2015年4月27日月曜日

グローバリゼーションをどうとらえればいいのだろうか ― 光と影 平井俊顕




 (20141011)


グローバリゼーションをどうとらえればいいのだろうか
                     ― 光と影

平井俊顕

1. はじめに

もし、1980年代中葉から現在までの世界経済の展開を特徴づける単語を探すとなると、「グローバリゼーション」― グローバルな規模での市場経済化現象 に優るものはないであろう。
現在のグローバリゼーションを特徴づける点として次の3点を指摘しておきたい。(i) 経済を運営する原理として、資本主義がグローバルに採用され、社会主義が放棄されたこと、(ii) 金融グローバリゼーションが極端な程度にまで進行したこと、(iii) 開発途上国とみなされていたいくつかの国が、驚くべき経済成長を達成し、世界経済において重要な役割を演じるに至ったこと、がそれである。
 (i) は戦後の世界経済における画期的な現象であるとともに、歴史的にみても「パックス・ブリタニカ」を別にすれば、かつてみられなかったものである。(ii) は、その規模と金融商品の多様な展開において際立っている。(iii) は「南北問題」という用語を破壊するほどの新しい現象と言えよう。
 本稿は次のように進められる。第1に、グローバリゼーションが検討される。
それは2つの側面から捕捉される。グローバリゼーションを引き起こした5つの要因、ならびにその結果として生じた4種類のグローバリゼーション、である。
5つの要因とは次のとおりである。(i) ネオ・リベラリズム、(ii) 金融の自由化、 (iii) 資本取引の自由化、(iv) 新産業革命、(v) 社会主義システムの崩壊。また4種類のグローバリゼーションとは次のとおりである。(i) 金融グローバリゼーション、(ii) 旧共産圏の資本主義化、(iii) 新興国の出現、(iv) EU。グローバリゼーションは大きくは、金融グローバリゼーションと市場システム・グローバリゼーション ((ii) (iii)および (iv)はここに含まれる) に分けることができる。顕著な特徴は、前者が後者を促進してきたこと、ならびに前者は金融資本の甚大なる過剰をもたらすことで世界経済をますます脆弱なものにしてきたこと、である。


2. グローバリゼーションを引き起こした5つの要因

すでに言及の、グローバリゼーションを引き起こした5つの要因であるが、
「ネオ・リベラリズム」は広い意味における思想上の展開である。「金融の自由化」および「資本取引の自由化」は、金融の自由化の促進を目的とした、政府および金融機関による意識的な運動である。「新産業革命」は、アメリカの多数の若手企業家によって展開されたIT革命である。そして「社会主義システムの崩壊」は、資本主義システムのライバルの消滅である。本節では、これらについて逐次みていくことにする。

2.1 ネオ・リベラリズム

政治哲学における多くの用語と同様に、ネオ・リベラリズムは、歴史的に、異なる意味をもつものとして使われてきているが、ここでは、ハイエクやフリードマンを代表として1980年代から使われてきたもの、そして一般大衆や政治家のあいだで理解されてきたものとしてとらえることにする。
 ネオ・リベラリズムの主要な主張は以下のとおりである:すべてを市場経済に委ねよ;個人の自由な活動を最大限に尊重せよ;政府は市場に干渉すべきではない;政府は裁量的な経済政策をとるべきではない;できるだけ多くの規制が撤廃されるように構造を改革すべきである。このように主張したネオ・リベラリズムはこの30年間、支配的な思想であった。
  ネオ・リベラリズムの代表的な思想家のあいだに大きな相違がみられる、という点は容易に見出すことができる点である ― 例えば、自由や市場についての理解において。われわれは、ハイエクとフリードマンのあいだ、あるいは、ハイエクとロビンズ/ナイトのあいだに顕著な相違を認めることができる。だが、本稿は、そのような次元で比較を行う場ではないことを、あらかじめ断っておきたい。
 さて第1に、ネオ・リベラリズムはサッチャーやレーガンから圧倒的な支持を得ることになった - とりわけ、サッチャーはハイエク、レーガンはフリードマンである。両政府とも軍事力の強化を重視していたため、けっして小さな政府を達成することはできなかったのであるが、ここで指摘したいのは、双方とも政治思想としてのネオ・リベラリズムを唱道したという点である1。サッチャーは労働組合、政府系企業、および旧態依然たるシティに対抗するための社会哲学としてネオ・リベラリズムを称揚した。他方、レーガンは、上層階級の所得税や法人税にたいする大幅な減税、ならびにミドル・クラスや下層階級の所得税の増税を実施することで、企業を優遇するために、ネオ・リベラリズムを称揚した。
 第2に、ネオ・リベラリズムは経済学界から強力な支持を得ることになった。
アメリカにあっては、マネタリズムを経由して「新しい古典派」(代表はルーカス、キドランド、プレスコット)が、ケインズ経済学にたいする激しい批判を展開しながら、主流派マクロ経済学になっていった。
 彼らの経済モデルは、経済主体の合理的期待形成能力、市場における瞬時的
な均衡、およびセイ法則を当然視するものであった。いわゆる「政策無効性命題」や効率性市場仮説に基づく金融工学は、同じ線上に並ぶものと言うことができる。
 それまでの主流派経済学は「新古典派総合」であり、それはケインズ経済学とワルラスの一般均衡理論で構成されるものであった。この枠組みにあっては、不完全雇用下では裁量的経済政策が重要とされ、他方、一般均衡理論は完全雇用の状況を描写するものとして重要だとされた。そしてその社会哲学はこの総合のうえに構築されていた。
 ネオ・リベラリズムは、一言で言えば、新古典派のミクロ経済学は維持し、ケインズ経済学にたいする代替案としてマネタリズムや新しい古典派理論を唱道する、という枠組みのうえに構築されたと言えよう。こうしてこの30年間、経済理論と社会哲学は同じ船に乗ってきたと言えるであろう2 3 。この現象は、経済思想史において初めて現れたものである点は注目されてよい。
こうして、ネオ・リベラリズムはこの30年間のグローバリゼーションの展
開に大きな役割を演じてきた4
       

