2015年4月30日木曜日

国際主義とナショナリズムの相剋 - 救済問題をめぐるケインズのスタンス 平井俊顕 (上智大学)





     
           
            国際主義とナショナリズムの相剋

- 救済問題をめぐるケインズのスタンス

                                                     平井俊顕 (上智大学)

 第2次大戦時、ケインズは請われて大蔵省にアドバイスを与える役職を引き受けた。19407 月のことである。第1次大戦時とは異なり、正式の官僚としてではないが、大蔵省が対処していかねばならない重要課題に具体的な構想を与えていくことを要請されてのポストであった。第1次大戦時にはケインズは大蔵省で国際金融を担当し、アメリカとの交渉にさいし中心的な役割を演じた。さらにヴェルサイユ講和会議では大蔵省首席代表として臨んだのあるが、条約内容に反対して辞任し(1918 6 ) 、批判的著作『平和の経済的帰結』(1919 ) を公刊したのであった。以降、ケインズは在野にあって、『貨幣改革論』(1923 ) 、『貨幣論』(1930 ) 、『一般理論』(1936 ) といった重大な影響力をもつ理論的著作を次々に発表していった。なかんずく『一般理論』の与えた理論ならびに政策への影響は深甚であり「ケインズ革命」として知られる。
  かくして22年の歳月を経て、ケインズは再度、大蔵省に関与することになった。爾来、彼は、このポストから実に多岐におよぶ重要な活動を展開することになるのである。その活動は3つの分野に分けることができる。第1は、差し迫ったイギリスの国際収支悪化にかんするものであり、彼は事態打開のためアメリカからの借款交渉を陣頭指揮した1 。第2は戦後の世界秩序形成に関係するものであり、第3は戦後の国内秩序形成に関係するものである。前者のなかで最も有名なものは、戦後の国際通貨体制として提唱された「清算同盟案」(ケインズ案)2 であるが、それ以外にも、通商政策・賠償問題3 、救済(・復興)問題や商品政策の領域で様々の注目すべき提案を行っている。その多くは大蔵省の、そしてイギリス政府の公式見解として採用され、ケインズ自らが代表者となりアメリカ側に提示され協議された。これらの交渉はひどく困難で苦渋に満ちたものであった。戦局の長期化に伴いイギリスの財政的・軍事的疲弊はひどくなる一方であったのに、交渉相手たるアメリカは圧倒的な経済的・軍事的力を誇っていたうえ、イギリスにことさら友好的というわけではなかったからである。こうした状況下にあって、ケインズはイギリスをアメリカとできるだけ対等の地位におくかたちで世界秩序を再構築すべく尽力したのであるが、それが実現することはなかったのである。しかし、これらの努力が戦後世界秩序の構築に対し少なからざる影響をおよぼしたことは指摘しておかねばならない。ケインズに端を発した構想が、交渉を通じて次第にアメリカ側に取り入れられていくという事実があったからである。
 戦後の国内秩序形成に関係するものであるが、ある意味でこの面でのケインズのおよぼした影響力の方が大きかったといえる。なぜなら、それはイギリスの市場社会システムをいかなる原理に基づいて再構築し運営していくかという問題ではあったが、それはひいてはヨーロッパ各国が依拠するシステムのプロトタイプを形成するものであるという意味で普遍的であるからである( この点で『一般理論』の影響力はきわめて大きかった) 。この分野では雇用問題や社会保障計画などをあげることができる4 
 これらの具体的検討を通じ、政策立案者としてのケインズが、当時のイギリスにあっていかに指導的な立場にあったのかが明らかになるであろう。結論を先取りすれば、それは、国内での強力な指導力の発揮、および国際舞台での( アメリカの力を前にしての) 挫折の繰り返しであった。一方でのケインズ的な社会哲学の浸透と、他方での世界政治・経済の舞台での大英帝国の惨めな後退 - ケインズはこのコントラストを身をもって味わうことになったのである。
  以上のような文脈のなかで、本稿が対象にするのは救済問題である。この問題をめぐるケインズのスタンスの変容を追跡することにより、救済問題のなかであらわとなっていく国際主義とナショナリズムの相剋というケインズの側面に注目してみたい。
 ところで、救済問題と商品政策は独立した問題である。救済問題は、大戦により被害を被った諸国を物質的・財政的に余裕のある諸国が援助を施すという問題であり、そこでは救済する国と救済される国とのあいだに画然とした線引きがなされる。これに対して(国際)商品政策は一次産品の大幅な価格変動を防止することによって、世界経済の安定化を目指すものであり、より経済的な問題である。だが現実には、両者は当初、密接な関連をもって検討がなされたのである。

