第2講
グローバリゼーションを
どうとらえればよいのだろうか
1.はじめに
80年代中葉以降の世界経済の展開を一言で表現するとすれば、「グローバリゼーション」― グローバルな市場経済化現象 ― に優るものはない。
この現象の特徴として次の3点が指摘できる - (i) 経済運営の原理として、資本主義がグローバルに採用されたこと(社会主義の放棄)、(ii) 金融グローバリゼーションの極端な進行、(iii) 開発途上国とみなされていた国が、驚くべき経済成長を達成し、世界経済上、重要な地位を占めるに至ったこと。
(i) は戦後の世界経済における画期的な変化である。(ii) は、その規模と金融商品の多様さで際立っている。(iii) は「南北問題」という用語を不用にする現象と言える。
本講では、最初に、グローバリゼーションを引き起こした要因について述べ、そのあと、グローバリゼーションをその特性によりいくつかにタイプ分けしながら述べていくことにする。
2. グローバリゼーションを引き起こした5つの要因
グローバリゼーションを引き起こした5つの要因として、「ネオ・リベラリズム」、「金融の自由化」、「資本取引の自由化」、「新産業革命」、「社会主義システムの崩壊」を挙げることができる。
「ネオ・リベラリズム」は、ハイエクやフリードマンを代表として80年代から使われ、かつ政党やメディアなどのあいだで解されてきたものであるが、「すべてを市場経済に委ねよ;個人の自由な活動を最大限に尊重せよ;政府は市場に干渉すべきではない;政府は裁量的な経済政策をとるべきではない;できるだけ多くの規制を撤廃し構造を改革すべし」と主張し、第1に、サッチャーやレーガンから、第2に、経済学界 ― マネタリズムおよび「新しい古典派」― から、強力な支持を得た。こうしてネオ・リベラリズムはグローバリゼーションを政治的、学術的サポートを得て強力に推進することになった。
「金融の自由化」は、資本調達手段および投資の場を拡大すべく、規制の撤廃を目指して金融機関によって唱道されたものである。とりわけ重要なのは、アメリカでのグラス=スティーガル法 (GS法)の換骨奪胎化を目指した粘り強い活動である。これらの活動は、ヘッジ・ファンド、SIV、PEFと言った新種の金融組織、ならびに「証券化商品」(MBS、CDO、CDS等) の激増を招来していった。
「資本取引の自由化」を目指す運動は、90年代にIMF のS.フィッシャーによ
って「資本勘定の自由化」というかたちで唱道された。これは、インドやブラジ
ルなどの資本の自由化政策をもたらしていくことになった。
「新産業革命」は、80年代に産声をあげたアメリカのIT産業によって引き起こされたものであり、それは世界市場を舞台に、例えばインドでのアウトソーシングや、中国などでのコスト・パフォーマンスを意識した経営戦力を用いながら、新たな産業を構築していった。
「社会主義システムの崩壊」は、1991年12月にソ連が解体したのみならず、資本主義システムを導入する運動を引き起こしたのであり、その結果、広大な地域に市場システムの導入が図られた、という現象である。
3. 4つのタイプのグローバリゼーション
グローバリゼーションは、大きく「金融グローバリゼーション」と「市場システム・グローバリゼーション」に分けることができる。金融グローバリゼーションは、金融ビジネスがどの政府からの規制も受けることなく活動できる金融の自由化と資本取引の自由化により引き起こされる。金融ビジネスは様々な手法で巨額の資本を調達し、世界中の金融市場に参入することで金融市場のグローバル化を実現してきた。
市場システムは、財・サービスが市場を通じて企業および消費者間で自由に交換される仕組みである。市場システムが世界中で採用されるに至っているというのが、ここでいう「市場システム・グローバリゼーション」である。
2種類のグローバリゼーションの関係だが、金融グローバリゼーションの進展が市場システム・グローバリゼーションを促進してきた。金融ビジネスは、利益を生むと見込まれる世界のいかなる地域にも資金を積極的に投資してきた。このことは多くの開発途上国に発展への大きな契機を提供することになった。
他方、金融グローバリゼーションの展開が金融資本の異常な増大をもたらすにつれて、政府がその行動を監督することは益々難しくなり (膨張するSBS1)、そのことが世界経済を益々不安定にしていった。
世界の政治経済システムに大きな変化をもたらしたものとして、次の4種類のグローバリゼーションを識別することができる:(i) 金融グローバリゼーション、(ii) 市場システム I – ソヴィエトの崩壊に関係、 (iii) 市場システムII – 新興国の台頭、(iv) 市場システムの統合 – EU。
