に巨額のベイルアウトを要請し、政府もそれに応じた(しかもこの行動には、TARPの実施目的の変更や、投資銀行の商業銀行への変更行為などの「違法行為」もつきまとっている)。その行動の「迅速さ」には目を見張るものがある。これはアメリカだけで起きたことではなく、多くの政府が同様の行動を取っている。
しかもベイルアウトを受けた企業の経営者がその責任を問われることはほとんどなかったうえに、メリル・リンチやAIGのボーナス問題に象徴されるようなインモラルな行動を取り続けてきた。こうした不正、堕落、利己主義が先進国の大企業内に蔓延したままなのであり、それを律する制度的改革が実行に移されているという話は、ほとんど聞こえてこない。
上記にみられるようなビジネス・エシックスが資本主義システムを牽引する企業を支配・規定しているとすれば、こうした資本主義システムは病理的状況にあり、したがって「不適正」であると評してよい。
とりわけ、金融部門に属する企業のビジネス・エシックスは大きな問題を抱えたままである。自己利益の極大化のために金融技術を利用することに専念するあまり、メイン・ストリートの発展や国民経済全般の福祉に関心を払わないばかりか、むしろそれらに危害を加える行動でもそれが自己を利するのであれば気にしない、そして失敗した場合には、政府からベイルアウトを受けることも当然視する、さらにはそうした状態にあっても、巨額のボーナスを受け取ることに何の道義的責任も感じない。こうした事態は異常であるし、それにたいし、何の対策も講じられていないという事態はさらに異常である。
こうしたビジネス・エシックスは、企業が創造的な領域を開拓し、あらたな市場を生み出していくため、R&Dを投じて日夜努力を続ける、というビジネス・エシックスとは次元を異にしている。企業行動の根底を規定する新たなビジネス・モデルが育たないならば、その資本主義システムは「不適正」なままであり、あらたな経済危機を引き起こす大きな火種を残したままということになるであろう。
これに関連する事例を2つあげておこう。1つは、2009年3月13日の『フィナンシャル・タイムズ』で、アングロ・サクソン型の企業経営への経営者自身の反省の弁が取り上げられている。もう1つは、2011年1月16日の『オブザーバー』で、スイスの銀行家エルマーによる世界中の資産家やヘッジ・ファンドの税回避をめぐる情報のウィキリークスへの引渡し計画が取り上げられている。
[HET]
資本主義システムの発展の基軸に「企業」をおいたのはシュムペーターの『経済発展の理論』である (興味深いが、ミーゼスにも同様の見解がみられる)。だが、これは例外中の例外であり、経済学の歴史にあって、企業に同様の位置づけが与えられたことはほとんどなかったといってよい。
それは古典派、新古典派に共通している。古典派にあっては、リカードウにみられるように、多数の市場における利潤率を均等化させる役割という見方があったが、それは静態的な枠組みにとどまるものであった (彼の本来の理論は動態的であったが)。新古典派にあっては、企業は静態的枠組み内での利潤極大化行動をとる経済主体として定式化されていた。マーシャルは企業の役割を重視した経済学者として知られるが、彼がそれを理論として具体化しているのは「複合準地代」としてのみである。
企業といえば、現代の経済学に大きな影響力をもっているものにコースの企業理論がある。これは、取引コストを内部経済化することが市場で取引するよりも有利な場合に企業が成立するという考えで、いわばこれまで「点」の扱いであった企業を「空間」的存在としてとらえる試みである。だがその見方は、資本主義システムのダイナミックさを担う存在としての企業に関係しているわけではない。
2.3 自由と規制
資本主義システムの利点として、「市場」という場で自由な意思を有する経済主体同士が経済合理的な取引を行うことができる、という点があげられる。確かに市場は、他の経済システムに比べ恣意性の入り込む余地の最も少ない優れた制度である。しかしながら、だからといって無制限な自由化を許容することが資本主義システムを最善にするという保証はどこにもない、という点にも留意すべきである (ミル『自由論』における「自由」概念を想起されたい)。
