2013年7月29日月曜日

自由主義的干渉主義 ― ロバートソン ―





 

 

自由主義的干渉主義

ロバートソン

 

 

 ロバートソンは,Robertson(1950)において明瞭であるが,基数的効用理論を支持するという点で,ピグー的な功利主義者1という顔をもっている。そこにおいてロバートソンはピグーの旧厚生経済学を批判し,新厚生経済学を唱えた人々 序数的効用理論(パレート的立場)のヒックスや,顕示的選好理論のサミュエルソンなど を批判しつつ,基数的効用理論に立つピグーにたいする全面的な支持を表明している。2またロバートソンは,『銀行政策と価格水準』(1926)で展開された独創的な景気変動論により広く知られている。そして大規模生産のもつ近代産業の特性に着目した動学理論を有していたがゆえに,ロバートソンは,『貨幣論』,そして『一般理論』へと進むケインズにたいし,益々批判的になっていくことになった。3

 このようにみていくと,ロバートソンはケインズは対照的な位置にあり,それゆえに非常に保守的な経済学者であるとの印象を与えやすい。事実,これが今日に至るまでロバートソンに刻印された評価である。しかしながら,ロバートソンの景気変動論は,経済学の歴史において非常に画期的なものであって,保守とは無縁の存在であることが承認されなければならない。それに彼が功利主義者であるということは,彼が自由放任主義者であることを意味するものではない点も,ここで指摘しておく必要があろう。

 本章では,ロバートソンの市場社会観に焦点を合わせて検討していくことにしよう。ロバートソンの社会哲学は本人の呼称を用いると「自由主義的干渉主義」であり,筆者の呼称でいえば「懐疑的自由主義」である。この点を,2つの作品により検討していくことにする。1つは,『産業のコントロール』と題された小冊子で,比較的初期(1923)におけるロバートソンの社会哲学をうかがうことができる。もう1つは,論文「経済の見通し」であり,はるか後年の1947年に発表されたものである。これらの著述の検討を通じ,ロバートソンがレッセ・フェール主義をとる古典派的・保守的な経済学者であるという考えが,あまりにも根拠のないものであることが,明らかにされるであろう。なお,補論として,1937年および1948年の時点でのロバートソンの経済理論を検討しておくことにする。

 

Ⅰ.『産業のコントロール』(1923)

 

 ロバートソンの資本主義観が鮮明に表明されている初期の著作に, 1923, 「ケンブリッジ・エコノミック・ハンドブック」叢書(編集主幹ケインズ, 副主幹ヘンダーソン)の一書として刊行された『産業のコントロール』がある。一風変わった表題だが,そこで展開されているのは,資本主義システムにたいする評価, ならびにその改善策の検討であり、資本主義経済の根幹をなす産業をいかにコントロールするかである。

 ロバートソンは, 本書の主題,もしくは課題を,次のように表明している。

 

産業に従事する男女が生産のたんなる手段,もしくは生産の果実のたんなる器になるのではなく,彼らの生活の経済的環境との関連で自発的人間という特性を保持することを,われわれはいかにすれば確保できるのか (pp.1-2)。 

 

1.産業の大規模化 差別化原理と統合化原理

 ロバートソンが現代資本主義経済の本質的特性とみているのは,「工場システム」― 工場という場で, 経営者の命令のもと, 複雑で高価な機械と大量の労働者により生産が遂行されるシステム である。この点は, 産業の大規模化現象 「大規模産業」は「工場システム」を象徴するものとされる の要因を検討した2つの章の題名(第2章「大規模産業」,第3章「大規模産業のいくつかの展開」)からも明らかであろう。

  第1章では,分業の利点への言及から始まり,標準化(standardization)ならびに特化(specialization)現象の進展に焦点がおかれている。そして,これらが産業の大規模化ならびに中小企業にたいする大企業の優位をもたらしたという点,さらに頭脳労働の分化が進展することで,大規模統治の経済がもたらされ,大企業の優位を加速化してきていることが強調されている。

 第2章で注目されているのは,垂直統合、水平統合,および企業合同であり,いずれも,それまでに言及されてきた差別化原理(principle of differentiation)とは対照的な統合化原理(principle of integration)を指向している。これらの統合化により,きわめて広範囲におよぶ経済活動の「統治」が少数の人々のもとにおかれるという現象 産業の集中化 が生じる。こうした現象にたいし,ロバートソンがけっして否定的・批判的ではない点には注意を払う必要がある。例えば,企業合同に関連して次のような発言がみられる。

