2014年12月11日木曜日

資本主義考 平井俊顕(上智大学)




 資本主義考


                                     平井俊顕(上智大学)

1. はじめに
  わたし達がいま生活している経済・社会システムは「資本主義」と呼ばれている。そのことはだれでも知っている。だが、資本主義とは何なのかを説明できる人、もしくは考えたことのある人は存外少ない。何となくこの用語は使われている。
本稿は、この点 ―「資本主義とはどのようなシステムなのか」― を私の理解に基づいて説明しようとするものであり、次の構成で進められる。最初に、資本主義とはどのような本質的特性を有するシステムであるのかを説明する(第2節)。続いて、資本主義システムに潜む「アバウトさ」(あいまいさ)という点に注目し(第3)、最後に、この20年間に生じた重要な現象である「資本主義への収斂」という現象をみることにしたい。

2. 資本主義の本質的特性
  資本主義の本質的特性として、ここではとくに(私が) 注目に値すると考えている4点をあげることにしたい。動態性、市場と資本、企業、不確実性である。

2-1.動態性
資本主義を根底的に特徴づけるのは、何よりもその動態性(ダイナミズム)にある。資本主義は成長を本質とするダイナミックな経済・社会システムである。それは二重の意味で動態的だ。一方で、資本主義は、分業の進展と競争を通じて、そしてそれらが誘発する技術革新を通じて、生産の増大・成長をもたらす (これはアダム・スミスが『国富論』で展開した主題そのものである)。他方で、資本主義は、既存の社会システム・制度 (それは伝統社会であったり、既存の産業であったりする)を浸食・破壊していく。資本主義化の論理は凄まじい力で自己を貫徹させようとする特性 (ある人はこれを「解き放たれたプロメテウス」と称した) を有しているからである。
資本主義は成長衝動を内包するシステムであり、その爆発力が資本主義化を促進するとともに既存システムを破壊するため、不安定性をも内在するシステムである。人間は欲望という誘引に駆られ、このエネルギーを利用することで信じられないような経済成長を世界の各地で実現・達成させてきた (中国はその最新の事例だ)。だが、そのエネルギーは「悪魔の碾き臼」でもある。資本主義システムを自由放任状態におけば、やがてそれは炎上し、バブルを引き起こしたり、深刻な不況を到来させる。そしてすべてのものを台無しにし、多くの人々を失業させ、保障のない不安定な状況を現出することになる。 
だからこそ、このプロメテウスの解き放つエネルギー、もしくは「悪魔の碾き臼」が放つエネルギーをいかに制御するのかは、その資本主義化を成功裏に達成していくうえで、これまで過去から現在に至る諸政府がつねに直面してきた重要な課題であった。さらに強調すべきは、このことが「いま」― 30年にわたる[とりわけ金融の]「自由化」のあげく襲った大不況の「いま」- ほど、問われている時はないという点である。
 
2-2. 市場と資本
では、資本主義の「成長衝動」・「動態性」は、どのような機構・手段を通じて実現されるのであろうか。それは「市場」と「資本」を通じてである。
 
A. 市場
市場とは、文字通りそこで財やサービスが取引される空間である。売り手(供給者)と買い手(需要者)が登場し、そのあいだで価格が決定され、売買が成立する。これが市場である。市場という組織は歴史上きわめて古くから存在している。例えば古代ギリシアのアゴラや10世紀の中国 (宋王朝)でみられた市場の発展をあげることができる。さらに市場が局地的なものに留まらず、グローバルな展開をみせた重商主義時代をあげることもできる。
 だがここで問題にするのは、市場という機構が経済システムの全体を根底的に支配するようになった状態の社会、つまり資本主義システムである。そのようなシステムは、18世紀後半のイギリスから始まり、今日に至るまで多くの国がその後を追いかけてきているものである。
 さきほど、市場は財やサービスの売買取引がなされる空間であると述べた。だが、ここでいう「市場」は成長衝動を内包する、きわめて動態的な社会である資本主義を牽引するものであって、けっして静態的なものとしてとらえてはならない(この点への注意が必要なのは、経済学が教える「市場」は徹底して静学的・静態的なものだからである)。
市場はたえず生成し、そして消滅していく。というのも、取引される財やサービスそのものに、そしてそれらを生み出す産業そのものに栄枯盛衰があり、そして栄枯盛衰を繰り返しながら経済システムの成長・発展が展開されていくものだからである。

