2014年1月31日金曜日

A.C.ピグー著・八木紀一郎監訳・本郷亮訳『富と厚生』(1912) 本稿は、誤解されたままのピグーの厚生経済学を自身に語らせるという動機に端を発した古典翻訳の書評である。最初に『富と厚生』(以降W&W) の理論を説明し、特性を当時の経済学の状況を勘案しつつ措定する。次に、訳者が「解題」で指摘するケインズ革命とロビンズの批判に言及する。  ピグーは今日、第1に「市場の失敗」の代表事例である「外部経済・不経済」の発見者として、第2に「実質残高効果」の提唱者として、第3に「古典派マクロ経済学の祖」として知られる。だが、彼の経済学の体系的研究はほとんどなされてこなかった。そうした中、訳者をはじめとする研究者がこの課題に挑んでおり、その成果が注目されている。 1. 『富と厚生』 19世紀後半以降、貧富格差はイギリスで大きな政治・社会問題となっていた。この問題を「失業」の視点からとらえたのがベヴァリッジとピグーである。W&Wも、そうした意識のもと原理的な視点に立ち戻り考究されている。  本書を手にしてだれしも感じるのは難解という点であろう。第1に、その論述は込み入っており、主要な道筋がみえにくい。第2に、かなりの知識を前提にして書かれている(e.g. 第II篇第2章の覚書)。それに読まれざる古典ゆえ、その論理の当否の判断が至難である。 全体を通じて、ピグーが提示したのは次の3命題である: (i) 国民分配分 (GDP) が増加し、いずれの集団の絶対的取り分も減少しない場合、社会全体の経済的厚生 (そして全体の厚生) は増加する; (ii) 貧者の絶対的取り分が増え、かつ全体の国民分配分が減少しない場合、社会全体の経済的厚生 (そして全体の厚生) は増大する; (iii) 貧者の取り分の通時的変動ないし通時的不均等が縮小すれば、社会全体の経済的厚生 (そして全体の厚生) は増大する。 これらの命題が、複雑な論理により、かつ統計問題 (e.g. 独自のCPI案やパレート法則批判) を交え数理経済学的手法も活用しつつ展開されている。評者には、これら命題はピグーの価値観が混入した「論証」にみえる。 W&Wはスミスの『国富論』とマーシャルの『経済学原理』(以降、PE) 第6編「国民所得の分配」を出発点にしている。「富」は「国富」と同義であり「国民分配分」の意である。スミスは「国富が大きい国ほど文明度も高く、万民を豊かにする。そして自然に委ねるとき国富も最大になる」と主張した。爾来、古典派はこの考え重視のためプルートロジー (富の理論) と呼ばれる。  他方、ピグーはPE第6篇にみられる発想を理論の中枢におく。「資源の限界純生産物があらゆる用途で均等化するとき、分配分は必然的にその実現可能な最大量になる」、および「利己心は、もし妨げられなければ、これらの限界純生産物を均等化する傾向をもつ」。これはスミスの着想の新古典派的定式化である。これがW&Wのよって立つ基本線であるが、この成立は ― 証明によるのではなく ― 当然視されている (cf.第2篇第3章)。 ここで注記が必要である。第1に、マーシャルの理論は忠実には継承されていない。PE第5篇の理論に「本質的な」注意は払われていない。第2に、第6篇は「長期の理論」として展開されている。時間の識別はPEにとり本質的だが、W&Wはそうした識別を欠いている。  国民分配分を論じるとき、W&Wはマクロ的な生産関数を重視している。すなわち、(待忍を含む) 非労働、労働 (非熟練労働と熟練労働。そのさい「技術的能率の変化」も重視)、および「不確実性負担」という生産要素の組み合わせで決定されるという主張である。  さて、「限界純生産物の均等化が国民分配分を最大化する」という基本線に言及したが、これがもたらされない要因を追跡し、それらを分析すること、これがW&W 第II篇「国民分配分の大きさ」の主題である。「不完全な移動性」、「取引単位の不完全な可分性」、「産業の相対的変動」等が要因として指摘され分析されている。 中でも有名なのが「社会的純生産物と私的純生産物の乖離」である。彼が問題にするのは、この乖離を適切な方策で縮小させることで国民分配分を大きくすることである。 これが (i) 当事者間の契約問題 (方策は契約関係の変更)、(ii) 当事者以外が被る用役・負の用役の問題 (豊作は補助金・租税)、(iii) 独占的競争、(iv) 双方独占のケースで論じられている ((ii) が外部経済・不経済のケース)。これらは「他の条件が不変」という部分均衡論で論じられており、それは国民分配分の増大分析にとり適切かという問題は残る。 W&Wが書かれた1912年頃、「一般均衡理論」はイギリス以外では大きな地歩を築いていた (cf.『価値および価格の理論の数学的探究』(Fisher ,1892)、『価値、資本および地代』(Wicksell, 1893)、『理論経済学の本質と主要内容』(Schumpeter, 1908))。これらは、市場における価格の決定メカニズムを課題にしており、国民分配分は完全雇用下で所与としていた。他方W&Wは、国民分配分の最大化、国民分配分の増減を課題にしており、価格の均衡化には関心を寄せない。それでもなお限界純生産物の経済全体での均等化を根本原理と考える点で、「限界効用均等の法則」を根本原理と考える一般均衡理論と類似の要素(「部分均衡論」を適宜取り入れた [e.g. 第Ⅱ編第8章] 「ピグー流一般均衡理論」とも呼べる) が認められる (cf. 1935年10月、ヒックスは「ピグーは根本的には一般均衡論者」と評した)。 2.ケインズ革命とロビンズ批判 戦間期ケンブリッジで有力な経済学者と言えば、ロバートソンとホートリーである。ともにケインズが『一般理論』(1930) に至る過程で重要な役割を演じている。ロバートソンの『銀行政策と価格水準』 (1926) は『利子と物価』 (Wicksell, 1898) に通じるところがあり、ケインズが『貨幣改革論』(1923)から『貨幣論』(1930) にシフトする誘因になった。ホートリーの著作と批判は、ケインズが『一般理論』に至る過程で大きな役割を果たした。しかもなお両者は『一般理論』に批判的であった。そして両者ともその立論はピグーとも大きく異なっている。理論的には、ケインズの方がロバートソン、ホートリーに近い。この状況をどう理解するかはピグー評価のうえで重要となろう。   ロビンズによるピグーの旧厚生経済学批判が序数的効用理論に基づく「新」厚生経済学への道を拓いたのだが、ここでは次の点を指摘しておく。ロビンズの批判には、プルートロジーへの批判が強く、希少な手段を目的に配分する問題こそが経済学の課題であるとの信念があった。その結果、ピグーが追究したかたちでのプルートロジーまでもが否定されたのは不幸なことあり、この点でピグーの再評価は必要であろう。   最後に翻訳の感想であるが、W&Wが邦文で読めるようになったことは、当該分野の今後の研究触発に大いに有益である。もう少し現代調、繰り返しの抑制 (例えば、「明らかに」「したがって」など) があってもよいと思うが、込み入った論理を有する古典の場合、さまざまな翻訳方針がありうる。ここに監訳者および訳者の労を讃えたい。 (参考文献) 拙著『ケインズの理論』東京大学出版会、2003年。 拙著『ケインズとケンブリッジ的世界』ミネルヴァ書房、2007。
