2017年2月13日月曜日

(第11講) (全16講義のうち)シュムペーターは資本主義をどう 見ていたのだろうか





11
 
シュムペーターは資本主義をどう
ていたのだろうか

- 社会主義社会の漸次的出現

   


                       平井俊顕


1.はじめに 

シュムペーター (1883-1950) はくしくもケインズと同じ年にオーストリア=ハンガリー帝国で生まれた、20世紀前半を代表する経済学者である。彼の探究領域は実に広大であり、経済学、社会学の分野で驚くべき博識と独創性を発揮している。とりわけ経済学の分野では、古代から現代に至る経済学ならびに経済史について驚嘆すべき造詣を有しており、しかも実に細部にわたる項目にまで自らの視点に立った詳細なコメントを付け加えている。まことに彼は当代随一の学説史家であった。しかし彼の偉大さはそこにとどまるものではない。そうした知識の整理探究で全エネルギーを消耗するには、彼の頭脳はあまりにも大きなものであった。彼は一方でそうした膨大な知的探究、ならびに過去から現代に至る社会システムについての歴史的実証的探究を追究するなかで、1つの重大な知的欠落状況経済変動を本質とする資本主義社会の動きを説明する真の理論が存在しないという状況に気がついたのである。そして、その欠落状況を埋めるべく、新たな経済理論、ならびに社会理論の構築とその実証的論証に多大の努力を傾注した。

2つの命題 社会科学者シュムペーターの問題意識を凝縮するかたちで取り出すとすれば、それは次の2点になるであろう。
  1は経済学者シュムペーターの独創的な業績につながるものであり、資本主義社会は本質的に「創造的破壊」(Creative Destruction)を通じた断続的( 突然変異的) な進化過程として特徴づけられる動態的な社会である、という認識である。

……不断に古きものを破壊し新しきものを創造して、たえず内部から経済構造を革命化する産業上の突然変異……。この「創造的破壊」の過程こそ資本主義についての本質的事実である。それはまさに資本主義をかたちづくるものであり、すべての資本主義的企業がこのなかに生きねばならぬものである」(CSD, p. 83) (以下、Schumpeter [1943] CSDと表記する)

資本主義社会は、本性的に動態的であって、静態的な存在ではない。シュムペーターがこの点をいかに重視していたかという点は、いくら強調してもしすぎるということはない。

およそ資本主義は本来経済変動の形態ないし方法であってけっして静態的たりえないものである本主義のエンジン起動しめその運動を継続せしめる基本衝動は資本主義的企業の創造にかか費財新生産方法ないし新輸送方新市場新産業組織形態からもたられるものである(CSD,  pp. 82-83)

このことをュムペターが用いている他の有名な造語で表現すれ、「創造的破壊」は、(シュムペーター的意味での)「企業者」による「新結合」の遂行によって実現されていく、ということになる。この主題を理論的に探究したのが『経済発展の理論』(Schumpeter [1912])であり、それに歴史的統計的分析を加えたのが『景気循環論』(Schumpeter [1939])ということになる。
  2は社会学者シュムペーターの独創的な業績につながるものであり、資本主義社会はまさにそれが(失敗するがゆえに、ではなく)成功するがゆえにそれを保護し支えてきた社会的制度を瓦解させていくのであり、その結果として市場社会はやがて崩壊する。そして、それに代わるものとしての社会主義社会が漸次的かつ自然的に出現するに至る、という認識である。

「私が確立したいと努めている主題は、資本主義社会の現実の、ならびに今後のパフォーマンスは、経済的失敗の重みのもとでそれが瓦解するという考えを否定するようなものであって、まさにその成功が資本主義社会を保護している社会組織を崩し、それが生き抜くことのできないような、そしてその明白な後継者としての社会主義を強く志向するような条件を必然的に創出する、というものである」(CSD, p.61)

