2016年9月1日木曜日

Hayek, The Errors of Constructivism, 1970 平井俊顕





Hayek, The Errors of Constructivism, 1970

平井俊顕

ハイエクは、これまで誤って呼ばれてきた「合理主義」(rationalism)を表現するために「設計主義」 (Constructivism) という用語を用いている(設計主義的合理主義)。

その意味は、次のようになっている。

「人はこれまで社会の制度や文明を自身で創造してきたから、人は彼の欲望や望みを満たすようにそれらを思うように変えることもまたできる」 (p.3)

次の引用がハイエクの意味する設計主義を最もうまく表現するものである、とハイエクは述べている。

    「「社会学が設定した最も重要なゴールは、将来の発展を予想すること、そして人類の将来を具体化すること、次のように表現することを好むのであれば、人類の将来を創造することである」。もし科学がそのような要求をするのであれば、このことは明らかに、人類の文明全体が、そしてわれわれがこれまで達成してきたすべては、目的合理的な設計部としてのみ構築することができつという主張を包含するものである」(p.6)

  「設計主義者がそのような遠大な帰結と要求を導くところの事実上過てる主張は、
   われわれの現代社会の複雑な秩序は、人々が彼らの行動を予測 ― 原因と結果のあいだの関係についての洞察 ― によって行ってきたという環境にもっぱらよるものである、もしくは少なくともそれはデザインを通じて生じることができたという環境にもっぱらよるものである、というものであるように、私には思われる。」

これにたいしてハイエクが対置する考えは以下のとおりである。

   「人々は、彼らの行動を、特定の既知の手段と確定した望ましい目的とのあいだの因果関係についての彼らの理解によってもっぱら導かれてきているということはけっしてなく、かれらがめったに気がつかない、そして彼らが意識的に創造したということはけっしてない行為の規則によってつねに導かれてきているのである。そしてこの機能と意義を識別することは、困難で部分的に飲み達成される科学的努力の課題なのである」 (pp.6-7)

  ハイエクは、人々の行動について、知られた手段と望まれる目的との因果関係を理解することによっては導かれるものではなく、めったに意識することのない、そして意識的に発明したのではない「行為の規則」によってもいつも導かれている、と述べている。
 ここでは、明らかに後者に力点がおかれている。「規則」(rule) は (1) 実際に守られているだけで、言葉で説明されることのけっしてない規則、(2) 言葉で表現されているけれども、行動で一般に守られてきたことをほぼ表現しているにすぎない規則、(3) 意識的に導入されてきており、そしてそれゆえ文章で表現された言葉として必然的に存在する規則のうち、 (1)と(2)がここでは重視されている。

 「幾世代にもわたって通用している世間知は、因果関係の知識で構成されているのではなく、環境に適応して、環境についての情報のように働く行為の規則(それは環境について何かをいうわけではないが)で構成されている」(p.10)

・「規則」を守ることは、グループのメンバー全体をより「有効」 (effective) にし、より効率的な秩序を達成したグループはそうでないグループを排除していく (p.7)

・社会の秩序とは、諸個人の行為の規則性とは異なる概念である点を、ハイエクは強調する (p.9)


メモ:思想家間の相違点について

ハイエクとケインズ/ホートリーの哲学的基礎には相当な相違がみられる。

・ハイエクの哲学にあっては、個人は理性をもった存在として扱われることはない。むしろ個人は慣習 (規則) によって行動する存在と考えられており、社会の形成・創造において非常に受身の存在になっている。この哲学は、メンガーにさかのぼることができるであろう。
   この哲学は個人主義哲学ではない。社会のなかにおける個人は受身の存在だからである。ハイエクは自生的秩序論の先行者としてヒュームをあげるが、ヒュームの哲学は合理主義的であって、ハイエクのものとは性質を異にする。
   ハイエクの哲学には、価値判断の場が存在しない。人々は合理的な存在ではなく、物事の価値判断を行う能力を有していないように思われる。だから、自生的秩序として存在するものはそのまま受け入れてしまっているのであって、それがよいものか正しいものか、はたまた悪いものか誤っているものなのかを判定することができない。
   ハイエクは反功利主義者である。功利主義哲学は個人が快楽-苦痛の計算をできる存在として措定されている。

