2013年9月4日水曜日

市場社会論のケンブリッジ的展開 


ある本に書いたもののもとになったもの。



市場社会論のケンブリッジ的展開 
平井俊顕
I. はじめに
本書は、19世紀後半から20世紀前半にかけてケンブリッジを舞台に活躍した経済学者を取り上げ、彼らが、自ら生を営んできた市場社会をどのように評価していたのか,  そしてそれをどのように改革すべき(あるいは維持すべき)と考えていたのかを論じた諸章で構成されている
 これらを受けて本書を締めるべく、本章では次の課題に取り組むことにする。「ケンブリッジの市場社会論 (= 社会哲学とは一体何なのか。中核になる概念は何なのか。そしてそれにはどの程度の統一性があるのか (ないのか)を総合的視点から示すこと、がそれである。
 本章は次のように進められる。第Ⅱ節および第Ⅲ節では、本書が対象にする時期のケンブリッジを、それぞれ「マーシャルの時代」、「ケインズの時代」に分け、市場社会論と経済理論がどのような内容のものであったのかを論じる。
 「ケンブリッジの市場社会論」を論じるのに、上記のとらえ方では述べきれない、しかしそれらを追究していくうえで欠かすことのできない論点が認められる。第Ⅳ節で扱われるのはそうした点である。
II. マーシャルの時代
  マーシャルの時代にあっては、イギリスは依然として「パックス・ブリタニカ」の中枢に位置する「覇権国」であった。金本位制と自由貿易体制の中枢国、金融の中心としてのロンドン、最大の植民地をもつ大英帝国、という構図は維持されていた。この時期、イギリス経済は戦争等による打撃をこうむるということは、まったくなかった (唯一、大きなものといってもボーア戦争程度である)。人々は,債券の値上がりや海外投資によって、多額の収入を得ることのできた時代でもあった。
しかしながら、この時代には「パックス・ブリタニカ」の行く末に陰りがみられるような状況が生じてきていた。ドイツ、アメリカの経済発展により、イギリスは焦りと苛立ちを感じていたのである。とくに問題となったのは、イギリス経済の相対的停滞であり、その原因としての経済主体の姿勢における立ち遅れであった。この時期、貧困問題への人々の関心が高かったことはたしかである。それは底辺層に位置する労働者階級の問題であった。
1. 経済学
1870-1880年代におけるイギリスの経済学の状況については、「混乱とヘゲモニー争いの時代」とでも呼ぶのが適切であろう。この事態は、主としてリカードウ=ミル学派の崩壊、ならびにそれに代わる有力な経済学パラダイムの不在に起因するものであった。
1880年代に突入したとき、その後の経済学の歴史に深い影響を与えることになる2つの出来事がケンブリッジで生じた。
 1つは、1884年、ケンブリッジ大学政治経済学部の教授にマーシャルが選出されたことである。就任講義「経済学の現状」で、マーシャルは、哲学的・歴史的アプローチとは識別される「科学的」経済学を構築すること、そしてそれを社会の直面する実際の経済問題に適用すること、の重要性を強調した。
  もう1つは、マーシャルによって始められたケンブリッジ大学での経済学教育をめぐる改革運動である。この目的を実現するため、彼は2人の大物 ― W.カニンガムとシジウィック ― と戦うことになった。マーシャルは、経済学トライポスの設立を提案し、その実現に奔走した。この設立により「哲学の支配および歴史の影響から経済学を自由」にし、有能な学生を「科学的な」経済学の研究に引きつけることになる、との信念に基づいてである。これにたいし、カニンガムは経済学トライポスの設置に反対する運動を展開した。ケンブリッジ大学の道徳哲学の教授であり、「モラル・サイエンス・トライポス」の任にあったシジウィックも、反対の意思表示を行った。
  こうした反対をはねのけてマーシャルは戦いに勝利を収め、ついに1903年、経済学トライポスの設立に成功したのである。
この時期の経済学の主流派は、いうまでもなくマーシャルに代表されるケンブリッジの新古典派である。マーシャル経済学の体系は、本質的には3つの独立した理論で構成されている。(i) 市場での交換理論(ii) 貨幣数量説の現金残高アプローチ、および(iii)景気循環理論がそれである。しかし、何といっても重要なのは(i)である。それは、市場における交換現象を貨幣の限界効用ならびに貨幣の一般的購買力を一定とし、また分析の対象を一財に限定することにより、通時的問題に威力を発揮する「正常需給均衡の安定均衡理論」をその中心的命題として提示した1。これは静学的な価格分析である。これは、古典派の生産費説と限界理論に基づく主観価値説を、整合性のある1つの理論で説明したものである。需給均衡理論は、分配理論にもその中心的命題として使用されており、その意味で、第5編と第6編を『経済学原理』の中心的箇所とみる立場に立つかぎり、マーシャルが成し遂げたことは、静学的な価格理論の提示であり、その中心は市場での交換取引の理論的解明ということになるであろう。
