2016年7月11日月曜日

ラルフ・ホートリー 『思考と事物』の探訪 ―「アスペクトの理論」と「科学」の架橋を求めて 平井俊顕 (上智大学)








     ラルフ・ホートリー 『思考と事物』の探訪

「アスペクトの理論」と「科学」の架橋を求めて

   

平井俊顕
(上智大学)



I. はじめに

ホートリー (1879 - 1975) , 貨幣的な景気変動論を展開したエコノミストとして知られる. また, いわゆる「大蔵省見解」の理論的根拠の提供者としてもしたがってケインズと反対の論陣を張った人物としても知られる. さらに, 『貨幣論』のケインズに対し, 自らのスタンスから厳しい批判を展開した論者でもある. 
ホートリーはケンブリッジの知的環境下で育ったとりわけ, アポッスルであったという点が重要である, ケンブリッジで研究生活を送ったわけではない. 卒業後, 大蔵省に入省, 以降, 退官するまでのほとんどを省内唯一のエコノミストとして活動した人物である.
彼は社会哲学の著作を2点公刊している (1点は『経済問題』1 [Hawtrey, 1926],もう1点は『経済的命運』[Hawtrey, 1944], 晩年に執筆された未刊の著『正しい政策政治学における価値判断の位置』 (Right Policy: The Place of Value Judgements in Politics, Hawtrey Papers, 12/2. 18, タイプ刷りで528) 2もある. これは, ムーア倫理学, とりわけ「善の定義不可能性」を根底に据えつつ,経済学・社会学・政治学の領域を批判的に検討した著作である. 副題にいう「価値判断」とは,(彼の言うところの)「真の目的」に照らしての判断を意味している.
 これに対し本稿が対象とするのは, ホートリーの思考の根底をなす彼の哲学である.若き日から, 彼は哲学に関心を抱き続けていたが, 著作として自らの見解を表わそうとした唯一のものが,『思考と事物』(Thought and Things, Hawtrey Papers, 12/1) である. これは全8,タイプ刷りで314枚からなるが, 刊行には至らずに終わっている. これがどのようなプロセスを経て執筆されていったのかは不明であるが, 一つだけ言えるのは, D.M. Armstrong (1968) [『マインドの唯物論』] に少なからず紙幅を割いており, これらの個所が最晩年に執筆されているという点である. 『思考と事物』は下記の編成になっている. 1章「アスペクト」, 2章「原因」, 3章「目的」, 4章「思考」, 5章「真実と推論」, 6章「科学」, 7章「哲学」, 8章「人とその世界」.
  本稿は次のように進められる. 最初に, ホートリーの哲学の本体とも言うべき「アスペクトの理論」を検討する. 次に, マインドと物質をめぐるホートリーの基本的な考えを検討する. 最後に, 当時のケンブリッジの哲学的潮流を踏まえるなかで, 彼の哲学を位置づけることにする.
おそらく, 『思考と事物』を研究対象に据えたものは, 本稿が初めてではないかと思われる3.そのため, 他に参照すべき研究は見当たらず, 試行錯誤的に行なわれていることを, 予めお断りしておきたい. 全体を通じてもつ強い印象は, 同書は(ホートリー特有の)「アスペクトの理論」と「科学」的知見の架橋を求めての知的格闘であるという点である. 以下で論じる主題はこの点におかれている.

                        II. アスペクトの理論

1. 基本的枠組み

ホートリーの哲学を, 一言で表すとすれば,「アスペクトの理論」4と言うことになるであろう. 彼は『思考と事物』の主題を,「序」で次のように措定している.

   本書の中心的な主題は, 意識的経験において, () アスペクトを識別 する (discern) 思考 (thought) についての分析である. 1つの術語は, 1つの主語についてのアスペクトである. 1つの関係は, 2つ以上の関連するタームについてのアスペクトである.
アスペクトを識別するさい, マインドは真実 ただし, それ自身の経験についての真実のみ と接する. (「序」のpp.1-2)

これを出発点としながら, ホートリーが『思考と事物』で展開している「アスペクトの理論」の基本的枠組みを見ていくことにしよう (なお, 1つの術語は,・・・タームについてのアスペクトである」は非常に分かりにくい表現であるが, 重要であるのでこのまま掲載しておくことにする. p.150をみればその意味は判明するのだが, この点については第3.1節で扱う).

主役は「マインド」(精神)である. その眼前には「意識の領域」(「意識界」[field of consciousness] とも表現できる) が広がり, マインドはそこに接することができる. 言い方を換えると, マインドは「意識」をする(働かせる)ことにより「意識の領域」を創り出すのである.
では, マインドはここで何を対象とするのであろうか. 簡単に言えば「事物」(things) である. だが, 事物をそのまま捕えることができるわけではない. 実際には, マインドは,それを「センス」(感覚視覚, 触覚, 聴覚など) を用いることによって これが「感覚経験」(sense experience) と言われるものである 「意識界」に引き入れる. これが「意識的経験」(conscious experience)である.この結果, 現出するのが「アスペクト」である. マインドは, 意識界に現出したこれらの(複数の)「アスペクト」のなかからいくつかの「アスペクト」を「識別」する. すなわち,「アスペクトの「識別」とは, マインドの状態に行使されるマインドの活動である」(「序」のpp.1-2).
 ホートリーは, アスペクトは意識の領域に潜在的に現出していると考えている. だが, アスペクトはマインドとは独立に, 客観的に存在していると考えているわけではない. マインドは, 潜在的に存在するアスペクトを「識別」するのであり, アスペクトはマインドなくしては存在しえないものとされている. 上記の引用文で「アスペクトを識別するさい, マインドは真実 ただし, それ自身の経験についての真実のみ と接する」とあるが, この「ただし書き」が示すように, 真実を, あくまでもマインドの経験との関係で規定している点に, とくに注意が必要である.

・・・アスペクトの知覚は本当としか言いようがない. アスペクトはマ
インドに対し全体として現出する経験のなかにもともと備わっているか
らである. マインドは, ・・・気づかれるよう選択されるためにすでに
そこに存在しているアスペクトに気づくのである. (下線は引用者.pp.3-4)

アスペクトはマインドにとってのアスペクトであって, 独立した存在を
主張するものではない. (p.123)

いままで述べたことを整理してみよう. マインドは,(例えば)「イス」という事物 (thing) を見る. この視覚という感覚経験を通じて, マインドの意識界に複数のアスペクトが入り込んでくる.「木でできている」,4脚の足をもっている」,「茶色である」等々がそれである.マインドがそのうちのいくつを識別できるかは, マインドの状況に依存する. この識別が「思考」(thought)  (の最初の形態) である.
 アスペクトの性質については, もう1点指摘しておく必要のあることがある.すなわち, アスペクトは全体のなかの部分として存在するのであって, 分離が可能なわけではない, と考えられている.

   1つのアスペクトは, それ自身の領域を有しており, それはそのア
スペクトに貢献する全体の領域のかなりの部分を占めている. だが,
そのアスペクトはその領域の1部ではない. (p.11)

・・・われわれが何らかの対象物の1部を識別するとき, 識別され
た1部は全体のうちの1アスペクトではないのだろうか. いや,
うではない. 識別されたアスペクトは, 分離可能な部分ではなく,
全体に対する部分の関係なのである. (pp.11-12)

この意味するところは, 識別された1部は切り離すことのできるような部分ではなく, 全体にとっての部分という関係に位置付けられるべき性質のものである, ということである.

