2017年1月4日水曜日

ソ連のアフガン侵攻がもたらしたもの - ソ連の崩壊とイスラム原理主義勢力の台頭 by T.Hirai





ソ連のアフガン侵攻がもたらしたもの ソ連の崩壊とイスラム原理主義勢力の台頭 by T.Hirai


アフガンでソ連シンパの人民民主党による政権が王政を打倒して成立したあと、ムジャーヒディーンがその反対勢力として浮上し、両者の争いになった。ムジャーヒディーンの中心勢力がタリバンである。タリバンはパキスタンで生まれたもので、パキスタンはタリバンをアフガンへの影響力の確保のための重要なツールと考えていた(同時に、それは宿敵とみなすインドを見据えてのものであった)。
このアフガン戦争には、ムジャーヒディーン側の一員として、オサ
ビンラデンも参加していた。彼はアルカイーダを創設し、サウジからの支援を受けていた。以降、タリバンはアルカイーダを支援することになる。こうして、反ソ連戦線としてタリバン、アルカイーダ、パキスタン、サウジ共同戦線を張ることになった。同時に、これはアメリカが反ソ戦線を背後で支援するというかたちになったから、共同戦線にはアメリカが含まれていた。時代は、まだ米ソ冷戦構造の枠組み下にあったのである。
サウジは同時に、原油価格の下落を画策することで、ソ連の財政
軍事支出基盤を脆弱化させる行動をとっていたことで知られる。原油価格は70年代の2度のオイルショック (73年のオペック、79年のホメイニ革命 [イラン]) に代表される事態のなかで大幅な上昇を遂げ いずれも、政治的軍事的宗教的色彩の強いものであり、たんなる経済的な寡占問題ではない -、世界経済を深刻な不況に陥れていた。が、80年代になると、新たな石油掘削の成功 (北海油田など) や石油節約型の技術革新の導入により、原油は過剰状態に陥り、原油価格は反転、急激な下落をみせていくことになった。アメリカの要請を受け、サウジは198511月に増産に踏み切り、その結果、原油価格のさらなる大幅下落 (ドバイ原油は86年1月の26ドル/バレルが、8月には7.7ドル)が生じ、原油に依存するソ連経済をいっそう弱体化させることにつながったのである。
こうして80年代後半になると、原油価格の急落による経済的
政的な弱体化と、アフガン戦線の泥沼化により、ソ連は危機的状況を迎えることになったのである。
これらの事態の進展は、これまでのソ連の政治システムでは考えら
れなかったようなタイプの政治家ゴルバチョフにレジーム変化をもたらす機会を与えることになった。ゴルバチョフは外にたいしては「新思考外交」、内にたいしては、「ペレストロイカ」と「グラスノスチ」を唱え、さらに「ヨーロッパ共通の家」構想 (89年の欧州議会にて) をかかげた。また80年代から、東欧で広がりを見せ始めていた民主化運動代表はポーランドのワレサによる「連帯」の活動 にたいしてもきわめて寛容な姿勢 (内政不干渉の方針) をとった。そしてついにはコール首相の説得に応じて、東西ドイツの統合とその主権 (事実上のNATO加盟)を容認するまでに至ったのである。
東欧へのソ連支配の手綱は、アフガン戦線における軍事的疲弊とソ連自体の財政的疲 (跳ね上がる軍事費と激減する石油収入)、および指導者ゴルバチョフの寛容な政策により、切れるに至った。ソ連国内においても独立分離運動が拡大し、91年夏に軍事クーデターが発生した。エリティンの果敢な行動により、クーデターは失敗するも、その時点でゴルバチョフの政治的権力は喪失してしまったのである。
そして「ベロヴェーシ合意」(91128)により、ソヴィエト連邦の廃止がエリティンによって宣せられたのである。ここに戦後の冷戦体制は崩壊し、世界秩序はアメリカ国が覇権を握るようなかたちに変貌を遂げるに至ったのである。