  だが、マーシャルの経済学をこの枠内に収めることは、不可能である。彼は、経済社会の成長という問題にも、並々ならぬ関心を抱いていたからである。分業を通じて、人間の知識、そして産業組織が成長を遂げていくことを、誰よりも深く分析したのは、他ならぬマーシャルであり、当時驚異的な経済発展を遂げつつあったドイツやアメリカについて、その原因をつぶさに調べたのも、『産業と商業』の著者、マーシャルである。マーシャルは、国の理想のなかでも重要な位置を占めるものとして、「産業的指導権」をあげる。国民の生活を、諸個人の生活の集合体以上の何かと認める理想であり、健全な国民のプライドと密接に関係をもつものとされる。マーシャルの関心事は次の点にあった ― イギリスの産業的優位は何に依存しているのか、そしてそれは再び拡大できるのか。
 こうして、マーシャルには、古典派と限界理論の価値論を整合的な理論で説明する手法を提示するという理論的な探究がある一方で、現実の経済社会にあって知識、組織、経済が成長を遂げていく現象に深い関心を抱く、という側面が認められるのである。
  ここでマーシャルとさまざまなかたちで緊張関係をもたらしたケンブリッジの経済学者について一瞥の必要がある。まず第1に、シジウィックである。既述のように経済学トライポスの設置をめぐり、マーシャルと激しく対立したが、その根底には倫理学、経済学、政治学を体系的にとらえ、そのなかで経済学を政治学のなかに収まるべき部門ととらえるシジウィックと、経済学の倫理学からの独立を目指すマーシャルという対立構造が存在した(ただし、シジウィックの経済学が古典派とはいえないという点は指摘しておく必要がある)。第2に、カニンガムである。彼は歴史学派的なスタンスにあり、経済学トライポスのみならず、保護主義を唱える点でも、マーシャルと対峙した。第3に、フォックスウェルである。彼は、マーシャルのすぐ近くにいたものの、思想的、経済学的にマーシャルとは対立的な関係に立っていた。第4に、エッジワースである。経済学における数学的扱いについては、マーシャルとは意見を異にするところがあった。
つまり、マーシャル経済学がイギリスの正統派経済学として圧倒的な影響力をもったとはいえ、彼の周辺の比較的年齢の近い経済学者 ― 上記でいえば、エッジワースをのぞくと ― とは、思想的、経済理論的、そして人間的にも、ぎくしゃくした関係にあったのである。
2. 市場社会論
この時期の市場社会論はニュー・リベラリズム(ホブソン),社会帝国主義(チェンバレン),自由貿易帝国主義(アスキス),フェビアン主義(ウェッブ夫妻,ショー)などによって代表される.これらは帝国主義にたいするスタンスを異にするため,一括して呼ぶには難がある.だが,いずれも国家が社会の貧困問題に積極的に関与する必要性(社会改革)を唱道する点で,そしてレッセ・フェール思想にたいし批判的であるという点で,共通している.そこで便宜上,これを「コレクティヴィズム」と総称しよう2.
これにたいし、マーシャルがとったスタンスは、本質的に自由主義的である。マーシャルが当時のイギリスが抱えていた産業的、社会的問題に深い関心を寄せていたことは周知の事実であるが、その解決策はいずれも自由主義的なものに落ち着いてしまっている。
貿易問題をみよう。チェムバレンやアシュレイは産業の空洞化とランティエ化を危惧し、その原因を自由貿易ならびに経済主体の対応の遅れに求めた。これにたいし、マーシャルもイギリスの産業上の指導権の危機に敏感であったが、この点でのマーシャルの立論は、およそ明瞭とはいえない。彼は自由貿易を是認しており、その主たる理由として、方策を何もとらないということのもつ利点、ならびにアメリカ、ドイツの進んだ企業からの競争にさらされていることの利点をあげている。
教育問題をみよう。アシュリーの経営者教育の実践は、この点で正しい路線をとったのであるが、その成果は散々であった。これにたいし、マーシャルは「経済学トライポス」の創設に成功するも、それはイギリス産業の指導権の危機を解消するうえでは、むしろ逆効果であった。
労働問題をみよう。マーシャルが、労働者階級の抱える貧困問題に心を痛めていたことは、よく知られている。しかし、教育サービスの公的機関による提供により労働者階級の教育レベルを向上させる、という提案以上のものではなかった。
 彼は、労働者階級の将来の改善について、企業者が「経済騎士道」にたどり着くことに多大の期待をおいたのであって、労働組合や国家の関与には否定的であった。
 マーシャルは経済理論家としてイギリスの経済学界を文字通りその支配下に治めることに成功しただがその社会哲学の基調は経済的自由主義であり時代的趨勢からみると守旧的であった
