2015年8月3日月曜日

ケンブリッジの市場社会論 - 展望的描写



ケンブリッジの市場社会論

― 展望的描写

 

平井俊顕


1. はじめに

本書は,19世紀後半から20世紀前半にかけてケンブリッジを舞台に活躍した経済学者を取り上げ,彼らが,自ら生を営んできた市場社会をどのように評価していたのかそしてそれをどのように改革すべき(あるいは維持すべき)と考えていたのかを論じた諸章で構成されている.
 これらを受けて本書の最終章である本章では, 次の課題に取り組むことにする.「ケンブリッジの市場社会論 (= 社会哲学) とは一体何なのか.中核になる考えはどのようなものなのか.そしてそれにはどの程度の統一性があるのか (ないのか)」を総合的な視点から示すこと,がそれである.
 本章は次のように進められる.2節および第3節では,本書が対象にする時期のケンブリッジを,それぞれ「マーシャルの時代」(1880年代 - 第一次大戦前),「ケインズの時代」(戦間期)に分け,市場社会論と経済理論がどのような内容のものであったのかを論じる. 4節では,「ケンブリッジの市場社会論」を論じるのに,上記 (2, 3) の方法では捉えきれない,それでいて欠かすことのできない論点を扱うことにする.


2. マーシャルの時代

  マーシャルの時代にあっては,イギリスは依然として「パックス・ブリタニカ」の中枢に位置する「覇権国」であった.金本位制と自由貿易体制の中枢国,金融の中心としてのロンドン,最大の植民地をもつ大英帝国,という構図は維持されていた.この時期,イギリス経済は戦争等による打撃をこうむるということは,まったくなかった (唯一,大きなものといってもボーア戦争程度である).人々は,債券の値上がりや海外投資によって多額の収入を得ることのできた時代でもあった.
とはいえ,この時代になると「パックス・ブリタニカ」の行く末に陰りがみられるような状況が生じてきていた.ドイツ,アメリカの経済発展に,イギリスは焦りと苛立ちを感じていたのである.とりわけ問題となったのは,イギリス経済の相対的停滞であり,その原因としての経済主体(とくに企業家)の姿勢における立ち遅れであった.この時期,もう1つ大きな問題となったのが貧富格差であり,貧困問題の解消(社会福祉政策)に社会の大きな関心が寄せられた.それは底辺層にひしめく労働者階級の生活改善問題であった.

2.1 経済学
1870-1880年代におけるイギリスの経済学の状況については,「混乱とヘゲモニー争いの時代」とでも呼ぶのが適切であろう.この事態は,主としてリカードウ=ミル学派の崩壊,ならびにそれに代わる有力な経済学パラダイムの不在に起因するものであった.
1880年代に突入したとき,その後の経済学の展開に深い影響を与えることになる2つの出来事がケンブリッジで生じた.
 1つは,1884,ケンブリッジ大学政治経済学部の教授にマーシャルが選出されたことである.就任講義「経済学の現状」で,マーシャルは,哲学的・歴史的アプローチとは識別される「科学的」経済学を構築すること,そしてそれを社会の直面する実際の経済問題に適用すること,の重要性を強調した.
  もう1つは,同じくマーシャルによって始められたケンブリッジ大学での経済学教育の改革運動である.マーシャルは,「経済学トライポス」の設立を提案し,その実現に奔走した.この設立により「哲学の支配および歴史の影響から経済学を自由」にし,有能な学生を「科学的な」経済学の研究に引きつけることになる,との信念に基づいてである. この目的を実現するため,彼は2人の大物カニンガムとシジウィック と激しく争うことになった.経済史を重視するカニンガムは経済学トライポスの設置に反対する運動を展開した.ケンブリッジ大学の道徳哲学の教授であり「モラル・サイエンス・トライポス」の任にあったシジウィックも,哲学・倫理学と経済学の分離に反対する意思表示を行った.
  こうした反対をはねのけてマーシャルは戦いに勝利を収め,1903,経済学トライポスの設置に成功したのである.
この時期の経済学の主流派であるが,それはマーシャルに代表されるケンブリッジの新古典派である.マーシャルの経済学の体系は,本質的には3つの独立した理論で構成されている.(i) 市場での交換理論,(ii) 貨幣数量説の現金残高アプローチ,および(iii)景気循環理論がそれである.なかでも,何といっても重要なのは(i)であり, それは『経済学原理』(Marshall[1920].初版は1890)で展開されている.それは,市場における交換現象を貨幣の限界効用ならびに貨幣の一般的購買力を一定とし,また分析の対象を一財に限定することにより,通時的問題に威力を発揮する「正常需給均衡の安定均衡理論」をその中心的命題として提示したものである1.これは静学的な価格分析であり,古典派の生産費説と限界理論に基づく主観価値説を,整合性のある1つの理論で説明しようとしたものである.需給均衡理論は,分配理論にあってもその中心命題として使用されており,その意味で,5編と第6編を『経済学原理』の中心的箇所とみる立場に立つかぎり2,マーシャルが成し遂げたことは静学的な価格理論の提示であり,その中心は市場での交換取引の理論的解明ということになるであろう.
  だが,マーシャルの経済学をこの枠内に収めることは,不可能である.彼は経済社会の成長という問題に並々ならぬ関心を抱き続けたからである.分業を通じて,人間の知識,そして産業組織が成長を遂げていくことを,誰よりも深く分析したのは他ならぬマーシャルであり3,当時驚異的な経済発展を遂げつつあったドイツやアメリカについて,その原因をつぶさに調べたのも,『産業と商業』(Marshall[1919])の著者マーシャルである.マーシャルは,国の理想のなかでも重要な位置を占めるものとして,「産業的指導権」をあげる.それは国民の生活を,諸個人の生活の集合体以上のものと認める理念であり,健全な国民のプライドと密接に関係しているとされる.マーシャルの関心事は次の点にあったイギリスの産業的優位は何に依存しているのか,そしてそれは再び拡大できるのか4.
 こうして,マーシャルには,古典派と新古典派の価値論を整合的な理論で説明するといった理論的探究が認められる一方で,現実の経済社会にあって知識,組織,人的資本の成長を通じ経済が成長を遂げていく現象に深い関心を抱く,という側面が認められるのである.

