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ナイト「社会科学と政治的トレンド」(1934年) 1934年。それは2つの「ニュー・ディール」が脚光を浴びている時代である。1つはヒットラーのナチズム、もう1つはルーズベルトのニュー・ディールの時代である。ナイトは双方を本質的に同じものとみている。 今は、自分たちが育てられてきた文化価値が批判・否定されている時代である、とナイトはいう。知性 (intelligence) は疎んじられ、真実を追究する精神は否定され、考えるよりも行動だ、つべこべいうよりも実験だ、といった論調が支配的である、と。 ナイトは当初、この大不況はこれまでの不況と同じ性質のものだと思っていたが、いまではそれは誤りで、大きな経済的・政治的革命である、と確信するに至っている。そして、その到来をひどく批判的な思いで、ナイトはみている。 自由な市場システムと民主主義を当然視する時代は過ぎ去ってしまっている。過去にこれが成立したのは、ナイトによると、フロンティアの存在などの偶発的事象によるところが大きかった、という。 「現在という視点からみると、顕著に偶発的で本質的に一時的な条件のみが、一時的に、このような「自由な」社会システム - 経済生活における個人のイニシアティブと代表的組織を通じての政府 - が機能するようにみえる、もしくは自由と秩序を調和させるという問題を解決する能力をもっているようにみえることを可能にしたことが分かる。」 自由社会にあっても、その制度の精神的な基礎は無意識的なものであり、感情的なものである。社会行動の多くは慣習であり、意識的なものの多くは、批判的思考ではなく感情と忠誠に基づいている、とナイトはいう。 ナイトは、ブルジョア社会の本当の崩壊はモラルである、という。 「リベラリズムの知的誤りは二重であった。それは、社会問題は、根底においては知的なものでなく道徳的なものであることを理解できなかった。そしてそれは、含有されている真に知的な要素を完全に誤解していた。」 ナイトの積極的な主張は、「真実を追究することを尊ぶことを意識して、今日の状況に立ち向かおう」というものである。そのためにはわれわれの精神構造をも意識的に変革することが必要である、と。 「共同的で批判的な真理追究という雰囲気」 「真の宗教的会話は、真実を愛し、真実への信頼を愛することに真に捧げようとするいかなるグループのメンバーのたいてい、もしくはすべてにとって必要であろう。」 ナイトはプラグマティズムには批判的であった。 「哲学においては、それは功利主義の時代であった。それは、アメリカでは19世紀の終わりごろ、プラグマティズム ― 哲学の否定、カルトへと変容を遂げた俗物根性 ― へと進展した。」 |
2018年3月27日火曜日
2016年9月3日土曜日
Hayek, Law, Commands, and Order (in The Constitution of Liberty, 1960)
Hayek, Law, Commands, and
Order
(in The Constitution of Liberty, 1960)
ここでいうLawは「抽象的な法」(abstract
law)である。抽象的なルール。
そしてそれは自生的秩序の一例である。
「・・・法は、もちろん、言語とか貨幣、いや社会生活が依存するほとんどの
実際や慣習と同様、だれか特定の人によって発明されたものではまったくな
い。」(p.148)
次の一文は中心的重要性を有している。
本書の中心的な関心である「法のもとでの自由」という概念は、われわれへの適用とは関係なく制定された一般的で抽象的なルールという意味において、われわれが法にしたがうとき、われわれは他の人の意思に服しておらず、それゆで自由である、という主張に依存している。
ハイエクにとって「自由」とは「抽象的な法」にわれわれが従う、遵守するという意味である。そしてそれは他者の意思に服さないわけであり、したがって「自由」なのだ、と。
「この一般性は、われわれがその「抽象性」と呼んだところの法の属性の、おそらく最も重要な様相である」(p.153)
個人は「現場の人の知識」に基づき、自発的に行動することができる。こうした自由は、「抽象的な法」という枠組みのなかで発揮される自由行動である。それは分かるが、では「抽象的な法」自体は、いかにして創られるのか、そこに人間が関与しているように思われないところに、自生的秩序論の神秘主義が潜んでいるように思われる。
「命令」(Command)は、それを発する人の目的にのみ資する、誰かが誰かにたいし行う命令である。
「秩序」(Order)は、自生的秩序の意味で用いられている。
「この秩序性は、もし諸個人が彼らだけが知っている特殊な環境に、そしてだれか特定の人が全体についてけっして知られていない彼らの行動を調整することをわれわれが望んでいるのであれば、統合化された指令の結果であるはずがない」(p.160)
「状況についての知識が非常に多数の人々のあいだに分散されている、そういう状況への調整を行う秩序であれば、それが中央の指令によって達成されることはありえない」(p.160)
「・・・われわれは社会における秩序の形成の状況をつくることはできるが、その要素が適切な条件のもとで秩序付けられる方法をアレンジすることはできない。」
(p.161)
2016年9月2日金曜日
The Origins and Effects of Our Morals: A Problem for Science, A Speech delivered at the Hoover Institution, November 1, 1983. 平井俊顕
The Origins and Effects of Our
Morals: A Problem for Science,
A Speech delivered at the Hoover
Institution, November 1, 1983.
