2016年1月17日日曜日

補講1 経済学はどうなっているのだろうか ― この30年を振り返って    平井俊顕 (上智大学)  




補講

経済学はどうなっているのだろうか

             この30年を振り返って


                 平井俊顕(上智大学)  

  
1. はじめに
              
この30年間、バッシングを浴び続けたケインズならびにケインズ的思考に、人々の肯定的な注目が集まりだしたのは、2008年秋のリーマンショックの頃からである。驚くべき勢いでの世界経済の破綻は、自己責任原則のもとでの自由放任を主張し、それにより資本主義は限りなき成長が可能となると謳ったネオリベラリズム、非自発的失業を否定し、完全雇用を当然視する前提のもと、あやしげなミクロ理論に依拠しつつ組み立てられた「新しい古典派マクロ」の脆弱性欺瞞性をも、白日のもとにさらけ出すことになった。
   崩れ去った社会哲学経済学の向こうに人々が見出したもの、そ
れがケインズであった。いち早く反応した知識人をあげておこう。M.ウルフやJ.エッカーマンはそれまで信じてきたネオリベラリズムを棄てる発言を行った。R.シラーやG.アカーロフはケインズ的な政策の必要性を主張した。J.ガルブレイスやクルーグマンもケインズ的財政政策こそが今日の危機克服にたいし有効なものであるということを強調した。
 何よりも重要なのは、崩落した現場への対処を余儀なくされた政治
家である。経済危機の到来に当たって救いの手が存しない状況下にあ
って、類似した1930年代の大恐慌時代大胆に対処しようとしたケイ
ンズ、ルーズベルトに彼らの目が向かったのである。アメリカ、中国、
イギリスをはじめ、世界中の政治家が、これまでタブー視されていた
財政政策の出動による実体経済の立て直しを実施に移してきた。例え
ば、200910月には(イギリスの)ダーリング財務相がケインズを
称揚しながら財政政策の必要性を主張したし、新しく大統領になった
オバマの「アメリカ復興再投資法」はケインズ的財政政策を明瞭に
反映したものであった。このように主要国の政策の中枢にケインズが
明示的に登場してきたという事実は、長年、レーガノミックスやサッ
チャリズムの支配のもとでつねに批判の矢面に立たされてきたこと
を考えると、たしかに「ケインズの復活」といってよい。
 これまでこの講義では、この30年間に、資本主義世界がどのような展開をみせてきたのかを主要なテーマとしてきたので、それらについて読者は、理解されてきたと思う。ここでは視点を変えて、マクロ経済学がこの間、どのような展開を遂げてきたのかに焦点を合わせることにしたい。当然のことだが、マクロ経済学は資本主義世界を理論的実証的に分析し、それに基づいて経済政策を提案することを主要な研究課題としている。ところが現実はそうしたことを達成する方向でマクロ経済学が発展してきたとはとても言えないのである。本講が
述べようとするのは、そのことを示すために、この30年のマクロ経済学の展開についての批判的スケッチである。  
 本稿では、最初にマクロ経済学の展開過程の概要を述べる(2)。続いて第3節では新しい古典派、第4節では「ニューケインジアン」について説明を加える。以上は、アメリカの経済学の状況を反映するものであるが、これだけでは十分な描写にはならない。そこで、
それ以前からの、これらの流れに批判的で、かつケインズ的経済学に依拠する人々を、付論として取り上げる。1つはケインジアンであり、
もう1つはポストケインジアンである。