(i )、 (ii )、 (iii ) は「市場システム・グローバリゼーション」を、 さらにその特徴により類別化したものになっている。
それぞれをみていくことにしよう。
3.1 金融グローバリゼーション
― 米英金融資本による主導権奪取
金融グローバリゼーションが生じた背景として、70年代から80年代にかけて、それまでのアメリカ経済を中心とする世界資本主義システムに大きな陰りがみられたという点があげられる。戦後の資本主義を規定してきた通貨体制であるブレトンウッズ体制は、60年代にはいく度かのドル危機を経て弱体化をみせていたが、71年8月15日の「ニクソン・ドクトリン」により、ドルは金とのリンクが断ち切られ、以降、スミソニアン協定を経た後、主要国は変動相場制に移行した。
こうした事態の進展の背景には、日・西独の経済発展が実体経済の領域でアメリカを凌駕していったことがあげられる。象徴的なものとして、日米貿易摩擦の継続的展開があり、アメリカは日本に輸出自主規制を半ば強要していた。
70年代に2度のオイル・ショックが発生した。いずれも中東の政治危機と関連しており、原油産出国の輸出カルテルOPECの世界政治経済におけるプレゼンスを高めるものであった。生じた原油価格の高騰は先進国経済を不況に陥れることになった。
サッチャー首相 (79-90年)、レーガン大統領 (81-89年) の登場はこの頃である。彼らは、低迷する経済を活性化させるため、市場システムの活用、企業者による自由な経済活動、規制緩和、反労働組合、反福祉国家を唱道した (これは経済学でいうと、ケインズ = ベヴァリッジからハイエク = フリードマンへのシフトに対応する)。
こうしたなか、米英が世界の中枢としての地位を取り戻す方法として編み出されたものが、ここでいう金融グローバリゼーションである。米英は、金融の自由化を進め、金融機関が政府の監視を逃れて自由に投資・投機活動を展開していくことを許容した。そのため、投資銀行、商業銀行、さらにはヘッジ・ファンドが「証券化商品」の開発やレヴァリッジの利用を通じ、驚くべき規模の投資・投機活動を展開していくことになったのである。
だが、80年代の前半には日・西独から米英が世界経済上の地位を奪回する点で、金融グローバリゼーションがまだ大きな効果を発揮できていたわけではない。この点で大きな契機となったのは、1985年に成立した「プラザ合意」であり、日本は市場介入による円高を強要されることになった。
90年代に入ると、金融グローバリゼーションは加速度を増していった2。このことは、米英による世界金融市場のコントロールの回復に貢献した。加えて、アメリカはIT革命を通じ産業的回復をも達成していくことになった。
これにたいし90年代初頭まで世界経済で独り勝ちとされてきた日本は、「プラザ合意」での対処、経済のバブル化への対処に失敗し、いわば、自縄自縛的な「失われた20年」に突入していくことになったのである3。
90年代後半、日本の金融機関は国内の金融危機により世界市場からの撤退を余儀なくされていた。加えて、企業家精神においてすら、日本企業は大きな遅れをみせ、日本経済は経済成長を実現できなくなったのである。
米英の政府当局ならびに金融業界が、どこまでこのような進展を見通していたのかは不明であるが、結果的に金融グローバリゼーションは、米英の金融資本が世界経済の進む道を決定づけることになった。
3.2 市場システムI
― 米ソ冷戦体制の崩壊と資本主義システムへの収斂
本節では、市場システムを採用することになった旧ソヴィエト圏ならびに中国を対象にする。
(1) 社会主義体制4の出現と崩壊
戦後世界は、2つの敵対する経済システムが覇権を争う冷戦構造の時代を迎えた。社会主義体制にあっては、企業や価格メカニズムはほとんど存在しなかった。財・サービスは売買されるが、価格は市場で決定されなかったのである。生産活動は中央計画局 (ゴスプラン [国家計画委員会]) によって立てられ、下位組織はその計画にしたがって生産を行うことになっていた。
冷戦構造は、1991年のソヴィエト圏の崩壊で突然の終焉を迎えた。社会主義体制が、その特性ゆえに崩壊する運命にあった、というのを跡付けで言うのは容易である。だが、完璧な崩壊を予想できた者などいなかった。世界の資本主義システムが30年代にほとんど崩壊していたときに、経済成長を達成していたのはソヴィエトであったし、60年代にあっても遅れをとっていたわけではなかったのである。
(2) 移行経済
ここでは、かつてのソヴィエトの崩壊後、ロシアがどのように資本主義システムへの変貌を遂げたのかをみていく。共産党独裁のもとで資本主義的要素をすでに1978年から漸次的に採用していた中国は例外的存在であるが、合わせてみていこう。
