2017年2月14日火曜日

(第13講) (全16講のうち) ケインズはどのようなことをした 人なのだろうか   平井俊顕(上智大学)  






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ケインズはどのようなことをした
人なのだろうか





               平井俊顕(上智大学)        


1. はじめに

本講では、ケインズの人となり、ならびに業績に焦点を(通史的順序に沿いつつ)合わせることにしよう1
ケインズの活躍した時代それは第1次大戦で瓦解した「パックスブリタニカ」を回復させようとする努力が結局のところ挫折してしまい、世界は安定したシステムをもつことなく混乱と分裂の度合いを深めながら第2次大戦に突入していく、という時代である。こうした時代状況を打開すべく、ケインズは新たな経済理論経済政策論、ならびに新たな世界システムを次々に提唱していった。これらの点で彼に比肩する人物は皆無である。そればかりではない。周知のように、ケインズは『一般理論』を通じて、その後のマクロ経済学、経済政策論、ならびに社会哲学の領域で「ケインズ革命」と呼ばれる深甚なる変革を引き起こしたのである。
        
     
2. 子供の頃

ジョンメイナードケインズは、1883年、イギリスの大学町ケンブリッジのハーヴェイロードで生まれている。父ネヴィルはケンブリッジ大学のフェローであり、『経済学の範囲と方法』(1890) で知られる経済学者である。母フローレンスはケンブリッジ大学の最初の女子カレッジ、ニューナム出身の社会事業家である。ケインズは、この世に生を受けた瞬間から、ヴィクトリア後期におけるケンブリッジ文化を一身に受けとめる境遇におかれていたといえる。家庭にはシジウィックやマーシャルといった当代きっての知識人が出入りしていたし、両親は子供達の教育に大変熱心であった2
 ケインズは幼少の頃から算数に秀でていた。1897年にイートン校(名門のパブリックスクール)に入れたのも、数学の成績が優秀であったことによる。イートン校での成績も、多数の学術賞の受賞が示すように、非常に秀逸であったが、とりわけ数学、古典および歴史に優れた才能をみせた。


3. 学生の頃、そしてフェロー

1902年、ケインズはケンブリッジ大学のキングズカレッジに入学している。数学をメインとし古典をサブとする特待給費生としてである。カレッジ時代のケインズを特徴付けているのは、様々なサークルでの活発な活動である。彼には、重要な事柄から些細な事柄に至るまで、何ごとにつけても熱心に、しかも非常に優れた成果をもたらしながら余裕をもって行える天賦の才があった。政治問題の団体である「ユニオン」、秘密団体「ソサエティ」等の会員としての活動はその1例である。とりわけ「ソサエティ」は、彼の生涯を通じての人生観ならびに哲学観を形成するうえで、決定的な影響を与えるものであった。当時の「ソサエティ」は、哲学者G.E.ムーアの影響下にあったが、なかでも彼の『倫理学原理』(1903) は信仰問題で揺れ、それを拒否したシジウィック達の世代の苦闘 (「不可知論」) を克服した新しい道徳哲学として、ケインズ達の世代に広く受け入れられた。
  この時期の「ソサエティ」のメンバーは後年有名な「ブルームズベリーグループ」3 20世紀前半のイギリスにあって、その学術的・芸術的創造性において、その価値理念において、そしてその生活実践において、一際異彩を放ったグループ を形成することになるが、ケインズはその中心メンバーである。
ケインズが経済学に本格的な興味を示し始めるのは、1905年頃からである。マーシャルは経済学者への道をしきりとすすめたが、結局のところ、1906年、インド省への道を選択した。しかしながら、20代のケインズが知的情熱を傾けたのは確率論の研究であった。それはラッセル=ホワイトヘッドによる分析哲学の手法を利用しながら、確率下での命題間の論理的関係を明らかにし、かつ「帰納法の正当化」を論証しようとする壮大なものであった。その直接の契機はムーア倫理学のある論点への懐疑に端を発していた。
インド省での仕事にあきたりなかったケインズは、余った時間の多くをこの研究に費やしたのであるが、翌1907年、その成果をキングズカレッジのフェロー資格試験論文として提出するに至る。結果は不合格であったが、マーシャルの配慮のもと、その後継者となったピグーから年100ポンドの給料を得て講師に就任した。1909年、ケインズは彫琢を加えたうえで、この論文を再度提出しフェローの資格を得ている4。こうして彼は経済学者としてのスタートを切ることになった。
1908 -13年にかけて、ケインズは主として金融問題にかんする講義を担当したが、そのなかのインドの通貨問題をめぐる箇所は、1913年に処女作『インドの通貨と金融』として結実することになる。また1911年には学術雑誌『エコノミックジャーナル』の編集者に選ばれている (生涯を通じてその任に当たることになった)

