2013年9月4日水曜日

ケインズとハイエク






以前にある雑誌に書いたものの原稿


















ケインズとハイエク





— ニュー・リベラリズム vs. 自生的秩序論








1.











はじめに







ケインズは『一般理論』を通じて,経済理論・経済政策の領域で「ケインズ革命」と呼ばれる巨大な変革をもたらした。だが、彼のもたらした影響はそれにとどまるわけではない。社会哲学の領域にあっても2つの大きな影響が認められる。1つは、自由党の新たな自由主義(いわゆる「ニュー・リベラリズム」)の創成に指導的な役割をはたしたという点である。もう1つは、ケインズの「ニュー・リベラリズム」が第二次大戦後のヨーロッパの支配的な社会哲学になったという点である。それは政府が完全雇用政策の遂行を公約するという政治・社会環境を醸成し、福祉国家システムの完備を目指したベヴァリッジの思想とともに、いわゆる「戦後の合意」をもたらした。


他方、ハイエクは自らの社会哲学を絶えず2種の敵 - 外なる敵と内なる敵 -との戦いを続けながら展開してきた。外なる敵はハイエクいうところの「設計主義的合理主義」思想である。彼は自らの自由主義思想(「自生的秩序論」)の視点からそれらにたいし徹底した批判を続けた。内なる敵は経済学の世界で支配的であるところのワルラス経済学の (ワルラスの、ではない) 市場社会観である。彼はオーストリア学派の視点から、それにたいし警鐘を鳴らし続けた。


 本稿では、この2人の社会哲学を別々に論じたうえで比較・検討することにする。




















2.ケインズ





A. 市場社会の本性 — 似而非道徳律と効率性 





ケインズの市場社会観の原点を形成するもの,それは,市場社会は本質的に「経済機構の主要な原動力として,諸個人の金もうけ本能および貨幣愛本能への強力な訴えかけ」(JMK.9[『ケインズ全集』第9巻.以下同様の表記], p.293) に依存している,とみる視座である。こうした特性をもつ市場社会は,絶えず大きなジレンマにさらされている。貨幣愛本能を重視するがゆえに,それは道徳的にみるときわめて不快な社会である。だが他方,貨幣愛本能を重視するがゆえに,それは他のいかなる社会システムよりも経済的効率性を達成するうえで優れている。市場社会は,道徳性の観点からは否認すべきものだが,効率性の観点からは当分のあいだ是認せざるをえない ― これがケインズの目に映じた市場社会の原像である。


市場社会は道徳的にみて不快なものであると述べるとき,ケインズが背後に抱いていたのは,そこでは似而非道徳律が支配しているという点であった。そこでは「貨幣愛,生活活動の十中八・九における貨幣動機への習性的な訴えかけ,努力の主要な目的としての個人的な経済的安全性の普遍的な追求,建設的な成功の尺度としての貨幣にたいする社会的承認,家族や将来への必要な備えの基礎としての退蔵本能への社会的訴えかけ」(JMK.9, pp.268-269)が社会倫理を支配している。ケインズは問う ― われわれの時代の道徳問題とは,貨幣にたいするこうした考えにどう対処すべきかという問題である。


市場社会システムにたいするケインズの嫌悪感は,レーニン主義の倫理的本質を個人や社会の貨幣愛にたいする態度への挑戦とみなして一定の評価している点にも現れている。道徳的にみて大切な要素を含む共産主義に比べ,市場社会が生き延びるためには,その何倍もの経済的効率性の達成が必要である,とケインズは考えている。


 市場社会の本性にたいするケインズのこのような認識の背後には,青年時代に深甚な影響を受けたG.E.ムーアの倫理学が横たわっている。そしてこのことは彼もその一員であった「ブルームズベリー・グループ」の倫理的・文化的価値観と深い関わりを有している。


以上にみたように,ケインズにあっては,市場社会は,効率性およびその技術的改善の可能性という見地からみて当面のあいだ是認せざるをえないものと考えられている。そしてこの技術的改善という問題は,政府がなすべきことと,民間に委ねるべきこととを,抽象的根拠に基づいてではなく,その理非について個々別々の判定によって対処すべきものとされる。こうした立場はスミスやハイエクの社会哲学、および功利主義哲学とは明らかに異なる。  