個人の自由が「可能なかぎり」尊重されるべきであるというのは当然である。プライバシーへのいかなる人、いかなる機関、いかなる社会、そしていかなる国家の介入・干渉も拒否すべきである、というのもその通りである。だが、それはつねに、「可能なかぎり」という限定条件がつけられての上での話である。
個人や企業行動の自由があまりにも大きくなり、例えば100人程度のヘッジ・ファンドの失敗が世界の金融システムを瓦解させるような事態に至るまで自由な行動が許容されるというのは - 1998年のLTCMがこの典型的事例 - 許されることではないであろう。自由には社会の安定を損なわないという制限条件があって然るべきである。経済取引の自由が極端になると、その行動が誰の目からも逃れることになり、しかもその行動が及ぼす影響が巨大なものである場合、突如としてシステム全体の瓦解を招くような事態が生じる危険性が出てくる。このことは近年実際に生じた。リーマン・ショック以降のメルト・ダウンの原因の1つだが、相対取引 (OTC) が極端になり、その不透明さが「市場の不透明さ」、あるいは「市場の不存在状況」を増したという現象である。
わたし達は自由化のもつ意味、意義を立ち止まって考えるべきときにきている。近年、マスメディアやネオ・リベラストの唱道のまえに、人々は「自由」という言葉、「規制緩和」という言葉の魔力に呪縛されてきた感があるが、わたし達は自由とともに、自由と「平等・善・徳」がいかなる関係にあるべきかを考える必要がある。無制限の自由では「平等・善・徳」という問題に対処することはできない。無制限の自由化が「不適正な資本主義」をもたらすような場合、「適正な資本主義」という原点に立ち戻れるよう考え直す必要がある。
以下、自由と規制をめぐる問題を労働と資本に限定して考えてみたい。
2.3.1 労働 - 日本の事例
1999年、2004年の改訂を経て、「労働者派遣法」は、ほとんどの業種に「派遣労働」が適用されるようになった。これは企業側からみれば、景気の状況に応じて臨機応変に必要な労働力を増減できる効率的な制度である。その推進者は、これを「労働市場の自由化の一貫」、「規制の撤廃された労働市場の実現」ととらえてきている。しかし、その結果実現したのは、労働組合の弱体化と労働の切り売り現象である。いつでも必要な労働力を調達できる権利を手にする経営者の出現は、見方を変えれば、いつでも首が切れる労働者、社会保障のセーフティ・ネットをもたない労働者、解雇と同時に住む場所の保証すら失う労働者の出現である。現在の資本主義システムは、皮肉にも、産業革命時のイギリスの世界に逆戻りしている。同法の改定は、多くの働き手を現代版日雇い労働者の状況においている。労働市場の規制緩和の名のもと、社会保障がまったく適用されない、かつてのプロレタリアートの再来である。
労働する者の立場が、この10年のあいだに著しく悪化している ― これはアメリカでもEUでも多かれ少なかれ共通している。総務省のデータによると、非正規労働者数は1999年の1225万人が2008年には1760万人へと増加しており、その結果、正規労働者数 対 非正規労働者数は同75.1 : 24.9から65.9 : 34.1になっている。
人々がセーフティ・ネットのない不安な状況で生活を送らざるをえないような資本主義システムはけっして「適正」なものではない。ある程度の安心が保証されてこそ、人は前向きになることができる。労働の自由化が極端にまで行き、派遣労働にまで至るというのが、なぜ自由の名のもとに正当化されるのであろうか。他方で、現在の資本主義システムでは「クォンツ」のような存在、価値観が正当化される風潮が見受けられる。金融工学を武器にするクォントが異常なボーナスをもらう事態は正当化できるものではない。技術畑、生化学、薬剤などで働く研究員の給与は、そこで発揮される同等以上の高度の知識にもかかわらず、そうしたボーナス支払いを受けることはない。
労働と自由のあり方がいまほど問われ直すべきときはない。
