第7講(上)
アベノミクス、長期低迷の日本経済
平井俊顕
1. はじめに
アベノミクスが、大きな注目を浴びるようになったのは、2012年12月に安倍内閣が発足してからのことである。さらに一層大きな注目を浴びるようになったのは、その「第1の矢」を担当・遂行する黒田日銀総裁が就任した2013年3月からである1。
3月21日、日銀総裁・副総裁の就任会見が行なわれたが、そこでは、インフレ・ターゲットにより、年率2%の消費者物価 (CPI) の持続的な上昇状態を2年ほどで達成させることに最大の力点がおかれていた。そのための具体的手法が「量的質的緩和」 (QQE) である、とされた。いわゆる「異次元の量的緩和」(「バズーカ砲」) である。さらにこの会見において、この結果、経済主体のポートフォリオ・リバランスにより、消費や投資が増える旨の発言も見られた。
続いて、4月4日、具体的な方策として、日銀の資産を現在の158兆円から倍増させる (国債の購入を2年で2倍にする。合わせて購入国債の平均残存期間を、現在の3年から7年に延ばす) こと、「資産価格のプレミアムに働きかける観点から、ETF (上場投資信託) およびJ-REIT (不動産投資信託) の保有残高を、年間それぞれ、約1兆円、約300億円のペースで増加するように買入れていく」こと、が明らかにされた。
あれから2年10カ月が経過した。その間、日本経済の歩んだ道だが、現在、とくに芳しい成果は上がらない状態に陥っている。
本講では、以上を勘案しつつ、次の点を中心に論じていきたい。アベノミクスが意図した政策理論、ならびにその結果としての日本経済のパフォーマンスの検討である。最初に、アベノミクスが実施されている期間 (2013年4月- 。 QQEと呼ぶことにする) に限定して述べた後、それ以前に実施された期間 (2001年3月- 2006年3月。QEと呼ぶことにする2) のパフォーマンスと比較する (本講で検討の対象にしているのは、「第1の矢」のみである。主たる理由は、これこそがアベノミクスの根本だからである)。最後に、日本経済の長期にわたる停滞 ―
それは90年代初期から始まり25年にもなる ― に言及する3。
2. アベノミクス
- 政策理論とパフォーマンス
第5講でみたように、FRBの「非伝統的金融政策」(LSAP)
は、2004年に表明されたバーナンキの政策理論のうち「マネタリスト的な経路」を排除したものに基づいて遂行されてきた。
では、アベノミクスの「非伝統的金融政策」(QQE)
はどうなっているのであろうか。その政策理論はFRBのものとどのような関係にあるのであろうか。じつは、相違があるにもかかわらず、一般には同じものとして括られることが多い。
本節では、最初に日銀の政策理論を検討し、そのあとで、日本経済のパフォーマンスをみることにする。
2.1 政策理論
アベノミクスの金融政策理論は、インフレ・ターゲット論と量的質的緩和
(QQE) で構成されている。日銀の理論は、中央銀行の視点からマクロ経済に明確な影響を与えることができる、という視点に立つものである。そこでは、経済主体のポートフォリオ・リバランスが重視されており、中央銀行による政策が、そのことを通じて実体経済に確たる影響をおよぼすことができる、というものになっている4。それゆえに、本来であれば、消費者の行動や、企業の投資行動等の理論をもとに形成されるマクロ理論は片隅に追いやられている。つまり、中央銀行サイドからの影響の経路に分析の焦点がおかれ、真の実体経済を担う消費者や企業の行動が陽表的に分析されることはない。
あるいは次のようにも言える。インフレ・ターゲットが予想実質利子率にもたらす変化による経済主体の行動変化、ならびに、量的緩和がもたらすマネタリー・ベースの増大による経済主体の保有資産のポートフォリオ変更、という経路ですべてが語られており、消費者、企業の本来的な行動はブラック・ボックス化されている5。
この点を、構成要素である「インフレ・ターゲット論」および「量的質的緩和」から、見ていくことにしよう。
(1) インフレ・ターゲット論
インフレ・ターゲット論は、中央銀行が断固たる政策 (これがQQE) を取り続けることによって、必ずインフレ (具体的には2%のインフレ達成が挙げられている) をもたらすことを経済主体が「正しく」理解することによってインフレ期待を抱き、それにより、(期待) 実質利子率が下落することを通じて、マクロ経済にプラスの影響を及ぼすことが可能になること (「期待チャネルの生成」)、およびこうした状態が経済に定着し、これまでのデフレ・マインドからインフレ・マインドへの転換がもたらされること (「政策レジームの転換」)
で構成されている。
そのさいに、きわめて重視されているのが下記の「フィッシャー方程式」である。
(期待) 実質利子率 = 名目利子率 - 期待インフレ率