  ここでマーシャルとさまざまなかたちで緊張関係をもつことになったケンブリッジの経済学者を一瞥しておこう.まず第1にシジウィックである.既述のように経済学トライポスの設置をめぐり,マーシャルと激しく対立したが,その根底には倫理学・経済学・政治学を体系的にとらえようとするシジウィックと,経済学の倫理学からの独立を目指すマーシャルという対立構造が存在した5(ここで,シジウィックの経済学を古典派の枠内に収めきることはできないという点を指摘しておきたい).2にカニンガムである.彼は歴史学派的なスタンスをとっており,経済学トライポスのみならず,保護主義を唱える点でも,マーシャルと対峙した.3にフォックスウェルである.彼は長年マーシャルの近傍にいたものの,思想的,経済学的には対立関係にあった6.4にエッジワースである. (上記3者に比べると差異は小さいが) 経済学における数学的扱いをめぐって,マーシャルと意見を異にするところがあった.
つまり,マーシャル経済学がイギリスの新しい正統派経済学として圧倒的な影響力を振るったとはいえ,周辺の比較的年齢の近い経済学者上記でいえばエッジワースをのぞくととは,思想的,経済理論的,そして人間的にも,ぎくしゃくした関係にあったのである.


2.2 市場社会論
この時期の主要な市場社会論は,ニュー・リベラリズム(ホブソン),社会帝国主義 (J.チェムバレン),自由貿易帝国主義 (アスキス),フェビアン主義 (ウェッブ夫妻,ショー) などによって代表される.これらは帝国主義にたいするスタンスを異にするため,一括して呼ぶには難がある.だが,いずれも国家が社会の貧困問題に積極的に関与する必要性 (社会改革)を唱道する点で,そしてレッセ・フェール思想に批判的であるという点で,共通している.そこで便宜上,これを「コレクティヴィズム」と総称しよう7.
これにたいし,マーシャルがとったスタンスは,本質的に自由主義的である.マーシャルが当時のイギリスが抱えていた産業的,社会的問題に深い関心を寄せていたことは周知の事実であるが,その解決策はいずれも自由主義的なものに落ち着いてしまっている.
貿易問題をみよう.チェムバレンやアシュレイは産業の空洞化とランティエ化を危惧し,その原因を自由貿易ならびに経済主体の対応の遅れに求め, 保護貿易を唱道した(カニンガムやフォックスウェルも然りである).これにたいし,マーシャルもイギリスの産業上の指導権の危機には敏感であったが,この点でのマーシャルの立論はおよそ明瞭とはいえない.彼は自由貿易を是認しており,その主たる理由として,方策を何もとらないということのもつ利点,ならびにアメリカ,ドイツの進んだ企業からの競争にさらされることの利点をあげている.
教育問題をみよう.アシュレイの経営者教育の実践は,この点で正しい路線をとったが,その成果は散々なものであった.これにたいし,マーシャルは「経済学トライポス」の創設に成功するも,それはイギリス産業の指導権の危機を解消するという点からは,むしろ逆効果のものであった.
労働問題をみよう.マーシャルが,労働者階級の抱える貧困問題に心を痛めていたことは,よく知られている.しかし,教育サービスの公的機関による提供により労働者階級の教育レベルを向上させるという提案以上のものではなかった. 彼は,労働者階級の将来的改善について,企業者が「経済騎士道」に到達することに多大の期待をかけており,労働組合や国家の関与には消極的・否定的であった.

 マーシャルは経済理論家としてイギリスの経済学界を,文字通りその支配下に治めることに成功した.だが,その社会哲学の基調は経済的自由主義であり,時代的趨勢からみると守旧的であった.


3. ケインズの時代

  ケインズの時代は, 第一次大戦で崩壊してしまった「パックス・ブリタニカ」を回復させようとする努力が続けられるも結局は失敗し,かといって新しい世界体制は生み出されないまま世界は紛糾を続け, 混乱と分裂の進むなかで第二次大戦に突き進んでいく,という時代であった.この時代は前半(1920-1936)と後半(1937-1945)に分けることができるであろう.
  前半は,「パックス・ブリタニカ」への復帰が,大多数の人々によってまだ当然視されていた時期である.この時期,世界経済における最大の関心事といえば賠償・戦債問題,それに国際金融問題であった.またイギリスをはじめ, ヨーロッパでは失業・不況が深刻な問題になっていた.1920年代は経済の成長を語るような時代環境ではなく,いかにして経済を完全雇用の状態で安定させることができるのか,ということに関心が注がれていた.
  既述の最大の問題 (賠償案,戦債処理問題, それに国際通貨システム) は適切な解決策を見出すことができず,いたずらに紛糾が繰り返されることになった.これらはさまざまの金融危機を引き起こす原因となり,ヨーロッパ経済の混乱は加速度化していくことになる.そして1931年には(再建)金本位制は瓦解するとともに,世界はファッシズムという新たな火種を抱えることになり,第二次大戦に至る道が敷かれていくことになった.
  後半は,前半とはかなり状況が異なっている.この時期,イギリスは不況からの脱出に成功した.それはアメリカからの革新的技術の導入や企業の合理化が格段に進められるかたちで達成されたからである.むしろ,この頃以降は,完全雇用下でのインフレ発生の可能性にいかに対処すべきかという点が問題となった. イギリス以外では,ドイツ,イタリア,日本という軍国主義的色彩を強めた経済,それにソ連という社会主義経済が,計画経済を推し進め,経済的発展を達成していった.これとは対照的であったのはアメリカである.アメリカは1920年代の繁栄から一転,1929年の大恐慌勃発以降,ルーズヴェルト大統領の「ニュー・ディール政策」にもかかわらず経済的回復には成功できないでいた.こうしたなか,世界は多極化,分裂に向かって歩を進め,いわゆる「ブロック経済化」が振興したのである.もはや「パックス・ブリタニカ」の回復は,「夢のまた夢」となってしまったのである.

