(全16講のうち)
第10講
ケンブリッジは資本主義を
どう見ていたのだろうか1
平井俊顕
1.はじめに
本講では、20世紀前半に活躍したケンブリッジを代表する経済学者4名 ― ケインズ、ロバートソン、ホートリー、ピグー ― が、どのような資本主義観を抱いていたのか、そしてこの点をめぐる彼らのあいだの関係はどのようなものであったのか、を述べてみたい。
読者は、ケインズの名は聞いたことがあるかもしれないが、他の3名についてはおそらくは聞いたことがないであろう。
だが、以下に述べるように、彼らは当時の世界の経済学界にあって中心的・指導的な活躍をした経済学者であり、彼らが展開した独自の経済学には絶えず大きな注目・関心が寄せられていた。それに、彼らは「たんなる」経済学者ではなかった。現実の資本主義システムのあり方と行方に深い関心と洞察を示し、その改革に心を寄せていた。この点でも彼らの発言・行動にはいつも大きな注目・関心が寄せられていた。
本論に先立ち、簡単に4名 - いずれもケンブリッジ大学の出身 - を紹介しておこう。
ケインズは、キングズ・カレッジの教員であるが、大蔵省に勤めたこともある。多くの著作や時評を著すとともに、自由党の知的指導者、さまざまの国際システムを提唱した。代表作は『一般理論』(Keynes
[1936]) であり、これを通じてマクロ経済学に画期をもたらした。
ロバートソンはトリニティ・カレッジの教員であり、景気変動論の研究者として名を残している。代表作は『銀行政策と価格水準』(Robertson
[1926])である。彼は1920年代後半までケインズと共同研究者の関係にあった (後年、ケンブリッジの教授になっている)。
ホートリーは、卒業後一貫して大蔵省官僚の道を歩み、そこでの研究を通じて独自の景気変動論を展開した。代表作は最も初期の作品『好況と不況』(Hawtrey
[1913]) である。独自の視点からケインズの理論に批判を投げ続けたが、同時に彼はケインズが最も畏敬する経済学者の一人であった。
ピグーはケインズと同じキングズ・カレッジのフェローであるが、若くしてケンブリッジの教授になった。代表作は『厚生経済学』(Pigou
[1920])である。上記2名に対するのとは異なり、ケインズはピグーにたいしかなり厳しかったといえる。『一般理論』で最も批判の標的に選ばれているのは、他ならぬピグーである。
経済理論は経済学の主要な分野であり、したがってそこでの独創性によって経済学者は評価される。だが、それをみているだけでは分からないことがある。自らが生きている眼前の資本主義について、彼らがどのようなヴィジョンを抱き、そしてどこに問題があると感じていたのか、そしてそれに基づいて、資本主義はどうあるべきと考えていたのか、といった点である。通常、このような分野は社会哲学という名で呼ばれるが、ここでは分かりやすく「資本主義観」という言葉を用いることにする。
最初に4名がそれぞれどのような資本主義観をみせているのかをみることにし、その後で4者の見解を比較してみることにする。
2.ケインズ2
― ニュー・リベラリズム ―
ケインズは、4名のなかで最も行動的であったが、ここで特筆すべきは、1920年代に、自由党の知的リーダーとして活動したという点である (自由党の夏季学校での活動や、自由党機関誌『ネーション・アンド・アシニーアム』を通じての活動等)。ここでは、彼の資本主義観をいくつかの作品からみることにしよう。
この点で最も有名なものに『自由放任の終焉』、「わが孫たちの経済的可能性」、「ロシア管見」 (いずれもKeynes [1931] に収録) がある。そこにおいて、ケインズは資本主義社会を、似而非道徳律と経済的効率性のジレンマに陥っている社会とみている。それらに示されている見解は次のとおりである。
ケインズは、資本主義社会は本質的に、経済機構の主要な原動力として、諸個人の金もうけ本能および貨幣愛本能への強力な訴えかけに依存している、とみる。こうした特性をもつ資本主義社会は、絶えず大きなジレンマにさらされている。それは貨幣愛本能を重視するがゆえに、道徳的にみるときわめて不快な社会である。
市場社会は道徳的にみてきわめて不快なものであると述べるとき、彼が背後に抱いていたのは、市場社会では似而非道徳律が支配しているという考えであった。そこでは「貨幣愛、生活活動の十中八・九における貨幣動機への習性的な訴えかけ、努力の主要な目的としての個人的な経済的安全性の普遍的な追求、建設的な成功の尺度としての貨幣にたいする社会的承認、家族や将来への必要な備えの基礎としての退蔵本能への社会的訴えかけ」(Keynes [1931], pp.268-269) が社会倫理を支配している。ケインズは問う ― われわれの時代の道徳問題とは、貨幣にたいするこうした考え方にどう対処すべきかという問題である、と。資本主義にたいするケインズの嫌悪感は、レーニン主義の倫理的本質を個人や社会の貨幣愛にたいする態度への挑戦とみなし評価している点にもあらわれている。