こうした市場には2つの顕著な特性が認められる。「商品化」現象と貨幣経済性である。

「商品化」現象 - 市場で売買される財・サービスは「商品」と呼ばれる。つまりあるモノが市場取引の対象となったとき、それは「商品化」されることになる。資本主義社会とは、経済活動の最も重要で圧倒的な部分が商品化され、市場を通じて取引されるようになった社会の別名である。
資本主義システムでは、あらゆるモノが「商品化」され、市場での取引の対象になっていく。その最たるものが「労働力の商品化」である。19世紀前半のイギリスにおいて誕生した労働者階級が端緒であるが、今日では資本主義システム下で暮らす人間は、そのほとんどが自らの労働力を労働市場を通じ買手である企業に契約販売している。19世紀初頭に比べ、現在では企業は知的分業化の度合いを高度化させているが、労働力が完膚なきまでに商品化されているという点で異なるところはない。
さらに現在では、かつては存在しなかったようなものまで商品化されている。一昨年9月に発生したリーマン・ショックを引き起こす大きな原因となった「証券化商品」や、環境問題への対処策として話題になる (排気ガス) の排出権取引市場(つまりは [排気ガス] 排出権の商品化)にまで及んでいる。

貨幣経済性 - 市場を際立たせるもう1つの特性は、貨幣を用いて取引がなされているという点である。みかんを売る商人はそれを貨幣と交換する。みかんを買う人は貨幣との交換でそれを手に入れる。つまり、物々交換は資本主義の本質的取引形態ではない。一方に商品が、他方に貨幣があり、それらが交換されるというのが、ここで問題にする市場取引である (経済学では伝統的に、物々交換で市場取引をとらえてきた。貨幣の利用はその取引の本質には影響をおよぼさない、といういわゆる「古典派の二分法」が是認されてきたのである)
 
市場について語るさいに、さらに注意しなければならないのは、経済学で通常想定されているのとは異なり、「不確実性」とか「アバウトさ」につきまとわれた装置 (こられについては後述する) であって、けっして資源の最適配分をもたらすものではない、という点である。

B.資本
資本主義の「成長衝動」・「動態性」を実現させていくうえで、市場とならび重要となる手段は「資本」である。資本は「実物資本」と「金融資本」に大別される。実物資本としては工場や生産設備を、金融資本としては貨幣や債券・証券を思い浮かべればよい。市場を動かしていく重要な牽引車が資本である。
先ほど、市場では商品と貨幣が交換される、と述べたが、これだけでは資本主義システムの描写として不十分である。「金融資本」があらゆる市場に目を配り、最も利益を獲得できそうな市場に資金を投入するという点が、資本主義を際立たせるもう1つの特性だからである。 金融資本を調達できない企業や産業は滅ぶしかない。金融資本が利潤を求めて市場システムをかけめぐり、そのことで、ある市場は没落し、ある市場は活気づく、そして産業構造に大きな変革がもたらされ、資本主義システムは成長を遂げていく。
 それに加えて、金融資本にはもう1つの特性がある。金融資本自体細分化し、さまざまな金融市場が、したがってさまざまな金融商品が創生されていくという特性である。いわば、金融資本の細胞分裂による自己増殖的運動の展開である (一昨年秋のリーマン・ショックがもたらした世界経済危機は、まさにこうした「金融資本の自己増殖的分化」である「証券化商品」が大きな原因であった)

 以上にみたことは、市場経済というのは、本性的に「貨幣経済」であるという言葉でも表現できるであろう。そしてこの貨幣経済であるという特性が、さまざまな変動を ―あるときはバブル経済を、あるときは深刻な不況を ― もたらすことになる。
 
