補講1
経済学はどうなっているのだろうか
― この30年を振り返って
平井俊顕(上智大学)
1. はじめに
この30年間、バッシングを浴び続けたケインズならびにケインズ的思考に、人々の肯定的な注目が集まりだしたのは、2008年秋のリーマン・ショックの頃からである。驚くべき勢いでの世界経済の破綻は、自己責任原則のもとでの自由放任を主張し、それにより資本主義は限りなき成長が可能となると謳ったネオ・リベラリズム、非自発的失業を否定し、完全雇用を当然視する前提のもと、あやしげなミクロ理論に依拠しつつ組み立てられた「新しい古典派マクロ」の脆弱性・欺瞞性をも、白日のもとにさらけ出すことになった。
崩れ去った社会哲学・経済学の向こうに人々が見出したもの、そ
れがケインズであった。いち早く反応した知識人をあげておこう。M.ウルフやJ.エッカーマンはそれまで信じてきたネオ・リベラリズムを棄てる発言を行った。R.シラーやG.アカーロフはケインズ的な政策の必要性を主張した。J.ガルブレイスやクルーグマンもケインズ的財政政策こそが今日の危機克服にたいし有効なものであるということを強調した。
何よりも重要なのは、崩落した現場への対処を余儀なくされた政治
家である。経済危機の到来に当たって救いの手が存しない状況下にあ
って、類似した1930年代の大恐慌時代大胆に対処しようとしたケイ
ンズ、ルーズベルトに彼らの目が向かったのである。アメリカ、中国、
イギリスをはじめ、世界中の政治家が、これまでタブー視されていた
財政政策の出動による実体経済の立て直しを実施に移してきた。例え
ば、2009年10月には(イギリスの)ダーリング財務相がケインズを
称揚しながら財政政策の必要性を主張したし、新しく大統領になった
オバマの「アメリカ復興・再投資法」はケインズ的財政政策を明瞭に
反映したものであった。このように主要国の政策の中枢にケインズが
明示的に登場してきたという事実は、長年、レーガノミックスやサッ
チャリズムの支配のもとでつねに批判の矢面に立たされてきたこと
を考えると、たしかに「ケインズの復活」といってよい。
これまでこの講義では、この30年間に、資本主義世界がどのような展開をみせてきたのかを主要なテーマとしてきたので、それらについて読者は、理解されてきたと思う。ここでは視点を変えて、マクロ経済学がこの間、どのような展開を遂げてきたのかに焦点を合わせることにしたい。当然のことだが、マクロ経済学は資本主義世界を理論的・実証的に分析し、それに基づいて経済政策を提案することを主要な研究課題としている。ところが現実はそうしたことを達成する方向でマクロ経済学が発展してきたとはとても言えないのである。本講が
述べようとするのは、そのことを示すために、この30年のマクロ経済学の展開についての批判的スケッチである。
本稿では、最初にマクロ経済学の展開過程の概要を述べる(第2節)。続いて第3節では「新しい古典派」、第4節では「ニュー・ケインジアン」について説明を加える。以上は、アメリカの経済学の状況を反映するものであるが、これだけでは十分な描写にはならない。そこで、
それ以前からの、これらの流れに批判的で、かつケインズ的経済学に依拠する人々を、付論として取り上げる。1つはケインジアンであり、
もう1つはポスト・ケインジアンである。
2. アウトライン
「新古典派総合」― ミクロ経済学としての「一般均衡理論」とマクロ経済学としてのケインズ理論 (IS-LM理論。「所得-支出アプローチ」とも呼ばれる) を中核とする学説 - は1970年代に崩壊した。その後の30年は、経済理論および社会哲学が二極化した時期といえる。便宜上、この時期を2つの局面に分けてみていこう。広い意味での新古典派の内部分解ならびに反新古典派の台頭である。
「所得-支出アプローチ」ケインズ派への批判はマネタリズムによって火蓋が切られた。ケインズ派とマネタリズムのあいだでは、フィリップス・カーブや「自然失業率仮説」をめぐり激しい論争が繰り広げられた。さらにケインズ経済学は、マネタリズムと密接に関連をもつ、しかし理論的にはそれを継承しているわけではない「新しい古典派」によって、一層徹底した攻撃を受けた。
