社会主義 対 資本主義
― ピグー ―
東西冷戦構造に終止符が打たれ,はや十数年が経つ。旧東側では社会主義体制の崩壊に伴い2つの刮目すべき現象が生じている。すなわち,民族主義の高揚による新国家の群生(そして抗争),ならびに市場社会原理の大胆な(そして性急な)導入である。一方,アジアに目を転じると,中国の,市場社会原理の部分的導入を契機とする経済発展が大きな関心を集めている。こうしてみると,市場社会に無類の信頼をおく新保守主義の教義は,ますますその権威を高めているやに思われる。
しかし,たちどまって考えてみると,市場社会(=資本主義社会)とは一体何なのであろうか。市場社会はいかなる理由で評価されるべきものなのであろうか。あるいは,いかなる理由で問題があると考えられているのであろうか。また現在の先進国経済は,どのような特徴をもった市場社会なのであろうか。そしてそれは歴史的にいかなる変貌を遂げてきたものであり,またその変貌はいかに評価されるべきなのであろうか。こうした根底的論点を探究してみることは,今日世界にみられる「市場社会化現象」を客観的に評価するうえで欠かすことのできない検討課題であると思われる。
このための一つの有力な手掛かりは,これらの問題をめぐってこれまでに展開されてきた経済学者の見解を検討することである。
本章から第10章は,それぞれ,ピグー,ロバートソン,ホートリー,ケインズの市場社会観の検討にあてられる。戦間期にあってケンブリッジのみならず,イギリス,さらには世界の指導的な経済学者として活躍した彼らは,市場社会をどのように評価し,そしてそれはいかなる点で変革していく必要があると考えていたのであろうか。これらの検討を通じ,戦間期ケンブリッジの経済学者が,思想的に,どの程度類似し,そしてどの程度相違していたのかを明らかにすること,これが当該章の目的である。
戦間期の新古典派を代表するのは,ワルラスに源を発するローザンヌ学派, メンガーを始祖とするオーストリア学派,そしてマーシャルを始祖とするケンブリッジ学派である。それぞれ,相当程度固有の特色を有しており,その意味で独立した存在なのであるが,とりわけ戦後になると,ワルラスの一般均衡理論のみに光が当てられ,それ以外はすべて副次的なもの,あるいは検討に値しないものであるかのように扱われてきた感がある。そのため,それぞれの学派のもつ独自性は無視され,忘却されることになった。1980年代以降の新オーストリア学派の台頭は,こうした忘却・埋没現象にたいする反旗であり,自己主張であった。
しかしながら,ケンブリッジ学派のもつ独自性は,いまだに忘れられたままの状態にある。本来,新古典派とはケンブリッジ学派を指す用語であったが,その理論・思想・社会哲学の実際の姿は,一部の学史家をのぞけば,経済学者のあいだでも,ほとんど知られていないといってよい。
ケンブリッジ学派は、狭義には、マーシャルの経済理論を中核にすえる一群の経済学者ということになる。だがここでは、ケンブリッジ学派を広義にとらえ、20世紀前半にケンブリッジで展開された経済理論・経済思想の全体を指すものとする。
ケンブリッジ学派は、経済学の歴史に巨大な足跡を残してきている。マーシャルの「正常需給の安定均衡の理論」、ピグーの厚生経済学、ケインズのマクロ経済理論、J.ロビンソンの不完全競争理論をあげれば、その偉大さは明瞭であろう。彼らが展開した理論、それに彼らが開発した諸概念が、今日の経済学のなかにも明瞭な地位を占めていることは、標準的な教科書での取り扱いからみても明らかなところであり、この点でオーストリア学派とは比較にならないといえる。
しかしながら、ケンブリッジで生まれたこれらの重要な理論は、ケンブリッジ学派内にあっては、知的格闘の結果であり、先達の理論の批判・否定であり、そして内部分裂を引き起こすものであった。ケンブリッジ学派は「学派」という言葉が意味するような一枚岩のものではけっしてなく、いやそれどころか、むしろ絶えず批判と分裂を繰り返してきた。翻っていえば、このことは、ケンブリッジ内部には独創的な理論家が多数存在したということであり、彼らの知的創造性の多彩ぶりを反映している。マーシャル、ピグー、ケインズを輝ける星とすれば、それらのあいだの継承と断絶を経済理論、経済思想等の様々な側面から照射することで、ケンブリッジ学派そのものをとらえ直し、そのうえで現在の新古典派との異同点を明らかにすること、さらにはケンブリッジ学派が問いかける現代性を析出すること、これらは今後、筆者が追究していくことを望んでいる研究課題である。
