2014年5月31日土曜日

ケインズの生涯






ケインズの生涯

                平井俊顕

本章は,ケインズの生涯ならびにその人となりを,できるだけ簡潔に紹介することを目的としている。ケインズの活躍した時代   それは第一次大戦で瓦解した「パックス・ブリタニカ」を回復させようとする努力が結局のところ挫折してしまい,世界は安定したシステムをもつことなく混乱と分裂の度合いを深めながら第二次大戦に突入していく,という時代である。こうした時代状況を打開すべく,ケインズは新たな経済理論・経済政策論,ならびに新たな世界システムを次々に提唱していった。これらの点で彼に比肩する人物は皆無である。そればかりではない。周知のように,ケインズは『一般理論』を通じて,その後のマクロ経済学,経済政策論,ならびに社会哲学の領域で「ケインズ革命」と呼ばれる深甚なる変革を引き起こしたのである。


Ⅰ.生涯の軌跡1

  ジョン・ケインズ・ケインズは,1883年,イギリスの大学町ケンブリッジのハーヴェイ・ロードで生まれている。父ネヴィルはケンブリッジ大学のフェローであり,『経済学の範囲と方法』(Keynes, N.,1890)で知られる経済学者である。母フローレンスはケンブリッジ大学の最初の女子カレッジ,ニューナム出身の社会事業家である。2 ケインズは,この世に生を受けた瞬間から,ヴィクトリア朝後期におけるケンブリッジ文化を一身に受けとめる境遇におかれていたといえる。家庭にはシジウィックやマーシャルといった当代きっての知識人が出入りしていたし,両親は子供達の教育に非常に熱心であったからである。3
 ケインズは幼少の頃から算数に秀でていたようである。1897年にイートン校(名門のパブリック・スクール)に入れたのも,数学の成績が優秀であったことによる。イートン校での成績も,多数の学術賞の受賞が示すように,非常に秀逸であったが,とりわけ数学,古典および歴史に優れた才能をみせていた。
  1902年,ケインズはケンブリッジ大学のキングズ・カレッジに入学をはたしている。数学をメインとし古典をサブとする特待給費生としてである。カレッジ時代のケインズを特徴づけているのは,様々なサークルでの活発な活動である(彼には,重要な事柄から些細な事柄に至るまで,何ごとにつけても熱心に,しかも非常に優れた成果をもたらしながら余裕をもって行えるという,という天賦の才があった)。政治問題の団体である「ユニオン」,秘密団体「ソサエティー」等の会員としての活動はその一例である。とりわけ「ソサエティー」は,彼の生涯を通じての人生観ならびに哲学観を形成するうえで,決定的な影響を与えるものであった。当時の「ソサエティー」は,哲学者G.E.ムーアの影響下にあったが,なかでも彼の『倫理学原理』(Moore, 1903) は信仰問題で揺れ,それを拒否したシジウィック達の世代の苦闘(「不可知論」)を克服した新しい道徳哲学として,ケインズ達の世代に広く受け入れられていったのである。
  この時期の「ソサエティー」のメンバーであるリットン・ストレイチー,レナード・ウルフ,モーガン・フォースター,ロジャーフライ,ケインズ等は,ヴァネッサ,ヴァージニア姉妹達とともに,交錯する私生活を伴いつつ,華やかな文化活動を展開していくことになる(これが「ブルームズベリー・グループ」であるが、これについては第Ⅲ部でs詳述したとおりである)
  ケインズが経済学に本格的な興味を示し始めるのは,1905年頃からである。マーシャルは経済学者への道をしきりとすすめるが,結局のところ,1906年,ケインズはインド省への道を選択した。しかしながら,20代のケインズが知的情熱を傾けたのは,確率論の研究であった。それはラッセル= ホワイトヘッドによる分析哲学の手法とロック= ヒューム以来の経験論哲学の考え方を基礎にしつつ,命題間の論理的関係を明らかにしようとする壮大なものであった。インド省での仕事にあきたりなかったケインズは,余った時間の多くをこの研究に費やしたのであるが,翌1907年,その成果をキングズ・カレッジのフェロー資格試験論文として提出するに至る。