3.1 経済理論
この時期,ケンブリッジで展開された経済理論をみていくことにしよう.
まずピグーである.彼の主著は『厚生経済学』(Pigou[1920])であるが,これは本質的にマクロ経済学である.そこで問題にされたのは,さまざまな要因 (政策もあれば,知識の不完全性,公衆の特性等もある) ,国民所得(=国民分配分)の将来の増減にどのような影響を及ぼすかであり,いかにすれば国民所得の増大が可能なのか(すなわち経済的厚生を増大できるのか)であった.有名な,累進課税の推奨や,社会的限界費用と私的限界費用の乖離をめぐる議論もこの問題設定に関連している.
  ピグーは『産業変動』(Pigou [1927])で景気変動論を展開している.そこでは産業の変動は失業の変動,そして失業の変動は雇用量の変動として捉えられる.雇用量は労働の供給関数と需要関数の交点で決定される.ピグーはこの基本命題から議論を出発させ,産業変動の近因は労働の需要関数にあり,さらにそれは「産業支出」から得られる利潤に関しての企業家の予想の変化に依存すると結論づける.こうしてピグーにあっては,企業家の予想の変化が景気変動の最も重要な要因として抽出されてくることになる.
以上の他,ピグーには,『一般理論』で受けた自らにたいする批判を後年受容しつつ,ピグー効果に象徴される古典派のマクロ理論の構築への貢献が認められる8.
  ロバートソンの場合, ピグーの基数的効用理論, ならびにマーシャルの価値論・貨幣数量説を陽表的に継承している点でマーシャル=ピグーに忠実である.だが,彼の独創性は『銀行政策と価格水準』(Robertson [1926])で展開された景気変動論にあり,それはその特性上,マーシャル的というよりはヴィクセル的である.これは『産業変動の研究』(Robertson [1915]) の「非貨幣的議論」に貯蓄・信用創造・資本成長の関係をめぐる議論を織り込んだものである.
「銀行政策と価格水準」という題名は,銀行組織による貨幣創造政策は,生産物のうち生産拡張のために必要な分を企業家が購入することを可能にさせ,その結果生産物の価格水準を上昇させるという主題を集約的に表現したものである.彼の基本的な考えは,銀行組織による不足資金の供与により,企業は生産の増大に必要な(実物)流動資本の購入が可能となり,したがって次期にはその増大により生産の増大を実現できるというものである.このとき貨幣量は増大するため消費財価格は上昇する.
ケインズの場合9,『貨幣論』(Keynes [1930])や『一般理論』(Keynes [1936]) において,明示的に反マーシャル的な側面が強調されている.とりわけ,それは『一般理論』において顕著であり,ピグーやロバートソンをして,マーシャルを不当に扱っていると感じさせたほどである (確かに,貨幣理論の扱いや,『一般理論』での短期的な分析手法において,マーシャルの影響は明瞭に認められる).
ケインズ自身の理論的営みからいえば,『貨幣論』は『貨幣改革論』(Keynes [1923])の世界からの訣別であった.そしてこの転換の大きな契機はロバートソンとの議論によってもたらされた.『貨幣論』の理論構造の顕著な特徴は,「ヴィクセル的系譜の理論」と「ケインズ固有の理論」の双方が併存しているという点にある.ケインズが自らの立場をヴィクセルの系譜におく最大の根拠は,バンク・レートを貯蓄・投資との関係でとらえる発想にある.『貨幣論』ではこの発想は,バンク・レート政策により貯蓄と投資の変動を通じて経済の安定 (物価と産出量の安定) が達成されるメカニズムとして用いられている.
他方,「ケインズ固有の理論」は,(メカニズム1) [「任意の期」における消費財の価格水準の決定](メカニズム2) [「任意の期」における投資財の価格水準の決定]の「TM供給関数」[両財部門の実現利潤に刺激されて,企業は来期の生産を拡張(縮小)するように行動するという関数関係]を通じた動学過程として定式化することができる.
  『一般理論』では,新古典派体系にたいする批判は(『貨幣論』とは異なり) 明示化されたうえで,新しい貨幣的経済理論の構築がめざされている.より重要なことは『一般理論』において初めて雇用量決定の具体的理論が提示されたという点である.「ケインズ革命」は,財市場の分析に独自性がみられ,それに『貨幣論』以来の貨幣市場の分析が調整されることにより,両市場の相互関係で雇用量が決定される(しかもそれは不完全雇用均衡に陥りやすい)ことを提示した貨幣的経済理論の誕生と捉えることができる.
最後にホートリーに向かおう.彼にあっては,その貨幣的景気変動論が有名である.だが,彼は独立独歩の理論家であり,マーシャルの影響は認められない.
  ホートリーの『好況と不況』(Hawtrey [1913])では,銀行の行動が決定的に重視されている.銀行は現金保有との適正感で信用貨幣量の調節をはかろうとする.両者の関係が不適正であると考えた場合には,銀行は信用貨幣量を減増させようとして利子率を上下させるが,この行動が景気変動を引き起こす,とホートリーは考える.景気変動の根本的な原因は,現金の変動が信用貨幣の変動にかなりのタイム・ラグを伴って生じるという点にある.このため銀行のとる行動が,景気の変動を防止するのではなく景気の変動を引き起こすとされるのである.

彼らの独自的業績は,おしなべてマクロ経済学の領域にあることが判明する.それは,マーシャルの科学的研究計画(MSRP)の最後にあって,遂行しきれなかった領域であった.この領域にあって,彼らは,たがいに影響と対立をみせながら,それゆえに刺激を受けながら自らの立論を構築していったのである.
 マーシャルの最大の業績たる価値論について,上記4名が目立った動きをみせることはなかった.それはスラッファ (Sraffa [1926]) によるマーシャル批判から発生したのである.スラッファは費用逓減と完全競争のジレンマを問題とし,ついには費用一定の状況を主張することで需給均衡理論そのものを否定し, スラッファ的に古典派に回帰していくことになったが,彼の問題提起は, J. ロビンソンに代表される「不完全競争理論」を生み出すことになった.
 戦間期を「ケインズの時代」と名づけたが,これには若干の補足説明が必要である.前半は,正確にいえば,4名によるライバル的状況というべきであろう.経済学に限定すれば,ケインズの理論は,ピグーの厚生経済学,ロバートソンやホートリーの景気変動論と比べ,頭抜けた存在とまではいえないからである.ケインズの理論が同世代を圧倒的するようになるのは,後半に「ケインズ革命」が生じてからのことである.