ライオネル・ロビンズ 『一経済学者の自伝』ミネルヴァ書房 I. はじめに 本書は、1971年に刊行されたL. Robbins, Autobiography of an Economist, Macmillanの邦訳である。これがなぜいま邦訳されたのかについては、「監訳者あとがき」に詳しい。著者のロビンズ (1898-1984年) は20世紀を代表する経済学者の一人である。が、彼の実像は、驚くほど知られていない。経済学者でさえ、「諸目的と代替的用途をもつ希少な諸手段とのあいだの関係としての人間行動を研究する科学」として経済学を定義した人として知るくらいである。あるいは(今日的にいえば、ネオ・リベラリスト的な意味での)「自由主義者」の代表格の一人と解されている可能性がある。こうした捉え方が皮相なものであることは、本書を読めば一掃されよう。本書の価値を述べておこう。第1に、当時の経済学、経済が、その第一線で活動した人物の目で描かれている。第2に、ロビンズ自身の言葉を通じ、彼がどのような人物であったのかを直接知ることができる。以下、評者がとくに興味を覚えた3点(人物評、「経済部」、社会哲学)を中心にみることにする。 II. 人物評 ロビンズは、エリート・コースとは無縁の家庭の出である。ロンドン近郊の非国教徒の家系に生まれ、地元の中学校で教育を受けたロビンズは、ユニバーシティ・カレッジ・ロンドンに入学するも、第一次大戦の勃発により軍人への道を選んだ。フランス戦線で負傷、そして休戦後、ギルド社会主義者として活動する。が、やがて疑問を抱き、金融界に就職する決意をする。そのとき、不仲になっていた父親との偶然の遭遇で、彼はLSEへの入学を決めることになった。これが彼の運命を決めることになる。 LSEでの学生生活は大変充実したものであった。就職口のみつからないなか、『失業 - 産業の問題』の第2版を出そうとしているベヴァリッジの助手として働くことになった。その後、オックスフォードの臨時チューターとして働いたが、やがてLSEに呼び戻される。今回は、経済学をめぐる研究・教育の構築という大役が若きロビンズに任せられることになるのである。以降、彼は.経済学史上に燦然と光を放つ人物と長年にわたる交流を続けていくことになるが、ロビンズは本書で臨場感溢れる人物描写を展開している。彼らの性格、行動、業績が客観的・冷静に描かれているとともに、情愛が込めて語られていることが多い。多数の人物が登場してくるが、ここでは紙幅の都合上、とくに興味深かった3名のみを取り上げる。まずベヴァリッジ。いわゆる『ベヴァリッジ報告』で知られる社会保障システムの確立者として有名である。本書でのベヴァリッジ評価はそれほど好意的とはいえない。能力はあるが、独断的にことを運ぶ人物、なにか疑いの目を向けられるところのある人物であったようである。彼が編集した『関税』(1931年)に関する驚くべきエピソードがある。当初、ベヴァリッジは反自由貿易の立場で臨もうとしたが、ロビンズの説得で自由貿易論の立場に急変した。さらに、議論が進むにつれ、ベヴァリッジに関連理論の心得がほとんどないことが判明する。同書への参画はロビンズをして「一生の不覚」といわしめるものであった。また、『ベヴァリッジ報告』(1942年)および『自由社会における完全雇用』(1944年)と『雇用政策白書』(1944年)のあいだの時間的先行関係をめぐる興味深いエピソードが語られている。次にケインズ。最初の出会いは経済諮問委員会の委員としてである。そこで2つの問題点(不況期における公共支出増大の望ましさと輸入自由化政策)をめぐって両者は激しく対立する。そのときのケインズの感情の爆発ぶりがみごとに描写されている。しかし、ケインズとの仲は、その後修復される。とりわけ、「経済部」の部長としてケインズ側について、戦後の重要な政策を成立させていった。何よりも、ブレトンウッズ会議での国際通貨体制をめぐる交渉や、戦後の対米借款をめぐる交渉でのケインズの超人的活動を描写した箇所は感動的である。最後にロバートソン。ロビンズは経済学者としての彼をきわめて高く評価している。そしてロバートソンとケインズとのデリケートな関係、ならびにそれがもたらしたロバートソンへの悲劇的な影響などをみごとに描いている。 III.経済部 LSEの経済学部はキャナンの引退後、誰に託するかが重大な問題となっていた。慎重な人選の結果、A.ヤングに白羽の矢が立てられた。だが、彼は不慮の死をとげ、その後釜として召喚されたのがロビンズである。 彼がLSEをこよなく愛した大学人であることは、本書に横溢している。そして、オーストリア学派との親交を保つとともに、いわゆる「ロビンズ・サークル」を主宰することで、幾多の優秀な研究者を育成していった。 ロビンズは、第2次大戦時に戦時内閣官房にできた「経済部」の第2代部長として活動することで、人生の新たな次元を切り拓いていく。彼はこの立場で、重要な戦時経済の問題に関与していくことになった。経済部は、事実上、ミードが立案者であり、ロビンズはそれを支援する立場にあった。雇用政策、社会保障政策、通商政策などは経済部案(それはケインズ側に立っている)として勝利を収めていくのである。さらに、国際通貨体制や国際通商問題、さらには対米借款交渉などにロビンズは深く関与していったのである。 IV.社会哲学 本書はロビンズの社会哲学を総合的にとらえるうえで非常によい見取り図を提供している。 ロビンズの考えは、249-250ページに集約的に表されている。 (i)「私的財産と市場経済に基づき、適切な法体系のもとで機能する分権的システムによる方が、中央集権システムによるよりも、自由で進歩的な社会を築くための根本的原理を維持しやすいという信念」(下線は評者) (ii) 「しかし、そのような組織体が明白に不適切と分かるような異常な事態を経験し、私自身がそれに代わる統制形態を用いて管理に役立ててきた。」 (iii) 「分権的システムにおいて、相対的な需給面では自律的に効率よく調整する傾向があろうとも、財政や金融に関する補完的手段がなければ、総所得・総支出面ではうまく調整機能[は]働かない」  私見では、これはケインズ的な「ニュー・リベラリズム」に近接している。この点でハイエクの自由論 (自生的秩序論)とは異なる。彼は、素朴な自由主義者ではなく、むしろプラグマティックなアプローチをとっている。戦時経済下での統制経済のあり方についての考え方なども、この側面が顕著である。  V. おわりに  本書にあってもう1つ貴重なもの、それはロビンズが自著について、その概要を当時の自らの問題関心を加えつつ語っている点である。この著作にはいまも私が大事に思う考えが展開されているとか、この著作は執筆したことを後悔しているとか、いったことまで記されていて、経済学者・思想家ロビンズに関心を抱く者にとり格好の入門になっている。 繰り返す余白はないが、以上の説明で本書の価値は明らかであろう。一読を薦める。                              
  経済学の停滞と資本主義の混迷*                        平井俊顕 1. はじめに 本報告で主題的に取り上げるのは、経済学の停滞と資本主義の混迷の2点である。まず、経済学、とりわけマクロ経済学が停滞に陥ってしまった理由をさぐることにする。そのため、この20年間、主流派マクロ経済学として君臨してきた「新しい古典派」、およびそれと微妙な(ライバル的でもあり、似た側面をももつという)関係にある「ニュー・ケインズ派」を方法論的側面から、批判的に検討を加えることにする。 次に、現在の資本主義が陥っている混迷状態とはどのようなものであるのかを、社会哲学的に考察する。そこでは資本主義システムの長所・短所に言及したあと、資本主義は今後いかなる道を歩むべきなのかを探っていくことにしたい。経済学では、こうした点に配慮が払われることは、じつはあまりない。倫理的価値判断を嫌う傾向、数理モデルになじまない探究は「非科学的」であると断じる経済学者が多いことが影響している。しかし資本主義システムはわれわれ人間が主体であるべきものである。そこにわれわれの価値判断で、「よい」「悪い」「公平」「不公平」ということを下していかないかぎり、「より良い資本主義」「より公平な資本主義」の達成は不可能である。 