       
2.2 金融の自由化

金融の自由化は、資本調達手段および投資の場を拡大するために、規制を撤廃することを目的として、金融機関によって唱道されたものである。その中で最も重要であったのは、グラス=スティーガル法を換骨奪胎化することを目的とした粘り強い活動である。
  これらの活動は、ヘッジ・ファンド、ストラクチャード・インベストメント・ヴィークル (SIV) 、プライベート・エクィティ・ファンドと言った新種の金融組織の激増、ならびにMBS(不動産融資担保証券)、CDO(債務担保証券)、CDS(クレジット・デフォルト・スワップ)と言った「証券化商品」の激増を招来していくことになった。

2.3 資本取引の自由化
                                         
資本取引の自由化を目的とした国際的運動は、1990年代にIMFによって唱道された。いわゆる「資本勘定の自由化」がそれで、中心人物はS. フィッシャーであった5
 ブレトンウッズ体制が1970年代初頭に崩壊したあと、IMFの機能は不明瞭なままになっていた。その後、IMFは開発途上国への金融に活路を見出すようになっていった。
 2度のオイル・ショックにより大きな影響を被ったラテン・アメリカ諸国は、1980年代に債務危機を迎えた。これらの状況下にあって、IMFは資本勘定の自由化を大きな課題として取り組むようになった。
 しかしながら、IMFの協定には、当初から資本勘定の自由化は扱われていなかった。協定を改正する動きは1997年に頂点に達したのだが、その時、東南アジアで金融危機が発生し、この運動は挫折することになった。とは言え、この運動はグラス=スティーガル法の換骨奪胎化運動と連動するものであったことは記しておく価値がある。
19080年代後半、日本企業による中国や東南アジアへの対外直接投資(FDI)が、円高により飛躍的な増大をみせていた。そしてそのことが輸出の増大を通じて当地の高度の経済成長に寄与していた。話はこれで終わらない。1990年代の初頭、インドやブラジルは資本の自由化政策を採用するに至り、そのことがFDIを通じて当地の経済発展をもたらしていった。
ここで、日本政府が、資本の自由化、とりわけ投機的な国際通貨体制を促進していたIMFや世銀にたいし批判的であったこと ― アジア通貨基金構想や宮沢案をあげておこう ― を記しておくことは価値がある。ただ、これらの日本側の提案は、ルービンやサマーズの激しい反対にあって効を奏することはなかった。

2.4 新産業革命

IT産業は、1980年代にアメリカで開始された。当初、日本企業はそこで開発された技術を取り入れた部門を設置することで、世界をリードすることができていた。しかしながら、状況はその後劇的に変化した。アメリカのIT革命はマイクロソフト、アップル、ヤフー、グーグルといった若い企業家の独創力により驚異的な成長を達成させることになったのにたいし、日本の既成企業はアメリカの若い企業との競争に対抗することができなくなっていったのである。
 1980年代まで日本企業は産業技術の次元においても世界経済をリードしていたのだが、1990年代になるとアメリカが日本を凌ぐようになっていった。さらに、IT革命は、インドのような国に、アウトソーシングのかたちで大きな経済的発展の機会を提供することになった。
 
2.5 社会主義体制の崩壊 なぜソヴィエト連邦は崩壊したのか

ここでは、体制の特性についての議論ではなく、1970年代以降に焦点を合わせ、どのようにソヴィエト連邦は崩壊するに至ったのかをみることにしたい。

石油価格の急落とアフガン戦争の敗北 - 1970年代、2度にわたるオイル・ショックにより石油価格が急騰した。このことにより深刻な不況に突入した先進諸国であるが、これら諸国は新たな油田の発掘により原油生産の大増産に成功したのみならず、代替エネルギーの活用にも成功した。それに加え、石油多消費型産業は石油の効率的な使用法を開発した。その結果、1980年代の中葉には状況は劇的に変化し、石油価格は急落するに至ったのである。
 このため、石油収入に大きく依存していたソヴィエトは、財政収入の激減を被ることになった。さらに事態が悪化したのは、アフガン戦争 (1979-1989) に巨額の軍事費を投じていたことである(そして、ついにはアフガンからの撤退を余儀なくされることになった)。

ゴルバチョフの台頭 - こうした状況下で登場したのがゴルバチョフであった(1985年書記長就任)。彼が大きな改革を実行したのは、経済の分野よりもむしろ政治の分野である。彼は「共通の家としてのヨーロッパ」という構想のもとに、これまでではあり得なかったような政治的自由の承認を続けた - とりわけ、ついには統一ドイツの実現に至る東欧での民主主義運動の承認である。
1990年、ゴルバチョフは複数政党制ならびに大統領制を導入し、自らが初代の大統領に就任している。
しかしながら、これらの政治的趨勢は、彼の指導力を弱体化させることにつながり、ついには1991年8月のクーデターの発生により、政治権力を喪失するに至った。
クーデターの鎮圧に功績のあったエリティンが政治権力を掌握し、ベラルーシ、ウクライナの指導者とのあいだでベロヴェーシ合意が締結された。この合意によりソヴィエト連邦の解体が宣せられた。こうして作り出された広大な空間に資本主義システムがなだれ込むことになったのは、自然の流れと言えよう。

3. 4つのタイプのグローバリゼーション

すでに述べたように、グローバリゼーションは、大きく「金融グローバリゼーション」と「市場システム・グローバリゼーション」に分けることができる。
 「金融グローバリゼーション」は、金融ビジネスが世界のどの政府からも規制を受けることなく活動できることをめざした金融の自由化と資本取引の自由化によって引き起こされる。金融ビジネスは様々な手法で巨額の資本を調達し、世界の様々な金融市場に参入し、そのことにより金融市場のグローバルな統一を実現してきた。
「市場システム・グローバリゼーション」をみよう。市場システムは、財・サービスが市場での企業および消費者間で自由に交換が行なわれるシステムである。世界中で採用されるこの市場システムが、ここでいう市場システム・グローバリゼーションを構成する。
 2つのグローバリゼーションの関係をみると、その顕著な傾向は、金融グローバリゼーションの進展が市場システム・グローバリゼーションを促進してきたという点である。金融ビジネスは、利益を生むと見込まれる地球上のいかなる地域にたいしても資金を積極的に投資してきた。この傾向は多くの開発途上国に経済発展の大きな契機を提供することになった。
 他方、金融のグローバリゼーションの展開が金融資本の異常な増大をもたらすにつれて、政府が金融機関の行動を監視することは益々難しくなり(膨張するSBS)、そのことが世界経済を益々不安定なものにしていくことになった。
 世界の政治経済システムの大きな変化をもたらしたものとして、次の4種類のグローバリゼーションを識別することができる:(i) 金融グローバリゼーション、(ii) 市場システム I – ソヴィエト連邦の崩壊に関係、(iii) 市場システムII – 新興国の台頭、(iv) 市場システムの統合  EU。以下、それぞれをみていくことにしよう。