本章から第8章にかけては、そうした問題意識のもと、ケンブリッジの社会哲学--- しかもここでは代表的人物に限定されている---に焦点を合わせることにする。今日の新古典派のイメージから,ほとんどの人々は,彼らが市場社会を肯定的に評価するスタンスをとっている,と推定することであろう。だが,以降に示すことが明瞭に物語るように、これほど誤った見解はないのである。
ケインズは『一般理論』で,彼のいう「古典派」の代表的論客として同僚のピグーを取り上げ,批判の俎上にあげたことは,広く知られている。また「ピグー効果」は,ケインズ経済学に対抗する新古典派マクロ経済学の非常に有力な武器として用いられてきたことも,経済学の常識である。あるいは,功利主義者ピグーにたいし,反功利主義者ケインズという対立構図も示されることであろう。こうしたことから,これまで専ら両者をめぐっては相違面ばかりに光が当てられてきたといえよう。
経済理論に関するかぎり,そのことは誤りではない。その相違が「ケインズ革命」を生み出したのである。だが,こと市場社会観(=社会哲学)に関するかぎり,こうした対置は事実の正しい描写とはいえない。ピグーの社会哲学は,通常思われているようにケインズのそれと対立的な位置にはないのである。
本章では,ピグーの社会哲学を主として,『社会主義 対 資本主義』(Pigou, 1937. 以降、SCと略記)により,検討していく。これは『一般理論』が執筆されたのとほぼ同じ頃であるだけに,一層興味がそそられる。そして副次的に,その10年後に書かれた「中央計画」(Pigou, 1948. 以降、CPと略記)を取り上げることにする。さらに補論として,『マーシャルと現代の思想』(Pigou, 1953. 以降、MCと略記)を一瞥する。これはピグーがマーシャルをどのようにみていたのかを示すものとして有益である。
ピグーは,若い頃から社会改革に熱心であり,そのために国家の果たす役割を重視していた。ピグーの社会哲学は,例えば彼の代表作にも明瞭に反映されている。すなわち,『厚生経済学』(1920年)において,第2部第20章で「公的当局による干渉」が,また第22章では「産業の公的操作」が論じられている。さらに,『産業的変動』(Pigou, 1927.以降、IFと略記)1において,第2部「治癒策」の序章第8-9節の目次説明にもこのことは明瞭であり,市場の自由な働きと政策との関係をめぐるピグーの基本的な認識が認められる。目次説明は,次の通りである。
利己心の自由なプレーが,これらの害悪(=産業的変動)にたいして,可能なことのすべてを達成するわけではなく,(i) 変動の原因を除去することに向けられる治癒策,ならびに(ii) 直接,変動自身を対象とする治癒策,のための余地が存在する (IF, p.xv)
Ⅱ. 『社会主義 対 資本主義』(Pigou, 1937)
1937年に刊行された『社会主義 対 資本主義』には,ケンブリッジ正統派のドンであるピグーの社会哲学が鮮明に示されている。そしてそれを示す立論において特徴的なのは,(明示されているわけではないが),明らかにシュムペーターの二元論,ワルラスの一般均衡理論的な思考法,そしてランゲ的な思考法がとられている点である。後述するように,完全競争が支配している状況下での資源配分を「理想的な配分」と呼び,それと現実の経済を比較するというやり方,社会主義社会システムでの中央計画による試行錯誤的方法で完全競争と同じ状況を創出できるという考え方,静態に失業は存在しないという考え方等々,にその影響は明瞭だと思われる(こうした論法が,ケンブリッジの伝統に固有のものであったとは思えない)。
