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2018年4月15日日曜日

シュムペーター「科学とイデオロギー」(1948年)



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シュムペーター「科学とイデオロギー」(1948年)



1. この論文には2つの論調が認められる。

2.1つは、イデオロギーと科学の関係である。イデオロギーが支配することで科学が圧迫されるような事態の出現 (それは一時的であるといいつつも) が、社会科学にはしばしばみられる。イデオロギーはその人のおかれている社会的条件によって規定されるところが多く、そのため無意識的であることが多い。シュムペーターは、この事例として、マルクス主義 (マルクスのなかのイデオロギー的要素が、社会の人々を支配するようになった) およびスタグネーショニスト・ケインズ主義をあげている。

われわれのマインドには、われわれの知識の累積的成長、およびわれわれの分析的努力の科学的特性にとって、ずっと危険な、― というのは、先入観は価値判断や特別な嘆願がそうであるのと同じ意味で、われわれのコントロールを越えているからである ― 経済プロセスについての先入観が存在する。たいていこれらは連携している  
が、これらは隔離されて別途扱うに値する。

   イデオロギーの源泉は、経済プロセスや、そのなかにある重要なものについてのわれわれの前科学的、科学外的ヴィジョンであり、通常、このヴィジョンはそれから科学的処理を受けるので、それは分析によって確証されるか棄却されるかである。そしていずれの場合においても、イデオロギーとしては消滅する。
それでは、それはどこまで消え去ることがないのであろうか。どの程度それは、蓄積されるそれとは反対の証拠に直面して自らを守るのであろうか。そしてそれは、われわれの分析手続き自身をどの程度損ない、その結果、われわれは、それはイデオロギーによって損なわれていると知った状態で残されることになるのであろうか。

3.もう1つは、科学の研究には、研究者がもつヴィジョンがまず最初にあり、それを精査する作業 (これが科学) が続く。科学の研究にはこの2つの過程が必ずついてくる。そして科学として意味をもつのは、この第2の過程で得られたものである (しかし、科学の研究にはヴィジョンの存在が重要である)。

  (科学的手続きは)われわれが分析したいと思う一連の関係する現象についての観念からスタートし、そしてこれらの現象が概念化され、それらのあいだの関係が、仮定としてであれ、命題(定理)としてであれ、陽表的に定式化された科学的モデルで終わる。

この、観念と前科学的分析の混合物のことをわれわれは研究者のヴィジョンあるいは直感と呼ぶことにしよう。

4.タイトルから分かるように、シュムペーターの関心は、科学とイデオロギーの関係におかれている。

5.ところでヴィジョンとイデオロギーの相違が、いま1つ明確ではない。つまり、ヴィジョンと科学を論じている場合、ヴィジョンにはいい意味が付されており、他方、イデオロギーと科学を論じている場合、イデオロギーには悪い意味が付されている。ヴィジョンもイデオロギーもともに前科学的段階のものとしてとらえられているが、両者の関係が不明瞭である。

「ケインズのヴィジョン」… これはイデオロギーと同義に用いられており、けっしていい意味では用いられていない。

   アピールし勝利を収めたのは、ふたたびイデオロギーであった - 衰退していく資本主義というヴィジョン …」

ケインズにたいする微妙な評価
イデオロギーの勝利、だが、ケインズはマーシャリアンであった。

  「かくして彼は、多くの彼の追随者がいささかもそのイデオロギー的要素をみることを妨げる武器で、彼のヴィジョンを提供することができたのである。」

 「吸収すべき真に新しい原理はない。不完全雇用均衡および非支出というイデオロギーが、 … ある事実(実際の、もしくは想像上の)を強調する2、3の制約的な仮定のなかに具体化されているのが容易にみとめられる。」 

マルクスとの関係で

  「… この場合、分析にたいするイデオロギーの勝利に注目されたい。イデオロギーが社会的信条になってしまい、それゆえ分析を不毛にするヴィジョンのすべての帰結である。」

2018年4月4日水曜日

ハイエク「抽象性の優位性」(1969年)



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ハイエク「抽象性の優位性」(1969年)



「抽象的なもの」の優位性と題されたこの論文は、ハイエクの認識論を示すもので、きわめて興味深い内容をもつ。

「人々が物事を認識するのは、最初に具体的・特殊なものをみることから始まり、その過程を経てその後、抽象的な概念が形成される」という説を、ハイエクは批判する。真実はその逆であるという。

人々ははじめに無意識に (それとは気がつかずに) 抽象的な概念を獲得し ― それは精神の活動ではなく、「精神に生じる」 (happen)、と表現されている ―、それとの関連で経験を通じて、具体的・特殊なものを認識するようになる、というのである。

この認識論は、経験論哲学とは明白に対立するものである。経験論哲学では、最初に基本的な知覚、具体的な事物が認識され、そしてそれらを組み合わせることで複雑な認識 (抽象的な認識) が形成されていく、というように、単純から複雑へというプロセスにより、認識現象をとらえようとする。したがって、「タブラ・ラサ」に、単純な概念から始まり、複雑な概念が植え付けられていくというイギリス経験論哲学の立場に、ハイエクは批判的なように思われる。

ハイエクの場合、ある意味ではプラトン的意味で観念論的である。はじめに、例えば、犬という ([真] 実在) 概念 ― それは精神にたまたま生じる ― があり、その現象形態として、チワワとかブルドッグとかいった具体的な犬が存在する、という認識論である。無意識裏に人は抽象的概念を獲得する、といっても、それは生まれつき (生得) ではない。生まれた後にであるが、それを意識することなく、ある時、獲得している、というのである。そしてそれを、具体的な事例を見聞することで修正していく、という一種の進化論的見方をとる。
これは彼の「自生的秩序論」とも似ている。人々が気がつかぬうちに、突然として発生してきている社会的・文化的制度、そしてその価値に気づいた人々は、それを大事に維持していく、という社会哲学と一脈相通じるところがある。

ハイエクの認識論では、人のきわめて初期の状況にあって、複雑な観念がまず植え付けられるに至る (二歳児の「ニャンニャン、ワンワン」にたいする識別能力を想起されたし) という認識は、明らかに複雑さ (抽象的なもの) が最初に来る (そして具体的な事物はその後から来る) ものである。

もう1つ注意すべきことだが、ハイエクにあっては、複雑から「単純」へというプロセスは考えられていないように思われる。複雑 (抽象) から「具体」へというプロセスは強調されているが、複雑から単純へというプロセスについての言及はみられない。むしろ、「複雑から複雑」へというプロセス (そしてそれを仲介するのが、具体的事物) だけが考えられているような気もする。

あらゆる行為は、意識していないルール、だがその結合力によって可能とされているルールによって導かれているという見解を述べ、そしてこれは正義感についてもいえる、とハイエクは語っている。

こうみてきて、1つ気がつくのは、人々が意識せずに気がつくと、そこ (これは社会の場合もあれば、精神の場合もある) に、制度 (自生的秩序) や抽象的なルールが現出している。この場合、いずれの場合にも、「よい制度、よいルール」が前提されているように思われる。「悪い制度、悪いルール」は考えられていないのではないだろうか。例えば、他人の行為を判断したり、他人の行いを正義かいなかを評価するわれわれの能力という見方は、そのような価値前提が潜んでいるように思われる。
 
人々の行為が、そして人間社会が、それと意識することなく成立する制度や抽象的ルールによって動かされているという考えは、非常に興味深い着想である。だが、同時に、何か神秘的、人間の認識を超えたもの (それは神であるかもしれない) に、託すような論調が感じとれる。