3.1「金融グローバリゼーション」― 米英金融資本による主導権奪取 

金融グローバリゼーションが生じた背景には、1970年代から1980年代にかけて、それまでのアメリカ経済を中心とする世界資本主義システムに大きな陰りがみられたということがあげられる。戦後の資本主義世界を規定してきた通貨体制としてのブレトンウッズ・システムは、1960年代にはいくたびかのドル危機を経て弱体化をみせていたが、ついに1971815日のいわゆる「ニクソン・ドクトリン」により、ドルは金とのリンクが断ち切られ、以降、スミソニアン協定を経たあと、主要国は変動相場制に移行することになった。
 こうした事態の進展の背景には、日独の経済発展が実体経済の領域でアメリカを凌駕していったという点があげられる。この傾向は時を経るにつれて一層顕著なものとなり、日米のあいだでは貿易摩擦問題の継続的展開という様相をみせていくことになった。アメリカは日本に輸出自主規制を半ば強要したりしていた。これらは個別産業間の問題であると同時に、それにもまして貿易収支の問題であった。
 1970年代になると、2つのオイル・ショックが発生した。いずれも中東の政治危機と関連しており、原油産出国カルテルであるOPECの世界政治経済におけるプレゼンスをいやがうえにも高めるものであった。こうして生じた原油価格の高騰は、アメリカを筆頭とする先進国経済を不況に陥れることになった。
  サッチャー首相 (1979-1990)、レーガン大統領 (1981-1989) が登場するのはこの頃である。彼らは、低迷する経済を活性化させるために、市場システムの活用、企業者による自由な経済活動、規制緩和、反労働組合、反福祉国家を唱道した。これは経済学・経済思想で言うと、ケインズ = ベヴァリッジからハイエク = フリードマンへのシフトに対応する。
こうした世界経済・世界政治の進展のなか、米英が世界の中枢としての地位を取り戻す方法として編み出されることになったもの、それがここでいう金融グローバリゼーションである。
米英は、金融の自由化を進め、金融機関が規制当局の監視を逃れて自由に投資・投機活動を展開していくことを許容した。そのため、投資銀行、商業銀行、さらにはヘッジ・ファンドが「証券化商品」の開発やレヴァリッジの利用を通じ、おどろくべき規模の投資・投機活動を展開していくことが可能になったのである。
だが、1980年代の前半には日独から米英が世界経済上の地位を回復するという点で、金融グローバリゼーションがまだ大きな効果を発揮できていたわけではない。この点で大きな効果をもたらすことになったのは、1985年に成立した「プラザ合意」である。これにより、日本は円高を目指した市場介入を強要されることになったのである。
1990年代に入ると、金融グローバリゼーションはその加速度を増していくことになった。このことは、米英による世界金融市場のコントロールの回復に貢献したのである。加えて、アメリカの企業活動は、IT革命を通じて産業的回復をも達成していった。
これにたいし1990年代初頭まで世界経済の「独り」勝ち組とされてきた日本は、「プラザ合意」への対処に失敗し、経済のバブル化に適切な処置をとれなくなり、自縄自縛的な「失われた20年」へと突入していくことになったのである。
1990年代後半になると、日本の金融機関は国内の金融危機により、世界市場からの撤退を余儀なくされた。さらに、企業家精神においてすら、日本企業は大きく遅れをみせることになり、日本経済はGDPの成長を実現することができなくなったのである。
金融グローバリゼーションを推進した米英の政府当局ならびに金融業界が、どこまでこのような事態の進展を見通していたのかは不明であるが、結果的に金融グローバリゼーションは、米英の金融資本が世界経済の進む道を決定づけることになった。その過程で日本は、1990年代初頭に到達していた地位を喪失していくことになったのである。

3.2 市場システムI ― 米ソ冷戦体制の崩壊と資本主義システムへの収斂

本節では、冷静体制の崩壊に次いで市場システムを採用するようになった旧ソヴィエト圏ならびに中国を扱うことにする。

3.2.1  社会主義体制の出現と崩壊

戦後世界は、2つの敵対する経済システムが覇権を争うようになった米ソ冷戦構造の時代を迎えた。社会主義体制にあっては、企業や価格メカニズムはほとんど存在していなかった。財・サービスは売買されるが、価格は市場で決定されてはいなかった。生産活動は中央計画局によって立てられ、下部の機関はその計画にしたがって生産を実行することになっていた。したがってこのシステムでは、企業家による自発的な活動の余地はなかった。
 冷戦構造は、1991年のソヴィエト連邦の崩壊により突然の終焉を迎えた。社会主義体制は、その特性ゆえに崩壊する運命にあったのだろうか。後付けでそう正当化するのは容易である。しかしながら、崩壊直前まで、かくも完璧に崩壊すると予想することのできた者などだれもいなかった。良かれ悪しかれ、人は過去のことを忘れるものである。世界の資本主義システムが1930年代にほとんど崩壊していたときに、経済成長を達成するのに成功していたのはソヴィエト連邦であった。さらに、その経済的パフォーマンスは1960年代にあっても遅れをとるものではなかったのである。

3.2.2 資本主義システムへの移行過程

ここでは、かつてのソヴィエト連邦が崩壊するやいなや、どのように資本主義システムへと変貌を遂げたのかをみることにしたい(例外は中国で、共産党独裁のもとで資本主義的要素を漸次的に採用していった)。両国が資本主義システムへとどのようにシフトしていったのかをみることにしよう。