規則が人々の意思とは無関係に集積していくとしよう。しかしその存在に気が付いた段階でだれかがそれをよりよいものにすべく、意識的に改善するという行為が必ずやとられるはずである。この場合、そのことによって改善された規則は純然たる自生的秩序では、もはやない。

ハイエクは設計主義的合理主義を批判する場合、非常に極端なスタンスをとっている。設計主義的合理主義は、一人の人が意識的に設計したものが必ず社会において実現できる確信するような人として、絶えず描かれているが、これは極端である。さまざまな人が設計してそれを競争する、その結果、優れたものが生き残り、あるいはそれらは他の競合する設計と融合することで混合的な設計へと変化していく、そうした可能性を、ハイエクは設計主義的合理主義を極端なスペクトラムにおくことで看過する。
     片一方に「設計主義的合理主義」、もう一方に「自生的秩序論」をおき、そのいずれが正しいか、という二極化でとらえる、つまりその中間的な形態を無視するというのは、ハイエクの思想に通底する特徴であるように思われる。

・ハイエクによれば、17世紀になってデカルト(ヴォルテール、ルソー)による合理主義哲学により、設計主義的合理主義が支配的となり、スコットランド啓蒙主義 (ヒュームなど) 的認識はゆるやかに進行した。

絶えず意識しないで傍らに出来上がってくる規則、そしてそれを利用する人々、しかし、その存在を知りながら、それを意図的に改善しようとする人の存在しない世界、人々は無知でどこまでも受身の存在として描かれている。

ただし、出来上がってくる規則を、人々は「有益である」と認識することが、ハイエクによってまったく語られていない、というわけではない。

「科学的理論と同様に、「行為の規則」はそれらが有益であると判明することで保持されるが、科学的理論とは対照的に、だれも知る必要のない証明によって保持されるのである。なぜなら、証明は、それが可能にしている社会秩序の復元力および進歩的拡張によって明らかにされているからである」(p.10)

  「彼が意識的にデザインすることができるすべてを、彼は、自らが創造したのではない規則のシステム内でのみ、そして現行の秩序を改善する目的で、創造することができ、創造したのである」 (p.11)

 人々が意図してできることはルール・システム内部でのことだけである。その範囲でのみ現行秩序の改良が可能である(にすぎない)。
 なぜそのような断言が可能なのであろうか。例えば言語にしても、ハングルやカナは特定の人々の意図により、改善ではなく、発明されているのである。平安京は桓武天皇の都市計画によって出来上がったのであり、いまの京都もその影響下にあることは、歴史的に明らかである。

 ・ミーゼスの哲学とハイエクの哲学はかなり性質を異にしている。ミーゼスのプラクシオロジー。ミーゼスの場合、シュムペーターと同様に、企業者が重要な役割を演じる経済理論を有している。

・これにたいし、ケインズやホートリーは、個人を、理性を有する存在とみている(「若き日の信条」での人性合理性にたいしての言及を想起せよ)。これはケンブリッジ的な特徴なのかもしれない。

・シュムペーターにあっては、彼の本丸である経済発展論において、企業者の役割が大きく、そしてその展開方法は当時の「エリート論」の影響を強く受けている。

・進化論について
 
 ケインズは『自由放任主義の終焉』において、スペンサーの進化論を取り上げ、それが、19世紀後半の「自由放任主義」を新たに補強したとみている。

 ホートリーは (ケインズとは異なり) 進化論をみずからの哲学のなかに取り入れ、合理化の社会への進展として取り上げた。

 ハイエクも進化論を取り入れているが、それは「行為のモード (規則) 」したがって自生的秩序の形成との関連で取り入れている。そしてそれは、より効率的な秩序を形成するものとしてとらえられている。「効率的」は「良い」という判断とは異なる点に注意が必要である。

