2015年9月12日土曜日

第8講 リカードウ『経済学および課税の原理』






第8講 リカードウ『経済学および課税の原理』

                平井俊顕



I. はじめに

デーヴィッド・リカードウ (1772-1823) は、スミスの後、イギリス古典派の形成に最も大きな影響力をおよぼした人物である。主著は1817年に刊行された『経済学および課税の原理』(以下、『原理』と略記) である。この著作の刊行とその普及にさいし大きな功績があったのは、ジェームズ・ミルである。彼は息子ジョン・スチュアート・ミルに厳しい教育を施したことで知られるが、そのジョンはイギリス古典派を代表するもう1人の重要人物である (ジョンについては、第9講で取り上げる)
  リカードウが及ぼした経済学への影響は、きわめて大きく、かつ多彩である。
第1に、その価値論、分配論があげられる。その見解は、ミル父子に継承されて、イギリス古典派の主流派を形成することになる。第2に、リカードウ経済学は、マルクスによってその経済学の礎石として採用されることになった (とりわけ価値論)1。第3に、リカードウの視点は、後年スラッファによって、新古典派経済学(限界理論、需給均衡理論などを基底におく) を批判・否定し、経済学を古典派に基づいて再構築するという流れ (いわゆるネオ・リカーディアン) を生み出した2
 リカードウの影響力は、個々の理論においてもすこぶる大きい。国際貿易理論の基礎である比較生産費説の唱道者(その現代版が、ヘクシャー=オーリン=サムエルソンの要素賦存説 [HOSモデルと称される] である)、金地金論争における通貨学派 (貨幣数量説の立場に立つ。反対派は「銀行学派」と呼ばれる) の中心人物、といった点はその代表的なものである。さらに、リカードウ経済学のもつ理論性は、後代の経済学者によってそれを数学的に定式化する試みを招来してきた(代表的事例にパシネッティ・モデルがある)。
 リカードウ理論にたいする反発・批判はその全盛時にあってもかなり激しいものがあったが、1850年代になると、その演繹性をきらう歴史学派からの批判にさらされることになった。しかし、それ以上に重要なのは、新古典派の流れをつくることになるジェヴォンズによる、批判ならびに新たな交換理論の提唱であった。
 リカードウはユダヤ人家庭に生まれ、株式の仲買人をその生業とした人物であって、スミスやマルサスのように学者として人生を送った人物ではない。彼はナポレオン戦争時に巨額の財をなした後、引退し、その後は経済学的思索を続けた。その結果が『経済学および課税の原理』(1817)である。この著に示される考えが、マルサスを刺激したという話は、前講で述べたとおりである。ナポレオン戦争後襲った不況時に、彼らのあいだで激しい論争が繰り広げられたのである。
 本講では、このような多様な影響力をもつリカードウの業績のうち、その主著『経済学および課税の原理』に対象を絞り、検討を加えることにしたい。第節ではリカードウが、経済学の最も主要な課題であると考えた分配論について述べる。第節では価値論を説明する。第節では、市場価格と自然価格をめぐる重要な議論を、そして第節では貨幣数量説について述べる。


II. 経済学の主要課題

スミスが国富を決定する要因を探究することに重点をおいたのにたいし、リカードウがその主要課題としたのは、国富の分配メカニズムの解明であった。すなわち、社会を構成する3つの階級である地主・資本家・労働者への分配 - その所得は、それぞれ地代・利潤・賃金と呼ばれる はいかにして決定されるのか、さらにそれは資本蓄積が進むにつれて、どのように変化していくのか(つまり動学的な動き)に、主要な関心が注がれている。このことは次の一文に明らかである。

   大地の生産物 つまり労働と機械と資本とを結合して使用することによって、地表から取り出されるすべての物は、社会の3階級のあいだで、すなわち土地の所有者と、その耕作に必要な資材つまり資本の所有者と、その勤労によって土地を耕作する労働者とのあいだで分けられる。
だが、社会の異なる段階においては、大地の全生産物のうち、地代・利潤・賃金という名称でこの3階級のそれぞれに割り当てられる割合は、きわめて大きく異なるだろう。なぜなら、それは主として、土壌の実際の肥沃度、資本の蓄積と人口の多少、および農業で用いられる熟練と創意と用具とに依存しているからである。この分配を規定する諸法則を確定することが経済学の主要問題である。  

3階級の所得決定理論、具体的にはこれは、差額地代論、賃金基金説、賃金・利潤相反論(それに人口論)として展開されている。以下、それぞれをみて 
いくことにしよう。

1.      地代 差額地代論
リカードウの理論には、農業部門と工業部門が登場する。農業部門では収穫逓減が想定されるのにたいし、工業部門では収穫一定が想定されている点が重要である。