2. アウトライン

「新古典派総合」 ミクロ経済学としての「一般均衡理論」とマクロ経済学としてのケインズ理論 (IS-LM理論「所得-支出アプローチ」とも呼ばれる) を中核とする学説 1970年代に崩壊したその後の30年は経済理論および社会哲学が二極化した時期といえる便宜上この時期を2つの局面に分けてみていこう広い意味での新古典派の内部分解ならびに反新古典派の台頭である
 「所得-支出アプローチ」ケインズ派への批判はマネタリズムによって火蓋が切られたケインズ派とマネタリズムのあいだではフィリップスカーブや自然失業率仮説をめぐり激しい論争が繰り広げられたさらにケインズ経済学はマネタリズムと密接に関連をもつしかし理論的にはそれを継承しているわけではない新しい古典派によって一層徹底した攻撃を受けた
「新しい古典派」には2つの流れがある1つはルーカスに代表される「(貨幣的)均衡ビジネスサイクル理論」でありもう1つはキッドランド=プレスコットに代表される「リアルビジネスサイクル理論」(RBC)である両者の識別点はネーミングが示唆するように変動の起因を貨幣ストックのランダムな変動に求めるのかそれとも実物経済へのランダムな変動に求めるのかにあるが以下の点を共有している
 新しい古典派個人が (その特有の定義になる) 合理的期待を形成する能力を有するという仮説から出発する個人がマクロ経済についての十分な情報を収集分析する能力を有するという点も当然視されている合理的期待自体は期待についてのテクニカルな仮定であるだが実際にはこれは経済政策の場で用いられたため政策問題の分野でも大きな影響力をもつことになった
 新しい古典派は市場経済における価格メカニズムの均衡化機能に絶対的な信頼を寄せるそして社会哲学においては「ネオリベラリズム」を標榜する「新しい古典派」は裁量的政策ならびにケインズ経済学とともに発展してきたエコノメトリックス手法に基づく予測を厳しく批判する (いわゆる「ルーカスクリティーク」)完全雇用セイ法則パレート最適(期待)効用理論経済主体の「超」合理性レッセ-フェールをハードコアとして有する理論が一世を風靡するという現象は18世紀第3四半期に新古典派が誕生して以来初めてのことであったある意味でこれは「新古典派総合」のなかのミクロ経済学に属する要素のみを新たなかたちで定式化したものといえよう
  これらの動きに抗して登場したのが「ニューケインジアン」である彼らは市場経済における価格メカニズムの不完全性に注目しさまざまな形態の価格硬直性の原因を追求するケインズ経済学の最も本質的な特性をこれらの価格硬直性にみることで彼らは自らを「ニューケインジアン」と呼称する社会哲学的には彼らは裁量的政策を支持しておりその精神において「所得-支出アプローチ」ケインズ派を継承しているだが(後述するように) 彼らはその理論分析の多くを「新しい古典派」から借りている
「新古典派総合」の瓦解を招来したもう1つの原因はその外部に位置する研究者の活動である「不均衡経済学アプローチ」(クラワーやレイヨンフーヴド)ポストケインズ派(デヴィッドソンやミンスキー)  — いずれもケインズの理論に同調的であり異なる根拠によるとはいえ「原」ケインズに現在的価値を認める経済学者「所得-支出アプローチ」ならびにワルラス的一般均衡理論のいずれをも批判しつつ自らの理論を (彼らが本質的とみなす)ケインズの理論に基づいて展開しようとした彼らはいずれも完全雇用セイ法則パレート最適効用理論経済主体の「超」合理性にたいし懐疑的もしくは否定的である
  
            
図1 最近30年の経済学









. 新しい古典派

「新しい古典派」は 経済主体の「超」合理性を当然視するとともに市場のもつ均衡メカニズムに全幅的な信頼を寄せることで厳密な理論モデルの構築が可能でありそしてそれに基づいて現実の経済現象を科学的に説明することが可能になると主張してきた (「経済政策の無効性命題」もこの文脈下にある)
「新しい古典派」は自らの理論がミクロの経済主体に依拠した厳密な数理的モデルであると主張しているだが「代表的家計」というマクロ的主体に基づきしかも期待効用の最大化を合理的期待形成のもとで行うという想定からモデルを組み立てそしてそれを「カリブレーション」という手法で現実の経済とのフィットネスを測定するという手法は将来が不確実な状態のもとで行動せざるをえない現実経済の描写からはあまりにもかけ離れたものである
「新しい古典派」のもつ問題点を3点取り上げ方法論的観点から具体的にみることにしよう
 