市場社会では、人間の品性のうちで最も不快なものが最高の徳性にまで奉られてしまっている。とはいえ、われわれは、これからも当分のあいだ、この倒錯した似而非道徳律のもとで暮らすしかない。人類が経済的必要というトンネルから脱け出すためには、これを利用するしか方途がないからである。
だが他方、それはまさに同じ理由により、他のいかなる社会システムよりも経済的効率性を達成するうえで優れている。資本主義社会は、道徳性の観点からは否認さるべきものであるが、効率性および技術的改善の可能性の観点からは当分のあいだ是認せざるをえない ― これがケインズの目に映じた資本主義社会である。
だが、資本主義社会が経済的にみて効率的で技術的に改善可能性を有するシステムであるとはいえ、そのことは自由に放任しておけばうまくいくということを意味するものではない。むしろ自由に放任すれば、資本主義社会は不安定になる性向を内在している。したがって、資本主義社会を効率的なシステムにするには、「自由放任の思想」からの脱却と、資本主義を賢明に管理し、その悪弊を除去する政策技術の探究が必要不可欠である、とケインズは主張する。
道徳的にみて大切な要素を含む共産主義に比べ、市場社会が生き延びるためには、その何倍も経済的効率性が高くなければならない、とケインズは考えている。
そしてこの技術的改善という問題は、政府がなすべきことと、民間に委ねておくべきこととを、「抽象的根拠」に基づいてではなく、その理非の個々別々の判定によって対処すべきものとされる。
こうした立場は、資本主義を本質的に諸個人の政治的・経済的自由を保証するシステムであり、それゆえ個人主義に立脚した市場社会体制を理想的なシステムとみなすスミスやハイエクの資本主義観とも、「快苦計算」に基づく諸個人の合理的な行動の見地から資本主義社会をとらえるベンサム流の功利主義哲学とも、立場を異にする。
そしてケインズは、資本主義社会のなかに個人と国家のあいだに位置すべき中間組織の増大してくる状況を歓迎した。ケインズはこうした資本主義観を「ニュー・リベラリズム」3と表現している。それは、自由主義と社会主義の中道を目指そうとするものであった。
なお、1940年代になり、ケインズはベヴァリッジ案に全面的な協力を惜しまなかったが、これは戦後、「ケインズ=ベヴァリッジ」体制と呼ばれる社会システムを欧米に確立していくことに寄与したのであることも、ここに記しておこう。
3.ロバートソン4
― 自由主義的干渉主義 -
ロバートソンの資本主義観が最もよくうかがえるのは、『産業のコントロール』(Robertson
[1923]) である。
ロバートソンは、資本主義システムを「産業のコントロール」、すなわち、資本主義経済における最も重要な単位組織である企業が産業 ― ここでは資本主義経済とほぼ同義 ― 内においてどれほどのコントロール力をもてるのか、そしてそのコントロール力はリスクといかなる関連を有するのか、という視点から捉えている。
ロバートソンによると、資本主義システムには3つの特徴がある。
第1に、それは市場システムであり、次のような長所を有する。
(i) 世界の多数の経済活動がこのもとで民主化される。
(ⅱ) 個人の判断・イニシアティブ・勇気に大きな希望が託される。
(ⅲ) 生活および所得の双方を思うままに使う自由がある。
(ⅳ) 消費者の欲望が、規則的かつ豊かにかなえられる。
他方、それは次のような欠点を有する。
(i) お金で表現されない欲望は満たされない。
(ⅱ) 金持ちの贅沢は貧乏人の切望よりも生産資源を強く引き付ける。
(ⅲ) マーケティングのもつ無駄が存する。
(ⅳ) 自発的協同機構に部分的な崩壊 ― 不況 ― が定期的に発生する。
第2に、資本主義システムには「リスクを負う者がコントロールの権利を有する」という原則が備わっている (「資本主義の黄金律」と呼ばれている)。
だが、現在の資本主義システムにあってはこの原則は次の3点において浸食されている、とロバートソンは述べる。
(i) 危険は株主が負担し、コントロールは経営陣が掌握する事態の出現。
(ⅱ) 産業のリスクの若干を負うが、産業のコントロールにいかなるシェアも有していない生命保険会社や投機家の出現。
(ⅲ) 産業のコントロールのいかなるシェアも有することはないが、重要な種類のリスクを負う労働者。
第3に、資本主義システムには、命令を下す人と下された命令を遂行する人への社会的分化という「差別化の先鋭化」がみられる。