1.当初の展開 -救済問題と商品政策の密接なる関係

 当初、救済問題と商品政策が密接な関連をもって検討されたのは、イギリス側に次のような事情があったからである。第2次大戦の勃発に伴い、イギリス側は戦略物資が敵側に渡らないようにすることに尽力した。そのためには一次産品を買い支えることが必要となる。こうしてイギリスは大量の余剰商品を抱えるという事態に直面したのである。この事態に対処するため、19407 月、「われわれの封鎖により敵国への供給路を閉ざされている……産出国の商品余剰に対処するために、生産制限、購入と貯蔵、廃棄等を含めどのような措置を講じるべきか」(JMK.27, p.3) を検討するための「輸出余剰にかんする閣僚小委員会」の設置が決定された。この(余剰)商品問題が戦後の救済問題と関連付けられることになったのは、「戦後の救済目的のためにイギリスが食糧および原材料の備蓄政策に関与」(JMK.27, p.3) すべき旨の首相発言(8月)を契機としてのことである。
  同閣僚小委員会は「アメリカの助力のいかんにかかわらず、将来の生産を制限ないしは調整する目標と連結させながら、イギリスが2億ポンドの余剰商品を購入」(JMK.27,p.3)すべきであるとの勧告を行った。そして同年11月、この勧告に基づき必要な交渉を遂行するため責任者としてリース- ロスが任命されたのであるが、彼に助言するために設置された事務レベル委員会の大蔵省代表となったのがケインズであった。
 当初、ケインズは、「アメリカがそれを理解するならば率先して行動したがるような、戦後最大級の意義ある世界的な計画」(JMK.27,p.5)にすべきであるという考えをもっていた。そして彼は、アメリカとの全面的な協力が不可欠であること、そしてそれは国際主義的な原則に基づいた計画でなければならないこと、を主張していた。
 194011月、リース- ロスは余剰商品問題にかんし下記の3 つの目的をもつべきことを提案した:   戦後の救済に備えて物資を貯蔵すること、②  戦争のため市場を破壊されている生産国を救済すること、③  戦時中の余剰商品再発を防止するために、ならびに戦後、不均衡が発生するのを防止するために、生産調整を実施すること。
  ケインズはこの提案に全面的な賛意を表した。そして12月には資本の一部を現地で調達する商事会社の設立構想を推奨するとともに、余剰商品についての各種データを収集・分析することの必要性を訴えている。後者との関連では、19412 11日付けの手紙で、ケインズは近年の最低年平均価格より10パーセント下回る価格以外では、余剰商品を購入すべきではないと提案している( そこでは各種商品の購入価格が検討され、イギリスがこれまで支払ってきた価格は高すぎるという結論が出されている) 。彼はこの価格政策を同年2 19日の事務レベル委員会で提案しているが、それはほぼそのままのかたちで了承されている。ケインズのこうした提案の背景には、イギリスの財政状況が急速に悪化しつつあるという事情があった。
 1941年の春、ケインズは小麦および綿花の商品協定5 にかんする英米交渉等に関与していた。ここでは、とりわけ次の2 点が注目に値する。1 つは輸出品の数量割当協定についてのアメリカ側提案に対する疑義であり、もう1 つは不安定な債権国であるアメリカがいかにしてそれを是正するのかという問題である。後者について、ケインズは次の3 つの代替案を提示している( 信頼のおける国際的貸手になること、② より多く輸入すること、③ 輸出を削減すること) が、そのいずれも非常に難しいと考えている。
  19415 月、ケインズはワシントンを訪問したさい、余剰問題をめぐり国務省のアチソンと議論を交わす機会をもった。そのさい、戦後の問題をめぐり次の構想を披露したのであるが、アチソンは、予想をはるかに超えて全面的な賛意を示したのである:   戦後のヨーロッパ救済と復興について( ここには第 2節で言及する「中央救済・復興基金構想」の萌芽がみられる) 、②「常平倉」(ever-normal granary. 主要商品価格の、世界を通じての均一化を達成することを目的とした包括的計画) について)
  この時点でのケインズの事実認識にかんして重要な点 - それは世界中で余剰商品の蓄積が進行しており、したがってそれを戦後ヨーロッパの救済・復興に役立てることができるという点である。救済問題と商品問題は両立しうるはずの問題であった。
  以上の経緯からも明らかなように、戦後の救済問題と商品政策をめぐる議論は、1941年の中葉までは、ケインズとリース- ロスとのあいだでも、そしてアメリカとのあいだでも、大筋において合致していたといってよい。
  本稿では、救済問題をめぐる以後の議論の経緯を検討していくことにしよう( 商品政策については次稿で検討する) 。その際に注目すべきは、国際主義的な視点に立って展開されているケインズの提案といえども、イギリスの国益を擁護するという問題と無関係には存しえないという点である。両者が合致する場合には前者の色彩が色濃く出てくるが、抵触する場合には後者の色彩が前面に出てくる。その意味でケインズは現実主義者であり、ナショナリストであった。救済問題においては、この点がひときわ鮮やかに現出しているのである。