ミクロ的基礎の厳密性について - 厳密なミクロ的基礎 (といってもそれは効用関数を現実の経済主体とはあまりにも隔絶したかたちで複雑化することで厳密化を装う) から演繹的方法によりマクロ経済学は構築されるべきという主張がまず最初に登場するこのさいに用いられるのが合理的期待形成仮説である第1にこれはミクロからマクロへの集計化にさいし重要な役割を演じる (種々の確率変数が登場しそれらは平均値所与分散所与の正規分布をとると想定されそして経済主体はそれらの値を知っているとされる)第2にこれは動学的な体系を確定するうえで技術的に重要な役割を演じる
 例えば次のような効用関数が冒頭から想定される
                   ∞
   Ut = max Etj=0 βju(ct+j lt+j))     0<β<1   
    (βct ltは割引要素消費レジャーEは期待演算子Uは効用)
     
 こうした関数は当該研究者によって例えば
       U= f (c l)
よりも精緻化されたものと主張されるそれは異時点間での効用が配慮されているからそこには消費者の行動の本質は効用関数で完全にとらえることができるという基本的信念がまず存在するだがそれはもっと厳密なものに仕立てあげられる必要があるがその点は効用関数を動学的な枠組みで定式化しかつそれに複雑な変数を導入することで応えることができる彼らはこう信じている
 
経済主体の合理性について 彼らの方法により演繹的に構築されたモデルは厳密で合理的な理論モデルになっていると主張されるそれは科学的で合理的な仮定に依拠しておりそしてそこから演繹的に導出されていると主張される
だが実際にはこれはひどく現実離れした経済主体を想定するところから導出されたモデルである経済主体はおそろしく複雑な計算能力を有していることが仮定されているそしてそうした経済主体が実際に計算するのは本質的には旧来の効用関数の最大化と異なるものではない旧来のものより複雑になっているとしてもそれは現実の人間行為の複雑さを反映しているわけではない

実証についてマクロモデルにたいしては対応するマクロデータが取り上げられそれをもとに実証研究が登場するそしてその結果が有意である(もしくは有意ではない)といった判定が続くだがあのような非現実的なミクロ的経済主体の最適化行動に依拠して導出されたマクロモデルはアメリカ経済を実証的に分析するための理論モデルとしてどれほどの意味を有するのであろうか

「新しい古典派」は今日の世界経済の危機的な状況を同じ理論と方法で説明しようとするのであろうかそれとも現在の事態は異常であり一時的なものとみなしやがて正常な事態に自ずと回帰すると考えるのであろうかいずれにせよ確実にいえるのは彼らの理論方法はどの国の経済判断経済政策においても採用されていないという点である世界経済の危機的状況下の重みにより「新しい古典派」は崩壊している