この式を用いて次のような議論が展開されている。 例えば2%の期待インフレ率が実現すると、(名目利子率がゼロとすると) 実質利子率は -2%になり、消費者は預金を取り崩し消費を増やし、企業は預金を取り崩し投資を行なう。つまり総需要は増大しGDPは増大する、と。
だが、ここでは消費や投資という実体経済の動向にたいし、インフレ期待がもたらす波及効果が過度に強調されている。消費や投資が、実質利子率だけの関数になっているからである。
だが、実体経済にあって、消費は、実質利子率よりも、現在の実質
賃金 (実質利子率ではなく実質賃金である。家計は、非正規雇用の激増による不安心理で消費を控えるという要素の方がはるかに強い) や予備的動機の影響 (とくに超高齢化社会の到来により、今後の年金をはじめとする社会保障関連支出への懸念) をより強く受けていると考える方が事実に即している。
また企業は、投資によって採算がとれるかどうかを予測し (つまり「予想」し)、予想利潤率と利子率との関係で意思決定を行なっているのであって、実質利子率だけで決定することはない。当該産業での予想利潤率の方が企業の投資にとっては、より重要な要因である。現在、企業に投資意欲がないのは実質利子率の動向によるものではない。(大) 企業の場合、巨額の内部留保を有しており、利潤が得られると判断すれば、わずかな実質利子率の減少 (いま議論されているのは1-2%のオーダー) などあってもなくとも、企業は進んで投資を行なうであろう。
以上を要するに、2%程度の実質利子率の上昇は、消費および投資の「主たる」決定変数にはならない。それに、この場面で実質利子率を強調することは、消費や投資の真の決定要因を無視することにつながる6。
(2) 量的質的緩和
中央銀行が、インフレ・ターゲット (具体的にはCPIの年率2%の継続的上昇) を遂行するさいに、たんに中央銀行が「みな、2%の期待インフレをもつように」と言うだけで、人々がそれに従う、と考えられているわけではないことは当然であろう。
中央銀行がそのために具体的に遂行する政策手段、それが量的質的緩和である。これは、「ポートフォリオ・リバランス」および「為替チャネル」に働きかけることを目指すものとされる。
つまり中央銀行によるQQEにより、銀行やその他の経済主体のポートフォリオ・リバランスを引き起こすことにより、また為替レートの下落をもたらすことにより、為替チャネルを経由して貿易収支にプラスの影響を及ぼすことができる政策である、とされている。
中央銀行は、国債などの金融資産を無制限に購入する (これがQQE)。そのことにより、第1に、銀行や消費者、企業のポートフォリオに変更をもたらす (つまりリバランス) ことで、実体経済を改善することができ、また第2に、為替レートを低下させることで、輸出の改善をもたらすことができる、というものである (為替レートの下落がどのようにして生じるかであるが、援用されているのは購買力平価説である。つまりインフレが生じると、円はドルにたいし相対的に安くなるというものである)。
この2点は、すでに言及の3月21日の日銀総裁・副総裁の記者会見でも明言されていた。
(3) 検討
「マネタリスト的な経路」は作動していない - QQEは具体的には、中央銀行が国債などの金融商品を大量に市場から購入する行為である。これにより、中央銀行には国債などの金融商品が、そしてその購入代金が (国債などの金融商品を売却した) 銀行に振り込まれることになる。この代金は、中央銀行に開設されている銀行の当座預金勘定に振り込まれる。これがマネタリー・ベースである。
これにより、マネタリー・ベースは激増する (これは中央銀行ができることである)。だが、後述するように、近年、マネー・ストックの増加率は非常に低い。
なぜマネー・ストックは増えないのだろうか。それは、基本的には銀行と企業のあいだの関係で決まる問題であり、そのことを日銀がコントロールすることは不可能だからである。
増えたマネタリー・ベースは、銀行がどのように実体経済に貸し付
けるのか、あるいは実体経済がどのように借り入れるのかによって、さらには信用乗数がどのように動くのかに依存しており、その総合結果としてマネー・ストックの増大は決定する。
しかも、後述するように、信用乗数は変動している (大きく低下している) ため、一層、マネー・ストックの増大にはブレーキがかかっている。
その過程において各財あるいは各部門の価格が決まり、その総合結果として物価が決定する、というのが経済に生じることである。したがって、マネタリー・ベースから直接に物価の状況を決定することは、本来的にできない性格の問題である。
マネタリー・ベースが激増しても、マネー・ストックが増加しないのであれば、消費者物価の年率2%の上昇が実現する保証はどこにもない。マネタリー・ベース (マネー・ストックではない。マネタリー・ベースである) の急増が物価にどのように影響するのかは、理論的のみならず、実証的にも分からないことである。