2.「中央救済・復興基金」構想 -同種の路線

 アチソンとの会談で示された救済問題についての構想は、同年秋に作成された「戦後ヨーロッパ救済の金融的枠組みにかんする大蔵省覚書」と題する文書(1941 1024日。JMK.27, pp.46-51. 作成の中心はケインズであるため、以下「ケインズ案」と呼ぶ) に継承されている。
  ケインズ案は、「中央救済・復興基金」(Central Relief and Reconstruction Fund.以下CRRFと略記する) の設立により救済を遂行すべき旨を謳っている。CRRFは、様々な国からの現金もしくは現物拠出に基づく共同基金の運営にあたる。そのさいの基本コンセプトは次の2点である: ①CRRFが必要なすべての救済物資を集配する(CRRFは、必要な物資をいかなる国からも公正な価格で購入できるとされている) 、②CRRFは、受取国がどれだけを贈与として受取り、どれだけを支払うべきなのかを、何らかの原理に基づいて決定する。
  これらすべての取引は、共同勘定に記帳される。そしてCRRFがその規模を推定するために、次のような手続きが提案されている。一方は、連合国諸政府に対し物資の必要量リストの提出、ならびに敵国、フランス、中国に対する配慮であり、他方はCRRFが利用できる物量の推定である。さらに、贈与なのか、支払いを要求するのかを決定するための前提として、関係諸国の財政状況を調査する必要性が指摘されている。
  このような特徴を有するCRRFを創設しようとしたケインズの意図は、それが、様々な国が個々別々に現物援助を行う方法よりも優れている、と考えたからである。前者の方法では、各物資について個別の金融協定を結ぶ必要はないが、後者の方法では、利用できる在庫物資と適正な財政負担とに対応関係がないため、多様な物資の配分は混乱したものになるというのである。
  当初、リース- ロスは「全体的な構図」を有してはいなかったが、ケインズとの話し合いのなかで変化したようである。実際、リース- ロスは19411120日付けのケインズ宛の手紙(JMK.27,pp.55-56)において、「ケインズ案」に対する代替案( 以下「リース- ロス案」と呼ぶ) として、CRRF構想と同様の国際救済組織の設立を唱道している。
  この後、「ケインズ案」と「リース- ロス案」をめぐっての論戦が交わされることになった。両案は、リース- ロスがケインズの考えに接近したがゆえに、援助のための中央機関の設立を中心に据えている点で共通していた。リース- ロス案にあっても、中央機関に対し様々な国が主要な一次産品ならびに現金を拠出し、中央機関はそれらをもとにして運営することになっており、また供与される物資は贈与なのか、それとも支払いを要求するのかを決定する手筈になっているからである。したがってこの時点での相違点は、原理的なものではなく、構想の具体化を進める速度にあったのである。この点は、リース- ロス案に対するケインズの以下の反応(1941 122 日付けの手紙) からも明らかである。
  リース- ロス案では、アメリカ人の議長、イギリス人の次長、分科会等といった具
体的な姿が示されているが、ケインズはそうした点の具体化より、一般的な原則について合意を形成する方が重要であると考えている。
  リース- ロス案では、この組織への現金拠出が強調されており、米英の具体的な比
率として2対1が提示されているが、ケインズはそのような具体化は時期尚早であるばかりか、将来の取決めを歪める危険性があると論評している。
  リース- ロス案では、主要一次産品をできるかぎり確保すべきだとしているが、ケ
インズは戦争の現段階でのそのような試みには意味がないと評している。
  リース- ロス案では、レンド- リ-スの弾力的拡張が希望されており、また救済組
織が有効に機能しない場合には調整のための取決めが必要としているが、ケインズはこれは関係諸国との個別交渉が必要となり、共同融資という本来の方針と矛盾すると論評している。
 この時点にあっては、明らかにケインズはCRRF構想を堅持する立場に立っていたといってよい。しかし、この直後、ケインズはこの構想を放棄するに至るのである。このため、両案のあいだにみられた上述のような相違点は、まったく意味のないものになってしまうのである( なお、第 4点にある「レンド- リースの弾力的拡張」は、ケインズが以降に採用する立場であることを記しておこう)