3.2 市場社会論10
 戦間期ケンブリッジの指導的な経済学者が市場社会をどのようにみていたのかを,まずまとめて記そう.彼らは,多かれ少なかれ,「ニュー・リベラリズム」的思想のもち主であり,経済の安定,失業対策,所得の不平等などの問題にたいし,政府の積極的な関与,弱者救済の必要性を唱道するスタンスに立っている11. 彼らはこうした市場社会論に依拠して自らの経済学を構築していった.したがって,彼らにあって政策指向的スタンス(福祉国家的思想)は明瞭である.
 彼らに共通するのは,資本主義社会システムのもつ悪弊 金儲け動機, 所得分配の不平等, 繰り返される失業等々に注目し,いかにしてそれを除くことができるのかに力点がおかれているという点である.いずれも自由放任主義は市場社会の状況改善に役立つものではないとの認識を有し,そこにおいて政府が果たすべき役割を強調している(さらに個人の不完全性を意識している点でも共通している).このことは彼らが生活し,探究を続けた資本主義経済の状況と無縁ではない.既述のように,戦間期後半の世界経済はきわめて混乱した状況下にあり,資本主義システムは自信喪失に陥る一方で,ナチズム,ファッシズム,それにソヴィエトが活気を帯びていたのである.
とはいえ,以上にみられる共有認識が展開される論法,ならびにコレクティヴィズムへの移行をめぐるスタンスは四者四様といえる.
ピグー (Pigou [1937]) 12はシュムペーターの二元論的発想,ワルラスの一般均衡理論的な思考法,そしてランゲ的な思考法を用いて資本主義と社会主義を比較・論評している点が興味深い.彼の基本的なスタンスは,資本主義の現在の機構を当分のあいだ受け入れるが,それは漸進的に相続税・所得税の累進化による財産・機会の不平等の是正,重要産業の国有化,国家による投資計画の推進などを通じて 変更していく,というものである.そしてピグーは,資本主義と社会主義を比較・評価したうえで,総合的にみて社会主義に優位性がある,と結論づけている.
 これにたいし,ロバートソン (Robertson [1926]) 13,資本主義システムを「産業のコントロール」,すなわち,資本主義経済における最も重要な単位組織である企業が産業ここでは資本主義経済とほぼ同義内においてどれほどのコントロール力をもてるのか,そしてそのコントロールはリスクといかなる関連を有するのか,という視点から捉えている.「非-調整」のシステムである市場社会という大海にあって,企業規模が巨大化し,さらにはカルテル,トラスト,企業合同といった手法により,「バター・ミルク桶のなかで凝固しているバターの塊」が大きくなってきてはいるが,それは依然として小さな存在である.ロバートソンの基本的なスタンスは,市場システムを維持しつつも,民間企業の是正のみならず,さまざまなかたちでのコレクティヴィズムや協同組合等の充実を通じ,「差別の先鋭化」,ならびに「リスクとコントロールの現状」の是正に価値をおくものである.自らのスタンスを「自由主義的干渉主義」と呼ぶ所以である.
 ホートリー (Hawtrey [1926; 1944]) 14,ホートリー的意味における倫理的価値 (=厚生) を根底基準におき,その見地から,個人主義システムにたいして批判的である.彼は,人間のもつ鑑識力の弱さにより,財市場で決定される市場価値は倫理的価値との乖離を引き起こしているという認識,そして労働市場は「故障」しているという認識のもと,個人主義システムのもつ根本的欠陥を指摘する.これが個人主義システムの,いわば「静態」的側面の欠陥とすれば,次に「動態」的側面の欠陥が問題とされる.個人主義システムは,利潤獲得を動機として企業活動が行われ,それにより資本の蓄積,そして所得分配の過度の不平等を招来しているという指摘である.それらの根本は,結局のところ利潤にあり,利潤の廃絶が厚生の達成という真の目的にとり必須となってくる.こうして利潤に基礎をおかない,したがって偽りの目的である金儲けを廃絶し,真の目的である厚生の達成を,国家を中心にしたシステムによって目指すコレクティヴィズムへの道が志向される.
  ケインズ (Keynes [1926a]) 15は市場社会を,似而非道徳律と経済的効率性のジレンマに陥っている社会とみていた.そしてそのなかに中間組織の増大してくる状況を歓迎するとともに,政策により市場社会のもつ悪弊を除去することの重要性を強調した.ケインズは自らの社会哲学を「ニュー・リベラリズム」と表現している.それは,自由主義と社会主義の中道を目指そうとするものであった16.


4. いくつかの論点

  本節では,ケンブリッジの社会哲学の特性を広い視点から理解するうえで,上記の枠組みでは語ることの難しい, だが欠かすことのできないいくつかの論点を検討していくことにする.「功利主義と効用理論」,「哲学的土壌」,「ソサエティとブルームズベリー・グループ」,「異質な要素」,「外部世界」,「方法論的論点」がそれらである.

4.1 功利主義と効用理論
功利主義哲学17が効用理論というかたちで経済学と結合することになったのは,ジェヴォンズの『経済学の理論』においてである.功利主義思想の中核を占める「快苦原理」が,経済主体の行動を説明する原理として経済学の中核に導入されることになったのである.この導入があった後,功利主義と効用理論の関係が深く追究されたかというと,じつはそうではなかった,というのが実情である.この点に関し,ケインズの「エッジワース論」(Keynes [1926b]) ,次のような興味深い問題指摘がみられる.

  ミル,ジェヴォンズ,1870年代のマーシャル,70年代終わり,および80年代初めのエッジワースは,功利主義的心理学を信じており,この信念のもとにその主題の[限界的]基礎を築いた.後年のマーシャルおよび後年のエッジワース,そして多くの若い世代は,十分には [功利主義的心理学を] 信じてはいない.しかし,われわれはいまだに,もとの基礎の健全性を徹底的に探究することなく,その上部構造を信じている (JMK.10, p.260).

「もとの基礎」とは功利主義的倫理学であり,それが健全なものなのかについて,ある時期以降,だれもが懐疑的になった,とケインズは評している.功利主義との関係が定かでないにもかかわらず,「もとの基礎の健全性を徹底的に探究することなく」経済学者が効用理論を信じている事態に,ケインズは重大な問題提起をしている18.