ハイエクは、この考えを、ポッパーの反証主義の考えに似ていると述べている。つまり、個々の具体的事実から理論は帰納的に形成されるのではなく、まず理論が存在し、その後、具体的事実からの論駁・反証などがあって、理論は修正されていく、という考えである。最初に得られた抽象的概念は、特殊的・具体的事象によって修正 (ハイエクはこのことを進化論的にも描写している) していくかたちで、人の精神のなかに形成されていく、とするのである。

 「私が主に関心をもつ「優位性」とは因果的な優位性である。すなわち、それは、精神的な現象の説明にあっては、最初にくるはずのものであり、他のことを説明するために使うことができるものに関係している」

「つまり私が主張しているのは、個々のことを認識できるためには、精神は抽象的な捜査を遂行することができなければならない、ということであり、そしてこの能力は、われわれが個々のことについて意識的に知覚することを語ることができる前に出現している、ということである。」

「具体性は抽象性を前提にする (精神には具体性のない抽象性が存在することができるが、その逆はないという意味) というのではなく、抽象性は具体性を前提にするという主張から、最も説明を要することを所与として扱う、というまったく誤ったアプローチが出てくることになる。」

「われわれのすべての行為は、われわれが意識していないルール、だがその結合した影響力によって、われわれに非常に複雑な技術の遂行を可能にする - 関連する運動の特定の連鎖について何ら知ることなく - ルールによって導かれている、と考えるべきである。」

次の一文も重要である。

   「抽象性の形成は、人間精神の行動としてではなく、むしろ精神に生じる何か、もしくは、われわれが精神と呼ぶ関係の構造 - そしてそれはその操作を支配する抽象的規則のシステムからなる構造 - を変える (何か) とみなされるべきである。換言すれば、われわれは、精神と呼ぶものを、行動についての抽象的な規則のシステム (各々の「規則」が一群の行動を規定する) - それがそのようないくつかの規則の組み合わせにより各々の行動を決定する - とみなすべきである。他方、新しい規則 (もしくは抽象性) が出現するごとに、そのシステムの変更がなされるが、それはそれ自身の操作が作り出せるというものではなく、外的な要因によってもたらされる何かである。」

 精神 = 行為についての抽象的なルールの体系
この体系がいくつかのルールの組み合わせによって各行為を決定する (各ルールは、一組の行為を定義する)

    
    「われわれが意識的に経験することは、われわれが意識することのできないプロセスの一部にすぎないか、もしくはその結果である。というのは、それを意識的なできごとにする包括的な秩序のなかでの位置付けを与えるのは、超構造による多数の分類にほかならないからである。」

    「新たな抽象性の形成は、意識的なプロセスの結果ではけっしてない。それは精神が意識的に目指すことのできる何かではなく、つねにその操作をすでに導いている何かの発見であるように思われる。」

次は、ハイエクの正義論である。

「他人の行動を意義あるものと認めるわれわれの能力、およびわれわれ自身の行動とか他人の行動を正しいとか正しくないと判断する能力は、われわれの行動を支配する非常に高い抽象的な規則をわれわれが所有していることに基づくものであるのに相違ない。だが、われわれはその存在を意識しておらず、ましてそれらを言葉で論じる能力を有してはいない。」

われわれの価値判断能力というものは、抽象的なルールの保有に依存している。だがそのルールの存在をわれわれは知らない。とすれば、われわれは存在を自ら確認できないなにものか (つまりは抽象的なルール) に動かされて行動する存在ということになるのだろうか。この抽象的なルールは、われわれが意識的に選択できるような性質のものではないわけで、とすればわれわれには責任能力はないということになりはしないだろうか。
 「抽象的なルール」という概念には、ハイエクの目からみて「よいルール」だけが考察の対象として選ばれており、「悪いルール」は考察の対象外になっているように思われるが、いかがであろうか。

  「「重ね合わせによる特定化」というフレーズ、つまり特定の行動は、行動化の敷居が下げられているある点で同等の行動パターンの領域から選択され、他の点では、同等の行動パターンの群れに属するものによって補強されている、ということを意味している。このフレーズは、私が「抽象性の優位性」と呼んできたところの操作のメカニズムを描写する最良のものであるように思われる。というのは、因果の決定子の各々は結果する行動の特性の1つだけを決定するからである。」

「重ね合わせによる特定化」=「抽象の優位性」という作用メカニズム

2018年3月31日土曜日

シュムペーター「価格システムの本性と必要性」(1934年)


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シュムペーター「価格システムの本性と必要性」(1934年)
 

1. シュムペーター特有のレトリックに富んだ小論である (私は、「シュムペーター・ツイスト」と呼ぶことにしている)。

一番の中心は、価格というものは、別に資本主義社会だけに特有のものではなく、その性質上、どの社会にあっても必要なものである、という点である。

2. 「価格 (+利潤) は資本主義社会における偶発的なできごと (incident) であり、現在の生産可能性の完全利用にとって障害になっており、それらはない方がよい」という近年みられる意見にたいしての彼のコメントが主題である。

3. シュムペーターはこの見解自体は誤りである、と考えている (と思う)。だがこう述べた後、彼はこの見解を支持する理論が、近年展開されてきたことを指摘する (これはチェンバレンの独占的競争理論を指している)。そのためかつては馬鹿げているとして経済学者によって一蹴されてきたもの ― そしてそれは市井の人がもっている見解であるが ― が、かなり大きな真実を有するものであることが判明してきたことが強調されている。シュムペーターは、依然としてその見解が蘇生したとはいえないものの、新たな理論の進展によってこの見解の正しさが相当示されるに至っている (何というレトリック!)、と述べる。経済学の初等教科書から、価格にたいするこうした見方を論駁することはできるが、それでもこの見解のもつ現実的含意には注目すべきものがある、というのである。

4. 価格というのは、あらゆる社会、経済行為一般につきものの現象である。それは経済選択の係数とみればよい。社会主義経済にあっても、何を、どのように生産するのかに関する決定は、― 中央当局が ― 同志にたいしてその量的選好を表明する機会を与えるしかない。

「もし、価格が選択係数と考えることができるならば、... 同志の選択係数は本質的に価格となるであろう。」

シュムペーターはさらに、マネージャーは生産手段の価値を帰属理論によって決定していく必要があることを指摘する。そしてこれらは資本主義社会での生産手段の価格と本質的に同じものである、という。

 「代替的生産のこれらの価値は、資本主義社会では、自ずから生産手段の貨幣価格で表されるが、他のいかなる形式の社会でも同等の表現で表されるであろう。」

 次の一文はこの小論の重要な箇所である。
 
 「それゆえ、ある経済的次元は、生産のガイダンスとしてつねに必要であり、この経済的次元はつねに、そしてすべての状況下において選択係数で表現されるが、これは基本的に、資本主義社会の価格と同じものである。」

つまり、価格というのはいかなる社会でも必要とされるものであり、同じ性質をもつものであるとの主張である。

5.完全競争についてのシュムペーターの見解

  完全競争は最大の厚生をもたらす: これは誤り (厚生経済学の第1命題の否定であろう)
  完全競争は最大の総生産をもたらす: これは正しい。

 このうえで、こうした競争は存在しないし、現在の大規模生産の時代には存在しないという事実によって、このことは損なわれる。

 完全競争によって証明されていることは、不完全競争のケースでは成り立たない。ここでチェンバレンが持ち出されている。

 こう述べながらも、シュムペーターは完全競争理論の有意義性を強調する。

  「しかしながら、純粋な意味での自由競争の理論の診断的価値は、これらの考察によって損なわれるものではない。それを考え抜くことのみならず、簡単な形式で公衆に提示することには依然として価値がある。というのは、それはトラブルの原因が存しない場所を示し、それゆえに、それはわれわれがそれらをどこに探すべきかを含意するからである。」