こうした特色のうえに,同書は次のような強い光線を放っている。
(1) 基本的なスタンス ― 資本主義の現在の機構を当分のあいだ受け入れる。だが,それは漸進的に変更していかなければならない。具体的には,相続税や所得税に累進制を導入することで財産・機会の不平等の是正,重要産業の国有化,国家による投資計画の推進等を考えている。
(2) 資本主義と社会主義の比較・評価 ― いずれに軍配があがるのかを,様々な局面(富および所得分配の平等化,生産資源の配分,失業,利潤と技術的効率性,インセンティブ等)ごとに比較・評価を試み,そのうえで総合的にみて(自らの旗幟を鮮明にするという点も込めて),社会主義に優位性がある,と結論づける。
(3) 中央計画当局によるプラニングをめぐり,社会主義経済計算論争におけるランゲ的な視点,つまりワルラス的モデルの採用による資源配分の実現、を現実的なものとみている。
意外に思われるかもしれないが,ケンブリッジ学派のなかにあってピグーはホートリーとともに,最も左派に位置している。この点は他のケンブリッジの経済学者の市場社会観 ― それを先取りすることになるが
― と比較してみれば,一目瞭然である。すなわち,
(i) マーシャルは,基本的に企業を中心とする市場システムに信をおいている。
(ii)ロバートソンは,自らを「自由主義的干渉主義者」(「懐疑的自由主義者」とも表現できる)と呼んでいる。
(iii)ケインズは自らを「ニュー・リベラリスト」と呼んでいる。
(iv) ホートリーは集産主義に同調している。
1. 社会主義の定義
ピグーは社会主義を次のように定義している。それは,(i) 利潤稼ぎの排除,(ii) 生産手段の集団的もしくは公的所有,(iii) 中央計画(全体としての社会の便益のための計画)の存在,を本質的な特徴として有するシステムである。彼によれば,20年前,すなわちロシア革命の前までは,社会主義の定義は,上記(i),(ii)で構成されていたが,それ以降は新たに(iii)が不可欠の要素として付け加わることになった。
ピグーは,このように定義された社会主義を資本主義と様々な局面(富および所得分配の平等化,生産資源の配分,失業,利潤と技術的効率性,インセンティブ等)ごとに比較・評価を行っていく。以下,それぞれをみていくことにしよう。
2. 富および所得の分配
ピグーは最初に,現行の資本主義システムには,事実として富および所得の分配において明確な不平等 ― 格差 ― が存在していること,そしてそれが経済社会に深刻な弊害をもたらしていること,に注意を喚起している。「深刻な弊害」として指摘されているのは,富や所得分配の不平等が,より緊急を要する必要性 ― 若者への影響が重視されている
― を無視し,緊急度の低いものに資源を配分していくことで引き起こされる資源の浪費という現象である。したがって,富や所得分配の平等を増大させるように現在の資本主義システムにたいし,変更 ― 相続税の累進化,所得税の累進化,貧困層の購入する財の生産への補助金の給付,青少年の肉体的・精神的成長を目的とした社会サービスの拡張等 ― を加えることは,きわめて正当な行為である,とされる。ただし,ピグーは,富および所得分配の平等化について,資本主義システムは,政策的に一定の限界を抱えている,とみている。高度に累進的な相続税・所得税を課す政策は,資本主義システムにあっては,その大部分を提供している人々の能力と意欲を阻喪させることにより,資本蓄積を妨げる可能性があるからである。
しかし,ひとたび社会主義システムが確立すれば,こうした懸念は払拭されてしまう。そこにあっては,資本蓄積は直接,国家によって行われるからであり,しかも諸個人に所得が配分される前に,国家は投資に必要な量を自由に確保しているからである。かくして,富および所得分配の平等化について,ピグーは社会主義に軍配をあげている (以上の認識はホートリーにも強くみられる)。
諸個人間での分配の不平等の治癒策として,社会主義を支持する力は,…予想されるよりもずっと強力である(SC, p.30)。