4.2         哲学的土壌
  ケンブリッジの経済学を語るうえで,無視することのできない潮流,それはケンブリッジでの哲学的展開である.これは本書が対象とするのと同じ時期のケンブリッジで生じており,ムーア19,ラッセル,ホワイトヘッド,ウィトゲンシュタイン,ラムゼイ,スラッファ20といった錚々たる学者によって,収斂と対立を繰り返しながら展開されたもので, 20世紀における最も重要な哲学運動である.
そしてこの期間中,ケインズが深く関与していることは,強調されてもよい (ホートリーもその可能性はある).こうした哲学的環境下にあって,シジウィックの功利主義は忘却されたように思われる.
20代のケインズが知的情熱を傾けたのは確率論の研究であった(刊行はずっと後の1921年である(Keynes [1921]))21.1904年1月に「ソサエティ」で発表された論文にまでさかのぼるこの研究は, ムーアの直覚主義とラッセル=ホワイトヘッドの分析哲学から影響を受けつつ,絶対にありえない事象と確実に生じる事象のあいだにおける命題間の論理的関係 そこでは確率は「命題間の合理的信条の度合」と定義されている を対象とするものである. ケインズは確率を「客観的」なものとして認識しており,これが基本的スタンスである.確率のもつ主観性を否定するわけではないが,それでもsそれは基本的に客観的なものという点が強調されている (ケインズのいう「確率」概念は非常に幅が広く,測定の不可能なものや測定の比較不可能なもの、さらに「重み」(weight)といったものも考慮されていて,かなり複雑である).
『確率論』のもう1つの大きな目的は「帰納法」の正当化である.「帰納法」は人間の認識の進展に多大なる貢献を果たしてきたにもかかわらず,論理学者はその正当化に成功していない.ケインズはこの難問に挑んでいる.分析哲学的手法に基づく演繹的・公理的分析と,「帰納法」の正当化というパラドキシカルな課題の追究である.
ケインズの確率論が,明確に数理統計学的な確率論にたいするアンチ・テーゼを目指したものであったことは,ここで強調しておく必要がある.
   1920年代の後半, ケインズは,ラムゼイ(Ramsey [1926]) からの批判を受け,その哲学的立場は変容していった.同時期, ウィトゲンシュタインは同じくラムゼイからの批判を受け、前期から後期への変貌を遂げることになった. これらの過程で, ケインズとウィトゲンシュタインは哲学的に近づき, それゆえ論理的原子論に立つラッセルとの懸隔はきわめて大きなものになっていったのである. さらに皮肉なことであるが, ラムゼイ(Ramsey[1926])は主観確率論 (「合理的意思決定理論」) の先駆者として今日高く評価されている.
  こうしたケンブリッジにおける哲学的進展は,マーシャルが経済学を哲学から分離させようとした努力にもかかわらず,生じている. 1980年代以降,ケインズの『一般理論』を確率論の視点から捉えなおす試みはさかんに行われてきたが,より一般的にいえば,ケンブリッジの知的状況を理解するには,上記の哲学的奔流を避けては通れないのである.

4.3 ソサエティとブルームズベリー・グループ
ケンブリッジの社会哲学を考察するさいに,経済学界ではほとんど語られることのない,それでいて欠かすことのできない重要なグループが存在する.「ソサエティ」と「ブルームズベリー・グループ」22 である.
「ソサエティ」はムーアの影響下にあり,なかでも1903年に出版された『倫理学原理』(Moore [1903]) は神への信仰問題で揺れ,それを拒否した世代を代表するシジウィックの苦闘を克服した新しい道徳哲学の書として,ケインズ達に広く受け入れられていった.彼らは,いずれも「反功利主義」者である点でも共通した価値観を有している.このことは,ケンブリッジの経済学の哲学的基盤を考えるうえでも重要である.
   ケインズの世代における「ソサエティ」は,その後,リットン・ストレイチー,レナード・ウルフ,ソービー・スティーブン,クライブ・ベル,E.M.フォースター,ケインズを中心として(さらには世代は上であるが,ロジャー・フライを加えて)23,ヴァネッサ=ヴァージニア姉妹(父はケンブリッジ出身の思想家レズリー・スティーブン.ソービーは彼女達の兄) 達を加え,ロンドンに居を移し,交錯する私生活を伴いつつ,華やかな文化活動を展開していくことになる.これが有名な「ブルームズベリー・グループ」であり,戦間期に文学,絵画,評論,経済学等の幅広い分野で,非常に大きな影響を及ぼすに至るのである.「ブルームズベリー・グループ」は「ソサエティ」の合理的・哲学的気風と,後期印象派の芸術家達の直覚的・自由奔放な気風とが,複雑な人間関係を通じ融合することで,知的・文化的価値観を共有している.
     
4.4 異質な要素24
ケインズは,終生,マルクス主義,マルクス経済学にたいし,否定的な姿勢をとり続けた.ケンブリッジの主要な経済学者で,マルクスの影響を受けた者は(後年のJ.ロビンソンをのぞけば)いないといってよい.
そうした環境下での唯一の例外といえるのがドッブである.彼は労働価値説の立場に立つとともに,資本主義経済は資本家階級による労働者階級の搾取(剰余価値)による資本蓄積過程であり,利潤率は長期的に低落していくと考えている.そして資本主義社会が崩壊するのは生産力と生産諸関係の矛盾による崩壊であるとみている.「経済理論」,「社会理論」のいずれにあっても,どこまでも2つの階級のあいだの関係が本質的な問題として設定されている.
ただし,この時期,ケンブリッジの若い世代のあいだにマルクス主義の影響力がかなり強くなってきていたというのは事実である25.またイギリスの当時の知識階層内部でのソ連礼賛はかなりのものであった26.
スラッファのケンブリッジにおける位置はきわめて異端的である.既述のようにスラッファはマーシャルの価値論のもつ問題に大きな一石を投じた.そして彼は,限界分析に基づく新古典派理論を否定し,古典派への回帰を目指すことになった.その成果が1960年刊行の『商品による商品の生産』(Sraffa [1960]) である.彼は寡作であるが,「スラッファ・ペイパーズ」(トリニティ・カレッジ図書館所蔵)のなかにはケインズの『一般理論』に付したメモが存在する.それによると,スラッファは『一般理論』を徹底的に批判していることが判明する27.
  