6. 最後に、シュムペーターは3点にまとめて示している。

(1)選択係数を価格に変えることで、その機能や性状は変わらない (ただし、この問題と信用創造が攪乱を支持するのかどうかという問題とは無関係 … 資本主義社会の信用創造問題についてのシュムペーターの見解をかいま見せている。つまり、資本主義経済を他の経済システムと識別する点として彼が強調する論点である)。
 
(2)競争均衡の安定性は、不完全競争には適用できない。乖離すればするほど不安定性と攪乱は増してくる。: この小論では、「経済発展の理論」はまったく姿をみせてこない。この観点は抑えられている。

(3)外部からの攪乱が、完全競争状態を極端に不安定なものに今日していることに注目を喚起している。とりわけ社会環境の雰囲気への着目: これは『資本主義・社会主義・民主主義』に関連する見解である。

「われわれは社会的環境 ― それから生じる特別の方策はまったく別にして ― の一般的特性に一瞥を与えることを忘れてはならない。資本主義社会が、ともに働く生活様式およびビジネス手法への一般的な敵対心により、数千もの微妙な方法で資本主義機構の効率性を損なう可能性のある社会的環境に、である。」

2018年3月30日金曜日

シュムペーター「資本主義」(1946年)

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シュムペーター「資本主義」(1946年)

   
1.資本主義

・シュムペーターは資本主義を、民間ビジネスマンの指導に委ねている社会と定義する。そして生産手段の私有化、利潤を目的とした生産、それに銀行信用組織を特徴とする社会ととらえている。

・シュムペーターはこうした社会はギリシア=ローマの昔から存在すると主張する。そして古代から現在まで、技術における相違はあるとしても、緩慢で連続した変形にすぎないとする。

・シュムペーターは、封建時代・中世にあっても活発に展開されていた国際金融的、国際貿易的活動に着目している。

・こうした見地から、マックス・ウェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』を徹底的に批判・否定している。

2. 重商主義資本主義

・資本主義過程の論理にとっては外生的であるできごと ― 南アメリカの銀・金の流入、および封建貴族がみせた自己利益のために新たな富を動かそうとする活力 ― が重要であった。

・2つの異なった社会的世界の共生は18・19世紀までのヨーロッパを理解するうえできわめて重要。

・重商主義時代を説明する2つの理論 ― (1) 勃興するビジネス・クラスが重商主義政策の牽引者であったとする理解 (これはマルクス的理解)、(2) ビジネス・クラスの役割は主人としての役割ではなく、召使いとしての役割であったとする理解。
シュムペーターは (2) の立場に立つ。そして資本主義は本性的に平和愛好的であり、経済ナショナリズムや政治的圧政という傾向は資本主義外 (extra-capitalist) 要因である、と主張する。

3. 完全 (intact) な資本主義
 
ナポレオン戦争後から19世紀末までの資本主義のこと。自由主義、自由放任、自由貿易、制限のない金貨。
  シュムペーターは、この時代が友好的・平和愛好的であった、と主張している。

・ビジネスマンに由来する合理主義、物質的進歩にたいする信頼、功利主義
・非資本主義的な支配者も、ビジネスマンの代理人 (agents) と化した。
・こうした発展は、どの時代よりも、純粋に経済的原因により説明ができる、とシュムペーターは述べる。

4.現代 (1898年以降)

・革新技術に支えられた経済の発展が1912年まで続く。
・大恐慌期も以前のものと基本的には変わらない、とシュムペーターはいう。
・しかし、資本主義にたいする態度の完全な逆転、自由主義時代のほとんどの傾向の逆転が生じたという。
・2つの理解 ― (1) 消滅する投資機会の理論 (A. ハンセン)、(2) 帝国主義理論
このいずれにたいしても、シュムペーターは否定的である。ただし、(2) について、3つの長所を指摘している。

5.資本主義の経済学

・資本主義過程は進化的である。静態的な資本主義は形容矛盾である。
・主役は新結合を遂行する企業者であることが強調される。
・要するに『経済発展の理論』の世界。

・ワルラス的完全競争理論のもつ意義についてまず述べる。
(シュムペーターは自らの「経済発展の理論」を述べるにさいし、必ず、circular flowに言及する。言及しないときはけっしてない。この点に注意が必要である。)
・だが、それは費用構造が変わらないといった条件が成り立つ場合にのみ有効なものであり、現実には大企業による技術の革新、大量生産のもつ経済性が重要である。シュムペーターはこの点に注目を寄せる。

6.資本主義社会の階級構造

まずは、マルクスの階級概念を持ち出す。そしてそれは分析目的にとっては価値がない、と批判する。

・いくつかの階級の協力、反目をみることが重要である、という。
・ 諸階級間のあいだの移動という事実が資本主義の社会構造の特質である、とシュムペーターは主張する。
・ビジネスにおける成功・失敗を通じての社会的成功 (失敗) はプラスの (マイナスの) 社会的選択を意味するのかいなかというもう1つの重要な問題 ― 労働者的環境からの企業的成功による社会的上昇は、超人的意思と知性に帰することができるが、そうでない場合は説明が難しい。

・「有閑階級」概念 (ヴェブレン) にたいする批判

7.搾取と不平等

・「資本主義は搾取を意味する」という発言にたいするシュムペーターの否定的コメント

・所得の不平等をめぐってのシュムペーターのコメント

8.失業と浪費

・失業は、今後は十分な生産により重要なものではなくなるであろう。

9.資本主義の将来

・診断と選好が入り交じった評価になっている。

・マルクスの分析にたいする評価。資本主義過程の分析から引き出された議論と、解答自身とを分ける必要がある。シュムペーターは前者を否定し、後者を継承する。

・『資本主義・社会主義・民主主義』的議論

・現在の傾向は社会主義に向かって進んでいる。

2018年3月28日水曜日

ミーゼス 社会主義国における経済計算, 1920年

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ミーゼス

社会主義国における経済計算, 1920年


1. ミーゼスは、社会主義経済を生産手段の国有化 (私的所有の廃止) された経済と規定する。そして、そのような経済では、生産手段の市場が存在しないため、経済計算は不可能である、と主張する。

2. ミーゼスは資本主義経済が貨幣的経済であることを、きわめて重視している。そして社会主義経済においては貨幣は本質的な役割を果たすことはできない、と考えている。

3.社会主義経済では、責任やイニシアチブを有する人々の存在する余地はない。

4. 「高次財のための自由に決定された貨幣価格という概念が放棄されるやいなや、合理的な生産は完全に不可能になる。生産手段の私的所有や、貨幣の使用から遠ざかるごとに合理的な経済状況からわれわれは遠ざかる。」

 「生産手段の私的所有、および貨幣による交換システムに基づく社会は、こ
うして計算と勘定が可能になる」 … こうしたことは社会主
義経済では得られない。

「(社会主義経済は) もはやいかなる信用も流通させない。というのは、社会
主義社会では、信用は必然的に不可能になるからである。」

「経済計算なくして経済はありえない。それゆえ、経済計算の追求が不可能
な社会主義国では、経済などまったくありえないのである。」

 「合理的であったことを決定する手段はないであろう。だから、生産が経済的考慮によって指令されることはけっしてありえないのは明白である。... 合理的な行為は、その適正な領域である場所から離れるであろう。実際、合理的な行為のようなもの、あるいは、いやまったく、合理性とか思考自身における論理のようなものはありうるのだろうか。」