3. 生産資源の配分
この問題は,市場メカニズムにたいし,どのような評価を下しているのかを知るうえで,非常に重要であり興味深い。今日,生産資源の配分についての新古典派のスタンスといえば,直ちに「パレート最適」が想起される。すなわち,完全競争市場はパレートの意味で資源を最適に配分する能力を有するという命題であり,資本主義システムを擁護するきわめて重要な論拠になっている。ピグー自身は,市場メカニズムにどのような評価を下しているのであろうか。この点をみることにしよう。
ピグーがここで注目しているのは,「現行の所得分配にたいしての,生産資源の諸用途への配分の適切さ」という問題である。彼は最初に,「理想的な配分」について語る。それは,所得と趣向が同一な人々からなる社会にあって,あらゆる分野で限界純生産物が均等になるような配分形態を指している。そして,この理想的な配分は, (i) 私的限界費用と社会的限界費用がいずこにあっても等しい,(ii)完全競争が行われている,という条件のもとでは,資本主義システムにおける利己心の自由な働きによってもたらされる,とピグーは論じている。
そのうえで,資本主義システム下での資源配分について問題になるのは,この理想的配分から,実際の資源配分がどれくらい乖離しているか、であるとされる。この乖離は,私的限界費用と社会的限界費用の乖離や,独占,不完全競争の存在により生じてくる。
しかし,資本主義システムにあっても,私的限界費用と社会的限界費用の乖離は,補助金や課徴金について適切な方策を講じることで ― その実施の困難さは強調されがちであるが,この点では,社会主義システムにあっても困難さの程度が変わるわけではない ―, 是正は可能である, とピグーは考えている。
他方,独占(や不完全競争)の存在であるが,そこでは(i)民間企業による独占がもつ弊害を是正するために,公的所有を実施すること,そして(ii)そのような領域を不要な広告競争に資源を浪費している産業にまで拡大すること,の必要性が論じられている。この問題については,社会主義システムの方が,統制と操作が国家という同一組織の掌中におかれているため,費用は軽減されるかもしれない。その点で,社会化の範囲の拡大には意義があるかもしれないが,それは全般的な中央計画を有する一般的な社会主義システムに現在の資本主義システムを変えるということと同じではない。
こうして,生産資源の配分問題については,資本主義システムと社会主義システムの優劣はつけがたい,というのがピグーの下している結論である。
4. 社会主義中央計画のもとでの生産資源の配分問題
しかし,生産資源の配分をめぐるピグーの議論は,ここで終わるわけではない。既述のように,「理想的な配分」は完全競争下でもたらされる,とピグーは論じていた。しかし,問題は,現行の資本主義システムにあっては,それが独占や不完全競争の存在ゆえに,そこから大きく逸脱した構造になっている,という点にある(彼は,独占や不完全競争にさらされている産業を国有化[社会化]することで,資本主義システムにあっても,逸脱の是正は可能である,とみている)。
ここで,ピグーがもち出してくるのは,いわばランゲ流の社会主義論である。ピグーは,中央計画当局の(名前は出されていないが)ワルラス的な模索過程による操作を通じて,「理想的な配分」の実現は可能である,との論理を展開している。
彼は,問題を2つに分けて論じている。第1は,諸産業への資源の配分は所与としたうえで,中央計画当局が諸個人に消費財を配分する方法である。ここで推奨されているのは,諸個人に毎週,貨幣所得を強制的に交付する方策 ― したがって生産活動とは切り離されている ― である。諸個人は貨幣所得を自らが欲する財に自由に使うことができるが,それを貯蓄することはできないようにする(貨幣は時間が経てば無効になるようにする)。消費財の価格は中央計画当局によって決められ,それは各消費財の需給状況に応じて変更されていく。すなわち,中央計画当局は,各消費財についてそれが超過需要である場合には,その価格を引き上げ,逆に超過供給である場合には,その価格を引き下げることで,調整を図っていく。消費財の需給は,中央計画当局による価格の上げ下げを通じて調整されていくから,ここでの価格メカニズムは専ら中央計画当局による意識的な操作によって遂行されている。しかし,諸個人が受け取った貨幣は,当期のみ有効である。したがって,超過供給下にある消費財の場合,売れ残り,逆に超過需要下にある消費財の場合,購入できない人々が出てくることは避けられない。