2-3. 企業
資本主義システムを特徴付ける第3の本質的要素は企業である。市場で活動する主要な経済主体は、企業、家計、労働者であるが、資本主義の根本的特性たる「動態性」を真に担っているのは企業である。企業は不確実な未来に向けて、大量の資金・人材を投入して、商品の開発、市場の開拓に乗り出して行かねばならない。収益をあげることのできる分野が開拓できない場合、他社との競争に敗れ、存続自体が危うくなるからである。だが、新たな分野というのはその本性上、非常に不確実なものである。そしてそこに乗り出した企業が成功するかいなかは、最終的には市場で評価されるのである。その商品を購入しようとする買い手が十分な数で登場してこないならば、その企業の存続は即座に危ういものとなる。企業のトップは企業組織を未知の危険・不確実性にさらすことになる戦略を実行に移していくなかで、成功をかちとるという困難な課題に直面するのである。
 
2-4.不確実性
以上に述べた資本主義システムの3つの特性 - 動態性、市場と資本、企業 ― は、資本主義システムのもつ積極的・肯定的な側面をとらえたものといえる。
これにたいし、次に示す特性は、資本主義システムが多くの「不確実性」にさらされているという点であり、これは資本主義システムの有する危うさ、脆弱性につながっている。
中世の都市のように、生産が注文に応じてしかも小規模で行われる場合とか、奴隷労働に依拠し、しかも生産されるもの(砂糖とか、タバコなど)が貴族階層に引き手あまたのようなプランテーション栽培の場合であればともかく、資本主義システム下での経済活動には、二重にも三重にも不確実な要素がその行く手に待ち構えている。企業は市場での販売を予想しながら生産活動を遂行していかなければならない。それに企業は将来に向けていまから新たな製品開発に努め、それにメドがたったならば、設備投資を計画・遂行し、利潤の拡大実現に努めていかなければならない。しかもそうして出来た製品が予想通りに売れるかどうかは、需要者の懐具合や嗜好のマッチングに大きく依存するものであるから、本性的に予測は非常に難しい。それにもまして、今日の資本主義システムにあっては「金融資本の自己増殖的分化」活動が経済活動の大きなシェアを占めるに至っており、そのため実体経済を担当する企業は、それらの行為に振り回されながら、予測を立て生産・販売活動を遂行していかざるをえず、いっそう予測は困難さを増しているのである。

3. 資本主義の「アバウトさ」(あいまいさ)
資本主義システムは、合理的な行動を自由に選択できる経済主体の活動によって営まれるものであり、それは経済効率性の観点からみて望ましい状態(パレート最適はそれを象徴する考え)をもたらす。それは、市場という、なかば「自然で」、「どの特定の人物からの支配・命令にも依存しないシステム」により、財・サービスの生産・交換が実現されるものであるから、社会主義システムや封建システムと比べ、自由という点で優れている。
経済学はこのように教えてきた。それは確かに、資本主義システムの優れた特性をうまくとらえている。とりわけ独立し、自由を有する諸個人が社会・経済システムの中枢におかれ、そして彼らが「市場」というなかば自然なメカニズムをつうじて経済活動の中心的部分を担う、という点がそれである。
だが、上記の認識には1つの大きな問題点がある。それは「合理性」への過度の信頼である。とりわけ経済学でいう個人の合理性は、「効用の極大化」に限定された非常に偏ったかたちの「合理性」である。また「市場」については、その価格メカニズムが「完全競争」という、これまた限定された非常に偏ったかたちの「合理性」として解されている。つまり、資本主義システムには、「合理的な」個人、「合理的な」市場があるから、他の経済システムよりも優れている、ということには同意するが、問題は、個人の「合理性」、市場の「合理性」の定義が私の理解するものからは著しく離れている点で、合意できるものではない、ということになる。
ここでは、「合理性」の内容をめぐる問題に深入りすることはやめ、資本主義システム自体を(いかなる意味であれ)「合理性」のみでとらえようとするならば、大きな認識の誤り、偏りをもたらすという点を考えてみたい。その一例が、資本主義が有する固有の「アバウトさ」(もしくは「あいまいさ」)である。この点を「市場価格」、「会計」、「債務契約」1の視点から明らかにしていこう。