こうした資本主義システムにたいし、ロバートソンはその改善を図ろうとし、これに関連して、次の2点を指摘する。
(i) 希望的側面 ― 資本主義システムには、さらなる多様化およ び実験 (産業的権力の一部の人々への集中を緩和し、平均化する努力) の余地が数多く残されている、
(ii) 警告的側面 ―「この困難なゴール[産業のコントロール]を追 求するさいに、価格と利潤、信頼と期待というデリケートなメカニズム (すべてを指導する単一の知性のルーティン命令・操作命令にたいし、現在われわれがもつ唯一の代替物 ― それは不完全なにわか作りのものである)の達成を無視したり、その運行を損なうことがないようにする責務が、改革者にはある」(p.88)。
こうして「改革者」ロバートソンの結論は、次の言葉で締められている。それは、市場システムを維持しつつも、民間企業の是正のみならず,様々なかたちでの集産主義や協同組合等の充実を通じ、「差別の先鋭化」ならびに「リスクとコントロールの現状」の是正を目指す必要性である。彼はそのスタンスを「自由主義的干渉主義」と呼んでいる5。
4.ホートリー6
―「偽りの目的」の廃止と「真の目的」の達成 -
ホートリーは自らの資本主義観を表明する本を2冊 - 『経済問題』(Hawtrey
[1926]) および『経済的命運』(Hawtrey
[1944]) ― 著している7。ここでは前著を中心に説明しよう。
ホートリーの資本主義観には、他の3名よりも深く厳しいものが感じとれる。何よりもそれは「ホートリー的意味における」倫理的価値(=厚生)を根底基準におき、その見地から資本主義システムの欠陥を批判する、というスタンスに立っている。ホートリーは、人間のもつ鑑識力の弱さにより財市場で決定される市場価値は倫理的価値との乖離を引き起こしているという認識、さらに労働市場は「故障」しているという認識 (賃金決定の困難性)を示すことで、資本主義システムのもつ根本的な欠陥を突こうとする。
これが資本主義システムのいわば「静態」的側面の欠陥とすれば、次に「動態」的側面の欠陥についての指摘が続く。資本主義システムが利潤獲得を動機として企業活動が行われ、それにより資本の蓄積、そして所得分配の過度の不平等を招来しているという指摘がそれである。それらの根因は、結局のところ利潤にあり、それを廃絶することが厚生の達成という真の目的にとって必須となってくる。こうして利潤に基礎をおかない、したがって偽りの目的である金儲け(金権主義)を廃絶し、真の目的である厚生の達成を、国家を中心に据えたシステムによって、目指す道が志向されている8。
ホートリーが金儲け以外に注目するのが「権力」である。とくにこの概念は、国際舞台で展開されてきた事象をとらえるさいのキー概念になっている。拠点を設けての諸国家間の争い、植民地獲得競争、征服活動は、「国力」を自己目的化することで、戦争への道をひらくことになった。これらの行為は、「権力」獲得と「金権主義」が密接に結びつくかたちで展開されてきた。ホートリーは、これらが自己目的化し、偽りの目的であるにもかかわらず、実際上の目的として志向されてきたことに警告を発している。ここでも、それらを自己目的化する人間の思考様式を改める必要性、そして潜在的戦争状態になってしまっている今日の平和を真の平和に変える必要性が説かれている。
社会主義は、資本主義システムにおける利潤に攻撃を仕掛ける思想である、とホートリーは考えている。それは、利潤動機を排し、それに代わる動機を国家に求めようとするものとされる。社会主義者は、利潤の消滅が人間性の変化を引き起こし、そして新たな動機 ― 社会にたいする奉仕精神のようなもの ― をもたらすことを期待している。ここでもホートリーは、社会主義を厚生を達成するための手段として国家を用いる思想とし、それは厚生の政策を強調するものであって国力の政策を強調するものではない、として社会主義にたいして同調的である。
シュムペーターが『資本主義・社会主義・民主主義』で社会主義の青写真を描写したのと同様に、ホートリーも青写真を提示している。それによると、消費財の市場は残されるが、生産者と小売商のあいだ、および生産者間の市場は廃止されることになる。労働者と消費者のあいだには、国家およびその代理人のみが存在する。国家は唯一の資本家であり、唯一の地主であり、そして唯一の雇用主である、等々。
ホートリーは自らを社会主義者と名のっているわけではない。だが、資本主義システムにたいし非常に深刻な欠陥があることを認める一方で、社会主義にたいしほとんど批判的な立論を展開していないことから鑑みて、彼が社会主義にたいし非常に同調的であったことは疑いを入れない9。
5.ピグー10
― 社会主義の優位性
ケンブリッジ正統派の代表格であるピグー11の資本主義観が最もよく示されているのは『社会主義 対 資本主義』(Pigou