本論を展開するに先立ち、リーマン・ショック後から現在に至る経済学、経済政策をめぐる展開を、アメリカを中心にみておくことが、本論の理解に役立つと思われる。 ほぼ30年のあいだ、バッシングを浴びる傾向1がみられたケインズならびにケインズ的思考に、人々の肯定的な目が集まり出したのは、2008年秋に生じたリーマン・ショックの直後からであった。驚くべき勢いでの世界経済の破綻的展開は、「ネオ・リベラリズム」ならびに(後述の)「新しい古典派」の脆弱性・問題性を露呈させることになった。    信頼を喪失したネオ・リベラリズム・新しい古典派の向こうに人々が見出したもの、それがケインズであった。アメリカにあって、彼に注目の目を向けさせたのは、事実問題として(後述の)「ニュー・ケインズ派」であり、彼らをブレーンとして登場したオバマ大統領であった。また、現実問題として膨大な額の公共投資政策を実行に移すことで、事実上、ケインズ的政策を最初に遂行したのは中国であった。さらにイギリス労働党の政策も明確にケインズ的政策を重視するようになった。到来した経済危機のなか金融政策はとれなくなった。金融システム自体がメルトダウンしたからである。それまでの「新しい古典派」では有効な政策を打ち出せない状況におかれた世界は、1930年代の大恐慌下で果敢な政策を打ちだしたケインズに、自ずと目を向けたのである。 だがこの傾向が長く続いたというわけではない。2010年6月頃を境に ― 一番大きな要因はユーロ危機の発生であった - 世界中の政府は緊縮路線へと大きく舵を切ることになった。この傾向はその後益々強くなり、アメリカでも「ティー・パーティ」運動が勢いを増し、同年11月には中間選挙での共和党の大勝をもたらした。以降、アメリカにあっても大統領の方針は大きな制約を受けることになり、2011年夏の「デット・シーリング危機」で緊縮路線をいわば強制されるようになった(予算統制法)。同年11月下旬の「スーパー委員会」で財政均衡案(向こう10年間に総額1兆2千億ドルの赤字削減)について合意に達することができないという事態が生じた。そして、国防費と社会保障費が強制的に毎年1200億ドル削減されることになったのである(シークエスタ)。 ユーロ危機であるが、その後も解決をみるどころか、一時的なその場しのぎの方策 ― ベイルアウトと金融組織の救済 ― に終始する一方で、ますます超緊縮政策をPIIGSに強要することで、さらに大きな危機を現出させて今日に至っている。 こうした事態の展開は「新しい古典派」が政策の現場で復活したというものではなく、むしろ「ネオ・リベラリズム」というイデオロギーが様々な国の政策現場で復活しているとみるべきであろう。そして他方、諸国民のあいだでは超緊縮政策に反旗を翻す様々の動きが波状的に現出してきている。2013年現在、世界の資本主義は、政策的にも、思想的にも重大な岐路に立たされたまま立ち往生しているといった状態なのである。        2. 経済学の停滞 2.1 「新しい古典派」 ネオ・リベラリズム (= 市場原理主義) を、経済学の分野にあって後押してきたのは、「貨幣的ビジネス・サイクル理論」(代表者はルーカス)や「リアル・ビジネス・サイクル理論」(RBC. 代表者はキッドランドとプレスコット) を代表とする「新しい古典派マクロ」(以下、「新しい古典派」と呼ぶ) である。両者を識別する基本は、ネーミングが示唆するように、変動の起因を貨幣ストックのランダムな変動に求めるのか、それとも (技術もしくは要素量の自律的なシフトによる) 実物経済へのランダムな変動に求めるのか、にある。 本節では、この「新しい古典派」に共通する特質を、方法論的見地から批判的に検討する。彼らは、経済主体の「超」合理性、市場における均衡メカニズムの完全性を当然視する。そしてそれに依拠することで、厳密な理論モデルの構築、ならびにそれに基づき現実の経済の科学的解明が可能である、と主張してきた (「経済政策の無効性命題」もこのコンテクスト下にある)。 だが、現代の世界経済危機に直面して彼らのモデルが何の役にも立たないものであったことは周知の事実である。なぜそうであったのか。それは彼らが依拠する経済学の方法論が現実離れしたものだったからである。このことを5つの論点から説明していこう。 代表的主体 ミクロ的基礎から厳密な理論構成をもって組み立てられているのが「新しい古典派」のマクロ・モデルであるという見解は、当の論者によって強く主張されてきたところである (いわゆる方法論的個人主義の立場)。 だが、実際に提示されてきたモデルは「代表的主体」の最適化行動 (とりわけ「代表的家計」による期待効用の極大化) 理論に依拠するものであって、ミクロ的基礎から厳密な理論構成をもって組み立てられたものではない。 「代表的家計」仮説に立って(しかも「基数的効用理論」が採用されている)、そこから出発することが科学的・演繹的手法として最も重要なものであるという考えには、大いなる疑問が投げかけられて然るべきである。それは「科学的事実」ではなく一部理論家の「信仰」にすぎないからである。 第1に、現実の家計の行動がなぜ効用関数で表現されなければならないのか、第2に、その効用関数は、なぜ無限の期間におよぶ労働とレジャーの選択を勘案しつつ、その期待効用を最大化するかたちで定式化されなければならないのか、第3に、効用はなぜ基数的効用で捉えられるべきなのか、第4に、その効用の単位は何なのか、第5に、個人から出発するといいながら、それは「代表的」という言葉を用いることで、ただ集計化問題を回避しているだけではないのだろうか、等々の疑問が直ちに浮かんでくる。 これらの疑問にたいし、われわれは、説得的な回答を得ることはなく、ただその受け入れを強要されるのみである。このような行動をとる家計が経験的にみてどこにも見当たらないのに、なぜこれを経済変動分析の基礎に据えなければならないのだろうか。数学の場合、納得のいく「公理」から厳密な演繹性がスタートするのにたいし、「新しい古典派」の場合、そのような行動をとることが考えられない経済主体を措定することから理論がスタートしている。 この点にたいする明快な批判はフーバー (Hoover, 2006, pp.5, 7, 11) によって行われている。彼は、マクロ経済学のミクロ的基礎という着想に懐疑的であり、とりわけ代表的家計の想定を問題視している。この想定にたいする、より内在的批判としてカーマン (Kirman, 1992, p.134) もあげておこう。 合理的期待形成 —「合理」性の意味 「新しい古典派」を最も特徴づけるのは (ムースに始まる) 「合理的期待形成」仮説である。この仮説を採用する研究者は、 彼らの意味での「合理的に期待する」個人を措定し、その個人がマクロ構造についての情報を有するとの前提に立って、(例えば) 価格についての期待を形成する、との考えに立つ。 例えば、ルーカス・モデルでは、経済主体のとる「合理的期待」は次のように定式化されている。経済主体は、得られる限られた情報を最大限に利用する能力を有しており、またその情報の客観的確率分布を予め知っている、と想定される。さらに経済主体は、経済が繰り返し循環を経験すること、ならびにこの循環が予想収益率を歪めること、をも十分に知っている、と想定される。他方、経済主体は、実物投資の機会の一時的特性により、偽りの価格シグナルに反応する危険と、有益な価格シグナルに反応することに失敗する危険とのあいだでバランスをとることを強いられる、と想定される。こうした想定のもとに、経済主体は、(感知された相対価格を含む) 実物変数に基づき需要・供給に関する意思決定を行う、とされる。 マクロ構造についての情報を経済主体が保有するという想定を、現実の経済分析にもち込むこと自体、そうしたモデル構築の方法に疑問を投げかけるに十分である。経済主体にこうした能力を課すのは、「合理的」というべきではなく「超合理的」というべき類である。