2017年1月28日土曜日

講座: 彷徨える世界経済 ― 資本主義とグローバリゼーション (目次と紹介)





下記の講座の公開を始めました。

このサイトに掲載していきます。

大学生、社会人、イタリアの大学などで近年、講義したものに基づいています。

基本的な考え方を分かりやすく述べることに努めています。

参考になれば幸いです。

 今後の予定ですが、順次、下記の講義を掲載していきます。

早ければ、3月までには完了すると思います。

 目次に続いて、関係する経緯などについて書いておきました。


                      平井記

講座: 彷徨える世界経済

― 資本主義とグローバリゼーション

第1講  資本主義をどうとらえればよいのだろうか 

第2講  グローバリゼーションをどうとらえればよいのだろうか

第3講  金融の自由化と不安定性を見る

第4講  リーマン・ショックとアメリカ経済

第5講 アメリカの金融政策

第6講  ユーロ危機、そしてEU危機 

第7講  アベノミクス、長期低迷の日本経済

第8講  経済学はどうなっているのだろうか

第9講  地政学的視座に立って見る


第10講  ケンブリッジは資本主義をどうみていたのだろうか 

第11講  シュムペーターは資本主義をどうみていたのだろうか

第12講  ハイエクは資本主義をどうみていたのだろうか

第13講  ケインズはどのようなことをした人なのだろうか 

第14講 『一般理論』てどのような本なのだろうか

第15講  国際通貨体制をめぐる攻防劇 

第16講  ケインズの「今日性」を問う

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現在の資本主義を探るという課題について、書籍のかたちで最初に刊行したのは、『ケインズは資本主義を救えるか - 危機に瀕する世界経済』(昭和堂、2012年) である。 

 以後もこの課題は、継続的にフォローしてきている。世界経済に日々生じる大きな動きをとらえつつ、いったい資本主義はいずこへ向かおうとしているのか、それをどのように評価していけばよいのか、そしてそれを支える社会哲学はどのように動いているのか、といった問題を考えてきている。

 そうした折り2つの機関 ― 世田谷市民大学および國學院大學 ― で講義を担当する機会があった (2015年および2016年)それに合わせて作成した講義ノートが本書のもとになっている (2016年4 - 6月にイタリアのUniversity of Cassino and Southern Lazio で講義を担当する機会がありそのさいに作成した英文の講義ノートも大いに関係している)これらすべての受講生にたいし謝意を表したい本書が学生諸君やビジネスパーソンを念頭において書いたのはそうした経緯と大いに関係がある

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これまで著者は、「ケインズ経済学の理論史的研究」、「ケンブリッジ学派の理論史的・歴史的研究」などを専門に研究してきた。したがって特定の経済学者の理論や思想を資料や文献を通じて、研究するというものである。それは「メタ経済学」的特性を有する領域である。

 だが、10数年前から、「わたしたちが生きている資本主義社会 (市場社会) とはどのような特性をもつシステムなのか」というテーマを、自分の考えとして追究していきたいという思いが強くなっていった。「市場社会をめぐる研究会」を立ち上げ、研究会を重ねるなかで、3冊の関連する本を刊行したのは、そうした動機に端を発している。

 だが、現在の世界経済そのもののフォローを優先し、それを通じて批判的考察を自覚的に試みたのは上記に言及の『ケインズは資本主義を救えるか』が最初である。対象はいまの資本主義であり、これに社会哲学、経済理論・経済政策の領域から批判的な検討を加えつつ、資本主義経済がいずこへ向かおうとしているのかをみていくこと、が同書の主要テーマであり、本書もその方針に沿っている。

 資本主義社会は複雑で、変化が激しく、理論・思想・現実政治が複雑に絡み合う世界である。それは人間の金銭欲、支配欲、競争が激しくぶつかり合う場である。芸術のような純粋な創造性を求める世界とは異なり、それは人間の幸福と不幸、日常性と非日常性、美と醜、博愛と強欲、合理性と非合理性が混在する世界である。芸術家のような美しさの探求は望むべくもないが、社会科学に身をおくものとしてはこれ以上にスリリングで魅力的な研究領域はない。   

 専門化が進行しすぎるあまり、今日の経済学は狭い領域にこだわる傾向があり、そしてその傾向は年を追うにつれて高まっている。そこには専門性を深めるという長所もあるが、それに伴う欠陥も大きい。何よりも「資本主義社会とは何か」といった大きなテーマは専門的でないとして敬遠され軽視されがちである。「深い教養主義の重要性」(これは、藤垣裕子・山脇直司教授の提唱する「後期教養教育」というコンセプトにも通じるものがある、と筆者は考えている)をここで強調しておきたい。こうした大きなテーマはそれ自体魅力的であり、そしてそれを追究していくためには、既成の考えを場合によっては枠外におき、自らの直感が希求する考え方、視点を尊重しつつ前進していくことが必要だと思うのである。