農業部門地主は土地を貸すことによって地代を受け取る。農業部門における地代論はきわめて重視されている。
その理論は差額地代論として知られるが、それは、最劣等地 (限界地) で、資本・労働が投下されたときの穀物(小麦)の生産量により、穀物価格は決定されるという理論である。つまり、「穀物の価格は、地代を支払わない資本部分を用いて、穀物を生産するのに必要な労働量によって規定される」というもので、それより肥沃度の高い優等の土地で地代が発生することになる。
この地代論は、時間の経緯とともに、分配率が増大していくという主張 (動学的考察) につながる。つまり、社会の富が増大するにつれて、限界地での穀物生産が進展することになり、それゆえ穀物価格は収穫逓減作用により、上昇していくことになる。地代は、資本蓄積が進むにつれて、より多くの分配を享受することになるのである3

工業部門すでに言及したように、工業部門では、規模にたいする収穫が一定と想定されている。いくら生産しても、投下労働量は変わらず、したがって(自然)価格は一定である。重要な費用は賃金であるから、資本蓄積が進行し、その結果、穀物価格が上昇すると、工業部門の製品の自然価格も上昇することになる。

リカードウは、これらの立論を通じて、資本家が資本の高い利潤率を求めて活動する存在であると規定している。第節で述べるように、このことがリカードウの理論構成にあって、きわめて重要な意味を有するものとなっている。

2.      賃金
リカードウは、賃金に市場価格と自然価格の2種類があるとみている。
労働の市場価格とは「供給の需要に対する比率の自然的作用に基づいて、実際に労働に対して支払われる価格」のことである。また、労働の自然価格とは「労働者たちが、平均的にみて、生存し、彼らの種族を増減なく永続することを可能にするのに必要な価格」のことである。

賃金の騰落が2つの原因から引き起こされることは明らかである。第1に、労働者の供給と需要。第2に、労働者の賃金が支出される諸商品の価格。

引用文のうち「第1」は、賃金基金説による市場価格の決定を意味しており、
 賃金の市場価格に関しては、リカードウは市場の自由な競争に任せるべきことを主張しており、その関連で救貧法批判を展開している。

賃金は市場の公正で自由な競争にまかせるべきであり、けっして立法府の干渉によって統制されるべきではない。 

また「第2」は、賃金の自然価格に関連している。それは時間とともに上昇していくとされる。小麦の価格が収穫逓減の作用により高くなっていくのが、その原因とされる。

   社会の進歩とともに、労働の自然価格はつねに騰貴する傾向がある。なぜなら、その自然価格を規定する主要商品の一つが、それを生産する困難が増大するために、高価になる傾向があるからだ。
 
. 利潤
利潤とは資本家が獲得する所得である。一国の国富のうち、差額地代説により 
地代が決定し、また賃金基金説により賃金が決定される。この残りが利潤である。

  資本は、一国の富のうち、生産に使用される部分にほかならない。そして、労働を実行するのに必要な食物、衣服、道具、原料、機械等から成っている。

    資本の蓄積、すなわち労働雇用手段の蓄積

資本の重要な部分は、賃金基金として蓄積され、労働を雇用するのに用いられることになる。


4.動学的経緯
それでは、時間の経緯とともに、地代、賃金、利潤はどのような変化を遂げることになるであろうか。
農業における収穫逓減法則の働きにより、地代と賃金は増大するが、地代の方の増加の方が大きい、とされる。

地代を引き上げるのと同じ原因、すなわち、食物の追加量を以前と同じ割合の労働量によって供給することの困難の増加が、また賃金をも引き上げるだろう、ということは明らかである。それゆえに、もしも貨幣が不変の価値をもっているならば、地代も賃金も、富と人口の増加と共に、上昇する傾向があるだろう。労働者の境遇は一般に悪化し、地主の状態はつねに改善されるだろう。

また、賃金と利潤とでは、賃金の方が上昇し、利潤の占める割合は減少する、とされる。利潤率は、社会の進歩とともに低落していく傾向がある、との見解が示されるのである。

   生産物のうち、地代を支払った後に残り、資本の所有者と労働者との間に分割されるべき部分中のより大きな割合は、後者[労働者]に配分されるだろう。各労働者の得る絶対量は減少するかもしれないし、またおそらくは減少するだろう。だが、農業者によって保有される全生産物に対する割合で、より多数の労働者が雇用されるのだから、全生産物中のより大きな割合の価値が賃金によって吸収され、その結果として、より小さな割合の価値が利潤に向けられるだろう。このことは、土地の生産力を制限した自然の法則によって、必然的に永続的なものとされるだろう。

 なお、リカードウは、全産業での利潤率は等しいという想定のもとに議論を展開している。
 

. 価値論

経済学にあって、価値論には客観価値説 (労働価値説と生産費説) と主観価値説の2種類が存在する。
リカードウは価値論をめぐり、第1章「価値について」で多くのページをさいて論じているが、その基本的立場は、労働価値説と生産費説のあいだを往来しているといってよい。
リカードウは厳密な労働価値説に満足しているわけではない。資本主義社会
システムでは、固定資本としての機械が使用されるという特質があるため、そのことにより労働価値説には少なからぬ修正が必要となる、と考えるからである。それは次の一文に明らかである。

   [諸商品の] 相対価値は、使用される固定資本の価値が不等であるか、あるいは、その耐久力が不等である場合には、賃金の騰貴およびその結果である利潤の下落によっても、変動することを免れない。