第5講で検討した2004年のバーナンキ論文での「マネタリスト的な経路」だが、これは日銀の理論でもとられていない7。マネタリー・ベースの発行額からマネー・ストックに至る経路は考えられていない8。
マネタリスト的な経路を考えない場合、マネタリー・ベースから
CPIの2%を実現する方法はまったくなくなる。マネー・ストックに注目しない立場にたつわけであり、そうなるとマネタリー・ベースは、いわゆる「ぶた積み」されてもいいわけである。
マネタリー・ベースからCPIの2%上昇を論証・検証できていない状況で、そのルートとは異なるインフレ期待を2%であると言っても、人々の信頼を得ることはできない。日銀がマネタリー・ベースを激増させ、そしてそれは2%のCPIが上昇するまでコミットする、と言っても、マネタリー・ベースは、ただ激増するだけで、その後の経路は、人々の「予想」任せ、ということになるからである。
「マネタリー・ベース」と (予想) 実質利子率との脆弱な関係 - マネタリー・ベースとマネー・ストックの関係、さらにはそれが物価に及ぼす影響というルートを考えないとなると、マネタリー・ベースの役割は何なのか、という問題に逢着する。
日銀の論理からすると、(期待) 実質利子率の下落がすべてのよう
でそれが銀行、消費者、企業のポートフォリオ・リバランスをもたらすことで、GDPが上昇傾向に向かい、物価も2%の上昇に至る、ということになる。
だが、日銀のコミットメントが何ら2%のインフレを引き起こすメ
カニズムが実現されていないのに、人々が2%のインフレ実現を信じ、彼らが上記のリバランスを実行するというのは、人々が合理的であればあり得ない話である。
(期待) 実質利子率への過度の信頼という論理は問題の多いものである。
人々は、まるでこれだけをもとにして、消費や投資行動を決定するかのよ
うになっているからである。
以上を簡単に言うと、すべてが、実現していない (期待) 実質利子率によ
って経済主体が動く、とみる論理になっている。実際の消費者、企業のとる
行動関数が無視され、すべてが期待実質利子率に委ねられている。
フィッシャー方程式に依存し、かつ(期待) インフレ率2%を上記のコミットメント (マネタリー・ベースの激増) により人々に信じ込ませて、その後のポートフォリオ・リバランスを引き起こし、2%のCPIの上昇と経済の回復を実現させるというのは、一見、「期待」に依拠した理論のようにみえるが、ハーメルンの笛吹きでしかない。期待は重要であるが、この種の期待ではない9。
2.2 パフォーマンス
最初に、そのパフォーマンスがこの2年半のあいだにどのようなものであったのかをみていく。続いて、そのパフォーマンスを2001年から2006年に実施された福井体制下での量的緩和 (QE) 政策と比較してみることにする。結論を先取りすれば、第1点については、公約した成果は挙げられておらず、第2点については、両者のあいだに顕著な差異はみられない、ということになる。
繰り返しになるが、日銀の金融政策は、インフレ・ターゲットと量的質的緩和を抱き合わせたものである。日銀が断固たる姿勢でQQEを行ない、2%程度のインフレをもたらす目標を国民に示すことで、ついには2%程度のインフレをもたらし、そしてそのことを通じて総需要、GDPを増大させる。これが日銀のシナリオであった。
(表7-1)が示すように、2013年4月から2015年6月までの2年3カ月に、日銀はマネタリー・ベースを前年に比べ (単純平均で) 34.54%増加させて、その結果、銀行の日銀当座預金は、同74.54%増加している。つまり、銀行は実体経済への貸し出しをせず (貸出を出来ず) に、多くを日銀当座預金に積み増したままである。その主たる原因は、実体経済からの資金需要が低調であること (大企業の場合は巨額の内部留保を保有しているし、中小企業の場合は借り入れ利子は高く、そして何よりも実体経済が停滞していることが、その原因である) に求められる。それに加え、「付利」(日銀が法定準備を超える当座預金残高に支払う利子) は0.1%になっており、銀行が実体経済への貸し出しをするインセンティブを抑制する要因になっている。これらの事由により、銀行は当座預金を凍結させている。つまり、日銀は、マネー・ストックを増大させることを、意識的に抑制している。この結果、マネー・ストック (M3) は、同期間、同2.96%の増加率にすぎない。
とりわけ、このことは最近の限界信用乗数(Δマネーストック/Δマネタリー・ベース)が、0.5という異例の低さであること、および銀行の預貸率が70%あたりで低迷していることからも明らかである。
ここでこの数10年の関連データをみることにしよう (図7-1)。まず、マネー・ストック (もしくはマネー・サプライ) の伸び率であるが、1973年27%、1990年13%、1993年 -1%にまで下がり、その後、2 - 4%前後で推移して今日に至っている。