ロシア ヤナーエフによるクーデターの発生とその鎮圧の後、ベロヴェーシ合意が199年12月に結ばれ、CIS(独立国家共同体)の宣言とソヴィエト連邦の廃止が決定されたことはすでに述べた。ロシアはCISのなかで最大の国家であった。
 エリティンは、IMFの勧告に従いながら、いわゆる「ショック療法」によりロシアを資本主義社会にすることを目指した。彼の大統領時代 (1991-1999) は2つの時期にわけることができる。
  前半は、ガイダル=チュバイスによるショック療法を通じての急速な資本主義化の断行であった(J.サックスとA. シュライファー [L. サマーズが庇護者]を顧問に迎え入れた)。その手法は、価格の自由化、「バウチャー・メソッド」による国有企業の民営化、および株式市場の創設であった。その成果は無惨なものであった。1992年のロシア経済は年率2510%のハイパー・インフレおよび14.5%減の実質GDPとなった。社会保障制度の崩壊とともに、このハイパー・インフレは多数の人々を極度の貧困に追い込む一方、「バウチャー・メソッド」はオリガルヒを生み出すことになった。
 後半は、政治的・経済的混乱の時期である。それは1993年のモスクワ騒乱事件から始まった。結果的にはエリティンの勝利に終わったものの、既述の悲惨な経済的パフォーマンスのため、彼の人気は急落していた。エリティンは選挙運動にさいし、オリガルヒに援助を請わざるをえなかった。彼は再選されたものの、そこでのオリガルヒの影響力は強大なものになった。彼らは「株式担保」による融資を通じて、多くの国有企業を自らのものにしていった。
 1998年8月、ロシアは国債のデフォルトに陥った(1月には大規模なデノミが実施されていた)。これは、財政収入の急激な落ち込み、資本逃避などの結果であった。官吏や軍人への給与は支払われず、ルーブルは下落し信用を喪失し、物々交換が支配的になるほどであった。このデフォルトは、LTCMのようなヘッジ・ファンドの崩壊を引き起こし、世界経済をほとんど深刻な金融危機に陥れる寸前にまで追い込むものであった。
 1999年、エリティンは大統領職を辞し、プーチンをその代行に指名した。
プーチンは2000年に大統領に就任している。この時期、原油価格の上昇により、ロシア経済は奇跡的とも言えるほどの回復をみせ始めている。第1期においては、プーチンはロシアを経済的のみならず政治的にも改革することに熱心であった。第2期になると、彼は国家によるコントロールを強化し、したがわないオリガルヒを追放するような方針をとるようになった。2008年のリーマン・ショックはロシアをも襲ったが、企業にたいする国家の影響力は一層強いものになっていった。
 こうして、ロシアを資本主義社会に変えるためにとられた手法は、オリガルヒの掌中に富がタダ同然で集中し、大衆は貧困に苦しむという結果をもたらした。とはいえ、2000年以降、ロシアは高い経済成長によりミドル・クラスを生み出すことに成功するとともに、富はオリガルヒから国家にシフトしていくことになった。

中国 毛沢東によって唱道された「大躍進運動」(1958-1960) は悲惨な経済状況をもたらした (農業生産の激減と飢餓による2-5千万人の死亡)
 1965-1977年、中国は「文化大革命」の時期を迎えることになった。知識は否定され、知識人や学生は僻地に追放された(「下放政策」)。この革命は権力を奪い返そうとする毛沢東の方針によって始められたものである。革命は、経済が悲惨な状態に落ち込むにつれて、やがて指導者のあいだでの内部抗争が燃え上がるようになった。革命は、込み入った、こじれた闘争の後、ついには「四人組」の逮捕と有罪判決で終結を迎えた。
1978年、不死鳥のように蘇った鄧小平によって「改革開放」政策が打ち出された。これが中国経済のその後の今日に至るまでの驚異的な経済発展の出発点であった。この政策は、「社会主義市場経済」と呼ばれたけれども、中国経済を実質的に資本主義システムに変えることを目的としていた。それは、ロシアの「ショック療法」とは対照的で、漸次的な改革であった。
当初、中国経済は、農村地域での土地の私有化の導入、ならびにいわゆる「郷
鎮企業」の成長により、悲惨な状態から脱却することができた。それに続くのが、「経済特区」への外国企業の誘致政策であり、これが中国の奇跡的な経済成長の出発点となった。
1985年、鄧小平はいわゆる「先富論」を唱道した。そして中国経済の急速な成長は主として民間企業によって達成されることになった。1992年、鄧は、いわゆる「南巡講話」を行い、保守派に反対し、改革開放政策のスピードをあげることを主張した。これは、天安門事件 (1989) による政治的・経済的混乱のなかにあった中国経済を資本主義システムに引き戻すうえで大いに効果のあったものである。1990年代中葉における鄧の指導方針は、大規模の国営企業は政府のコントロール下におくが、小規模の国営企業は民営化するというものであった。この方針は、1997年の第15回全国代表大会で「国営企業は4部門に限定し、経済成長は民間企業に委ねる」という決議として承認された。その結果、経済に占める国営企業のシェアは持続的に低下を続けたのである。その後、政府は内陸部の地方政府が、新開発区域を創設し、そこに外国企業を誘致することを認めた。このことが当地での経済発展に火を付けることになった。
2001年12月、中国はWTOに加盟し、外国資本と国内資本の扱いの対等化、関税の自由化、ならびに労働移動の大幅な自由化を承認することになった。

