・いま執筆中の原稿。外交交渉の複雑などんでん返しがあり、予想していたよりも、ずっと面白いテーマやね。 対米借款交渉 ― 1945年8月 - 12月 平井俊顕 (上智大学) レンド・リース法 (武器貸与法) は、太平洋戦争が終わった ― 第2次大戦も終わったわけだが - 直後の8月17日、直ちに廃止された。予想を超えるトルーマン大統領の即断であり、いわゆる「ステージII」(ドイツの敗戦から日本の敗戦までの期間) が終わり、「ステージIII」の始まりを告げるものであった。 この緊急事態を受け、イギリス政府は、(8月13日に策定されていた) ケインズの立案をもとに、8月23日に閣僚会議を開いた (ケインズも出席)。 そして、翌24日、下院で、ケインズをトップとする代表団のアメリカ派遣が発表され、27日、代表団はアメリカに向けて出港することになった。金融問題をめぐる対米交渉には、その前に、レンド・リース法 (1941年3月) から英米相互援助協定 (1942年2月) 締結に至るまでの交渉、さらにその後の政治経済状況の変化によりさらなる交渉があった。これらのイギリス側の代表者はケインズであったから、上記の選出は自然な流れであった。 本稿が目的とするのは 交渉の経緯 - 交渉の初期においては、ケインズが用意したイギリス案をもとに、「トップ・コミティ」(9月13日-20日) と呼ばれる英米間での会合がもたれ、アメリカ側はイギリス側の見解に好意的な対応を見せていた。 だが、それは聞き手としてのアメリカであり、アメリカ側が自らの見解を表明していくことで本格的な交渉が開始したのである。そこでは、ケインズとハリファックス 対 ヴィンソンとクレイトンが中心となって動いている。交渉は10月上旬までは、非常に良好な関係で進行していた。だが、10月中旬あたりから交渉は行き詰まりを見せることになる。 さらに11月下旬になると、大いなる2つの混乱が生じている。1つはアメリカ側に見られた組織的失態によるものであり、もう1つはイギリス側での激しい対立点の浮上によるものである。とくに後者により、ブリッジズが派遣され、ケインズは代表の地位から降ろされることになった。そしてブリッジズによるイギリス案をアメリカ側は否定したうえで、12月6日、「英米金融合意」の締結に至るのである。 これは、ケインズが進めてきた提案、そして交渉の大いなる挫折、そして屈辱であった。だが、ケインズは辞任は思いとどまり、その後は、この合意をイギリス議会で通過させることに最後の力を振り絞っている。 交渉者ケインズが見せたスタンスの評価 - 当然のことながら、交渉の経緯を述べるなかで、派遣団の長であるケインズがどのように反応したのかはその都度述べていくことになる。ここでは、それらを踏まえたうえで、交渉者ケインズはどのようなスタンス、見解を有しており、そしてどのように交渉に進展に応じて対応していったのかに焦点が合わせられる。言うまでもなく、アメリカ、イギリスの重要な協定であるから、複雑な駆け引き-アメリカ側の見解を受け止めて、それにどのように対処していくか、そしてロンドンからの指示を受けてアメリカ側にどのように交渉していくのか等々 - が駆け巡るわけである。一方で卓越した策定能力、他方で柔軟な対応能力が、ここにおいても明瞭に認められる。 だが、同時にケインズのもちあわせている国際政治観、そして大きく変貌を遂げようとしている世界政治経済システムという大きな枠組みのなかでケインズをとらえるということも、本稿においては要請されている。 |