2014年5月30日金曜日

グローバリゼーションを引き起こした5つの要因





グローバリゼーションを引き起こした5つの要因

                     平井俊顕

グローバリゼーションを引き起こした5つの要因であるが、「ネオ・リベラリズム」は広い意味における思想上の展開である。「金融のグローバリゼーション」および「資本取引の自由化」は、金融の自由化の促進を目的とした、政府および金融機関による意識的な運動である。「新産業革命」は、アメリカの多数の若手企業家によって展開されたIT革命である。そして「社会主義システムの崩壊」は、資本主義システムのライバルの消滅である。本節では、これらを簡単にみていこう。

1. ネオ・リベラリズム

政治哲学における多くの用語と同様に、ネオ・リベラリズムは、歴史的に、異なる意味をもつものとして使われてきているが1、ここでは、ハイエクやフリードマンを代表として1980年代から使われてきたもの、そして一般大衆や政治家のあいだで理解されてきたものとしてとらえることにする2
 ネオ・リベラリズムの主要な主張は以下のとおりである:すべてを市場経済に委ねよ;個人の自由な活動を最大限に尊重せよ;政府は市場に干渉するべきではない;政府は裁量的な経済政策をとるべきではない;できるだけ多くの規制が撤廃されるように構造を改革すべきである。このように主張したネオ・リベラリズムはこの30年間、支配的な思想であった。
  ネオ・リベラリズムの代表的な思想家のあいだに大きな相違がみられる、という点は容易に見つけることができる点である ― 例えば、自由や市場についての理解において。われわれは、例えば、ハイエクとフリードマンのあいだ、あるいは、ハイエクとロビンズ/ナイトのあいだに顕著な相違を認めることができる。だが、ここは、そのような次元で比較を行う場ではないことを、あらかじめ断っておきたい。
 さて第1に、ネオ・リベラリズムはサッチャーやレーガンから圧倒的な支持を得ることになった - とりわけ、サッチャーはハイエク、レーガンはフリードマンである。両政府とも軍事力の強化を重視していたため、けっして小さな政府を達成することはできなかったが、ここで指摘したいのは、双方とも政治思想としてのネオ・リベラリズムを唱道したという点である3。サッチャーは労働組合、政府系企業、および旧態依然たるシティに対抗するための社会哲学としてネオ・リベラリズムを称揚した。他方、レーガンは、上層階級の所得税や法人税にたいする大幅な減税、ならびにミドル・クラスや下層階級の所得税の増税を実施することで企業を優遇するために、ネオ・リベラリズムを称揚した。
 第2に、ネオ・リベラリズムは経済学界から強力な支持を得ることになった。
アメリカにあっては、マネタリズムを経由して「新しい古典派」(代表はルーカス、キドランド、プレスコット)が、ケインズ経済学にたいする激しい批判を展開しながら、主流派マクロ経済学になっていった。
 彼らの経済モデルは、経済主体の合理的期待形成能力、市場における瞬時的
な均衡、およびセイ法則を想定するものであった。いわゆる「政策無効性命題」や効率性市場仮説に基づく金融工学は、同じ線上に並ぶものと言うことができる。
 それまでの主流派経済学は「新古典派総合」であり、それはケインズ経済学とワルラスの一般均衡理論で構成されるものであった。この枠組みにおいては、不完全雇用下では裁量的経済政策が重要とされ、他方、一般均衡理論は完全雇用の状況を描写するものとして重要だとされた。そしてその社会哲学はこの総合の上に構築されていた。
 ネオ・リベラりズムは、一言で言えば、新古典派のミクロ経済学は維持され、マネタリズムは新しい古典派理論はケインズ経済学にたいする代替案として唱道される、という枠組みのうえに構築されたと言えよう。こうしてこの30年間、経済理論と社会哲学は同じ船に乗ってきたと言えるであろう4 。この現象は、経済思想史において初めて現れたものである。
こうして、ネオ・リベラリズムはこの30年間のグローバリゼーションの展
開に大きな貢献を果たしてきた5
                                                                                                     
2. 金融の自由化

金融の自由化は、資本調達手段および投資の場を拡大するために、規制を撤廃することを目的として金融機関によって唱道されたものである。その中でも最も重要であったものは、グラス=スティーガル法を換骨奪胎化することを目的とした粘り強い活動である。
  これらの活動は、ヘッジ・ファンド、ストラクチャード・インヴェストメント・ヴィークル (SIV) やプライベート・エクィティ・ファンドと言った金融組織の激増、ならびにMBS(不動産融資担保証券)、CDO(債務担保証券)、CDS(クレジット・デフォルト・スワップ)と言った「証券化商品」の激増をもたらしていくことになった6