平井俊顕
システムについての価値判定ルールの欠如
ハイエクの自生的秩序はやはり「良いモノ」との暗黙裏の価値前提がある。悪い「自生的秩序」はまったく念頭にない。議論の対象から完璧にはずされている。換言すれば、人間社会をみるときにハイエクは「良い」と思うモノにだけ焦点を合わせ、そうでないもの(例えば戦争、争いごと、犯罪など)は考察の対象からはずしている。
本来、人間社会には、いわば「悪い自生的秩序」も存在する。戦争は人間社会から切り離すことのできない悪い「自生的秩序」といえなくもない。それは1つ1つの戦争は単発的ではあっても、人間社会が存続するかぎりなくなることのないものだからである。その意味で戦争も1つの制度である(国防の延長線上で戦争は生じる)。ヤクザ組織も、売春も然りである。いまの社会にはびこっていて消えるどころではないであろう。
したがって「良い」「悪い」を判定する基準がハイエクの自生的秩序論にはないのである。
そうした人間社会に厳然として存在し続ける「悪い自生的秩序」に目を向けないで、ハイエクの批判は、唐突に、そしてすべからく理性主義者、社会主義者に向かうのである。これは、何か一方的な評価法なのではないだろうか。
神秘主義
ハイエクは、個人の認識の無知を強調する。その点で彼は現実主義的である。だが、社会を論じるとき、「天蓋」(=自生的秩序)が強調される。それは、個人がその形成に寄与するところはまったくなく、いわば諸個人の外から社会に被せられるかのようである。「天蓋」の上には神がいて、諸個人は見えない糸で操られているかのようである。社会には諸個人しか存在しないのに、だからすべての秩序は彼らがつくっているはずであるのに、彼らには何の寄与もないのだという。これは一種の「神秘主義」(観念論)ではないのだろうか。くしくも彼はこの論文で
“transcend”
(超越する) という言葉を使っている。
理性主義=社会主義直結論
もし人々が少しでも、「伝統」にたいして異を唱え、自らの望むようにそれを変革しようとする動きをみせるならば、ハイエクはそれを「理性主義者」の愚挙として糾弾する。そしてその矛先はストレートに社会主義批判に向かう。自生的秩序に反旗を翻す行為は、理性主義者のおごりであるとされる。
この論文では、進化論的考察が、ハイエク本来の自生的秩序論に加味されるかたちで論じられている。そしてその進化論は社会ダーウィニズムとは異なるものであることが強調されている。
彼によれば、グループがあるシステムよりもこのシステムを選択することにより、人口が増大していくことが、そのシステムが歳月を超えて生き残っていく条件であるという。そうして生き残ってきた制度は、価値ある伝統として、われわれは守らなければならない、というわけで、現存秩序を非常に重視する保守主義である。
だが、本来、個人主義的に社会をみる
(もっとも他方で、「天蓋」論があるのだが) ハイエクが、グループをもちだしてくるとき、何か矛盾するものを彼の社会哲学に導入してきてはいないだろうかという気がしてくる。個人ではなくグループがシステムを選択するというとき、これは集団としての意志決定のようにもみえる。しかし、もちろん自生的秩序にあってはそうした集団の決定といったことを許容する余地はない。
Hayek, Two Types of Mind, 1975 平井俊顕
Hayek, Two
Types of Mind, 1975
平井俊顕
科学的思考には2つのタイプが存在する。1つはメモリー・タイプ であり、もう1つは
パズラー (puzzlerもしくはmuddler)と呼べるものである。
メモリー・タイプとしてヴァイナー、シュムペーター、ベーム-バヴェルク、ラッセルを、またパズラーとしてナイト、ヴィーザー、ホワイトヘッドそれにハイエクが挙げられているのが面白い。
メモリー・タイプ: 自らの概念のみならず、過去や現在の他の理論を包摂する全体を知っており、即座に解答のできるような大家
パズラー:合成写真のぼんやりしたアウトラインに似ている。独立した思想への前提条件である混乱した頭脳状態を有する人。
2つのタイプが存在するというのが真実である場合、現在の大学教育システム(試験制度)は、パズラーを排除するかたちになっているので好ましくない。
このコースを選択した(とくに理論的な仕事)者に必要な生活(住居、食事、十分な書籍代)が提供されるような取り決めがあるのが望ましい。そして快楽を数年間犠牲にして、選択した科目の研究に専念する機会を与える。
非常に厳格な生活を送り、快楽は犠牲にされる生活、こうした生活を用意することの重要性。それを体験してきた人は試験制度による方式に成功してきた人よりも尊敬されるのは当然であろう。
こうした制度の確立により、学術社会の重要な構成要員を育てることができ、試験制度を通ってきた人々、すなわち慣れた轍のなかで動く神聖なる公式の支配にたいするセーフガードにもなるであろう。
バーリンの「はりねずみと狐」との類似性にハイエクは言及している(p.50の脚注)。ここではりねずみは1つの大きなことを知っているものとして、また狐は多くのことを知っているものとして比喩されている。