III. ケインズの時代
  ケインズの時代は第一次大戦で崩壊してしまった「パックス・ブリタニカ」を回復させようとする努力が続けられるも結局は失敗しかといって新しい世界体制は生み出されないまま世界は紛糾を続け混乱と分裂の進むなかで第二次大戦に突き進んでいく,という時代であった。この時代は前半(1920-1936)と後半(1937-1945)に分けることができるであろう。
  前半は、「パックス・ブリタニカ」への復帰が、大多数の人々によってまだ当然と考えられていた時期である。この時期、世界経済における最大の関心事といえば賠償・戦債問題、それに国際金融問題であった。またイギリスをはじめヨーロッパでは失業・不況が深刻な問題になっていた。1920年代は経済の成長を語るような時代環境ではなく、いかにして経済を完全雇用の状態で安定させることができるのか、ということに関心が注がれていたように思われる。
  既述の最大の問題 (賠償案,戦債処理問題それに国際通貨システムは適切な解決策を見出すことができず、いたずらに紛糾が繰り返されることになった。これらは様々の金融危機を引き起こす原因となり、ヨーロッパ経済の混乱は加速度を加えていくことになる。そして1931年には再建金本位制は瓦解するとともに、世界は新たな火種を抱えることになり、第二次大戦の遠因が形成されていくことになった。
  後半の状況は、前半とはかなり異なっている。この時期、イギリスは不況からの脱出に成功したのであるが、それはアメリカからの革新的技術の導入や企業の合理化が格段に進められるかたちで達成されたからである。むしろ、この頃以降問題となってくるのは、完全雇用下でのインフレ発生の可能性にたいし、いかに対処すべきかという点であった。   
 アメリカは大恐慌から立ち直っていなかったのにたいし、ドイツ、イタリア、ソ連、日本等が経済的発展を再開するなか、世界は多極化、分裂に向かって歩を進めていくことになった。もはや「パックス・ブリタニカ」の回復というのは、遠い昔の夢物語となってしまったのである
1. 経済理論
この時期、展開された経済理論をみていくことにしよう。
まずピグーである。彼の主著は『厚生経済学』(1920)であるが,これは本質的にマクロ経済学である.そこで問題にされたのは,さまざまな要因(政策もあれば,知識の不完全性,公衆の特性等もある)国民所得の将来の増減にどのような影響を及ぼすかであり,いかにすれば増大が可能なのか(すなわち厚生を増大できるのか)であった.有名な,累進課税の推奨や,社会的限界費用と私的限界費用の乖離をめぐる議論も,この問題設定に関連している.
  ピグーは『産業変動』(1927)で景気変動論を展開している。ピグーは産業の変動を失業の変動、そして失業の変動を雇用量の変動ととらえる。雇用量は労働の供給関数と需要関数の交点で決定される。ピグーはこの基本命題から議論を出発させ、産業変動の近因は労働の需要関数にあり、さらにそれは「産業支出」から得られる利潤に関しての企業家の予想の変化に依存すると結論づける。こうしてピグーにあっては、企業家の予想変化が景気変動の最も重要な要因として抽出されることになる。
以上のほか、ピグーでさらに注目すべきは,『一般理論』で受けた自らにたいする批判を,後年受容しつつ,ピグー効果に象徴される古典派のマクロ理論の構築に貢献している点である3. 
  ロバートソンは基数的効用理論を支持するという点で,ピグー的な功利主義者の顔ももっている。また、ロバートソンはマーシャルの価値論,貨幣数量説を最も陽表的に継承している。
だが、彼の独創性は『銀行政策と価格水準』(1926)で展開された景気変動論にある.これはその特性上,マーシャル的というよりは,ヴィクセル的である. これは『産業変動の研究』(1915)の「非貨幣的議論」に、貯蓄、信用創造ならびに資本成長のあいだの関係についての議論を織り込んだものである。
「銀行政策と価格水準」という題名は、銀行組織による貨幣創造政策は、生産物のうち生産拡張のために必要な部分を企業家が購入することを可能にさせ、その結果生産物の価格水準を上昇させるという主題を集約的に表現したものである。彼の基本的な考えは、銀行組織による不足資金の供与により、企業は生産の増大に必要な(実物)流動資本の購入が可能となり、したがって次期にはその増大により生産の増大を実現できるというものである。このとき貨幣量は増大し、そのため消費財価格は上昇する。
ケインズの場合,『貨幣論』や『一般理論』において,明示的に反マーシャル的な側面を強調している.とりわけ,それは『一般理論』において顕著であり,ピグーやロバートソンをして,マーシャルにたいする不当な扱いと感じせしめたほどである.しかし、そのケインズですら,貨幣理論の扱いや,『一般理論』での短期的な分析手法において,マーシャルの影響は明瞭に認められる.