3-1. 市場価格
需要と供給できまる均衡価格は、市場参加者の極大満足化行動の結果であるから、理想的な価格である、と経済学は教える。しかもそれは相対価格の決定であって絶対価格の決定ではない (貨幣はベールとみなされてきた)。そしてこのような個別市場の相互依存システムとして成り立つ市場経済(つまりは資本主義システムそのもの)は、完全競争下では「パレート最適」をもたらすとして、経済学者は高く評価してきた。
だがこうした見方は、われわれが生活している市場経済システムの本質を、その根底においてとらえているというよりも、捉え損なっているといわざるをえない面がある。
 まずは需要と供給の働きで実際に決められているのは絶対価格である。つまり、現実の世界に存在する市場では、ある財もしくはサービスは貨幣との交換が前提にされている。この問題を貨幣ベール観で片付け(市場で決定される価格は相対価格であるとして処理し)ようとすると、資本主義経済の市場メカニズムを見誤る危険性がある。
 貨幣が取引の一方で用いられることは、多くの重要な問題をもたらす。ある財が何らかのできごとをきっかけに(例えばうわさ、デマ、コマーシャルにより)人気に火がつき、爆発的に売れたとしよう。絶対価格は大いに上昇をつづけ、当該財を生産する企業に莫大な利益が転がり込む。こうしたことは物々交換のもとでは生じにくいが、貨幣での取引の場合、広範に生じる可能性がある。貨幣は創造されるものである。金融組織はこれを創り出す能力と機能を有する (これは製造業が財をつくるのとは性質を異にする)。そして創造された貨幣でもって問題の財を購入することも可能である(「強制貯蓄」の議論はそうした現象と関係がある)。これらの現象が市場経済を包摂する度合いが大きくなればなるほど、需要と供給の均衡で決まった価格が、市場に参加する経済主体の最適満足化行動の結果であると論じる経済学者の声が、皮相なものにみえてくる(それに、いまここで問題にしている市場は、静態的なものに限られている。実際の市場は、すでに述べたように、動態的なものである。そして経済学者は、こうした動態性、貨幣性を本質的特性とする資本主義システムをうまくモデル化できていない)。
どのような価格が「公平な」価格なのだろうか。それを本当に市場メカニズムは決めることができるのだろうか。とりわけ貨幣、そして信用創造が巨大な規模で展開している今日の資本主義システムにあっては、需給均衡によって決定される価格は「公平」という基準から遠いものになっている可能性がある。ではそれに代わりうる価格決定のメカニズムはとなると、残念ながらそれはない。われわれは市場というものを基本的に尊重する必要がある。しかし、だからといって市場を妄信するようなことがあってはならない。所詮、市場も人間が創設したものであり、そのありようをめぐっては、絶えず監視の目を光らせ、ある種の「公平さ」を基準に取捨選択していくことが必要なのである。

3-2. 会計
企業は取引活動を行い、それでどれくらいの利益を得たのか(損をしたのか)を知るには、取引を(財務会計の規則に則って)記録した財務諸表を通じて、初めて知ることができる。非常に商品の売れ行きがよく、飛ぶように売れていたとしても、それでいったいいくらの儲けが出たのかは帳簿を通じてしか、だれも知ることはできない。そして重要なのは、この計算はどのように厳密に遂行したとしても、多くのあいまいな要素を残したものであるという点である2
 一例として、11日に1つのパンを100円で売ったとしよう。半年たった630日に、同じパンを売ったとする。このとき、物価が10倍になっていたとすると、このパンは1000円で売れたことになる。
 この単純な取引で決算を迎えたとすると、売り上げは1100円になる。かりにパン一個のコストは11日では30円だとすると、630日には300円ということになる。すると全体のコストは330円で、利潤は770円ということになる。そしてこの企業はそのように税務署に申告するとしよう。
 この事例をみて、だれでもただちに思うのは、この計算が10倍というインフレ(見方を変えれば貨幣価値の下落)について何の考慮もしないで行われているということである。もし物価が安定しているのであれば、パン2個だから200円、コストは60円、そして利潤は140円となり、この場合は企業活動の成果が忠実に反映された「合理的」な計算だといえる。同じ貨幣価値でこの企業の営業成績が計算されているからである。然るに、いまの事例では、物価が10倍になっていても、この企業は売り上げ1100円、コスト330円、利潤770円としか記帳することができず、帳簿は本当の取引状況を反映させたものにはなっていない。
 いまのはたった1つの企業の例であるが、実際の資本主義経済では、日々の膨大な取引が半年にわたって展開され、そしてその間に物価が上昇を続けているような場合(あるいは物価が下落を続けているような場合)、すべての企業に上記の状況が続いているわけで、それを集計したものは、全体としての経済のパフォーマンスを正確に反映させた「合理的」な計算にはなっていないのである。
 現実問題として、各企業はそのときそのときの取引価格をもとにしてその利潤を計算するしかない。そしてこの計算は、「計算単位」としての貨幣に全面的に依存する(言い方を換えれば、「貨幣錯覚」を容認する)ことになる。かくして資本主義経済にあっては、巨大な規模での「貨幣錯覚」を除去するすべがなく、会計計算がなされており、そしてこれらをもとにしてしか国民所得計算はできないのである。
 こうして会計という手法は、資本主義システムにあって根本的に重要なものであるにもかかわらず、いかに財務会計の規則に忠実に行ってみても、それが計算単位としての貨幣に依存するしかなく、そしてそれゆえに貨幣錯覚に陥ったまま、あやしい計算結果を招来するという事実を変えることはできないのである。
 国民所得会計では、ミクロ・レベルでは名目値で計算を行い、その集計結果としてマクロ・レベルの数値が出てきた後、物価指数によって実質化することで上記のインフレ・デフレにより貨幣錯覚を修正している。これは重要な手法であるけれども、実際に経済活動を行っている経済主体は名目値(すなわち、貨幣錯覚を有したまま)に依拠して会計計算を行っているという事実を変えるものではなく、実質GDPはいわば後付けで算出されている(そしてこれしか方法はない)3