Hayek, The New Confusion about 'Planning' , 1976
Hayek, The New Confusion about
'Planning' , 1976
1975年頃に、アメリカで「計画化」についてのプロジェクトが、レオンチェフを中心にして打ち上げられた。ハイエクはこれを、1920年代-1930年代の「社会主義経済計算論争」での議論の教訓をまったく無視した、そして1960年代に主としてフランスでもちあがった指示的計画(Indicative Planning)の混乱に満ちた議論をも顧みない、ひどく時代遅れの計画である、と酷評している。
それはレオンチェフの産業連関表の充実と関連しているが、それは次のような誤った信念に基づくものである、とする。
「投入・産出計算の価値を信じる源泉は、資源の効率的な使用は、主として技術的な配慮によって決定されるのであって、経済的な配慮によってではない、という完全に過てる考えである」(p.242)
かつて、こうした「5カ年計画案」的なものが、盛んに日本でも議論されていた
(「中期経済計画」とか「長期経済計画」といったもの)。
Hayek, Adam Smith's Message in Today's Language, 1976. (Daily Telegraph, 9 March) 平井俊顕
Hayek, Adam Smith's Message in
Today's Language, 1976.
(Daily Telegraph, 9 March)
平井俊顕
アダム・スミスは自生的秩序論を展開しているとして、最大限にハイエクはスミスを評価している。それにたいして、「社会的正義」という概念は、部族時代からの「隔世遺伝」であり
― この認識は、論文「社会的正義という隔世遺伝」(1976)と共通している―、これは「偉大な社会」(Great Society)、もしくは「開かれた社会」(Open Society)とは相容れないものである、と。スミスは社会主義の存在を知らなかったが、こうした考えをする人を「体系の人」(man of system)として ―
ハイエクの用語でいえば、構成主義(Constructivism) 者として ―
批判している(つまり、チェスは差し手が駒を意のままに動かせるが、個々人が自らの行動原理をもつ人間社会にあっては、立法者が押しつけようとする行動原理と異なるため、社会はつねにきわめて混乱した状況におかれることになる、という『道徳感情論』でのスミスの発言を取り上げつつ)。
抽象的なシグナルである価格というものに動かされ、自己のために行動する諸個人
― 個人は狭い理解力しかもっていない ― によって構成される社会の方が、特別の事例や状況、隣人の能力、気づかれた必要などによって動かされる社会よりも、はるかに優れているし、個々の事実についてのわれわれの無知を克服でき、諸個人に散在している具体的な状況についての知識を最大限に利用することができる。このことに気づいたのは、スミスの偉大な貢献である、と。
制度を意図的に作り出されたものとしてみるのをやめ、ある明白な少数の原理の自生的展開としてとらえる見方はスコットランドの道徳哲学者(ケイムズ、スミス、ミラー、ファーグソン)がなした重要な貢献であり、スミスはこのアプローチを「市場」に適用した、としてハイエクはスミスを高く評価している。
2016年9月1日木曜日
Hayek, The Errors of Constructivism, 1970 平井俊顕
Hayek, The Errors of Constructivism, 1970
平井俊顕
ハイエクは、これまで誤って呼ばれてきた「合理主義」(rationalism)を表現するために「設計主義」 (Constructivism) という用語を用いている(設計主義的合理主義)。
その意味は、次のようになっている。
「人はこれまで社会の制度や文明を自身で創造してきたから、人は彼の欲望や望みを満たすようにそれらを思うように変えることもまたできる」 (p.3)
次の引用がハイエクの意味する設計主義を最もうまく表現するものである、とハイエクは述べている。
「「社会学が設定した最も重要なゴールは、将来の発展を予想すること、そして人類の将来を具体化すること、次のように表現することを好むのであれば、人類の将来を創造することである」。もし科学がそのような要求をするのであれば、このことは明らかに、人類の文明全体が、そしてわれわれがこれまで達成してきたすべては、目的合理的な設計部としてのみ構築することができつという主張を包含するものである」(p.6)
「設計主義者がそのような遠大な帰結と要求を導くところの事実上過てる主張は、
われわれの現代社会の複雑な秩序は、人々が彼らの行動を予測 ― 原因と結果のあいだの関係についての洞察 ― によって行ってきたという環境にもっぱらよるものである、もしくは少なくともそれはデザインを通じて生じることができたという環境にもっぱらよるものである、というものであるように、私には思われる。」