4.5 外部世界
本書では,ケンブリッジの外部からの声として,2つのグループもしくは学派を選んでいる.LSEの「ロビンズ・サークル」28ならびにアメリカの制度学派29である.それぞれの思想について若干述べることにしよう.

ロビンズ ― ロビンズはLSEの指導的経済学者である.ロビンズ(Robbins [1932]) は制約条件下の最適問題として経済学を定義したこと, そしてこれはFriedman[1953]とともに新古典派の代表的な方法論としてあまねく知られている.またロビンズは戦間期も末になるまでは「自由主義的な経済学・思想」を標榜し,ケインズと貿易問題や不況問題で激しい論争を展開したりしている.
しかし,ロビンズをこの時期だけでみると,誤解に陥る危険性が高い.例えば,彼は1940年代に「経済部」の部長として,雇用政策の設定や福祉国家システムの構築において,ケインズ,ベヴァリッジをサポートする立場に立っている.そのさいは,1930年代の経済分析(それはハイエク理論に依拠していた)の誤りにたいする贖罪という面もあった(このことはロビンズが『自伝』(Robbins[1971])で述べている).
 さらに,ロビンズは「コレクティヴィズム」に反対し,「法の前での平等」を強調する自由主義者であるが,「レッセ・フェール」を唱える単純な自由論者ではない.ロビンズ(Robbins [1963]),スミス以来の完全雇用的な理論システムにたいし,それは総需要の維持という問題に無頓着であると評している.貨幣・信用が含まれる経済システムにあってはとりわけそうであり,そこでは何らかの意識的な工夫が必要となってくる,とロビンズは考えている.実際,ロビンズはケインズ的な思想にたいして肯定的な評価を与えており,国家の介入の余地はかなり存在する,と考えている.自由主義者の欠点は,「規則」を重視するあまり「裁量」を排除できると考えてしまう点である,と述べているほどである.ロビンズの自由主義はハイエクのそれとは,性質を異にするものである点もここで強調しておきたい.ロビンズは,「自生的秩序論」の重要性を認めつつも,諸制度が公共的効用の必要の見地からの真摯な精査が絶えずなされると解されないのであれば,自生的秩序論は「真の自由主義」よりもむしろ「非自由主義の神秘主義」の温床になってしまう,と警告している.

アメリカの社会哲学 - 社会哲学にあっては,アメリカでは2つのグループが識別される.制度学派と「ニュー・ディーラー」が1つであり,新古典派がもう1つである.
制度学派の代表的論客コモンズは現代を「安定化の時代」ととらえる.そこでは個人的自由は,部分的には政府の制裁により,しかし主としては,協同組合,会社,組合,および製造業者,労働者,農民および銀行家等の集団的な行動により, 以前の時代よりも減少する,とされる.コモンズは,この傾向を歓迎するとともに,T. ルーズヴェルトの「スクウェア・ディール」,ウィルソンの「ニュー・フリーダム」およびF. ルーズヴェルトの「ニュー・ディール」 にわたる期間の,アメリカにおける経済改革の主要な設計者」(田中[1993], p. 58)として活動を続けた.制度学派のもう1人の論客J. M. クラークにあっても,現代は「経済活動の社会的コントロール」が進行する時代であり,そしてそのことを歓迎するスタンス(「社会自由主義的な計画化」)が唱道されている.
「ニュー・ディーラー」の場合,制度学派から影響を受けた者と,それとは異なる知的バックグラウンドの者がいるが,彼らはルーズヴェルト大統領のもとでの政策決定に重要な役割を果たした.後者に属する代表格にカリーとホワイトがいる. 公共投資や財政赤字による経済の復興を大胆に主張する彼らの考えは, 近年,「ハーヴァード・トラディション」と呼ばれている30.より重要なことは,こうした政策方針は,当時のアメリカの主要な経済学者を包摂するものであったという点である.
新古典派的流れに目を向けよう.だが,彼らの社会哲学を一義的に規定するのは難しい.当時の新古典派の代表として,人はフィッシャーやナイトをあげるであろう.確かにフィッシャーは,理論家としては今日イメージする新古典派に最も近い学者であるが,彼の社会哲学的,政策的スタンスが自由放任主義であったというわけではない. むしろ彼は社会改革に熱心であったことで知られる. 強制的健康保険や労働者補償法には賛成したし,  … 鉄道料金の激烈な競争に批判を加えた.さらに貨幣政策においては自由放任に強く反対し, 「安定ドル」や「補整ドル」政策を熱心に提唱した彼は自らを自由放任にたいする熱心な批判者であるとさえ考えていた」(田中[1993], pp. 39-40)のである.
さらに,人は自由主義者として知られるナイトを自由放任の陣営に入れようとするかもしれない. だが,次の1文に明らかなように,これは誤解である.

 わたしはただ,求められている知的行動は, 個人的であると同時に集産的であること, そしてレッセ-フェール原理は, 不可能なレベルでの個人的インテリジェンスを想定し, もし厳密にとれば,社会的行動を自由の監視に限定するようなものであること,に注意を喚起したい (Knight [1967], p. 439).

4.6 方法論的論点
ケンブリッジの経済学者は,現実に現出する経済的・社会的問題がまずあり,それをいかに理解し,いかに解決すべきかに優先順位をおいていた.したがって仮定のもつ現実性は彼らにとって重要であり,そのことを犠牲にした厳密性は「似而非」である,と彼らは考えたのである.
これは,現在マクロ経済学にたいする方法論的視座からの警鐘にもなる.今日,主流派の経済学は,厳密な数学化をミクロ的基礎から行うといいながら,そのじつ,(例えば)「代表的家計」に期待効用の最大化を措定することで導出された景気変動モデルで,それが達成できていると考えている.そしてこうして得られたモデルにカリブレーションの手法を用いることで,現実の経済とのマッチングの程度を測るという方法論が正当化されてきている31.この「歪んだ論理実証主義」は本当に価値のある知的営みなのであろうか.ケンブリッジの経済学者が大事にした現実感覚は,じつは現在においても,いや現在の状況が上記のようであるがゆえに,一層重要である.