3-3. 債務契約
現代の資本主義社会では多種多様の債務契約が結ばれている。契約の目的は多種多様であるが、共通していえるのは、すべて計算単位としての貨幣を基礎に結ばれているという点である。
 例えばある契約では、その債券が100円で売買され、それにたいし、向う5年間、毎年10円の利息が支払われる、というようなかたちになっている。いま市場での売買を考慮しない場合、債権者は毎年10円の利息を受け取り、5年後に100円の返済を受けることになる。
 この間に、インフレが起き、例えば物価が毎年100パーセント上昇していったとしよう。すると、5年後の100円はもちろんのこと、毎年受け取る利息の10円も、いまの100円、いまの10円とはまったく異なる低い価値をもつ。この場合、債権者は非常な損失をこうむることになる。逆にデフレが起き、物価が毎年100パーセントで進行していった場合は、上記とは逆に、債務者は塗炭の苦しみを味わうことになる。
 だが、資本主義システムが多種多様の債務契約を、貨幣タームで結ぶかぎり、上記のような問題を避けることはできない。人々は現在の金融状況を反映するかたちでしか、契約内容を決定することはできず、そしてそれは貨幣を計算単位として採用することで締結される意外、方法がないのである。人々は、「自覚された」貨幣錯覚(貨幣を計算単位として用いると、インフレ、デフレ時にあっては経済的混乱を引き起こすことは分かってはいても、そうするしかないという意味)のもと、日々、債務契約を結んでいるのである。資本主義システムにあって貨幣的な契約はきわめて基本的な取引行為であるにもかかわらず、そこには「あいまいさ」(もしくはアバウトさ)がつきまとっている。

2. 資本主義システムの問題点

2-1 資本主義システムの長所・短所
資本主義システムは成長衝動を内蔵するシステムであり、その爆発力が資本主義化を促進すると同時に既存システムを破壊する。それは不安定性を伴う動態的なシステムである。その「成長衝動」・「動態性」は、「市場」と「資本」を通じて実現される。さらに、「動態性」を真に担うのは企業である。企業は不確実な未来に向けて、莫大な資金・人材を投入して、商品・市場の開拓に乗り出していく。
「動態性」、「市場と資本」、「企業」は、資本主義システムのもつ長所である。市場という巨大なネットワークを通じて経済活動が展開されることで、経済主体は自主的行動を許され、無数の財・サービスが生産・交換され、さらには企業の活動を通じ経済の動態的発展が実現される、という長所である。
他方、資本主義システムには深刻な短所も認められる。第1に、動態的ゆえの不確実性・危うさ・脆弱性を有する。第2に、固有の「アバウトさ」(「あいまいさ」)を有する。第3に、効率性・自由を追求するあまり、不平等・格差の拡大を放任する傾向を有する。