3.3 市場システムII 新興国の出現

ビジネス活動のグローバル的展開は、いくつかの「発展途上」国の大規模な経済発展をもたらすことに貢献した。このことは先進国の企業活動のみならず、発展途上国の企業活動にも利するものであった。その結果がブリックス (BRICs) - ブラジル、[ロシア]、インド、中国 - に代表される「新興国」の出現である。
ここで重要なのは - とくにリーマン・ショック後の - 世界経済は、
「成長を続ける先進国 対 停滞する発展途上国」の図式から「停滞する先進国 対 成長を続ける新興国」へと大きく変貌を遂げているという点である。なかんずくアジア圏は高い経済成長率を達成してきたが、南米圏の経済成長もまた注目を集めてきている。このことは、中国やインドの経済発展が鉱物資源や農産物にたいする巨大な需要を引き起こしたこと、またこれら地域が比較的安定した金融システムを有していたという事実に帰因するところが少なくない。この結果、1990年代初頭に抱いていた、世界経済を一国で支配するというアメリカの野望は挫折したのである。
 この20年間、先進国の経済成長は緩慢もしくは停滞していたのにたいし、新興国は一貫して高い経済成長率を達成してきた(ロシアの場合、この10年においてのみ妥当する)。その結果、ブリックスは先進国に急速に追いついてきたのみならず、世界経済において益々大きな地位を占めるようになってきている。実際、中国はいまやG2の1つとして、しばしば位置付けられているし、世界経済の将来は、新興国を中心に展開していくことが確実視されている。
ブラジルとインドのケースを簡単に描写したうえで、世界経済におけるブリックスの存在を、より具体的なかたちで示すことにしよう。

ブラジル1980年代および1990年代の前半、ブラジルは膨大な債務とハイパー・インフレーションに苦しんでいた。1990年にコロール大統領
(1990-1992) は市場経済を促進する政策を採用し、海外に門戸を開放し、国有企業の民営化を実施した。このことはブラジルのとるその後のコースを大きく変えることになった。1994年、フランコ大統領 (1992-1994) は、ドル・ペッグ制のもとで貨幣を「レアル」に改めた。このことはハイパー・インフレーションを劇的に鎮静化するのに貢献した。続いてカルドーソ大統領 (1995-2002)
は「財政責任法」(Fiscal Responsibility Law) および「財政犯罪処罰法」(Fiscal Crimes Law) を通じて、健全な財政状況をもたらすことに成功した。ルーラ大統領 (2003-2011) は同じ方針を踏襲した。21世紀が開けたとき、ブラジルは中国からの農産物にたいする需要の急増により高い経済成長率を達成することができ、以降、資源に富む国として世界経済における地位を高めてきている。

インドインドは、長いあいだ、社会主義的経済システムの下で動いてきており、低迷していた。1991年にラオ首相 (1991-1996) は経済的低迷に対処するための新しい経済政策を採用した - (i) 貿易、外為および資本の自由化、(ii)規制緩和、(iii) 国有企業の民営化、(iv)金融システムの改革を含む自由化政策である。この路線は、シン首相を含む歴代の首相によって継承されることになった。インドは、とりわけIT産業 - これはアメリカ企業からの増大する注文によるアウトソーシングから始まった - により、高い経済成長を達成することができた。インドでは識字率は依然として低いが、IT知識を有する膨大な若者を輩出している国でもある。

世界経済におけるブリックスの存在感 - 1980年代の終わりまで、ブラジル、インドおよびロシアは深刻な経済不況もしくは混乱に苦しんでいた。しかしながら、1990年代の初頭になると、ブラジルやインドは、市場の自由化および、(ブラジルでは)農産物にたいする重要の急増、(インドでは)海外からのITサービスにたいする需要の急増を通じて高い経済成長率を達成することに成功するようになった (中国の場合、経済の自由化は1978年にスタートしている)。
 ロシアでは、ショック療法は、ただ破壊と混乱をもたらすばかりであった。しかしながら2000年代になると、原油や天然ガス価格の急騰により経済の成長を達成することに成功した。プーチンは、国家による統制力を強化しながら市場経済システムを是正することに成功した。
 ブリックスの経済的命運は、1980年代後半に生じた出来事によって大きく影響を受けたと言える。
 第1に、ソヴィエト・ブロックの崩壊である。政治的・経済的自由化運動はポーランドから始まり、他の東欧諸国がそれに続いたのであるが、それはついにはソヴィエト連邦の崩壊をもたらすに至った。
 第2に、金融グローバリゼーションである。1990年代になると、ブリックスは一般に自由化政策を採用するようになった(中国は1978年にすでに採用している)。金融グローバリゼーションは、その後、資本の流入を通じて、ブリックスの高い経済成長の達成に貢献することになった。
以上を要するに、ブリックスは「市場システムII」および「金融グローバリゼーション」の双方から便益を享受することで高い経済成長を達成することができたということである。
 表1はGDPの年平均成長率、表2 PPP 表示でのGDP ランキングの推移を示したものであるが、ブリックスの台頭が顕著である。なかでも中国の数値は驚異的である。経済力の点で、ブリックスは先進国と対等の地位を確保していると言えるほどである。

1 GDPの年平均成長率 (%)
                          
中国
10.46
1991-2010
インド
7.54
2001-2010
ロシア
6.58
2001-2010
ブラジル
3.61
2001-2010

******

アメリカ
2.55
1991-2010
ドイツ
1.47
1991-2010
日本
0.97
1991-2010

                  (出所) http://ecodb.net/ に基づく。

2  PPP 表示でのGDP ランキング(単位: 10億ドル)
              

国/年
2013
 2010
2000
 1990
1
アメリカ
16800
14958
10290
5980
2
中国
13395
10040
3020(3)
914 (7)
3
インド
5069
  4130 (4)
1607(5)
 762  (9)
4
日本
4699
4351 (3)
3261(2)
2379  (2)
5
ドイツ
3233
  2926
2148(4)
1452 (3)
6
ロシア
2556
  2222
1213(10)
Unavailable
7
ブラジル
2423
  2167 (8)
1236(9)
 789  (8)
8
イギリス
 2391
  2201 (7)
 1515(7)
 915  (6)
9
フランス
 2278
  2114
 1535(6)
 1031 (4)
10
メキシコ
 1843
  1603 (11)
 1082(11)
 631 (10)
11
イタリア
 1808
  1784 (10)
 1406(8)
 980 (5)

      
              


     










(出所) http://ecodb.net/ (IMF, World Economic Outlook Databases, April 2014に基づく。)
                          