. ニューケインジアン

「ニューケインジアン」オバマ政権の経済政策に大きな影響力をもっているまずこの学派の特徴を説明したうえで現代の経済危機との関連で彼らをどうとらえるべきかをみることにしよう
ニューケインジアンは市場経済における価格メカニズムの不全性を強調する立場をとっておりさまざまな価格硬直性が市場経済に生じているためマクロ的な有効需要の減少産出量や雇用量の減少がもたらされると考えている 彼らはこの価格の硬直性がなぜ生じるのかをミクロ的基礎から問うておりそのためさまざまな仮説が提示されてきている (価格の硬直性をめぐる「メニューコスト」仮説賃金の硬直性をめぐる「効率性賃金」仮説利子率の上方硬直性をめぐる理論等) ニューケインジアンは価格の均衡化作用に懐疑的であり「非自発的失業」の存在を承認し「セイ法則」や「古典派の二分法」を否定している点で共通しておりこの点で「新しい古典派」とは明確に対抗的立場にある社会哲学的にも政府の裁量政策を肯定する立場に立っているかくして「ニューケインジアン」は「新古典派総合」を継承しているといえるため彼らの立場はしばしば「新しい新古典派総合」と呼ばれる 
だが「新しい古典派」と「ニューケインジアン」には重要な共通点が存在するそれは「新しい古典派」が開発した理論ツールである「合理的期待形成」「代表的経済主体」「動学的一般均衡」等を「ニューケインズ派」は基本的に継承しているという点である (ただし「ニューケインジアン」にあって不確実性下における危険回避型の企業行動を重視するスティグリッツはそれとはかなり立場を異にする彼は「合理的期待形成」や「代表的経済主体」に批判的否定的である)
ニューケインジアンは近年になってマクロモデルを開発したがこれはかなり普及してきており「新しい新古典派総合」を具現するモデルとされる「ニューIS-LMモデル」(もしくは「IS-AS-MPモデル」)と呼ばれるのがそれであるこのモデルは以下の3式からなる
 第1式はIS式と呼ばれるそれは産出ギャップを期待実質利子率と次期の産出ギャップへの期待に依存するもの(それに「総需要ショック」という確率変数が加わる)として定式化されているこれは家計の異時点間の期待効用最大化から導出され「総需要関数」と呼ばれることもあるこの式においては価格の決定に「カルボ方式」が採用される (消費関数の発想はみられない)
 第2式は「ニューケインジアンフィリップスカーブ」であるこれはインフレ率は産出ギャップと期待インフレ率に依存するもの(それに「総供給ショック」という確変数が加わる)として定式化されているこの式は「総供給関数」と呼ばれることもある
 第3式は利子率の決定式である通常「テーラールール」が採用されるがこれは(短期)利子率 (アメリカではFF金利)をインフレ率と産出ギャップによって決めようとするものである貨幣当局はこの方式で利子率を決定すると想定される (したがって流動性選好関数やマネタリズムのように貨幣総量を扱う式は排除される)
 「新しい新古典派総合」と「(古い) 新古典派総合」をみると前者ではその中軸となるモデルはいま述べた「ニュー IS-LMモデル」であるがこれは後者での中軸となるマクロモデルが「IS-LMモデル」であることに配慮して付けられているだがこの名称は上記の説明からも類推されるように非常に錯誤的である


          5.むすび

以上「ニューケインジアン」を紹介したが彼らをどう評価すべきであろうか
 今回の世界経済危機は「新しい古典派」はもちろんのこと「ニュ
ケインジアン」の枠組みを超えたショックでありそれを説明
できる経済理論は存在していなかったという点にまず注目するべき
であろう
ただ「ニューケインジアン」には「新しい古典派」よりも柔軟に
対応できる素地はあったすでにみたように彼らはセイ法則非自発的失業政策無効性命題の否定などを認める立場に立っているそれ以上に重要と思われるのは「ニューケインジアン」はケインズ的な社会哲学を共有しているという点およびプラグマティズム的柔軟性を有しているというである
現在政策面で大いに注目されているのは財政政策であこれは
れてケインズ的である将来への動学的最適配分のような問題ではな有効需要の急激な落ち込み政府の登場を必然化させているこれまでのように金融政策として利子率政策(テーラールール)やインフレターゲット論さらには非伝統的手法としての量的緩和だけで景気回復は不可能であるそこでこれまで「封印されてきた」財政政策が強調されるようにな後述のローマー文書でも乗数理論への言及がなされている
今回のオバマ政権の出現にさいして「ニューケインジアン」が多
数食い込んだのはアメリカの正統派でこの危機に対処できるのはどちらかといえばニューケインジアンの方であったためであるしかも重要なのはその「精緻な理論的枠組み」のゆえではなく時代の要請にかなう社会哲学が「ニューケインジアン」の方に見出されたことさらに彼らはプラグマティズム的な柔軟性を有していことのためであろう
  現実の危機的状況はニューケインジアン的枠組みを乗り越えて
進展した理論は「あとづけ」で整備されていくものと思われる
政政策の有効性を全面的に押し出かたちで理論の改編が試みら
ていくものと思われる 

(なお、ケインズの『一般理論』がどのような本なのかについて、
補講2で説明を行なう。現在展開されているマクロ経済学を理解するうえでも、この作業は必須である。)

付論1. ケインジアン

1997年にAERわれわれの誰もが信頼すべき実際的なマクロ経済学のコアは存在するのかというセッションが組まれたことがある。回答者は5名の著名な経済学者 (ソロー、ブラインダー、ブランシャール、テイラー [RE論者]、アイケンバウム [RBC論者] )であった。このうち前3名が短期におけるケインズ的な総需要分析を重視する立場をとっている。
 