ここで注意が必要なのは, 事物そのものの存在について, マインドは何も証明することはできない, と考えられている点である. マインドが得るのはアスペクトのみである. だが, 2節でみるように, これらのアスペクトを「間主観的」なものと考え, あるいはそれよりも広い「客観性」を有する, さらには時を超えたものとしてとらえようとする傾向を, ホートリーは仄めかしすらしている.
 「意識の全領域」は, この「感覚経験」を通じて接することのできる「意識の領域」例えば, 人の顔の認識や絵画の鑑賞などに限られているわけではない. それ以外にマインド内で引き起こされる「道徳, 感情, 意思行為, 思考, 概念」から「不確実性, 蓋然性」, さらに「数学的命題, 数学的推論, 経験的推論」などといった諸状態も,「アスペクト」のタームでとらえられている.「意識の全領域」は, この2つで構成されていると考えられているのである (cf.p.209.1)5.
                       
(図1)意識の全領域


意識の全領域      感覚経験を通じて接する領域
(例:人の顔の認識や絵画の鑑賞)

            マインド内で引き起こされる諸状態
(「道徳, 感情, 意思行為, 思考, 概念」
「不確実性, 蓋然性」
「数学的命題, 数学的推論, 経験的推論」など)
             


これら2つの領域で得られるアスペクトについて論じるに先立ち, 1点述べておく必要のあることがある. それは, なぜホートリーがこの書を「アスペクト論」と呼ばずに「思考と事物」と名付けたのか, である. じつはこの題名には,ホートリーの哲学認識についての深い含意が秘められている.
 「思考」は, すでに見たように, マインドが「アスペクト」を識別する行為を指しており, それは彼の最も重視する, そして『思考と事物』の主題たる「アスペクト論」を象徴する語である. 他方,「事物」は科学が研究の対象とするものを指しており,「科学」を象徴する語である. つまり, ホートリーは「思考と事物」を「アスペクト論と科学」という含意をもつものとして用いている.
 そしてこの2つの語は, いくぶん対立的なものとして措定されるとともに, 両方の存在を認めつつも, それらを何か1つにまとめあげる可能性はないのだろうかという問題意識を秘めて提示されているように思われる6.
 アスペクト論にあっても, 事物の存在は前提にされている. ただ, マインドはその存在を証明することはできないし, 正確に認識するすべももたないと考えられている. そのうえで, アスペクト論が展開されているのである. 他方, 科学も, その理論の根源において事物の存在を前提にしているのであって, その存在を証明することはできない. こうした状況下で, われわれ人間は, 2つの領域の知を開発してきている. だが, そうした「デュアリズム」(dualism) のままであってよいのかという疑問が, ホートリーにはつねにある.
 ホートリーにはこうした根本認識があり, そのうえで, 科学ではとらえることのできない領域の哲学として「アスペクト論」を主題として展開しようとしている. 冒頭で, ホートリーが, 本書の主題を「意識的経験において () アスペクトを識別する思考についての分析」と述べたのは,こうした認識をもとにしており, それが「思考と事物」という題名で表現されている.

2. 感覚経験を通じて得られるアスペクト

「感覚経験」を通じて得られるアスペクトとは次のような事例で示すことができる.
例えば, 目の前にイスがあるとする. 人はそれを見たり(視覚), あるいは触れたり (触覚)といった感覚経験を通じ, マインドが, イスから, ある「アスペクト」を捕捉する.
ここで注意を要するのは, 事物とアスペクトの識別である. ホートリーは事物の存在を証明することはできないという立場をとっている. これはカントの「物自体」概念に与するものと言うことも可能である. マインドが感覚経験を通じて知覚できるのはイスに関連して出現するアスペクトである. アスペクトはイスに関係しており, マインドが識別できるものであって, マインドと独立に「存在」しているわけではない. あるマインドに対して出現しているアスペクトのうち, そのマインドが「知覚」できたものが, アスペクトとなるわけで, そうでない場合, それは「潜在」している, とホートリーは捉えている.
例えば, 芸術家はある絵画から, あるアスペクトを知覚することができるが,たいていの人はそれを知覚できない, といったような場合があげられる. それは2つのマインドに同様に出現しているという意味では「間主観的」であるが, 2つのマインドの外に存在しているわけではない. アスペクトとは, 意識界における「間主観的」な存在と表現することもできるであろう.
人は自分のマインド以外の何を実際に存在するものであると確信できるのであろうか. マインドの外に存在するものは, マインドが意識の領域のなかからアスペクトとして知覚することにより初めて認識される. こうして知覚されたアスペクトはマインド内に蓄積されていくことになる. ホートリーはこのように考えている.
ここでセンス・データ論7とアスペクト論を比べてみると, 似ている点と似ていない点があることに気づく. 似ている点は, センス・データ論は, マインドが事物から感覚経験を通じてデータを得ると考え, アスペクト論は同じくマインドが対象物から感覚経験を通じてアスペクトを得ると考える点である. 相違するのは, センス・データ論では, 得られたデータは「主観的」なものであると考えるのに対し, アスペクト論では, 得られたアスペクトは意識界に存在する「間主観的」な存在であると考える点である. それに加えて, アスペクト論では「マインド内で生じる諸状態」も含まれている点である.
 フッサールの言う「ノエマ」は,諸アスペクトを総合化したものに相当すると言えるかもしれない. それは真実在ではないが, 事物を感覚経験を通じて意識的にとらえることで得られるもの(「意識の対象物としての事物」)だからである. だが, ノエマはあくまでも「主観的」なものと考えられている点で, アスペクトとは異なっている.
 ここまで, アスペクトについて, それが意識界に存在する「間主観的」な存在である, と述べてきた. ところが, この「間主観的」という語には, 多くの人のマインドに対し共通して出現してくるものという意味が強く込められており, その意味で「客観的」と言う意味合いにも近くなっている. このことは, プラトンのイデアをめぐるホートリーの次のような立論にも表れている.

・・・プラトン理論の基礎は, イデアの独立した現実性であった. それ
らの現実性は, 時空に存在している事物の現実性とは異なる何かを意味
していた. ・・・. だから, 私は, すべてのアスペクトはプラトンのイデ
アと同じように時 ()を超越して存在していると言いたいと思う.p.273

 以上を要するに, 例えば, いま眼前にイスがあるとする. これを10人が見るとしよう. すると10のマインドがあり, そこにはイスに対する感覚経験を通じて10の意識界がつくられるが, そこには複数のアスペクトがほぼ共通に潜在的に存在している. そのうち, どれだけを各マインドが知覚できるのかは各マインドの状況に依存している. こう解すれば, アスペクトは「間主観的」であるし,またマインドの数を拡張することは容易であるから, その意味で「客観的」状況に近づくとも言えよう.

3. マインド内で引き起こされる諸状態として得られるアスペクト

感覚経験を通じて接する以外の「意識の領域」は, マインド内に引き起こされる諸状態として得られる (cf.p.209). 例えば,「道徳, 感情, 思考, 概念」,「不確実性, 蓋然性」,「数学的命題, 数学的推論, 経験的推論」などが, ここに含まれる.
これらは, 感覚経験を通じての接触によって得られるアスペクトとは性質を異にしている. あくまでもマインド内で生起するアスペクトであり, 外界とは,多かれ少なかれ独立している. 以下では, ホートリーが代表的な事例としてあげているもの思考, 概念, 知識 を見ていくことにする (上記にあげた他の事例 不確実性, 蓋然性, 数学的命題, 数学的推論, 経験的推論 については, 別の機会に譲りたい).

3.1 思考 (thought)

「思考」とはアスペクトを識別することである. 「そして, 私はさらに, すべての思考は, 経験されたアスペクトの識別に存するとまで言いたい」(p.109) , ホートリーは述べている.
各々の可能な思考は, 「意識の全領域」から特定のアスペクトに注目して選択することに存する (cf. p.109). 思考とは命題をめぐるものである. アスペクトを選択し, それらを組み合わせることで「思考」が成立する. 選択され識別されたアスペクトは「属性」(attribute) であるか「関係」(relation) であるか,である (cf. p.150). つまり「属性」であるアスペクトと「関係」であるアスペクトが組み合わさることで, ある「思考」が成り立つ. 感覚経験が同時的であるのに対し, 「思考」は推論的であるという特性を有する.
 「思考」は, 解釈がなされていない「直感的なアスペクト」の次の段階, つまり経験についての解釈がなされる段階に属すると言える. それは次の一文に明瞭である.