 ケインズは,以上のように市場社会の本性をとらえた。では彼は市場社会のもつメカニズムをどのように認識したのであろうか。ケインズは,まず,自由放任主義的社会哲学・経済学が提示する市場社会像を拒絶する。次に,彼はそれに対峙する「制度学派的」歴史観を承認したうえで,現代市場社会の安定に国家および組織が重要な役割を担っている点を強調する。ケインズは,市場社会が,半独立的な組織の成長と巨大企業の社会化という現象を通じ,コモンズのいう「安定化の時代」に突入していくことを素直に歓迎する。


 だがこのことは,この趨勢を座して待てばいい,とケインズが考えたことを意味するものではない。市場社会は準社会主義化しつつあるとはいえ,それでもなお,それを放任しておいた場合, 市場社会は不安定になる性向を内在しており、公共善をもたらす保証はない,と考えるからである。市場社会を効率的なシステムにするには,「自由放任の思想」からの脱却と,市場社会を賢明に管理する政策技術の探究が必要不可欠である,とケインズは主張する。これ、すなわち「ニュー・リベラリズム」である。





B.「若き日の信条」と『確率論』





 ハイエクやホートリーとは異なり、ケインズは自らの社会哲学を掘り下げた著作を残してはいない。すべては時論的なエッセイで語られているばかりである。これはケインズが、『貨幣論』や『一般理論』を完成させるのに、あの多忙をきわめる生活を送りつつも、驚くべき忍耐をもって執筆作業を続けたのとは対照的である(拙著『ケインズの理論』東京大学出版会,2003年を参照)。これらの著作には、絶えず政策立案者の視点からの理論構築がなされていることが明瞭である。この点こそが、彼をハイエクやシュムペーターとは異なる存在にしている。


 ケインズの社会哲学を検討していくうえで重要な数少ない作品、それが1938年に読まれた「若き日の信条」(JMK.10所収)である。自らの思想遍歴を語った唯一のものといっていい。ここには、ムーア倫理学からの影響、ならびに若き日に熱情を傾けた著作『確率論』(JMK.8)を読み解くかぎが存する。


示されている思想遍歴は、概略、次のようである。





(i) 1903年頃 ―「熱烈な観照と交わり」(ムーアの「宗教」)を最高に重視。それは合理的で科学的なもの。他方,ベンサム主義や一般的ルールに従うというムーアの「道徳」を拒絶。人性の合理性に信をおく個人主義の立場に立っていた。


(ⅱ) 1914年頃 ― 人性の合理性への信が揺らぎ,人間の感情を重視し始める。


(ⅲ) 1938年 ― 人性の合理性への懐疑はますます深まる。これに比例して慣習への信頼が高まっていく。





「若き日の信条」を通じて最も目立つターム、それは「人性の合理性」である。これにたいする信頼が年を追うにつれ薄らいでいったという点が,思想遍歴の基調を構成している。


『確率論』の根底には,「人性合理性」への深い信頼があった。そこでは「不可能性」と「確実性」のあいだの領域を「合理性」の枠内に取り込み,それに厳密な形式論理を適用することで,壮大な認識論を構築することが目指されている。そして帰納法をもケインズ的意味での「確率」概念からとらえることで,形式論理的にその正当化が試みられた。


 だが,1914年が近づくにつれ,こうした「人性合理性への信頼」は薄れていった、とケインズは述べている。こうした哲学観の変化に密接に関連するのは第一次大戦ではないだろうか。この頃,ブルームズベリー・グループにおよぼしたできごとに,いわゆる「良心的徴兵拒否」問題というのがある。ケインズはこの問題をめぐり,グループ内で微妙な立場に立たされることになった。さらにヴェルサイユ講和会議における交渉過程で,彼は国際政治に大きな幻滅を味わっている。このことは,永遠の進歩を続けるかにみえた西欧文明が喧噪・混乱の坩堝に投げ込まれ崩壊したことの,ケインズ的体験であった。ケインズが哲学から経済学にその関心を移動させていくにつれ,上記のようなできごとが,結果として彼を人性合理性への懐疑ならびに人間感情の重視へとシフトさせたように思われる。