これにたいしてハイエクが対置する考えは以下のとおりである。
「人々は、彼らの行動を、特定の既知の手段と確定した望ましい目的とのあいだの因果関係についての彼らの理解によってもっぱら導かれてきているということはけっしてなく、かれらがめったに気がつかない、そして彼らが意識的に創造したということはけっしてない行為の規則によってつねに導かれてきているのである。そしてこの機能と意義を識別することは、困難で部分的に飲み達成される科学的努力の課題なのである」 (pp.6-7)
ハイエクは、人々の行動について、知られた手段と望まれる目的との因果関係を理解することによっては導かれるものではなく、めったに意識することのない、そして意識的に発明したのではない「行為の規則」によってもいつも導かれている、と述べている。
ここでは、明らかに後者に力点がおかれている。「規則」(rule) は (1) 実際に守られているだけで、言葉で説明されることのけっしてない規則、(2) 言葉で表現されているけれども、行動で一般に守られてきたことをほぼ表現しているにすぎない規則、(3) 意識的に導入されてきており、そしてそれゆえ文章で表現された言葉として必然的に存在する規則のうち、 (1)と(2)がここでは重視されている。
「幾世代にもわたって通用している世間知は、因果関係の知識で構成されているのではなく、環境に適応して、環境についての情報のように働く行為の規則(それは環境について何かをいうわけではないが)で構成されている」(p.10)
・「規則」を守ることは、グループのメンバー全体をより「有効」 (effective) にし、より効率的な秩序を達成したグループはそうでないグループを排除していく (p.7)
・社会の秩序とは、諸個人の行為の規則性とは異なる概念である点を、ハイエクは強調する (p.9)
メモ:思想家間の相違点について
ハイエクとケインズ/ホートリーの哲学的基礎には相当な相違がみられる。
・ハイエクの哲学にあっては、個人は理性をもった存在として扱われることはない。むしろ個人は慣習 (規則) によって行動する存在と考えられており、社会の形成・創造において非常に受身の存在になっている。この哲学は、メンガーにさかのぼることができるであろう。
この哲学は個人主義哲学ではない。社会のなかにおける個人は受身の存在だからである。ハイエクは自生的秩序論の先行者としてヒュームをあげるが、ヒュームの哲学は合理主義的であって、ハイエクのものとは性質を異にする。
ハイエクの哲学には、価値判断の場が存在しない。人々は合理的な存在ではなく、物事の価値判断を行う能力を有していないように思われる。だから、自生的秩序として存在するものはそのまま受け入れてしまっているのであって、それがよいものか正しいものか、はたまた悪いものか誤っているものなのかを判定することができない。
ハイエクは反功利主義者である。功利主義哲学は個人が快楽-苦痛の計算をできる存在として措定されている。
・ 規則が人々の意思とは無関係に集積していくとしよう。しかしその存在に気が付いた段階でだれかがそれをよりよいものにすべく、意識的に改善するという行為が必ずやとられるはずである。この場合、そのことによって改善された規則は純然たる自生的秩序では、もはやない。
・ ハイエクは設計主義的合理主義を批判する場合、非常に極端なスタンスをとっている。設計主義的合理主義は、一人の人が意識的に設計したものが必ず社会において実現できる確信するような人として、絶えず描かれているが、これは極端である。さまざまな人が設計してそれを競争する、その結果、優れたものが生き残り、あるいはそれらは他の競合する設計と融合することで混合的な設計へと変化していく、そうした可能性を、ハイエクは設計主義的合理主義を極端なスペクトラムにおくことで看過する。
片一方に「設計主義的合理主義」、もう一方に「自生的秩序論」をおき、そのいずれが正しいか、という二極化でとらえる、つまりその中間的な形態を無視するというのは、ハイエクの思想に通底する特徴であるように思われる。
・ハイエクによれば、17世紀になってデカルト(ヴォルテール、ルソー)による合理主義哲学により、設計主義的合理主義が支配的となり、スコットランド啓蒙主義 (ヒュームなど) 的認識はゆるやかに進行した。
・ 絶えず意識しないで傍らに出来上がってくる規則、そしてそれを利用する人々、しかし、その存在を知りながら、それを意図的に改善しようとする人の存在しない世界、人々は無知でどこまでも受身の存在として描かれている。
・ ただし、出来上がってくる規則を、人々は「有益である」と認識することが、ハイエクによってまったく語られていない、というわけではない。
「科学的理論と同様に、「行為の規則」はそれらが有益であると判明することで保持されるが、科学的理論とは対照的に、だれも知る必要のない証明によって保持されるのである。なぜなら、証明は、それが可能にしている社会秩序の復元力および進歩的拡張によって明らかにされているからである」(p.10)