  直感的なアスペクトの場合, 解釈がなされておらず, 術語は意識領域
もしくはその一部以外には,主語をもっていない. [これに対し,] 経験
についての解釈の場合 [思考の場合] ,(諸)術語に(諸)主語を,
そして(諸)関係に事物, , 場所といった用語 - そのなかで諸
アスペクトが識別される を提供する. (p.150)

この文は, 本稿の冒頭で引用した「序」のうちの次の個所と同じ意味である.

  1つの術語は, 1つの主語についてのアスペクトである. 1つの関係は,
2つ以上の関連するタームについてのアスペクトである.

すなわち,1つの主語についてのアスペクト」が「直感的なアスペクト」であり,1つの関係は・・・アスペクト」が「経験についての解釈」に対応する.

3.2 概念 (concept)

概念をめぐりマインド内で生じることに関連して, 2つのタームが提示されている.「熟知」(familiarity)と「連想」(association) である.
「熟知」は「概念」 (コンセプト) に付着される「感情」であり(cf. p.143, 2種類のものがある(cf. p.135.1つは, 連想が指すアスペクトの「特定の過去の発生」への熟知」であり, ある「概念」形成の初期段階に発生する. もう1つは,その後に進展する「その概念自身に対する熟知」であり, 通常, 連想はそこで停止する.
 マインドは, ある「熟知」により次々と「連想」が誘発されることを通じて複数のアスペクトに至る. そしてそれらのアスペクトを「組み合わせる」(combination) ことで, ある「概念」が生み出される(cf.p.1448.
「概念」とは抽象であり, 解釈によって精緻化された「アスペクト」である.
ある「アスペクト」が「熟知」のものであるとき, それは「連想」の出発点となり, それをフォローすることで, マインドはその過去の経験を「記憶」(memory) を通じて探索することができる.

3.3 知識 (knowledge)

「知識」とは識別された複数のアスペクトに根拠づけられた信条(p.151, さらに p.199を参照)のことである.マインドに蓄積された知識は,「熟知された」アスペクトと「熟知された」概念で構成されている (cf. p.154).
このことは次のように言うこともできる. すなわち,「概念」が構成される「アスペクト」の「組み合わせ」は, 特定の種類が繰り返し発生することを通じて「熟知」になる (cf. p.145). 概念が認識されるアスペクトのファサード (facade) ,一群の「連想」のカギとなる (cf. p.163).

「思考」とか,「知識」を構成する「信条」(belief) の構造は, 記憶や概
念のストックのうえに築かれる. (p.150)

「概念」は, 複数の「アスペクト」が述語であり「関係」(relation)であ
るところの主語である (cf. p.141) .

 以上に述べたことをまとめると, 2のようになる.

     
  (図2)思考・概念・知識


思考 アスペクトの識別. 推論的. 経験についての解釈がなされる段階

概念 マインドが,「熟知」による「連想」を通じて組み合わせられる
 複数のアスペクト     
          
知識  識別された複数のアスペクトに根拠づけられた信条

マインド内に蓄積された「知識」=「熟知された」アスペクト +「熟知された」概念


             III. マインドと物質

1. 本論

すでに言及したように, 本稿が対象としているホートリーの著作のタイトル「思考と事物」には, 「アスペクト論と科学」という含意が込められている. これを「マインドと物質」と言い換えることも可能である.
 ホートリーは, 思考, 想像, 感情, 意欲などといった精神的発生事象, および「物質的対象物」(material object) の双方を「事実」として認めている. これは際立ってホートリー的特徴であると言える. ホートリーは,「物自体」を認識することはできず, マインドは感覚経験を通じてアスペクトを識別すると論じる一方で, 「物質的対象物」の存在を承認することで, 科学的認識を認める, あるいはそうすることで科学的認識をアスペクトの理論内に取り込むという哲学的努力を払っているように思われる.
 精神的発生事象はこれまで論じてきたように, ホートリーの「アスペクト論」
の主役であり, これは「事実」(fact) であると主張されている.

マインドに提示されるものは, 感覚経験か, (思考, 想像, 感情, 意思
[volition]といった) マインド自身の働きのいずれかである. これらのメ
ンタルなできごとは事実である. (p.209)

 と同時に, 物質的対象物も「事実」である, とホートリーは述べている. ここでの彼の論法は, 感覚経験との関連で「因果仮説」が登場し, それが物質という実在を含んでいるというもので, 各々の物質的対象物を事実であるとするものである. 彼はこう論じることによって,「アスペクトの理論」を「科学」といかに関連付けるべきかを考えているように見受けられる.
マインドに中心をおき, 感覚経験や「マインド内で生じる諸状態」を展開する「アスペクト論」だけに留まるのであれば,「科学」が明らかにしてきた世界を説明することはできなくなる. しかも「マインド内で生じる諸状態」には, すでにみたように, 思考, 概念といったものから「数学的命題, 数学的推論, 経験的推論」までが含まれている. そうであるならば,「アスペクト論」と「科学」との折り合いをいかに付けるのか, そしてそのことにより,「科学」に駆逐されないような哲学の根本的重要性を主張する これがホートリーにとってきわめて重要な問題として措定されているのだと思われる.
 「物質とマインドを二分して論じるのでは, 本来的な解決にはならない. かと言って, 物質のみを重視し, マインドを無視する哲学は根本的な問題を見落としてしまっている」 ホートリーはそのように考えている.「科学」が発展するにつれ, マインドに重点をおく哲学的視座を軽視もしくは無視した哲学(科学哲学)が大きな力をもつようになってきた. 論理実証主義や行動主義はその象徴的存在であるが, ホートリーの哲学はこうした傾向に対する批判的姿勢を明確にしたものである. 長くなるが, これらの点が明快に示されている引用文をあげておきたい.
                                                                                             
感覚経験は, それがマインドに対し,マインド以外の何らかの行為主体
によって課せられるようにみえる点で, マインド以上の何かであるとい
う主張をする. そして, 感覚経験を因果の連鎖を通じて「物質」(matter)
にまで遡及することによって,「因果仮説」 (causal hypothesis) はその
主張を支持する.
われわれが本能的に信じる形式での因果仮説は, 物質という「実在」 (reality)を含んでいる. われわれは因果の外部行為主体を事実であると
とらえ, そして各々の特定の物質的対象物を事実であるととらえる.
そして, ・・・他の人間は,物質の実在とは別に, 事実の状態を与えら
れている. 彼らの思考や感情は,われわれ自身のそれと同様な事実であ
るとみなされる. 私が現実の物質的対象物について考えるとき, 私の思
考は1つの事実であり, 物質的対象物はもう1つの事実である.
物質的対象物は, その種の概念を具有しており, その概念のなかに含
まれるアスペクトを, アリストテレス的「偶有性」(accident)  経験
的特殊性としてその概念に属し, そしてその概念からは導出できないア
スペクト  とともに, 示す.
思考や感情は, 物質的対象物ほど単純に種類にフィットしないけれど
, 意識の領域の部分を形成し, アスペクトや概念を示す. (p.209)

経験が構成されるすべてのメンタルな出来事に共通する特徴は, それ
らが「実在している」(real) ということである. 実在はそれらのメンタ
ルな出来事において知覚されるアスペクトである. そして因果仮説は,
経験において知覚される実在という同じ概念を物質にまで拡張する.
れは, 感覚経験を物質的対象物の世界から発生してくる原因にまで追跡
する仮説からの不可避的な推論である. (p.211)

人間はマインドにおける作用を通じ, すべての認識を行なう存在である以上, 科学者の科学もこのことを抜きに遂行されることはありえない. 上記引用文で「物質的対象物は, その種の概念を具有しており, その概念のなかに含まれるアスペクトを, ・・・とともに示す」とあるのは, まさにこのような認識に基づいている.「物質的対象物」が「アスペクトの理論」における「概念」や「アスペクト」に関連付けられている.
 次の一文も, ホートリーが「アスペクトの理論」と「科学」のあいだの関係を指摘することによって, マインドと物質の理論の「デュアリズム」(二元論)を克服しようとする志向を示すものである.