[1937]) である12。これをみることにしよう。
ピグーは資本主義と社会主義の比較・評価を、「富および所得分配の平等化」、「生産資源の配分」、「失業」等のさまざまな局面ごとに比較・評価を試み、そして判定を下している。
富および所得分配の平等化 - ピグーは、現行の資本主義システムには、富および所得の分配において明確な格差が存在していること、そしてそれが経済社会に深刻な弊害をもたらしていること、に注意を喚起している。「深刻な弊害」として指摘されているのは、富や所得分配の不平等が、より緊急を要する必要性を無視し、緊急度の低いものに資源を配分していくことで引き起こされる資源の浪費という現象である。したがって、これらの平等度を増大させるべく、現在の資本主義システムに変更 ― 相続税・所得税の累進化、貧困層の購入する財の生産にたいする補助金の給付等 ― を加えることは、きわめて正当な行為とされる。
これにたいしピグーは、社会主義システムでは、資本蓄積は直接、国家によって行われるし、しかも諸個人に所得が配分される前に、国家は必要な投資量を確保しているから、上記の「深刻な弊害」はなくなる、と述べている。そして、この局面では社会主義に軍配をあげている。
生産資源の配分 - ピグーがここで注目しているのは、「現行の所得分配にたいしての、生産資源の諸用途への配分の適切さ」という問題である。彼は最初に「理想的な配分」について語る。それは、所得と趣向が同一な人々からなる社会にあって、あらゆる分野で限界純生産物が均等になるような配分形態を指している。
そのうえで、資本主義システム下での資源配分で問題になるのは、この理想的な配分から、実際の資源配分がどれくらい乖離しているか、であるとされる。この乖離は、私的限界費用と社会的限界費用の乖離(ピグーの有名な外部経済論)や、独占、不完全競争の存在により生じてくる。ピグーはこれらの点を検討した結果、この局面では資本主義システムと社会主義システムの優劣はつけがたい、という結論を下している。
だが、この局面をめぐるピグーの議論は、ここで終っているわけではない。続いて、ピグーは、(社会主義システムにおける) 中央計画当局の(名前は出されていないが) ワルラス的な「模索過程」による操作を通じて「理想的な配分」の実現は可能である、との論理を展開しているのである13。
失業 ― 失業をめぐるピグーの立論は、国家による介入の認められる資本主義システムと社会主義システムとのあいだで展開されている。
最初に、資本主義システムにおける意思決定が多数の企業によって行われるのにたいし、社会主義システムにあっては、中央計画当局により集約的に行われるということがもたらす優位性が論じられる。次に、失業を解消させる政策としての公共投資政策と金融政策について、いずれのシステムが効果的に行いうるのかが論じられる。公共投資政策については、明確に意思決定の統一が可能な社会主義システムに軍配をあげ、他方、金融政策については、両システムでの効果は同等であろう、と述べている。
最後に、社会主義システムなら可能な2つの治癒策-(i) 産業間での生産資源の強制的移動、と (ⅱ)貨幣賃金の引き下げ、が論じられている。以上のような考察の結果、ピグーは失業問題の解消について社会主義システムに軍配をあげている。
以上のような検討を加えたうえで、総合的にみると社会主義システムに優位性がある、というのがピグーの結論であった。
6. 比較評価
以上にみた4名の資本主義観に共通するのは、資本主義システムのもつ悪弊 ― 金儲け動機、 所得分配の不平等、 繰り返される失業等々 ― に批判の目を向け、いかにすればそれを除去できるのかに力点がおかれている点である。いずれも自由放任主義は資本主義システムの状況改善に役立つものではないとの認識を共有し、そこにおいて政府が果たすべき役割が強調されている(さらに個人の不完全性を認識している点でも共通している)。彼らは、多かれ少なかれ、経済の安定、失業対策、所得の不平等などの問題にたいし、政府の積極的な関与、弱者救済の必要性を唱道するスタンスに立っている。
とはいえ、以上にみられる共有認識が展開される論法、ならびに社会主義への移行をめぐるスタンスは四者四様である。もし、上記4名を政治的スタンスで並べてみるとすれば、次のようになるであろう。
明確に社会主義に軍配を上げているのはピグーであり ― その意味で最左翼といえよう ―、その論拠にいずれのシステムが優れているかをめぐる大論争である「社会主義経済計算論争」におけるランゲ的見解(上述のワルラス的「模索過程」を指す。ランゲはポーランドの経済学者)をおいているのは、彼がケンブリッジの正統派の代表格であるだけに、一層興味深い。