3. 資本取引の自由化

資本取引の自由化を目的とした国際的運動は、1990年代にIMFによって唱道された。いわゆる「資本勘定の自由化」がそれで、その中心人物はS. フィッシャーであった7
 ブレトンウッズ体制が1970年代初頭に崩壊したあと、IMFの機能は不明瞭なままになっていた。その後、IMFは開発途上国への金融に活路を見出すようになった。
 2度のオイル・ショックにより大きな影響を被ったラテン・アメリカ諸国は、1980年代に債務危機を迎えた。これらの状況に直面して、IMFは資本勘定の自由化を大きな課題として取り組むようになった。
 しかしながら、IMFの協定には、当初から資本勘定の自由化は扱われてはいなかった。協定を改正する動きは1997年に頂点に達したのだが、その時、東南アジアで金融危機が発生し、この運動は挫折することになった。とは言え、この運動はグラス-スティーガル法の換骨奪胎化運動と連動するものであったことは記しておく価値がある。
19080年代後半、日本企業による中国や東南アジアへの対外直接投資(FDI)が、円高により飛躍的な増大をみせていた。そしてそのことが輸出の増大を通じて当地の高度の経済成長に寄与していた。話はこれで終わらない。1990年代の初頭、インドやブラジルは資本の自由化政策を採用するに至り、そのことがFDIを通じての当地の経済発展をもたらしていた。
ここで、日本政府が、資本の自由化、とりわけ投機的な国際通貨体制を即し
ていたIMFや世銀にたいし批判的であったこと ― アジア通貨基金構想や宮沢案に示されるような ― を記しておくことは価値がある。これらの日本側の提案は、ルービンやサマーズの激しい反対にあって効を奏することはなかった。

4. 新産業革命

IT産業は、1980年代にアメリカで開始された。当初、日本企業はそこで開発された技術を取り入れた部門を設置することで、世界をリードすることができていた。しかしながら、状況はその後劇的に変化した。アメリカのIT革命はマイクロソフト、アップル、ヤフー、グーグルといった若い企業家の独創力により驚異的な成長を達成することになったのにたいし、日本の既成企業はアメリカの若い企業との競争に対抗することができなくなっていったのである。
 1980年代まで日本企業は産業技術の次元においても世界経済をリードしていたのだが、1990年代になるとアメリカが日本を凌ぐようになっていった。さらに、IT革命は、インドのような国に、アウトソーシングのかたちで大きな経済的発展の機会を提供することになった。
 
5. 社会主義体制の崩壊 なぜソヴィエト連邦は崩壊したのか

ここでは、体制の特性についての議論ではなく、1970年代以来に焦点を合わせてどのようにソヴィエト連邦は崩壊するに至ったのかをみることにする。

石油価格の急落とアフガン戦争の敗北 - 1970年代、2度にわたるオイル・ショックにより石油価格が急騰した。このことによる深刻な不況の突入した先進諸国であるが、これら諸国は新たな油田の発掘により、原油生産の大増産に成功したのみならず、大体エネルギーの活用にも成功した。それに加え、石油多消費型産業は石油の効率的な使用法を開発した。その結果、1980年代の中葉には状況は劇的に一変し、石油価格は急落するに至ったのである。
 このため、石油収入に大きく依存していたソヴィエトは、財政収入の激減を被ることになった。さらに自体を悪くしたのは、アフガン戦争 (1979-1989) に巨額の軍事費を投じていたことである(そして、ついには撤退を余儀なくされることになった)。

ゴルバチョフの台頭 - こうした状況下で登場したのがゴルバチョフであった(1985年書記長就任)。彼が大きな改革を実行したのは、経済の分野よりもむしろ政治の分野である。彼は「共通の家としてのヨーロッパ」というアイデアのもとに、これまでではあり得なかった政治的自由の承認を続けた - とりわけ、ついには統一ドイツの実現に至る東欧での民主主義運動の承認である。
1990年、ゴルバチョフは複数政党制ならびに大統領制を導入し、自らが初代の大統領に就任した。
しかしながら、これらの政治的趨勢は、彼の指導力を弱体化させることにつながり、ついには1991年8月のクーデターの発生により、政治権力を喪失した。
この鎮圧に功績のあったエリティンが政治権力を掌握し、ベラルーシ、ウクライナの指導者とのあいだでベラヴェーシ合意が締結された。このことによりソヴィエト連邦の解体が宣言された。こうして作り出された空間に資本主義が入り込むことになったのは自然の流れと言えよう。