 
4. 1次大戦

19148月、イギリスはドイツに宣戦布告した。第1次大戦の勃発である。19151月、ケインズは大蔵省に入省することになり、やがて戦争の金融的管理を扱う第1課、さらにはそこから独立したA課の長に任命され、国際金融問題を担当することになった。この時期、イギリスに生じていた緊急事態は、戦争遂行に必要なドルをいかに有利な条件でアメリカ政府から借り出せるかという点であったが、ケインズはこの交渉において指導的な役割を演じたのである5
  191811月、第1次大戦は連合国側の勝利で終結し、翌19191月に、パリで講和会議が開催された。ケインズは大蔵省首席代表として、この会議に出席した。彼は主として、戦前のドイツ経済を支えていた諸要素の組織的破壊、およびドイツが連合国に加えた被害にたいする賠償請求の問題に携わった。だが彼は、講和会議において採択されることになる条約 (「ヴェルサイユ条約」)、とりわけドイツにたいする法外な賠償請求額に反対して途中で辞任するに至る。そして帰国後、直ちに講和会議における予想外の進展状況の描写をまじえつつ、ドイツにたいする賠償請求額が法外なものであることを具体的かつ経済的な根拠を示しつつ論じた警世の書の執筆にとりかかった。これがかの有名な『平和の経済的帰結』である。
 戦後の国際経済にあっては、難題が山積していた。賠償額と戦債をめぐる問題はなかでも重要であった。賠償額の場合、ドイツの支払い能力の実情に合わせるかたちで、修正に次ぐ修正が重ねられていった(最後はヒットラーによる一方的な破棄宣告で終わっている)。また戦債の場合 - それは、戦争の遂行に必要な資金を、イギリスがアメリカから借り入れたことにより生じた その返済条件は19236月の英米戦債協定によって決められたのであるが、これも最後にはうやむやになっている。賠償や戦債という問題は、結局のところ、戦争の結果アメリカが国際金融面においても、イギリスに取って代わる地位に立ったという事実を抜きにしては解決することのできない問題であった。
  ケンブリッジに戻ったケインズは、これらの問題にたいし、在野から積極的な批判を展開している。賠償額戦債をめぐっては『条約の改正』(1922) が、また金本位制をめぐっては復帰反対を唱えた『貨幣改革論』(1923) 、ならびにイギリスの旧平価での復帰 (19254) を批判したパンフレット『チャーチル氏の経済的帰結』が、代表的なものである (同時期、ケインズは生命保険会社の会長やキングズカレッジの会計官としても活動している6 [しかも生涯を通じてであった])