3.4 市場システムの統合 ユーロ・システム (あるいは EU)

ユーロ・システム(あるいはEU) は、長期間にわたって続いてきた一種のグローバリゼーションと表現できるであろう。というのは、それは共通市場、労働・資本の移動の自由、および共通通貨(ユーロ)を目指してきたからであある。運動は第2次大戦直後から始まっており、いまではこれらの目標を達成している。
 EU およびユーロ・システムは、今日のグローバリゼーションが加速度を増してきた、そして社会主義システムが崩壊した1990年代に設立された。EU
は旧ソヴィエト圏のメンバーをEUに引き入れる政策を採用した。その意味で
EU あるいはユーロ・システムは市場システム統合のグローバリゼーション - それは部分的な金融グローバリゼーション(ユーロというかたちで)、市場システムIを含んでいる - を構成していると言うことができるであろう。
 しかしながら、21世紀の初頭において羨望の眼差しで称揚されていたユーロ・システムであるが、リーマン・ショックの1年後、非常な欠陥に晒されたシステムであることが判明するのである。2010年5月に発生したユーロ危機に対処するためにユーロの指導者が採用した政策は、PI[I]G[S] ― ポルトガル、アイルランド、[イタリア]、ギリシア、[スペイン] - にたいし、ベイルアウトと超緊縮予算の強制、ならびにECBによる金融政策 - 当初は低利子率政策のみであったが、その後、政策をLTRO (Long Term Refinancing Operations)に拡大した - であった。ユーロの指導者の基本的な考えは、超緊縮予算と、労働市場の自由化、公的部門の売却などの構造改革により困難に陥っている国は、その国際競争力を向上させることができ、より健全な予算を実現できるようになる、というものである。
  しかしながら、その結果はPIIGS内での一層大きな危機であった。超緊縮財政は超デフレ政策を意味している。継続するリストラ、増税、年金カットは有効需要の急激な落ち込み、高い失業率、そして予算状況のさらなる悪化をもたらした。
 頼るべき手段としての金融政策や為替政策をもたないこれらのメンバー国は、
さらなる超緊縮予算の実行をトロイカ ECECBおよび IMF によって要請された。その結果、経済はさらに悪化することになり、デフレ・スパイラルの罠に落ち込んでいった。
そのうえ、ベイルアウトはユーロ・システムを安定化させるためにのみ使われており - それゆえ、PIIGSにたいする貸し手であるドイツやフランスのメガバンクは救済される - 巨額の負担は国民が負うことを要請しているのである。
ユーロの指導者は、「拡大を続ける域内間の不均衡」および「メンバー国の個別状況」という根本的な原因に目を向けることはしてきていない。そのため、ユーロ・システムはしばしば崩壊寸前にまで追い込まれてきている。
「拡大を続ける域内間の不均衡」は、典型的には、ドイツとPI (I) GSのあいだの経済的インバランスとして表現することができる。ECBの初期の金融政策は低利子率政策により、ドイツが輸出を拡張することができるとともに、PI (I) GSが不動産に巨額の投資を行うことを許すものであった。換言すれば、ドイツで増大した過剰貯蓄はPI (I) GSに貸し付けられた - いわゆる「グローバル・インバランス」6の地域版である。このインバランスはユーロの誕生以来続いていた。しかしながら、リーマン・ショックはPI (I) IGSのバブルを破裂させ、ユーロ危機を引き起こすことになった。
より問題なのは、EU自体の存続である。というのは、それは創設精神たるシューマン・スピリットを喪失しており、ナショナリズムが高まってきているからである。ヨーロッパが分裂する危険がたかまっている。EUはナショナリズムを克服することを目的にして創設されたのだが、皮肉にもそうする能力を喪失しつつある。ユーロ・システムだけではなくEUも大きな転換点を迎えているのである。

4. リーマン・ショックと現在       

4.1 ネオ・リベラリズムの崩壊とケインズの復活

2008年9月に発生したリーマン・ショックはアメリカの金融システムをメルトダウンさせ、世界中を危機的状況に突如として陥れた。多くの金融機関や製造業が破産に追い込まれ、世界中で膨大な数の失業者を生み出した。諸政府は、その金融システムを安定化させるために巨額の公的資金を注入したり、深刻な不況に対処するために大胆な財政政策を実施したりすることで、この危機を乗り越えるべく懸命な努力を払った。
 同時にこれは世界経済における大きな転換点を意味するものであった。というのは、「ネオ・リベラリズム」や「新しい古典派」はこの惨状を前にして崩壊し、世界中の政府は直感とカンでこの危機を克服することを余儀なくされたからである。
 市場社会は自己責任のシステムである、ということが熱心に唱道されてきていた:「人は自己責任をもって将来に向かうべきである;成功、失敗は自らの責任に帰すべきものである;政府は市場経済に干渉すべきではない - ネオ・リベラルが唱えた信条もしくはモットーはそうしたものであった。
 だが現実には何が起きたのだろうか。ほとんどすべてのアメリカのメガバンクや投資銀行は政府にベイルアウトを要請した。彼らは、金融工学に基づくポート・フォリオ(多層化された証券化商品はこの技法に基づいて発行された)に自信をみせていた。しかしながら、これらの銀行は破綻の瀬戸際に立つやいなや巨額の公的資金による援助を「真っ先に」政府に懇請した(これらの致命的な経営的失敗にもかかわらず、経営者が解雇されるということはほとんどみられなかった)。
 この悲惨な状況の原因の1つは、他のことを考慮に入れることなく、「純粋な市場社会」の達成が過度に唱道されたという事実に帰すことができる。行き過ぎた自由化はあまりにも短期の投機的活動を手に負えないものにしてしまい、多くの経営者によって社会倫理を無視する風潮や、公衆にあっては一獲千金を夢見る風潮を過度にもたらすことになった。これらの行為の帰結が、「自己責任原理」の放棄と政府へのベイルアウトの懇願であった(巨額の公金を受け取ったAIGの経営陣が自らに巨額のボーナスを支給するというスキャンダルはアメリカ社会を大きく揺さぶるものであった。彼らは、この行為を「契約の履行」という根拠で正当化したのである。ここにわれわれはビジネス倫理の崩壊をみる)。
 これとは対照的に、多数の人々は不動産ローンを返済することができなくなり、多額の負債を残したまま、住宅の差し押さえに直面した。ここで強調すべきは、彼らだけが「自己責任原則」を守ることを要請されたという点である。
ネオ・リベラリズムが深刻な自己矛盾的失敗 - 「市場の不存在現象」や「市場の不透明現象」の存在 - を抱えていることも、ここで注意すべき点である。
世界経済の危機が一層悪化していくにつれて、1930年代の大不況を克服するための経済政策を唱道したケインズへの言及が広くみられるようになった。大不況にたいして何もすることができなかったほとんどの経済学者のなかにあって、ケインズは自らの経済理論と政策提案を見事に提示した。いまや同じ現象が生じていた。というのは既存のマクロ経済学の無意味さが、世界経済危機を前にして露呈したからである。
著名な経済学者がそれまで信奉してきたネオ・リベラリズムを棄却することを宣言した。多くの経済学者はケインズ的な財政政策を訴えた。2008年10月、イギリス蔵相は財政政策の必要性を主張した。オバマ政権の経済政策担当スタッフは財政政策を唱道したが、それは同政権のバックボーンになったのである。
                                           