ソローの場合、トレンドの動きは、経済の供給サイドによって主として動かされている。そしてそれを分析する道具は成長モデルである。これにたいし、潜在的生産トレンドのまわりでの変動は、主として総需要の衝撃によって主として動かされており、そしてそれを分析する道具は、支出の様々な源泉についてのモデルである。経済の短期的動きも供給サイドによって動かされているというRBCの主張は、実証的に失敗している。RBCの、短期の変動は趣向や技術にたいする予見できないショックにたいする最適な供給サイドの調整であるという見解は、誤っている。
短期における総需要のマクロ経済学の適切なモデリングは重要であり、そのさい、(i) 総需要の主要構成要素を多かれ少なかれ、機会主義的にモデル化すること(ii) 最初から異時点間の効用最大化構造を取り入れること、(iii) 賃金と価格の硬直性という問題を考慮に入れること、が重要であるとソローは考えている。それはIS-LMのような何かを拡張もしくは修正したヴァージョンである。
なお、合理的期待形成の考えについては、長期均衡のモデルにおいては果たすべき役割があるが、短期においては推奨すべき点はほとんどない、と論評している。

ブラインダーは、中級マクロでの標準的な説明という観点から、説明している。ブラインダーは、右下がりのISカーブは貨幣的政策がいかに機能するかについてのFedが考察するさいに中心的な役割を果たすものであると考えている。これにたいし、LMカーブは今日では真剣な政策分析においてもはや果たすべき役割はなく、現在では、Fedによる短期名目利子のコントロールに代わっている。さらに、短期利子率と長期利子率、実質利子率と名目利子率の識別の重要性、総需要総供給分析、フィリップスカーブ、オーカンの法則などが重視されている。
ブラインダーによれば、マクロモデルは次の4つの構成要素をコアとするマクロモデルが重要である -  (i) 価格と賃金は短期においては先決されており (ブラインダーは伸縮的な価格と硬直的な賃金という想定は実証的現実性をもたない、と考えている)、フィリップスカーブ (これはアメリカではとくに有効とされる) によって時間とともに展開していく、 (ii) 産出量は短期では, 上記の先決された価格と賃金を総需要関数 (これはISカーブから導かれる) に導入することによって決定される、() 総需要は財政政策ならびに貨幣政策に反応する、 ()オーカンの法則
こうしてブラインダーは、所与の価格および賃金のもとで、ISカーブから導出される総需要関数を重視したモデルを考えている。 
ブラインダーは、中央銀行がコントロールできるのは短期の名目利子率であるが、重要なのはそれを利用して長期の実質利子率に影響を与えることで、支出をコントロールすることである、と考えている。そして、両利子率のあいだを埋めるのに必要な要素として、(a) 利子率の期間構造、および (b)期待のモデル化があげられている。
 合理的期待については、理論的に期待をうまく定着させたものかどうかにたいし、そうかもしれないし、そうでないかもしれない、とブラインダーは答えている。だが、実証的には貧弱であり、ある場合には、適合的期待の方がうまく機能している場合もある、と答えている。
またプラスの財政乗数をめぐる近年の疑念について、これを説明する理論として、ケインジアンのフロー均衡の議論と、長期ストック均衡を意味する議論がある。しかし、これらは理論的な可能性にすぎないのであって、論理的必然性でも確立された実証的発見でもない、とブランダーは述べている。

ブランシャールの核になっているのは、「新古典派総合」の精神に近い -(1)短期には、経済は総需要の動きによって支配される。(2)時間を通じて、経済は均斉成長経路に回帰する傾向がある。
短期の場合、IS-LMモデル、マンデル=フレミングモデル、総需要総供給モデルは、アメリカ経済を分析するうえで、非常に有効なツールであることが証明されてきた、とブランシャールは力説する。そしてそれらは、価格や賃金の名目的硬直性、および産出量の短期的動きにたいし有するそのインプリケーションのうえに構築されている。
 これにたいし、中期長期については、経済理論の発展は不十分なものである、とブランシャールは考えている。