ロシア - クーデターの鎮圧後、「ベロヴェーシ合意」が1991年12月に結ばれ、ソヴィエト連邦の廃止とCIS(独立国家共同体)の創設が決定された。ロシアはそのなかで最大の国家であった。
エリティンは、IMFの勧告に従いながら、いわゆる「ショック療法」によりロシアの資本主義化を目指した。彼の大統領時代 (91-99年) は2期にわけることができる。
第1期は、ショック療法 ― 価格の自由化、「バウチャー方式」による国営企業の民営化、株式市場の創設等 ― の断行である。だが、その成果は悲惨であった。1992年、ロシア経済は年率2,510%のハイパー・インフレに陥り、GDPは14.5%減となった。ハイパー・インフレは多数の人々を極度の貧困に陥れる一方、バウチャー方式は「オリガルヒ」を輩出することになった。
第2期は、政治的・経済的混乱期である。既述の悲惨な経済状況のため、エリティンの人気は急落していた。オリガルヒの協力を得て再選にはなったものの、オリガルヒの影響力は強大になった。彼らは「株式担保」による融資を通じ、多くの国営企業を手に入れていった。
98年、 ロシアは国債のデフォルトに陥った。 財政収入の急激な落ち込み、 資本逃避等の結果であった。 官吏や軍人への給与は大幅な遅配となり、 ルーブルは信用を喪失し、 物々交換が支配的になる有様であった( デフォルトは、 ヘッジ・ファンドLTCM
[Long Term Capital Management] の崩壊を引き起こし、 世界金融を崩壊寸前にまで陥れるに至った) 。
99年、エリティンは大統領職を辞し、プーチンをその代行に指名した。翌年、プーチンは大統領に就任している。この頃、原油価格の上昇により、ロシア経済は奇跡的な回復をみせ始めていた。第1期、プーチンはロシアを経済的のみならず政治的に改革することに熱心であった。第2期になると、彼は国家によるコントロールを強化し、従わないオリガルヒ (象徴的なのは、ホドルコフスキーを監獄に送り込み、ユーコス石油会社を接収した事件) を追放していく方策をとった。リーマン・ショックはロシアをも襲ったが、企業にたいする国家の影響力は一層強くなったといえる。
中国 - 1965-77年、中国は「文化大革命」に巻き込まれていた。知識人や学生は僻地に追放された (「下放」)。この革命は権力を奪回しようとする毛沢東によって始められた。だが、経済が悲惨な状態に落ち込み、ねじれた闘争の後、ついには「四人組」の逮捕と有罪判決で終結を迎えた。
1978年、不死鳥のように蘇った鄧小平によって「改革開放」政策が打ち出された。これが中国経済の今日に至るまでの驚異的な経済発展の出発点である。この政策は、中国経済を実質的に資本主義システムに変換することを目指すものであった。
当初、中国は、農村地域での土地の私有化の導入、ならびにいわゆる「郷鎮企業」の成長により、悲惨な状態から脱却した。それに続くのが「経済特区」への外国企業の誘致であり、これが中国の奇跡的な経済成長の出発点になった。
1985年、鄧小平はいわゆる「先富論」を唱道し、中国経済の急速な成長は民間企業によって担われることになった。1992年、鄧はいわゆる「南巡講話」を行い、改革開放政策の速度をあげることを訴えた。
90年代中葉の指導方針は、大規模国営企業は政府のコントロール下におくが、小規模国営企業は民営化するというものであった。その結果、経済に占める国営企業のシェアは低下を続けた。その後、政府は、内陸部の地方政府が、新開発区域を創設し、そこに外国企業を誘致することを認めた。2001年12月、中国はWTO (世界貿易機関) に加盟し、外国資本の国内資本との対等な扱い、関税の自由化、ならびに労働移動の相当な自由化を承認した。
3.3 市場システムII ― 新興国
ビジネス活動のグローバル的展開は、いくつかの「発展途上」国に大規模な経済発展をもたらした。その結果がブリックス (B[R]ICs)
- ブラジル、[ロシア]、インド、中国 - に代表される新興国の出現である。
注目すべきは、世界経済は「成長を続ける先進国 対 停滞する開発途上国」の図式から「停滞する先進国 対 成長を続ける新興国」へと大きく変貌している点である。この結果、90年代初頭に実現したかにみえた世界経済をアメリカ一国で支配するという野望は、この結果挫折している点は、注目すべき事態の出現である。
ブリックスは先進国に急速に追いついてきたのみならず、世界経済においてますます大きな地位を占めるに至っている。ブラジルとインドを簡単にみたうえで、世界経済に占めるブリックスの存在に言及することにしよう。