ケインズ自身の理論的営みからいえば、『貨幣論』(1930)は『貨幣改革論』(1923)の世界からの訣別であった。そしてこの転換の大きな契機はロバートソンによってもたらされた。『貨幣論』の理論構造の顕著な特徴は、「ヴィクセル理論の系譜」と「固有の理論展開」の双方が併存しているという点にある。ケインズが自らの立場をヴィクセルの系譜におく最大の根拠は、バンク・レートを貯蓄・投資との関係でとらえる発想にある。 
 『貨幣論』ではこの発想は、バンク・レート政策により貯蓄と投資の変動を通じて経済の安定(物価と産出量の安定)が達成されるメカニズムとして用いられている。
他方『貨幣論』固有の理論構造は、(メカニズム1)[「任意の期」における消費財の価格水準の決定](メカニズム2)[「任意の期」における投資財の価格水準の決定]の「TM供給関数」[両財部門の実現利潤に刺激されて、企業は来期の生産を拡張(縮小)するように行動するという関係をこう呼ぶことにする]を通じた動学過程として表現することができる。
  『一般理論』では、新古典派体系にたいする批判は(『貨幣論』とは異なり) 明示化されたうえで、新しい貨幣的経済理論の構築がめざされている。より重要なことは『一般理論』において初めて雇用量決定の具体的理論が提示されたという点である。「ケインズ革命」は、財市場の分析に独自性がみられ、それに『貨幣論』以来の貨幣市場の分析が調整されることにより、両市場の相互関係で雇用量が決定されること(しかもそれは不完全雇用均衡に陥りやすいこと)を提示した貨幣的経済理論の誕生としてとらえることができる。
最後にホートリーであるが,彼にあっては,その貨幣的景気変動論が有名である.だが,彼は独立独歩の理論家であり,マーシャルの影響は認められない.
  ホートリーの『好況と不況』(1913)では、銀行の行動が決定的に重視されている。銀行は現金保有との適正感で信用貨幣量の調節をはかろうとする。両者の関係が不適正であると考えた場合には、信用貨幣量を減増しようとして利子率を上下させるが、銀行のこの行動が景気変動を引き起こすとホートリーは考える。景気変動の根本的な原因は、現金の変動が信用貨幣の変動にかなりのタイム・ラグを伴って生じるという点にある。このため銀行のとる行動が、景気の変動を防止するのではなく景気変動を引き起こすとされる。
彼らの業績は,おしなべてマクロ経済学の領域であることが判明する.それは、マーシャル(科学的)研究計画の最後にあって遂行しきれなかった領域だったからである.この領域にあって,彼らは,たがいに影響対立をみせながら,自らの立論を構築していったのである.
マーシャルの最大の業績である価値論について,上記4名が目立った動きをみせることはなかった.むしろ、それはスラッファ(1926)によるマーシャル批判から生じたのである.スラッファは費用逓減と完全競争のジレンマを問題にし,ついには費用一定の状況を主張することで,需給均衡理論そのものを否定し,古典派に回帰していったが,この問題提起は, J.ロビンソンに代表される「不完全競争理論」出現させることになった。
 戦間期を「ケインズの時代」と述べたが、これには若干の補足説明が必要である。前半は、正確には、4名によるライバル的状況というべきであろう。経済学に限定すれば、ピグーの厚生経済学、ロバートソンやホートリーの景気変動論と比べ、頭抜けた存在とはいえない。ケインズが同世代のなかで圧倒的な優位を示すのは後半になり、「ケインズ革命」が生じることによってである。
2. 市場社会論
 戦間期ケンブリッジの指導的な経済学者が市場社会をどのようにみていたのかを,ここでまとめておこう
ケンブリッジ学派の主導的な経済学者は,多かれ少なかれ,「ニュー・リベラリズム」的思想の持ち主であり、経済の安定,失業対策,所得の不平等などの問題にたいし,政府の積極的な関与,弱者救済の必要性を唱道するスタンスに立ってい4. 彼らはこうした市場社会論に依拠して,自らの経済学を構築していった.したがって,彼らにあっては,政策指向的スタンス(福祉国家的思想)は明瞭である
 彼らに共通るのは,資本主義社会システムのもつ悪弊に注目し,いかにしてそれを除くことができるのかに力点がおかれているという点である。いずれも自由放任主義は市場社会の状況改善に役立つものではないとの認識を有し、政府が果たすべき役割を強調している。そして市場社会にたいし、そのもつ欠陥 ― 金儲け動機所得分配の不平等繰り返される失業等々  の是正を目指している点でさらに個人の不完全性を意識している点共通している。このことは彼らが生活し、探究した資本主義経済の状況と無縁ではない。戦間期の世界経済はきわめて混乱した状況にあり、資本主義システムは自信喪失状態に陥る一方,ナチズム・ファッシズム,それにソヴィエトが逆に活気を帯びていた
反面、以上にみられる共有認識が展開される論法,ならびにコレクティヴィズムへの移行をめぐるスタンスは四者四様である。