4.2 その後 緊縮政策

2010年5月まで、世界の主要政府においてはオバマ政権を先頭にケインズ的な政策路線が支配的であった。しかしながら6月頃になると、世界は(中国を例外として)経済政策の方針を大きく変えていくことになった。
 その始まりは、2009年秋に発覚したギリシアの財政危機であった。EU の指導部はそれにたいして具体的な処置を決定することができなかった。というのはアイルランド、ポルトガル、スペインが同じような状況におかれていったからである。そして2010年の春を迎えると、ギリシア危機は突如ユーロ危機へと拡大することになった。この状況に直面してEU の指導部がついにとった決断は、トロイカによる巨額のベイルアウト(1100億ユーロ)と緊縮財政履行の要請であった。
 この状況を反映して、トロントのG20 (2010年6月) は、ロンドンのG20 (2009年4月)とは様変わりのものとなった。オバマ大統領が財政政策を通じての不況の克服を訴えたにもかかわらず、トロントG20は主としてEUによって唱道された超緊縮政策の合唱で終わったのである。
 じつはアメリカでも、オバマ政権によって採用された予算方針にたいする批判は高まりをみせていた。オバマが提案した「ジョブ法」(Job Act. 2009年6月)、「雇用法」(Hire Act. 2010年2月)、大規模な財政刺激策といった財政策は、失敗に終わった。財政刺激策に激しく反対した「ティー・パーティ」運動の高まりのみならず、民主党議員のあいだにもそれにたいするパッシブな傾向が増加していたからである。トロントG20での決定はこうした傾向に拍車をかけるものであり、2011年11月の中間選挙における大統領・民主党側の致命的な敗北に至るものであった。歳出カットと増税により、均衡予算政策を主張する共和党を前にして、オバマ政権は、以降、あらゆる種類の経済政策を遂行するうえで困難な道を歩んでいくことになった。12月のブッシュ減税継続と失業手当の承認という妥協、共和党からの強い要求を受け入れることによっての2010年度予算案の通過(2011年4月)などを経て、オバマ政権は、2011年7月のデット・シーリング危機において「予算統制法」(Budget Control Act. これにより超緊縮政策を受け入れることになった)を承認することになった。この後、
11月に開催された「スーパー委員会」(Super Committee)では合意に達することができず、(他の代替案がない場合)毎年、主として防衛費および社会保障費から1200億ドルを削減することが決定されたのである(いわゆるシークエスタ)。
 こうして2010年の6月以降、アメリカとEU (イギリスも含む) は超緊縮政策に転じ、事実上、不況対策の政策を放棄したのである。それは超デフレ政策である。停滞する民間需要の継続するなか、有効需要を増大させることができるのは政府以外にはない。しかしながら、政府は巨額の支出削減を行うわけであるから、有効需要は継続的に低下し、そのことは財政状況をさらに悪化させることになる。均衡予算を目指すことは、本末転倒の行為なのである。
 不況に対処するためにとられた唯一の経済政策は量的緩和政策(QE)である。
しかしその実質的な効果は、メガバンクを救済することであり、金融投資が行えるようにすることであって、実体経済への実質的な効果は得られないものであった。

4.3 無傷のSBS                    

ドッド=フランク法が成立したのは2010年7月のことであった。しかしながら、その施行プロセスは、主として共和党の反対および銀行業界のロビー活動により、非常に長期にわたる遅れを生じさせることになった。このプロセスがなんとか終了したのは2014年の初頭のことである。
 この大きな遅れは何を意味するのであろうか。金融組織は、政府からのベイルアウトにより破綻の危機から成功裏に回復した後7、彼らの投機行動を監視することを目的とした機関の設立を妨害することに努めてきた。彼らはまたドッド=フランク法を弱体化させ、大きな抜け穴を空けることに、巨額の資金を注ぎ込んでロビー活動を展開し、ある程度の成功を収めてきた。こうしてシャドー・バンキング・システム(SBS)は無傷のまま残されており、近い将来に再び巨大な金融危機が世界を襲う危険性がある。
金融規制法を実施してきているのは、これまでのところアメリカだけであることは押さえておく必要のあることである。イギリスやEUを含む他の国が同様の法律をつくることができないならば、世界は巨大な抜け穴だらけということになる。金融の領域は、良きにつけ悪しきにつけ、グローバルである。
以下は金融の不安定に取り組むイギリスおよびEUの状況である。アメリカと比べ、対策の実施状況はずっと緩慢である。
イギリスは2013年12月、「金融サービス(銀行改革)法」(Financial Services [Banking Reform] Act)を成立させた。これは『ヴィッカーズ報告』(ICB) によって推奨されたリング・フェンス方式を採用している。政府は、この線にそって直ちに銀行にたいし構造を改革するように要請した。
ユーロ・グループはヴォルカー・ルールを採用するか、リング方式を採用するかを検討中である。ドイツでは2013年5月に、「信用機関のリング・フェンス、復興、清算計画法」(Ring-Fencing and Recovery and Resolution Planning of Credit Institutions Act)が成立した。これは『リッカネン報告』(Liikanen Report)に基づくものである。フランスでは2013年3月に、『銀行改革法』(Banking Reform Act)が成立した。これはリング・フェンス方式を採用している。金融規制改革はEUでは優先されているものではないことは、ここで記しておく必要がある。システムの本質的特性に根ざすユーロ・システムの危機が続いているからである。