アスペクトの識別は, マインドのある状態に遂行されるマインドの活動
であるが, 意識の領域および科学によって措定される自然の共通アスペ
クトは, マインドと事実 (fact) のあいだの本質的なリンクである. (「序」pp.1-2)

「アスペクトの理論」が示す「意識の領域」にあるアスペクトで, かつ「科学によって措定される自然」であるアスペクトの存在が,「マインド」と「事実」のあいだを結ぶ本質的なリンクだというのである.

ホートリーは, 実在を物質にのみ帰すような見解(例えば唯物論)には与しない. 因果仮設は, 実在は物質に帰せられるすべての特徴をもつということを, 絶対的に要求しているのではない, .

因果仮設は,実在という概念, および時間を通じての拡張という概念を
継承し, それらを物質に適用する. だが, 私が一度ならず主張してきた
ように, それは, 実在が物質に帰せられるすべての特徴をもつことを絶
対的に要求するものではない. (p.253b)

だが, ホートリーは自らの「アスペクトの理論」に対し, いささか問題があることも吐露している.

しかし,「実在」(reality) ,「物質」(matter) とマインドで構成させ,
そのうえでマインドにのみ重要性を付与するというデュアリズムは,
ゴス (ヘラクレイトスの意味で, 根源的存在. ホートリーはそれを「デ
ザイン性」(designliness)と表現している)の要件をとても満足させるも
のではない.
私は第6章の終わりで, アームストロング教授の唯物論の形式 [Armstrong, 1968] がこのデュアリズムにとって代わるかもしれないと示唆した. 物質は存在の唯一の形式であろう. 他方,マインドは物質の「実際の」(real) 活動であろう. 哲学における何らかの真の単純化は, ロゴスと調和すると推定されてもよい.(だが)同時に, 私は,「実体」(substance) という概念の単純化が因果仮説を合理化するに与って力があるとは思わない. 因果的有効性が起源をもつ実体としての物質という概念は, 実在の「表象」(token) にすぎない. 人間中心的な哲学は, 人間が物理的にわずかな位置しか占めていない物質的宇宙には適合しない. (p.310)

2. 科学

これまでみてきたように, ホートリーは「アスペクトの理論」を自らの哲学の拠点に据えている. だが同時に彼は,「科学」の果たしてきた役割を認め, それをどのように「アスペクトの理論」と折り合いをつけるのか, あるいはつけることができるのか, を考えてきた. そしてその最終的な回答には至らないで終わっているのが『思考と事物』である. このタイトルとともに,「アスペクトの理論と科学」,「マインドと物質」,「マインドと事実」と言う表現もみられるが, いずれもこの折り合いをどのようにすれば見出せるのか, このデュアリズムをどのようにすれば避けられるのか,克服できるのかを示唆する表現なのである.
 そのうえで, ホートリーが科学, もしくは科学哲学が抱えている問題をどのようにとらえているのかをみていくことにしよう.

ホートリーは, アスペクトの理論と科学を異なる原理に基づいて成立しているものとしてはとらえていない. むしろ, アスペクトの理論(ここでの文脈では哲学と置き換えてもいい)の, いわば延長線上で科学をとらえようとしている.
科学といえば, 例えば天体の運動,宇宙の構造といったマクロ的現象から, 分子, 原子, 原子核, 素粒子, DNAのような物質の根源を追究するミクロ的世界までをも究明しようとする物理学や, 脳や心などの人間の活動を, 神経細胞の動きなどから解明しようとする生理学が代表的事例としてあげられるであろう. そしてそれらは17世紀あたりから人類の世界観に巨大な影響をおよぼし, それまでの哲学や神学をこれらの問題・領域から駆逐していく勢いをみせて, 今日に至っている.
 こうした状況下にあって,「アスペクトの理論」を唱道するホートリーが「科学」をどのように自らの哲学のなかに位置づけようとしているのかが, ここでの問題である.

哲学者たちは「プロージブル」(下記の「固有の疑わしさ」から十分免
れている状況を指す) な宇宙のアスペクトを求めてきた.すなわち,
も低い度合の「固有の疑わしさ」 (intrinsic doubtfulness. ラッセルの造
)に晒され, そして最も高い度合いの「信頼性」(credibility) を得るよ
うな宇宙のアスペクトを, である. [以降,原文は現在形] 当初, 哲学
者たちは, 宇宙について知られていることがきわめて不完全であるとい
う困難に直面していた. 全体のアスペクトを形成するために, 彼らは,
できうるかぎりギャップを埋めなければならなかった. すなわち, 彼ら
は存在の全領域という概念を構築しなければならなかった. そうするこ
とで, 哲学者は, 経験を説明するために仮説を設けることによって,
学的発見の方法を追究してきた. だが, 彼らは科学の限界を踏み越えて
いる. なぜなら, 彼らは検証できない仮説を採用してきたからである.
証がない場合, 彼らは「固有の蓋然性」(intrinsic probability) に訴え
なければならなかった. (pp.257-258)

この時点では, 哲学者は宇宙を考察しており, 科学的発見の方法は用いられてはいるものの, 現代的意味での科学者はまだ登場していない.
 ここで「因果仮説」についてみておく必要がある.

因果仮説は, それ自身の特徴的な推論形式を思考に導入する. 原因は結
果を暗示する.経験的論法 (reasoning), 経験における何らかの順序
を説明するために, 因果的特性をもつ概念を求める. 因果的特性は,
るタイプの事象にはいつもある他のタイプの事象がついてくるという旨
の粗いルールにすぎないかもしれない. (p.169)

 この因果仮説は, 「アスペクトの理論」でも「科学の理論」でも用いられるものである. そして, その初発因としてそれぞれ「マインド」と「物質」が置かれる.

  マインドおよび物質は因果仮説によって, 各々はそれ自身に特徴的な
因果活動の媒体手段 (vehicle) として措定されてきた. すなわち, 物質
は物理的運動の媒体手段として働くことができる. というのは, それは
空間的特性を有しているからである. マインドは, 意識的経験の媒体手
段になることができる. 各々はそれ自身の特有の領域で活動する. (p.253)

物質は因果性の仮説的な媒体手段であり, 物理的因果性の主題である空
間的および時間的関係を何らかの方法で帯びざるをえない. (p.263)

ここで問題とされるのは「科学の理論」においてである. 科学において因果仮説を用いる場合, 因果仮説をいくら溯ったとしても,それは初発因を決定することはできない. 初発因は因果仮説で説明できる性質のものではないからである. そこで因果関係の駆動力として導入されるのが「物質」(matter) である. 科学的叙述にはその空間的特性が必要とされている.
 だがホートリーは, 科学で使用される「物質」概念は非常に不完全なものであることを指摘する. その主たる根拠は, 物質のもつ「因果的特性」と「空間的特性」が利用されたとしても, 両者を統合する関係は何ら明らかにされていないからである.