5. 経済学者

1920年代の初頭以来、ケインズは一貫して「自由放任哲学/ 自由放任経済学」を批判し、それに代るものとしての「ニューリベラリズム/貨幣的経済学」を提唱していた。彼は、市場社会は似而非道徳律に立脚しているから、いずれは否定さるべき存在であると考えていた (もっとも、ケインズは名うての [外国為替、株式、商品の]「投機家」であり、この活動により「経済学者」としては有数の資産を残した、という事実もここで付け加えておこう)
  1920年代後半のケインズの活動は、当時のイギリスが抱えていた経済問題 とくに失業問題と深く関係するものであった。それを象徴する活動としては、次のようなものがある。第1に、自由党での活動がある。『イギリスの産業の将来』(1928)という自由党の有名な刊行物があるが、ケインズはこの中心的な執筆者である。第2に、政府委員としての活動がある。彼は、1929年に設置され、当時の重要な経済問題について各界の代表者からヒアリングを行った「マクミラン委員会」の最も熱心な委員であった。また19301月には「経済諮問会議」の委員、同年7月にはそのサブコミティーである「経済学者委員会」の委員長を務めている。
 このような激職にありながら、ケインズは193010月に大著『貨幣論』を刊行している。これは『貨幣改革論』の刊行直後から執筆が始まっており、6年あまりの歳月をかけて完成にこぎつけたものであった。『貨幣論』は、ヴィクセルの『利子と物価』(1898) によって先鞭を付けられた「貨幣的経済学」の流れに属している。
  しかしながら、ケインズは『貨幣論』の刊行直後から、さらに自己批判的な理論的探究を進めており、激しい理論的格闘を伴いながら、ついには19362月に『一般理論』を完成させることになった。それは、不完全雇用量決定の理論を具体的に提示した最初の著作であり、経済理論上の一大画期 (「ケインズ革命」) をもたらすものであった。ケインズ革命は、財市場の分析にみられる独自性 (「有効需要の理論」) が『貨幣論』以来の貨幣市場の分析との調整を通じて、財市場と貨幣市場の相互関係で雇用量が決定されること、しかもそれは不完全雇用均衡に陥りやすいこと、を提示した貨幣的経済理論の誕生として特徴付けることができるであろう7

6. 第2次大戦

2次大戦時、ケインズは請われて大蔵省にアドバイスを与える役職を引き受けた。19407月のことである。正式の官僚としてではないが、大蔵省が対処していかなければならない重要課題に具体的な構想を提案していくことを要請されてのポストであった。爾来、彼は、このポストから実に多岐にわたる重要な活動を展開することになる。
 その活動は3つの分野に分けることができる。

1の分野は差し迫ったイギリスの国際収支の悪化にかんするものである。彼は事態打開のためアメリカからの借款交渉の陣頭指揮に立った。
2の分野は戦後の世界秩序形成にかんするものである。このなかで最も有名なものは、第2次大戦後の国際通貨体制8として提唱された「国際清算同盟案」であるが、それ以外にも、救済復興問題、一次産品問題、通商政策、賠償問題等の領域で注目すべき提案を行なっている。その多くは大蔵省の、そしてイギリス政府の公式見解として採用され、ケインズ自らが代表者となってアメリカ側に提示され協議された。ここでは、そのうち救済復興問題および一次産品問題について、言及しておくことにしよう。

(i) 救済復興問題9   戦後の救済復興問題をめぐるケインズ
のスタンスは非常に複雑な軌跡を描いている。当初、ケインズは「中央救済復興基金」構想 (様々な国からの現金もしくは現物拠出に基づく共同基金による運営) を提唱していた。だが1942年のはじめになると、考えは大きく変わっている。イギリスの戦後の貿易収支がきわめて困難なものとなり、外国からの借入れなしにはイギリスの拠出は難しくなるから、救済復興問題をめぐるこれまでの考えを改めるべきである、との判断からである。そこで、「中央救済復興基金」構想は放棄され、代わって「レンドリース制度」(アメリカからの、軍事物資が購入できるシステム。19413月制定) の継続を重視する方針が採用されている。戦争が長期化するなかで、いわばなし崩し的に実現をみたレンドリース制度を拡張させるという現実主義的な路線への転換である。その後、ケインズは、レンドリース制度の継続を希望するという現実主義的な路線をベースにしつつも、他方で「中央救済復興基金」構想がもつ若干の特徴を「連合理事会」という既存の機構に担わせる、という中間的な案を提示している。これは若干の修正を経て大蔵省の正式案となった。