最も鋭い批判を資本主義システムに向けているのはホートリーであり、そこでは彼独自の倫理的価値が根底基準におかれている。ホートリーは、ある意味でピグーより左であり、ある意味でピグーより右に位置する。
ケインズとロバートソンは同じような位置にある。資本主義システムのもつ深刻な欠陥を認識し、それにたいし政府が積極的に関与することの重要性を強調する立場であるが、そのことは社会主義への移行を是認するものではない。あくまでも「社会正義および社会的安定のために、経済的諸力をコントロールし指導することを意識的に目的」とする立場である。
なお、ケンブリッジの資本主義観を、ケインズ以外は「自由放任
主義者」であったというような論説も巷間には見受けられるが、これが謬説であることは、上記の説明から明らかであろう14。
1) 本講の詳細については、平井 [2007] 第Ⅱ部「ケンブリッジの市場社会観」を参照のこと。
2) 本節の詳細については、平井 [2007] 第6章「似而非道徳率と経済的効率性」を参照のこと。
3)
ニュー・リベラリズムについては、Clarke [1988] 、Freeden [1986]、Skidelsky [1992]などを参照。
4) 本節の詳細については、平井 [2007] 第7章「自由主義的干渉主義」を参照のこと。
5) Robertson [1947] も啓発的である。 彼の考えは次の言葉に集約されている。
「血液中にリベラルなウィルスをもつが、さりとて砂漠とか荒野に放り 出されたくはないわれわれ」(p.47 )。ここでロバートソンは、リベラリズムを「ウィルス」、むき出しの競争を「砂漠、荒野」と表現している。この論考では、支配的な潮流となっていた計画経済的思考のなかで、さまざまな迷いが吐露されている。平井[2007] pp.68-73 (II.「経済の見通し」[1947年]) を参照。
6) 本節の詳細については、平井 [2007] 第5章「厚生と価値」を参照のこと。
7) この他、 や草稿Right
Policy [Churchill College, Cambridge
Univ ersity] で、 同じテーマが追究されている。 平井編[ 2009] 第5章「ホートリー - 未刊の著『正しい政策』考」 、 お よびHirai [2012] を参照。
8) Ha wtrey
[19 26, p. 314] を参照。 厚 生 と偽りの目的は、 Hawtrey [19 44] Ch.12 およびHawtrey [Churchi ll
College ] Ch.2 “The Good”でも扱われている。
9) 彼は、 第1次大戦の前ですらそうであった。 因みに、 Hawtrey Papers [Churc hill Col lege, Cambridge U nive rsity] 6/5/2に保蔵されている1914年以前にMorley Collegeで読んだ論考は次の文章から始まっている。 「 ともあれ理論的には、 社会主義は民主主義からの自然な連続体である。 」
10) 本節の詳細については、平 井 [2007] 第3 章「社会主義 対 資本主義」を参照のこと。
12) Pigou [1948; 1953] も有益である。
13) ピグーは、ランゲ、ワルラスに言及していない。だが、いく人かの経済学
者がピグーの 思考方法に、一 般均衡理論的思考を感じ取っている。例えば、
1935年10月4日付のアーシュラ[・ウェッブ] からヒックス宛て書簡 (兵庫県立大学所蔵)、Myint [1948]、Laidler (1999, p.165) 等。
14) 近くにいた若手の経済学者の考えをみることにしよう。カーンの場合、 「「市場はよい召使だが、悪い主人である」、と信じていた。すなわち、もし規制のない国内あるいは国際市場における個人的な、そして匿名の決定は、不均衡を生み出す傾向がある、・・・これらは国家や国際的協調を通じた個人の集合的な活動により避けることができる(と)。」(Palma, 1994, 117)。ミードの場合、自らを「リベラル-社会主義者」と呼ぶのを常としていた (Howson=Moggridge eds. [1990] およびMeade [1948]を参照)。
Hicks [1979 [1984], p.285, fn.11] は、LSEでの思い出を次のように語っている。「ハイエク、ヴェラ・ルッツは、われわれ (ロビンズのグループ) のなかで、後年も古い信条 (自由市場への信仰) を一貫して持ち続けた唯一の人であった。ロビンズでさえ、相当程度、それから乖離していった。」
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