経済主体はマクロ経済についてのモデルを周知しており、しかも関連する確率分布を知っているという前提で予想形成を行うと想定することで複雑な動学モデルが構築されたからといって、それはいかなる意味で「厳密」なものといえるのであろうか。 「合理的期待」という着想に依拠するモデルは、純理論の場だけで問題になったのではない。それは、政策論争の場で脚光を浴びたのである。経済主体は、政策の将来的効果を合理的に予測する能力をもつがゆえに、裁量的政策は無効になる、という「政策無効性命題」がそれである。これは裁量的政策の有効性を否定するのみならず、経済政策全般の無効性を唱えるイデオロギーを促進させることになったのである。 効用理論 — 倫理学との脆弱な関係 「新しい古典派」が想定する代表的主体の典型である代表的家計は、基数的な期待効用を極大化すると想定されている。 功利主義哲学が効用理論のかたちで経済学に入り込んだのは、ジェヴォンズの『経済学の理論』 (1871年) においてであった。功利主義の中核を占める「快苦原理」が、経済主体の行動の説明原理として経済学の中核に導入されたのである。この着想が、130年後の「新しい古典派」にあっても、「代表的家計」の行動原理として中枢的役割が付与されたのである。しかも、長年、効用関数は序数的であるべきとされてきたのに、ここでは基数的効用理論が復活・採用されている2。 現代において、効用理論が大きな影響力をもつに至った大きな契機として、ノイマン=モルゲンシュテルンの『ゲーム理論と経済的行動』(1947年) における「合理的意思決定理論」— 期待効用最大化仮説としての意思決定論 — の出現が考えられる3。近年におけるこの理論の普及が、「新しい古典派」による「基数的な期待効用理論」の採用と何らかの関係をもっているものと思われる。 ところで、ジェヴォンズによる経済学への「快苦原理」の導入があった後、功利主義と効用理論のあいだの関係が深く追究されたのかというと、じつはそうではなかった。哲学者は、功利主義の是非をめぐり激しい論争を展開してきたが、効用理論を採用する経済学者が、その根拠を問うことはなく、また他の経済学者による批判に応じるということもなかった。功利主義をめぐる議論と効用理論をめぐる議論は、独立した道を歩んできた感が強いのである。 この点に関して、ケインズの「エッジワース論」(Keynes, 1926) に、興味深い指摘がみられる。功利主義的倫理学および功利主義的心理学が健全なものなのかをめぐる懐疑である。功利主義との関係が曖昧であるにもかかわらず、そして「もとの基礎 (功利主義的倫理学・心理学のこと) の健全性を徹底的に探究することなく」経済学者が効用理論を信じるに至っている事態に、ケインズは重大な疑義をはさんでいる。この状態が、じつは現在にも妥当しており「棲み分け」が行われている。 功利主義的倫理学自体はその後、複雑な展開をみせてきている(例えば、ハルシャーニやゴティエの立論4)。だが、そうした展開が、代表的家計による基数的な期待効用理論に影響を与えているとはいえない。さらに、哲学者が功利主義をいかに批判しても (例えば、ロールズやセン)、「新しい古典派」の経済学者がそれを聞き入れて効用理論に頼ったモデルづくりを変えるという話も、寡聞にして知らない。効用理論を駆使する経済学者の陣営の外にあっては、効用理論・功利主義に批判的な論陣を張る経済学者に事欠いてきたというわけでもない(例えば、ヴェブレン、ホブソン、カッセル、ミュルダール、ケインズ、ホジソンなど)。にもかかわらず、正統派の経済理論にあって、「もとの基礎の健全性を徹底的に探究することなく」効用理論が重要な礎石として用いられてきているという事実、しかもこの傾向をいや増しに強めて近年にまで至っているという事実、が存在する。ハチソンは、こうした状況を方法論的に問題視しようとすると、「経済学は方法論という哲学に関わる必要はない」(Hutchison, 2000, p.330) と反応される、という知的環境を指摘していた。 実証について マクロ・モデルにたいしては対応するマクロ・データが取り上げられ、そしてそれらをもとに実証研究が行われる。そしてその結果が非常に有意である(もしくは有意ではない)、との結論が出てくる。このさいに用いられる方法が「カリブレーション」である。これは上記のマクロ・モデルのままでは実証に用いることが難しいため、モデルを線型にし、さらにさまざまなパラメーターを過去の研究成果から借り入れ、それらをもとにして内生変数の時系列を算出する。そしてこれを現実のマクロ・データと照らし合わせ、それに合致する度合いが高ければ、このモデルは現実のマクロ経済をよく代表するものになっていると判断する。そうでない場合、マクロ・モデルを修正し、そのうえで再度、内生変数の時系列を計算しなおし、現実のマクロ・データとの類似度をチェックする。 だが、非現実的なミクロ的経済主体の最適化行動に依拠して演繹的に導出されたマクロ・モデルは、現実のマクロ経済とのあいだでの実証的有意性を検証するうえで、どのような意義をもつといえるのであろうか。一方で、ミクロ的行動仮説から演繹的方法で導出されるマクロ・モデルが「論理」として是認され、他方で、マクロ・モデルの有意性が「実証」を基準に評価されるという姿勢を取っているという意味で、「新しい古典派」には一種の論理実証主義的影響の残滓が認められる。 その弁明として用意されそうなのは、「仮定の現実性は問題ではない。問題は、そうして構築されたマクロ・モデルが実証的に有意な結果を得るかいなかである」といったものであろう。つまり、実証的箇所は実証主義的なイデオロギーで処理されるのである。そこにフリードマン (Friedman, 1953) の影が見え隠れするといえるのかもしれない。 「新しい古典派」は1990年代の、とくにアメリカ、イギリスの経済成長にどのような貢献をなしたといえるのだろうか。あるいはそれは経済学者のあいだでの知的遊戯にすぎなかったのであろうか。筆者には後者であったように思われるのだが、むしろ重要なのは、彼らが貢献したのはネオ・リベラリズムを「知的権威」の側面から強烈に擁護した点に求められる。 社会哲学 「新しい古典派」の経済学者は、市場経済における価格メカニズムの機能 (需給は即座に一致する) に絶大なる信頼を寄せてきた。そして社会哲学的には、自由放任主義の立場を標榜している。彼らは裁量政策を徹底して批判し、またそれまでのクライン=ゴールドバーガーに代表されるケインズ的計量経済学に基づく予測に激しい批判を浴びせてきた (いわゆる「ルーカス・クリティーク」)。 完全雇用の前提 (失業は自発的なものに限定)、セイ法則の当然視、パレート最適概念の重視、(期待) 効用理論の重視、「貨幣数量説」の承認、経済主体に超合理性を認めるアプローチ(および関連する「政策無効性命題」)、すべての経済現象は均衡理論で捕捉できるという信念、「自由放任思想」等々を「ハード・コア」とする経済学が、理論的かつ社会哲学的に経済学の大きな潮流となったのは、 新古典派の時代になってから、じつに初めてのことである。このことは注意に値する現象である。ある意味で、これは「新古典派総合」のなかにあった「新古典派ミクロ経済学」の要素のみを、新しいかたちで再構築したものといえるのかもしれないが、社会哲学的には強力なネオ・リベラリズムが通底している。 2.2 「ニュー・ケインズ派」 「新しい古典派」はケインズ理論、ケインズ的政策、およびケインズ的社会哲学の全面的ともいえる否定のうえで、上記のような理論モデルならびにそれを用いて現実の経済分析を行った。そうした動きが、とりわけアメリカで勢いを増すなか、批判されるサイドにあったケインズ諸派はどのような動きをみせたのであろうか。本節では、そのなかの1つ、そしてアメリカで大きな影響力をもってきた「ニュー・ケインズ派」を取り上げる5。 