「彼が意識的にデザインすることができるすべてを、彼は、自らが創造したのではない規則のシステム内でのみ、そして現行の秩序を改善する目的で、創造することができ、創造したのである」 (p.11)
人々が意図してできることはルール・システム内部でのことだけである。その範囲でのみ現行秩序の改良が可能である(にすぎない)。
なぜそのような断言が可能なのであろうか。例えば言語にしても、ハングルやカナは特定の人々の意図により、改善ではなく、発明されているのである。平安京は桓武天皇の都市計画によって出来上がったのであり、いまの京都もその影響下にあることは、歴史的に明らかである。
・ミーゼスの哲学とハイエクの哲学はかなり性質を異にしている。ミーゼスのプラクシオロジー。ミーゼスの場合、シュムペーターと同様に、企業者が重要な役割を演じる経済理論を有している。
・これにたいし、ケインズやホートリーは、個人を、理性を有する存在とみている(「若き日の信条」での人性合理性にたいしての言及を想起せよ)。これはケンブリッジ的な特徴なのかもしれない。
・シュムペーターにあっては、彼の本丸である経済発展論において、企業者の役割が大きく、そしてその展開方法は当時の「エリート論」の影響を強く受けている。
・進化論について
ケインズは『自由放任主義の終焉』において、スペンサーの進化論を取り上げ、それが、19世紀後半の「自由放任主義」を新たに補強したとみている。
ホートリーは (ケインズとは異なり) 進化論をみずからの哲学のなかに取り入れ、合理化の社会への進展として取り上げた。
ハイエクも進化論を取り入れているが、それは「行為のモード (規則) 」したがって自生的秩序の形成との関連で取り入れている。そしてそれは、より効率的な秩序を形成するものとしてとらえられている。「効率的」は「良い」という判断とは異なる点に注意が必要である。
「行為のこれらの様式が支配し、そのようなグループが他のグループを優越するがゆえに、全体としてのグループにとってより効率的な秩序の形成へと導くような選択過程が生じる」(p.9)
こうしてみると、進化論というのは、両刃の剣である。
「理論的知識を前進させることが、われわれをして、複雑な相互関連を確定した特定の事実へと減少させる地位に、あまねくますますもたらす、という思い込みが、しばしば新たな科学的誤謬をもたらす。とくにそれは、われわれがいま考えなければならない科学の誤謬をもたらす。というのは、それらはわれわれが負うている社会秩序やわれわれの文明の代え難き価値の破壊をもたらすからである」(p.13)
ハイエクは19世紀に設計主義的誤謬が広まったと考えている(第7節)。「実証主義」、「功利主義」、「認識論的実証主義」、「法実証主義」、「社会主義」が挙げられ、それらを批判している。
今世紀における設計主義 (科学的誤謬による価値の破壊現象) を、権威者からの引用により跡付ける作業。ChisholmとKelsen (法実証主義者)を取り上げている。
「私が述べたことの帰結は、ただ、われわれはその価値のすべてを同時に問うことはけっしてできないということである。そのような絶対的な疑念は、ただわれわれの文明の破壊、・・・極端な悲惨さと飢餓をもたらすだけである。」(p.19)
「そのような偉大な社会の可能性は、たしかに、本能には依存しておらず、獲得した規則のガバナンスに依存している。これは理性の原理である。それは、本能的な衝撃を抑制し、個人間の精神的なプロセスに始まる行為の規則に依存している。このプロセスの結果として、やがて時の経過とともに、すべての個々別々の価値セットはゆっくりと相互に適応するようになるのである。」(p.19)
進化論的な表現になってはいる。
「人々が社会の特定の価値を評価する唯一の基準は、同じ社会の他の価値全体であ
る。」 (p.19)
ここで唯一、自生的秩序論のなかで、個人が意識的に評価を下す場面が登場してくることになる。(下記を参照。似た発想)
「理性は所与の価値についてのそれ自身この相互の調整であることが示されねばならない。そしてそれはその最も重要な、だが、非常に不人気の仕事を遂行しなければならない…」(p.20)
ハイエクがここでいう「理性」とは、ロックの意味である (p.19の注24を参照)。
すべての価値が生まれ出るある特定の行動原理で、モラルの適正な形成に必要なものは何でも・・・
ここでも進化論的な叙述 (p.20)
科学は価値と関係がないというのは、誤った信条 (p.21)
「現存の社会秩序は、人々がある価値を受け入れるがゆえにのみ存在する」 (p.21)
「価値を含むそのような前提から、議論のなかで前提されているさまざまな価値の整合性や不整合性についての結論を導出することは、完全に可能である」(p.21)
「われわれが社会の秩序化の継続するプロセス ― そこではほとんどの支配的な価値は疑われることはない ― を処理しなければならないとき、残余のシステムと整合的である特定の質問に対するただ1つの確かな回答があるのみである」(p.21)