 

しばしばこの力[市場にたいしての決定的な影響力],完全競争が支配している場合より少なく供給することで消費者を抑圧するために利用される。他の側面では,そうした利用は有益かもしれない。というのは,企業合同はもし望むなら,そうでない場合よりも産出量もしくは価格を安定的に保てるからであり,全員がお互いの行動や意図について無知であるような多数の競合する生産者よりも,資本設備等の拡張について、より穏健な政策の遂行が可能になるからである。いずれにせよ,(アメリカの鉄鋼業のように)企業合同が極限に達している産業...,通常の産業がそうではないという意味で「統治」(governed)されている (p.39)

 

 現代の産業は,「差別化」と「統合化」という2つの原理につき動かされて発展を遂げてきた。「差別化」は分業を通じて促進され, 分業は人のみならず機械をも特殊な仕事を遂行できるようなものに細分化していく(標準化)。さらに人にあっては, 肉体労働だけではなく頭脳労働における細分化をも促進していく。これらの差別化により,企業はますます大規模なものになってきた。他方,このような差別化の進展に続き,「統合化」現象 垂直統合、水平統合,および企業合同 が目立ってきた。これらがどこまで企業規模を大きくできるのかは,大規模「技術」の経済性によりも,むしろ大規模「統治」の経済性に依存している。

 ロバートソンはこのようにして巨大化した企業組織が少数の人々の支配下にあり,多数の人々がその命令のもとで生活しているという現象に注目する。彼は,企業の大規模化,そしてそれがもたらす独占的傾向にたいし,批判的なスタンスはとらない。むしろ,それは既述の要因によるなかば自然的,もしくは合理的な進展であるとみているのであって,市場メカニズムを阻害するとか,破壊するとかいった批判は認められない。これは後述する集産主義や共産主義,あるいは公営企業,消費者協同組合,生産者協同組合をめぐる検討 それらは, 市場社会にあってどのような分野で積極的な役割を果たしうるのか,といった視点からなされているのであって,けっして批判的・否定的なものではない。そうした視点の根底にあるのは,大企業にあって多数の人々がリスクを負っているにもかかわらず,産業の「統治」に何の参加資格も有していないという状況にたいする批判であり,その改善への熱望である においても然りである。

  ロバートソンは,広大な市場システムにあって,様々な形態の企業組織が,しかも大規模化した状態で登場してきているという現象を不可避的なものとみている。企業規模の縮小化とか,垂直統合、水平統合,企業合同の制限・禁止により,完全競争的状況を維持する必要性といった考えはない。むしろ,彼にとって重要な問題は,リスクとコントロールの公平な負担を可能にするように市場システムを改善するということであった。

 続く第4章「マーケティング組織」では,製造業者と識別される商人の機能が論じられている。注目に値するのは,商品取引所(produce exchanges) それは商人の特化によって生じた であり,専門業者が先物取引を行うことで,製造業者が望まないリスクを負うのみならず,リスクを相殺することで社会に貢献している点が評価されている。ここでも特化(差別化)に言及した後,マーケティング・プロセスの個別的統合化,カルテルといった「統合化」現象が論じられている。

 ロバートソンは,カルテルに関して批判的なスタンスで述べてはいない。カルテルは,理論的にみると民主的な組織形態であり,中小企業を市場の安全性と結びつけたり,より強力な企業組織と対抗する方法として活用されることが多く,そのことで経済権力とイニシアティブの分散をもたらすもの,とロバートソンはみている。

 以上は,産業(製造業)と商業(industry and trade)を対象としていた。これにたいし,第5章「産業の資本化」および第6章「金融と産業」では,信用(資金)調達の問題が論じられている。ここでも主要なテーマは「差別化」(第5章で扱われている)と「統合化」(第6章で扱われている)である。すなわち,「産業で使われる資金の所有とその実際の運営・操作のあいだに生じる分離と…こうして分離された機能の再結合という…傾向」(p.56)である。「分離」は株式会社に, そして「再結合」は「産業への金融の浸透・支配」に, 象徴的である。第5章では「信用組織」が扱われ,外部資金がどのようにして調達されるのかが説明されており,このうち長期的に使用される資本の直接調達が,株式会社および株式市場を中心に論じられている。第6章では,所有と運営の再結合が,トラスト,持株会社,利権の共同体による管理,ならびに金融と産業の結合・支配を中心に論じられている。

