The Origins and Effects of Our
Morals: A Problem for Science,
A Speech delivered at the Hoover
Institution, November 1, 1983.
平井俊顕
システムについての価値判定ルールの欠如
ハイエクの自生的秩序はやはり「良いモノ」との暗黙裏の価値前提がある。悪い「自生的秩序」はまったく念頭にない。議論の対象から完璧にはずされている。換言すれば、人間社会をみるときにハイエクは「良い」と思うモノにだけ焦点を合わせ、そうでないもの(例えば戦争、争いごと、犯罪など)は考察の対象からはずしている。
本来、人間社会には、いわば「悪い自生的秩序」も存在する。戦争は人間社会から切り離すことのできない悪い「自生的秩序」といえなくもない。それは1つ1つの戦争は単発的ではあっても、人間社会が存続するかぎりなくなることのないものだからである。その意味で戦争も1つの制度である(国防の延長線上で戦争は生じる)。ヤクザ組織も、売春も然りである。いまの社会にはびこっていて消えるどころではないであろう。
したがって「良い」「悪い」を判定する基準がハイエクの自生的秩序論にはないのである。
そうした人間社会に厳然として存在し続ける「悪い自生的秩序」に目を向けないで、ハイエクの批判は、唐突に、そしてすべからく理性主義者、社会主義者に向かうのである。これは、何か一方的な評価法なのではないだろうか。
神秘主義
ハイエクは、個人の認識の無知を強調する。その点で彼は現実主義的である。だが、社会を論じるとき、「天蓋」(=自生的秩序)が強調される。それは、個人がその形成に寄与するところはまったくなく、いわば諸個人の外から社会に被せられるかのようである。「天蓋」の上には神がいて、諸個人は見えない糸で操られているかのようである。社会には諸個人しか存在しないのに、だからすべての秩序は彼らがつくっているはずであるのに、彼らには何の寄与もないのだという。これは一種の「神秘主義」(観念論)ではないのだろうか。くしくも彼はこの論文で
“transcend”
(超越する) という言葉を使っている。
理性主義=社会主義直結論
もし人々が少しでも、「伝統」にたいして異を唱え、自らの望むようにそれを変革しようとする動きをみせるならば、ハイエクはそれを「理性主義者」の愚挙として糾弾する。そしてその矛先はストレートに社会主義批判に向かう。自生的秩序に反旗を翻す行為は、理性主義者のおごりであるとされる。
この論文では、進化論的考察が、ハイエク本来の自生的秩序論に加味されるかたちで論じられている。そしてその進化論は社会ダーウィニズムとは異なるものであることが強調されている。
彼によれば、グループがあるシステムよりもこのシステムを選択することにより、人口が増大していくことが、そのシステムが歳月を超えて生き残っていく条件であるという。そうして生き残ってきた制度は、価値ある伝統として、われわれは守らなければならない、というわけで、現存秩序を非常に重視する保守主義である。
だが、本来、個人主義的に社会をみる
(もっとも他方で、「天蓋」論があるのだが) ハイエクが、グループをもちだしてくるとき、何か矛盾するものを彼の社会哲学に導入してきてはいないだろうかという気がしてくる。個人ではなくグループがシステムを選択するというとき、これは集団としての意志決定のようにもみえる。しかし、もちろん自生的秩序にあってはそうした集団の決定といったことを許容する余地はない。