 この主題を探究しているのが『資本主義社会主義民主主義』(1943)である。同書が刊行された1943年といえば、1929年に始まった大恐慌以降、「ニューディール」政策にもかかわらず、極端な経済不振に喘いでいたアメリカ経済が第2次大戦の勃発を契機に急速な回復を遂げていった時期である。しかしシュムペーターの考えによると(これは「第1の命題」からの理論的帰結として出てくるものであるが)、「大恐慌」も市場社会の(異常ではあるが) 「不況」とみなされるべきものであって、そこからの経済回復はやがては自然に生じるという性質のものである。「大恐慌」が原因となって市場社会が崩壊するということはない、というのがシュムペーターの自論である。市場社会の崩壊は、そうした経済的要因によるというよりも、むしろ市場社会を支える様々な制度的文化的要因の崩壊といった社会的要因によって生じる、とシュムペーターは考えている4
 さらに、以上の2命題との関連で興味深いのは、シュムペーターが資本主義社会を含む諸社会を次のように規定している点である。最初に「商業社会」が定義される。それは「生産手段の私的所有と生産過程の私的契約(あるいは私的経営ないし私的創意)による規制」に従う社会である。そして資本主義社会は、「商業社会」の1特殊形態であり、「信用創造-……銀行信用、すなわち、その目的のためにつくり出された貨幣(手形や当座預金)によって企業者に融資すること」が付加された社会として規定される。そしてこれら2つの社会形態に対峙するものが社会主義社会であるが、それは「生産手段にたいする支配、または生産にたいする支配が中央当局に委ねられているような制度的類型」として規定されている。
 以上が資本主義社会をめぐる社会科学者シュムペーターの根本的な社会認識である。
  本講では、このうち、第2の命題を検討する。シュムペーターの考えによると、1929年に始まった「大恐慌」ですら、(異常とはいえ) 「不況」とみなされるべきものであって、そこからの経済回復はやがては自然に生じるという性質のものであった。資本主義社会の崩壊は、経済的要因によってではなく、むしろ資本主義社会を支える様々な制度的文化的要因の崩壊といった社会的要因によって生じる、とされるのである。
         
 シュムペーターは「文明としての歴史としての」資本主義社会をどのように評価しているのであろうか。ここでは、この課題についてのシュムペーターの社会学的分析を検討していくことにしたい。この目的は「成功ゆえの瓦解命題」を敷衍することで達せられる。最初に、シュムペーターが「文明としての歴史としての」資本主義社会を、2つの側面「積極的」特性と「消極的」特性 (=自壊的側面) ― からとらえていることを明らかにしておきたい1。続いて、資本主義社会の後に成立するとされる社会主義社会が、どのような特性をもつ社会として描かれているのかをみることにする。







2. 資本主義社会の「積極的」
= 肯定的)特性

シュムペーターが指摘する資本主義社会の「積極的」特性は、3点あるが、そのうちの2点は以下に示すものである。

 (1) 資本主義は貨幣単位を計算単位にまで高める。
(2) 資本主義は、近代科学の心的態度、すなわち、1つの問題を設定することと、ある方法でそれに解答を与えようとすることからなりたつ態度を生み出し、さらにその人材手段をもつくり出した。
 
これらを通じてシュムペーターがいおうとしているのは、資本主義文明は「合理性」をあらゆる分野にわたって浸透させ、従来の制度思考を打破するとともに、「合理性」に依拠した制度思考を創造してきた、ということである2

 シュムペーターは資本主義文明を、「合理性」とは異なる次のようなもう1つの要素からもとらえている。

(3) 資本主義文明は「反英雄的」である。

この意味するところは、「合理的精神」を本質とするところの資本主義文明は本性的に争いを好まないということである。シュムペーターにあっては、「反英雄的」であるという資本主義の特性は「合理性」と密接なる関係をもってとらえられている。そして、近代平和主義や近代国際道義もまた、資本主義の産物であるとされる。「帝国主義は資本主義とは何ら関係がない」、という注目すべき主張もこの系に属している4