第2は,諸個人への貨幣所得の配分を所与としたうえでの,諸産業への資源の配分という問題である。ここでのピグーの提案は,上掲の「理想的な配分」に近づけることであり,独占や競争的な宣伝(不完全競争)のない完全競争の状態にもっていくというものである。ピグーによれば,これは原理的には可能であるが,実際には大きな技術的困難を抱える問題である。彼はここで,種々の生産手段や労働を擁する社会主義経済の運営について考察を加えている。生産活動は,中央計画当局によって管理・運営される。国家は命令により,各種の生産手段や労働にたいし,計算価格 ― 計算賃金(accounting wages)や計算レント ― を設定し,それをもとに完全競争に近いような生産資源の配分を実現していく。ここでも中央計画当局は,計算価格を生産手段および労働の需給状況に応じて変更していくことになる。ただし,計算賃金は,実際に諸個人が受け取る賃金というものではない。社会主義システムにあっては,人々は能力に関係なく一律の賃金を受け取ると想定されているからである。
ピグーは,資本主義システムについては独占,不完全競争の存在によって完全競争の実現にかなり懐疑的であるのにたいし,社会主義システムについては完全競争の実現を原理的に ― 実際の困難さは別として
― 信じている。そして後者の点で,ピグーはランゲやシュムペーターの陣営に属しているといえよう。また以上の評価にさいして,ピグーがワルラス流の一般均衡論的思考を展開しているのも,ケンブリッジ学派のドンであるがゆえに,一層興味をそそられる。
5. 失業
失業の解消について,ピグーは社会主義に軍配をあげている。ピグーの立論は,以下の通りである。
まず,完全に静態的な経済にあっては,資本主義システムであれ社会主義システムであれ,失業は存在しない。失業は動態的な経済において生じる問題である。そのさい,2つの動きが識別される。1つは「相対的な動き」であり,これと関連するのは摩擦的失業である。もう1つは「絶対的な動き」であり,資本主義システムにあっては,それは景気変動に伴って生じる。ピグーが問題にするのは,「絶対的な動き」に伴う失業である。
次に,自由放任的資本主義は考察の対象から外される。なぜなら,そこにあっては,国家は産業変動や失業への対処に関心も努力も払うことはないため,社会主義システムにこの点で勝つことができないからである。したがって比較は,国家による介入の認められる資本主義システムと社会主義システムとのあいだで行う必要がある。いずれのシステムにあっても,失業は大きな社会的損失であり,その解消はきわめて重要な責務である、との認識が存在する。
まず最初に,資本主義システムにおける意志決定が多数の企業によって行われるのにたいし,社会主義システムにあっては,中央計画当局により集約的に行われるということがもたらす優位性が論じられる。次に,失業を解消させる政策としての公共投資政策と金融政策について,いずれのシステムが効果的に行いうるのかが論じられる。ピグーはこれらの政策が失業の解消に一定の役割を果たすことは認めつつも,やや懐疑的である。そのうえで,公共投資政策については,明確に意志決定の統一が可能な社会主義システムの方に軍配をあげ,他方,金融政策については,両システムでの効果は同等であろう,と述べている。最後に,社会主義システムならもちうる ― しかし,資本主義システムはもちえない ― 2つの治癒策, (i) 産業間での生産資源の強制的移動,および (ii)貨幣賃金の引き下げ,が論じられている。