ピグーはシュムペーターの二元論,ワルラスの一般均衡理論的な思考法,そしてランゲ的な思考法を用いて資本主義と社会主義を比較・論評している点が興味深い。の基本的なスタンスは,資本主義の現在の機構を当分のあいだ受け入れるが,それは漸進的に ― 相続税・所得税の累進化による財産・機会の不平等の是正,重要産業の国有化,国家による投資計画の推進などを通じて  変更していく、というものである。そしてピグーは,資本主義と社会主義を比較・評価したうえで総合的にみて社会主義に優位性がある,と結論づけている。
 これにたいし,ロバートソンは,資本主義システムを「産業のコントロール」,すなわち,資本主義経済における最も重要な単位組織である企業が産業 ― ここでは資本主義経済とほぼ同義 ― 内においてどれほどのコントロール力をもるのか,そしてそのコントロールはリスクといかなる関連を有るのか,という視点からみている。「非-調整」のシステムである市場社会という大海のなかにあって,企業規模が巨大化し,さらにはカルテル,トラスト,企業合同といった手法で「バター・ミルク桶のなかで凝固しているバターの塊」が大きくなってきているが,しかしそれは依然として小さなものである。ロバートソンの基本的なスタンスは,市場システムを維持しつつも,民間企業の是正のみならず,様々なかたちでの集産主義や協同組合等の充実を通じ,「差別の先鋭化」ならびに「リスクとコントロールの現状」の是正を目指すこと価値をおくものである。自らのスタンスを「自由主義的干渉主義」と呼所以である。
 ホートリーは,ホートリー的意味における倫理的価値(=厚生)を根底基準におき,その見地から,個人主義システムの欠陥を批判する。彼は,人間のもつ鑑識力の弱さにより,財市場で決定される市場価値は倫理的価値との乖離を引き起こしているという認識,そして労働市場は「故障」しているという認識を表明することで,個人主義システムのもつ根本的な欠陥を指摘する。これが個人主義システムの,いわば「静態」的側面の欠陥とすれば,次に「動態」的側面の欠陥の指摘が続く。個人主義システムは、利潤獲得を動機として企業活動が行われ,それにより資本の蓄積,そして所得分配の過度の不平等を招来している点の指摘である。それらの根本は,結局のところ利潤にあり,それを廃絶することが,厚生の達成という真の目的にとって必須となってくる。こうして利潤に基礎をおかない,したがって偽りの目的である金儲けを廃絶し,真の目的である厚生の達成を,国家を中心にしたシステムによって目指す道,すなわち,コレクティヴィズムへの道が志向される。
  ケインズは市場社会を,似而非道徳律と経済的効率性のジレンマに陥っている社会とみていた。そしてそのなかに中間組織の増大してくる状況を歓迎し、そして政府の政策により、市場社会のもつ悪弊を除去することの重要性を強調した。ケインズは自らの社会哲学をニュー・リベラリズムと表現している。それは,自由主義と社会主義の中道を目指そうとするものであった。
IV. いくつかの
  本節では、ケンブリッジの社会哲学の特性を広い視点からみるうえで、上記では語ることの難しいいくつかの論点 ―「功利主義と効用理論」、「哲学的土壌」、「ソサエテイとブルームズベリー・グループ」、「異質な要素」、「外部世界」、「方法論的論点」―について検討していくことにする。
1. 功利主義と効用理論
功利主義哲学が効用理論というかたちで経済学と結合することになったのは、ジェヴォンズの『経済学の理論』においてである。功利主義思想の中核を占める「快苦原理」が、経済主体の行動を説明する原理として経済学の中核に導入されることになったのである。ジェヴォンズによる経済学への「快苦原理」の導入があった後、功利主義と効用理論のあいだの関係が深く追究されたかというと、じつはそうではなかった、というのが実情である。この点に関して、ケインズの「エッジワース論」(1926に、次のような興味深い問題指摘がみられる。
  ミル、ジェヴォンズ、1870年代のマーシャル、70年代終わり、および80年代初めのエッジワースは、功利主義的心理学を信じており、この信念のもとにその主題の[限界的]基礎を築いた。後年のマーシャルおよび後年のエッジワース、そして多くの若い世代は十分には [功利主義的心理学を信じてはいない。しかし、われわれはいまだに、もとの基礎の健全性を徹底的に探究することなく、その上部構造を信じている (JMK.10, p.260)
「もとの基礎」とは功利主義的倫理学であり、それが健全なものかについて、ある時期以降、だれもがそれに懐疑的になった、とケインズは評している。功利主義との関係が定かでないにもかかわらず、「もとの基礎の健全性を徹底的に探究することなく」経済学者が効用理論を信じている事態に、ケインズは重大な問題提起をしている。
2. 哲学的土壌