「新しい古典派」には2つの流れがある。1つはルーカスに代表される「(貨幣的)均衡ビジネス・サイクル理論」であり、もう1つはキッドランド=プレスコットに代表される「リアル・ビジネス・サイクル理論」(RBC)である。両者の識別点は、ネーミングが示唆するように、変動の起因を貨幣ストックのランダムな変動に求めるのか、それとも実物経済へのランダムな変動に求めるのか、にあるが、以下の点を共有している。
「新しい古典派」は、個人が (その特有の定義になる) 合理的期待を形成する能力を有するという仮説から出発する。個人が、マクロ経済についての十分な情報を収集・分析する能力を有するという点も当然視されている。「合理的期待」自体は期待についてのテクニカルな仮定である。だが実際には、これは経済政策の場で用いられたため、政策問題の分野でも大きな影響力をもつことになった。
「新しい古典派」は市場経済における価格メカニズムの均衡化機能に絶対的な信頼を寄せる。そして社会哲学においては「ネオ・リベラリズム」を標榜する。「新しい古典派」は裁量的政策、ならびにケインズ経済学とともに発展してきたエコノメトリックス手法に基づく予測を厳しく批判する (いわゆる「ルーカス・クリティーク」)。完全雇用、セイ法則、パレート最適、(期待)効用理論、経済主体の「超」合理性、レッセ-フェールをハード・コアとして有する理論が一世を風靡するという現象は、18世紀第3四半期に新古典派が誕生して以来初めてのことであった。ある意味で、これは、「新古典派総合」のなかのミクロ経済学に属する要素のみを新たなかたちで定式化したものといえよう。
これらの動きに抗して登場したのが「ニュー・ケインジアン」である。彼らは、市場経済における価格メカニズムの不完全性に注目し、さまざまな形態の価格硬直性の原因を追求する。ケインズ経済学の最も本質的な特性をこれらの価格硬直性にみることで、彼らは自らを「ニュー・ケインジアン」と呼称する。社会哲学的には、彼らは裁量的政策を支持しており、その精神において「所得-支出アプローチ」ケインズ派を継承している。だが、(後述するように) 彼らはその理論分析の多くを「新しい古典派」から借りている。
「新古典派総合」の瓦解を招来したもう1つの原因は、その外部に位置する研究者の活動である。「不均衡経済学アプローチ」(クラワーやレイヨンフーヴド)、ポスト・ケインズ派(デヴィッドソンやミンスキー) — いずれもケインズの理論に同調的であり、異なる根拠によるとはいえ、「原」ケインズに現在的価値を認める経済学者 — は、「所得-支出アプローチ」、ならびにワルラス的一般均衡理論のいずれをも批判しつつ、自らの理論を (彼らが本質的とみなす)ケインズの理論に基づいて展開しようとした。彼らはいずれも、完全雇用、セイ法則、パレート最適、効用理論、経済主体の「超」合理性にたいし懐疑的もしくは否定的である。
図1 最近30年の経済学
3. 新しい古典派
「新しい古典派」は、 経済主体の「超」合理性を当然視するとともに、市場のもつ均衡メカニズムに全幅的な信頼を寄せることで、厳密な理論モデルの構築が可能であり、そしてそれに基づいて現実の経済現象を科学的に説明することが可能になる、と主張してきた (「経済政策の無効性命題」もこの文脈下にある)。
「新しい古典派」は自らの理論がミクロの経済主体に依拠した厳密な数理的モデルであると主張している。だが、「代表的家計」というマクロ的主体に基づき、しかも期待効用の最大化を合理的期待形成のもとで行うという想定からモデルを組み立て、そしてそれを「カリブレーション」という手法で現実の経済とのフィットネスを測定するという手法は、将来が不確実な状態のもとで行動せざるをえない現実経済の描写からはあまりにもかけ離れたものである。
「新しい古典派」のもつ問題点を3点取り上げ、方法論的観点から具体的にみることにしよう。
ミクロ的基礎の厳密性について - 厳密なミクロ的基礎 (といっても、それは効用関数を、現実の経済主体とはあまりにも隔絶したかたちで複雑化することで厳密化を装う) から演繹的方法によりマクロ経済学は構築されるべきという主張がまず最初に登場する。このさいに用いられるのが合理的期待形成仮説である。第1に、これはミクロからマクロへの集計化にさいし重要な役割を演じる (種々の確率変数が登場し、それらは平均値所与、分散所与の正規分布をとると想定され、そして経済主体はそれらの値を知っているとされる)。第2に、これは動学的な体系を確定するうえで技術的に重要な役割を演じる。