 「行為のこれらの様式が支配し、そのようなグループが他のグループを優越するがゆえに、全体としてのグループにとってより効率的な秩序の形成へと導くような選択過程が生じる」(p.9)

 こうしてみると、進化論というのは、両刃の剣である。

 「理論的知識を前進させることが、われわれをして、複雑な相互関連を確定した特定の事実へと減少させる地位に、あまねくますますもたらす、という思い込みが、しばしば新たな科学的誤謬をもたらす。とくにそれは、われわれがいま考えなければならない科学の誤謬をもたらす。というのは、それらはわれわれが負うている社会秩序やわれわれの文明の代え難き価値の破壊をもたらすからである」(p.13)

ハイエクは19世紀に設計主義的誤謬が広まったと考えている(第7節)。「実証主義」、「功利主義」、「認識論的実証主義」、「法実証主義」、「社会主義」が挙げられ、それらを批判している。

今世紀における設計主義 (科学的誤謬による価値の破壊現象) を、権威者からの引用により跡付ける作業。ChisholmとKelsen  (法実証主義者)を取り上げている。

  「私が述べたことの帰結は、ただ、われわれはその価値のすべてを同時に問うことはけっしてできないということである。そのような絶対的な疑念は、ただわれわれの文明の破壊、・・・極端な悲惨さと飢餓をもたらすだけである。」(p.19)

 「そのような偉大な社会の可能性は、たしかに、本能には依存しておらず、獲得した規則のガバナンスに依存している。これは理性の原理である。それは、本能的な衝撃を抑制し、個人間の精神的なプロセスに始まる行為の規則に依存している。このプロセスの結果として、やがて時の経過とともに、すべての個々別々の価値セットはゆっくりと相互に適応するようになるのである。」(p.19)

進化論的な表現になってはいる。 

  「人々が社会の特定の価値を評価する唯一の基準は、同じ社会の他の価値全体であ
る。」 (p.19)

ここで唯一、自生的秩序論のなかで、個人が意識的に評価を下す場面が登場してくることになる。(下記を参照。似た発想)

  「理性は所与の価値についてのそれ自身この相互の調整であることが示されねばならない。そしてそれはその最も重要な、だが、非常に不人気の仕事を遂行しなければならない…」(p.20)

ハイエクがここでいう「理性」とは、ロックの意味である (p.19の注24を参照)。

  すべての価値が生まれ出るある特定の行動原理で、モラルの適正な形成に必要なものは何でも・・・
ここでも進化論的な叙述 (p.20)

科学は価値と関係がないというのは、誤った信条 (p.21)

  「現存の社会秩序は、人々がある価値を受け入れるがゆえにのみ存在する」 (p.21)

  「価値を含むそのような前提から、議論のなかで前提されているさまざまな価値の整合性や不整合性についての結論を導出することは、完全に可能である」(p.21)

 「われわれが社会の秩序化の継続するプロセス ― そこではほとんどの支配的な価値は疑われることはない ― を処理しなければならないとき、残余のシステムと整合的である特定の質問に対するただ1つの確かな回答があるのみである」(p.21)

  「受け入れられている価値と支配的な事実の秩序とのあいだの関係」(p.22)

  「かくして、諸個人とかグループが意識的に追及しているようにはみえない価値の受容に依存していることが、われわれがすべての個々の努力において前提しているそんであるところの事実的秩序の基礎そのものである、とことを証明することが可能となる」 (p.22)

見落としていたが、ハイエクは人々の価値判断について言及している。それは、大多数の価値を受け入れている状態が、現在の秩序の基本である、としたうえで、個々人の行為がそれとの関係で評価される、というものである。しかし、このような抽象的な基準でよいものであろうか。