   3.方針の変更 - レンド- リース制度の継続希望: 大蔵省と商務省の対立

 ケインズの態度に大きな変化が認められるのは、1942年2月4日付けのウェイリー宛の書簡においてである。そこでは、イギリスの戦後の貿易収支がきわめて困難なものとなり、外国からの借り入れなしにはイギリスの拠出は難しくなるから、救済問題をめぐるこれまでの考えを改めるべき旨が述べられている。そして固定された拠出額とか、無償の贈与とかいった点にはきわめて慎重であるべきことが表明されている。いま重要なのはリース- ロスが夢中になっているような金融支援の方法の検討ではなく、組織そのもののあり方の検討であると述べられている。
  その後、大蔵大臣ウッドから商務長官ドールトン宛の書簡が大蔵省で用意されることとなった。これはウェイリーとヘンダーソンによる起草をもとにホプキンスが手を加え、最終的にはケインズによって完成されて、1942年5月1日に送付された(JMK.27, pp.61-66.以下「ウッド書簡」と呼ぶ) 。そこでは、これまで大蔵省が打ち出していたCRRF構想は放棄され、代わってレンド- リース制度6 の継続を重視する方針が採られている。
 ウッド書簡はほぼ次のような内容をもつ。イギリスの国際収支の状況はすでに深刻であるのみならず、とりわけ終戦直後にはきわめて深刻なものとなるのが確実である。またイギリスの生産は今後大幅に減少するのが確実である。それゆえわが国は援助を与えるどころか、援助を受ける国へと転化するであろう。これまで大蔵省が提唱してきたCRRF構想は、その前提となる条件が時局の推移により消失しため、その実行は不可能となっている。いまやわれわれが目指すべきなのは、アメリカからのレンド- リース制度の継続を取り付けることであり、さらにはカナダに同様の要請を行うということである。
  大蔵省は、事態の急変のため、明確な路線変更を行った。当初、大蔵省が提唱していたCRRF構想では、イギリスが供給物資の余剰国として終戦を迎えるという想定が前提となっていた。また、それは救済を受ける諸国からの必要量リストの提出をも要請していた。ウッド書簡では戦後に物資が不足する国としてイギリスがあげられているが、他方、アメリカ、インドなどのように余剰を抱えて終戦を迎える国のあることも指摘されている。つまり、戦後救済問題との関連での事態の急変とは、戦争の長期化という事態を別にすれば、イギリスにとっての急変であって、アメリカや他の英連邦諸国にとっての急変ではないのである。このことは、この書簡での提案( すなわちレンド- リース制度の継続・拡張) がCRRF構想に優る点が、次のように述べられていることに露呈している。
「後者の計画〔CRRF構想〕のもとでは、われわれは、援助を申請しようとする他のすべての諸国と同じように、〔救済〕会議に赴き、われわれが必要とする物資を現金で支払えないことを証明するために、金や外国為替資金の数値[ 残高] を提示しなければならないでしょう。われわれはこの立場におかれるのを避けるように努めるべきである、と私は思います」(JMK.27, p.65)
CRRF構想は、多数国間での援助をCRRFを通じて実施しようとするものであり、