ブラジル ― 80年代および90年代の前半、ブラジルは膨大な債務とハイパー・インフレに苦しんだ。 1990年にコロール大統領 (90-92年) は市場経済化 (メルコスール) を促進する政策を打ち出し、海外に門戸を開放するとともに、国営企業の民営化を実施した。これはブラジルのその後のコースを大きく変えることになった。1994年、フランコ大統領 (92-95年) は、94年ドル・ペッグ制のもとで貨幣を「レアル」に改めた。これはハイパー・インフレの劇的な鎮静化に貢献した。またカルドーゾ大統領 (95-2002年) は「財政責任法」および「財政犯罪処罰法」により財政の健全化も進んだ。その後のルーラ大統領(03-2011年) も同様の路線を踏襲し、世紀が改まってからの資源価格の高騰 (とりわけ中国からの需要の激増)もあり、資源大国としてブラジル経済の存在感は増している。
ブラジル経済に認められる特徴として次のようなものがあげられる。(i) 財政政策において、支出は削減させる、増加した支出には増税や新たな税の創設もしくは経済の成長を当てにした税収増を期待する、という方針をとっている (大きな政府を志向しており、税負担率は高い)。(ii) サトウキビからのバイオエタノール製造技術、深海石油掘削技術において世界レベル。(iii) ハイパー・インフレの抑制と外資の導入を目指しているため、金利が非常に高い。
インド ― インドは、長い間、社会主義的経済システムで動いてきており、低迷していた。1991年にラオ首相 (1991-96年) は経済低迷を打開するために新しい経済政策を採用した - (i) 貿易、外為および資本の自由化、(ii) 規制緩和、(iii) 国営企業の民営化、(iv) 金融システムの改革を含む自由化政策である。この路線はその後もシン首相 (2004-14年) によって継承されている。
インドは、とりわけIT産業 - これは米欧企業のアウトソーシングとして始まった - により、高い経済成長を達成することができた。
アメリカのゴア副大統領によって打ち出された「情報スーパーハイウェイ構想」(93年) は、アメリカでITブームが生じる重要な契機となったが、同時にその恩恵を最も受けることになったのがインドである。大学ではすべてが英語で教育されており、かつきわめて優秀な人材はかなり早期から輩出していたから、彼らがアウトソーシングから高度のソフトウェア開発などの部門に雇用されることで、インドは急速な経済発展を遂げることになったのである。かつては優秀な若者の9割は英米に向かったが、その結果、いまではその比率は逆転している。
ブリックスの存在感 - 80年代の終わりまで、ブラジル、インドおよびロシアは深刻な経済不況もしくは混乱に苦しんでいた。だが90年代初頭になると、ブラジルやインドは、市場の自由化および、(ブラジルでは)農産物にたいする需要の急増、(インドでは)海外からのITサービスにたいする需要の急増を通じて高い経済成長率を達成していった(中国やロシアについては3.2節のとおりである)。
ブリックスの経済的命運は、80年代後半に生じた出来事によって大きな影響を受けたと言える。
第1にソヴィエト圏の崩壊である。
第2に金融グローバリゼーションである。
90年代になると、ブリックスは一般に自由化政策を採用するようになった (中国は1978年に採用していた)。
以上を要するに、ブリックスは「市場システムII」および「金融グローバリゼーション」の双方から便益を享受したということである。
表2-1はPPP (購買力平価) 表示の2010年GDP トップ・テンである。ブリックスはここにリストアップされている5。なかでも中国の数値は驚異的である。そして2015年、中国はNo.1になっている。
(表2-1) PPP 表示でのGDP ランキング(単位: 10億ドル)
国
|
2015
|
2013
|
2010
|
2000
|
1990
|
|
1
|
中国
|
19696
|
16689 (2)
|
12406
(2)
|
3699 (2)
|
914 (7)
|
2
|
アメリカ
|
18037
|
16692 (1)
|
14964 (1)
|
10285 (1)
|
5980 (1)
|
3
|
インド
|
7998
|
6739
(3)
|
5312 (3)
|
2078 (5)
|
987 (9)
|
4
|
日本
|
4843
|
4683 (4)
|
4320 (4)
|
3237 (3)
|
2359 (2)
|
5
|
ドイツ
|
3860
|
3639 (6)
|
3280
(5)
|
2430 (4)
|
1636 (3)
|
6
|
ロシア