3. 資本主義社会の「消極的」
= 自壊的)特性

シュムペーターの資本主義社会把握はここにとどまるものではない。上記のような特性を有する資本主義社会は、じつは自己を崩壊させる要因を内包した存在である、ととらえられている。ここから、資本主義社会の「崩壊過程」についての社会学的理論が展開されていく。もっとも資本主義社会が「自壊」するといっても、それは「社会」が崩壊して混乱するという意味ではない。それは資本主義社会を規定している重要な要因の漸次的な(革命的な、ではなく)崩壊であり、その結果として次第に社会主義社会がその姿を顕在化させてくるという意味である。ここでは資本主義社会が1つの歴史的存在であり、内的必然性によって崩壊(= 転形)が生じていく、という構想が語られている。

  以下ではシュムペーターが展開している「自壊」の諸要因についての分析を、その特性に応じて分類したうえで、検討していくことにする。シュムペーターの提起している要因は3つのタイプに識別できるであろう。第1は資本主義社会を牽引ないしは支えるべき階層の消滅弱体化である(「階層的要因」)。第2は資本主義をささえる重要な制度的要因たる「私有財産制度と契約の自由」の崩壊消失である(「制度的要因」)。第3は資本主義社会に敵対的となる社会的心理の出現(「社会心理学的要因」)である。

3.1階層的要因

ここでは3つの階層の消滅弱体化が指摘されている。

(1)「企業者機能の無用化」

最初に登場してくるのが、資本主義的経済発展の主役である「企業者」の社会的機能が無用なものになる、という主張である。それは、技術的完備や欲望充足の現段階では、経済進歩(発展) が「自動機械化」されつつあり、しかもそれは加速度を増している、との認識に基づいている。こうして、「商業的冒険のロマンス」を漂わせていた「企業者」は消失し、「合理化され、専門化され、個性を抹殺された事務員」がそれにとって代わることになる、とされる。

(2) 資本家(= ブルジョア)階層の弱体化と消滅

次に指摘されているのが資本家階層の弱体化と消滅である。「資本家階層」(=「ブルジョア」階層) は「企業者階層」とは峻別されている。「静学」において活動する生産主体(工場主、産業家、商人)は「企業者」ではなく、「単なる業主」とされ、いわば経済発展が収束していく先にある「均衡状態」という受け皿を構成する存在である。「資本家」とは、利子の獲得を目的として「貯蓄」資金を供給する人であり、この大多数を占めるものとして想定されているのが、「単なる業主」(「産業家、商人、金融家、銀行家」) および「「事業」との積極的な関係を絶った家族」である。彼らは生産活動主体としてではなく、「貯蓄」資金の提供者という視点からのみとらえられている。「単なる業主」は経済学的には意味のない概念となっているが、「上層中流階級」としての地位と不可分に結びついた存在として社会学的には意味のある概念になっている。
  以上のように規定された「資本家階層」の「弱体化と消滅」につ
いて、シュムペーターは2つの局面から説明している。1つは生産の
場であり、もう1つは消費の場である。生産の場については「企業
者機能の無用化」がその直接的な引き金となっている。シュムペー
ターの理論によれば、「企業者利潤の消滅」とともに利子も消滅する
から、それに生活の基盤をもつ資本家階級は消滅の運命をたどらざ
るをえない。消費の場については、「ブルジョア階級」の消費の場た
る「家庭」の崩壊に重点がおかれている。そのさいの基本的な視点
は、資本主義社会を特徴付けている基本的特性としての「合理化」
が私生活の領域にまで拡大したことの結果である、という認識であ
る。そしてこの「合理化」は「功利主義」3的態度の普及を通じて浸
透する、とされる。こうした「精神的態度」は「伝統的仕組み」、し
かもシュムペーターによれば資本主義社会を支えてくれている
「伝統的仕組み」までをも破壊することによって、資本主義社会
そのものを社会的に破壊してしまう、とされるのである。