国際主義的な性格をもっている。しかるにイギリスにおける事態の急変によりこの構想は放棄され、戦争が長期化するなかでいわばなし崩し的に実現をみたレンド- リース制度を拡張させるという現実主義的な路線への転換が図られたのである。ここには、国際政治・経済の舞台におけるイギリスの苦境が深刻化するなかで、ナショナリスティックな顔がはしなくも露呈している。
  この時点で、大蔵省と商務省の対立は性格が変わってしまっていることに注意を払う必要がある。それまでの対立は、中央救済機関構想の具体化を図る速度をめぐるものであった。だが、いまや対立点は、大蔵省がCRRF構想を放棄し、レンド- リース制度の継続・拡張へと主張が変わったのに対し、商務省はこれまでの主張を維持したという点( 中央救済組織構想およびその具体化を急ぐという点) へとシフトしたのである。
 ウッド書簡に対するドールトンの返書( 以下「ドールトン書簡」と呼ぶ) は、19425 13日に送付された。そこでは、次の7点が主張されている。
「①イギリスは連合国諸政府とともに国際組織を通じて、戦後、物資を共同拠出すべきである、②供給の取決めは調整されるべきである、③イギリスは返還条件を付けたうえで救済組織が一時的に不要な物資を利用できるようにすべきである、④イギリスは他の諸国が必要物資を〔十分に〕供給されるまでは配給制を維持すべきである、⑤イギリスの戦後の必要量は他国のそれと同じ審査に服すべきである、⑥イギリスは解放後、連合国の領土に糧食を再補給することに万全をつくすべきである、⑦イギリスは時期が来れば援助にかんして可能なあらゆる手段をとるという原則のもとで、救済〔組織〕に積極的に拠出すべきである」(JMK.27, p.66 の脚注1 。数字は筆者が追加)
  ドールトン書簡に対し、ケインズは19426 1 日付けのウェイリー宛書簡(JMK27, pp.67-70) で、明確な予測が不可能な状況でこうした包括的公約を行うことは危険であるとし、大蔵大臣が諸閣僚に次のような諸点に注意を喚起させることを要望している。
  配給制度ならびに連合国領土への糧食の再補給について極端な公約をすることの危
険性の指摘。提案されている配給制度は、非現実的で実行不可能な利他主義を反映している。また連合国領土への糧食の再補給に言及することは、戦火拡大により実現が不可能となっている希望を喚起させることであり、誠実さにもとる。
  供給物資の「共同勘定」提案の危険性の指摘。このことは、わが国にとって妥当な
輸入量についての決定権を、外部組織に委ねてしまうことを意味する。
  ドールトン書簡は食糧だけであって原材料には関連していないという点を明示すべ
きという指摘。この書簡が原材料にも適用される場合は非常に危険である。輸出の進展に重大な障害をもたらすからである。
  たとえわが国に援助する力があるとしても、それはアメリカ等から援助が得られる
場合に限られるということを明示すべきという指摘。
  以上に示されたケインズの見解は、「復興問題委員会」(Reconstruction Problems Committee)に提出された大蔵大臣覚書の土台となった。
  両省の対立( したがってケインズとリース- ロスの対立) はその後も続いている。19421118日付けのダネット他宛の書簡(JMK.27, pp.73-79)には、救済機関にかんするリース- ロスの新たな提案に対するケインズの論評がみられる。重要と思われる論点から順次列記しよう。