5. むすび

この20年間,世界経済は激変してきた.なかでも社会主義体制の崩壊, 旧社会主義社会での市場社会化の進展, 米英経済の復興と繁栄が人々の話題をさらってきた.そしてこのことは,「純粋な」資本主義システムを実現させるべく,あらゆる政府の干渉を排除し,個人の自由な経済的・政治的活動を極限まで推し進めることが人間社会の発展にとって肝要である,とする市場原理主義 (ネオ・リベラリズム) を後押しするとともに,市場原理主義が上記の現象を促進する大きな原動力となってきた.この現象・運動は,社会主義的思考への批判攻撃はもちろんのこと,戦後の資本主義システムを支えてきた「ケインズ=ベヴァリッジ的」社会哲学への執拗な攻撃を伴うものであった.
 経済学の分野にあって,この現象・運動を後押してきたのが,「均衡ビジネス・サイクル理論」や「リアル・ビジネス・サイクル理論」に代表される「新しい古典派」である.彼らは, 経済主体の合理性 実態は「超」合理性である を当然とみなすとともに,市場における均衡メカニズムへの全幅的信頼に依拠することで,厳密な理論モデルの構築が可能であり,そしてそれに基づいて現実の経済を科学的に説明することが可能となる,と主張してきた(「経済政策の無効性命題」もこのコンテクストのなかから生まれてきた). 本書との関係でとりわけ重要なのは,それが彼らの社会哲学の表明であるという点を確認することである.経済主体の合理性の当然視,市場における均衡メカニズムへの全幅的信頼,「経済政策の無効性命題」等々というのは,理論仮設であると同時に明確なイデオロギーでもあるからである.
だが,現在,「純粋な資本主義」を求めて邁進してきた上記の現象・運動自体,危機的状況下におかれており,それは市場原理主義の破綻をも意味している.以前から,科学的・客観的特性をもつ技術として高い評価を受けてきた金融デリヴァティブの手法を武器にヘッジ・ファンド これらはグローバリゼーションの申し子であり鬼子である ,グローバル・ベースで短期的投機行動を展開することで,しばしば世界経済を混乱に落としいれてきた.1997年の「マクロ・ファンド」により引き起こされたアジア金融危機,そしてそれに連鎖して生じた翌年のロシア金融危機は有名である.そしてその都度,アメリカ政府は緊急の金融支援を行うことでこの窮地をしのいできた.2001年のエンロン事件も,デリヴァティブに絡んだ粉飾決算などで,企業倫理を問われる重大な事件であった.
そしていま,深刻な経済問題として現出しているのがサブ・プライム・ローン危機である.2005年以降,高金利のサブプライム住宅ローン (リスク・レイヤード)が信用力の低い低所得者層を対象に貸し付けられるようになり,主要銀行はこの住宅ローンを買い上げ,これを担保に「パッケージ」として無数の「証券化商品」(債務の証券化 [debt securitization]である) を階層的につくりあげた.それらは最高の権威を有する格付け会社 (ムーディーズ・インベスター・サービス,スタンダード・アンド・プアーズ, フィッチ・レイティングズ等々)により,きわめて安全な証券との認定を受け (サブプライム住宅ローンの証券化商品の80%にトリプルAの格付けがなされた),世界中に売られていった. 銀行はほとんど審査らしい審査なしにサブプライム住宅ローンを貸し出し,それをもとに証券化商品 サブプライム住宅ローンに通貨などを組み込んだ「エクィティ・パッケージ」を含む を作り出す32,それに格付け会社が最高の格付けを保証する,その結果として証券化商品は高利回りの商品として人気を呼ぶ.この負の連鎖が続いたのである.
こうした巨大な経済的詐欺ともいえる行動に,アメリカの巨大銀行・証券会社が深く加担し,ついには自らがどれだけの価値のものを売買しているのかまったく判断できない状況に陥ってしまい,あげくのはては周知の金融破綻の連鎖である. 
この破綻が人々の目のまえに確然と現出したのが20083月の大手投資銀行ベア・スターンズの破綻である.連邦準備制度理事会(FRB) は証券化商品を保証し,290億ドルの緊急特別融資枠を用意し,それをもとにJ.P. モルガン・チェースがベア・スターンズ株を1株10ドルで買収した (その直前,同社の株価は57ドルであり,2007年には171ドルを付けていた).
 だが,これは金融破綻の序章にすぎなかった.7月にはリーマン・ブラザーズが倒産し,9月になると,アメリカの巨大銀行・証券会社が次々に危機的状況に陥った.FRB,モルガン・スタンレーとゴールドマン・サックスの銀行持ち株会社への移行計画を速やかに承認した.また,FRB,バンク・オブ・アメリカによるメリルリンチの買収を薦めた.金融市場の混乱を防ぐための緊急救済に向けた合弁であり,買収価格は500億ドルとされる.
  そして200810,アメリカ政府は「金融安定化法案」を成立させた.最大約7000億ドルの公的資金を投入して,金融機関の不良資産を買い取ることを定めたものである.12月現在,未曾有の金融危機はアメリカの実体経済を直撃し,自動車業界のビッグ・スリーが危機的状況に追い込まれており,アメリカ政府はその救済を進めていることが大きな話題を集めている.
金融工学による科学的投資戦略を誇った巨大金融資本が,ついには自己の経営活動の実態を把握できなくなって破綻の憂き目に会い,その尻拭いを政府に求める,という事態がわれわれの眼前で演じられている.「自己責任によるシステム」としての「資本主義」は,その先頭に立ってきた巨大金融資本が「自己責任」をとらずに,政府に救済支援を求めている.これが一種の喜劇・悲劇33といわずに何といわりょうか.
考えてみるに,こうした事態が生じた一端,それも小さくない一端は,「純粋な資本主義」を極端なまでに唱道したことに負っている.後先を忘れた自由化は,極端な短期的・投機的行動を野放図にさせ,その先頭に巨大資本が,そして大衆もそうした行為 一攫千金を求め,資本主義の倫理を忘れた行為 を追うという風潮を生み出すことになった.その結果が,ぶざまな,そして「自己責任」を放棄した「国家救済」に哀願する事態なのである.
現在の世界の状況を客観的に評価しようとするさい, 政治家の掛け声やネオ・リベラルの社会哲学とは裏腹に,本来目指すべきは,「中道」のポジションをどのあたりに定め直すべきかという問題である.そしてこのことはプラグマテッィクに決めていくほか,方法のない問題である.資本主義の適正な運営のあり方は,きわめて重要な課題として,現在のわれわれに要請されているのであって,「純粋な資本主義」を求めてのネオ・リベラリズムはいまここに破綻を迎えている.
 いまや,ある意味で,戦間期の混乱した世界経済と似た状況が現出している.本書で探究した,ケンブリッジで展開されたさまざまな社会哲学は,現在のこうした事態を社会哲学的側面から考究すえるうえで,重要な洞察・示唆を提供しているのではないだろうか.