 「民間企業の成功が依存している自由なイニシアティブと個人の責任の排除は、社会主義組織にとっての最も深刻な脅威となる」

5. 市場社会と社会主義の比較において、前者では参加者はすべて消費者として、および生産者として参加するのにたいし (経済計算にはこの両側面が不可欠であるとされる)、後者では生産者としての参加が欠落しており、したがって生産手段の価値評価を欠く。

 「同一企業の個々の支部のそれぞれの計算は、専ら、計算の基礎としてとられる市場価格はあらゆる種類の市場および雇用される労働のために形成されるという事実に依存している。自由な市場がない場合、価格メカニズムは存在しない。価格メカニズムが存在しなければ、経済計算は存在しないのである。」

6. 「財の客観的な交換価値が経済計算の単位として入ってくる交換経済」は、3つの利点を有するとされる。

 (1) それは、計算を、交易に参加するすべてのものの価値評価に基づくことを可能にする。

(2) それは、財の適切な用途へのコントロールを提供する。

(3) 交換価値による計算は、価値を単位にもどすことを可能にする。

7.このほか、労働価値説批判、そして社会主義者は純粋の社会主義になったときのもつ問題 (これがミーゼスの批判のポイントである) を看過、もしくはみようとしていないという批判がなされ、バウアーやレーニンの考えが批判的に検討されている。

 「これらのすべの著述物からの唯一の可能な結論は、それらが、社会主義社会における経済計算という大きな問題に気づいてすらいない、ということである。」

2018年3月27日火曜日

ナイト「社会科学と政治的トレンド」(1934年)



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ナイト「社会科学と政治的トレンド」(1934年)


1934年。それは2つの「ニュー・ディール」が脚光を浴びている時代である。1つはヒットラーのナチズム、もう1つはルーズベルトのニュー・ディールの時代である。ナイトは双方を本質的に同じものとみている。
今は、自分たちが育てられてきた文化価値が批判・否定されている時代である、とナイトはいう。知性 (intelligence) は疎んじられ、真実を追究する精神は否定され、考えるよりも行動だ、つべこべいうよりも実験だ、といった論調が支配的である、と。
ナイトは当初、この大不況はこれまでの不況と同じ性質のものだと思っていたが、いまではそれは誤りで、大きな経済的・政治的革命である、と確信するに至っている。そして、その到来をひどく批判的な思いで、ナイトはみている。
自由な市場システムと民主主義を当然視する時代は過ぎ去ってしまっている。過去にこれが成立したのは、ナイトによると、フロンティアの存在などの偶発的事象によるところが大きかった、という。

「現在という視点からみると、顕著に偶発的で本質的に一時的な条件のみが、一時的に、このような「自由な」社会システム - 経済生活における個人のイニシアティブと代表的組織を通じての政府 - が機能するようにみえる、もしくは自由と秩序を調和させるという問題を解決する能力をもっているようにみえることを可能にしたことが分かる。」 

自由社会にあっても、その制度の精神的な基礎は無意識的なものであり、感情的なものである。社会行動の多くは慣習であり、意識的なものの多くは、批判的思考ではなく感情と忠誠に基づいている、とナイトはいう。

ナイトは、ブルジョア社会の本当の崩壊はモラルである、という。

「リベラリズムの知的誤りは二重であった。それは、社会問題は、根底においては知的なものでなく道徳的なものであることを理解できなかった。そしてそれは、含有されている真に知的な要素を完全に誤解していた。」

ナイトの積極的な主張は、「真実を追究することを尊ぶことを意識して、今日の状況に立ち向かおう」というものである。そのためにはわれわれの精神構造をも意識的に変革することが必要である、と。

「共同的で批判的な真理追究という雰囲気」

「真の宗教的会話は、真実を愛し、真実への信頼を愛することに真に捧げようとするいかなるグループのメンバーのたいてい、もしくはすべてにとって必要であろう。」 

ナイトはプラグマティズムには批判的であった。

  「哲学においては、それは功利主義の時代であった。それは、アメリカでは19世紀の終わりごろ、プラグマティズム ― 哲学の否定、カルトへと変容を遂げた俗物根性 ― へと進展した。」

2018年3月26日月曜日

(覚書) プラトン『国家』



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(覚書) プラトン『国家』


1. ソクラテスとその仲間のあいだの対話。生き生きとした会話体。ソクラテスの非常な論理力。仲間は (当初、例えばトラシュマコスのように、かなり反論する場面もあるが)、それに基本的には相槌を打つ役。

2. イデア (実相) 論はこの長い対話 (dialogue) のなかで2箇所に登場する。多くの寝椅子があるが、それにたいして (真実在) の寝椅子はただ1つのみ。それは不変である。それは見ることはできないが、思惟によりその存在を認識することができる。愛知者は、「それぞれのもの自体を ― 恒常普遍に同一のあり方を保つものを ― 獲得する人たち」 のことである。

3. 3種類の寝椅子。本性 (実在) 界にある寝椅子。大工の作品としての寝椅子。画家の作品としての寝椅子。プラトンは最後のものを、詩のなかで真似る機能をもつものとして否定した。この点で、ホメロスをかなり批判している。

4. プラトンの論理はすべてが論理的というわけではない。かなり無理のある論理も少なからずある。それは相手の相槌によって、読者にたいし、快くプラトンの話術に誘い込んでいく、という効果を有していることもしばしば見受けられる。

5. 哲学呈な対話・問答の重要性。「本曲」としての哲学的問答法。

6.プラトンは、国家を1人の状態から次第にいろいろな職種の人間を加えていくというかたちで増やしていく。そこでは一種の分業のようなことが当然視され、1人の人間は1つの職種に専念することが良い、というかたちで構想されていく。

7.プラトンは数について、その重要性を実在との関係で捉えている。それは、「実在の観想へと魂を向け変えて導いていくようなものに属する」。

8. それ以外にも、プラトンはかなりピタゴラス学派の影響を受けており、あやしげな議論を展開している。

9. 国家を5つのタイプ (理想国家、名誉支配制、寡頭制国家、民主制国家、僭主独裁制国家) にわけ、この順で悪くなってくる、と評価する。そしてそれに対応して、それぞれに対応する人間を同様のかたちで評価する。さらにその頭脳のなかを、魂の3区分 (学びを愛する部分、名誉を愛する部分、金銭を愛する部分) により説明している。プラトンは金銭を愛する部分を最も軽蔑的に見ている。
民主制国家がけっして評価が高くない点が面白い。衆愚政治ということに関連していると思われる。

10. 理想国家 は哲人王国家であり、そこでは共産制、女も共有、そして必要最低限のものしか受け取らないで生活する。さらにはそれらの種族を育てる教育のこと。体育と音楽 (ただし、感情を抑制したもののみ)の重視、数学の重視。激しい教育のなかからそれに耐え抜いた者を王に選ぶべし。 

(なぜ、英語では『国家』がRepublicと訳されるのだろうか。「哲人王国家」は共和制ではあるまいに。)

11. 最後に登場する「エルの物語」は、地獄と天国の輪廻転生のような観のする摩訶不思議な雰囲気の話である。

12.「善」のイデアの重要性と説明の難しさ。
13.「正義」とは何か。

主題とも言うべき上記2点についての説明は、皮肉なことに一番分かりにくい。善とは何か、正義とは何なのか。
 哲人王国家の実現されている状態が「正義」のようであり、そしてそれに対応した個人、そしてそれに対応した魂の状態が「正義」と言っているように思えるが。