  リース- ロス案は、「最良の計画は供給物資-食糧のみならず原材料をも含む - について真の共同出資を樹立することである」という原則を採用しているが、これは恐ろしい精神の混乱を示すものである。
  リース- ロス案の配給制度は、解釈するのに難しく、かつ深刻な政治的困難をもた
らすような、待遇の全面的平等を前提にしている。
  リース- ロス案はイギリスの現実を無視して構築されている。たとえば、アメリカ
からの保証を得ないうちに、終戦時にイギリスに存在する在庫の使用を保証しようとしている。また世界の余剰船舶の大部分がアメリカ籍であって、イギリスには余剰船舶は存在しないという事実を無視している。
  リース- ロスは、「英米合同理事会」(Anglo-American Joint Boards)への連合国
からの代議員選出にかんして小国にまで強い地位を付与しようとしている。
  以上に示されたリース- ロス案に対するケインズの批判の中心は、それが極端な平等主義(= 国際共産主義)に立脚しており、とりわけイギリスのおかれている経済的現実をまったく無視しているという点にあった。これに対し、ケインズの考えの基軸にあったのは、非救済国、救済国、旧敵国という3つの範疇を識別することの重要性である。それぞれの範疇に応じて、配分の原則は異なってしかるべきである、というのである。イギリスの場合、短期間レンド- リースを受けたうえで自立を目指すべきであり、また受け取るいかなる援助も借款ベースにすべきである、と。かくしてリース- ロス案は、ケインズの目からみて非常に破壊的なものであった。

            4.「連合理事会」構想 -若干の歩み寄り

 19431 6 日、ケインズは蔵相ならびにリース- ロスに「戦後救済のファイナンス」と題する文書(JMK.27, pp.79-86)を送付したが、これは若干の修正を経て大蔵省の正式案となった。この文書は、レンド- リース制度の継続を希望するという現実主義的な路線をベースにしつつも、他方でCRRF構想という国際主義的色彩のもつ若干の特徴を、「連合理事会」(Combined Boards.以下CBと略記する)という既存の機構に担わせているという点で、中間的な性格を帯びたものである。
  「戦後救済のファイナンス」は、救済を、すでに実施されていた「戦時協定」(War Arrangements)の一般的原則に沿って実施することを謳ったものである。それは物的側面と金融的側面に分かれている。物的側面を担うのはCBである。CBは救済需要量を世界の残りの民間必要量と調整しながら、「効率性」を専ら考慮して最良の供給源を決定する。他方、金融的側面は、供給国と受取国とのあいだの適切な金融協定によって担われる。ここでは、ケース・バイ・ケースで、無償供与なのか、それとも支払いが要求されるのかが決定されるが、その基準についてはアメリカとのあいだでの何らかの了解が必要であるとされる。
 この提案には次のような利点があると述べられている:①限られた資金で救援物資の迅速な利用を可能にする唯一の有効な方法である、②イギリスがレンド- リ-スの適用を引き続き受けるという資格を奪うことがない、③ 固定された限度額を有するCRRFのような機関が存在しないため、時期尚早の債務を負わされるということもない。
  他方、この提案では、CBに大きな権限が与えられることになる。しかし最終決定は物資を供給する国に委ねられており、その意味でCBは諮問団体にすぎない。だがケインズは、この提案は食糧と原材料の受領国としてのイギリスがCBという外部の配分制度に主として服することになるという事実を変えるものではない、とも述べている。

   5.「国連救済復興機関」に対するケインズの対応 - 「キマイラ」(Chimera)

  救済問題は、その後、アメリカ側のホワイトのイニシアティブのもとで進行し、194311月に「国連救済復興機関」(UNRRA.以後アンラと呼ぶ) として結実することになった。アンラに対するケインズの反応は非常に複雑である。一方でケインズは、それを「キマイラ」(「奇怪な幻想」)と評し続けている。だがある一時期、彼は比較的好意的な接し方をみせた。それは「ホワイト案」に検討を加えた1943年9月のことである。「ヨーロッパ救済のファイナンス」と題された9月17日付けのキャンベル=ロー宛の手紙(JMK.27, pp.90-92)で、ケインズはホワイト案を次のように論じている。
① 無償・有償を問わず、すべての供給物資にかんし受け取り国に対し金額表示の送り
状を作成すること、そしてできるだけ早く商業ベースで扱うべきこと。無償の場合、供与国は救済金融の拠出金からその送り状を引き落とすこと-ケインズは、この考えに賛意を表している。
  価格のなかに輸送サービスを含めること、ならびに供与国はその輸送費を負担する
   こと- この件にかんして、ケインズは財政的にみてわれわれに有利なものであると
の判断を下している。
③ ある国が用立てる資金は、その国の産物ならびにその国内での支出にのみ利用する
という原則を立てること( つまり紐付き資金)
  アンラへの拠出基準を国民所得の1 パーセントとすること - ケインズは、これに同意が得られれば、アメリカ政府は議会との交渉において強力な援軍を得たことになる、と評している。