  ケンブリッジの経済学を語るうえで、無視することのできないもの、それはケンブリッジでの哲学的展開である。これは同時期に生じており、ムーア、ラッセル、ホワイトヘッド、ヴィトゲンシュタイン、ラムゼイ、スラッファといった錚々たる人材によって、収斂と分散を重ねながら展開された、20世紀における最も重要な哲学的運動であった。そしてこの期間中、ケインズが深く関与していることは、強調されてもよい (ホートリーも然りである)。こうした哲学的展開にあって、シジウィックの功利主義は忘却されたように思われる。
20代のケインズが知的情熱を傾けたのは、確率論の研究であり、1921年になってようやく『確率論』として刊行されている。1904年1月に「ソサエティ」で発表された論文にまでさかのぼるこの研究は、ラッセル=ホワイトヘッドによる分析哲学の手法とロック=ヒューム以来の経験論哲学の考えを基礎にしつつ、命題間の論理的関係を明らかにしようとする壮大なものである。そこでは、確率は「命題間の合理的信条の度合」と定義されている。用語の厳密な定義その形式論理的展開はムーアやラッセルに従っている。
 ケインズは確率を「客観的」なものとして認識している。これが基本的スタンスである。確率のもつ主観性を否定するわけではないが,それでもやはり確率は基本的に客観的なものという点が強調されている (『確率論』でいう「確率」概念は非常に幅が広い)
『確率論』のもう1つの大きな目的は「帰納法」の正当化である。「帰納法」は人間の認識の進展に多大なる貢献を果たしてきたにもかかわらず,論理学者はその正当化に成功していない。ケインズはこの難問に挑んでいる。分析哲学的手法に基づく演繹的・公理的分析と,「帰納法」の正当化というパラドキシカルな課題の追究である。
   ケインズの『確率論』は、周知のように主観確率論をとるラムゼイからの批判を受け、ケインズの哲学的立場は変容していった。そしてそれはヴィトゲンシュタインにも生じ、ケインズもまた後期ヴィトゲンシュタインの影響下で、後期ケインズへと変わっていく。こうした理解が、ケインズの確率論をめぐる考えが『一般理論』に至るも連続しているとみる理解とともに、近年の哲学的研究において示されていることをここに記しておくことにする。
3. ソサエテイとブルームズベリー・グループ
ケンブリッジの社会哲学を考察するさいに、経済学では語られることのない、しかしながら欠かすことのできない重要なグループが存在する。「ソサエテイ」と「ブルームズベリー・グループ」である。
「ソサエテイ」はムーアの影響下にあり、なかでも1903年に出版された『倫理学原理』(『プリンキピア・エティカ』は神への信仰問題で揺れ、それを拒否した世代を代表するシジウィックの苦闘を克服した新しい道徳哲学の書として、ケインズたちに広く受け入れられていった。彼らは、いずれも「反功利主義」者である点でも共通した価値観を有している。このことは、ケンブリッジの経済学の哲学的基盤を考えるうえでも重要である。
   ケインズの世代における「ソサエティ」は、その後、リットン・ストレイチー、レナード・ウルフ、ソービー・スティーブン、クライブ・ベル、、E.M.フォースター、ケインズを中心として(さらには世代は上であるが、ロジャー・フライを加えて)、ヴァネッサ=ヴァージニア姉妹(父はケンブリッジ出身の思想家レズリー・スティーブン。ソービーは彼女達の兄達とともに、ロンドンに居を移して、交錯する私生活を伴いつつ、華やかな文化活動を展開していくことになる。これが有名な「ブルームズベリー・グループ」であり、戦間期に文学、絵画、評論、経済学等の幅広い分野で、非常に大きな影響をおよぼすに至るのである。「ブルームズベリー・グループ」は「ソサエティ」の合理的・哲学的気風と、後期印象派の芸術家達の直覚的・自由奔放な気風とが、複雑な人的関係を通じて融合することで、知的・文化的価値観を共有していた。
      
4. 異質な要素
ケインズは、終生、マルクス主義、マルクス経済学にたいし、きわめて否定的な姿勢をとり続けた。ケンブリッジの主要な経済学者で、マルクスの影響を受けた者はいないといってよい。
そうした環境下での唯一の例外といえるのが、ドッブである。彼は労働価値説の立場に立つとともに、資本主義経済は資本家階級による労働者階級の搾取(剰余価値)による資本蓄積過程であり、利潤率は長期的に低落していくと考えている。そして資本主義社会が崩壊するのは生産力と生産諸関係の矛盾による崩壊である。「経済理論」、「社会理論」のいずれにあっても、どこまでも2つの階級のあいだの関係が本質的な問題として設定されている。
この時期、ケンブリッジの若い世代のあいだにマルクス主義の影響力がかなり強くなってきていたというのは事実である。またイギリスの当時の知識階層内部でのソ連礼賛はかなりのものであった。