14. 魂の不死

15. 面白いたとえ話。 洞窟につながれた囚人の話。後ろから光が射す。

2017年10月2日月曜日

(メモ)Corporate Capitalism


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メモCorporate Capitalism

現在の資本主義をどう規定するのがよいのか、はじつは非常に難しい問題である。1980年代から急速に進行したグローバリゼーション、90年代初頭でのソ連圏の消滅(と資本主義路線の踏襲)、そしてグローバリゼーションの一層顕著な特徴としての金融グローバリゼーション。これらの結果として現出した現在の世界経済システムを、資本主義ということばでとらえるだけでは、何も明らかにすることができないからである。
 いまの世界を見回すと、先進諸国 (アメリカ、日本、イギリス、ドイツなど) は、一番、「資本主義システム」という言葉でとらえやすい地域である。だが、いまや、中国はどのような基準でも現在の世界経済を考えるさいに、その存在を抜きに考えることは、大きな問題喪失を意味するものとなる。そしてこの国は、政治的には民主主義システムを踏襲しないままで今日に至っているが、それでいて「資本主義システム」を事実上採用している。インドも然りである。インドの場合、政治システムは民主主義システムを採用している、そしてすでにインドはPPP表示では日本より経済規模は大きくなっている。
その他には、政治的にはきわめて重要な存在感を増しているロシアが存する。ロシアは議会制民主主義を曲がりなりにも採用している国であり、資本主義システムを採用している国である。
 世界を見回すと、中東、アフリカ、アフガンなどの広大な地域では、さまざまな形態の収奪や内乱で覆われており、多数の難民、飢餓がこれらの地域を襲っており、これらの地域の国を、資本主義システムといった枠でくくろうとすること自体、意味のない行為である。欧米資本からの収奪と現地政府との癒着といったことは、日常茶飯事で起きていることである。
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 アメリカにだけ、絞って考えてみよう。アメリカの資本主義は、定義上、もっとも資本主義的であるはずである。では、資本主義とは何か、だが、じつはこれは、経済学の範疇では捉えるこのできない段階に来ている、というのが現在の問題である。経済学では、経済主体である企業、家計は、いまでも完全競争的な状況を理想として考える習性があるし、
かりにそれから逸脱した寡占、複占、独占といった産業構造を考察する場合でも、あくまでも価格支配力のようなかたちでの経済的パラメーターで、その状況を分析するのがつねである。そしてそれらの影響を余剰分析的タームで評価するようなことが行われる。
 しかし、現在のアメリカの資本主義を見る場合に、そうした見方では視野が狭く、現実を見誤る危険性が高い。
 その理由は簡単である。今日では、巨大な企業は経済力だけではなく、「政治力」をもっており、経済システムを自らの都合のよいように政治的に政党にたいし指令する力を有するに至っている、という現実があるからである。
 冒頭に書いた Corporate Capitalism とはそうした視点に立ってアメリカ経済を捉えるものであるアメリカにあって90年代以降には民主党もこの罠にはまったというか自らそうした方向に方針換えをする方向に走っていった大企業は自らの権益を守り増進する意欲をもつ政治家政党に巨額の献金を行い現にアメリカでは日本と異なりそうした政治献金にたいし制限はないそしてその見返りとして関連する法案などを自らに有利なように策定・通過させることに異常なほどの露骨な活動を見せているというのがいまのアメリカ政治の特徴であるそれゆえいまのアメリカの体制を実質的に支配しているのはCorporate Powers であるとみる見解はかなり広範に見られる


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https://www.youtube.com/watch?v=pQ4AlwewH8Y&t=660

Thomas Frank: Why Democrats Lose
Ed Mays
2017/04/21 に公開

Thomas Frank’s Listen Liberal: Or What Ever Happened to the Party of the People, published in March of 2016, was named as one of “6 Books to Help Understand Trump’s Win” by the New York Times. Frank (bestselling author of What’s the Matter with Kansas? and The Wrecking Crew) made a name for himself for his scathing critiques of Republicans. Now he turns his attention to his own party, arguing that liberals have lost sight of their goal to be a party that champions equity. To support his claim he points out that, after years of occupying the White House, the Democrats have done little to advance traditional liberal goals: expanding opportunity, fighting for social justice, and ensuring that workers get a fair deal. Indeed, the decline of the middle class has only accelerated. Wall Street gets its bailouts, wages keep falling, and the free-trade deals keep coming. In this low point for the Democratic party, Frank reminds them of their historic stance and contends that renewing those commitments is the only way to reverse the ever-deepening rift between the rich and the poor in America. Thanks to Seattle Town Hall and Elliott Bay Books Recorded 4/18/17

2015年5月26日火曜日

ハイエクの市場社会論 - 「現場の人」と情報伝播としての「価格システム」 -

 


ハイエクの市場社会論

- 「現場の人」と情報伝播としての「価格システム」 -

                    平井俊顕


ハイエクの市場社会観を検討してみて浮かび上がってくる重要な特徴、それは彼が自らの立論を、絶えず2つの敵( 外なる敵と内なる敵) との戦いを続けながら展開しているという点である。外なる敵はハイエクのいうところの「設計主義的合理主義」思想であり、彼は自らの自由主義思想の視点からそれらに対して徹底した批判を展開し続けた(この対象としては、マルクス、サンシモン、コントといった純粋な「設計主義者」だけではなく、ケインズ、シュムペーター、ミュルダール等も含む) 。内なる敵は経済学の世界で支配的であるところのワルラス経済学の市場社会観であり、彼は(メンガーに始まりミーゼスに継承されたものとしての)オーストリア学派の視点からそれにたいし警鐘を鳴らし続けた。そしてこうした双方向への戦いの根底にはハイエク独自の自由主義哲学、ならびに市場社会観が存在するのである。
 通常、ハイエクを論じるさい、論者の関心は圧倒的に前者の側面におかれてきたといってよい。だがハイエク(さらに広くはオーストリア学派)の社会哲学を理解するには、後者の側面に注目することも、負けず劣らず重要なことなのである。この点は、近年のネオ- オーストリア学派の台頭によって証明されている。
 本稿ではハイエクの市場社会観を、次の2つの側面から検討することにしたい。最初に、ハイエクが市場社会をいかなる本性をもつものとして理解していたのかをみる。続いて、ハイエクの市場社会観をその根底にある思想的立場である「自生的秩序論」との関係で批判的に検討を加えることにする。



1.市場社会の本性

  ハイエクは、メンガーやミーゼスが展開したオーストリア学派的な立場を踏襲しており、市場社会を諸個人の行為の意図せざる進展の結果と成立した社会的制度としてとらえている。市場社会は諸個人に自由と正義を提供保証する場として絶対的な重要性が付与されている。それは原理的な重要性をもつものであって、便宜的なものとして位置づけられてはならないとされる。ハイエクにあっては、市場社会は人類の到達しえた最良の社会形態であり、それを侵害するような行為はすべて「隷属への道」につながるものであるとして断罪されることになる。
 この考えを包摂するハイエクの社会哲学は「自生的秩序」論の名で知られるものであり、それは2つの基本要素- 「個人主義」と「発生論的組織論」- を内包している。第2節で市場社会という機構を「自生的秩序」論との関係で論じることにし、本節では、市場社会の機構がハイエクによってどのように理解されているのかに焦点を合わせることにしよう。

  A.経済主体 -現場の人の知識
  市場社会で生活し行動する最も重要な構成単位(意思決定主体)は個人である。ハイエクによれば、それは彼の周囲についての限られた知識をもとにして行動する存在である。このことは次の2点を含意している。第1に、いかなる個人も社会全体をみとおす能力はないという認識である。