結果は不合格であったが,マーシャルの配慮のもと,その後継者となったピグーから年100 ポンドの給料を得て講師に就任した。41909年,ケインズは彫琢を加えたうえで,この論文を再度提出し,フェローの資格を得ている。こうして彼は経済学者としてのスタートを切ることになった(ただし,『確率論』の刊行は遅く,1921年である)1908-13年にかけて,ケインズは主として金融問題の講義を担当していたが,そのなかのインドの通貨問題をめぐる箇所は,1913年に処女作『インドの通貨と金融』として結実することになる。また1911年には学術雑誌『エコノミック・ジャーナル』の編集者に選ばれている(生涯を通じてその任に就いている)
  19148 月,イギリスはドイツに宣戦を布告した。第一次大戦の勃発である。1915年1月,ケインズは大蔵省に入省することになり,やがて戦争の金融的管理を扱う第1課,さらにはそこから独立したA課の長に任命され,国際金融問題を担当することになった。この時期,イギリスに生じていた緊急事態は,戦争遂行に必要なドルをいかに有利な条件でアメリカ政府から借り出せるかという点にあったが,ケインズはこの交渉において指導的な役割を演じるのである(この頃,「ブルームズベリー・グループ」にあっては,いわゆる「良心的徴兵拒否」問題をめぐり緊張が高まっていた)
  191811月,第一次大戦は連合国側の勝利で終結し,翌1919年1月に,パリで講和会議が開催された。ケインズは大蔵省首席代表として,この会議に列席した。彼は主として,戦前のドイツ経済を支えていた諸要素の組織的破壊,およびドイツが連合国に加えた被害にたいする賠償請求の問題に携わった。だが彼は,講和会議において採択されることになる条約(「ヴェルサイユ条約」),とりわけドイツにたいする法外な賠償請求額に反対して辞任するに至る。そして帰国後,直ちに講和会議における予想外の進展状況の描写をまじえつつ,ドイツにたいする賠償請求額が法外なものであるということを具体的かつ経済的な根拠を示しつつ論じた警世の書の執筆にとりかかった。これが有名な『平和の経済的帰結』(Keynes, 1919)である。
 戦後の国際経済にあっては,難題が山積していた。賠償額と戦債をめぐる問題は,なかでも重要であった。賠償額の場合,ドイツの支払い能力の実情に合わせるかたちで,修正に次ぐ修正が重ねられていった(最後はヒットラーによる一方的な破棄宣告で終わっている) 。また戦債の場合   それは,戦争の遂行に必要な資金を,イギリスがアメリカから借り入れたことから生じた ―,その返済条件は1923年6月の英米戦債協定によって決められたのであるが,これも最後にはうやむやにされるのである。賠償や戦債という問題は,結局のところ,戦争の結果,アメリカが国際金融面においても,イギリスに取って代わる地位に立ったという事実を抜きにしては解決することのできない問題であった。
  ケンブリッジに戻ったケインズは,これらの問題にたいし,在野から積極的な批判を展開している。賠償額・戦債をめぐっては『条約の改正』(Keynes,1922)が,また金本位制をめぐっては復帰反対を唱えた『貨幣改革論』(Keynes,1923),ならびにイギリスの旧平価での復帰(1925年4月)を批判したパンフレット『チャーチル氏の経済的帰結』(Keynes, 1925)が,この点を代表するものである(同時期に,ケインズは生命保険会社の会長やキングズ・カレッジの会計官としても活動している。しかも生涯を通じてである)