2.3.2 資本
資本が高利潤率の分野を求め自由に移動できるというのは、資本主義システムが、他の経済システムに比べて有する利点である4。これも相当程度真実である。資本移動の自由化にあまりにも制限が課せられている場合、経済の円滑な発展は著しく妨げられることになる。
資本という概念は幅広い意味で使われてきているが、ここでは (実物資本ではなく) 金融・貨幣資本に限定する。今日の資本主義システムにとっての一番の問題は、資本の自由化がグローバルに展開し、SBSが極端に肥大化し、かつ「証券化商品」が多層的に生み出されるかたちでの展開である。ここまで推し進められた資本の自由化は「適正な資本主義」の範疇を大きく逸脱してしまっている。
1つの例として1997年のタイを中心に発生し、東南アジア全体に大きな混乱をもたらした金融危機をあげることができる。固定相場制度 (この場合、ドル・ペッグ) のもと、短期借り、長期投資により経済成長を続けていたタイ経済の脆弱性に目をつけて、ヘッジ・ファンドが投機行為 (ドル買い、バーツ売り) を仕掛けた。自らの思惑の実現を目指すべくこの行為を継続することで、ついにはタイ政府には対抗するドルが枯渇し、バーツは大幅な切り下げとなった。このことでヘッジ・ファンドを巨額の利益を得たが、タイ経済 (負債額が膨れ上がることになった) をはじめ、東南アジア全体の経済を大きく揺さぶることになったのである。
こうした行為で一国の経済を危機にさらすというのはいかなる理由で許されるのであろうか。資本の自由化が極端にまで行き、その結果、そうした投機的行為が何か賞賛されるような風潮の出現も見受けられるが、これはどのような意味で正当化されるのであろうか。いま資本と自由のあり方が問われている。
[HET]
政治思想とは異なり、経済学で「自由」を論じるときには、市場にたいする規制が排除され、経済主体の行動の自由が保障され、市場メカニズムがスムーズに機能する状態という意味で使われる。 その背景には、市場への政府の介入は資源の最適な配分をゆがめ、経済を不効率にする、という考えがある。ここでの問題は、「市場」にたいする信頼が市場のもつ長所のみをみることで高くなりすぎ、すべての問題を「規制」にみる点である (例外はピグーから始まる、いわゆる「市場の失敗」論である)。
これは資本主義システムのあり方をめぐる大きな社会哲学的問題といえる。2つの関連事例を示しておこう。
1つは、「社会主義経済計算論争」にみられた社会哲学である。社会主義を信奉する陣営 (ランゲなど) はワルラスの「一般均衡理論」を用いた。他方、資本主義を信奉する陣営 (ミーゼスやハイエク) は、資本主義をむしろ不確実なシステムとしてとらえ、かつそれを是とする立場に立った。前者は資本主義システムの不安定性を認識していたがゆえに、それを止揚すべく計画経済に走ってしまった。他方、後者は資本主義システムを多数の経済主体による複雑で予測できないシステムであるが、それは (例えばハイエクの場合)「自生的秩序」として安定性を有すると考え、このシステムのもつ自由さを称揚した。
もう1つは、ケンブリッジの経済学者 (ケインズ、ロバートソン、ピグー、ホートリー)
がとった立場である。彼らは、多かれ少なかれ、資本主義システムのもつ利点を是認しつつも、他方で資本主義システムのもつ欠陥としての所得格差等を強く意識し、その是正に国家介入の必要性を強調するスタンスをとった。これは「社会主義経済計算論争」のいずれの立場とも一線を画している。
2.4 政府の役割
これまで現在の資本主義システムがいかなる問題を抱えており、それにたいしどのような解決策があるのかを探ってきた。資本主義システムは、経済主体の自由な意思決定を通じた市場での取引、ならびに資本の円滑な移動の自由、が保証されることで、効率的で、かつダイナミックな発展を達成することができる。だが、それは無制限の自由の容認を意味するわけではない。市場も、商品も、経済主体も、無制限の自由におかれると、資本主義システムを崩壊させる行動を引き起こす危険性が高い。そうした状態を防止するために政府が果たすべき役割が存在する。そのいくつかをあげておこう。
