2014年1月31日金曜日

A.C.ピグー著・八木紀一郎監訳・本郷亮訳『富と厚生』(1912) 本稿は、誤解されたままのピグーの厚生経済学を自身に語らせるという動機に端を発した古典翻訳の書評である。最初に『富と厚生』(以降W&W) の理論を説明し、特性を当時の経済学の状況を勘案しつつ措定する。次に、訳者が「解題」で指摘するケインズ革命とロビンズの批判に言及する。  ピグーは今日、第1に「市場の失敗」の代表事例である「外部経済・不経済」の発見者として、第2に「実質残高効果」の提唱者として、第3に「古典派マクロ経済学の祖」として知られる。だが、彼の経済学の体系的研究はほとんどなされてこなかった。そうした中、訳者をはじめとする研究者がこの課題に挑んでおり、その成果が注目されている。 1. 『富と厚生』 19世紀後半以降、貧富格差はイギリスで大きな政治・社会問題となっていた。この問題を「失業」の視点からとらえたのがベヴァリッジとピグーである。W&Wも、そうした意識のもと原理的な視点に立ち戻り考究されている。  本書を手にしてだれしも感じるのは難解という点であろう。第1に、その論述は込み入っており、主要な道筋がみえにくい。第2に、かなりの知識を前提にして書かれている(e.g. 第II篇第2章の覚書)。それに読まれざる古典ゆえ、その論理の当否の判断が至難である。 全体を通じて、ピグーが提示したのは次の3命題である: (i) 国民分配分 (GDP) が増加し、いずれの集団の絶対的取り分も減少しない場合、社会全体の経済的厚生 (そして全体の厚生) は増加する; (ii) 貧者の絶対的取り分が増え、かつ全体の国民分配分が減少しない場合、社会全体の経済的厚生 (そして全体の厚生) は増大する; (iii) 貧者の取り分の通時的変動ないし通時的不均等が縮小すれば、社会全体の経済的厚生 (そして全体の厚生) は増大する。 これらの命題が、複雑な論理により、かつ統計問題 (e.g. 独自のCPI案やパレート法則批判) を交え数理経済学的手法も活用しつつ展開されている。評者には、これら命題はピグーの価値観が混入した「論証」にみえる。 W&Wはスミスの『国富論』とマーシャルの『経済学原理』(以降、PE) 第6編「国民所得の分配」を出発点にしている。「富」は「国富」と同義であり「国民分配分」の意である。スミスは「国富が大きい国ほど文明度も高く、万民を豊かにする。そして自然に委ねるとき国富も最大になる」と主張した。爾来、古典派はこの考え重視のためプルートロジー (富の理論) と呼ばれる。  他方、ピグーはPE第6篇にみられる発想を理論の中枢におく。「資源の限界純生産物があらゆる用途で均等化するとき、分配分は必然的にその実現可能な最大量になる」、および「利己心は、もし妨げられなければ、これらの限界純生産物を均等化する傾向をもつ」。これはスミスの着想の新古典派的定式化である。これがW&Wのよって立つ基本線であるが、この成立は ― 証明によるのではなく ― 当然視されている (cf.第2篇第3章)。 ここで注記が必要である。第1に、マーシャルの理論は忠実には継承されていない。PE第5篇の理論に「本質的な」注意は払われていない。第2に、第6篇は「長期の理論」として展開されている。時間の識別はPEにとり本質的だが、W&Wはそうした識別を欠いている。  国民分配分を論じるとき、W&Wはマクロ的な生産関数を重視している。すなわち、(待忍を含む) 非労働、労働 (非熟練労働と熟練労働。そのさい「技術的能率の変化」も重視)、および「不確実性負担」という生産要素の組み合わせで決定されるという主張である。  さて、「限界純生産物の均等化が国民分配分を最大化する」という基本線に言及したが、これがもたらされない要因を追跡し、それらを分析すること、これがW&W 第II篇「国民分配分の大きさ」の主題である。「不完全な移動性」、「取引単位の不完全な可分性」、「産業の相対的変動」等が要因として指摘され分析されている。 中でも有名なのが「社会的純生産物と私的純生産物の乖離」である。彼が問題にするのは、この乖離を適切な方策で縮小させることで国民分配分を大きくすることである。 これが (i) 当事者間の契約問題 (方策は契約関係の変更)、(ii) 当事者以外が被る用役・負の用役の問題 (豊作は補助金・租税)、(iii) 独占的競争、(iv) 双方独占のケースで論じられている ((ii) が外部経済・不経済のケース)。これらは「他の条件が不変」という部分均衡論で論じられており、それは国民分配分の増大分析にとり適切かという問題は残る。 W&Wが書かれた1912年頃、「一般均衡理論」はイギリス以外では大きな地歩を築いていた (cf.『価値および価格の理論の数学的探究』(Fisher ,1892)、『価値、資本および地代』(Wicksell, 1893)、『理論経済学の本質と主要内容』(Schumpeter, 1908))。これらは、市場における価格の決定メカニズムを課題にしており、国民分配分は完全雇用下で所与としていた。他方W&Wは、国民分配分の最大化、国民分配分の増減を課題にしており、価格の均衡化には関心を寄せない。それでもなお限界純生産物の経済全体での均等化を根本原理と考える点で、「限界効用均等の法則」を根本原理と考える一般均衡理論と類似の要素(「部分均衡論」を適宜取り入れた [e.g. 第Ⅱ編第8章] 「ピグー流一般均衡理論」とも呼べる) が認められる (cf. 1935年10月、ヒックスは「ピグーは根本的には一般均衡論者」と評した)。 2.ケインズ革命とロビンズ批判 戦間期ケンブリッジで有力な経済学者と言えば、ロバートソンとホートリーである。ともにケインズが『一般理論』(1930) に至る過程で重要な役割を演じている。ロバートソンの『銀行政策と価格水準』 (1926) は『利子と物価』 (Wicksell, 1898) に通じるところがあり、ケインズが『貨幣改革論』(1923)から『貨幣論』(1930) にシフトする誘因になった。ホートリーの著作と批判は、ケインズが『一般理論』に至る過程で大きな役割を果たした。しかもなお両者は『一般理論』に批判的であった。そして両者ともその立論はピグーとも大きく異なっている。理論的には、ケインズの方がロバートソン、ホートリーに近い。この状況をどう理解するかはピグー評価のうえで重要となろう。   ロビンズによるピグーの旧厚生経済学批判が序数的効用理論に基づく「新」厚生経済学への道を拓いたのだが、ここでは次の点を指摘しておく。ロビンズの批判には、プルートロジーへの批判が強く、希少な手段を目的に配分する問題こそが経済学の課題であるとの信念があった。その結果、ピグーが追究したかたちでのプルートロジーまでもが否定されたのは不幸なことあり、この点でピグーの再評価は必要であろう。   最後に翻訳の感想であるが、W&Wが邦文で読めるようになったことは、当該分野の今後の研究触発に大いに有益である。もう少し現代調、繰り返しの抑制 (例えば、「明らかに」「したがって」など) があってもよいと思うが、込み入った論理を有する古典の場合、さまざまな翻訳方針がありうる。ここに監訳者および訳者の労を讃えたい。 (参考文献) 拙著『ケインズの理論』東京大学出版会、2003年。 拙著『ケインズとケンブリッジ的世界』ミネルヴァ書房、2007。