例えば、次のような効用関数が冒頭から想定される。
∞
Ut = max Et (Σj=0
βju(ct+j、 lt+j)) 0<β<1
(β、ct、 ltは割引要素、消費、レジャー。Eは期待演算子。Uは効用)
こうした関数は当該研究者によって、例えば
U= f (c、 l)
よりも、精緻化されたものと主張される。それは異時点間での効用が配慮されているから、と。そこには、消費者の行動の本質は効用関数で完全にとらえることができるという基本的信念がまず存在する。だが、それはもっと厳密なものに仕立てあげられる必要があるが、その点は、効用関数を動学的な枠組みで定式化し、かつそれに複雑な変数を導入することで応えることができる — 彼らは、こう信じている。
経済主体の合理性について - 彼らの方法により演繹的に構築されたモデルは、厳密で合理的な理論モデルになっている、と主張される。それは科学的で合理的な仮定に依拠しており、そしてそこから演繹的に導出されている、と主張される。
だが、実際にはこれはひどく現実離れした経済主体を想定するところから導出されたモデルである。経済主体は、おそろしく複雑な計算能力を有していることが仮定されている。そしてそうした経済主体が実際に計算するのは、本質的には旧来の効用関数の最大化と異なるものではない。旧来のものより複雑になっているとしても、それは現実の人間行為の複雑さを反映しているわけではない。
実証について ― マクロ・モデルにたいしては対応するマクロ・データが取り上げられ、それをもとに実証研究が登場する。そしてその結果が有意である(もしくは有意ではない)、といった判定が続く。だが、あのような非現実的なミクロ的経済主体の最適化行動に依拠して導出されたマクロ・モデルは、アメリカ経済を実証的に分析するための理論モデルとして、どれほどの意味を有するのであろうか。
「新しい古典派」は、今日の世界経済の危機的な状況を、同じ理論と方法で説明しようとするのであろうか。それとも現在の事態は異常であり、一時的なものとみなし、やがて正常な事態に自ずと回帰すると考えるのであろうか。いずれにせよ確実にいえるのは、彼らの理論・方法はどの国の経済判断、経済政策においても採用されていないという点である。世界経済の危機的状況下の重みにより、「新しい古典派」は崩壊している。
4. ニュー・ケインジアン
「ニュー・ケインジアン」は、オバマ政権の経済政策に大きな影響力をもっている。まずこの学派の特徴を説明したうえで、現代の経済危機との関連で彼らをどうとらえるべきかをみることにしよう。
ニュー・ケインジアンは、市場経済における価格メカニズムの不全性を強調する立場をとっており、さまざまな価格硬直性が市場経済に生じているため、マクロ的な有効需要の減少、産出量や雇用量の減少がもたらされる、と考えている。 彼らは、この価格の硬直性がなぜ生じるのかをミクロ的基礎から問うており、そのためさまざまな仮説が提示出されてきている (価格の硬直性をめぐる「メニュー・コスト」仮説、賃金の硬直性をめぐる「効率性賃金」仮説、利子率の上方硬直性をめぐる理論等)。 ニュー・ケインジアンは、価格の均衡化作用に懐疑的であり、「非自発的失業」の存在を承認し、「セイ法則」や「古典派の二分法」を否定している点で共通しており、この点で「新しい古典派」とは明確に対抗的立場にある。社会哲学的にも、政府の裁量政策を肯定する立場に立っている。かくして、「ニュー・ケインジアン」は「新古典派総合」を継承しているといえるため、彼らの立場はしばしば「新しい新古典派総合」と呼ばれる。
だが、「新しい古典派」と「ニュー・ケインジアン」には重要な共通点が存在する。それは「新しい古典派」が開発した理論ツールである「合理的期待形成」、「代表的経済主体」、「動学的一般均衡」等を、「ニュー・ケインズ派」は基本的に継承している、という点である (ただし、「ニュー・ケインジアン」にあって、不確実性下における危険回避型の企業行動を重視するスティグリッツはそれとはかなり立場を異にする。彼は「合理的期待形成」や「代表的経済主体」に批判的・否定的である)。