|
3725
|
3734 (5)
|
3241
(6)
|
1635 (7)
|
Unavailable
|
7
|
ブラジル
|
3199
|
3230 (7)
|
2803 (7)
|
1580 (9)
|
1001 (8)
|
8
|
インドネシア
|
2848
|
2515 (9)
|
2004
(13)
|
958 (13)
|
517 (13)
|
9
|
イギリス
|
2702
|
2492 (10)
|
2251 (9)
|
1556
(10)
|
1002 (7)
|
10
|
フランス
|
2666
|
2542 (8)
|
2340
(8)
|
1678
(6)
|
1112 (6)
|
11
|
メキシコ
|
2230
|
2069
(12)
|
1211 (11)
|
1082(11)
|
707 (10)
|
12
|
イタリア
|
2175
|
2105
(11)
|
2076 (10)
|
1628 (8)
|
980
(5)
|
(出所) http://ecodb.net/ranking/imf_pppgdp.html
(
IMF, World Economic Outlook Databases,
October 2016に依拠)。 ( ) 内の数値は該当年の順位、 小数点以下は四捨五入。
3.4 市場システムの統合
– EU (あるいはユーロ・システム)
EU およびユーロ・システムは、今日のグローバリゼーションが加速度を増してきた、そして社会主義システムが崩壊した90年代に創設された。さらにEUは旧ソヴィエト圏のメンバーをEUに引き入れる政策を採用した。その意味でEU あるいはユーロ・システム6は市場システム統合のグローバリゼーション - それは部分的な金融グローバリゼーション(ユーロというかたちで)と市場システムIを巻き込んでいる - を構成していると言うことができるであろう。
だが、世紀初頭において羨望の眼差しで称揚されていたユーロ・システムは、リーマン・ショックの1年後、非常な欠陥に晒されたシステムであることを露呈させた。2010年5月に発生したユーロ危機に対処するためにユーロの指導者が採用した政策は、PI[I]G[S]
― ポルトガル、アイルランド、[イタリア]、ギリシア、[スペイン] - にたいし、ベイルアウト7と超緊縮予算の強制、ならびにECB (ヨーロッパ中央銀行) による金融政策 - 当初は低利子率政策のみであったが、その後、政策をLTRO (長期リファイナンシング・オペレーション) へと拡大 - であった。ユーロ指導者の基本的な考えは、超緊縮予算と、労働市場の自由化、公的部門の売却などの構造改革により、困難に陥っている国は、その国際競争力を向上させることができ、より健全な予算を達成できるようになる、というものである。
しかしながら、その結果はPIIGS内での一層大きな危機であった。超緊縮財政は超デフレ政策を意味している。継続するリストラ、増税、年金カットは有効需要の急激な落ち込みにより高い失業率をもたらしたばかりでなく、予算状況および負債のさらなる悪化をもたらすに至ったのである。
ユーロの指導者は、「拡大を続ける域際間の不均衡」および「メンバー国の状況」という根本的な原因に目を向けてはいない。「拡大を続ける域際間の不均衡」は典型的には、ドイツとPI (I) GSのあいだの経済的インバランスとして表現することができる。換言すれば、ドイツで増大した過剰貯蓄はPI (I) GSに貸し付けられ、いわゆる「グローバル・インバランス」8の地域版が生じているのである。
より問題なのは、EU自体の存続危機である。というのは、戦後のヨーロッパ統合を動機づけてきたとも言うべきシューマン・スピリットを急速に喪失してきており、逆に、難民危機問題を契機として、一層のナショナリズムが、EU全体に、かつ相当な政治的影響力をもつ程度にまで高まってきているからである9。
4. むすび
リーマン・ショック後の経済危機は、ネオ・リベラリズムと「新しい古典派」によって支持され促進された行き過ぎの金融グローバリゼーションの結果であった。
金融グローバリゼーションが90年代に急激に進行するなか、金融は本来の実体経済への融資職務から大きく逸脱して、金融の金融による金融のための利得確保に狂奔する傾向を示すに至った。そのあげく、不安定性の増大するなか、ついにはリーマン・ショックを引き起こすに至った。
あれから8年が経過したのだが、 あの狂乱のなかで、 メガバンクのほとんどすべてが、 Liborの不正操作、 MBSやCDSなどをめぐる不正な売買行為や帳簿操作、 オフバランスによるレバレッジの異常な上昇行動を繰り返していたことは、 ようやく現在になって、 リーマン・ショックを調査した委員会Financial Crisis Inquiry