「受け入れられている価値と支配的な事実の秩序とのあいだの関係」(p.22)
「かくして、諸個人とかグループが意識的に追及しているようにはみえない価値の受容に依存していることが、われわれがすべての個々の努力において前提しているそんであるところの事実的秩序の基礎そのものである、とことを証明することが可能となる」 (p.22)
見落としていたが、ハイエクは人々の価値判断について言及している。それは、大多数の価値を受け入れている状態が、現在の秩序の基本である、としたうえで、個々人の行為がそれとの関係で評価される、というものである。しかし、このような抽象的な基準でよいものであろうか。
2016年8月23日火曜日
Hayek, The Atavism of Social Justice, 1976 (Chapter 5) 平井俊顕
Hayek,
The Atavism of Social Justice, 1976
(Chapter 5)
平井俊顕
このタイトルは、意味をもたない概念である「社会的正義」は、人類がその長い歴史のなかで培ってきたものであり、それが現在の市場社会にあっても人々の考えをかなり支配している、という意味で「隔世遺伝」と称すべきものである。したがって、「社会的正義という隔世遺伝」とでも訳すべきタイトルである。
自由な人々からなる社会にあっては「社会的正義」(=分配的正義)というのは意味をもたない空虚な公式にすぎない、というのがハイエクの結論である。
「個人の正しい
(just) 行為についてのルールは、自由な人々からなる平和な社会の維持にとって不可欠である。それは「社会的」正義を実現させようとする努力と整合的ではない。」(p.57)
キャタラクシー(交換)のゲームに従って各人が自らの私的利益を追求することが許される社会の実現が最も重要なことであり、あえていえば、それが「正義」ということである。またそうした市場経済により、経済的な生産の増大が実現されてきたのであり、世界の人口の増大を支えてきたのである。また、市場経済で自らの力で生き残れない人々にたいする保障も、この市場経済の経済力によって可能にされてきている。ハイエクはほぼこのように論じている。
「正義は人間の行為のルールとしてのみ意味をもつ。市場経済において相互に財やサービスを提供し合う個々人の行為に考えられるいかなるルールも、正義とか不正義とか有意義に描写できる配分をもたらすことはない」 (p.58)
「それゆえ、もしアト・ランダムに選んだ社会のいかなるメンバーの幸運を可能な限り増大することに貢献するような報酬のルールを正義とみなすならば、われわれは自由な市場によって決定される報酬を正義の報酬とみなして然るべきである」(p.63)
にもかかわらず、こうした社会的正義を人々が唱道するのは、ハイエクによると、人類が大半を過ごしてきた初期の社会形態から継承されてきた信条に由来する
(これが隔世遺伝 (atavism) というタイトルが用いられている所以である)。小さな部族社会での生活という長年の生活で築かれてきた信条が、現在にも残っている、というのである。だが、こうした話はたんなるたとえ話であり、何ら説得力のあるものではないといわざるをえない、と。
何か特定の義務に代わり「抽象的な行動ルール」が支配することによって文明は発展してきた、とハイエクはいう。
「文明の、そして究極的には「開かれた社会」(Open Society) 発展を可能にしてきた偉大な進歩は、特定の義務的目的にたいして行為の抽象的なルールがしだいに代わってきたこと、およびそれとともに、共通のインディケーターのもとに共同して行為するゲームの進展、したがって自生的秩序が進展してきたことであった」(p.60)
このことにより、拡散している情報が価格というかたちで多くの人々によって利用可能にされる。
「このことによって得られる大きな利点は、広く拡散していたすべての関連する情報が、われわれが市場価格と呼ぶシンボルのかたちで、益々多くの人々に利用可能にされるという手続きを可能にしたということである」(p.60)
分業の最も重要な意義は、企業内での分業ではなく、社会内での、つまり企業間での分業である。
「競争的市場の達成が依存するのは、そしてその市場が可能にするのは、大いにこの企業間での分業もしくは特化である」(p.62)
自生的秩序
「もし人々が一般に、彼らがキャタラクシー(交換)に負っているもの、および彼らの存在そのものをどれほど多くそれに依存しているかを知らないとしても、そしてかれらがしばしばひどくかれらがその不正義と思うものに憤るとしても、それは、彼らがけっしてそれを企画したわけではなく、それゆえ彼らがそれを理解していないからである」(p.65)
「だが、これらは、小さな集団の団結にとっては重要であるが、自由な人々による偉大な社会の秩序、生産性、および塀をとは整合的でない種類の義務である」
(p.66)