「人性合理性への信頼」は,時が経つにつれ一層薄らいでいった。1938年のケインズには 人性を「図式主義」的にとらえることの誤り,人性には不合理ではあっても価値ある感情が存在するという点の承認が明瞭である。と同時に,「規則」や「慣習」を重視するスタンスが現出している。この頃のケインズに特徴的なもう1点は,現存秩序の維持を強調している点である。この保守化は,かつての自分達の個人主義が極端であったという反省を伴いつつ生じている。この転換には、少なからず,ソヴィエト社会主義への失望があるであろう。とりわけ,1920年代に資本主義社会のもつ「似而非道徳律」を糾弾していたことを考えると,1930-40年代の彼の資本主義観には少なからざる変化が認められる。この点は『一般理論』最終章を『自由放任の終焉』と比較すれば一目瞭然である。


 1920年代後半のケンブリッジは,ラムゼーからの批判を契機に,ヴィトゲンシュタインが「前期」から「後期」に変身するという哲学上の大きな変化を経験した。そしてその場にケインズも関与し相互の議論を通じ深く関わっていたことが知られている。こうした事情から,哲学者ケインズにも前期と後期が識別されるという見解が表明されている。ラムゼーの批判を受け入れ,『確率論』に示された哲学を棄て,それに代わる哲学を構想・採用したという見解である。他方,『確率論』で展開された哲学は生涯を貫徹しているとする見解も強力で、両者間での論争が展開されてきた。


 この問題について私は次のように考えている。一方でケインズは『確率論』を通底する基本的な哲学(第Ⅰ- Ⅲ部)を放棄した。その点に関し,ラムゼーによるケインズ批判は大きな意味をもった。だが翻って,ケインズに『確率論』に代わる哲学を展開した形跡を見出すのは非常に困難である。『確率論』の後,ケインズが哲学的にどのように変わったのかを,彼の経済学の著作に探す作業にどれほどの実証力があるのかに,私はいささか懐疑的である。





C.ケンブリッジの同僚





 おそらく大半の人は、ケインズの社会哲学は同時代人のものとは著しく異なるものであると思っていることであろう。だが、これは明白な誤解・無理解である。その点に言及しておくことは無駄ではあるまい。


 ケインズにかぎらず当時のケンブリッジの経済学者に共通するのは(編著『市場社会とは何か — ヴィジョンとデザイン』[SUP上智大学、近刊]第10章を参照), ヒュームやハイエクとは異なり, 資本主義社会システムのもつポジティブな側面を理論的・社会哲学的に正当化することにではなく、そのもつ悪弊に注目し,いかにすればそれを除去することができるのかに力点がおかれている点である。いずれも自由放任主義は市場社会の状況改善に役立つものではないとの認識を有し、政府が果たすべき役割を強調している。そして市場社会にたいし、そのもつ欠陥 ― 金儲け動機, 所得分配の不平等, 繰り返される失業等々 ― を深刻に受け止め, その是正を目指している点で, さらに個人の不完全性を意識している点でも共通している。戦間期の世界経済はきわめて混乱した状況下にあり、資本主義システムは自信喪失状態に陥る一方,ナチズム・ファッシズム,それにソヴィエトが逆に活気を帯びていた。


ピグー(『社会主義 対 資本主義』1937年)のスタンスは,資本主義の現在の機構を当分のあいだ受け入れるが,それは漸進的に変更していかなければならない、というものである。ピグーは,資本主義と社会主義の比較・評価を試みた後,総合的にみて社会主義に優位性を認めている。


 これにたいし,ロバートソン(『産業のコントロール』1923年)のスタンス — 「自由主義的干渉主義」— は,市場システムを維持しつつも,民間企業の是正のみならず,さまざまなかたちでの集産主義や協同組合の充実を通じ,「差別の先鋭化」 ― 命令を下す人と下された命令を遂行する人への社会的分化― ならびに「リスクとコントロールの現状」 ― 産業のコントロールのいかなるシェアを有することもないが,重要な種類のリスクを負う労働者の境遇 ― の是正を目指そうとするものである。