  1920年代の初頭以来,ケインズは一貫して「自由放任哲学/自由放任経済学」を批判し,それに代るものとしての「ニュー・リベラリズム/貨幣的経済学」を提唱していた。市場による需給法則に任せておけば最適な資源配分が達成される,という考えをケインズはとらない。それは現実を無視した想定に立っており,実際の市場社会には政府(もしくは何らかの機関)による介入・調整が必須である,とケインズは考えている。この考えは以降のケインズの社会哲学および経済学を貫通している。さらに彼は,市場社会は「似而非道徳律と経済的効率性のジレンマ」を内包しており,市場社会は経済的効率性の観点からは便宜的に必要なものではあるが,似而非道徳律に立脚しているものであるから,いずれは否定さるべき存在である,と考えていた(もっとも,ケインズは名うての[外国為替,株式,商品の]「投機家」であり,この活動により「経済学者」としては有数の資産を残した,という事実をここで付け加えておかねばならない)
  1920年代の後半のケインズの活動も,当時のイギリスが抱えていた経済問題 とくに失業問題 と深く関係するものであった。それを象徴する活動としては,次のようなものがある。第1に,自由党での活動がある。『イギリスの産業の将来』(Liberal Party,1928)という自由党の有名な刊行物があるが,ケインズはこの中心的な執筆者である。第2に,政府委員としての活動がある。ケインズは,1929年に設置され,当時の重要な経済問題について各界の代表者からヒアリングをした「マクミラン委員会」の最も熱心な委員であった。また1930年1月には「経済諮問会議」の委員となり,同年7月にはそのサブ・コミティーである「経済学者委員会」の委員長を務めている。
 このような激職にありながら,ケインズは193010月に大著『貨幣論』を刊行している。これは『貨幣改革論』の刊行直後から執筆が始まっており,6 年あまりの歳月を経て完成にこぎつけたものであった。『貨幣論』は,ヴィクセルの『利子と物価』(Wicksell, 1898) によって先鞭を付けられた「貨幣的経済学」の流れに属している。ヴィクセル的立論(いわゆる「累積過程の理論」)は,1920年代-30年代に,諸学派の枠組みを超えて批判的に継承・発展させられ,新しい経済理論の重要な潮流となったものである。リンダールやミュルダールに代表されるストックホルム学派,ミーゼスやハイエクに代表されるオーストリア学派,そしてロバートソンやケインズに代表されるケンブリッジ学派がそれである。それらは,「古典派の二分法」批判,「セー法則」批判,貨幣数量説批判,市場経済の不安定性重視,という点を共有している。
  しかしながら,ケインズは『貨幣論』の刊行直後から,さらに自己批判的に理論的探究を進めており,激しい理論的格闘を伴いながら,ついには1936年2月に『一般理論』を完成させることになった。それは,不完全雇用量決定の理論を具体的に提示した最初の著作であり,経済理論上の一大画期(「ケインズ革命」)をもたらすものであった。ケインズ革命は,財市場の分析にみられる独自性(「有効需要の理論」)が『貨幣論』以来の貨幣市場の分析の調整を通じて,財市場と貨幣市場の相互関係で雇用量が決定されること,しかもそれは不完全雇用均衡に陥りやすいこと,を提示した貨幣的経済理論の誕生として特徴付けることができるであろう。
  第二次大戦時,ケインズは請われて大蔵省にアドバイスを与える役職を引き受けた。19407月のことである。正式の官僚としてではないが,大蔵省が対処していかなければならない重要課題に具体的な構想を与えていくことを要請されてのポストであった。爾来,彼は,このポストから実に多岐にわたる重要な活動を展開することになる。
 その活動は三つの分野に分けることができる。第1は差し迫ったイギリスの国際収支の悪化にかんするものである。彼は事態打開のためアメリカからの借款交渉の陣頭指揮に当たった。
第2は戦後の世界秩序形成にかんするものである。このなかで最も有名なものは,第二次大戦後の国際通貨体制として提唱された「清算同盟案」であるが,それ以外にも,通商政策,賠償問題,救済・復興問題,商品政策等の領域で注目すべき提案を行なっている。その多くは大蔵省の,そしてイギリス政府の公式見解として採用され,ケインズ自らが代表者となってアメリカ側に提示され,協議された。ここでは,そのうち,救済問題と商品政策(一次産品問題)について,簡単に言及しておくことにしよう。
                        
