2018年6月21日木曜日

(覚書) 第2次大戦 (欧州戦線) 



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(覚書) 第2次大戦 (欧州戦線) 

1. 勃発

・1939年8月に独ソ不可侵条約という考えられない条約が締結された(これはポーランドの二分割支配を秘密事項として含むものであった)。ドイツは9月にポーランドに侵入 (ソ連もポーランドに侵入) し、これにたいしイギリスはドイツに宣戦を布告し、ここに第2次大戦と呼ばれることになる大戦が勃発することになった。

・しばらくは戦線は静かに推移していたのだが、それが破れたのは、ドイツがベルギー、オランダ、フランスにたいし大攻勢をかけた1940年5月のことである。ドイツ軍はフランスが警戒を怠っていた場所から突破、あっという間にフランスを降伏に追い込み、6月にはフランスを占領してしまう事態が生じた。フランスは北側がナチスの直接統治下、南側をヴィッシー政府による統治(とはいえ、これは傀儡である)という状況に置かれ、以降、フランスは闘いを展開することなく、連合軍が入ってくることで終戦を迎えるということになった。

・ベルギー国境周辺に配備されていたイギリス軍は追い込まれダンケルクに至る。ドイツ軍はこれを襲撃することなく、結果的にイギリスに大軍の脱出をゆるすことになった。これは、ゲーリングがイギリスの空爆によりイギリスを屈服させる作戦をとったことによるとされる。いずれにせよ、その直後、ドイツ空軍の襲撃が展開されるが、イギリス軍はこれを退けることに成功した。ヒトラーは、なぜかこれ以上西部戦線を拡大させて、イギリスにたいし全面攻撃を展開することを止めるに至る。

・そして、攻撃の矛先をソ連攻撃の準備に向けることになる。ドイツが実際にソ連攻撃に突入するのは、「バルバロッサ」作戦によるものであり、1941年6月のことであった。独ソ不可侵条約を一方的に破っての決行である。スターリンには米英からもその気配が強くあるとの警告を発せられていたのだが、スターリンはそうしたことが起きるとは最後の最後まで疑わないでいた。そのため、ソ連軍は防衛の準備もできておらず、ドイツ軍の猛攻にたいし敗退を重ねることになった(ソ連側でもう1つの重大な問題であったのは、すでにスターリンの粛清行動は猛威を奮っており、軍部のトップも大粛清を受けていたことであり、この戦いが起きた時、ソ連は軍事参謀的に瓦解状況にあったという事情がある)。

・1941年12月の日本軍の真珠湾攻撃で、それまで「中立国」の立場を取り続けていたアメリカが参戦、さらに即座にドイツがアメリカに宣戦布告。ここで「枢軸国側」と「連合国側」という対決姿勢が明確になった(イタリアはすでに1940年6月にイギリスに宣戦布告をしている)。1942年1月、連合国共同宣言が発表され、アメリカ、イギリス、ソ連などが連合国として参戦する体制がとられることになる。

2. 東部戦線

・ナチス・ドイツは快進撃を続け、モスクワ、レニングラード (1941年9月) へと迫るが落とすには至らず、矛先をスターリングラード襲撃に向けている (1942年6月)。

・だが、ドイツ軍はロシアの冬将軍への準備がなく、かつ戦線が伸びきっていたこと、さらに、ソ連は広大な国土の深部で軍需生産の増強、さらには国土防衛を合言葉に陣営の補強が行われ、1942年11月頃になると攻守の逆転が生じ、ドイツ軍は1943年2月に、ヒトラーの命令に背き、全面降伏するに至った(食糧もなく厳寒のロシア大地に置き去り状況になっていた)。
これは第2次大戦の大きな戦局転換となったことで知られている。ヒトラーはこの状況を挽回すべくクルスク作戦 (1943年7月) を敢行したが、これも失敗に終わり、以降、東部戦線は、ソ連軍が西進を続けていき、ついには1945年ベルリンを攻め落とすかたちで継続していくことになった。

3. イタリア戦線

・戦争が展開されている他の重要な地域に、北アフリカ、イタリアがある。連合軍は北アフリカでもドイツ軍にたいし勝利を続け、リビアやチュニジアを陥れている。

・そして1943年7月、連合軍はシチリアに上陸、イタリア側は戦わずしてそれを受け入れることになった(つまり敗北)(ムッソリーニ・イタリアは第2次大戦でほとんど戦果らしい戦果をあげることがなかったと言ってよい。ムッソリーニの権勢が明確に見られたのは20年代前半から30年代後半あたりまでである。第2次大戦中、ムッソリーニはヒトラーから軽く見られ続けていた。側近に語った話に「ドイツと組んで勝つことと、連合国に負けることとどちらがわれわれにとってよいのだろうか。後者かもしれない」というのがあるほどである。ムッソリーニは、スターリングラードの闘い支援のため、イタリア軍を送ってはいるが、何せ戦力的に貧弱な部隊であった。また、ムッソリーニはギリシアを征服しようとして (ヒトラーに事前に通告することなく) 遠征軍を送るも、ギリシア側から反撃にあい追い返されるという軍事的屈辱を味わっている。おまけに、その直後、ナチスがギリシアに侵入、直ちに征服しており、さらなる屈辱をこうむることになっている)。