最後にハイエクは、文化的選択過程のなかで、われわれが理解できるよりもうまく築いてきたこと、そしてわれわれの知識というものは試行錯誤の過程で、われわれの制度とともに形成されてきた、という考えが、「社会ダーウィニズム」と呼ばれることに抵抗をみせている。それは社会ダーウィニズムとは異なるものである、と主張している。そもそもダーウィンの自然淘汰説と、自らの「文化制度の競争的選択」論とは独立したものである、という認識がハイエクには存在する。
「それは、われわれが競争的選択から得る主要な利点ではない。これは、文化的制度の競争的選択であり、その発見のためにわれわれはダーウィンを必要とはしなかった。むしろ、法や言語のような領域での、それについての増大する理解がダーウィンが彼の生物学的理論を助けたのである。私の問題は、本性的な性質の遺伝的な進化ではなく、学ぶことを通じての文化的進化である」(p.68)
自生的秩序論的淘汰過程論とでもいうべきものか(あるいは進化論的自生的秩序論とでもいおうか)。
「文明は人々が最も成功していると考えるものの隆盛によってではなく、そうなっ
たもの、まさに人はそれを理解しておらないがゆえに、人が考えることを超えて人を導いていったことの成長によって展開したというのは依然として正しい」 (p.68)
ハイエク The Primacy of the Abstract, 1969 平井俊顕
ハイエク The Primacy of the Abstract,
1969
平井俊顕
「抽象的なもの」の優位性と題されたこの論文は、ハイエクの認識論を示すもので、きわ
めて興味深い内容をもつ。
人々が物事を認識するのは、最初に具体的・特殊なものをみることで、その後から抽象的
な概念が形成されるという説を、ハイエクは批判する。真実はその逆であるという。人々
ははじめに無意識に(それとは気がつかずに)抽象的な概念を獲得し―それは精神の活動
ではなく、精神に生じる(happen)、という―、それとの関連で経験を通じて、具体的・特
殊なものを認識するようになる、というのである。
この認識論は、経験論哲学とは明白に対立するものである。経験論哲学では、最初に基本的な知覚、具体的な事物が認識され、そしてそれらを組み合わせることで複雑な認識
(抽象的な認識) が形成されていく、というように、単純から複雑へというプロセスにより、認識現象をとらえようとする。したがって、「タブラ・ラサ」に、単純から複雑な概念が植え付けられていくというイギリス経験論哲学の立場に、ハイエクは批判的なように思われる。
ハイエクの場合、ある意味ではプラトン的意味で観念論的である。はじめに、例えば、犬という(実在)概念 ― それは精神にたまたま生じる―があり、その現象形態として、チワワとかブルドッグとかいった具体的な犬が存在する、という認識論である。無意識裏に人は抽象的概念を獲得する、といっても、それは生まれつき
(生得) ではない。生まれた後にであるが、それを意識することなく、ある時、獲得している、というのである。そしてそれを、具体的な事例を見聞することで、修正していく、という一種の進化論的見方をとる。これは彼の「自生的秩序論」とも似ている。人々が気がつかぬうちに、突然として発生してきている社会的・文化的制度、そしてその価値に気づいた人は、それを大事に維持していく、という社会哲学と一脈相通じるところがあるからである。
ハイエクの認識論では、人のきわめて初期の状況にあって、複雑な観念がまず植え付け
られるに至る(二歳児の「ニャンニャン、ワンワン」にたいする識別能力をみよ)という
認識は、明らかに複雑さ(抽象的なもの)が最初に来る(そして具体的な事物はその後か
ら来る)。
もう1つ重要なのは、ハイエクにあっては、複雑から単純へというプロセスは考えられていないのではないかという点である。複雑(抽象)から具体へというプロセスは強調されているが、複雑から単純へというプロセスについての言及はみられない。むしろ、複雑から複雑へというプロセス(そしてそれを仲介するのが、具体的事物)だけが、考えられているような気もする。
あらゆる行為は、意識していないルール、しかしその結合力によって可能とされるルール
によって導かれているという見解、そしてこれは正義感についてもいえる、とする。
こうみてきて、1つ気がついたのは、人々が意識せずに気がつくと、そこ(これは社会の
場合もあれば、精神の場合もある)に、制度(自生的秩序)や抽象的なルールが現出して
いる。この場合、いずれの場合にも、「よい制度、よいルール」が前提されているように
思われる。「悪い制度、悪いルール」は考えられていないのではないだろうか。例えば、
他人の行為を判断したり、他人の行いを正義かいなかを評価するわれわれの能力という見
方は、そのような価値前提が潜んでいるように思われる。
人々の行為が、そして人間社会が、それとは意識することなく成立する制度や抽象的ル
ールによって動かされているという考えは、非常に興味深い考察である。が、同時に、何
か神秘的、人間の認識を超えたもの(それは神であるかもしれない)に、託すような論調
が感じられるのである。