* 本章は筆者個人の見解であって,他の執筆者との調整をはかったものではない.そのことをお断りしたうえで,本書の各章を適宜位置づけてみたが,それらは脚注に記されている.

1) この評価は, Keynes [1925], O’Brien [1990], Stigler [1990], 根岸[2005]と軌を一にする. 社会科学[1926]も然りで, 中心は『経済学原理』の第5編におかれている.
2) わが国へのマーシャル経済学の導入に大きく貢献した福田[1922],1編を高く評価するも,5,6編についてはきわめて低く評価している(p.182).これは彼のいう「価格の経済学」と「厚生の経済学」の識別(p.169)に由来する.なお, 『経済学原理』の翻訳状況をめぐっては西沢[2007], p.532を参照.社会科学[1926], pp.222-2421922年当時のマーシャル夫妻に接した思い出が掲載されていて興味深い.そこには第5編が邦訳されていないことを気にするマーシャルの様子 ―「どうして最も大切な章が訳されていないのだろう」(p.229) が描かれている.
3) 本書第2章の西岡論文はこの視点に立っている. Loasby [1999], Raffaelli [2003], Beccatini[2004]も然りである.
4) マーシャルが資本主義経済における企業家の役割を重視したことはよく知られている. 本書第9章の小峯論文は、この企業者についての, ケンブリッジ内でのラヴィントンの見解を位置づけている.
5) 本書第1章の中井論文は体系的思想家としてのシジウィックを中心テーマとしている.
6) 本書第3章の門脇論文では, マーシャルに抗う者としてのカニンガム, フォックスウェルが検討されている.
7) 19世紀の前半・中葉を古典的自由主義の時代,後半以降をコレクティヴィズムの時代とする認識は,その傾向を是とする(ケインズ, コモンズ),非とする(ハイエク) かを問わず,多くの人々が共有している.
8) Pigou [1950]を参照.
9) 以下,ケインズについては平井 [2005], 6,7,15章を参照.
10) 本節の詳細については平井 [2004; 2007, II]を参照.
11) これはケンブリッジにかぎられた現象ではない. オックスフォードはグリーンやトインビーに代表されるように,このスタンスを強くもっていた.またLSEでは, 「自由主義経済学」 陣営(この検討は本書第12章の木村論文によって行われている)の大半は,1940年代になると,ロビンズ,ヒックスを含め,その立場をケインズ寄りの方向に変えている(Hicks [1973]を参照). なお本書第13章の佐藤論文で検討されているアメリカの思想状況をめぐる「修正派」の見解を参照.
12) 本書第4章の本郷論文では,ピグー(Pigou[1937])にあっての理論的分析と政策提言との乖離・逡巡が大きく取り上げられている.
13) 本書第7章の下平論文を参照. そこではこれまでほとんど検討されたことのないマグレガーも検討の対象にされている.
14) 本書第5章の平井論文は,これまで検討されたことのないホートリーの未刊の著『正しい政策』を対象にしている.
15) 本書第6章の平井論文では, 国際政治・経済の領域から垣間見えるケインズのスタンスが検討されている.ケインズの社会哲学については,平井 [2000], 8章を参照.
16)レイトンは自由党でのこの運動に積極的な役割を演じたケンブリッジ・マンである.本書第8章の近藤論文では,応用統計家としてのレイトンが検討されている.マーシャルやケインズも絶えず「統計的データ」整備の重要性を強調していた. ここで筆者にとって興味深い論点は, ケインズの目指す「統計」の範囲と方法である.これは『確率論』の著者ケインズと絡むかなり複雑な問題である.平井[2002]を参照.
17) 本書第1章の中井論文はシジウィックの功利主義に大きな焦点が当てられている.
18) この問題をめぐって,私は日本金融学会(20079, 同志社大学)および 経済学史学会(20085,愛媛大学)で報告を行っている.
19) 本書第10章の桑原論文では, ムーアを中心にその影響が論じられている.
20) ウィトゲンシュタインとスラッファ間にみられる緊張感の迸る哲学的対立(このことはこれまでに明らかにされたことはない)については, Kurz (forthcoming) を参照.
21) さしあたり,平井[2007], 11章を参照.
22) 平井[2000], 6; [2007], III部を参照.
23) 本書第10章の桑原論文では, このうちリットン・ストレイチーとクライブ・ベルが論じられている.
24) 本書第11章の塚本論文では,ドッブとスラッファが検討の対象とされている.
25) 例えば,Deacon [1985], Ch.10を参照.
26) 例えば,吉川[1988], p.328を参照.
27) この問題を検討したのがKurz [2008]である.    
28) 本書第12章の木村論文はこれを主題にしている.
29) 本書第13章の佐藤論文はこれを主題にしている.
30) Laidler=Sandilands [2002]を参照.
31) Kydland=Prescot [1982]を参照.
32) この点で問題とされているのが,「イールド・スプレッド・プレミアム」[YSP.レンダー(銀行)がモーゲッジ・ブローカーに支払う報奨金],ならびに「プレ・ペイメント・ペナルティ」[借り手がレンダーに支払う違約金]である.
33) この点で,渋沢 [1998] の言葉が想起される.「わたしは実業界に身を投ずるに当たって,論語の教えに従って商工業に従事し,「知行合一主義」を実行する決心であることを断言した」(p.167).



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