 ホートリー(『経済問題』1926年)は,ホートリー的意味における倫理的価値(=厚生)を基準におき,その見地から,資本主義システムの欠陥を批判する,というスタンスに立つ。彼は,人間のもつ鑑識力の弱さにより,財市場で決定される市場価値は倫理的価値との乖離を引き起こしており,また労働市場は「故障」しているという認識を表明する。これが資本主義システムの,「静態」的欠陥だとすれば,次に「動態」的欠陥の指摘が続く。利潤獲得を動機として企業活動が展開され,それにより資本の蓄積,そして所得分配の過度の不平等が招来されている点の指摘である。こうして利潤に基礎をおかない,したがって「偽りの目的」である金儲けを廃し,真の目的である厚生の達成を,国家を中心にしたシステムによって目指す道,すなわち,コレクティヴィズムへの道が志向されている。








3.ハイエク





A.ハイエクの市場社会論 — 現実主義,独自の価値規範および神秘主義のあいだで





ハイエクは市場社会の本性を3つの枠組みでとらえている。「現場の人の知識」をもつ諸経済主体、情報の伝播機能を有する「価格システム」、および「予見せざる変化」の動因として機能する「競争」である。市場社会は流動的であり、不確実性に満ちあふれ、絶えざる変化をこうむる社会である。こうした市場社会観は非ワルラス的なものであった。実際、ハイエクはこのことを繰り返し強調している。これらの点に関するかぎり、ハイエクの市場社会観は現実主義的である。


 だが反面、それは「現実」の市場社会がもっている重要な諸相 - 株式会社組織の巨大化、国家の果たす役割の増大、半自治的組織の増大、トラストやカルテルの増大、労働組合組織の巨大化等 - を捨象するかたちで概念構成がなされている。そうしたものは一種の「不純物」と考えられており、その点でハイエクの市場社会観は、「純粋」なものだけで構成されている。


ハイエクは、上記のようにとらえた市場社会を肯定的に評価する。流動的で、不確実性に満ちあふれ、絶えざる変化をこうむる市場社会は、なぜ弁護に値するのであろうか。その理由として、彼はまず次のような点をあげる。





 (1) 経済的理由 - 価格システムのもつ「情報伝達」機構の経済性。


諸経済主体が正しい行動をとるうえで知る必要のあることがきわめて少なくてすむ。分業と分割された知識を基礎とするため、資源の調整された利用が可能。


(2) 社会哲学的理由-分業に基づく職業選択の自由の保証された社会。





 だが、ここで問うべき本当の問題は、市場社会は自らを安定化させる内在的な力があると考えられていたのかどうかである。この点に関して、ハイエクが積極的に論証した形跡は認められない。市場社会は時々刻々、予見せざる変化の発生とそれにたいする調整を通じて変動する躍動感にあふれたシステムである。市場社会は、そうした変化とそれにたいする調整を「情報伝達」機構を通じて効率的に遂行していく。だがそれは何か究極的な均衡状況に向かっていく過程として把握されたり、論証されたりしているわけではない。


アダム・スミスが「見えざる手」という理神論的存在により、また古典派が「セー法則」により「一般的供給過剰の不可能性」を唱え、はたまた新古典派がパレート最適を唱えることにより、市場経済がある種の理想状況に自らを到達させる能力を有しており、そしてその状況を市場経済の常態とみなしたのとは異なり、ハイエクにはそうした目的論的発想は存在しない。市場社会は諸事象の継起を通じて時空的に展開していくばかりである。そうした展開を通じて効率性は実現されていくと考えられている。むしろ、上記のような理由からだけでも、市場社会は擁護されるべき十分な価値をもっているのであり、それが安定的傾向を有するかいなかは証明できるものでもないし、証明する必要もない - ハイエクはこのように考えていたやに思われる。