  だが, すべての因果的特性を決定するのは, 物質という概念のなかの
何なのかを問うとき, その答えは見当たらない. (そこで) ヒュームの
懐疑が幅を利かせてくる. 物質という概念は不完全である. なぜなら因
果的特性はその空間的資質のうえに, それらを統合すると考えられるい
かなる特定化された関係もないまま, 重ねられるからである.  (p.260)

科学者は現在, 彼らの結論を経験の秩序性のたんなる叙述であるものと
して受け入れることで満足している. 物質の実在性はこの立場の代替物
ではなく, 追加的な仮説であり, そのプロージビリティ(もっともらし
さ)は物質概念自身の信頼度に依存している. (p.259)

科学の仮定を生命やマインドの領域にもちこむとき, 物質という概念の
不完全性はより明白になる. 生命体のなかのサブ原子の行動を支配す
る公式を発見するというのは, 願望にすぎない. たとえその願望が実現
されたとしても, われわれは, 物質概念がどのようなものであるのかを,
ほんの単純な外見においてですら, 予見することはできない. (p.260)

これらの領域でのホートリーの考えには, もう1つ, 「蓋然性」(probability. 以下,状況に応じて「確率」と訳すこともある) という重要な概念が存在する. これは計測可能なもののみならず, 計測不可能な蓋然性をも含んでいる. しかも, このことはメンタルなプロセスのみならず, 物質の実在性といった領域においても適用可能である, とホートリーは論じている.

  例外的にのみ, 数値計測ができる特別の経験命題の蓋然性が存在する.
他のケースでは, 大小の蓋然性度についての直接的判断が存在する.
れらのケースで蓋然性についての推定を導くのと同じメンタルなプロ
セスが, 物質の実在性のような宇宙についての見解のプロジビリティ
に適用されるべきではないという理由は存在しないように思われる. (p.259)

これらはケインズの「確率」概念に非常に類似している.

3. 行動主義・論理実証主義批判

ホートリーは,科学的認識を, いかに「アスペクトの理論」と架橋すればいいのかについて, その必要性を追究していた. これに対し, 彼は, マインドを無視して, 物質を重んじるかたちで科学を重視する哲学に対しては, 明示的に批判的な論陣を張っている. 行動主義, 論理実証主義, 科学主義, 唯物論(および史的唯物論)がそのやり玉にあげられているが, ここでは行動主義と論理実証主義を取り上げることにしたい.



3.1 行動主義

科学とマインドとの微妙な関係領域における行動主義の立場に対し, ホートリーは批判的である.行動主義は, 例えば人間の精神的な動きは, かならず神経とか頭脳のある部位に関連する箇所があり, 人がどう思うのかとは無関係に, あるいはそれとは独立に,説明が可能であるという立場をとっている.

  感覚経験が物理的感覚の状態に対応しているのみならず, 意思決定に
介入する思考・感情・意思といった精神的なプロセスもまた脳や神経
システムに物理的対応物を有しており, マインドとは独立の行動であ
る自己完結的な因果連鎖を形成していると主張される. マインドは,
物理的連鎖の受動的な記録, 付帯現象にすぎないというのである. (p.226)
                                                                                              
行動主義の公準は, 機械的説明を, 心理についての事実, およびわれわ
れの明白に目的的行動にまで拡張しようとする仮説である .… この公
準はそれゆえ, この信奉者にとっては信念の証である. (p.227)

マインドの意識的な行動とそれに対応する脳と神経を有する存在としてみた人間の行動との関係は, いかに理解されるべきなのであろうか. 行動主義者, 唯物論者は後者の視点のみを重視し, 前者をほとんど無視する立場に立つ. これに対し,ホートリーは前者の立場に立っているが,(これまで論じてきたように)そのうえで, この関係  マインドと「物質」(material), 思考と「事物」(things) の関係 を追究している.

行動主義の公準は, 次のような常識的な信条, すなわち, 人体の目的的
行動は意識的指令を前提するものとしてのみ解釈できるとする信条,
否定する.・・・
意識の領域と機械論的因果の領域のあいだには根本的な相違がある. (p.241)

問題は, 行動が選好によって決定されるという意識の領域と, 因果的画
一性によって決定されるメカニズムのあいだに完全な対応性がありうる
のかいなかである. (p.242)

簡単な事例をあげてみよう. 目の前に2つの花, バラとアマリリスがある.
その人はアマリリスを選んだ. なぜそうしたかというと, 本人はバラが好きな
のだが, 今日招待された家の主人はアマリリスが大好きなのを知っているから
である. この現象を, 行動主義者は,脳細胞の状況と神経細胞の状況からどの
ように説明することができるのであろうか. これは科学がいかに進歩したとし
ても, 説明が不可能であろう. バラやアマリリスをめぐる上記の状況は, 脳細
胞や神経細胞に依存した分析では手に負えない類いの問題であるからである.

わたしは, アスペクトの理論は,アスペクトの識別が本質的にメンタル
なプロセスであり, 十分な物理的対応物をもつことはできないという点
, この問題 [人間の行動をメンタルなプロセスとは独立に, 生理学が
自己完結的に説明できるようになるのかという問題] に関わりがある,
と信じている. (p.227. [   ]は引用者)

人間による意識的な「指図」(direction) には,最大限度の固有の蓋然性
がある.p.263

これに対し, ホートリーは,ゲシュタルト心理学はアスペクトの理論とのあいだにある共通点があるとして, 一定のプラスの評価を与えている.

かくしてゲシュタルト心理学者は, アスペクトを心理学に導入している
とみなせるかもしれない. (p.245)

にもかかわらず, マインドと物質の関係について, ゲシュタルト心理学者が行動主義者の見解を支持しているのは不幸である, とホートリーは評している.

3.2 論理実証主義

ホートリーは形而上学を検証不可能という理由で検討対象から除外する立場をとる論理実証主義に対しても批判的である. それは, 感覚経験による「意識の領域」からの知覚という視点を欠いているからである.
論理実証主義は, 検証を命題の意味にとって本質的なものとみている. ホートリーはその代表的な論客であるエイアー (A.J. Ayer) を批判の対象として取り上げている.

エイヤーの, 知識を, 検証にさらされる経験的判断と, トートロジー
である分析的判断に二分する,という考えは, 論理実証主義の極端な
経験論を支持するものである. (p.181)

     エイヤー教授は, ・・・「その真実性にとっていかなる実証的観察も関
係しない形而上学の言明のようなものは, 事実上無意味なものとして
排除される」と説明している. (p.182)

だが, アスペクトの理論の舞台である「意識の状態」にあるアスペクトは, われわれの認識にとってきわめて重要なものであるが, それらは検証を必要とする類いのものではない.
                                                                                                                  
  検証を必要としない一種の「知ること」(knowing) を提供するのは,
感覚経験のアスペクトだけではない. 感覚経験以外の意識の状態につ
いてのアスペクトも同種であ [って検証を必要としない]. (p.182a)

検証可能性が真理にとって本質的であるという論理実証主義の主張
, 支持できない. (p.182b)

ホートリーは, エイヤーによる, カントの分析的判断と総合判断をめぐる説明, およびそれに対する批判を, アスペクトの哲学からかなり厳しく批判している. とりわけ数学をめぐる次のような批判は,すこぶる注目に値する. 本稿では扱っていないが, 図1「意識の全領域」に示されているように,「数学的命題」,「数学的推論」は「アスペクトの理論」の範疇「マインド内で引き起こされる諸状態」- に属するものになっている点に, である.

     エイアー教授は, 数学の総合的性質を強調するカントの議論を, 問 
     題は心理的なものではなく論理的なものであるという理由で批判し
     . だが, 知識は心理的なものである.事物を純粋に論理的なもの
     として扱うことは, 人間のマインドの知識がこうむっている限界を
無視することを意味する. (p.179)

数学は純粋に論理的なものではなく, それはマインドの知識がこうむる限界という問題がある, とホートリーは主張している.

物理的対象物についての一種の知が, 数学の命題と同種の直接性を有す
ると主張することは, この区分(経験的判断と分析的判断)と抵触する. (pp.181-182)

実際, 検証を要する経験的判断とトートロジーとされる分析的判断(数学はここに入るとされる)で構成される論理実証主義は, 科学哲学として自己矛盾を含んでいる. なぜ数学が経験的判断とともに必要とされるのかの根拠があいまいなままにされているからである.
  なお, ホートリーは「経験的論法」(これは論理実証主義で言及される「経験的判断」ではなく,「アスペクトの理論」での推論のことなので, 注意が必要である) と「数学的論法」の違いを次のように論じている.