「……われわれが利用しなければならない諸事情についての知識〔は〕、集中された、あるいは統合された形態においてはけっして存在せず、ただ、すべての別々の個人が所有する不完全でしばしば互いに矛盾する知識の、分散された諸断片としてだけ存在する……」(Hayek, p.53)

  市場社会にいる諸個人は、非常に不確実な状況下で活動している。人間は非合理的な存在であるという認識こそが、ハイエクの人間観の根底に存在するものであり、これがハイエクのいう「個人主義」の出発点なのである。
 第2に、「知識」の内容規定が問題となる。ハイエクがここで問題にしているのは「科学的な知識」ではなく、「時と場所の特殊情況についての知識」である。それは諸個人がそれぞれの職業をつうじて経験的に獲得していく「現場の人」の知識である。諸個人はその点で他の人にはない特有の有益な情報を所有しており、そしてその情報に基づいて意思決定を行う存在である。「現場の人の知識」の特徴は、絶えず小刻みの変化を遂げていくという点にある、とハイエクは述べる。そうした変化が存在しないとすれば経済問題は生じてはこない。この変化に社会が急速に適応していくことができるための唯一の方法は、この事情を最もよく知っている諸個人に問題の解決を委ねるというものである
  以上にみたハイエクの社会哲学の根底にみられる個人像は、ベンサムの功利主義や、ルソーの社会契約論( さらにはそれを蘇生させたロールズの正義論) が想定する個人像とは、まったく性質を異にするものである。

  B.「価格システム」-情報の伝播機能
  市場社会における諸個人を上記のように規定したからといって、ハイエクは、こうした諸個人で構成される市場社会をアナーキスティックなものと考えているわけでは、まったくない。彼は、「人間の諸事象にみられる大部分の秩序を諸個人の行為の予期せざる結果として説明」(Hayek, p.9) できるという見解、すなわち「自生的秩序」論をもっており、市場社会もその典型的な事例であると考えているからである。
  ハイエクによれば、「自生的秩序」の典型的事例とされる市場社会が、限られた知識しかもちえない存在である諸個人を連結させて、1つの「秩序」として信頼するにたる機構となっているのは、それがもつ「価格システム」のおかげである。そこにおける諸個人は2つの要因 - ①限定されてはいるが「現場の人の知識」、②「価格システム」が与えてくれる価格についての情報 - に依拠して経済的決定を行う。
「「現場の人」は、彼に直接かかわる周辺の事実についての、限定されてはいるがよく通じている知識を基礎としてだけでは決定することはできない。ヨリ大きな経済システムの変化の全パターンに彼の意思決定を適合させるために必要であるような、彼の周辺の事実を超える情報を彼に伝達するという問題が、まだ残っている」(Hayek, p.63)。この問題を解決するのが「価格システム」である。ただし、個人が関心を払うのはつねに自己
に関連をもつ「特定の諸財の相対的重要性」だけである。当然、それは限定された情報知識であるが、それと「現場の人の知識」に基づいて各個人は意思決定を行う。
  市場社会はこうした意思決定を行う諸個人によって形成されている。諸個人の独立した意思決定を調整し、1つの市場として機能することを可能にしてくれるもの、それが価格システムである、とハイエクは考えている。

「関連のある諸事実の知識が多くの人々のあいだに分散しているシステムにおいては、……根本的には価格がさまざまの人々の別々の行動を調整する役割を果たすことができる。……全体がひとつの市場として働くのであるが、それは市場の成員たちの誰かが全分野を見渡すからではなくて、市場の成員たちの局限された個々の視野が、数多くの媒介を通して、関係ある情報がすべての人に伝達されるのに十分なだけ重なりあっているからである」(Hayek, pp.66-67)

注意すべきは、市場社会を構成する諸個人は完全に孤立した存在とはみなされていないという点である。ある情報は、その情報に敏感に反応する人々の行動を喚起し、その結果発生する新たな情報は、さらにその情報に敏感に反応する人々の行動を喚起していく。こうして情報が次々に伝播されていくことにより、経済に時々刻々生起する変化があらゆる成員のあいだに伝わっていく。こうした情報は実際には「価格」という形態をとる。不完全な情報と知識しか保有していない諸個人を、価格を中心とした情報を伝播していくことを通じて社会的に結合させているもの、それがハイエクのいうところの「価格システム」なのである。
 ハイエクは、この「価格システム」には次のような優れた点があると述べている -   非常にわずかの知識でもって作動できる能力  、② 資源の調整された利用を可能にする能力4 、③  「変化」に対処するのに適した能力

もしわれわれが問題に関連するあらゆる情報を所有するならばもしわれわれが所与の選好体系から出発することができるならば、そして、もし、われわれが利用できる手段についての完全な知識を握ることができるならば、残る問題は純粋に論理の問題である。……この最適問題の解法を満たす諸条件は、……どの二つの商品あるいは生産要素の間の限界代替率も、それらの相異なる用途すべてにおいて等しくなければならないことである。しかしながら、これは社会が直面する経済の問題では決してないのである」(Hayek, p.53)

  ハイエクの描写する市場社会は、ワルラス的な市場社会と比べると、非常にリアリスティックである。市場社会を構成する諸個人は不確実な情報と「現場の人の知識」を有する存在であり、そしてそうした諸個人のあいだを媒介するものとして「価格システム」が考えられているからである。そこには何ら恣意的な理論構成はみられない。そしてハイエクが市場社会のもつ利点として次のことを強調するとき、たしかにわれわれはそのことを認めないわけにはいかない。

「……現存システムの一定の特徴 - たとえばとくに、個人が自分の職業を選択することができ、したがって、自分自身の知識と技能を自由に使える広汎さのような - が維持されうる代替的システムを設計することにいままで誰も成功していない……」(Hayek, p.71)

ケインズの場合、市場社会は、「似而非道徳律」の支配する社会であり、それが正当化されるのは「経済的効率性」の視点からのみであった。そしてケインズの場合、市場社会の後に来るべき社会がどのようなものになるのか、そして「似而非道徳律」を打破した社会が、どの程度職業選択の自由を保証しうるものになっているのかが明らかにされているわけではない。これに対し、ハイエクの場合、「金もうけ」を根底にする醜い道徳律の支配する社会というイメージはない。価格システムは「金もうけ」を最大の特性とするシステムとしてはとらえられていないのである。


  C.競争の機能 - 予見せざる変化の動因

 a.ハイエクの「競争」概念
  ではこうした「価格システム」にあって「競争」はどのような機能を演じると考えられているのであろうか。「現場の人の知識」や「価格システム」と同様に、ハイエクの考えている「競争」は非常にリアリスティックな概念であって、「議論を地上に引き戻して現実の生活の諸問題に注意を直接向けようとする」(Hayek, p.77) 観察眼に根ざしている。  「競争」は広告、値引き、生産される財やサービスの改善を通じて評判と愛顧を求めようとする行為である。こうした競争の過程をつうじてのみ、人々は何が、そしてだれが自分たちにとって役に立つのかを知ることができる。こうした知識ないしは情報は、当初から所与として与えられているものではない。それは競争の過程の産物として獲得されていくものである。

 「競争は本質的に意見の形成の過程である。すなわち、われわれが経済システムを一つの市場として考えるときに前提している、経済システムの〔もつ〕あの統一性と連関性を、競争は情報を広めることによって創り出すのである。競争は、何が最も良く最も安いかについて、人々がもつ見方を創り出す。そして人々が、少なくとも、いろいろな可能性と機会について現に知っているだけのことを知るのは、競争のおかげである」(Hayek, p.98)