ハイエクが市場社会にある種の安定化能力があることを主張する根拠は、実は別のところにある。市場社会は典型的な「自生的秩序」であるというのがそれである。「自生的秩序」論はハイエクの根本的な哲学観である。そしてこれこそがスミスの社会哲学観(「自然的自由の体系」) や新古典派の社会哲学観 (功利主義)と異なる点である。


ハイエクは市場社会を「自生的秩序」の代表的事例としてとらえ、かつそれを「自生的秩序論」の立場から擁護する。つまり、「自生的秩序」はできるかぎり「純」なかたちで実現・維持しなければならないという規範的価値観がここで導入されている。このときハイエクは(後述するように)神秘主義に陥ることになる。


かくしてハイエクの市場社会論は現実主義(3つの枠組みによる把握)と独自の価値規範(前記の枠組み以外の要素の排除)および神秘主義(「自生的秩序論」による弁護)のあいだで宙づりになっている。





B.「自生的秩序論」の批判的考察





「自生的秩序」は人間が意識的に創造したものではない。諸個人の自発的な行為の結果ではあるが、彼らの行動の意図せざる結果として生み出されたものであるとされる。それは長い年月をかけて形成される(したがって発生論的である) 。それは人間の創造物であって神の創造物ではないが、かといってどの個人にもその創造についての責任と貢献は帰せられない、というものである。しかも「自生的秩序」は、いったん発見された以上は、必ず守っていくべき価値をもつものとして高い評価が与えられる。


「自生的秩序」論は、すべての社会科学の中心的問題を構成するとされる。市場、貨幣、言語、都市といったものが、この点の例証としてよく取り上げられ、それらの発展には、特定の個人の力や設計は何の意味ももたないとされる。


 諸個人の意図せざる結果として生み出され、そしてそれが「うまくいくことに」気づいた場合に、人々はそれを常習化していく。こうして成立した「慣習や制度」がもとになって、さらに諸個人の意図せざる結果が積み重ねられていく。このように、ハイエクの「自生的秩序」論は発生論的であり、かつその安定性は「慣習や制度」によって保証されていると考えられている。したがってハイエクの市場社会が安定的であるのは、そのシステムに内在するメカニズムによってではなく、むしろ「うまくいく」ものとして「慣習や制度」によって保証されてきたことによるとされているのである。


 だが、ここでわれわれは立ち止まって考えてみる必要がある。「自生的秩序」論そのものの妥当性という問題である。





第1に、自生的秩序という概念は、ハイエクの視点からみて、価値があるもの、善なるもの、という価値評価を内包している。人間社会に存在する組織のなかには、どの視点からみても、価値のないもの、悪なるものも存在するのが現実である。犯罪組織、暴力団、科学技術の悪用といった事例に、われわれは事欠かない。そうした組織や悪意も、諸個人の「意図せざる」結果として現出してきたものだといえる。だがハイエクの自生的秩序からは、これらはすべて排除されており、「有益である」ことを偶然に発見した人間がそれらを「慣習」を機軸にすえて発展させてきたもののみを「自生的秩序」として取り上げるのである。しかし「自生的秩序」と「非自生的秩序」をどのような規準により識別できるのかについて、ハイエクは具体的な案を提示してはいない。この点は、ハイエクの社会哲学に広く認められる二分法概念 - コスモス vs. タクシス、「真の個人主義 vs.偽の個人主義」、「一般的・抽象的な法 vs.実定法」-全般に妥当する。


第2に、自生的秩序であげられている事例、例えば、都市について考えてみたとき、世界の多くの都市が、1人の為政者の企画によって建設され、それが何百年にもわたって存続してきているという事実に遭遇する。「東京」を例にとれば、徳川家康という1人の人物の手になる設計が決定的な意味をもっていることは、誰しも否定できない。それに1人の天才が歴史の流れを決定づけるということは、人類がこれまでに幾度も経験してきたところである。