 救済問題5 ― 戦後の救済問題をめぐるケインズのスタンスは非常に複雑な軌跡を描いている。当初,ケインズは「中央救済・復興基金」構想(様々な国からの現金もしくは現物拠出に基づく共同基金による運営) を提唱していた。だが1942年のはじめになると,考えは大きく変わっている。イギリスの戦後の貿易収支がきわめて困難なものとなり,外国からの借入れなしにはイギリスの拠出は難しくなるから,救済問題をめぐるこれまでの考えを改めるべきである,との判断からである。そこでは,「中央救済・復興基金」構想は放棄され,代わってレンド・リース制度6の継続を重視する方針が採用されている。戦争が長期化するなかで,いわばなし崩し的に実現をみたレンド・リース制度を拡張させるという現実主義的な路線への転換である。その後,ケインズは,レンド・リース制度の継続を希望するという現実主義的な路線をベースにしつつも,他方で「中央救済・復興基金」構想がもつ若干の特徴を「連合理事会」という既存の機構に担わせる,という中間的な案を提示している。これは若干の修正を経て大蔵省の正式案となった。

 一次産品問題(商品政策)7 ― ここでは「商品(一次産品) の緩衝在庫案」の作成者としてのケインズの活動が中心的なテーマとなっている。この点については,その案の背後に,次のようなケインズの市場社会観が存在することに留意することが重要である。1920年代の初頭以来,ケインズは一貫して「自由放任哲学」ならびにそれに依拠する「自由放任経済学」を批判し,それに代るものとして「ニュー・リベラリズム」ならびに「貨幣的経済学」を提唱していた。市場による需給法則に任せておけば最適な資源配分が達成される,という考えをケインズはとらない。それは現実を無視した想定に立っており,実際の市場社会には政府(もしくは何らかの機関)による介入・調整が必要である,と考えているからである。「商品の緩衝在庫案」の基本的な発想も,競争的市場制度は緩衝在庫を嫌うため価格の激しい変動を引き起こしており,それを防止する(ならびに生産者の所得を安定化させる)ためには「国際緩衝在庫案」が必要である,との認識に立っている。
 ケインズはこの案をめぐり都合8度の書き直しを行なっている(第1-4次草案は現存せず,『ケインズ全集』第27巻には第5-8次草案が収録されている)
 原材料の国際統制を行なう方法としては制限(生産規制)を目指す方法と安定化(価格の安定化)を目指す方法があるが,制限は全般的な利益をもたらすことはないので,第5次草案では,主として個別的ならびに全般的の双方における安定化が目指されている。その中心的な構想が「コモド・コントロール」(Commod Control)と呼ばれる国際機関の設置である。それは緩衝在庫を保有し,その操作を通じて世界市場での需給の変動を吸収することにより,商品価格の安定化を図ることを目的としている。しかし,緩衝在庫計画だけでは,事態が悪化するような場合があるかもしれない。そのような場合には,制限計画が緩衝在庫計画を補完する(あくまでも)一時的な救済手段として用いられるべきである。この計画にはもう1つの重要な主張が込められている。それは,関係する生産者に適切な所得を保証することにより彼らの生活を安定化させるというものである。
 一次産品の国際的規制案は第5次草案以降どのように変化していったのであろうか。「原材料の国際的統制」と題されていた第5次草案と,いずれも「一次産品の国際的規制」と題されている以降の草案とのあいだには,かなり重要な相違がみられる。
 第7次草案が第5次草案と大きく異なっているのは,第5次草案では「価格の安定化」(「安定化」)が絶対的な目標とされ,「産出量の規制」(「制限」)は可能なかぎり避けるべきであると言明されていたのにたいし,第7次草案では,「産出量の規制」が「価格の安定化」と並ぶかのように位置付けられているという点である。この変更は,第5次草案で述べられていた基本原則からみると後退しているとの印象を抱かせる。事実,この変更は,第5次草案にみられた「制限」にかんする条項が不十分であるとの批判が,主として農業省ならびにリース- ロスから発せられ,それにたいする一種の譲歩として生じたものであった。
 第8次草案が第7次草案と異なる点は「コモド・コントロール」の定義内容が大幅に拡大している点である。第7次草案までにみられた「常平倉の国際版」云々という表現は退けられ(一般にアメリカという特定国に関連する話は意図的に排除されている),また景気循環の防止という論点は補論Ⅱに回されている。他方,金融の扱いは前面に出てきている。第8次草案では,「価格の安定化」という目標が相対的に後退している感が深い。第7次草案では「ワラス副大統領[アメリカ]の「常平倉」の国際版」という独立した節があり,緩衝在庫計画は前面に押し出されていたのにたいし,第8次草案ではそうした点の強調を読み取ることはむずかしい。しかも「割当規制」について,第7次草案では「一時的である」という点が明記されていたが,第8次草案ではそうした指摘は消えている。さらに,緩衝在庫および割当規制以外にも,様々な規制が対象にされているのである。こうして,「価格安定化」を主目標とする緩衝在庫計画案であった第5次草案に比べると,それは大幅に「制限」(生産規制)を取り入れた妥協案になっている。
 第3は戦後の国内秩序形成にかんするものである。ケインズは,とりわけ雇用問題,および社会保障問題に深く関与している。その内容は,本書第15章で検討することにする。ここではただ,雇用政策におけるケインズの理論・政策両面における影響力は,経済部(代表者はミード,ストーン,ロビンズ)を通じて圧倒的であった。1944年の『雇用政策白書』(Ministry of Reconstruction, 1944)は明白なるケインズ的政策思考の勝利であり,これは経済政策における「ケインズ革命」と呼ぶことができること,また社会保障問題に関しては,ケインズはベヴァリッジ案の策定過程で大いなる協力・支援を行い,そして実際,ベヴァリッジ案が実現するのに少なからぬ貢献をなしていること,を記すにとどめる。戦後の資本主義世界を規定することになった,いわゆる「ケインズ=ベヴァリッジ体制」の誕生である。