5. むすび 

グローバリゼーションをめぐる本稿の結論は次のように要約できる。

グローバリゼーションは、とくに金融グローバリゼーションを通じ、米英が日本から経済的影響力を奪回することに貢献した。またグローバリゼーションは新興国が高い経済成長を達成させる大きな機会を与え、これら諸国がG20のメンバーになるほどであった (ロシアはショック療法で厳しい経験をすることになったけれども)
     グローバリゼーションは、しかしながら、その行き過ぎにより世界経済を益々脆弱なものにして今日に至っている。

われわれはグローバリゼーションの到来を防止することはできないし、防止する必要もない。しかし、われわれは資本主義が何であり、そしてとくに金融グローバリゼーションの行き過ぎを防止するために、資本主義はいかに管理されるべきかを追究する必要がある。
  
 最後に、グローバリゼーションを考えるさいに重要ないくつかのことがらについて若干述べることにしよう。
 リーマン・ショック後の経済危機は、ネオ・リベラリズムと「新しい古典派」によって支持され促進された行き過ぎの金融グローバリゼーションの結果であった。それは、多層化された証券化商品の無秩序な乱造となり、金融界の経営陣にモラル・ハザードを引き起こした。十分に皮肉なことだが、熱狂的な市場ファンダメンタリズムの最中に、世界は「市場の不存在」と「市場の不透明」現象を経験したのである。
 資本主義社会はどのような方向に動いていくのであろうか。現時点で明らかなことは、ネオ・リベラリズムの崩壊であり、資本主義社会はそれとは異なった方向に動いていくであろうという点である。市場の不存在や市場の不透明現象およびSBSの拡大を抑えるために諸政府は、金融システムを統御可能なものに改善するように動いていくことであろう。
とはいえ、すでにみたように、この動きはきわめて進行速度が遅い。このため、金融機関はリーマン・ショック以前と同じように行動することが許されてしまっており、そのことは近い将来に新たな金融のメルトダウンをもたらすかもしれないのである。
もう1つの重要な問題は、ビジネス倫理に関するものである。これらの危機に直面し、それまで自己責任原理を唱道してきた多くの産業界のリーダーが我先に政府に金融支援を懇願する ― 「大きすぎて潰せない」(“Too Big To Fail”)を胸に秘めて ―ありさまであった。驚くべきことに、巨額のベイルアウトを手にした後、彼らは巨額のボーナスを自らに支払うという厚顔無恥な行動をみせてきた。この種の不公正、腐敗、身勝手がアメリカのビジネス社会で支配的であるという事実は、資本主義社会にとって新たなビジネス・モデルが必要とされていることを雄弁に物語っている。もしそれが作り出されないならば、資本主義社会は近い将来にもっと深刻な問題に直面することになるであろう。

世界は、依然として海図のない領域に向かって航行している。

(ひらい・としあき 上智大学名誉教授 ケインズ学会会長)

()

1) サッチャリズムやレーガノミクスを専らネオ・リベラリズムの視点からとらえようとするのはミスリーディングであろう。双方ともに強いナショナリズム思考を合わせもっているからである。
2) 「ニュー・ケインジアニズム」- マクロ経済学のもう1つの主流派 - はネオ・リベラリズムに属してはいないという点に留意すべきである。それは市場経済における基本的欠陥を価格の何らかの硬直性にみており、失業を解決するための裁量的経済政策を唱道している。しかしながら、事態を複雑にしているのは、それが新古典派総合の時代に似た社会哲学を共有している一方で、新しい古典派から重要な理論的アイデアを受け入れているという点である。
3) リバタリアニズムはしばしばネオ・リベラリズムに関連して議論される。しかしながら、それは多くの異なった意味を有しているから、ここではそれを用いないようにするのが賢明であろう。最も有名なのはM.ロスバードによるもので、国家や政府のための場を与えていない。
4) 興味深いことだが、この期間、ネオ・リベラリズムの主張とは真逆に、政府の活動は大いに増大をみせている(例えば、レーガン政権のあいだに、アメリカは世界最大の債権国家から最大の債務国家になっている)。
5) 彼は、その後、シティ・グループに職を得ている(2002-2005年)。
6) アイケングリーンはグローバル・インバランスの理論として4種類を指摘している。第1に、バーナンキによる「標準分析」。ここでは過剰貯蓄、とりわけ中国におけるものに大きな注意が払われている。アメリカの現在のレベルでの経常収支の赤字は維持することが不可能と主張しながら、この理論は、支出のために資産価格のかなりの調整、ならびに貿易収支の改善のために相対価格のかなりの変更が両サイドでなされる必要があると論じている。これにたいし、標準分析と異なるものとして紹介されている3つ(「ニュー・エコノミー」理論、「ダーク・マタ―」理論、「抜け目のない投資家」[Savvy Investor] 理論)は、現在のグローバル・インバランスの是正は必要ではない、と論じている。
7) FRBはその後、一連の量的緩和政策を通じてメガバンクを救済した。このことは 両者は同じ船に乗っているということを意味する。FRB、メガバンク(そして財務省)のあいだには人的に非常に強力な結びつきが認められるのである。


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平井俊顕[2012] 『ケインズは資本主義を救えるか』昭和堂。
みずほ総合研究所 [2007]『サブプライム』日本経済新聞出版社。

(2014 96)

*本稿で述べた論述の背景となる考えについては、拙著『ケインズは資本主義を
救えるか』(昭和堂、2012年)を、また現在進行中の世界経済の状況について
は、ブログ(blog.yahoo.co.jp/olympass)を参照いただけると幸いである。