以上のような考察の結果,ピグーは失業問題の解消について,社会主義システムに軍配をあげている。
6.その他
以上の他,ピグーが考察を加えている,利潤と技術的効率性,インセンティブ,および利子率について,簡単にみておくことにしよう。
(i) 利潤と技術的効率性という問題は『社会主義 対 資本主義』にあっては,いわば脇道である。そこでは企業組織の形態 ― 検討の中心は,株式会社と公的企業 ― が論じられていて,資本主義システムと社会主義システムの比較とは少し視点を異にしている。ここでの議論で興味深いのは,現代の資本主義システムのなかで活動する様々な企業形態の洞察である。例えば,株式会社は,民間ビジネス ― 企業家により勇気ある意思決定の行われる個人企業 ― の偽装された形態である場合もあるといった指摘である。トラストや持株会社,カルテルなどの手段により,株式会社は少数者の意志決定下におかれることがあるからである。
(ii) インセンティブについて,ピグーは,社会に奉仕する気持ちや名誉のために活動する気持ちに関し,社会主義システムは資本主義システムよりも優れている,とみている。
(iii) 利子率について,ピグーは次のように述べている。まずここでは自然状態にある利子率にのみ,関心を払うことにする。資本主義システムにあっては,この利子率は,生産資源のうちどれだけが資本補填および新投資に向けられるのかを決定する。これにたいし,社会主義システムにあっては利子率を決定する市場がないため,この点でハンディを負っている。だが,ピグーは,「計算」利子率を設定することでそのハンディに対処することが可能である,と考えている。この「計算」利子率は,試行錯誤的方法によって,適切な利子率にたどり着くことができるものである,とされる。結局,利子率について,両システムの優劣をア・プリオリに判定する根拠はない,と結論づけている。
Ⅱ.「中央計画」(Pigou, 1948)
これは,ロビンズの『平和と戦争における経済問題』2(Robbins, 1947)の書評依頼に応じて執筆されたものであるが,実際にはピグーの中央計画についての見解が披露されており,それをサポートするかたちでロビンズからの引用がなされる,という体裁になっている。そこにはロビンズにたいする批判的要素はみられず,むしろ同じスタンスに立っているとの印象が強い。
ケンブリッジの経済学者に総じていえるが,ピグーのここでのスタンスも,市場経済システムにおける経済主体の自由活動を評価,ないしは擁護する根拠を思索すること ― この点での貢献は,ケンブリッジ学派にはみられず,オーストリア学派(ミーゼスやハイエク)に顕著である ― よりも,むしろそれがもつ欠陥を認め,そしてそれをいかに是正すべきか ― そしてその是正において,国家(政府)の役割が重視される ― に,主たる関心が払われている。
ピグーは, イギリスのような民主国家において政府がおかれている立場を, おそらくはスミスを念頭におきながら,次のように描写している。
政府は,[次のような]チェス・プレイヤーの立場にある。[すなわち,]より重要な駒は,政府の意志に従わずに,自らの意志で自由に動く (Pigou, 1948, p.206)。
しかし自らの意志で動く経済主体の利己心は限界を有するものである点に,注意が払われる。私的な利己心のための自由な活動の舞台を維持するだけではだめで,政府の介入が正当化されるケースが存在すること,をピグーは強調する。そこで指摘されているのは,(i) いわゆる外部経済・外部不経済や公共財に関連するケース,と(ii) 個人の利己心には投資よりも消費を選好する傾向があるため,時間を通じての経済的厚生がなおざりにされる傾向がある ― ピグーの議論には時間を通した厚生という視点がつねにみうけられる ― というケースである
ピグーは政府の計画を,一次計画(目的の計画)と二次計画(手段の計画)に分けている。一次計画にあっては,一般的厚生(とくに経済的厚生)の増大が重要である。とりわけ,この実現のために重視されているのが所得不平等の是正 ― ただし,懸命に働くというインセンティブや難しい技術を取得するというインセンティブを損なわない範囲内で ― である。