ここでニュー・ケインズ派を取り上げるのは、次の理由による。第1に、ニュー・ケインズ派はオバマ政権の経済政策を支えるブレーンである。第2に、ニュー・ケインズ派は系統的に「新古典派総合」の時代の「オールド・ケインズ派」とのつながりがある。彼らは「IS-LM理論」に寛容であり、かつ社会哲学的にみて、ケインジアンのサイドに立っている。 ニュー・ケインズ派は、価格の均衡化作用に懐疑的であり、「非自発的失業」の存在を承認し、「セイ法則」や「古典派の二分法」を否定している点で共通しており、「新しい古典派」とは明確に対抗的なスタンスを取っている。そして社会哲学的にみても、政府の裁量政策を肯定する立場に立っている (つまり、「政策の無効性命題」を否定する)。かくして、「ニュー・ケインズ派」は「新古典派総合」を継承しているといえるのであり、それゆえその考えは、しばしば「新しい新古典派総合」と呼ばれることがある.  ニュー・ケインズ派は、市場経済における価格メカニズムの不全性を強調する立場であり、さまざまな価格硬直性が市場経済に生じているため、マクロ的な有効需要の減少が産出量や雇用量の減少がもたらされる、と論じる。彼らは、この価格の硬直性がなぜ生じるのかをミクロ的基礎から問うのであるが、そこからさまざまな仮説が登場してきている。価格の硬直性をめぐる「メニュー・コスト」仮説、賃金の硬直性をめぐる「効率性賃金」仮説、利子率の上方硬直性6をめぐる理論などが代表的なものである。 「ニュー・ケインズ派」は、「新しい古典派」によるケインズ派攻撃のなか、守勢に立たされたケインジアンの中から、それに対抗しようとして生まれたものであるが、次第に、「新しい古典派」が開発した「合理的期待形成」、「代表的経済主体」、「動学的一般均衡」といった基本的なツールを積極的に取り入れることで7、一大勢力を形成していく。ニュー・ケインズ派によって展開された総合的なモデルとして、「新しいIS-LMモデル」(もしくは「IS-AS-MPモデル」) と呼ばれるものがある。これは上記のツールを積極的に取り入れたモデルであり、その名称にもかかわらず「新古典派総合」の時代のオールド・ケインズ派による「IS-LMモデル」との継承性はほとんど認められない。そして「新しいIS-LMモデル」が現在の世界経済危機の分析に有効な洞察を示すものになっているのかという点には、大きな疑問がつきまとう。 それは、すでに指摘した「新しい古典派」のもつ欠陥を背負い込んでいるからに他ならない。 こうして「ニュー・ケインズ派」は、一面でケインズ的社会哲学を有し、オールド・ケインズ派との親近性を有し、その立場からオバマ政権のブレーンとなっている。だが、他面で「新しいIS-LMモデル」という「新しい古典派」のツールを用いた理論展開を行う、という「複雑な様相」をみせてきている。いずれにせよ、オバマ政権下でのケインズ的な経済政策を推進してきたのは、この「ニュー・ケインズ派」なのである。 3. 資本主義の混迷            - 社会哲学的考察の必要性 第2節において、この20年間、マクロ経済学の主流派として君臨してきた「新しい古典派」ならびにその対抗馬として「新しい古典派」の分析ツールを大幅に取り入れてきた「ニュー・ケインズ派」の経済学、経済分析が、現実の資本主義システムを分析するには、その非現実的な仮定ゆえに、そしてそれにもかかわらず、それを用いて資本主義経済の変動を説明できるとして用いられる奇妙な実証方法ゆえに、きわめて問題の多いものであることをみてきた。  これらの権威がリーマン・ショックによって潰れたわけであるが、真の問題は、リーマン・ショックの生じるはるか前から存在していた、という点である。 ネオ・リベラズムが80年代後半から時を追うにつれて強くなるなか、90年代には、いわゆる金融の自由化が進展し、それとともにSBSの増大、ヘッジ・ファンドの投機的行動が激しくなるなか、資本主義システムは、不安定の度合いを増していった。そしていくどとなく深刻な振動が引き起こされていったのである。この時期に、支配的であったマクロ経済学が「新しい古典派」であった。向き合う資本主義システムはきわめて心理的、投機的な動きによって揺さぶられ、ヘッジ・ファンドも諸国民も投機的行動に狂乱しているなか、「新しい古典派」は既述のような仮定をもとに、既述のような実証的手法により、資本主義システムの変動を分析し、そしてそれは十分に耐えうるものであるという自負すら示していたのである。まさにドン・キホーテ的行動である。こうした批判の目は、重要な要素を「新しい古典派」から取り入れることになった「ニュー・ケインズ派」にたいしても向けられて然るべきであろう。  いま、眼前の資本主義システムをどのような理論を用いて分析することができるのかを、本当に自信をもっていえるマクロ経済学者はいないように思われる。いやそうした分析を行う以前に、眼前の資本主義システムがどのような特徴を有しており、それにたいしてどのような評価を下していくべきなのかという、いわば社会哲学的考察を行うことが重要であろう。本節では、資本主義システムの長所・短所を述べたうえで、このシステムのあり方を問うことにしたい。 3.1 資本主義システムの長所・短所 資本主義システムは成長衝動を内蔵するシステムであり、その爆発力が資本主義化を促進すると同時に既存システムを破壊する。それは不安定性を伴う動態的なシステムである。その「成長衝動」・「動態性」は、「市場」と「資本」を通じて実現される。さらに、「動態性」を真に担うのは企業である。企業は不確実な未来に向けて、莫大な資金・人材を投入して、商品・市場の開拓に乗り出していく。 「動態性」、「市場と資本」、「企業」は、資本主義システムのもつ長所である。市場という巨大なネットワークを通じて経済活動が展開されることで、経済主体は自主的行動を許され、無数の財・サービスが生産・交換され、さらには企業の活動を通じ経済の動態的発展が実現される。 他方、資本主義システムには深刻な短所も認められる。第1に、動態的であるがゆえの不確実性・危うさ・脆弱性を有する。第2に、固有の「アバウトさ」(「あいまいさ」)を有する。第3に、効率性・自由を追求するあまり、不平等・格差の拡大を放任する傾向を有する。 以上、資本主義システムの長所・短所を原理的に挙げてみた。次に、現在の資本主義システムが抱えている3つの問題点を取り上げる(これらは多かれ少なかれ、上記の短所に関係している)。 バブル現象 - 囚われる企業・人 バブル現象とは、経済が何らかの要因で過熱し、ついには政府がそれを抑制しようとしても不可能となり、爆発・炎上してしまう状況を指す。こうしたことは昔から生じており、17世紀のオランダで起きたチューリップ・バブル、18世紀ヨーロッパで生じた(ジョン・ローの名とともに知られる)株式バブルなどがある。 経済学では、バブルは例外的現象として処理されてきた。それは資本主義の抱える本質的問題ではないとされ、経済学の主要課題は正常なプロセスの分析にあるとされてきた。さらに景気変動や失業も、20世紀初頭になるまで例外的現象とみなされた。「古典派の二分法」や「セイ法則」にたいする経済学者の信頼は厚く、資本主義システムにおける失業問題への真正面からの取り組みは、ケインズの登場を待たねばならなかった。 それに、この20年、経済学の主流はケインズ以前の状況に戻る傾向が顕著であった。「新しい古典派」は、古典派の二分法やセイ法則を擁護し、非自発的失業の存在を否認するスタンスに立って景気変動を論じてきた。 皮肉なことに、同期間、実際の資本主義システムは不安定さの繰り返しと増幅に見舞われてきた。代表的なものに、80年代末から90年代初めにかけての日本のバブルとその破裂、90年代中葉から21世紀初頭にかけてのアメリカのドットコム・バブルとその破裂、2000年代のアメリカの住宅バブル、サブプライム・バブルとその破裂がある。