 (ii) 一次産品問題商品政策) 10  ここでは「一次産品の緩衝
在庫案」の立案者としてのケインズの活動が中心的なテーマとなっている。この点については、その案の背後に、ケインズが「ニューリベラリズム」ならびに「貨幣的経済学」を提唱していた点に留意する必要がある。
「一次産品の緩衝在庫案」の基本的な発想は、競争的市場制度は緩衝在庫を嫌うため価格の激しい変動を引き起こしており、それを防止する (ならびに生産者の所得を安定化させる)ためには「国際緩衝在庫案」が必要である、との認識に立っている。
        ケインズはこの案をめぐり都合八度の書き直しを行なって
いる。ここでは第5次草案に言及する。原材料の国際統制を行なう方法としては「制限」(生産規制) を目指す方法と「安定化」(価格の安定化) を目指す方法があるが、制限は全般的な利益をもたらすことはないので、主として個別的ならびに全般的の双方における安定化が目指されている。その中心的な構想が「コモドコントロール」と呼ばれる国際機関の設置である。それは緩衝在庫を保有し、その操作を通じて世界市場での需給の変動を吸収することにより、一次産品価格の安定化を図ることを目的としている。しかし、緩衝在庫計画だけでは、事態が悪化するような場合があるかもしれない。そのような場合には、制限計画が緩衝在庫計画を補完する (あくまでも) 一時的な救済手段として用いられるべきである、とされる。この計画にはもう一つの重要な主張が込められている。それは、関係する生産者に適切な所得を保証することにより彼らの生活を安定化させるというものである。
 
3分野は戦後の国内秩序形成にかんするものである。雇用政策と社会保障計画がこの分野に属している。

(i) 雇用政策11雇用政策におけるケインズの理論政策両面においての影響力は圧倒的であった。それは、ケインズの影響を受けて育った若手のミードやストーン、それに戦間期の市場経済のみじめなパフォーマンスにたいする懐疑から国家による積極的な政策を模索していたロビンズやベヴァリッジ等の精力的な活動を通じて、そしてそれを熱心に支持するケインズ自らの活動を通じて、波及していった。このことは大蔵省の反対にもかかわらず、経済部はもちろんのこと、商務省をはじめとする他の省庁の閣僚達が熱烈にミード案を支援するという状況があればこそ、実現できたことである。興味深いことに
そしてパラドキシカルなことに、失業の分析を主題として展開された『一般理論』は、インフレ期における総需要分析のかたちをとりながら1940年代に雇用政策の基本的な原理として浸透していった。

(ii) 社会保障計画12社会保障計画といえばベヴァリッジの名13とともに知られるが、ケインズはベヴァリッジ案の成立に際しての重要な貢献者の1人である。彼のベヴァリッジ案にたいする総合的な金融的評価は次のようなものであった この計画の財政は、社会的に受入れ可能な拠出金率の増加に本質的に依存しているが、提示されている額は十分に妥当なものであり、しかもこれが「かくも広範囲に及ぶ計画を、大蔵省の負担するコストが非常に控え目なもので実行可能」にしている、と。
しかし、ケインズは、この提案のまったく新しい特徴である、給付金および拠出金を現在の拠出者階層にたいしてだけではなく全国民に拡張すること、ならびに医療職の即時の社会化については延期した方が得策であり、まずはありふれたことを大幅に簡素化することに専心した方がよい、とアドバイスしている。
ケインズは、ベヴァリッジ宛の手紙で、ベヴァリッジ案を高く評価し、その前途に惜しみない賛辞を表明している。


7. むすび

これらを検討していくと、政策立案家としてのケインズが、当時のイギリスにあっていかに指導的な立場にあったのかが明らかになる。それは、国内での強力な指導力の発揮、および国際舞台での (アメリカの力を前にしての) 挫折の繰り返しであった。一方でケインズ的な社会哲学の浸透と、他方で世界政治経済の舞台での大英帝国の惨めな敗退 このコントラストをケインズは身をもって味わったのである。19463月に「国際通貨基金」および「世界銀行」の創立会議に理事として出席したが、帰国直後、持病の心臓病で亡くなっている14