 これらを検討していくと,政策立案家としてのケインズが,当時のイギリスにあっていかに指導的な立場にあったのかが明らかになる。それは,国内での強力な指導力の発揮,および国際舞台での(アメリカの力を前にしての)挫折の繰り返しであった。一方でケインズ的な社会哲学の浸透と,他方で世界政治・経済の舞台での大英帝国の惨めな敗退― このコントラストをケインズは身をもって味わったのである。1946年3月に「国際通貨基金」および「世界銀行」の創立会議に理事として出席したのであるが,帰国直後,持病の心臓病で亡くなっている。8


Ⅱ.気質

  ケインズには対照的な気質の共棲 実はこれはブルームズベリー・グループに共通している が認められる。
 1つは伝統への従順さである。保守的な気質の心根の優しい父にたいして,そして勝ち気な母にたいして,ケインズは生涯を通じて非常に従順な息子であった。ネヴィルの日記,両親との手紙などをみても,理想的といってよいほど親子関係が円満であったことは明らかである。ケインズは行政的事項や世俗的なことがらにも卓越した才能を発揮した。少年時代から父の収集した切手の市場評価を一任されていたことに,すでにその一端を垣間見ることができる。
 もう1つは伝統への反抗である。ケインズには,学問・思想の分野でも生活実践の分野でもつねに新たなるものを追究していくという姿勢がみられる。彼が20代に知的情熱を傾けた確率論はムーアの新しい哲学に触発されたものである。また,『貨幣論』は「ヴィクセル・コネクション」に属する当時の貨幣的経済学を代表するものとして,さらに『一般理論』は不完全雇用均衡を論証しようとする新しいタイプの貨幣的経済学として,ともに主流派である新古典派経済学にたいし批判的な立場に立っている。思想的にもケインズは「ニュー・リベラリズム」の立場をとり,「自由放任主義」にたいし批判的な論陣を張っている。
 ムーアの「宗教」はケインズ()の生活実践を支えるバックボーンになった。彼らにみられる同性愛志向も,ある意味ではこの延長線上にあり,明らかにヴィクトリア的道徳観に抵触するものであった。さらに彼らはヴィクトリア時代の支配的な倫理であったベンサム主義を終始嫌っていたが,それは経済的価値観を最優先させる倫理観にたいする嫌悪であり批判であった。
 「伝統への従順さ」と「伝統への反抗」は領域によっては激しい摩擦を引き起こす。性道徳をめぐってはとくにそうである。だが,ケインズ達は同性愛の相手を両親の家に連れていっているし,幾度もパーティを開いている。ケインズ達は,赤裸々な性的行為について愚劣なまでの具体性をもって露呈させるのであるが,同時に両親にたいして驚くほど従順なのである。彼らはこのような「あやうい」領域にあっても,自らの意識内部でのみならず,両親とのあいだでも葛藤を引き起こすことなく,生活を継続させることができたのである。