(3) 擁護階層の壊滅

資本主義社会の崩壊をもたらすのは、企業者や資本家階層といった資本主義社会の主役の消失だけによるものではない。資本主義社会が存立するためには、それら以外の「非ブルジョア的な」集団による擁護が必要である、というのがシュムペーターの基本的な認識である。そして資本主義過程は、不要な階層のみならず、こうした擁護階層をも打ち砕いてしまう、というのである。
  「資本家階層の同伴者」として具体的にあげられているのは、前
資本主義的階層である「王侯貴族」と「村落や職人ギルド」である。
 
まことにシュムペーターの「社会理論」にあっては、ブルジョア階層にたいする政治的評価は低く、次々に罵詈雑言が浴びせられる。元帳と原価計算に熱中する彼らには「人を支配するにふさわしい神秘的栄光の片鱗」もみられない。その経験や生活習慣は個人的魅力を増大させるということはない。営業事務所の天才も、社交界や演壇ではまったくの意気地なしである。ブルジョア階級には、重要な内外の国政をうまく処理する資質が備わっていない、等々。
 そうした課題については過去の遺物である「王侯貴族」にこそ資格がある。彼らには「神秘的な魔力と貴族らしい態度」が備わっている。こうした「王侯貴族」が資本主義社会にも自らの機能を変形させつつ、政治行政外交等の分野で支配的な役割を果たしてきたことを、シュムペーターは評価するのである。
 「村落や職人ギルド」は、攻撃に耐えうるものになっていたならば、資本主義社会の「政治的堡塁」を形成しうるはずのものであった、とシュムペーターはいう。しかるに職人ギルドは「創造的破壊」過程により破壊され、また村落は政治的活動によって破壊されてしまった。しかも必要以上に破壊されてしまったとされる。

3.2制度的要因

ここでは、資本主義社会を支える重要な制度的要因たる「私有財産制度と契約の自由」の崩壊という非常に斬新な視座が提示されている。そしてこれは「大企業の内部」および「大企業の外部」という2つの視角から分析されている。
 「大企業の内部」で生じるとされている「私有財産制度」の崩壊は、「生産的財産の霧消」と名付けられている。この現象は、いわゆる「所有と経営の分離」、つまり「株式会社」制度の浸透に起因している。この組織形態の浸透により生じる3種類のグループ重役(経営者)、大株主、小株主の行動パターンが分析され、いずれの場合にあっても、「私有財産」に特有の態度がとられなくなっている、とシュムペーターは喝破する。実物資産 (=資本資産) が株式制度の普及によって多数の株主に分散所有されることにより、実物資産にたいする保有意識は薄れていく。だれもそれに執着するということがなくなり、人びとは金融資産たる株式を簡単に売買の対象とみなすようになる。これが「生産的財産の霧消」である。
 「大企業の外部」で生じる現象として指摘されているのは、中小企業の排除である。もちろん、これは資本主義過程のもつ「競争機構」によってもたらされる。このことにより、一国の政治構造は深刻な打撃を受けることになるという。私有財産制度と契約の自由の喪失につながるからである。

3.3社会心理学的要因

シュムペーターによれば、資本主義文明は敵対的社会心理を醸成させやすい体質を内在している。資本主義社会に批判的、ないしは敵対的となる制度階層の出現である。

(1)「非合理性、不合理性、超合理性」の野放し
 
資本主義文明は、人間社会に本性的に潜むともいうべき「非合理性、不合理性、超合理性」を野放しの状態にしてしまう。この認識はシュムペーターの社会哲学を理解するうえで非常に重要である。人間社会には本性的に「非合理性、不合理性、超合理性」なる属性が内在しているが、それらは「神聖さ」とか「伝統」とかいった要素(制度学派のいう「制度」に相当する)を通じて抑制されることによって文明社会は成立している、という根本的な社会認識が表明されているからである。資本主義社会のもつ「合理性」は自らを創造していく原動力であるのみならず、そうして創造されたものを自壊させる原動力でもある。「合理性」の創造物は「合理性」によって崩壊されるここにシュムペーターに特有の独創的な社会哲学がみられる。
  しかし、ここで重要となるのは「合理性」の作用は、人間社会に
本性的に内在する「非合理性、不合理性、超合理性」を打破するも
のではないという認識である。むしろ、上記のような「合理性」を
通じた破壊作用は、「非合理性、不合理性、超合理性」を解き放つ結
果となり、それらは資本主義文明そのものにたいして破壊的な牙を
向けてくるとされる。