・連合軍はその後、イタリア本土に上陸し、1944年1月からモンテ・カッシーノの闘い、アンツィオの闘いに突入する(イタリア本土は北半分をドイツが支配しており、南部から攻め入る連合軍と闘うかたちになっていた。イタリア軍が闘っていたのではない)。連合軍はこの戦線 (グスタフ・ライン) を突破して、同6月、ローマに進軍している。
  その後、ドイツ軍は陣地をさらに北方に移動しゴシック・ラインを構築して闘うも、1945年には連合軍に突破されている。ムッソリーニは逃亡するが、途中でパルチザンに見つかり、射殺、あげくにミラノの広場で曝し者として吊るされ、降ろされた後は群衆に唾をかけられ蹴られるというみじめな最後を遂げることになった。

4. 最終局面

・1944年6月6日、「オーバーロード作戦」が決行されるに至った。いわゆる「D-D作戦」である。連合軍は大挙、フランスのノルマンディ海岸に上陸することに成功する。チャーチルはこの作戦が気に入らず、そのためこの作戦は延期を続けていた。その大きな理由は、スターリンが次々に東欧を自己の傘下に収めている事態が一層進むことを、チャーチルが恐れていたことによる。チャーチルは、イタリアにいる連合軍をバルカン半島に進軍させることを望んでいたのだが、スターリンは、その足元を読んでであろう、南フランスを攻めるのに使うべきだと主張し続けたのである (この戦略的問題はルーズベルト、チャーチル、スターリンのあいだで決定されていた)。
この確執にたいし、戦後の世界を、帝国主義国家イギリスとではなく、アメリカとソ連で統治していく構想を抱いていたルーズベルトは、スターリン側についてチャーチルに反対し、結果、連合軍は南フランスへ進軍ということになった(ドラグーン作戦)(ルーズベルトがスターリンの残忍な政策を知らないはずはないと思うのだが、彼はソ連にたいし甘いスタンスを取り続けている)。

・ヒトラーは1944年の暮れにはかなり体力的・精神的にも衰弱状態に陥っていた。同7月には暗殺計画もあった (ヒトラー暗殺計画は全部で40件を下らない)。こうしたなか、最後の賭けとしてヒトラーが指令したのが「バルジ作戦」であるが、これも1945年早々には失敗に終わっている。

・以降、ヒトラーはベルリンの首相官邸の地下壕「バンカー」で暮らすことになる。このなかで起きていた側近の間の心理的動きは、きわめて興味をそそられるものがある。ヒトラーはムソリーニが無残な死を遂げたことを知り、衝撃を受けており、その2日後、ピストル自殺、愛人エヴァ・ブラウンは服毒自殺を遂げている。
残った人物が取った行動だが、宣伝相ゲッペルスは最後までヒトラーに忠誠を誓い、夫人、そして4人の子供ともども自害している (子供は本当に残酷な運命に曝されている)。他方、ゲーリングは、宝石のような美術品を大量に隠し持ち、そしてアメリカ側と直接交渉して、なんと戦後ドイツのトップの地位を確保する計画をもって地下壕を後にしている。だが、彼は逮捕され、ニュルンベルク裁判で死刑判決を受け、その執行直前に服毒自殺している。
  極めつけの悪はヒムラーである。彼も地下壕を抜け出したが、彼は600万人のユダヤ人殲滅の最高責任者であるが、なんと事前に収容所を燃やして証拠を消し、そして
 ごくわずかの息残っていたユダヤ人を解放することで、連合軍にたいし「善人づら」を見せたうえで、連合軍側と取引することを計画・実行していたのである。だが、その後逃亡するも(一般人のなかにまぎれこんで逃げていた)、正体を見破られ、ついには服毒自殺を遂げている。

・こうして阿鼻叫喚の欧州戦線は終わりを迎えることになる。

(参考)ヒトラー、および周辺の人物の心理・行動については、下記のドキュメンタリーにみごとに描かれている。

https://youtube.com/watch?v=b6kcahUdN2Q
https://youtube.com/watch?v=adAsNdyHTLo