 しかしながら、こう述べつつも、リカードウは以降、主として労働価値説に基づいて立論を展開していくことになる。  

 私が確言するのはただ、諸商品の相対価値は、その生産に投下される相対的労働量によって支配されるだろう、ということだけである (上、p.96)


Ⅳ.市場価格と自然価格

リカードウは、スミスに従い、価格を市場価格と自然価格の2つでとらえる。この点は第4章「自然価格と市場価格について」で展開されているが、その主たる議論は、資本の自由移動が保証されているかぎり、利潤率の均衡化現象が生じ、そのために諸財 (諸産業) で市場価格が自然価格から乖離しても、必ず自然価格に収束していく、というものである。
 リカードウの立論にあって、「資本の自由な移動」は決定的に重要である。これが保証されているかぎり、市場価格を、いってみれば気にする必要はない、自然価格に注意を専念すればよい、ということになるからである。
したがって、上記の意味で、市場価格は一時的・偶発的な原因によって生じ
るものとして語られるのである。

  諸商品の市場価格が、どれほどかの期間、引き続きその自然価格のはるか上にあるか、はるか下にあることを妨げるものは、あらゆる資本家が抱く、その資金を不利な部門から有利な部門へ転じようとする願望なのである(上、p.133)
 
そして、リカードウの立論にあっては、自然価格が市場価格よりも重視されることになる。

諸商品の交換価値、すなわちどれか1つの商品がもつ購買力について論じるさいには、私はつねに、何らかの一時的または偶発的原因によって妨げられない場合に、その商品がもつであろう力のことをいっているのである。そしてそれが、その自然価格なのである (上、p.134)

資本の自由な移動が保証されていない経済では、話が変わってくる。市場価格と自然価格の乖離が恒常化するだろうからである。リカードウはあくまでも諸産業間への資本の完全な自由の存在する経済を、理論の前提にしている(そうではない独占状態において両価格の乖離が生じるという点は、下巻、p.236で実際に論じられている)。
 
この考えは、(リカードウも明記しているように) 明らかにスミスの『国富論』にみられる。

市場価格と自然価格をめぐっての、リカードウのより明確な立場は、第30章「需要供給が価格に及ぼす影響について」で示されている。ここでは生産費説が援用されている。  

   商品価格を究極的に規定しなければならぬものは、その生産費であって、
これまでしばしばいわれてきたように、需要供給間の比率ではない。4
なるほど、需要供給間の比率は、供給量の増減が需要の増減に応ずるまでは、一時のあいだ、商品の市場価値に影響を及ぼすかもしれない。しかし、この効果の持続期間は一時的にすぎないだろう(下、p.233)

競争下におかれていて、その分量をいかなる程度でも増加させうる商品の価格は、究極的には、需要供給の状態にではなく、その生産費の増減に依存するであろう (下、p.237)

こうして、リカードウは需給説を退けるのである。

商品価格はもっぱら需要にたいする供給の割合、または供給にたいする需要の割合のみに依存する、という意見は、ほとんど経済学上の1つの自明の理となってきたのであって、この学問における多くの誤謬の源泉であった (下、p.233)


V.貨幣数量説5
  
リカードウは貨幣数量説論者としても有名であり、金地金論争における通貨学派の代表的論客として知られる。

  この研究の目的の達成を容易にするために、貨幣 [の価値] が不変であると仮定し、したがって物価の変動はすべて、私が論じようとする商品のなんらかの価格変動によって引き起こされるものと仮定するだろう (上、p.95)

いわゆるリカードウの「古典派の二分法」がここにみられる。貨幣価値を不変と
したうえで、まず価値・分配問題を論じ、その後に貨幣価値の変動を問題とする、
という論法である。
 第27章「通貨と発行について」では、イングランド銀行券を地金で支払え、と述べている。これはいわゆる「ピール条例」 (1844) につながっていく。
 
経験の示すところでは、国家や銀行は、かつて無制限の紙幣発行権をもったときには、必ず発行権を乱用した。それゆえ、すべての国家において、紙幣発行権はなんらかの制限と統制下におくべきである。そして、その目的にとっては、紙幣発行者に、その紙幣を金貨なり地金なりと兌換する義務を負わせることほど適当なものはないように思われる (下、p.197)  

   通貨は、それがすべて紙幣から成っていても、その紙幣がみずから代表すると称する金と等しい価値をもつ場合には、その最も完全な状態にある(下、p.203)
 


1)      マルクスはマルサスには厳しい批判的立場をとっている。
2)      Sraffa (1960)がその代表作である。
3)      ただし、リカードウは、技術進歩によって、この傾向が阻止される可能性のあることを考察している。
4)      スラッファはこの考えを継承している。

5) 貨幣数量説については、次の事項が重要である。16世紀の「価格革命」、ヒューム、J.S. ミル(第9講で言及)、フィッシャーのMV=PT、マーシャルのm = kpy、フリードマンのマネタリズム(いずれも後期の講義で言及)。