一次計画を遂行する手段である二次計画では2つの方策が考えられている。1つは,財政政策(financial policy) ― 税および補助金 ― である。これは価格メカニズムを通じて作動するものであり,正常な時代にはこれで十分とされている。もう1つは,資源の直接的な指令による方法 ― 徴兵,徴発,認可,優先,割当等 ― である。これは価格メカニズムを介さずに行われるものであり,国民全員が健康維持に必要な最低限の食糧摂取のために必要な方法とされる(その他,義務教育や軍事教練があげられている)。
Ⅲ. 補論 『マーシャルと現在の思想』(Pigou, 1953)
この小冊子は,1953年という時点での思想状況にたいし,マーシャルが存命であればどのように反応しただろうかという仮定話を書いたものである。なかでも,利子率[ケインズのマーシャル利子論批判をめぐるもの],および社会主義をめぐるものが興味深いが、ここでは,ケンブリッジ学派の社会主義システムにたいするスタンスを知るうえで興味深い後者を取り上げることにしたい。
この時代,広い意味での社会主義的理論はすべての政党に浸透していたが,そこには次の4つの傾向が認められる,とピグーはいう。
(1) 国家の行動への支持
(2) 産業の国有化
(3) 資本や原材料の,産業への配分にたいする国家コントロールの強化
(4) 政府による最高価格や最大個人割当の規制
以下では,このうち(1)と(2)に焦点を当てることにする。
「国家の行動への支持」について,国家による所得の平等化を促進する政策を,マーシャルは原則として歓迎したことは間違いない,とピグーは推測している。ただし,マーシャルは平等化がいきすぎることによる2つの危険性を指摘していた。1つは,資本蓄積の抑制であり,もう1つは,企業者エネルギーの弱体化である。このうち,資本蓄積にたいする抑制の危険性は,今日では,あまり問題にはならない,とピグーは判断している。個人の貯蓄はもはやそれほど重要なものではない,というのがその理由である。他方,企業者エネルギー弱体化の危険性は,マーシャルを非常な不安に陥れたかもしれない,とピグーは推察している。そのため,今日遂行されている国家による平等化政策について,マーシャルは一般的傾向については同調的であったと思われるが,この傾向をさらにおし進めることに乗り気はしなかったであろう,とピグーは結論づけている。
「産業の国有化」についてのマーシャルのスタンスは鮮明であり,そうした傾向に批判的であったであろう,というのがピグーのくだした推察である。マーシャルは,イニシアティブと冒険心を発揮して建設的に邁進する産業キャプテンをトップにいただく小企業の活動にこそ,資本主義経済進歩の理想的なエンジンが存する,と堅く信じていた。他方、彼はこうした点での政府の能力にたいし,大きな不信感を表明している。政府が多くの産業に参入してくることに,マーシャルは一貫して批判的であった。したがって,この点についてのマーシャルの考えは,今日存命であっても変わっていなかったであろう,とピグーは考えている。
もっとも,マーシャルの時代にはみられなかった現代的な展開,例えばロンドン港湾当局といった形態をみれば,彼の姿勢には若干の変化がみられたかもしれない,とピグーは付言している。にもかかわらず,マーシャルが民間企業の重要性を強調するという姿勢を変えることはなかったであろう,とピグーは結んでいる。
この点に関して,最後にマーシャルの次の一文が引用されている。
自由企業体制は,経済騎士道が進展するまでは最良の理想からはほど遠いものである。だが,経済騎士道が進展するまでは,コレクティヴィズムへのいかなる大きな歩みも,われわれの現在の穏やかな進歩率を維持することにとってさえ,重大な脅威となる (Pigou, 1953, p.63)。
1) これについては、さしあたり平井(2000, pp.60-61)を参照。
2) 同書で示されているある見解についてのロバートソンの同意については、第8章の第Ⅲ節を参照。