 

 以上において,ロバートソンは,現代資本主義システムを「産業のコントロール」という見地から論じている。そこでのキー概念は「差別化原理」,「統合化原理」という対照的な原理である。両原理に促されて,産業は大規模化し,垂直統合、水平統合,企業合同をもたらしてきた。さらに両原理はマーケティングや金融分野に生じている現象の説明にも適用が可能であるとされた。こうして現在の資本主義システムの主役である産業・商業・金融・株式会社・株式市場が出そろったことになる。

 第7章「資本主義のサーヴェイ」では,視点が大きく転回しており,ロバートソンの資本主義システムにたいする批判的評価が展開されている。そこで節を改めてみることにしよう。

 

2.資本主義観

 ロバートソンによると,資本主義システムは3つの特徴を有する 第1に,それは市場システムである(ここでは長所と短所が指摘されている),第2に,それはリスクとコントロールが連携するシステムである(ただし,そこには重要な浸食が生じているとされる),第3に,そこには支配者と被支配者の差別を拡大化させる現象が認められる。それぞれをみていくことにしよう。

 A. 第1の特性 市場システム

 資本主義システムの第1の特性として,それが「非-調整」(uncoordination)であるという点があげ

 

られている。ここでいう非-調整とは, 下記の「目に見えぬ諸力」のことである。

 

孤立したビジネス・リーダー達の努力の調整は,主として目に見えぬ諸力 ニュースや知識,慣習や信頼,およびかの2つの要素,すなわち需給法則 の働きに委ねられている (p.85)

 

  今日の市場システムへの参加者は原子的で個人的な性格のものばかりではない。大海のなかで意識的な力を有する組織が存在しており,それらはますます大規模化してきている, という認識がロバートソンにあっては顕著である。その点を強調したうえで,彼は,それでもなおそれらは大海に浮かぶ小島にすぎず,依然として現在の経済は既述の「目に見えぬ諸力」によって動かされている,と論じている。

 

あちらこちらで,われわれは,バター・ミルク桶のなかで凝固しているバターの塊のように,無意識の協同というこの大海のなかに意識的な権力をみいだしてきているのは,確かである。工場システム自体は,普通の人々の仕事の無数の特化と同時に,資本家雇用主による様々な活動の意識的な協同を含んでいる。そして今日,単一の大企業のトップは,チューダー朝の君主が焦がれても得られなかった広範で強力な産業支配を享受している。さらに,すでにみてきたように,企業合同,原材料とマーケティング過程の統合,産業への金融の浸透は,すべて,方法においてもまた程度においても,視界のなかにもたらされていて,ある程度単一の知性のコントロール下におかれる地表部の数と規模を増大させてきている。だがこれらの部分でさえ,経済生活の全分野と比べると,依然として小さく,そして散らばっている (pp.84-85)

 

 ロバートソンの市場社会にたいするアプローチは現実主義的であり,現在生じている事態を,何か理想的な社会状態と比較して論じるというスタンスをとってはいない。むしろ,大海のなかで散在的に成長を遂げてきている大企業,企業合同という存在を客観的に受け入れており,それらを批判する論調は認められないのである。

  ロバートソンは,資本主義システムのもつ長所として,以下の諸点をあげている。

 

  (i) 世界の多数の経済活動がこのもとで民主化される。

   (ii) 個人の判断・イニシアティブ・勇気に大きな希望が託される。

   (iii) 生活および所得の双方を思うままに使う自由がある。

   (iv) 消費者の欲望が,規則的かつ豊かにかなえられる。

 

 他方,資本主義システムのもつ欠点としては,以下の点 最重要視されているのは(iii) があげられている。

 

  (i) お金で表現されない欲望は満たされない。金持ちの贅沢は貧乏人の切望よりも生産資源を強 く引き付ける。

   (ii) マーケティングのもつ無駄。

   (iii) 自発的協同機構の部分的崩壊(不況)の定期的な発生

 

  こうした資本主義システムにたいし,われわれ改革者は何をなすべきであろうか。ロバートソンは資本主義システムを客観的に理解することに甘んじているわけではない。彼はそのうえで,資本主義システムの改善を図ろうとする改革者たらんとしている。これに関連して,ロバートソンは次の2点を指摘している。

 

   (i) 希望的側面:資本主義システムには,さらなる多様化および実験(産業的権力の一部の人々へ    の集中を緩和し,平均化する努力)の余地が,数多く残されている。

