2016年9月25日日曜日

石橋湛山について 平井俊顕





石橋湛山について

平井俊顕

日蓮宗僧侶の家に生まれた湛山 (1884-1973) だが、幼少時から、他寺に預けられて育っている。早稲田で彼が学んだのは哲学である。ジャーナリストの道に入ったのは、かなりの偶然が作用している。東洋経済新報社に入ったが、かれはそのために入ったわけではなく、たまたま社の事情でそうなる方向に運命づけられたのである。
湛山は、戦前の日本が生んだ最大級の政治・経済ジャーナリストである。彼
は自らを一貫して自由主義者と名乗っている。共産主義、社会主義には批判的であり、政治や軍部の行動にたいしても絶えず批判的であった。そして湛山が日本の自滅の原因としてもう1つあげていたのは、これらの政治・軍部の行動にたいし抑止力となり本来の自由主義的な国家の建設に寄与すべきはずの政党が貧困であり矮小化であったという点である。湛山が最も重視しているのは、政党が具体的な政策を明示し、そしてそれをいかに実行するか、という点である。
議会制民主主義を重視し、なによりも言論の自由の重要性をたえず訴えてい
た。

だが何よりも、湛山の名を歴史的に残すのは経済ジャーナリストとしてである。1920年代後半から生じた金解禁論争において、旧平価による金解禁を唱え、
デフレ政策をとりながら、19301月、それを実行に移した井上準之助に反対し、新平価による金解禁を一貫して唱道した点がそれである。だが、アメリカの大恐慌の発生の影響も受け、193112月には、浜口内閣は金解禁の禁止を行うことになった。この後、為替相場の大幅な下落と、高橋蔵相のもとでの財政支出の大幅な増大により、経済は大幅な改善をみせることになる。湛山はこれらの政策を「リフレーション政策」と名付けている。
湛山は、歯切れよく日本の財政、金融、経済状況を分析している。あまり凝り固まったイデオロギーといったこととは無縁で、事実をかなり大胆に分析しながら、己の見解を相当自信をもって語っていること、そして必ずといってよいほど、具体的な案を提示していることが印象的である。
この点に関して2点をあげておこう。1つは、湛山は通貨体制そのもののあ
り方に大いなる関心を示し、金本位制そのものにたいして批判的であり、「紙幣制度」(=「統制通貨」)が今後の貨幣制度になっていくことに賛意を表明している。もう1つは、1937年以降は、一転してインフレ抑制政策を主張している点である。日本経済がインフレ傾向を示していることから、為替相場を引き上げ、増税を断行することを、その後唱道している。
 己の見解を相当自信をもって語って語るというスタンスは、おそらく大学時の哲学(とりわけ早稲田時代の恩師田中王堂)からの影響によって培われたところが大きいように思われる。なにせ経済を勉強し始めたのは28歳の頃で、しかも上記のような偶然に由来している。ただ、以降の湛山は世界や日本で生じている経済・政治現象についての情報を入手するだけではなく、関連する経済学についても幅広く読みこなしている。
 なかでも湛山が多くの注目を払い続けたのは、ケインズである。『貨幣論』、『一般理論』などについてただ読むだけではなく、1932年には社内に「ケインズ研究会」をつくり、『貨幣論』についての検討を行っているし、『一般理論』についてはその翻訳をめぐり、読み合わせ会を10数回にわたって開いている。
 
 湛山は、非常に多くの具体的提案をするとともに、それらを数多くの研究会や講演会を組織して全国的に講演するというような行動力・実行力のある稀有なるジャーナリストであった。経済倶楽部の創設、(後に)金融学会となる学会の創設、さらには英文雑誌オリエンタル・エコノミストの発刊は、いずれも彼のイニシアティブによるものである。そして何よりも、東洋経済新報社という自由主義的伝統を掲げる組織を困難なる時代にあって、ここを拠点として自らの政治・経済についての見解を発表し続けたことが、特筆されるべきである。