    経験的論法にあっては, 総合は, 共通する性質もしくはアスペクトを
明らかにする目的で対象物を比較することを意味するのに対し, 数学
的論法にあっては,比較がなされることはない. というのは, 数字は,
すべての近接数値がプラス1でリンクしているという共通の特徴をも
っていることがアプリオリに知られているからである. (p.144)

ホートリーの論点がより明瞭になるのは, 「蓋然性」をめぐる立論においてである.

蓋然性は, 大きさとか距離のように,識別されるアスペクトである.
それは, ある命題を主張する思考のアスペクトである. (p.158)

「ある命題を主張する思考のアスペクト」はケインズの『確率論』における蓋然性概念や, 次に述べられているラッセルの考えと基本的に同じ発想に立っていると言える.

  それゆえ, 宇宙の哲学的解釈に適用される蓋然性判断は, ラッセル卿の
・・・「信頼性の度合い」(degree of credibility)という題目のもとに収ま
. (p.257)

 繰り返すと, ホートリーは「数学的命題, 数学的推論, 蓋然性」は「マインド内で引き起こされる諸状態」に属するものと考えている. そして, マインドを無視し, かつマインドに関連した発想を「形而上学的」として排除することにより科学は発展する, と考える論理実証主義に批判的である. それは第1, 数学や蓋然性についての理解において誤っており, 2,(科学は重要であるのだが),論理実証主義にみられる科学についての認識の仕方において誤っている, .

IV. ケンブリッジの哲学的潮流

ホートリーは,ムーアの熱烈な支持者であり, その影響は生涯に及んでいる.それに彼はアポッスルでもあり, 当時のケンブリッジで展開していた哲学に深く関与していた. 彼は,『思考と事物』において 当然であろうが ケンブリッジの哲学者ムーア, ラッセル, ケインズ, ウィトゲンシュタイン, ラムゼーなどの著作にいろいろな個所で言及している9 (だが, 全体的に見て, それらを批判的に述べている個所が,― 実際には非常に異なる見解を有するにも関わらず 残念ながら見当たらない).
  しかしながら, ホートリーが彼らとどのような議論を展開したのかについての記録は, 筆者の知るかぎり, 残されていない. そうした制約があるなか,本節では, ホートリーの哲学を意識しながらケンブリッジの哲学の潮流を概観することにしたい.

4.1 ムーア

ムーアがヘーゲル観念論に対し, 当時のイギリスでこの傾向を代表していたマックタガートを批判し, ケンブリッジの哲学を新たな道程に導いたことはよく知られている. ラッセルもムーアからの影響により, ヘーゲル哲学と決別するに至った.
かといって, ムーアは経験論哲学者ではないし, (ジェームズの合理論に対する批判に見られるように) プラグマティズムに対しても非常に批判的であった.当時, 大陸の哲学でみられた科学主義と新カント派(「カントに戻れ」がその標語であり, 超越論的である)のあいだの対立について, ムーアは新カント派に同調的であった.
ムーアの発想は, 非常にソクラテス的, プラトン的である.「善とは何か」を
めぐり, それを追究していく議論は, まさにソクラテスを彷彿とさせるものがある. だが, ムーアはイデア論へとは進まない. 「善」を定義不可能なものとして直覚主義的にとらえるのである. 「センス・データ」という考え方もムーアの哲学を知るうえで重要であり, これはラッセルにも影響を及ぼしている.
ムーアは直覚主義の立場から, これまでの哲学を「自然主義的誤謬」にさらされたものであるとして批判している. そのなかには功利主義も含まれる.
ムーアのこうした視点は, ケインズたちの世代ホートリー, リットン・ストレイチー, ショーヴ, レナード・ウルフなどに非常に大きな影響を与えた.彼らは反功利主義哲学を標榜している (ケインズの場合,「エッジワース論」が興味深い).
ムーアは, 彼の議論の仕方から明らかなように,言葉を非常に厳格にとらえる.そしてそこから言語という問題を直視するようになり, そのことが哲学界における「日常言語」への注目, そして「常識」への注目につながっていく.
「日常言語」への注目は -『論理哲学論考』においてもこの要素はあったの
だが - 後期ウィットゲンシュタインの採ったスタンスである. ムーアは,
1929年ケンブリッジに戻ったウィトゲンシュタインが開講した講義 (1930-3)
の定期的な受講者であり, 彼自身, それを記録したノートを刊行しているほど
である.
ただし, ホートリーやケインズは,こうした「日常言語」への関心を共有す
ることはなかったように思われる.

4.2 ラッセル

ラッセルの哲学は自らが命名した「論理的原子論」として知られている. この
内容を彼は次のように特徴づけている.

  私が私の理論を論理的原子論と呼ぶ理由は, 分析において最後に残った
ものに到達したいと願っているものが論理的原子であるからである.
のいくつかは, 色とか, 音とか, 瞬時的な事物のような,「特定のもの」(particulars) と呼べるものであり, そしていくつかのものは, 術語もし
くは関係などである. 要するに, 私が到達したいと願っている原子とは
論理的分析の原子であって物理的分析の原子ではない. (Russell, 1985,p.37. 実際は1918年に書かれている.)

 これはラッセルとホワイトヘッドが『プリンキピア・マテマティカ』で試み
, 数学をすべて論理学に還元しようとした試みを, 哲学の領域で行なおうと
するものであった.
ラッセルの哲学は (ウィトゲンシュタインのそれとともに) 「ウィーン学団」
での論理実証主義 (Logical Positivism. それは反「新カント派」であり,「形而
上学の科学からの追放」を標語とした) のバイブルとなった.
 この哲学は, ケインズの『確率論』にも深い影響を与えるものとなった.
かし, 全体としてみると, むしろラッセルに批判的な人々の方がケンブリッジ
には多かったようである. ウィトゲンシュタインは最初から, その考え方とは
相違点があり, ついには決裂にまで至ったし, ケインズも後にはラッセルに批
判的になっていったと思われる. ラムゼーも批判的であり, 彼はプラグマティ
ズムの方向に向かっている. ホートリーの哲学も『思考と事物』において, (
判的言辞はみられないものの),「アスペクトの理論」とはかけ離れたものであ
.
 ムーアとラッセルの哲学にも明白な相違がみられる. その関係は「日常言語」
対「理想言語」であり, 「直覚主義」対「形式論理学」・「論理原子論」の対立と
してまとめることができるであろう.

4.3 ケインズ

ムーアとラッセルの双方から大きな影響を受けて, ケインズは『確率論』として後年刊行される著の原型をキングズ・カレッジのフェロー資格論文として書きあげた. この書は2つの重要な主張を有している.10
 1つは「命題間の合理的な信条の度合」と定義された「確率」が支配する世界での認識論的・論理学的探究を目指そうとするものである. そこでは, 前提と命題間の「客観的」な論理的関係が強調されており, この関係を「確率的」領域に適用することで, 人間の理性に基づく論理学的な判定のための哲学的基礎づけが目指されている. 『確率論』の扱う「間接的な知識」は立論を通じて獲得される. その立論がかなり複雑な一連の立論で構成される場合, 形式論理学的な知識が不可欠である. かくして合理的人間による公理論的体系というかたちでの認識が要請されてくる. これが第II部の主要な目的であった.
もう1つは,「帰納法」の正当化である. I, II部で展開された確率論が, III部「帰納とアナロジー」に直結されている. さらに帰納法とは, 「事実問題よりも形式論理 (確率関係の存在) の問題である」, との論法が展開されている. ケインズによれば, 帰納法は「アナロジー」と「純粋帰納」(これが通常理解されている「事例の単なる繰り返し」としての純帰納法)で構成されている. このうち重視されているのはアナロジーである.事前確率はアナロジーにより得られる, と論じられている.
知識が不完全であれば, アナロジーは純粋帰納の助けを借りて, より高次の状態になっていく. ここにケインズは, 「事物の特性」(例でいえば, 「四つ足」,「毛をもつ」といった特性) の数が有限であるかぎり, 「完全なアナロジーの方法」(それは個人の内観による),もしくは「他の帰納的方法」(純粋帰納の助けを借りてネガティブ・アナロジーをみつけていき, 完全なアナロジーに近接させていく方法) により, 帰納法は正当化できる, と主張するに至る.