ハイエクはこの考えを、ポッパーの反証主義の考えと似ていると述べている。つまり、個
々の具体的事実から理論は帰納的に形成されるのではなく、まず理論が存在し、その後、
具体的事実からの論駁・反証などがあって、理論は修正されていく、という考えである。
最初に得られた抽象的な概念は、特殊的・具体的事象によって修正(進化論的にもハイエ
クはこのことを描写している)していくかたちで、人の精神のなかに形成されていく、と
するのである。
「私が主に関心をもつ「優位性」とは因果的な優位性である。すなわち、それは、精神的な現象の説明にあっては、最初にくるはずのものであり、他のことを説明するために使うことができるものに関係している」
「つまり私が主張していることは、個々のことを認識できるためには、精神は抽象的な捜査を遂行することができなければならない、ということであり、そしてこの能力はわわれが個々のことについて意識的に知覚していることについて語ることができるまでに出現している、ということである。」
「具体性は抽象性を前提にする(精神には具体性なく抽象性が存在できるが、その逆ではないという意味)というよりも、抽象性は具体性を前提にするという主張から、最も説明を必要とすることを所与として扱うというまったく誤ったアプローチが出てくることになる。」
「われわれのすべての行為は、われわれが意識していないルール、しかしその結合し
た影響力によって、われわれが非常に複雑な技術を遂行することを可能にする
―
関連する運動の特定の連鎖について何ら知ることなく
― ルールによって導かれ
ている、と考えねばならない。」
次の一文も重要である。
「抽象性の形成は、人間精神の行動としてではなく、むしろ精神に生じる何か、もしくは、われわれが精神と呼ぶ関係の構造 ― そしてそれはその操作を支配する抽象的規則のシステムからなる構造 - を変える(何か)とみなされるべきである。換言すれば、われわれは精神と呼ぶものを、行動についての抽象的な規則のシステム (各々の「規則」が一群の行動を規定する) - それがそのようないくつかの規則の組み合わせにより各々の行動を決定する ― とみなすべきである。他方、新しい規則(もしくは抽象性)が出現するごとに、そのシステムの変更がなされるが、それはそれ自身の操作が作り出すことのできるものではなく、外的な要因によってもたらされる何かである。」(p.43)
精神 =
行為についての抽象的なルールの体系
この体系がいくつかのルールの組み合わせによって各行為を決定する
(各ルールは、一組の行為を定義する)
新しいルール(抽象)の出現は、体系の変化、すなわちそれ自身の操作では作 り出せず、外的要因によってもたらされる何かを構成する。
「われわれが意識的に経験することは、われわれが意識することのできないプロ節の一部に過ぎないか、もしくはその結果である。というのは、それを意識的なできごとにする包括的な秩序のなかで位置を付与するのは、超構造による多数の分類にほかならないからである。」(p.45)
「新たな抽象性の形成は、意識的なプロセスの結果ではけっしてなく、精神が意識的に目指すことのできる何かではなく、つねにその操作をすでに導いている何かの発見であるように思われる。」(p.46)
次は、ハイエクの正義論である。
「他人の行動を意義あるものと認めるわれわれの能力、およびわれわれ自身の行動とか他人の行動を正しいとか正しくないと判断する能力は、われわれの行動を支配する非常に高い抽象的な規則をわれわれが所有していることに基づくものであるに相違ない。だが、われわれはその存在を意識しておらず、ましてそれらを言葉で論じる能力をもってはいないのである。」(p.46)
われわれの価値判断能力というものは、抽象的なルールの保有に依存している。だがそのルールの存在をわれわれは知らない。とすれば、われわれは存在を自ら確認できないなにものか(つまりは抽象的なルール)に動かされて行動する存在ということになるのだろうか。この抽象的なルールは、われわれが意識的に選択できるような性質のものではないわけで、とすればわれわれには責任能力はないということになりはしないだろうか。
「抽象的なルール」という概念には、ハイエクの目からみて「よいルール」だけが考察の対象として選ばれており、「悪いルール」は考察の対象外になっているように思われる。
「「重ね合わせによる特定化」というフレーズ、つまり特定の行動は、行動化の敷居が下げられているある点で同等の行動パターンの領域から選択され、他の点では、同等の行動パターンの群れに属するものによって補強されている、ことを意味している。このフレーズは、私が「抽象性の優位性」と呼んできたところの操作のメカニズムを描写する最良のものであるように思われる。というのは、因果の決定子の各々は結果する行動の特性の1つだけを決定するからである。」(p.48)
「重ね合わせによる特定化」= 「抽象の優位性」という作用メカニズム
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