2015年9月21日月曜日

ケンブリッジ哲学メモ

ケンブリッジ哲学メモ


ラッセル

ラッセルの哲学は自らが命名した「論理的原子論」として知られている。この
内容を彼は次のように特徴付けている。

  私が私の理論を論理的原子論と呼ぶ理由は、分析において最後に残ったものに到達したいと願っているものが論理的原子であるからである。そのいくつかは、色とか、音とか、瞬時的な事物のような、「特定のもの」(particulars)
   と呼べるものであり、そしていくつかのものは、術語もしくは関係などである。要するに、私が到達したいと願っている原子とは論理的分析の原子であって物理的分析の原子ではない (p.37)

 これはラッセルとホワイトヘッドが『プリンキピア・マテマティカ』で試み
た数学をすべて論理学に還元しようとした試みを、哲学の領域で行なおうとす
るものであった。
ラッセルの哲学は (ウィトゲンシュタインのそれとともに) 「ウィーン学団」
での論理実証主義 (Logical Positivism. それは反「新カント派」であり、「形而
上学の科学からの追放」を標語とした) のバイブルとなった。
 この哲学は、ケインズの『確率論』にも深い影響を与えるものとなった。し
かし、全体としてみると、むしろそれに批判的な人々の方がケンブリッジには
多かったようである。ウィトゲンシュタインは最初から実際には考え方に相違
点があり、ついには決裂にまで至ったし、ケインズも後にはラッセルに批判的
になっていったと思われる。ラムゼーも批判的であり、彼はプラグマティズム
の方向に向かっている。ホートリーの哲学も『思考と事物』において、批判的
言辞はみられないものの、「アスペクトの理論」とはかけ離れたものである。
 ムーアとラッセルの哲学にも明白な相違がみられ、「日常言語」対「理想言
語」であり、「直覚主義」対「形式論理学」・「論理原子論」の対立としてまとめ
ることができるであろう。

ケインズ

ムーアとラッセルの双方から大きな影響を受けて、ケインズは『確率論』をキングズ・カレッジのフェロー資格論文として書きあげた。この書は2つの重要な主張を有している。
 1つは「命題間の合理的な信条の度合」と定義された「確率」が支配する世界での認識論的・論理学的探究を目指そうとするものである。そこでは、前提と命題間の「客観的」な論理的関係が強調されており、この関係を「確率的」領域に適用することで、人間の理性に基づく論理学的な判定のための哲学的基礎づけが目指されている。『確率論』の扱う「間接的な知識」は立論を通じて獲得される。その立論がかなり複雑な一連の立論で構成される場合、形式論理学的な知識が不可欠である。かくして合理的人間による公理論的体系というかたちでの認識が要請されてくる。これは第II部の主要な目的であった。
もう1つは、「帰納法」の正当化である。第I部、第II部で展開された確率論が、第III部「帰納とアナロジー」に直結されている。さらに帰納法とは、事実問題よりも形式論理 (確率関係の存在) の問題であるとの論法が展開されている。ケインズによれば、帰納法は「アナロジー」と「純粋帰納」(これが通常理解されている「事例の単なる繰り返し」としての純帰納法)で構成されている.このうち重視されているのはアナロジーである。事前確率はアナロジーにより得られるから、と論じられている。
知識が不完全であれば、アナロジーは純粋帰納の助けを借りて,より高次の状態になっていく。ここにケインズは,「事物の特性」(例でいえば,「四つ足」、「毛をもつ」といった特性) の数が有限であるかぎり、「完全なアナロジーの方法」(それは個人の内観による)、もしくは「他の帰納的方法」(純粋帰納の助けを借りてネガティブ・アナロジーをみつけていき、完全なアナロジーに近接させていく方法) により、帰納法は正当化できる、と主張するに至る.

ケインズは、その後、哲学に関する著作を書くことはなかったので、彼がどのような哲学を考えていたのかは、かぎられたエッセイでしか知りえない。なかでも重要なのは、ラムゼーとのあいだの関係である。
ラムゼーは(ケインズやムーアが批判した)プラグマティズムを尊重し、またケインズとは異なり、主観確率論を展開した人物として知られる。そしてその過程で、ケインズの『確率論』を痛切に批判したのであるが、それにたいしケインズはかなりその批判を受け入れるような発言をしている。
ケインズは、ラッセルやウィトゲンシュタイン 初期ウィトゲンシュタイン による形式論理学の展開が、しだいに内容を空虚なものにしていき、たんなる乾いた骨にまで至り、ついにはあらゆる経験のみならず、ほとんどの合理的な思考原理をも排除するようになった、と考えている。ラムゼーはこれにたいし人間論理を考察しようとする一種のプラグマテイズムで対抗しようとし、ウィトゲンシュタインにたいし批判的であった (ラムゼーとの緊張した議論、およびスラッファとの緊張した議論は、後期ウィトゲンシュタインの誕生に大きく寄与していることが知られている)
 ラムゼーは人間論理と形式論理を識別した。人間は、感覚や記憶によって提供される事物を扱う有益な精神的慣習をもっており、これを、確率論理に適用することで、整合的なシステムをもつ。確率計算は形式論理に属するが、しかしわれわれの信条の度合はわれわれ人間の衣服の一部であり、形式論理ではなくむしろわれわれの感覚や記憶に近く、自然淘汰によってのみ与えられるようなものである。こうしてケインズは、ラムゼーの考えに大いに賛意を表するに至っている。
そうだとしても、それはラムゼー的な哲学にケインズが移ったということを意味するものではない。なぜなら後期ケインズが主観確率論やプラグマティズムに賛同したわけではないからである。「若き日の信条」(1938) で強調されているのは、自らは合理主義から次第に距離をおき、現実のあいまいさ、それゆえ慣習などを重視する考えに向かっていったという点である。彼は「不確実性と合理性との結びつき」を「超越的な命題の世界」に探ろうとした『確率性論』の「論理主義的確率解釈」を放棄するに至った。