ニュー・ケインジアンは、近年になってマクロ・モデルを開発したが、これはかなり普及してきており、「新しい新古典派総合」を具現するモデルとされる。「ニュー・IS-LMモデル」(もしくは「IS-AS-MPモデル」)と呼ばれるのがそれである。このモデルは以下の3式からなる。
第1式はIS式と呼ばれる。それは、産出ギャップを期待実質利子率と次期の産出ギャップへの期待に依存するもの(それに「総需要ショック」という確率変数が加わる)として定式化されている。これは家計の異時点間の期待効用最大化から導出され、「総需要関数」と呼ばれることもある。この式においては価格の決定に「カルボ方式」が採用される (消費関数の発想はみられない)。
第2式は「ニュー・ケインジアン・フィリップス・カーブ」である。これは、インフレ率は、産出ギャップと期待インフレ率に依存するもの(それに「総供給ショック」という確率立変数が加わる)として定式化されている。この式は「総供給関数」と呼ばれることもある。
第3式は、利子率の決定式である。通常、「テーラー・ルール」が採用されるが、これは、(短期)利子率 (アメリカではFF金利)をインフレ率と産出ギャップによって決めようとするものである。貨幣当局はこの方式で利子率を決定すると想定される (したがって流動性選好関数やマネタリズムのように貨幣総量を扱う式は排除される)。
「新しい新古典派総合」と「(古い) 新古典派総合」をみると、前者ではその中軸となるモデルはいま述べた「ニュー・ IS-LMモデル」であるが、これは後者での中軸となるマクロ・モデルが「IS-LMモデル」であることに配慮して付けられている。だがこの名称は、上記の説明からも類推されるように、非常に錯誤的である。
5.むすび
以上、「ニュー・ケインジアン」を紹介したが、彼らをどう評価すべきであろうか。
今回の世界経済危機は「新しい古典派」はもちろんのこと、「ニュ
ー・ケインジアン」の枠組みをも超えたショックであり、それを説明
できる経済理論は存在していなかったという点に、まず注目するべき
であろう。
ただ「ニュー・ケインジアン」には「新しい古典派」よりも、柔軟に
対応できる素地はあった。すでにみたように、彼らはセイ法則、非自発的失業、「政策無効性命題」の否定、などを認める立場に立っている。それ以上に重要と思われるのは、「ニュー・ケインジアン」はケインズ的な社会哲学を共有しているという点、およびプラグマティズム的柔軟性を有しているという点、である。
現在政策面で大いに注目されているのは財政政策であり、これは優
れてケインズ的である。将来への動学的最適配分のような問題ではなく、有効需要の急激な落ち込みが政府の登場を必然化させている。これまでのように、金融政策として利子率政策(テーラー・ルール)やインフレ・ターゲット論、さらには非伝統的手法としての量的緩和だけで景気の回復は不可能である。そこで、これまで「封印されてきた」財政政策が強調されるようになり、後述のローマー達の文書でも乗数理論への言及がなされている。
今回のオバマ政権の出現にさいして、「ニュー・ケインジアン」が多
数食い込んだのは、アメリカの正統派でこの危機に対処できるのはどちらかといえば、「ニュー・ケインジアン」の方であったためである。しかも重要なのはその「精緻な理論的枠組み」のゆえではなく、時代の要請にかなう社会哲学が「ニュー・ケインジアン」の方に見出されたこと、さらに彼らはプラグマティズム的な柔軟性を有していたこと、のためであろう。
現実の危機的状況は「ニュー・ケインジアン」的枠組みを乗り越えて
進展した。理論は「あとづけ」で整備されていくものと思われる。財
政政策の有効性を全面的に押し出すかたちで理論の改編が試みられ
ていくものと思われる。
(なお、ケインズの『一般理論』がどのような本なのかについて、
補講2で説明を行なう。現在展開されているマクロ経済学を理解するうえでも、この作業は必須である。)
付論1. ケインジアン
1997年にAERで「われわれの誰もが信頼すべき実際的なマクロ経済学のコアは存在するのか」というセッションが組まれたことがある。回答者は5名の著名な経済学者 (ソロー、ブラインダー、ブランシャール、テイラー [RE論者]、アイケンバウム [RBC論者] )であった。このうち前3名が短期におけるケインズ的な総需要分析を重視する立場をとっている。