ケインズは, その後, 哲学に関する著作を書くことはなかったので, 彼がどのような哲学を考えていたのかは, かぎられたエッセイでしか知りえない. なかでも重要なのは, ラムゼーとの関係である.
ラムゼーは(ケインズやムーアが批判した)プラグマティズム11を尊重し, またケインズとは異なり, 主観確率論を展開した人物として知られる. そしてその過程で, ケインズの『確率論』を痛切に批判したのであるが, それに対しケインズはかなりその批判を受け入れるような発言をしている.
ケインズは, ラッセルやウィトゲンシュタイン 初期ウィトゲンシュタイン による形式論理学の展開が, しだいに内容を空虚なものにしていき, たんなる乾いた骨にまで至り, ついにはあらゆる経験のみならず, ほとんどの合理的な思考原理をも排除するようになった, と考えている. ラムゼーはこれに対し人間論理を考察しようとする一種のプラグマテイズムで対抗しようとし, ウィトゲンシュタインに対し批判的であった (ラムゼーとの緊張した議論, およびスラッファとの緊張した議論12, 後期ウィトゲンシュタインの誕生に大きく寄与していることが知られている).
 ラムゼーは人間論理と形式論理を識別した. 人間は, 感覚や記憶によって提供される事物を扱う有益な精神的慣習をもっており, これを, 確率論理に適用することで, 整合的なシステムをもつ. 確率計算は形式論理に属するが, しかしわれわれの信条の度合はわれわれ人間の衣服の一部であり, 形式論理ではなくむしろわれわれの感覚や記憶に近く, 自然淘汰によってのみ与えられるようなものである. こうしてケインズは, ラムゼーの考えに大いに賛意を表するに至っている.
しかしながら, そうだとしても, それはラムゼー的な哲学にケインズが移ったということを意味するものではない. なぜなら後期ケインズが主観確率論やプラグマティズムに賛同したわけではないからである.「若き日の信条」(Keynes, 1939) で強調されているのは, 自らは合理主義から次第に距離をおき, 現実のあいまいさ, それゆえ慣習などを重視する考えに向かっていったという点である13.
 ホートリーはケインズの『確率論』における蓋然性に対して, すでにみたように, 同調的な見解を表明している14. ホートリーはそれをマインド内で引き起こされる諸状態の1つとして,「アスペクト」のタームでとらえている.

確率は, 大きさとか距離のように,識別されるアスペクトである. それは, ある命題を主張する思考のアスペクトである. (p.158)

どの信条も絶対に確実ではありえないので, 信条を具現するどの思考も
このアスペクト(蓋然性)を現出すると言えるかもしれないが, 一般
にこのアスペクトはたんなる潜在性にとどまっており, マインドによっ
て気づかれてはいない. 判断が到達するところのプロセスが行動の基礎
を形成するのに不十分であると感じられるときにのみ, 注意はその疑い
に向かうことになり, それは「蓋然的な」とラベル付けされた知識のス
トックに入ることになる. (p.161)

 しかし, ケインズが, ホートリーのアスペクト論にどのように対処していたのかについては, 何の証拠も残されていない.

4.4 ウィトゲンシュタイン

1930年頃, ウィトゲンシュタインは『論理哲学論考』(1918年に執筆され, 1922年刊行) での主要な枠組みである「論理的決定論」(滝浦p.159) に疑問を抱き始め, その後の試行錯誤を経て, 1936年末, 「日常言語」を中心にした『哲学的探究』の第1部の本体を書きあげた (最終的には1949).「言語ゲーム論」を中核とする「後期ウィトゲンシュタイン」の始まりである.
 『論理哲学論考』は, 『論理的原子論』(ラッセル,1918)とともに, 論理実証主義の生成に大きな影響力があったとされる. , 両者の考え方には大きな相違があった. とくに, 後者の展開においてラッセルは,前者の筆者であるウィトゲンシュタインに深く影響を受けたと記しているため, 両者が同じ方向を目指しているものと考えられたりした. だが, 実際には,この時点にあっても, 両者の哲学は非常に異なっており, ウィトゲンシュタインはラッセルの哲学に対しきわめて批判的であった. そのうえ, ラッセルは, すでにみたように, 「論理的原子論」を「経験論的アプローチ」(Empirical Approach) から「合理主義的アプローチ」 (Rationalist Approach. Pears) にシフトさせながら, その後も維持・展開していくことになった. そしてその間にウィトゲンシュタインは「言語ゲーム論」に入っていった (後期ウィトゲンシュタイン) から, 両者の関係は緊張から決裂という事態に立ち至ったのである. 

4.5 ホートリーとウィトゲンシュタインのアスペクト論

両者のアスペクト論の相違点について述べておきたい. ホートリーの場合, アスペクトは間主観的(準客観的)である. アスペクトは存在しており(その意味でプラトンのイデア的), それを各マインドがとらえられるかいなかという発想である. 事物には多種のアスペクトが付着しているというような捉え方がなされており, ここから概念, 思考, その他の重要なコンセプトが展開されていくかたちになっている. それに何よりも強調しておく必要があるのは, ホートリーのアスペクト論は, じつに Hawtrey (1912) –  Friday Clubと言う芸術家の集まりで読まれたもの. そこでは, 絵画, 音楽などの芸術に限定してaspectが論じられているが, それは『思考と事物』への連続性を十分に感じさせるものである. 一文をあげておこう.「もし私の言うアスペクトの意味を理解いただけたなら, それがわれわれのマインドにとって決定的に重要なものであることがお分かりいただけると思います. 記憶と想像はともに, それらが感覚の対象物に関係しているかぎり, 主としてアスペクトを扱っています. 詳細は, 主に理性によって埋められます」(p.3) にまで遡ることができるという点である.
これに対して, ウィトゲンシュタインの場合15, アスペクト 『哲学探究』
2部第11章で展開されており [2部の完成は1949] はマインドがとらえる一種の像と考えられている. そしてそれは各マインドによって異なる像としてみえる (有名なジャストロウの「アヒル=ウサギの絵」を想定されたい).それは, 客観的に存在しているというよりも主観性が強いものである16.
 次に, より広い視点から,両者の哲学にみられる共有点についてみておきたい.
1, ともにケーラーのゲシュタルト心理学への親近性 (TT, 234, 244を参照)
がみられ, 心理学的着想が強く認められる. 2, 科学主義, 論理実証主義に
対し批判的立場がとられている. 3, ラッセルの論理原子論に対し批判的立
場がとられている.
 また相違点であるが, ウィトゲンシュタインの「言語ゲーム的発想」は, ホー
トリーにはみられない. 一般にウィトゲンシュタインは, 言語, 日常言語を重視
しているのに対し, ホートリーにはそうした面はみられない.

4.6 ホートリーの哲学再論

ホートリーは, 感覚経験による意識的領域の知覚を哲学の根底に据えており, その意味で「イデア論」とは性格を異にする.事物の存在を証明することはできない. われわれは感覚経験を通じて意識的にアスペクトをとらえ, それをマインドに構築することを通じてのみ,認識することができる存在である.
 他方でホートリーは, 形而上学は検証不可能という理由で, 検討の対象から除外するという立場をとる論理実証主義を批判する. それは, 感覚経験による意識的領域の知覚という視点を欠落させているからである.
 最後に, 彼の哲学的スタンスを知るうえで有益な個所を指摘しておきたい.