III. 多様性

 哲学者,経済学者,政策立案家としてのケインズ9については,後の諸章で述べることにして,ここでは,多様な側面をもつ彼のその他の側面に触れておくことにしよう。
 ケインズは,『確率論』に明白なようにきわめて抽象的・哲学的な考察から,『貨幣論』や『一般理論』にみられるような理論的考察,さらには『平和の経済的帰結』にみられるような現状を把握する能力,そして的確な代替案を提示する能力,「国際清算同盟案」に代表されるような世界秩序の構築案を提示する能力に至る,非常に高度の抽象的,理論的考察を要求される分野において,卓越した才能を示した人物である。抽象的思考と同時に具体的構想,精密な思索と同時に高邁で大胆な構想,そのいずれにあっても驚くべき才能を発揮した。
 だが,彼の才能はそれにとどまるものではない。彼は卓越した実務能力をも備えており,それに将来に向けて賭けるということに喜びを見いだす人物であった。こうした点は,彼が長年にわたって生命相互保険会社の会長を勤めたことや,キングズ・カレッジの会計官としてその資金運用の責を負ったことに,典型的に示されている。そうした業務にあっては,巨額の資金が株式市場,債券市場,外国為替市場で運営され,そこから収益をあげることが要請される。
 ケインズはこうした才能を,自らの個人資産,さらに身近な友人 ヴァネッサやダンカン の資産の増殖のためにも使った。彼は外国為替市場,株式市場,商品相場を対象とした名うての「投機家」であり,一度破産寸前に陥ったものの,これらの活動により「経済学者」としては異例の資産を残すに至った。
 ここで,1つの興味深い問題が浮かんでくる。それはこうした「投機的行為」と,ケインズが唱道していた社会哲学との齟齬をめぐる問題である。すなわち,本書第9章でみたように,同時期,ケインズは資本主義システムを,「金儲け本能」を根本とする「似而非道徳律」に依拠する社会であると激しく批判し,と同時にそうであるがゆえに,経済的効率性という点ではこれに勝るシステムはない,と評価していた。ケインズが当時のソヴィエトに一定の評価を与えたのは,資本主義システムの根底に位置する「金儲け本能」の根絶を目指した試みとみたからであった。道徳的には不快な資本主義は変革していかねばならない,とケインズは唱えていた。
 こうした社会哲学を唱道する一方で,為替,株式,商品相場に大胆に手を出して資産の増殖を楽しむ,というケインズの行為を,われわれはどのようにとらえればよいのであろうか。この点をより具体的にみていくと,次のようになる。

 (i) ケインズは,『一般理論』において,株式取引所の発達が,市場の平均をみて行動する近視眼的な投機家という泡を醸成し,そのために本来の投資活動が阻害されている,とみている。だが現状で株式取引を続ける以上,自らがそうした「投機家」たらざるをえない。ケインズはそのようなことを意識しつつも,投機的に行動していることになる。
 (ii) ケインズは,一次産品の価格変動の激しさが世界経済にもたらす悪影響を是正することを目的として,1940年代には「国際緩衝在庫案」を策定している。これにより競争システムのもつ欠陥を是正し,価格の安定化を図ろうとしたのである。だが,個人的には,彼は商品投機を盛んに行う人物であった。
 (ii)ケインズは,戦間期のヨーロッパ経済が激しい為替変動により不安定な状態を続けるなか,経済の安定を図るべく,経済政策家として様々な提案を行っている。そして国際通貨体制をめぐるその最終的な提案が「国際清算同盟案」― 一種の固定相場制 であった。だが,彼は同時期,乱高下する為替相場にあって「投機家」としての活動を続けていた。