 第3に、人々の意思とは独立に生成・発展してきた発生論的組織としての「自生的秩序」はできるかぎり「純」なかたちで実現・維持しなければならないという価値観が陽表的に導入されている。すでに、ハイエクの市場社会論自体、現実主義的ななかにも独自の価値規範が入り込んでいるという点を指摘したが、ここでは、神秘主義的、かつ独断的とでもいうべき要素が認められる。社会を構成し、生活を営む諸個人のだれも貢献することがなく、突然ある時に天上から舞い降りてくるような風合いがあるから神秘主義的であり、また「秩序」の善悪を決める基準が明らかにされることなく「善」なるものを「自生的秩序」と規定するから独断的なのである。現実の市場社会が「自生的秩序」としての市場社会からますます乖離していくという動きが19世紀の末から第2次大戦にかけて進行していった様子をハイエクが「隷属への道」として断罪するとき、そして「自生的秩序」の実現に妨害を加えるような行為は文明の自殺行為であるとハイエクが声高に叫ぶとき、彼は明白な独断的神秘主義に陥っている。


 人々の行為が、そして人間社会が、それとは意識することなく成立する制度や抽象的ルールによって動かされているという考えは、非常に興味深い考察である。が同時に、何か神秘的、人間の認識を超えたもの(それは神であるかもしれない)に、すべての判断を託すような論調が感じとれる。


われわれの価値判断能力というものは、抽象的なルールの保有に依存している。そしてそのルールの存在を知らない。とすれば、われわれは存在を自ら確認できないなにものか(つまりは抽象的なルール)に動かされて行動する存在ということになるのだろうか。この抽象的なルールは、われわれが意識的に選択できるような性質のものではないわけで、とすればわれわれには責任能力はないということになりはしないだろうか。「抽象的なルール」という概念には、ハイエクの目からみて「よいルール」だけが考察の対象として選ばれているように思われる。ここでも「悪いルール」は考察の対象外になっている。


ハイエクの自生的秩序論の批判者のなかに、通常、自由主義者の代表と目されている有力な思想家が存在することは、注目する価値がある。ロビンズは、自生的秩序論の重要性を認めつつも、諸制度が公共的効用の必要の見地からの絶えず真摯な精査が絶えずなされると解されないのであれば、自生的秩序論は「真の自由主義」よりもむしろ「非自由主義の神秘主義」の基礎になってしまう、と警告している。また「人間は社会的な存在であり、社会における自由は、協同の形式や条件への合意、すなわち、法にたいする自由な同意、あるいは「討議による統治」に依存している」とみるナイトは、ハイエクの自由の扱いについて、「個人的な自由や自由な社会という現実的な問題を明快に述べる真剣な努力が見いだせない」として、苛烈な批判を投じている。








4.比較 — むすびに代えて





以上、ケインズとハイエクを取り上げ、各々の社会哲学およびそれと関連するかぎりで彼らの哲学について論じてきた。


 


 ケインズとハイエクのあいだの決定的な相違、それは次の点に認められる(副題の 「ニュー・リベラリズム」 vs. 自生的秩序論はそれを象徴的に示すものとして選んだものである)。


第1に、原理的な哲学をもとにしてすべてを評価する姿勢を有するか否かである。ケインズは厳密な哲学的立場を表明することはなかった。彼がとったスタンスは、資本主義社会には、私的利益と社会的利益を合致させるようなメカニズムは、天上からの規制によっても、また地上のいずこにもビルト・インされてはおらず、また個人は必ずしも組織よりも明敏であるとはかぎらない、公共的利益の達成は、無知で弱い個人による私的な行動に任せておくだけでは不可能であり、それは実際の世界のなかに、人々が社会的な単位を組織することによってのみ可能となる、というものである。そしてその背景にはコモンズ流の制度学派的歴史観があった。これにたいし、ハイエクの場合、すべての文明、それゆえ資本主義社会の本性をも「自生的秩序論」で説明しようとする傾向が顕著である。