1) 平井 [2007] 10章「ケインズの生涯」も参照されたい。
2)「ネヴィルの日記」 (1864 [12] から1917 [65] までのもの) が現存しており、ヴィクトリア時代における知識人の生活状況を知るうえでの貴重な資料になっている。平井 [2000] 2章第1節を参照のこと。
3) 平井[2007]III部「ブルームズベリーグループ」および中矢 [2008]を参照のこと。
4) ただし、『確率論』の刊行は遅く1921年である。『確率論』をめぐっては、平井[2007] 11章「『確率論』と「若き日の信条」」を参照のこと。
5) この頃、「ブルームズベリーグループ」にあっては、いわゆる「良心的徴兵拒否」問題をめぐり緊張が高まっていた。
6) れらの活動については、那須 [1995] を参照。
7) 『一般理論』については第14講で取り上げる。
8) 国際通貨体制については第15講で取り上げる。
9) 詳しくは、平井 [2000] 4章「国際主義とナショナリズムの相剋救済問題」を参照。
10) 詳しくは、平井 [2000] 5章「価格の安定化をめざして 一次産品の国際規制案」を参照。
11) 詳しくは、平井 [2003] 補章2「ケインズの雇用政策 政策における「ケインズ革命」をめぐって」を参照。
12) 詳しくは、平井 [2003] 補章3「福祉国家システムの構築 - ベヴァリッジとケインズ」を参照。
13) ベヴァリッジの経済思想および活動については小峯[2007] を参照。
14) 1941年に作成した公式の遺言状が残されている。彼の心情を反映するものとして大変興味深いものである。これについては平井 [2000] 補章「遺言の語るもの 19412」を参照されたい。 


Dostaler, G. [2007] Keynes and his Battles, Edward Elgar (鍋島直樹小峯敦監訳『ケインズの闘い哲学政治経済学芸術』藤原書店)..
Dostaler, G. [2010] “Keynes and the War of Words” in Bateman, Hirai and Marcuzzo eds. Ch.11.
Bateman, B., T. Hirai and M.C. Marcuzzo eds. [2010] The Return to Keynes, Harvard University Press (平井俊顕監訳『リターントゥケインズ』東京大学出版会2014)
Keynes, A. Florence [1950] Gathering up the Threads, W. Heffer & Sons Ltd.
Keynes, J. M. [1921], Treatise on Probability (JMK.8, Macmillan, 1973). 佐藤隆三訳『確率論』東洋経済新報社、2010
Keynes, J.M.[1980] Activities 1940-46: Shaping the Post-War World: Employment and Commodities (JMK.27) Macmillan (平井俊顕立脇和夫訳『戦後世界の形成 雇用と商品』東洋経済新報社1996)
Skidelsky, R. [1983] John Maynard Keynes. Vol.1 Hopes Betrayed 1883-1920 Macmillan (宮崎義一監訳『ジョンメイナードケインズ』(1)(2) 東洋経済新報社,1987-1992).
Skidelsky, R. [1992] John Maynard Keynes, Vol. 2 The Economist as Saviour 1920-1937, Macmillan.
Skidelsky, R. [2000] John Maynard Keynes, Vol.3 Fighting for Britain 1937-1946, Macmillan.
Skidelsky, R. [1996] Keynes, Oxford University Press (浅野栄一訳『ケインズ』岩波書店,2001).

伊東光晴 [1962] 『ケインズ 新しい経済学の誕生』岩波新書.
小峯敦 [2007] 『ベヴァリッジの経済思想 ケインズたちとの交流』昭和堂.
橋口稔 [1989]  『ブルームズベリー・グループ ヴァネッサ、ヴァージニア姉妹とエリートたち』中公新書.
中矢俊博 [2008] 『ケインズとケンブリッジ芸術劇場 リディアとブルームズベリー・グループ』同文舘出版。
那須雅彦[1995]『実務家ケインズ』中公新書.
早坂忠 [1969]『ケインズ』中央公論社.
早坂忠編 [1993]『ケインズとの出遭い』日本経済評論社.
平井俊顕 [2000]『ケインズシュムペーターハイエク』ミネルヴァ書房.
平井俊顕 [2003]『ケインズの理論 - 複合的視座からの研究』東京大学出版会.
平井俊顕 [2007]『ケインズとケンブリッジ的世界市場社会観と経済学』ミネルヴァ書房.
平井俊顕 [2007]『ケインズ100の名言』東洋経済新報社.
福岡政夫 [1997]『ケインズ』東洋経済新報社.
吉川洋 [1995]『ケインズ』筑摩書房.