(2) 批判階層としての知識人階層の出現
 
大衆の敵対的な心理状況を「組織化し、培養し、言語に表し、そうして音頭をとることに関心を寄せる階層」「知識人階層」の出現、これが資本主義を崩壊させるもう1つの要因としてあげられている。ここでもまた、シュムペーターはそれが資本主義文明そのもののもつ特性によってこの現象が発生してくる、ととらえている。知識人階層のこうした敵対は「資本主義秩序への道徳的否認に等しい」のであるが、それを阻止する意思も能力も資本主義秩序には備わっていないとされるのである。


4. 社会主義社会の到来

以上のようにして資本主義社会が「その成功のゆえに自壊してしまったとき」、眼前に現出している社会とはどのような姿をもつものなのであろうか。「企業者」、「資本家階層」は存在せず、私有財産にたいする固執も減退喪失している社会、敵対的な感情も減退している社会、「非ブルジョア的性格」を有する政府をもつ社会、「経済発展の自動機械化」されている社会、つまり「事物と精神とがますます社会主義的生活様式に従いやすいように」「転形」した社会こうした社会がイメージされている。
 だが、この状態はシュムペーターの考える「社会主義社会」そのものにはまだ到達していない。資本主義社会の自壊によって出現する社会から社会主義社会に至るには、「中央当局」による「生産手段に対する支配、または生産自体にたいする支配」の確立が必要である、とされる。このことのもつ意味を以下にみていくことにしよう。

4.1 青写真

上述の「中央当局」とは何なのであろうか。ここでいささか驚くのであるが、それは「国家」6ではない、いやありえない、とシュムペーターは主張している点である。シュムペーターによると、国家は社会主義社会には存在しない概念であり商業社会に属する概念である。国家の意義の大部分は私的領域と公共的領域とのあいだに分割線を引くことから生ずるのであって、そのような分割がみられるのは「商業社会」(資本主義社会も含む) の顕著な特徴である、とシュムペーターは考えている。そこでは、私的領域と公共的領域とは組織運営原理が異なっており、たえず摩擦と敵対を生み、浪費を生じる。社会主義社会にはこのような領域分割が存在しないから、国家、ならびに租税は存在しなくなるというのである。シュムペーターの国家論にはこれ以上立ち入らずに、彼が社会主義社会として描いている「青写真」の中身をみることにしよう。
 まずその社会には「中央当局」が存在する。「中央当局」は計画案を議会に提出する。場合によっては「監査当局」が存在し、否認権を行使することもある。しかし個々の産業は「現業に当たっている人」(=産業管理者) によって自由に運営される。社会主義社会では、商業社会とは異なり、「分配」は「生産」から切り離されている。そして「分配」問題は共同体の規約によって解決しなければならない問題となる。そのさい、シュムペーターが典型的なケースとして取り上げているのは、「平等主義」的基準であり、かつ消費者には選択の自由があるような場合である。各成員にたいして消費財にたいする「指図証券」が発行されるが、それは当該期間だけ有効とされ、それ以外では無効となるようなものである(成員の所得は機械的に平等であり、その人の能力とは関係なく決定される)。ここで「価格」は固定されているわけではない。「中央当局」が決定するのは「暫定価格」にすぎないとされる。
 シュムペーターはこの方法で分配がうまく機能するという楽観論を披露しているが、これは疑問である。消費者に選択の自由があり、しかもその状況を「中央当局」が正しく予想しえないとすれば、ある商品は品不足に陥り、ある商品は売れ残る、という事態が発生することは避けられない。前者の場合、価格は上昇し、後者の場合、価格は下落する。しかも「指図証券」は当該期間しか有効でないわけであるから、この傾向には拍車がかかることになる。また消費財には家屋や自動車などの耐久資産も含まれており、それらもこの「指図証券」で購入するわけであるから (消費者信用は考えられていない)、問題はますます困難となるに相違ない。ここで注意しておきたいのは、公衆は当然、生産過程に生産要素として参加するわけであるが、その価格を「所得」として得ているわけではないという点である。そこで本来発生する「所得」は生産要素の提供者には支払われず、それとは独立に、「指図証券」が平等主義の原則に則って消費財にたいする購買力として支給される。「生産」と「分配」は切り離されているのである。
 生産についてみることにしよう。中央当局は生産手段を掌握しており、それを各産業管理者に「3つの準則」( (i) 可能なかぎりの経済的生産、(ii) 「指図証券」の中央当局への引き渡しを通じて、欲する財用役の入手、 (iii) 価格を限界費用に等しくするような管理者の行動) に服しながら配分する。ただし、その価格は中央当局が一方的に決定する。各産業管理者は前期に消費財を販売することによって獲得した「指図証券」により、中央当局から生産手段を希望する量だけ購入する。シュムペーターはこの方式、すなわち「中央当局および産業管理者が3つの準則の内部で客観的に決められた指針に従って単に受動的に到達しうる決定」を「自動的解決方式」と呼んでいる。
 以上は静態的な状況下での社会主義経済である。しかし産業的変化を考慮する場合にも、とくに大きな困難が生じるということはない、とシュムペーターは述べる。この場合に必要となる投資については、中央当局と国会にゆだねて、社会予算の一部として、軍事予算などについての議決と同じようにして決定するのがよい、とされる。シュムペーターはこの方が「利潤」からの蓄積や、信用創造に類するような方法によって調達されるよりも、はるかに「自然」である、という。おそらく、後者による方法は「資本主義」的であると考えているからであろう。