ソローの場合、トレンドの動きは、経済の供給サイドによって主として動かされている。そしてそれを分析する道具は成長モデルである。これにたいし、潜在的生産トレンドのまわりでの変動は、主として総需要の衝撃によって主として動かされており、そしてそれを分析する道具は、支出の様々な源泉についてのモデルである。経済の短期的動きも供給サイドによって動かされているというRBCの主張は、実証的に失敗している。RBCの、短期の変動は趣向や技術にたいする予見できないショックにたいする最適な供給サイドの調整であるという見解は、誤っている。
短期における総需要のマクロ経済学の適切なモデリングは重要であり、そのさい、(i) 総需要の主要構成要素を多かれ少なかれ、機会主義的にモデル化すること、(ii) 最初から異時点間の効用最大化構造を取り入れること、(iii) 賃金と価格の硬直性という問題を考慮に入れること、が重要であるとソローは考えている。それはIS-LMのような何かを拡張もしくは修正したヴァージョンである。
なお、合理的期待形成の考えについては、長期均衡のモデルにおいては果たすべき役割があるが、短期においては推奨すべき点はほとんどない、と論評している。
ブラインダーは、中級マクロでの標準的な説明という観点から、説明している。ブラインダーは、右下がりのISカーブは貨幣的政策がいかに機能するかについてのFedが考察するさいに中心的な役割を果たすものであると考えている。これにたいし、LMカーブは今日では真剣な政策分析においてもはや果たすべき役割はなく、現在では、Fedによる短期名目利子のコントロールに代わっている。さらに、短期利子率と長期利子率、実質利子率と名目利子率の識別の重要性、総需要・総供給分析、フィリップス・カーブ、オーカンの法則などが重視されている。
ブラインダーによれば、マクロ・モデルは次の4つの構成要素をコアとするマクロ・モデルが重要である - (i) 価格と賃金は短期においては先決されており (ブラインダーは伸縮的な価格と硬直的な賃金という想定は実証的現実性をもたない、と考えている)、フィリップス・カーブ (これはアメリカではとくに有効とされる) によって時間とともに展開していく、 (ii) 産出量は短期では, 上記の先決された価格と賃金を総需要関数 (これはISカーブから導かれる) に導入することによって決定される、(ⅲ) 総需要は財政政策ならびに貨幣政策に反応する、 (ⅳ)オーカンの法則
こうしてブラインダーは、所与の価格および賃金のもとで、ISカーブから導出される総需要関数を重視したモデルを考えている。
ブラインダーは、中央銀行がコントロールできるのは短期の名目利子率であるが、重要なのはそれを利用して長期の実質利子率に影響を与えることで、支出をコントロールすることである、と考えている。そして、両利子率のあいだを埋めるのに必要な要素として、(a) 利子率の期間構造、および (b)期待のモデル化があげられている。
合理的期待については、理論的に期待をうまく定着させたものかどうかにたいし、そうかもしれないし、そうでないかもしれない、とブラインダーは答えている。だが、実証的には貧弱であり、ある場合には、適合的期待の方がうまく機能している場合もある、と答えている。
またプラスの財政乗数をめぐる近年の疑念について、これを説明する理論として、ケインジアンのフロー均衡の議論と、長期ストック均衡を意味する議論がある。しかし、これらは理論的な可能性にすぎないのであって、論理的必然性でも確立された実証的発見でもない、とブランダーは述べている。
ブランシャールの核になっているのは、「新古典派総合」の精神に近い -(1)短期には、経済は総需要の動きによって支配される。(2)時間を通じて、経済は均斉成長経路に回帰する傾向がある。
短期の場合、IS-LMモデル、マンデル=フレミング・モデル、総需要・総供給モデルは、アメリカ経済を分析するうえで、非常に有効なツールであることが証明されてきた、とブランシャールは力説する。そしてそれらは、価格や賃金の名目的硬直性、および産出量の短期的動きにたいし有するそのインプリケーションのうえに構築されている。
これにたいし、中期・長期については、経済理論の発展は不十分なものである、とブランシャールは考えている。