スラッファのケンブリッジにおける位置はきわめて異端的である。スラッファは マーシャルの価値論に大きな一石を投じた。そして彼は、限界分析に基づく新古典派理論を否定し、古典派への回帰(ただし、スラッファ的回帰であって、必ずしも古典派が行っていた分析手法そのものへの回帰ではない)を目指すことになった。その成果が1960年に刊行された『商品による商品の生産』である。彼は寡作であるが、スラッファ・ペーパーズのなかにはケインズの『一般理論』に付したメモが存在する。それによると、スラッファは『一般理論』を徹底的に批判していることが分かる。なお、スラッファは後期ヴィトゲンシュタインの誕生において、少なからぬ役割を演じていることも、いまでは知られている。
  
5. 外部世界
本書では、ケンブリッジの外部からの声として、2つを選んでいる。LSEの「ロビンズ・サークル」ならびにアメリカの制度学派である。それぞれに関連したことを若干記しておくことにする。
A. ロビンズ
   ロビンズはLSEの指導的経済学者である。Robbins(1932)は、制約条件下の最適問題として経済学を定義したことで最も知られている。このことが鮮烈であったてめに、ロビンズは誤解を受けてきたように思われる。例えば、彼は1940年代に「経済部」の部長として、雇用政策の設定や福祉国家システムの構築において、ケインズ、ベヴァリッジをサポートする立場に立っている。
 ロビンズは「集産主義」に反対し、「法の前での平等」を強調する自由主義者であるが、「レッセ・フェール」を唱える単純な自由論者ではない。ロビンズは、スミス以来の完全雇用的な理論システムにたいし、それは総需要の維持の問題にたいして無頓着である、との考えをもっている。とりわけ貨幣・信用が含まれている経済システムにあってはそうであり、そこでは何らかの意識的な工夫が必要となってくる、とロビンズは考えている (「自由と秩序」(1954), 『政治学と経済学』pp. 43-44 を参照。実際、ロビンズはケインズ的な思想にたいして肯定的な評価を与えており(「政治学と経済学の関係」pp.11-12を参照、国家の介入の余地はかなり存在する(『政治学と経済学』p.42) 、と考えている。自由主義者の欠点として、「規則」を重視して、「裁量」を排除できると考えてしまう点にある、と述べているほどである同上書、p.48を参照。ロビンズにとって「自由経済のシステム」とは「進化システム」である同上書、pp.44-45を参照
またロビンズの自由主義はハイエクのそれとは、性質を異にする。ロビンズは、自生的秩序論の重要性を認めつつも、諸制度が公共的効用の必要の見地からの絶えず真摯な精査が絶えずなされると解されないのであれば、自生的秩序論は「真の自由主義」よりもむしろ「非自由主義の神秘主義」の基礎になってしまう、と警告している。ロビンズ「ハイエクの自由論」(『政治学と経済学』所収。1961を参照。
B. アメリカの社会哲学
社会哲学にあっては、アメリカでは2つのグループが識別される制度学派の代表的論客コモンズは現代を「安定化の時代」ととらえるそこでは個人的自由は部分的には政府の制裁によりしかし主としては協同組合会社組合および製造業者労働者農民および銀行家等の集団的な行動によりそれ以前の時代よりも減少するとされるコモンズはこの傾向を歓迎するとともにT. ルーズヴェルトの「スクウア・ディール」ウィルソンの「ニュー・フリーダム」およびF. ルーズヴェルトの「ニュー・ディール」にわたる期間のアメリカにおける経済改革の主要な設計者」(田中 [1993],  p. 58)として活動を続けたもう1人の論客J. M. クラークにあっても現代は「経済活動の社会的コントロール」が進行する時代でありそしてそのことを歓迎するスタンス(「社会自由主義的な計画化」)が唱道されている
次に「ニュー・ディーラー」に触れる必要がある彼らには制度学派から影響を受けた者とそれとは異なる知的バックグラウンドをもつ者がいる彼らはルーズヴェルト大統領のもとでの政策決定に重要な役割を果たした後者に属する代表格にカリーホワイトがいる公共投資や財政赤字による経済の復興を大胆に主張する彼らの考えは近年、「ハーヴァード・トラディション」と呼ばれている5より重要なことはこうした政策方針は当時のアメリカの主要な経済学者を包摂するものったという点である
第2は新古典派的流れであるとはいえ彼らの社会哲学を一義的に規定するのは難しい新古典派の代表として人はフィッシャーやナイトをあげるであろうフィッシャーは今日イメージする新古典派に最も近い学者であるが彼の社会哲学的政策的スタンスが自由放任主義であったというわけではないむしろ彼は社会改革に熱心であったことで知られる… 強制的健康保険や労働者補償法には賛成したし  鉄道料金の激烈な競争に批判を加えたさらに貨幣政策においては自由放任に強く反対し「安定ドル」や「補整ドル」政策を熱心に提唱した  彼は自らを自由放任にたいする熱心な批判者であるとさえ考えていた」(田中[1993], pp. 39-40). 