4.2比較

以上に描写された社会主義社会は資本主義社会と比べて、生産能率的にみて優れている(一定単位時間あたりより多くの消費財の流れを生産できる) 、とシュムペーターはみている。シュムペーターは、比較すべき資本主義社会として、「競争的資本主義」ではなく「独占的資本主義」を採用する。その理由は後者の方が前者よりも生産能率的に優れていると考えているからである。
 では社会主義社会が「独占的資本主義」より優れているのは何故であろうか。シュムペーターがあげているのは、後者では不確実性が本性的に存在するのにたいし、前者では存在しない、という点である。「独占的資本主義」とは、換言すれば「創造的破壊」を伴う動態経済のことである。そこでは企業者は不確実な状況下で「新結合」を遂行していかざるをえない。シュムペーターにあっては、市場社会は、諸個人、「価格システム」とも、不確実なものとみなされており、そしてそうしたことの消失したシステムとしての社会主義経済の生産能率の優秀さが強調されているのである。
 これらの議論を検討して感じるのは、シュムペーターが社会主義経済の既述の計画運営にたいし過度の( 独断的な) 選好を有しているということ、それをあたかも純理論的に社会主義経済が優れているかのように論じているということ7、そしてそのことは「青写真」であるゆえやむをえない面があるという点を差し引いてもそうであるということ、である。


5. 民主主義

シュムペーターの『資本主義社会主義民主主義』での立論で興
味あるものに「民主主義」論がある(4) 。それには、2 つのもの
がある。1 つは民主主義の「古典的理論」である。それは「人民を
主とし、「代表」の選出を副とする理論である。つまり、第一義的 
な目的は、選挙民に政治問題の決定権を帰属せしめることにあり、
これにたいし代表を選ぶのは、むしろ第二義的なこととされる(CSD,
p. 429) 。もう1つの「民主主義」論はシュムペーターが提唱してい
るものである。それは「代表」の選出を主とし、「人民」を副とす
る理論 である。つまり、決定を行うべき人々(被選挙民)の選挙
を第一義的なものとし、選挙民による問題の決定を第二義的たら
しめる理論である。民主主義的方法とは、政治決定に到達するため
に、個々人が人民 の投票を獲得するための競争的闘争を行うこと
により決定力を得る ような制度的装置である(CSD, pp.429-430)
なお、民主主義と社会主 義とのあいだの関係についてであるが、
シュムペーターは必然的な関 係は存在しない、と述べている(CSD, pp. 453-454を参照)