いずれの場合も、バブルはマネー・サプライの異常な膨張とそれを利用しての過熱した投機活動に、またその破裂はこうした動きを抑制することに失敗した当局の政策に、起因している。 「新しい古典派」は、こうした事態への基本的認識を欠いている。資本主義システムのもつ「不安定さの繰り返しと増幅」を全面にすえた分析がいまほど必要とされている時はない。 バブルが経済システムにとり危険なのは、それが経済社会で活動する人間の心性を「過剰なまでに」突き動かすからである。ライバル企業が、不動産や株式・金融資産などの異常な高騰を利用して巨額の利益を得ているとき、「バブルは必ず破裂する」といって座していることは、企業組織のトップにあってはほとんど許されないであろう。ライバル他社に比べ財務・給与・配当状況の悪さが際立つことになり、経営幹部、株主からの激しい不満が押し寄せてくるからである。  社員にあっても、同僚が多額の注文を取り付けているとき、「バブルだから必ず破裂する」といって客の質を選別することは許されない。結果は金額でのみ評価される環境にあるから、給料・ボーナスの大幅カットを受けたり、最悪の場合、解雇されたりすることであろう。  こうしたことは人間組織に通底しており、ライバルが儲けているときに静観することはできないという人間の心性に根ざしている。バブルが続けば、多くの人はそのなかで踊り、少なからぬ人は踊り狂うことになる。そのなかで、人は知らず知らずのうちに、モラル・ハザードの餌食になっていく。バブルは人間性を狂わせる。すべての人が濡れ手に粟的な利殖の獲得に熱中し、そしてその過程で生じる明白な不正行為 (例えばLBOや禿鷹ファンド的行為) までもが正当化されるような倫理観(「どのような手段を使おうとも、儲ける者が勝者、路頭に迷うものはビジネス才能に欠ける者」といった倫理観) が横行するようになる。 それゆえ、バブルの抑止を企業家・個人・市場に委ねることはできない。それは政府に求めるしかないが、当の政府がバブルの暴走を抑止できていない。とりもなおさず、これは資本主義システム・政府の機能不全である。それゆえ、なぜ政府機能が不全なのかを探り、資本主義システムを制度的に改革することが必要なのである。 リーマン・ショックに端を発する今回のアメリカのバブル経済の崩壊は、金融の自由化・金融のグローバリゼーションが招来したシャドウ・バンキング・システム(以降、SBSと略記)の拡大に大きく由来する。野放図な金融の自由化により、その暴走を止めることができないようなシステムの展開を許容していったからである。バブルの暴走を阻止し、資本主義システムを制御可能にするためには、金融システムの改組は必須である。アメリカで2010年7月に成立した「金融規制改革法」はこうした認識に基づいている8。 腐敗と不正 資本主義システムは、市場を通じての財・サービスの交換を基本にするため、効率的・合理的であり、かつ参加者の自由・対等性・公平性が保証されている。だが、他のシステムより優れているとはいえ、腐敗と不正から免れているわけではない。 1つは帳簿操作である。資本主義システムにあって、すべての経済活動は貨幣で評価され記帳され、それらの集計で経営状況が判明する。だが、帳簿にはいろいろな落とし穴が潜む。例えば、本来は赤字である業績を黒字にみせる様々な操作手法が工夫されており、経営者が巨万の利得を手にすることもしばしば生じている。こうした行為を止めることは、かなり難しく、その利益が合法的なのか、非合法的なのかの識別は、ほとんどの場合不可能である9。それに何よりも非合法であると考えられるとしても、訴追手続きが必要となるわけで、たとえ国側が勝利したとしても氷山の一角である。  もう1つは金融に関係する。資本主義システムは金融抜きには成立し得ない。実体経済がある程度の大きさになると、生産・サービス活動に必要な資金は外部に依存せざるを得なくなり、そこに金融の存在価値・本来的役割が存する。 だが、金融は不正を働く余地のきわめて大きい分野である。金融がより大きな自由を享受するにつれ、不正を働く余地は拡大していく。金融に関連する腐敗・不正行為の代表的なものとして、次の3点をあげておこう。 (i) 強制貯蓄 (信用を創出する権利を手にしている金融機関が、必要とする財・サービスを思いのままに取得できる方法) (ⅱ) 株式市場の悪用 (インサイダー取引、デマ情報を流しての株価操作、LBO、M&Aなど) (ⅲ) 市場の不存在と不透明化による利益の収奪 (近年、粗製乱造された「証券化商品」) 格差問題 資本主義システムは経済活動の基盤を市場におく。経済学者は、そのメカニズムをモデル化した一般均衡理論に絶大なる信頼を寄せてきた。だがこのモデルは財産の分配状況を所与としたうえでの立論であり、分配状況を問うわけではない。これと関連するが、経済学者は「正義」を「交換的正義」としてとらえる。市場メカニズムが交換という行為により、「正義」を実現するという考えである。この考えでは、ストックとしての分配状況への価値判断 (「分配的正義」)は排除されている。「市場の自由な作用に委ねれば、経済システムは効率的になる」(「パレート最適」) という思想がある。これも、財産の分配状況は所与として論じられている。  財産の分布(ならびに所得の獲得方法)に大きな差がある社会にあって、市場の自由な作用のみに委ねる場合、実際には、一層の格差を生み出しがちである。この30年間、「市場原理主義」(「自由放任主義」の現代版) に駆り立てられた世界は、その結果、大きな所得格差(貧富の格差)をもたらしてきた。このことは、ジニ係数その他の数値で明らかになっている。先進国アメリカ、イギリスなどでの所得格差の拡大は著しいし(特に、金融セクターへの富の偏在)、「新興国」BRICSにおいてはさらに一層顕著である10。 3.2 資本主義システムのあり方を問う ― 「適正な資本主義」と「不適正な資本主義」 「適正な資本主義」・「不適正な資本主義」という概念は、「非科学的」との批判を受けるであろう。「適正さ」という基準は曖昧さを逃れられないからである。だが、それでもなお、この概念は現実の資本主義システムを捉えるうえで不可欠である11。 ここでは「適正な資本主義」を標榜するうえで重要と思われる4つのポイントを取り上げてみよう。 「金融部門」と「実体経済部門」の「適正な」あり方 資本主義システムは本性的に動態的である。成長衝動を秘める企業は、必要な資金を外部から調達する必要がある。金融部門はそのために要請されてくる。 金融部門は、本来的には、実体経済部門の円滑な展開・成長のために必要とされている。だが、金融部門はそれと無関係に、専ら自己利益獲得のために活動しがちである。 貨幣・信用を売買する市場は、自己増殖していく可能性を秘めている。信用創造自体、中央銀行や金融機関が「恣意的に」生み出すことができ、しかもそれが公益のためになされる保証はどこにもない。資金調達の手段である債券や株式も、それがストックとして蓄積されてくると、投機的対象に組み込まれる。近年異常な拡張をみせた「証券化商品」になると、資金調達の手段からはほど遠い様相を呈している(「GDPを「強奪する」手段」とすらいえる)。 実体経済部門とかけ離れ、金融部門がGDPの益々多くの割合を掌中にするという近年の傾向は「適正な資本主義」ではない。金融市場の規模とGDPとには自ずと「適正な比率」があるべきであり、それを逸脱する状況を防止すべく、政府による監視は不可欠となる。 「不適正な資本主義」が横行するなか、忘れ去られた感が否めないのは、労働倫理観の崩壊である。資本主義システムには、「勤勉な労働」(額に汗して働くことで収入を得る)と「濡れ手にあわ的労働」の2種類が存在する。前者は、ウェーバーのプロテスタンティズム的精神に属する。後者は絶えず他者をだます、他者にジョーカーを渡す行為への誘惑を宿している。