   実際、ケインズはこのホワイト案を積極的に推進すべく協力を続けた。そして既述のごとくホワイト案がアンラの基盤となったのである。
  ケインズが次にアンラ問題に関与したのは1945年の初頭であるが、このときは強力な批判者として登場している。批判は、アンラが当初期待されていた機能をまったく果たしていないという観点からなされている。たとえば19451 月3日付けのイーディ宛の文書にこの点は明瞭であり、アンラの解散を強く主張している。それに続けて、理想的な進路が次のように描かれている。
「われわれにとっての理想的な進路とは、非常に少数の、支払いをしなくてもよい(non -paying) ……諸国での現在の軍事的基礎が継続するとともに、アメリカを説得してこの条件をアンラの比率に改正することでしょう。もしアンラへの特別支出金が中止されるのであれば、そのことはアメリカにとり非常に容易でしょう。われわれはアンラに失望したために、無意味な道を歩いてきました。後戻りをする何らかの機会をとらえるのが早ければ早いほど……よいのです」(JMK.27,p.95)
  「非常に少数の、支払いをしなくてもよい……諸国での現在の軍事的基礎」とはレンド- リ-スを指していると思われる。つまり、ケインズがここで述べているのは、アンラを解散してそれ以前の状態に戻ること、そしてレンド- リ-ス制度は少数の国に対して継続されること、さらにできれば、アメリカはアンラに出していた特別支出金を転用することでレンド- リ-スの条件を改善すること-これがイギリスにとっての理想的な進路であるというのである。
 これがケインズの本音であろう。だがケインズはその直後(221) に、アンラの解散ではなく、その機能や指導性についての抜本的な改正の必要性という考えを示すに至る。そこには久し振りに救済問題をめぐる国際主義的な視点に立ち返った議論がみられる。
  「最初にアンラについて語り始めたとき、われわれはそれが - もちろん妥当な線を超えては旧敵国に与えないけれども……真の国際的機関であるということを、当然視していました。私は、この計画を復活させる以外には、他に永続的な解決策はありえないと思います」(JMK.27, p.98)
  しかしながら、1946年になると、アンラに対するケインズの態度も、その組織の再編成にではなく、( 漸次的) 廃止へと再度向かっている。それは「アンラ後の救済」と題された19462 14日付けのウェイリー宛文書(JMK.27, pp.100-103)に明瞭である。この文書では次の2 点が興味深い:①  救済問題が( 他の諸国が関与することなく) 米英が中心となって検討すべき問題としてとらえられている、②  本来なら援助を与える力のないイギリスが救済問題にいかにして喰い込むかという視点から論じられている。
 結局、アンラは19466 月に解散した。ケインズの死(4) の直後のことである。

6.ナショナリズムの発露 -英領直轄植民地の復興をめぐって

 救済・復興問題にかんするケインズの活動には、すでにみてきたように、ナショナリステックな要素が明瞭に認められる。この点は「アンラと極東におけるイギリスの解放された領土」と題する1945年1月3日付けのイーディ宛文書( JMK.27, pp.93-95) にあっては、さらに顕著である。この文書において、ケインズは極東の英領直轄植民地の復興目的にアメリカから借款を受けるという考えを拒絶している。アメリカがその代償として英領直轄植民地を信託統治に変えるように要求する危険性がきわめて高い、というのがその理由であった。
「私は、ビルマや英領直轄植民地の復興目的にアメリカ政府から借り入れをしなければならないという考えが、特に嫌いです。何ら特別の要請をするのではなく、一般的な要請のなかにこれを併合する……のでないかぎり、これは大統領が信託統治と呼んでいる形態での代償要求を招く危険性がおおいにあります。これはアメリカの政策のほとんど表面にあり、大統領にあっては特におなじみのものです」(JMK.27,p.93)
 この文書でのケインズの主張は、大英帝国の維持という立場からなされている。英領直轄植民地の救済は大英帝国の義務であり、他国の干渉を拒絶するという姿勢が明確にみられるのである。一般的な要請に併合させることが可能なアンラからの援助が期待できない場合には、アンラからの拠出額の増大要求には応じるべきではない。英領直轄植民地での需要に直接的な援助を行う必要が生じているからである、と。ただ、これをイギリス単独で行うのではなく大英帝国の義務として行うべきであることを、ケインズは強調している。そのための方法が「大英帝国共同勘定」(Empire Pool) の設立であった。つまり、極東における英領直轄植民地の救済・復興問題については、あくまでも大英帝国内で対処しようというわけである。この文書のなかに、アメリカのパワー・ポリティックスに対抗して、弱体化したイギリスの既得権を守らんとするナショナリスト(=インペリアリスト) としてのケインズをかいまみることができよう。