人は自由主義者として知られるナイトを自由放任の陣営に入れたがるもしれないだが次の一文に明らかなようにこれは誤解である
 私はただ求められている知的行動は個人的であると同時に集的であることそしてレッセ-フェール原理は不可能なレベルでの個人的インテリジェンスを想定しもし厳密にとれば社会的行動を自由の監視に限定するようなものであることに注意を喚起したい (Knight [1967],  p. 439) .
6. 方法論的論点
ケンブリッジの経済学者は、現実に出現する社会的諸問題がまずあり、それをいかに理解し、解決すべきか、に優先的順位がおかれていた。したがって仮定のもつ現実性は彼らにとって重要であり、そのことを犠牲にした厳密性は「似而非」である、と彼らは考えたのである。
これは、現在マクロ経済学のもつ問題点の、方法論的視座からの警鐘である。今日、主流派の経済学は、厳密な数学化をミクロ的基礎から行うといいながら、そのじつ、「代表的家計」に期待効用の最大化を措定することで導出された景気変動モデルで、それが実現できていると考えている。そしてこうして得られたモデルにカリブレーションの手法を用いることで、現実の経済とのマッチングの程度を測ることに意味があるという方法論が正当なものとみなされている。この歪んだ論理実証主義は本当に価値のある営みなのであろうか。ケンブリッジの経済学者のもった現時的感覚は、じつは現在においてもきわめて重要なものなのである。
V.むすび
この20年間世界経済激変してきた。社会主義体制の崩壊旧社会主義社会での市場社会化の進展サッチャリズムネオ・リベラリズム勃興などがそれである。そしてこのことは「純粋な」資本主義システムを実現させるべく、あらゆる政府の干渉を除外し、そして個人の自由な経済活動を極限にまで推し進めることこそが、人間社会の発展にとって重要なことである、とする市場原理主義を推進するうえで、大きく寄与してきた。その一方で、彼らは、社会主義システムのみならず、いやそれ以上に、戦後の資本主義国の社会哲学をリードしてきた「ケインズ=ベヴァリッジ・システム」への批判を続けてきた。
 経済学の分野で、この傾向を補強するような役割を演じてきたのが、「新しい古典派」である。彼らは,合理的期待形成やリアル・ビジネス・サイクル理論に代表されるように,経済主体の合理性の強調,市場における均衡メカニズムへの信頼という点で,際立ってイデオロギー色を打ち出す人々によって彩られてきた。彼らは,これらの前提によって理論が探究されるだけではなく,それによって現実の経済を科学的に説明できる,というスタンスをとっている。そして本書との関係でとりわけ重要なのは、それが彼らの市場社会観の表明にもなっているからである。
しかし、現在、「純粋な資本主義」を求めて邁進してきた世界経済は、危機的状況下にある。そしてそれは市場原理主義の破綻でもある。資本主義の適正な運営のあり方は、きわめて重要な課題として、現在のわれわれに要請されているのである。科学的・客観的特性をもつ技術としての金融工学を豪語してきたヘッジ・ファンドは、短期的な投機講堂を通じて、世界経済を混乱に落としいれ、そのたびに政府による尻拭いが大規模に行われる、という形態を繰り返してきた。LTCI (Long Term Capital Investment)、ドット・コムに始まり、いまやサブ・プライム・ローンである。大企業はこれらに深く関与し、ついには自らがどれだけの価値のものを売買しているのかが、まったく判断できない状況に陥ってしまっているのである。現在の世界状況を客観的に評価しようとするさい, 政治家の掛け声や新保守主義者の社会哲学とは裏腹に,本来目指すべきは,畢竟「中道」のポジションをどのあたりに定め直すべきかという問題にほかならないのである。このことはプラグマテッィクに決めていくほか、方法のない問題である。
 いまや、ある意味で、戦間期の世界経済と似た側面が現出している。本書で展開したようなケンブリッジの社会哲学の探究は、現在のこうした問題を考えるうえでも、重要な洞察を提供してくれるのではないだろうか。
1) この評価は, Keynes[1925],  OBrien(OBrien=Presley eds.  [1981]),  Stigler [1990]と軌を一にする.  
2) 19世紀の前半・中葉を古典的自由主義後半以降をコレクティヴィズムの時代とするという認識は,  その傾向を是とする(ケインズコモンズ)非とする(ハイエク) かを問わず多くの人々が共有するものである。 
3) Pigou [1950]を参照
4) これはケンブリッジにかぎられた現象ではないオックスフォードはグリーンやトインビーに代表されるように上記のスタンスを強くもっていたまたLSEでは「自由主義経済学」 陣営の大半は, 1940年になるとロビンズヒックスを含めその立場をケインズ寄りの方向に変えている
 5 Laidler=Sandilands [2002]を参照
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