(1) バブル現象が起きないように、適切な金融・財政政策をとる。バブル現象はすでに述べたように、政府以外止めることはできない。
(2) 金融部門の行動を監視する。政府の手を離れた金融機関が巨大なSBSをつくり、かつ「多層化」された「証券化商品」を乱発することを許容したことが、今回のメルトダウンを引き起こした。これらの存在は、自由の名のもとに、「市場の不存在状況」、「市場の不透明化状況」を作り出してしまっている。これは資本主義システムの求める「自由」とは異質のものである。ドッド=フランク法はそうした目的で金融部門の行動を監視するために立法化されたものである。これらの監視システムを制度化することで、現在、金融界にはびこる「不正や腐敗」を抑制することもある程度可能になるであろう。
(3) 格差是正策をとる。自由化の行き過ぎは所得格差を拡大させてきた。とりわけ、最富裕層にたいする税制優遇を温存したり (アメリカのブッシュ減税) 、超緊縮政策を大衆からの税の徴収によって実現しようとするような策(ユーロ諸国)にたいし、政府は自覚をもって襟を正すべきであろう。
(4) 政府はクレプトクラシーを断ち切る方策を探るべきである。現在の資本主義システムに顕著なのは、「金融部門」がTBTFなどを根拠に、不当に優遇されている点である。しかもアメリカにあっては、それは人事的にも明々白々である。そしてその優遇は、実体経済を無視し、GDPのうち自己の取り分の拡大を自己目的化するような行為を生み続けている。
「適正な資本主義」が実現されるには、こうした諸点に積極的な施策の打ち出されることが、政府にたいして要請されている (上記のうち、(4) は政府ではなく、国民がそうした政府をつくる方向に動かないかぎり、不可能な問題である) 。
[HET]
資本主義システムのもとで国家が果たすべき役割は、スミス以来、J.S.ミル、シジウィックなどによって盛んに論じられてきたし、その後、イギリスでは貧困問題や失業問題との関係で、ホブソンやベヴァリッジなどにより、さらには戦間期にはケンブリッジ学派の人々により「ニュー・リベラリズム」というかたちで論じられてきた(ピグーの有名な「外部経済」の問題もここで指摘しておく必要がある)。
さらには「ベヴァリッジ報告」に具体化されたような福祉システムの構築という思想も戦後の長期にわたり、大きな影響力を世界中におよぼしてきた。グローバリゼーションが進展するなかで、政府の最小化、市場への介入の禁止を唱えるリバタリアニズムの影響力が増し、こうした傾向が逆転されるような傾向が、この30年間、続いてきた。だが、その結果現出している眼前の資本主義システムは、バブル現象、不正と腐敗、所得格差、金融部門の肥大化、市場の不存在などの深刻な欠陥をさらけ出している。これらの是正には、政府を含む市場以外の何らかの中間組織の貢献が必須ある。
現在の資本主義システムは、この30年間の金融の自由化とそれを推進したネオ・リベラリズムが生み出した金融部門の肥大化 (SBSの進展、多層化された「証券化商品」など) が、リーマン・ショックによるメルトダウンを通じ破裂した後遺症下におかれたままである。
この事態は、資本主義システムが無条件の自由化の結果、非常に危ういシステムに堕してしまっていることを示唆する。それは、金融工学による証券化商品の多層的な開発により、GDPの「分捕り」を自己目的化する行為を増長させ、さらには金融部門をTBTFという理由で救済し続けることを通じ、金融部門においてモラル・ハザードを引き起こしてしまっている。それは、所得格差、財産格差を著しく拡大させてしまっている。
本章で述べたことは、今日の資本主義システムが陥っている問題点の指摘に目を向け、その是正の糸口を探ろうとするものであって、それ以上のものではない。だが、問題の「適正な」解決法はこの思考線上に存在すると思うのだが、読者はいかがお考えであろうか。
参考文献
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