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  以上にみたように、戦後の救済問題をめぐるケインズのスタンスは複雑な軌跡を描いている。当初、ケインズはCRRF構想を提唱していたが、基本的な点において、ケインズとリース- ロスならびにアメリカとのあいだで、かなりの意見の一致がみられた。だが1941年の末になると、ケインズは考えを大きく変更することになる。イギリスの直面する現実を前にしてナショナリスティックな姿勢をあらわにしたのである。その結果リース- ロスとケインズのあいだには大きな亀裂が生じた。この頃、戦況には大きな変化が生じた。太平洋戦争の勃発、ならびに日本による東南アジアの占領という事態である。イギリス領は日本の手に落ち、アメリカが戦列に加わることになった。その結果、アメリカの連合国内部における発言権は非常に強力なものとなるに至る。
 ケインズは、国際秩序の構築にさいしてイギリス側における指導的人物として活動した。彼の打ち出した様々な構想は、世界権力構図の変化の前に、大きな変容をみせながらアメリカによって吸収・遂行されていく運命にあったといえる。まして救済問題にかんして、ケインズは国際主義的立場を放棄し、ナショナリスティックで現実主義的な、さらにはインペリアリスティックな視点に立った行動へと後退していった。
 その後、救援・復興問題は、完全にアメリカの主導で進められていった。ヨーロッパの救援・復興を強力に推進したのは、1947年に成立した「欧州復興計画」( マーシャル- プラン) であるが、それはアメリカが援助する資金を「欧州経済協力機構」(OEEC)を通じて計画的に運用するという形態をとった7 。また占領地についても、アメリカの支出になる「ガリオア- エロア」が設けられた。こうして、終戦直後にあっても、ヨーロッパへの介入・肩入れに消極的であったアメリカは、冷戦の発生に触発されて、1949年以降、新たな世界秩序の意識的遂行者となるに至ったのである。もはや巨額の国際収支の赤字と戦時国債に苦しむイギリスの出る幕ではなかった。


  1)「英米相互援助協定」(1942 2 ) や「英米金融協定」(1945 9 ) の締結はその代表である。前者では第 7条のなかに帝国特恵関税の除去を暗示する言葉が挿入されており、また後者では通貨・資本移動の自由化が交換条件となっていた。
  2) The Collected Writings of John Maynard Keynes, Vol.25, Macmillan (以下、JMK.25といった表記にする) に詳細な記録がある。
  3) JMK.26のそれぞれ第 2章、第 3章に詳細な記録がある。
  4)  JMK.27のそれぞれ第 5章および第 4章に詳細な記録がある( 社会保証計画については、ベヴァリッジ案に対する強力な支援というかたちをとっている)。
  5)  小麦については「国際小麦協定」(1949 ) が締結されるに至っている。その後、これは「国際穀物協定」(1967 ) のなかの「小麦貿易規約」にとって代わられた。
  6) 1941 3 月に成立した「武器貸与法」(Lend-Lease Act)に基づくもので、軍需物資を連合国に提供し、その支払いは危急の事態が終息してからでよいとした。この交渉でケインズは中心的役割を果している。その成果が既述の「英米相互援助協定」である( 以上についてはJMK.23に詳細な記録がある) 。この制度はその後、ソ連をはじめ多くの国に適用された。イギリスへは総額300 億ドル相当の軍需物資が提供されたが、返済されたのは60億ドルであった。
  7) これは今日のヨーロッパ統合への重要な礎石となった。