競争がもたらす知識情報は不完全で部分的なものでしかない。なぜなら本性的に経済主体は不確実な知識しか保有しえない存在であるという状況を、競争は変えるものではないからである。競争はそうした状況下に確実な知識情報を諸個人に追加注入するのであるが、それは関心をもつ特定の諸個人にたいしてのみ有効なものであって、あらゆる経済主体に有効というものではない。
「競争」には、当然、様々な強度のものがある。「競争」が激しければ激しいほど、伝播する情報知識の量、関与する経済主体の数は大きくなるであろう。「競争」は1つの予見されざる変化を市場経済にたいして与える。この変化を受けて、諸経済主体は自らの意見を調整形成しなおし、そして新たな意思決定を行っていく。激しい「競争」は予見されざる激しい変化を市場経済にたいして与えることになる。
 逆にきわめて弱い「競争」の場合、そこでは伝播される情報知識の量、関与する経済主体の数はきわめて小さい。しかし、それはそれで重要な機能を演じているのであって、とくに処々にこうしたきわめて「弱い」競争が存在しているような場合、全体としては、競争のもつ情報伝播能力はきわめて高いということになる。
  「競争」と「価格システム」とはどのような関係にあるのであろうか。「価格システム」は情報伝達のシステムである、とハイエクはとらえていた。この特質が現実化するためには「競争」は取り去ることのできない要素である。「競争」があってはじめて、予見されざる変化が経済システムに生じ、それに応じて諸経済主体がそれに適応しようとして新たなる意思決定を行っていくことが可能となる。そのさいに、「予見されざる変化」は、通常は価格の変化というかたちで、「価格システム」を通じて伝播していくのである。「価格システム」という受け皿は、「競争」という原動力(moving force)があってはじめて「情報伝達システム」として機能することができる。
  では、「競争」は存在するが、「価格システム」は硬直的な状態にある場合はどうであろうか。このような場合でも、市場経済はそれなりにうまく機能しうる、とハイエクは考えているようである。「競争」が存在するため、「価格」を含めた情報は発信される。ただ「価格システム」が硬直的であるため、情報の伝播は「価格」を通じて行われる能力は落ちるが、ゼロになるというわけではない7 
 「競争」概念についてのハイエクの考え方を理解するうえでは、さらに次の2点に留意する必要がある - ①「競争」が機能するのは、「均衡」の状態においてではなく、ある「均衡」と他の「均衡」のあいだの期間においてである、②「競争の過程が連続して働くのは、変化の速度に比べて適応が緩慢な市場においてだけであ」(Hayek, p.94) り、かつそのような市場が常態である。

  b.ワルラス的「競争」観批判
 ハイエクの市場社会観が、ワルラス的な市場社会観と著しく異なる点は、「競争」というタームにも画然とあらわれている。両者の相違は次の言葉に明瞭である。

「……一般の見解はいまもなお、経済学者たちが現在使用している競争の概念を意味深いものとみなし、そして、実業人の競争の概念を誤用として扱っているように思われる。いわゆる「完全競争」の理論が現実の生活における競争の有効性を判定するための適切なモデルを与えており、かつ、現実の競争が「完全競争」から離れる程度に応じて、現実の競争は望ましくないものであり、有害でさえある、というふうに一般に思われているように見える。このような態度を正当づける根拠はほとんどなにもない、と私には思える。完全競争の理論が論じていることは、ともかくも「競争」と呼ばれて然るべき権利をほとんどもっていないこと、そして、完全競争理論の結論は政策への指針としては役に立たない」(Hayek, pp.77-78)

今日でもそうであるが、正統派のミクロ経済学では、「完全競争」にたいする深い思い入れがその根底にある。そしてこの「参照基準」からの乖離により、いかに資源配分が「歪められている」のかを判定しようとする。ハイエクは経済学のこうした傾向にたいし、批判的な警告を発しているのである。市場社会の働きにおいて重要な意味をもつ「競争」は、これらの完全競争を参照基準とする経済学ではほとんど何も論じられていない、と彼は考えている。そしてここでも「実業人の競争の概念」のなかにこそ「競争」の本来の意味があるというリアリスティックな立場が貫かれている。
ハイエクはワルラスの「一般均衡理論」を承認していないといってよい。ハイエクの価格理論(キャタラクティクス)は、市場社会を構成する諸個人の特性(「時と場所の特殊情況についての知識」をもつ人) 、価格システムの特性(情報伝達システム) 、競争概念( 変化の原動力) 、均衡分析にたいする批判的評価といった経済学の基本的論点において、ワルラス経済学とは対照的であるからである。むしろハイエクの価格理論の依拠する市場社会観には、戦間期に重要な景気変動論を展開した「ヴィクセルコネクション」(貨幣的経済論)と共有する点がある。

  D.リアリズムとイデアリズムの葛藤:フェイズⅠ
  これまでの検討からも明らかなように、ハイエクの描く市場社会は非常にリアリスティックであって、「かくあるべし」という理想像を描こうとしたものではない。「現場の人の知識」とか「実業人のイメージする競争」といったものが、ハイエクの市場社会把握の1つの重要なキーコンセプトになっている。市場社会は流動的であり、不確実性に満ちあふれ、そして絶えざる変化をこうむる社会として描かれている。
  しかし、われわれはここで立ち止まって考えてみる必要がある。ハイエクの描きだした既述の市場社会像には次の2つの問題が潜んでいるからである。

    ハイエクの視点からみて市場社会の「本質的な」(冷徹にいえば「都合のよい」)要因だけで構成されている。

  したがって、それは定義上、肯定的な価値評価を当初から含有している。実際、ハイエクはそうした点を彼のいう「設計主義的合理主義」批判を展開するさいに陽表的にもちだしてくるのである。

    「現実の」市場社会に存在する重要な要素が捨象されるかたちで概念構成がなされている。

「現実の」市場社会には、株式会社組織の巨大化、国家の果たす役割の増大、半自治的組織の増大、トラストやカルテルの増大、労働組合組織の巨大化といった現象が明白に認められ、しかもそれらが市場社会の決定的な意思決定主体になってきているといった事実は、ハイエクの市場社会像からは意識的に除かれてしまっている。これらの組織は、後述するハイエクの「自生的秩序」論からは、いわば「不純物」として断罪されるのであるが、そのように扱うことの根拠が明らかにされているわけではない。

  したがって、ハイエクの市場社会像は「リアリスティックな」視点からとらえられているにもかかわらず、同時にそれは「理想化」されたものであって、「現実の」市場社会に現出しているその他の本質的に重要な現象を「リアリスティック」にとらえることには失敗している。「イデアルティプス化」された「市場社会像」を理想的な市場社会と同一視し、そこからの逸脱は自由からの逸脱であるとか、隷従への道であるとか主張するのは、現実の市場社会を狭く解釈しすぎるという危険性をつねにはらんでいる。重要なことは、現存する市場社会を、巨大企業組織や巨大労働組合が重要な機能を果たしているという事実を視野に入れ、それらを前提にしたうえで、市場社会がいかに機能しているのか、そしていかに機能すべきなのかを検討することであろう。こうして「リアリズム」の強調からスタートしたハイエクの市場社会像は、いつの間にか「イデアリズム」の色彩を帯びてしまっているのである(このことを「リアリズムとイデアリズムの葛藤:フェイズⅠ」と呼ぶことにしよう)
 「現実の」市場社会に存在する上記の重要な諸現象をそのまま「リアリスティック」にとらえることで、市場社会のあり方を考察するという立場は、「ニューリベラリズム」( ホブソンやケインズもこのなかに含まれる) や制度学派の流れに沿った人々によってとられた。ハイエクがこうした流れに猛然と抵抗したことは、以上の立論からすれば当然のことであったといえよう。