これらの論者の回答から、彼らが、短期における経済分析の道具としてケインズ的総需要重視のモデルの重要性を主張していることが明白である。そして同時に、「新しい古典派」の「合理的期待」や「RBC」にたいする批判的スタンスも明白である。
付論2 ポスト・ケインジアン
「ポスト・ケインズ派」は、「新古典派総合」の立場にたいし一貫して批判的であった。このことはイギリスの「ポスト・ケインズ派」(J. ロビンソン、パシネッティ等) が「新古典派総合」の立場に立つ経済学者 (サムエルソン、ソロー等) と闘わした1950年代中葉から1970年代の「ケンブリッジ=ケンブリッジ論争」によって、その存在が知られるようになった。 ポスト・ケインズ派は、その後もマネタリズムや「新しい古典派」にたいしても、また「ニュー・ケインズ派」にたいしても一貫して批判的スタンスをとってきている。
一口にポスト・ケインズ派といっても、そのスタンス、立論は多様であるが、ある程度通底するのは、ケインズの『一般理論』を「大なり小なり」重視するという姿勢、ワルラス「一般均衡理論」に批判的であるという点である。このことと密接に関連するがポスト・ケインズ派は、完全雇用、セイ法則、パレート最適、効用理論、経済主体の超合理性といった前提を否定するスタンスから立論を展開している。
ポスト・ケインズ派については、本書で多くの論及がなされているので、ここではこの派を代表するパシネッティとデヴィッドソンのスタンスを示すにとどめる。
パシネッティ ― 彼はこれまでの経済学を2つの代替的なパラダイムに分けてとらえる。1つは「交換パラダイム」、もう1つは「生産パラダイム」である。
「交換パラダイム」を代表するのはワルラスであり、その最もエレガントな形態としてアロー=デブルーがあげられている。これにたいし、マーシャルはこのパラダイムに属する不完全なかたちのヴァージョンとして位置づけられている。他方、「生産パラダイム」を代表するのはスミス、リカードウ、マルサスなどの古典派であるとされる。注目すべきは、ケインズの理論も「生産パラダイム」に属するものであると主張されている点である。パシネッティは、1932年夏頃のケインズの発言 (それまでとは異なる理論、革命的な理論である「生産の貨幣的理論」を作り出した、というケインズの発言) をきわめて重視しており、当時の「サーカス」に属する若手の経済学者との認識の違いを示すものである点が強調されている。
パシネッティは、いわゆる「ケインジアン」(「所得-支出アプローチ」)、クラワー=レイヨンフーヴッドに代表される「不均衡経済論」的ケインズ派、さらにはニュー・ケインズ派について、それらはケインズの理論を「交換パラダイム」に組み込もうとする「調停者」(reconciler)であると揶揄している。
そればかりではない。彼はアメリカのポスト・ケインジアン (デヴィッドソン、ミンスキー、アイクナーなどが念頭におかれている) にたいし一定の理解を示しながらも、問題の本質をとらえるには至っていないというスタンスをとっている。ケインズ革命はケインズの意図したかたちのものとしてはいまだ成就していない、というのがパシネッティの認識であり、ここで依拠しているPatinkin (1999) の題名の最後に「?」が付されている所以である。
デヴィッドソン ― デヴィッドソンは、 「新古典派ならびに新古典派マネタリスト」、「新古典派総合ケインジアン」、「ケインズおよびポスト・ケインジアン」の3 つの見解を比較しながら、第 3番目の見解のみが「現実の世界」(the real world) における経済分析としての妥当性を有するとみている。
「ポスト・ケインジアン」としてのデヴィッドソンの立論は次のとおりである。現実の世界では「計測不可能な不確実性」が存在しており、これに直面しているため、貨幣による契約と貨幣による支払が慣行化している。デヴィッドソンはこのような経済においては、不完全雇用均衡が発生することが避けられないと論じている。また方法論的立場としてデヴィッドソンは、理論を現実的な仮定のうえに基礎付けることの重要性を強調し、「新古典派イデオロギーの最後のよりどころ」たるフリードマン流の実証経済学的方法論にたいし厳しい批判を展開している。