 こうしたことはどういった精神のもとで可能なのであろうか。そうした投機的活動に従事したがゆえに,様々な問題点を見抜くことができた,というだけでは,説明はつかない。社会哲学と,投機的行為のあいだには,基本的な齟齬が認められるにもかかわらず,ケインズはそれらを悪びれることもなく同時的に遂行している,という事実は残るからである。彼がこうした矛盾に悩んだという気配はない。

  ケインズには,じつに様々な顔がある。彼は身近の人々(両親,,友人)にたいして,きわめて多くの愛情と援助を惜しまなかった。また彼が行った晩年の対米交渉,政策立案をめぐる文字通り,身を粉にしての活動は,感動的である。それは愛国者であり,「ノーブレス・オブリージェ」に発する行動であった。そしてこうした多忙な生活を送りながらも,彼には人生を楽しむ余裕があったこと,さらに,彼は芸術的活動の価値をきわめて高く評価し,若い芸術家の援助に努力を惜しまなかったのも,また事実なのである。
 こうした多面的な顔をもつケインズを,全人格的にとらえるには,彼がブルームズベリー・グループの有力なメンバーである,という点に思いをめぐらすことが重要である。彼がムーアの倫理学から受けた影響は,変化はあるものの,生涯を通じて持続するものであったし,またブルームズベリー・グループのなかでの活動を通じて創り出された価値観,社会観は,ケインズの行動を深く規定するものであった。
 ケインズは両親にたいしてはきわめて従順であったが,彼自身は,家庭,,妻といった観念を重視する人間ではなかった。何よりも,虚飾を脱いだ個人間の交遊に最高の価値をおく人間だったからである。この点,そして彼が猥褻で情事に耽ったという点― 彼は基本的にホモ・セクシュアル10であった ,さらには同時に事物の真理を深く追究することを愛好したという点,これらはいずれもブルームズベリー・グループを通底するものである。


1) 詳しくは平井(2000, 第2章;2003, 第4章)を参照。
2) 妹マーガレットはアーチバルド・ヒル(1922 ,ノーベル賞受賞) と結婚する。弟ジョフリーは高名な外科医であり,ウィリアム・ブレイクの研究家としても知られる。家系については,Keynes, F.A.(1950),Brown(1988)がある。
3) ケインズの幼少年期の資料としては,「ネヴィルの日記」(マイクロフィルム化されている。巻末「参考文献」の「一次資料」を参照)のほか,イートン校での成績表,および家族に宛てて書かれた手紙が残っている。
4) マーシャルは、ネヴィルのような側近にすら、好かれていなかった。このことは「ネヴィルの日記」が明らかにしている。Maloney (1985, pp.64-65)を参照。
5) 詳細は,平井(2000,第4章)を参照。
6) 1941 3 月に成立した(アメリカの)「武器貸与法」(Lend-Lease Act)に基づくもので,軍需物資を連合国に提供し,その支払いは危急の事態の終息後でよいとした。
7) 詳細は,平井(2000,5)を参照。
8) ケインズの遺した遺言(19412月。巻末「参考文献」の「一次資料」を参照),彼の心的状況を知るうえで非常に興味深いものである。平井(2000,補章)を参照。
9) 社会哲学者としてのケインズは、本書第6章ですでに論じた。
  10) この問題を最初に明らかにしたのはHolroyd(1967)である。Skidelsky(1983,Ch.8)も参照。ホモ・セクシュアルは,「ブルームズベリー・グループ」に広くみられる現象である。この視点および心理的観点からの検討については,Hession(1984, Ch.6)を参照。