6. むすび

シュムペーター理論(「経済理論」および「社会理論」)はシステムに内在する要因を重視し、その発展により、システムが進展し、そして崩壊するというシェーマをもっている。その意味において、シュムペーターの理論的基盤は一種の歴史主義であったといえるであろう。資本主義経済を「創造的破壊」を通じた動態的過程として把握したり、文明としての資本主義社会を「その成功」を通じての自壊として説明する、というのはこの基盤に依拠している。



  1) Schumpeter [1946] も参照されたい。シュムペーターは資本主義を、民間ビジネスマンの指導に委ねている社会と定義する。そして生産手段の私有化、利潤を目的とした生産、それに銀行信用組織を特徴とする社会ととらえる。こうした社会はギリシア=ローマの昔から存在しており、技術における相違はあるとしても、緩慢で連続した変形にすぎないとし、以下のように時期区分をしている。(i)重商主義資本主義、 (ii) 完全な資本主義 -ナポレオン戦争後から19世紀末までの資本主義)(iii) 現代1898年以降。革新技術に支えられた経済の発展。大恐慌期も基本的には変わらないが、資本主義にたいする態度完全逆転、(iv) 現在は社会主義に向かって進んでいる。
2) 資本主義を生み出したものとしての「合理性」を強調したので有名なのは、いうまでもなくマックスウェーバーであった。
  3) シュムペーターの「帝国主義」論は、基本的に19世紀後半以降における「帝国主義」的現象を資本主義以前の社会の遺制とみなしており、純粋に資本主義的な世界は反帝国主義的性質をもっている、という立場に立っている。
  4) シュムペーターは、経済学との関係で、功利主義についてきわめて否定的な評価を下している。『経済分析の歴史』 (Schumpeter [1954] p.134を参照。
  5) Schumpeter [1928] では以上の2命題が集約的に表現されているすなわち
資本主義はシステムとして、静態的条件下で安定的、動態的条件下で不安定 (ただし、それは新しい均衡への収束傾向を有する、とされる)であるが、体制としては安定している、とされる。そのうえで、資本主義は社会学的理由により、体制としても不安定になる(社会主義への移行)、とされる。
6) シュムペーターの国家論については、『租税国家の危機』(Schumpeter
[1918]) を参照。そこでは、国家は「財政需要」から発生したものであると
規定し、企業者利潤を活力源とする「私経済」と対概念になっている。そし
て国家の限界は租税徴収力にあり、それは私経済を損なうことなしに得られ
る租税に依存している、と論じられている。そしてその最後は「社会は私企
業と租税国家を超えて進展する」(p. 81) と結ばれている。
  7) この認識はケインズとは異なる。ケインズは資本主義経済より経済的にみて優れた効率的システムはない、と考えていた。



Schumpeter, J.A. [1912 (2 Aufl. 1926)] Theorie der Wirtschaftlichen Entwicklung, (塩野谷祐一中山伊知郎東畑精一訳 [1977]『経済発展の理論』() () 岩波書店).
Schumpeter, J.A. [1918] Die Krise des Steuerstaats (木村元一小谷義次訳[1983]『租税国家の危機』岩波書店).
Schumpeter, J. [1916] “Das Grundprinzip der Verteilungstheorie”, Archiv für Sozialwissenschaft und Sozialpolitik, Bd.42 (三輪編訳 [1961] に収録 ).
Schumpeter, J. [1927] “Das Sozialproduct und die Rechenpfennige, Glossen
   und Beitrage zur Geldtheorie von heute”, Archiv für Sozialwissenschaft und Sozialpolitik, Bd.44 (三輪編訳 [1961] に収録).
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シュンペーター著八木紀一郎編訳 [2001] 『資本主義は生きのびるか 経済社会学論集』名古屋大学出版会.
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塩野谷祐一 [1998] 『シュンペーターの経済観』岩波書店.
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