以上、資本主義システムの長所・短所を原理的に挙げてみた。以下では、現在の資本主義システムが抱えている3つの問題点を取り上げる。これらは上記の短所に、多かれ少なかれ関係している。

2.2 バブル現象 - 囚われる企業・人
バブル現象とは、経済が何らかの要因で過熱し、ついには政府がそれを抑制しようとしても不可能となり、爆発・炎上してしまう状況を指す。こうしたことは昔から生じており、17世紀のオランダで起きたチューリップ・バブル、18世紀ヨーロッパで生じた(ジョン・ローとともに知られる)株式バブルなどがある。
経済学では、バブルは例外的現象として処理されてきた。それは資本主義の抱える本質的問題ではないとされ、経済学の主要課題は正常なプロセスの分析にあるとされた。さらに景気変動や失業も、20世紀初頭になるまで例外的現象とみなされた。「古典派の二分法」や「セイ法則」にたいする経済学者の信頼は熱く、資本主義システムにおける失業問題への真正面からの取り組みは、ケインズの登場を待たねばならなかった。
それに、この20年、経済学の主流はケインズ以前の状況に戻る傾向が顕著であった。「新しい古典派」は、古典派の二分法やセイ法則を擁護し、非自発的失業の存在を否認するスタンスに立って景気変動を論じてきた。
皮肉なことに、同期間、実際の資本主義システムは不安定さの繰り返しと増幅に見舞われてきた。代表的なものに、80年代末から90年代初めにかけての日本のバブルとその破裂、90年代中葉から21世紀初頭にかけてのアメリカのドットコム・バブルとその破裂、2000年代のアメリカの住宅バブル、サブプライム・バブルとその破裂がある。いずれの場合も、バブルはマネー・サプライの異常な膨張とそれを利用しての過熱した投機活動に、またその破裂はこうした動きを抑制することに失敗した当局の政策に、起因している。
「新しい古典派」は、こうした事態への基本的認識を欠いている。資本主義システムのもつ「不安定さの繰り返しと増幅」を全面にすえた分析がいまほど必要とされている時はない。
バブルが経済システムにとり危険なのは、それが経済社会で活動する人間の心性質を「過剰なまでに」突き動かすからである。ライバル企業が、不動産や株式・金融資産などの異常な高騰を利用して巨額の利益を得ているとき、「バブルは必ず破裂する」といって座していることは、企業組織のトップにあってはほとんど許されない。ライバル他社に比べ財務・給与・配当状況の悪さが際立つことになり、経営幹部、株主からの激しい不満が押し寄せてくるからである。
 社員にあっても、同僚が多額の注文を取り付けているとき、「バブルだから必ず破裂する」といって客の質を選別することは許されない。結果は金額でのみ評価される環境にあるから、給料・ボーナスの大幅カットを受けたり、最悪の場合、解雇されたりするであろう。
 こうしたことは人間組織に通底しており、ライバルが儲けているときに静観することはできないという人間の心性に根ざしている。バブルが続けば、多くの人はそのなかで踊り、少なからぬ人は踊り狂うことになる。そのなかで、人は知らず知らずのうちに、モラル・ハザードの餌食になっていく。バブルは人間性を狂わせる。すべての人が濡れ手に粟的な利殖の獲得に熱中し、そしてその過程で生じる明白な不正行為 (例えばLBOや禿鷹ファンド的行為) までもが正当化されるような倫理観(「どのような手段を使おうとも、儲ける者が勝者、路頭に迷うものはビジネス才能に欠ける者」といった倫理観) が横行するようになる。
それゆえ、バブルの抑止を企業家・個人・市場に委ねることはできない。それは
政府に求めるしかないが、当の政府がバブルの暴走を抑止できていない。とりもなおさず、これは資本主義システム・政府の機能不全である。それゆえ、なぜ政府機能が不全なのかを探り、資本主義システムを制度的に改革することが必要である。
リーマン・ショックに端を発する今回のアメリカのバブル経済の崩壊は、金融の自由化・金融のグローバリゼーションが招来したシャドウ・バンキング・システム(以降、SBSと略記)の拡大に大きく由来する。野放図な金融の自由化により、その暴走を止めることができないようなシステムの展開を許容していったからである。バブルの暴走を阻止し、資本主義システムを制御可能にするためには、金融システムの改組は必須である。アメリカで昨年成立した「金融規制改革法」はこうした認識に基づいている1