:ケインズの著作とその簡単な説明

以下はイギリス王立経済学会の手により、マクミラン社から刊行されたThe Collected Writings of John Maynard Keynes (『ケインズ全集』) である。数字は,1番目が当初の、2番目が全集版の刊行年 (翻訳はすべて東洋経済新報社)。ケインズ自らが刊行したのは、これがすべてである (この付論は平井 [2007] pp.xxii-xxiii に負う)

 1 . Indian Currency and Finance, 1913, 1971 (則武保夫・片山貞夫訳『インドの通貨と金融』1977).

インドの通貨・金融システムの説明、ならびにその改善案を提示したもの。だが、本書の普遍的価値は、将来の国際通貨システムとして「金為替本位制」を唱道した点にある。

 2.  The Economic Consequences of the Peace, 1919, 1971 (早坂忠訳『平和の経済的帰結』1977).

大蔵省主席代表としてヴェルサイユ講和会議に臨んだケインズによる、独自の賠償案、さまざまの国際システムの提唱、そして巧みな人物描写のみられる才気溢れる弾劾の書。

 3.  A Revision of the Treaty, 1922, 1971 (千田純一訳『条約の改正』1977).

『平和の経済的帰結』の続編。「賠償問題の現状を理性的に再吟味するための事実と材料を提供」しつつ、その行方をフォローしたもの。

 4.  A Tract on Monetary Reform, 1923, 1971 (中内恒夫訳『貨幣改革論』1978).

貨幣の国内価値の理論を提示するとともに、これに依拠しつつ価格水準の安定化を達成するための金融政策を唱道した著作(先駆的な先物為替の理論も展開されている)

 5.  A Treatise on Money I: The Pure Theory of Money, 1930, 1971(小泉明・長澤惟恭訳『貨幣論I貨幣の純粋理論』1979).
 6.  A Treatise on Money II: The Applied Theory of Money, 1930, 1971(長澤惟恭訳『貨幣論II貨幣の応用理論』1980).

消費財の価格水準の決定(「第一基本方程式」)と投資財価格水準の決定(「第二基本方程式」)による価格水準の決定と、そこで決定される利潤をもとにして次期の産出量が決定される、というかたちの動学的理論である。ただし、『貨幣論』には、ヴィクセル的な理論も併用されており、この点は「貨幣の応用理論」において多用されている。

7.  The General Theory of Employment, Interest and Money, 1936, 1973(塩野谷祐一訳『雇用・利子および貨幣の一般理論』1983).

『一般理論』の主題は貨幣的な経済である資本主義経済における雇用の一般理論を示すことである。それは総需要関数と総供給関数によって「不完全雇用均衡」であることが示されている。「ケインズ革命」と呼ばれる現象を引き起こした書である。

 8.  Treatise on Probability, 1921, 1973.

確率を命題間の「合理的信条の度合」と規定したうえで、その公理論的・論理的探究を目指したもの。頻度説批判に立ちつつ、論理的確率論の構築を目指す野心的な著作。

 9.  Essays in Persuasion, 1931, 1972(宮崎義一訳『説得論集』1981).

名うての論争家であったケインズが過去12年間にわたって社会を説得しようと続けたもののなかから選択して一冊の書にしたもの。「自由放任の終焉」や「ロイド・ジョージはそれをなしうるか?」など多くの有名なパンフレットを収録。

10.  Essays in Biography, 1933, 1972 (大野忠男訳『人物評伝』1980).

ケインズは伝記作家としても大変優れた才能を発揮した。本書は、折に触れて書いた人物伝をまとめて刊行したもの。「人間ニュートン」や「アルフレッド・マーシャル」はとりわけ有名である。全集版には「若き日の信条」(ケインズの思想遍歴を知る重要な資料)も収録されている。