 ホートリーはケインズの『蓋然性論』における蓋然性にたいして、すでにみたように、同調的な見解を表明している。ホートリーはそれをマインド内で引き起こされる諸状態の1つとして、「アスペクト」のタームでとらえている。

確率は、大きさとか距離のように、識別されるアスペクトである。それは、ある命題を主張する思考のアスペクトである (p.158)

どの信条も絶対に確実ではありえないので、信条を具現するどの思考もこの
アスペクト(不確実性)を現出するといえるかもしれないが、一般にこのア
スペクトはたんなる潜在性にとどまっており、マインドによって気づかれて
はいない。判断が到達するところのプロセスが行動の基礎を形成するのに不
十分であると感じられるときにのみ、注意はその疑いに向かうことになり、
それは「蓋然的な」とラベル付けされた知識のストックに入ることになる。(p.161)

 しかし、ケインズが、ホートリーのアスペクト論にどのように対処していたのかについては何の証拠も残されていない。

ウィトゲンシュタイン

1930年頃、ウィトゲンシュタインは『論理哲学論考』(1918年に執筆され、1922年刊行) での主要な枠組みである「論理的決定論」(滝浦p.159) に疑問を抱き始め、その後の試行錯誤を経て、1936年末、「日常言語」を中心にした『哲学的探究』の第1部の本体を書きあげた (最終的には1949)。「言語ゲーム論」を中核とする「後期ウィトゲンシュタイン」の始まりである。
 『論理哲学論考』は、『論理的原子論』(1918)とともに、論理実証主義の生成に大きな影響力があったとされる。が、両者の考え方には大きな相違があった。とくに、後者の展開においてラッセルは、前者の筆者であるウィトゲンシュタインに深く影響を受けたと記しているため、両者が同じ方向を目指しているものと考えられたりした。だが、実際には、この時点にあっても、両者の哲学は非常に異なっており、ウィトゲンシュタインはラッセルの哲学にたいしきわめて批判的であった。そのうえ、ラッセルは、すでにみたように、「論理的原子論」を「経験論的アプローチ」(Empirical Approach) から「合理主義的アプローチ」 (Rationalist Approach. Pears) にシフトさせながら、その後も維持・展開していくことになった。そしてその間にウィトゲンシュタインは「言語ゲーム論」に入っていった (後期ウィトゲンシュタイン) から、両者の関係は緊張から決裂という事態に立ち至ったのである。 

ホートリーとウィトゲンシュタインのアスペクト論

両者のアスペクト論の相違点について述べる。ホートリーの場合、アスペクトは間主観的(準客観的)である。アスペクトは存在しており(その意味でプラトンのイデア的)、それを各マインドがとらえられるかいなかという発想である。事物には多種のアスペクトが付着しているというような捉え方がなされており、ここから概念、思考、その他の重要なコンセプトが展開されていくかたちになっている。それに何よりも強調しておく必要があるのは、ホートリーのアスペクト論は、じつに Hawtrey (1912) にまで遡ることができるという点である。
これにたいして、ウィトゲンシュタインの場合、アスペクト 『哲学探究』
2部第11章で展開されており[第2部の完成は1949] はマインドがとらえる一種の像と考えられている。そしてそれは各マインドによって異なる像としてみえる(有名なジャストロウの「アヒル=ウサギの絵」を想定されたい)。それは、客観的に存在しているというよりも主観性が強いものである。
 次に、より広い視点から、両者の哲学にみられる共有点についてみておきた
い。第1に、ともにケーラーのゲシュタルト心理学への親近性 (TT, 234, 244
参照) がみられ、心理学的着想が強く認められる。第2に、科学主義、論理実
証主義にたいし批判的立場がとられている。第3に、ラッセルの論理原子論に
たいし批判的立場がとられている。
 また相違点であるが、ウィトゲンシュタインの「言語ゲーム的発想」は、ホ
ートリーにはみられない。一般にウィトゲンシュタインは、言語、日常言語を
重視しているのにたいし、ホートリーにはそうした面はみられない。

ホートリーの哲学再論

ホートリーは、感覚経験による意識的領域の知覚を哲学の根底に据えており、その意味で「イデア論」とは性格を異にする。事物の存在を証明することはできない。われわれは感覚経験を通じて意識的にアスペクトをとらえ、それをマインドに構築することを通じてのみ、認識することができる存在である。
 他方で、ホートリーは形而上学は検証不可能という理由で、検討の対象から除外するという立場をとる論理実証主義を批判する。それは、感覚経験による意識的領域の知覚という視点を欠落させているからである。
 最後に、彼の哲学的スタンスを知るうえで有益な個所を指摘しておきたい。

感覚経験の実在は、いかなる形式の経験論においても不可欠の前提である。p.182

検証を必要としない一種の認識 (knowing) を提供するのは感覚経験 
のアスペクトだけではない。感覚経験以外の意識の状態のアスペク
トもそうである。p.182a

価値判断は、その真実にとっては、いかなる経験的観察もおそらく
は関係しえないという形而上学的言明に属する。p.182b


以上、簡単にではあるが、ケンブリッジの哲学的潮流を振り返ってみた。それでも、その哲学が当時の世界の哲学的潮流の一大センターであったことは容易に理解できるであろう。ホートリーが哲学的思考を重ねたのは、このような環境下においてであった。繰り返しになるが、残念なことに、ホートリーがこの環境のなかでどのような哲学的論争を展開したのかを示す資料が見当たらない点である。