感覚経験の実在は, いかなる形式の経験論においても不可欠の前提で
ある. (p.182)

価値判断は, その真実にとっては, いかなる経験的観察もおそらくは
関係しえないという形而上学的言明に属する. (p.182b)

以上, 概括的にケンブリッジの哲学的潮流を振り返ってみた. それでも, その哲学が当時の世界の哲学的潮流の一大センターであったことは容易に理解できるであろう. ホートリーが哲学的思考を重ねたのは, このような環境下においてであった. 繰り返しになるが, 残念なことに, ホートリーがこの環境のなかでどのような哲学的論争を展開したのかを示す資料は見当たらない.


V. むすび

以上, ホートリーの未刊の著『思考と事物』を検討した. この書の中軸は, アスペクトの理論である. それはマインドが意識の領域に創り出すアスペクトの選択を中軸に据え, そこから概念, 知識, その他, さまざまな状態を説明していこうとするものである. ホートリーは,「アスペクト」を「間主観的」, あるいはそれより広い「客観性」を有する, さらには時を超えたものとしてとらえる傾向をも仄めかしている.
 そのうえで, 「思考と事物」のタイトルが示すように,「マインドと物質」, あるいは「アスペクトの理論と科学」のあいだの関係をどうとらえるべきかという難題に挑んでいる. この未刊の書の究極の目的は, 「アスペクトの理論」と「科学」をデュアリズムに陥ることなく, いかにすればそのあいだに架橋をかけることができるのかを解決することであった, と言える. 彼はその最終的回答に到達しているわけではないが, それを目指して考察し, 論じていることは非常に示唆的である.
 そしてマインドを無視して, 専ら科学を重視して世界をみようとする行動主義や論理実証主義に対し批判的な論陣を張っているが, そこに示されている見解は傾聴に値する.なぜなら, そうした見方は, 科学や数学についての誤った認識に基づいているという批判が含まれているからである. 科学については, 因果仮説は初発因としての「物質」をもちだしてくるものの, それは, 「因果的特性」と「空間的特性」との関係についての議論がなされることなく導入されており, その点で物質概念が不完全であること, また生命やマインドの領域に入ると, 物質概念の不完全性は一層顕著になっている, との指摘がなされている.また, 数学の特性については,「数学的命題」や「蓋然性」をホートリーが「アスペクトの理論」のタームで論じている点を想起すれば, 論理実証主義などの理解との相違は明瞭であろう (図1を参照).



 1) 平井 (2007) はこれを調べたものである.
 2) 平井 (2009) および Hirai (2012) はこれを分析したものである.
3) Google Scholar, EBSCOで検索するも, ホートリーの哲学を論じた論文,ならびに『思考と事物』に関係する資料に遭遇することはできなかった.
4)哲学の世界では「アスペクトの理論」はウィトゲンシュタインの『哲学探究』第II部で論じられていることを指して用いられており(例えば, Shoroeder[2010], 荒畑 [2013]を参照),ホートリーに言及されることは絶えてないといってよい. 両者の関係については,節で論じる.
5) 以上にみるホートリーの「アスペクト」の理論は, フッサールに代表される現象学 「主観的視点から経験されるものとしての意識的経験」の研究と措定されるのスタンスとよく似ている (intentionality, すなわち世界のなかの事物に対する経験の直接性」). そして, この経験は, 「感覚, 思考, 記憶, 想像, 感情, 欲望, 意思」などを含むものとされている点でも, 類似点が認められる. ただし『思考と事物』では, 現象学への言及はみられない.
もっとも, 現象学のこの構想自体, カントに深く影響されて出てきたものである. ホートリー自身, カントから直接的に影響を受けていることは明白である.「ヒュームに対する彼の回答は, 感覚経験の秩序性は, 物自体にではなく, 観察するマインドの構造に依存する, というものであった.「形式は対象物自身[物自体] のなかにではなく, 対象物が出現する主体 (subject) [意識界] のなかに探すことができる」」. (p.288. [   ] 内は引用者)
6) Armstrong (1968) が挙げられている. T&T, pp.253b-253c, p.310を参照.
7) Russell (1912)で展開されているセンス・データ論を参照. そこでは,「外見」(appearance) と「実在」(reality) のあいだの関係として論じられている.
  8) ホートリーのいう「熟知」はラッセルのいう「面識」(acquaintance) に類似している.
9)顕著な言及としてはRussell (pp.13, 18,20,28,43, 132a, 132b, 139,140,159,160,161,165,166, 166a, 184, 185, 186,189, 195, 197, 198, 204, 209,257, 285, 286), Moore (pp.6-7, 96,100-102,130,131,132,132a,132b,182b), Keynes (156,157, 158,159, 160, 161) が挙げられる.
 10) 平井 (2002) を参照. 
11) 『思考と事物』にはプラグマティズムへの言及はない.
  12) Kurz (2009) を参照.
13) 伊藤(1999, p.58)は次のように論じている. ケインズ, ラムゼーの批判を受け入れ,「不確実性と合理性との結びつき」を「超越的な命題の世界」に探ろうとした『確率論』の「論理主義的確率解釈」を放棄するに至り, それは『一般理論』に明らかである, .
  14) T&T,「確率」(pp.155a-161)でケインズの『確率論』の3つの主題 -
測不可能な領域の確率,確率の定義,および「帰納とアナロジー」- が検討
されている. とりわけ, 2, および第3点についてはラッセルのHuman
Knowledgeでの立論 (とくに, intrinsic doubtfulness [本性的疑わしさ]) を絡めな
がら検討されている.
15) ウィトゲンシュタインのアスペクトには2種類のものがある. 束の間の
現象的なアスペクト (aspect of changes), 属性的 (dispositional)で一般的なア
スペクト (continuous aspect perception)である. ウィトゲンシュタインが, いず
れを重視したかは意見の分かれるところであるが, 後者の方がホートリーのア
スペクトに近いように思われる.
 16)『思考と事物』のなかで, アスペクトに関連して, ウィトゲンシュタインの『哲学探究』(Wittgenstein, 1963) への言及(pp.11, 12,109, 110,131)があるが, ホートリーはそれと, 自らのアスペクトの理論との相違については, 何も語っていない. なお, 「言語ゲーム論」については, p.194, さらに, 『論理哲学論考』(Wittgenstein, 1922) については, pp.163, 164, 165で言及がある.



参考文献

1.『思考と事物』に登場する文献(出典が明瞭にされていない個所 [出版社とか刊行年など] はそのままブランクにしてある)

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On Ralph Hawtrey’s Thought and Things – Struggling for a bridge between “Theory of Aspects” and “Science”

JEL: B3, B31, B310

Toshiaki Hirai, Sophia University


Abstract

The main purpose of this paper is to explore the philosophy of Ralph Hawtrey, who is one of the main economists in Cambridge in the interwar period, through his only and unpublished book, Thought and Things.
  The main theory there should be a theory of aspect. The principal actor is Mind. Before it does the field of consciousness spread out. Mind brings things as aspects by means of sense – such as vision, touch, hearing – into the field of consciousness. This is called sense experience.
  The whole field of consciousness includes, other than the field made accessible through sense experience, the one in which many aspects would be born within mind – from moral, feeling, volition, thought, concept through uncertainty, mathematical reasoning, empirical reasoning.
Having argued his theory of aspects, Hawtrey proceeds to the more serious problem of how we should grasp the relation between mind and matter. The ultimate objective of this book is to explore how we could build a bridge between the two without falling into dualism.
Even in the theory of aspect, it presupposes the existence of matter, although mind cannot prove its existence.
On the other, science also presupposes the existence of matter as the origin of its theory. Science introduces matter as the first mover of its causal hypothesis. However, it introduces matter without arguing the relation between the causal property and the special property, so that the concept of matter remains incomplete.
Hawtery develops a harsh criticism of behaviorism and logical positivism which advocate to understand the world from science, neglecting mind.
  This paper end by comparing Hawtrey with other great philosophers in Cambridge.