これらの論者の回答から、彼らが、短期における経済分析の道具としてケインズ的総需要重視のモデルの重要性を主張していることが明白である。そして同時に、新しい古典派合理的期待や「RBC」にたいする批判的スタンスも明白である。
 
付論2 ポストケインジアン

「ポストケインズ派」は、「新古典派総合」の立場にたいし一貫して批判的であった。このことはイギリスの「ポストケインズ派」(J. ロビンソン、パシネッティ等) が「新古典派総合」の立場に立つ経済学者 (サムエルソン、ソロー等) と闘わした1950年代中葉から1970年代の「ケンブリッジ=ケンブリッジ論争」によって、その存在が知られるようになった。 ポストケインズ派は、その後もマネタリズムや「新しい古典派」にたいしても、またニューケインズ派にたいしても一貫して批判的スタンスをとってきている。
一口にポストケインズ派といっても、そのスタンス、立論は多様であるが、ある程度通底するのは、ケインズの『一般理論』を「大なり小なり」重視するという姿勢、ワルラス「一般均衡理論」に批判的であるという点である。このことと密接に関連するがポストケインズ派は、完全雇用、セイ法則、パレート最適、効用理論、経済主体の超合理性といった前提を否定するスタンスから立論を展開している。
ポストケインズ派については、本書で多くの論及がなされているので、ここではこの派を代表するパシネッティとデヴィッドソンのスタンスを示すにとどめる。

パシネッティ  彼はこれまでの経済学を2つの代替的なパラダイムに分けてとらえる。1つは交換パラダイム、もう1つは生産パラダイムである。
交換パラダイムを代表するのはワルラスであり、その最もエレガントな形態としてアロー=デブルーがあげられている。これにたいし、マーシャルはこのパラダイムに属する不完全なかたちのヴァージョンとして位置づけられている。他方、生産パラダイムを代表するのはスミス、リカードウ、マルサスなどの古典派であるとされる。注目すべきは、ケインズの理論も生産パラダイムに属するものであると主張されている点である。パシネッティは、1932年夏頃のケインズの発言 (それまでとは異なる理論、革命的な理論である生産の貨幣的理論を作り出した、というケインズの発言) をきわめて重視しており、当時の「サーカス」に属する若手の経済学者との認識の違いを示すものである点が強調されている。
パシネッティは、いわゆる「ケインジアン」(「所得-支出アプローチ」)、クラワー=レイヨンフーヴッドに代表される「不均衡経済論」的ケインズ派、さらにはニュー・ケインズ派について、それらはケインズの理論を「交換パラダイム」に組み込もうとする「調停者」(reconciler)であると揶揄している。
そればかりではない。彼はアメリカのポスト・ケインジアン (デヴィッドソン、ミンスキー、アイクナーなどが念頭におかれている) にたいし一定の理解を示しながらも、問題の本質をとらえるには至っていないというスタンスをとっている。ケインズ革命はケインズの意図したかたちのものとしてはいまだ成就していない、というのがパシネッティの認識であり、ここで依拠しているPatinkin (1999) の題名の最後に「?」が付されている所以である。

デヴィッドソン デヴィッドソンは、 「新古典派ならびに新古典派マネタリスト」、「新古典派総合ケインジアン」、「ケインズおよびポスト・ケインジアン」の3 つの見解を比較しながら、第 3番目の見解のみが「現実の世界」(the real world) における経済分析としての妥当性を有するとみている。
「ポスト・ケインジアン」としてのデヴィッドソンの立論は次のとおりである。現実の世界では「計測不可能な不確実性」が存在しており、これに直面しているため、貨幣による契約と貨幣による支払が慣行化している。デヴィッドソンはこのような経済においては、不完全雇用均衡が発生することが避けられないと論じている。また方法論的立場としてデヴィッドソンは、理論を現実的な仮定のうえに基礎付けることの重要性を強調し、「新古典派イデオロギーの最後のよりどころ」たるフリードマン流の実証経済学的方法論にたいし厳しい批判を展開している。