いや宿しているだけではなく、そうした行為を正当化すらする倫理観である。金融工学の美名のもと、誰も責任をとることのない証券化商品を氾濫させても、自らがジョーカーを引かないように立ち回ればよい、だまされた方が無知なのだ、といった倫理観である。 ビジネス・エシックス 資本主義システムの動態性を牽引するのは企業である。企業は利潤が見込めそうな領域を開拓・創造していくことで、自らを成長させるとともに、資本主義システムの発展を牽引していく12。 この点を考察するさいに軽視されがちな問題がある。今日の資本主義システムでは、大多数の人間は企業組織に組み込まれている。それゆえ、これら企業はいかなるビジネス・エシックスをもって活動しているのかという問題が重要なのである。 この点に関連して、「証券化商品」の多層的展開、レヴァリッジの手法、ヘッジ・ファンドの活動などを通じ、SBSがGDPの多くのシェアを奪うまでになった資本主義システムのあり方が問われるべきである。これらの活動が巨大化することで、ビジネス・エシックス自体がそれに翻弄されているという事態が、大きな影を落としているからである13。 「自己責任に基づいた意思決定によって未来を切り拓く、失敗した場合は市場で淘汰されることで自らの責任をとり退出する、こうした行動により、資本主義システムは人間社会に効率性・自由・正義・成長を達成できる」という考えが、いやというほどマスメディアを通じ宣伝されてきた。これは「市場原理主義」がつねに唱えてきたものだ。しかるに、その先頭を走ってきた大企業が、「大きすぎて潰せない」(TBTF) を楯に政府に支援を要請し、しかもメリル・リンチやAIGのボーナス問題にみられるようなモラル・ハザードを露呈させてきた。こうした不正・堕落・利己主義が、先進国の企業内に蔓延しているという事態は、現在あるようなビジネス・モデルでは、けっして資本主義の将来は任せられない、ということを示唆する。 自由と規制 資本主義システムの利点として、「市場」で自由な意思を有する経済主体が取引を行えるという点があげられる。確かにそれは、他の経済システムにつきまとう恣意性を免れることができる利点である。とはいえ、だからといって無制限な自由化が資本主義システムを最善にする保証はどこにもない。 個人の自由は「可能なかぎり」重視されるべきである、というのは当然である。プライバシーへのいかなる人、いかなる機関、いかなる社会、そしていかなる国家の介入・干渉も拒否されるべきというのも然りである。だが、そこにはつねに、「可能なかぎり」という条件がつく14。個人や企業の自由があまりにも大きくなり、例えば、1998年のLTCMにみられたことだが、100人程度のヘッジ・ファンドの失敗が世界の金融システムを瓦解させるに至るまでの自由な行動をとることは許されるべきではない。自由には社会の安定を損なわないという制限があって然るべきである。「相対取引」 (OTC) が極端になると、その不透明さが「市場の不透明さ」、あるいは「市場の不存在状況」を増すことになり、経済システムが混乱に陥る危険性は高まる。  わたし達は自由化のもつ意味、意義を立ち止まって考えるべきときにきている。近年、マスメディアやネオ・リベラストの唱道のまえに、わたし達は「自由」という言葉、「規制緩和」という言葉の魔力に呪縛されてきた感がある。だが、わたし達は自由とともに、「平等・善・徳」がそれといかなる関係にあるべきかを考える必要がある。無制限の自由では平等・善・徳という問題に対処することはできない。無制限の自由化が「不適正な資本主義」をもたらすような場合、「適正な資本主義」という原点に立ち戻る必要がある。 政府の役割 これまで今日の資本主義システムがいかなる問題を抱えており、それにたいし、どのような価値観をもって対処していくべきかをみてきた。なかでもビジネス・エシックスは、国民の倫理観、価値観と深く関わっており、その是正は教育を通じてなされていく必要のある問題である。  それ以外の点については、(資本主義システムがもつ不可避的な問題はさておくとして) 政府の登場を待たねばならない。すなわち、資本主義システムは市場での取引に基盤をおくべきであり、かつ資本の自由な移動が保証されている必要があるが、それは無制限の自由の容認ではありえないからである。  政府は無制限の自由が引き起こす資本主義システムの暴走を制御できるような、さまざまの制度を設計していく責務がある。とりわけ、金融部門の暴走が実体経済部門を無視し、GDPのうち取り分の拡大を自己目的化することのないような制度設計が望まれる。「適正な資本主義」の実現のためには、貧富の格差拡大防止のための施策が打ち出されることも、政府には要請されている15。 4. むすび 本報告の主要な結論は2点である。 第1は、「新しい古典派」ならびに「ニュー・ケインズ派」の経済学、経済分析が、現実の資本主義システムを分析するには、その非現実的な仮定ゆえに、そしてそれにもかかわらず、それを用いて資本主義経済の変動を説明できるとして用いられる奇妙な実証方法ゆえに、きわめて問題の多いものであるという点である。 第2は、リーマン・ショックのはるか以前から、金融の自由化が急速に進展するなか、実際の資本主義システムはSBSの巨大化により、きわめて不安定なものになる傾向を強めていたという事実認識に立ち、資本主義システムは抱えている問題を社会哲学的に問い正そうとした点である。資本主義システムが無条件の自由化によっては非常に危ういシステムに堕していく危険性がある。それは財産格差・所得格差を著しく拡大させてきた。それは金融システムをTBTFで救済し続けることを通じ、モラル・ハザードを引き起こしてきた。それは金融工学による証券化商品の粗製乱造により、GDPの「分捕り」を自己目的化する行為を増長させ、そのことが資本主義システムの「ビジネス・エシックス」(経営倫理と労働倫理の双方を含む)を歪めてしまった、等々である。 本報告で述べたことは、今日の経済学および資本主義システムが陥っている問題点の指摘に目を向けようとするものであって、それ以上のものではない。だが、問題の適正な解決は、この延長線上に見出されると思うのだが、いかがであろうか。 1) 誤解されがちだが、これは経済学のある分野、およびマス・メディアでの話しであって、ケインズへの多様な領域からの研究・関心は、じつは恒常的に展開されてきている。この点は、冒頭で強調しておきたい。 2) 効用を測定するという実験は、これまでに幾度も行われてきている。例えばよく知られているものにI. フィッシャーによるものがある。 3) サヴェッジ (Savage, 1954) は「デ・フィネッティの主観的確率に関する研究と、1940年代に展開されたフォン・ノイマンとモルゲンシュテルンの「ゲーム理論」における効用の分析を総合させるかたちで、… 一つの体系を構成することに成功した」(伊藤, 1997, p. 212)。デ・フィネッティの理論はラムジーの理論 (Ramsey, 1926) と類似しており、通常、「ラムジー = サヴェッジ理論」と呼ばれる。 4) 松嶋 (2005, 第5章) を参照。 5) 戦後のマクロ経済学の展開をめぐるケインズ諸学派の展開については、平井 (2003, 第17章「ケインズ解釈と戦後マクロ経済学の展開」)を参照。 6) 「失われた10年」での わが国の政策論争にあって利子率政策を重視するニュー・ケインジアンが影響力をもつことはなかった。それはオールド・ケインジアンと経済理論的基礎をもたない構造改革派によって展開された。 7) ただし、「ニュー・ケインズ派」にあっても、スティグリッツは「合理的期待形成」や「代表的経済主体」には批判的・否定的なスタンスをとっている。 8) だが、この問題は主要国間の協力なくして解決することのできない問題である。 