Commission (FCIC) の報告やアメリカの司法省などによる訴訟で公にされてきている。 だが、 そうした行為にたいし、 責任ある人物が誰一人として刑事訴追を受けることなく、 今日に至っているという事実10であり、今後もこの状態は変わりそうにないという点である。
これは資本主義システムの企業倫理の崩壊を遂行してきた金融機関の関係者が温存されていることを意味する。その意味で、金融関係者は、再度同じ行為を繰り返すことであろう。けっして罰せられることがなく、かつTBTF (大きすぎて潰せない) により、自らも金融機関も救済されることを、現在の資本主義システムは保障してくれていることが分かっているからである。
いまの金融資本主義には、こうした行動を自動的に浄化するメカニズムは欠落したままなのである11。折しも、UNCTADの報告[2016] Trade and Development Reportで、第2のリーマン・ショック [金融危機] が新興国から発生する危険性 ― 先進国中央銀行の政策の結果生じた膨大な累積負債に起因 ― が指摘されている12。
いまの金融資本主義には、こうした行動を自動的に浄化するメカニズムは欠落したままなのである11。折しも、UNCTADの報告[2016] Trade and Development Reportで、第2のリーマン・ショック [金融危機] が新興国から発生する危険性 ― 先進国中央銀行の政策の結果生じた膨大な累積負債に起因 ― が指摘されている12。
世界は、依然として海図のない領域に向かって航行している。
1)
並行して、「パナマ文書」(2016年4月にリーク) が示すように、タックス・ヘイブンを悪用したグローバル企業の租税回避が激増している。
2)
第3講第2節でアメリカの場合について説明する。
3)
この点については、平井 [2012] 第9章「自縛の日本経済」を参照。
4)
戦間期には「社会主義経済計算論争」があり、社会主義の評価をめぐり論争が繰り広げられた。
5)
ブリックスの今後について。これまでも高い成長を達成してきているが、今後も続きそうなのがインドで、本年、実質GDP対前年比で中国を抜くとされる (「メイド・イン・インド」、「デジタル・インド」政策の立ち上げ)。中国は減速しているが、それでも同7%で推移していくとされる。他方、ブラジルは一次産品価格の急落や中国からの需要減退で、またロシアは石油価格の急落と欧米からの (クリミア併合による) 経済制裁で、低迷 (0%台) が続くとみられている。
6)
これについては、第6講で詳しく取り上げる。
7) Jubilee Debt Campaignによる調査によると、 ギリシアが受けたベイルアウトの9割がそうである。
8) Eichengreen [2006]はグローバル・インバランスの理論として4種類をあげる。第1は、バーナンキによる「標準分析」で、支出のために資産価格のかなりの調整、ならびに貿易収支改善のために相対価格のかなりの変更を両サイドに要請する。これにたいし「ニュー・エコノミー」理論、「ダーク・マタ―」理論、「抜け目のない投資家」理論は、グローバル・インバランスの是正は不要と論じる。
9) 2014年5月に行われた欧州議会選挙では、総数751名の3分の1に当たるユーロ懐疑派 (Eurosceptic) 議員が当選している。
10) エリザベス・ワレンの2016年9月17日での下記の怒りの発言を参照。
12) ドッド=フランク法
(2010年) はその阻止のための法であるが、それも新大統領トランプの出現で危うい。世界的に検討されてきているのはBIS (国際決済銀行) による「バーゼルIII」であるが、これもまだ完全な実現には至っていない。
Eichengreen, B. J. [2006], “Global Imbalances: The New
Economy, the Dark Matter, the Savvy Investor,
and the Standard Analysis.” Journal of Policy Modeling 28 (6): 645-652.
Hirai,
T. [2015] “Financial Globalization and the Instability of the World Economy” in
T. Hirai, ed ., Capitalism and the World
Economy, Routledge, Ch .2).
平井俊顕 [2012]『ケインズは資本主義を救えるか』昭和堂