 自生的秩序としての市場社会
- リアリズムとイデアリズムの葛藤:フェイズⅡ

  ハイエクは、自らが描いた市場社会像を肯定的に評価する。それは可能なかぎり「純」なかたちで実現維持されねばならないものであると考えられている。流動的であり、不確実性に満ちあふれ、絶えざる変化に取り巻かれた社会である市場社会は、なぜ弁護に値するのであろうか。これまでの議論の範囲内でハイエクがあげている理由は次のようなものであった。

経済的理由 - 「情報伝達」機構としての経済性、分割された知識を基礎とする資源の調整された利用が可能。「変化」に対処するのに適した能力。
社会哲学的理由 -分業に基づく職業選択の自由の保証された社会。

  ここで興味深い問題は、ハイエクは、市場社会は自らを安定化させる内在的な力があると考えていたのかどうかという点である。この点に関して、ハイエクの市場社会論は本質的にリアリスティックなものであり、市場社会が自らを安定化させる内在的な力があるということを理論的に論証しようとした形跡は認められない。市場社会は時々刻々、予見せざる変化の発生とそれにたいする調整を通じて動いていく、変転きわまりない、躍動感にあふれたシステムである。市場社会は、そうした変化とそれにたいする調整を経済的な「情報伝達」機構を通じて効率的に遂行していく。しかしそれは何か究極的な均衡状況に向かう過程として把握されたり、論証されたりしているわけではない。ハイエクの描く市場社会には基本的に目的論的発想は存在しないのである。むしろ、上記のような理由からだけでも、市場社会は擁護されるべき十分な価値をもっているのであり、それが安定的傾向を有するかいなかは証明できるものでもないし、証明する必要もない - ハイエクはこのように考えていたようにも思われるのである。
 ハイエクが市場社会にある種の安定化能力があることを主張する根拠は、実は別のところにある。すなわち、市場社会は「自生的秩序」(の代表的な事例) であるというのがそれである。
  「自生的秩序」論はハイエクの根本的な社会哲学観である。そしてこれこそがスミス(「自然的自由の体系」) 、古典派新古典派( 功利主義) の社会哲学観と異なる固有のものである。「自生的秩序」としての「価格システム」をハイエクは次のように説明している。

「……このメカニズム〔は〕人間の設計の産物ではない……、かつ、このメカニズムによって導かれる人々が、なぜ自分たちがしていることをするように仕向けられるのかを通常は知らない……。……すなわち、問題はまさに、資源の利用の範囲が誰か一人の人の管理能力の範囲を超えていかにして拡大するかであること、そしてそれゆえにいかにして拡大するかであること、そしてそれゆえにいかにして意識的管理の必要を省くか、そしていかにして、個々人に彼らの為すべきことを誰かが命令する必要なしに望ましいことをさせるような誘因を与えるか、である……」(Hayek, p.69)

「自生的秩序」は人間が意識的に創造したものではないとされる。諸個人の自発的な行為の結果ではあるが、彼らの行動の意図せざる結果として生み出されたものである。この発想は、人間の創造物ではあるが、どの人間にもその創造についての責任と貢献は帰せられない、というものである。しかも「自生的秩序」は、いったん発見された以上は、必ず守っていくべき価値をもつものとして高い評価が与えられている( 社会的に意図せざる結果として創出された制度であっても、それが「ハイエク的基準」からみて「優れた」制度でない場合には、それは「自生的秩序」とは呼ばれていない点に注意が必要である)

「われわれがここで出会う問題は、けっして経済だけに固有なのではなく、ほとんどすべての真に社会的な現象、言語およびわれわれの大部分の文化的遺産に関して生じるのであって、まさしくすべての社会科学の中心的理論問題を構成する。……われわれは、自分では意味がわからない公式、記号、規則を絶えず利用し、それらの使用を通して、われわれ各自が所有しているのではない知識を利用する。われわれは、それぞれの領域でうまくいくことが明かされた慣習や制度を頼りにして、こうした常習的行為制度を発展させてきたのであり、そしてそういう常習的行為や制度が、次には、われわれが作り上げた文明の基礎になったのである」(Hayek, pp.69-70)

  ここに示されているように、「自生的秩序」論は、すべての社会科学の中心的理論問題を構成するとされている。市場、貨幣、言語、都市といったものが、この点の例証としてよく取り上げられる。それらの発展には、特定の個人の力や設計は何の意味ももたないものとされる。ただ関係するのは「うまくいくことが証された慣習や制度」である。
 諸個人の意図せざる結果として生み出され、そしてそれが「うまくいくことに」気づいた場合に、人々はそれを常習化していく。こうして成立した「慣習や制度」がもとになって、さらに諸個人の意図せざる結果が生み出されていく。こうしてハイエクの市場社会が安定的であるのは、そのシステムがもつメカニズムに内在する要因によるよりは、むしろ「うまくいく」ものとして「慣習や制度」によって保証されてきたことによるとされているのである。
 しかし、ここでもわれわれは立ち止まって考えてみる必要がある。「自生的秩序」論そのものの妥当性という問題である。
 第1に、自生的秩序という概念は、ハイエクの視点からみて、価値があるもの、善なるもの、という価値評価を内包している。人間社会に存在する組織のなかには、ある視点からみて、価値のないもの、悪なるもの、も存在するのが実際である。犯罪組織、暴力団、科学技術の悪用といったことに、われわれは事欠かない。そしてそうした組織も、ある意味では諸個人の「意図せざる」成果として出現してきたのだといえる。しかしハイエクの自生的秩序には、これらのものはすべて排除されており、「有益である」ことを偶然に発見した人間がそれらを「慣習」を機軸にすえて発展させてきたもののみを「自生的秩序」として取り上げるのである。しかし「自生的秩序」と「非- 自生的秩序」をどのような規準により識別することができるのかについて、ハイエクは何ら具体的な基準を提示してはいないように思われる。
  第2に、自生的秩序であげられている事例、例えば、都市について考えてみたとき、世界の多くの都市が、一人の為政者の企画によって建設され、それが何百年にもわたって存続してきているという事実に遭遇する。「東京」を例にすれば、徳川家康という1人物の手になる設計が決定的な意味をもっていることは、だれも否定できないであろう。
 第3に、人々の意思とは独立に生成発展してきた発生論的組織としての「自生的秩序」はできるかぎり「純」なかたちで実現維持されねばならない、という価値観が陽表的に導入されている。すでに、ハイエクの市場社会像自体、リアリスティックななかにもイデアリスムが浸透しているということを指摘したのであるが、ここでは、イデアリズムは陽表的になっており、その分独断的になっている。そして現実の市場社会が「自生的秩序」としての市場社会からますます乖離していくという動きが19世紀の末から第2次大戦にかけて進行していった様子をハイエクが「隷属への道」として断罪するとき、そして「自生的秩序」の実現に妨害を加えるような行為は文明の自殺行為であるとハイエクが声高に叫ぶとき、彼は明白な観念論的保守主義に陥ってしまうのである。ここに至って、「リアリズムとイデアリズムの葛藤」は「フェーズⅡ」に到達しているといえよう。

 一言で要約すれば、ハイエクの市場社会論は「リアリズム」(「現場の人の知識」、「価格システム」、「競争」という3つの枠組みによる把握)と「イデアリズム」(3つの枠組み以外の要素の排除、および「自生的秩序」論による弁護)の狭間で宙づりになっている。