9) 不正経理はその一例であり、2000年頃に発覚したエンロン事件はその代表的事例である。会計監査法人アーサー・アンダーソン会計事務所はそれへの加担のため、倒産に追い込まれた。 10) 経済成長が停滞してきたわが国でも、このことは妥当する。アメリカの場合、2006年度、1%の最富裕層が全所得の22%を占め、過去80年間で最大になっている。また1979-2002年の税引き後所得は、1%の最富裕層の場合、111%上昇したのにたいし、その他の階層では第2階層の48%が最高で、最下層の場合5%である(CBOデータ)。最近のNYTとFootnoted.comによるゴールドマン・サックスをめぐる調査では、リーマン・ショック後も巨額の所得・資産を享受しているさまが明らかにされている(2011年1月18日付)。今日、格差の是正の必要性とそれを解決できない場合に陥る資本主義世界の危機を訴える声が、世界中の指導者のあいだで日増しに強くなっている(『エコノミスト』[イギリス]2011年1月20日号)。 11) 人間の使う概念はすべて曖昧さを逃れていない、という哲学的問題はさておくとしても、である。 12) リカードウ[1817]の理論は、このことを前提に展開されている。 13)『フィナンシャル・タイムズ』(2009年3月13日)ではアングロサクソン型の企業経営への経営者自身の反省の弁が取り上げられている。『オブザーバー』(2011年1月16日)で、スイスの銀行家エルマーによる世界中の資産家やヘッジ・ファンドの税回避などをめぐる情報が、ウィキリークスに渡されるというニュースが流れた(事実、翌日渡された)。  14) ミル[1859]における「自由」概念を参照のこと。 15) Center on Budget and Policy Prioritiesの研究によると、2009年に実施された景気刺激策は450万人の人々を貧困から救った(『ニューヨーク・タイムズ』 1月18日号)。緊縮の掛け声が強くなるなか、忘れてはならない貴重な情報である。 参考文献 Akerlof, G. and Shiller, R., Animal Spirits, Princeton University Press, 2009. Bateman, B., Hirai, T. and M.C. Marcuzzo eds., The Return to Keynes, Harvard University Press, 2010. Friedman, M. ‘Methodology of Positive Economics’ in Essays in Positive Economics, University of Chicago Press, 1953. Giacomin,A. and Marcuzzo, M.C. eds., Money and Markets, Routledge, 2007. Hirai, T., Marcuzzo, M.C., Mehrling, P. eds., Keynesian Reflections – Effective Demand, Money, Finance, and Policies in the Crisis, Oxford University Press, 2013. Hoover, K., New Classical Macroeconomics, Basil Blackwell, 1988. Hutchison, T., On the Methodology of Economics and the Formalist Revolution, Edward Elgar, 2000. Jevons, S., The Theory of Political Economy, Macmillan, 1871 (小泉信三他訳『経済学の理論』日本経済評論社、1981年). Keynes, J.M., ‘Francis Ysidro Edgeworth 1845-1926’, Economic Journal, March, 1926. Keynes, J.M., The General Theory of Employment, Interest and Money, Macmillan, 1936 (塩野谷祐一訳,『雇用・利子および貨幣の一般理論』東洋経済新報社, 1983年). Kirman, A.P., ‘Whom or What Does the Representative Individual Represent?’, Journal of Economic Perspectives, Spring, 1992, 117-136. Krugman, P., The Return of Depression Economics and the Crisis of 2008, Penguin Books, 2008. Kydland, F. E. and Prescott, C., ‘Time to Build and Aggregate Fluctuations’, Econometrica, 1982, 50-6. Lucas, R., ‘An Equilibrium Model of the Business Cycle’, Journal of Political Economy, 1975, 83-6. Mankiw, N. G. and Romer, D. eds., New Keynesian Economics, MIT Press, 1991. Von Neumann, J. and Morgenstern, O., Theory of Games and Economic Behavior, Princeton Press University of, 1944. Pasinetti, L., ‘J. M. Keynes's 'Revolution'—The Major Event of Twentieth- Century Economics?’ (in Pasinetti, L. and Shefold, B. eds., The Impact of Keynes on Economics in the 20th Century, Edward Elgar, 1999). Savage, L., The Foundations of Statistics, John Wiley and Sons, 1954. Stiglitz, J. and Greenwald, B., Towards a New Paradigm in Monetary Economics, 2003. De Vroey and Hoover, K. eds., IS-LM Model, Duke University Press, 2005. 伊藤邦武『人間的な合理性の哲学』勁草書房、1997年. ケインズ学会編、平井俊顕監修『危機の中で<ケインズ>から学ぶ』作品社、2011年. 平井俊顕『ケインズの理論』東京大学出版会、2003年. 平井俊顕「資本主義(市場社会)はいずこへ」『現代思想』2009年5月. 平井俊顕 「経済学はいずこへ」『現代思想』2009年8月. 平井俊顕『ケインズは資本主義を救えるか ― 危機に瀕する世界経済』昭和堂、2012年. 平井俊顕「世界資本主義はいずこへ - 金融の自由化と不安定性を中 心に」、日本国際経済学会報告、2013年. 松嶋敦茂『功利主義は生き残るか』勁草書房、2005年. J.S. ミル[1859]『自由論』岩波書店、1971年. B. ミルフォード『アメリカが隠し続ける金融危機の真実』青春出 版社、2009年. D. リカードウ[1817]『経済学および課税の原理』(上)(下)、岩波書 店、1987年. (*本報告は2013年9月21日(土)に開催された統合学術国際研究所で読んだものである。)