 第2に、ケインズの上述の視点は、社会的正義および社会的安定のために経済諸力を管理・統制すべく技術的・政策的方策を見出す、という姿勢(ケインズはこれを「ニュー・リベラリズム」と呼んだ)につながっている。そして、ケインズの経済学はこの視点から打ち立てられている、というのがその最大の特徴である。そこには絶えず、政策的視点からモデル構築が試みられており、必ずやある政策目標(『貨幣改革論』や『貨幣論』であれば物価の安定、『一般理論』であれば完全雇用)の達成とそれを実現させるための政策手段が分析の主役として登場してくる。ハイエクの場合、そうした視座は欠落している。


 だが、他方で、両者には経済理論家として、非常に近接した意識をもつ時期があり、しかもそれはある意味で、その後の彼らを評価するうえでも重要な要素である。ハイエクの経済学(『価格と生産』)は貨幣数量説や古典派の二分法を明確に否定した「ヴィクセル・コネクション」の系譜に属している。そしてこの点では、ハイエクとケインズは同じ岸に位置しているのであって、1930年代の前半、両者のあいだにあの激しい(そして感情的対立を伴う)有名な論争が展開されたという事実に幻惑されることがあってはならない。貨幣的経済理論をヴィクセルの「累積過程の理論」に依拠しつつ展開したという点に関するかぎり、「自由主義者」ハイエクはその論敵である「集産主義者」ケインズやミュルダールと軌を一にするばかりか、フィッシャーやフリードマンの対岸に位置しているのである。したがって1980年代における「新自由主義」の領袖の一人として改めて大きな注目を浴びることになったハイエクと「マネタリスト」フリードマンのあいだには、「自由主義」の擁護という思想上の共有点がある反面、経済理論家としては非常な懸隔が存在するのである。


相対的にみれば、自由主義思想の復活が目立ったこの20年である。しかし、今後の世界がこの方向で赴くことになるのかというと、それは疑問である。ケインズの立場、すなわち「ニュー・リベラリズム」は,今日でも世界が目指していくべき道なのではないかと思う。


ケインズには、進化的プロセスを通じて市場社会は、道徳的にも効率的にも、理想的な社会に漸次的に近づきつつあるという信念、ならびに、もし自由放任の原理に委ねておくならば、市場社会は本性的に不安定にさらされるから、その管理のための政策手段が追究されるべきであるという信念があった。完全な自由放任社会を一方の極に、完全な計画社会を他方の極にもつスペクトラムにあって、市場社会はその中間に位置している。われわれはいずれの極端にも引き寄せられるべきではなく、道徳性と効率性の適正なバランスをとったむしろ中道の道 — もちろん理想的なバランスがどのようなものなのかについての人々の判断は異なるであろうが — を追究すべきである。真に自由放任の社会は、もはや現実ではないし、他方、完全に計画的な社会は必要でもなければ望ましくもない。とすれば、われわれは、かなりバランスのとれたアプローチの実現を手助けするような政策手段の追究に務めるべきであろう。この点はハイエクの『隷従への道』を読んで書いたハイエク宛書簡に明瞭である(JMK.27, p.443)。


「市場社会化現象」を客観的に評価しようとするさいに,この視点は看過すべきではない。なぜなら,政治家の掛け声や新保守主義者の社会哲学とは裏腹に(つまり、イデオロギー的なかけ声とは裏腹に),現在進行している現象は,畢竟「中道」のポジションをどのあたりに定め直すべきかという問題にほかならないからである。


1つの問題を提起しておこう。現在の資本主義では、大企業と中小企業では企業者のとる責任と権限の関係に大きな差がある。簡単にいうと、大企業では、企業者は大きな権限を有している(巨額の設備投資など)が、失敗のときの責任が問われることはほとんどない。一方、中小企業では企業者はとった行為の責任は、失敗した場合、家・屋敷の没収を含む厳しい責任が待ち構えている。この点で大企業は官僚組織とじつは変わらない側面を有しているのである。


この視点に立って「アジェンダ」と「ノン・アジェンダ」を識別しつつ、現実の問題に地道に対処していくことが必要とされている。





*本稿と関連するのは拙著『ケインズ・シュムペーター・ハイエク』(ミネルヴァ書房、2000)および『ケインズとケンブリッジ的世界』(ミネルヴァ書房、近刊)である。