信用乗数でみると、1982年頃からは12-13あたりにあり、その後2001年には10、さらに2003年まで急落し、6になっている。その後2011年頃までは8あたりで推移していたのだが、その後はさらに急落し、2014年には3.5にまで低下している。総じて、20年以上にわたって信用乗数は低下を続け、いまでは20年前とまったく異なった低水準になっている。つまりマネタリー・ベースがマネー・ストックを生み出す力は著しく減退している (図7-1)。
このことを銀行サイドからみると、実体経済との関係がよく分かる(図7-2)。2000年以降、預金は増加を続けているのにたいし、貸出しは低下もしくは停滞している。90年代は100-105%で動いていた預貸率はQE時に95%から75%に急落 (20%) し、2009年からさらに10%低下し、現在は70%を割っている。すなわち、日銀への当座預金が積まれたままになっており、マネー・ストックの増大が生じていない。
(表7-1) マネタリー・ベース、日銀当座預金、マネー・ストック
(図7-1) マネー・ストック (マネー・サプライ)、信用乗数 (1970-2014年)
(図7-2) 銀行の預貸率 (貸出/預金) 推移 (1994-2013年)
(備考) 銀行114行の各年3月期の預貸率
13年68.00%、14年67.90%、15年67.74%、16年67.59%
(表7-2)日銀のバランス・シート (2012-2014年)
(表7-2) は日銀のバランス・シートであるが、これをみてQQEの結
果が明瞭になる。ほとんどが長期国債の購入に向けられ、それに応
じて巨額の当座預金が残高として残っていることが分かる。すなわ
ち、2014年末で、202兆円の長期国債を保有し、当座預金には178
兆円の残高が認められる。
(備考)にみられるように、この傾向は現在も変わっていない。長期国
債は349兆円に膨れ上がり、当座預金の残高は275兆円に達してい
る。
2.3 日本経済の推移
以上、黒田体制下でQQEがどのように実施されてきたのかをみてきた。次に、その結果、日本経済はどのようになったのかを、さまざまなマクロ指標を通してみていくことにしよう。
消費者物価指数 (CPI)
最も重視されていたCPIの2%の持続的上昇がどうなったのかを見ることにしよう。 (図7-3) のグラフが示すように、2014年4月には1.5%までの上昇はみられたものの、以降は一貫して下落し、2015年2月にはゼロ、そして8月にはマイナスに陥った(- 0.1%)。その後も、マイナス (- 0.1%) が続き、11月に0.1%の上昇となっている。そして2016年になると、一貫してマイナスになっている (表7-3も参照)。
この点について、日銀は、2014年4月の消費税の3%増税の影響や、原油価格の予想外の下落を強調し、ついには「独自のCPI」を創出する有様であった。このことを反映して、アベノミクスの成果をいくつかの図で示す政府のHPからは、「CPIの2%上昇」への言及は消えてしまっている。2017年1月、黒田総裁は、ついには任期中
(2018年4月まで) の達成は困難と発言するに至っており、ずばり失敗という評価が妥当であろう。
(表7-3) 2015年基準 CPI 全国
年平均(前年比%)
|
月次(前年同月比 %)
|
|||||||
2013年
|
2014年
|
2015年
|
2016年7月
|
8月
|
9月
|
10月
|
||
総合
|
0.4
|
2.7
|
0.8
|
▲0.4
|
▲0.5
|
▲0.5
|
0.1
|
|
生鮮食品を除く総合
|
0.4
|
2.6
|
0.5
|
▲0.5
|
▲0.5
|
▲0.5
|
▲0.4
|
|
食料及びエネルギーを除く総合
|
▲0.2
|
1.8
|
1.0
|
0.3
|
0.2
|
0.0
|
0.2
|
実質GDPおよび名目GDP (表7-4)
名目GDPは2014年1.67%、2015年2.46%の伸びを示しているが、これはGDPデフレーターが2013年 91.03、2014年 92.54、2015年 94.3と上昇しているためで、その結果、実質GDPでみると、この3年間、527兆円、527兆円、530兆円と、ほとんど伸びていない。
GDPデフレーターが上昇に転じたのは16年ぶりのことである。なお、GDPデフレーターとCPIの時系列には顕著な違いがある。前者はこの15年連続して大幅に下落を続けていたのにたいし、後者は驚くほど安定している。
(表7-4) 実質GDPと名目GDP
年
|
2013
|
2014
|
2015
|
実質GDP
|
527
|
527 (0%)
|
530 (0.57%)
|
名目GDP
|
480
|
488
(1,67%)
|
500 (2.46%)
|
(備考) 単位 兆円、%は対前年比成長率