2-3 腐敗と不正
資本主義システムは、市場を通じての財・サービスの交換を基本にするため、効率的・合理的であり、かつ参加者の自由・対等性・公平性が保証されている。だが、他のシステムより優れているとはいえ、腐敗と不正から免れているわけではない。
1つは帳簿操作である。資本主義システムにあって、すべての経済活動は貨幣で評価され記帳される。それらの集計で経営状況が判明する。だが、帳簿にはいろいろな落とし穴が潜む。例えば、本来は赤字である業績を黒字にみせる様々な操作手法が工夫されており、経営者が巨万の利得を手にすることもしばしば生じている。こうした行為を止めることは、かなり難しく、その利益が合法的なのか、非合法的なのかの識別は、ほとんどの場合不可能である2。それに何よりも非合法である場合、訴追手続きが必要となるわけで、たとえ国側が勝利したとしても、氷山の一角である。
 もう1つは金融に関係する。資本主義システムは金融抜きには成立し得ない。実体経済がある程度の大きさになると、生産・サービス活動に必要な資金は外部に依存せざるを得なくなり、そこに金融の存在価値・本来的役割が存する。
だが、金融は不正を働く余地のきわめて大きい分野である。金融がより大きな自由を享受するにつれ、不正を働く余地は拡大していく。金融に関連する腐敗・不正行為の代表的なものとして、次の3点をあげておこう。

() 強制貯蓄 (信用を創出する権利を手にしている金融機関が、必要とする財・サービスを思いのままに取得できる方法)
() 株式市場の悪用 (インサイダー取引、デマ情報を流しての株価操作、LBOM&Aなど)
(市場の不存在と不透明化による利益の収奪 (近年、粗製乱造された「証券化商品」)

2-4 格差問題
資本主義システムは経済活動の基盤を市場におく。経済学者は、そのメカニズムをモデル化した一般均衡理論に、絶大なる信頼を寄せてきた。だがこのモデルは、財産の分配状況を所与としたうえでの立論であり、分配状況を問うわけではない。 これと関連するが、経済学者は「正義」を「交換的正義」としてとらえる。市場メカニズムが交換という行為により、「正義」を実現するという考えである。この考えでは、ストックとしての分配状況への価値判断 (「分配的正義」)は排除されている。「市場の自由な作用に委ねれば、経済システムは効率的になる」(「パレート最適」) という思想がある。これも、財産の分配状況は所与として論じられている。 
財産の分布(ならびに所得の獲得方法)に大きな差がある社会にあって、市場の自由な作用のみに委ねる場合、実際には、一層の格差を生み出しがちである。この30年間、「市場原理主義」(「自由放任主義」の現代版) に駆り立てられた世界は、その結果、大きな所得格差(貧富の格差)をもたらしてきた。このことは、ジニ係数その他の数値で明らかになっている。先進国アメリカ、イギリスなどでの所得格差の拡大は著しいし(特に、金融セクターへの富の偏在)、「新興国」BRICSにおいてはさらに一層顕著である3



1) だが、この問題は主要国間の協力なくして解決することのできない問題である。
2) 不正経理はその一例であり、2000年頃に発覚したエンロン事件はその代表的事例である。会計監査法人アーサー・アンダーソン会計事務所はそれへの加担のため、倒産に追い込まれた。
3) 経済成長が停滞してきたわが国でも、このことは妥当する。アメリカの場合、2006年度、1%の最富裕層が全所得の22%を占め、過去80年間で最大になっている。また1979-2002年の税引き後所得は、1%の最富裕層の場合、111%上昇したのにたいし、その他の階層では第2階層の48%が最高で、最下層の場合5%である(CBOデータ)。最近のNYTFootnoted.comによるゴールドマン・サックスをめぐる調査では、リーマン・ショック後も巨額の所得・資産を享受しているさまが明らかにされている(118日付)。今日、格差の是正の必要性とそれを解決できない場合に陥る資本主義世界の危機を訴える声が、世界中の指導者のあいだで日増しに強くなっている(『エコノミスト』[イギリス]120日号)。



参考文献
                    
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