   (ii) 警告的側面:「この困難なゴール[産業のコントロール]を追求するさいに,価格と利潤,信頼    と期待というデリケートなメカニズム(すべてを指導する単一の知性のルーティン命令・操    作命令にたいして、現在われわれがもつ唯一の代替物 それは不完全なにわか作りのも    のであるが)の達成を無視したり,その運行を損なうことがないようにする責務が, 改革者に    はある」(p.88)

 

  また次の文章は,ロバートソンのスタンスをよく表している。産業のコントロールの改善とは,人間の絶えざる努力のなかからもたらされる必要があり,事実, 現実の社会で試行されている様々な実験に彼が注目するのも,この視点に基づいている。

 

言葉の最も完全なる意味において,産業のコントロールは,どこか秘密の棚にそれを安置している一団のスーパーマンからもぎとられるものではなく,人間の絶えざる技術的達成という粘土から苦労して築き上げられ,そして人間の激しい必要と欲望という騒然とした雰囲気のなかから用意されてくる必要がある (p.87)

 

 実際,第8章以降では,主として(i)に言及の, 現実の社会で試行されている数多くの実験(消費者協同組合,生産者協同組合など),主題的に検討されている。

 

  B. 第2の特性 資本主義の黄金律

 ロバートソンがあげる資本主義の第2の特性は,「リスクのあるところにコントロールは存する」― リスクを負う者がコントロールの権利を有している という原則であり,「資本主義の黄金律」と名付けられているものである。

 しかしながら, こう述べた後, ロバートソンは直ちに,現在の資本主義システムはこの原則を次の3点において浸食している、との指摘に移る。

 

  (i) 所有(株主)と経営(経営陣)の分離 危険は株主が負担し,コントロールは経営陣が掌握し   ているという事態の出現。

  (ii) 産業のリスクの若干を負うが,産業のコントロールのいかなるシェアも所有してはいない種    々の階層 生命保険会社や投機家 の出現。

   (iii) 産業のコントロールのいかなるシェアも所有することはないが,重要な種類のリスクを負う    多数の人々 労働者。

 

以上のなかで,ロバートソンがとくに問題視しているのは(iii)である。

 

失業というむち打ちを受けてしまった数千の人々や,その影の下で生活している数百万の人々にとって,資本家は産業の唯一のリスクを負い,そしてそれゆえに当然,唯一のコントロールを揮えるという言明は, きつく,そして挑発的な皮肉に思われる (p.91)

 

 労働者は3種類のリスクを負っている,とされる。

(i) 勤務先の会社がつぶれるかもしれないというリスク。

(ii) 当該製品が需要のシフトや技術進歩により衰退するというリスク。

(iii) 不況により失業するというリスク。

 

 「資本主義の黄金律」をめぐるロバートソンの結論は,コントロールのどのような委譲計画も,リスクの委譲を同時に準備しないかぎり,確実なものにはならない,というものであった。そして,資本主義は,ある重要な点で自らの黄金律を破壊している (i) 株式会社という所有と経営の分離現象,(ii) 資本主義の最悪の疾患である不況の[その最も醜悪なリスクを背負う人々の,産業のコントロールへのいかなる参加も排除することによる]深刻化 との認識が続く。産業の改革者としてのロバートソンは、そこからインスピレーションを引き出そうとしている。

 

 C. 第3の特性 差別化の先鋭化

 資本主義システムの第3の特性として指摘されているのは,命令を下す人と下された命令を遂行する人への社会的分化という現象であり,「差別化の先鋭化」と称されている。

 

それ[大規模産業],所有・計画・コントロールする人々と[与えられた]命令を遂行する人々とのあいだに引き起こす差別化の先鋭化…それ[差別化],機械と工場システムにより,疑いもなく先鋭化され,目立つようになった (p.95)

 

産業技術進歩の一般的効果は,思考と労役の分離を より広範な社会的・政治的視点からいえば,そのような分離が最も憤激を買い,そしておそらくは最も危険になる, まさにその時に 加速化するということであるように思われる (p.97)

 

(典型的な株式会社のメカニズムは)また,産業の実質上の指導者が株主からの受託者であるため,労働者との交渉において,もはや全身全霊において彼らの主人ではない,という社会的な不利益を有している (pp.97-98)

 

未熟練労働者にとって,益々の差別化という潮流は,ほとんど防ぎようのない趨勢である。そして彼のはるか上方のいずこかで,これまで分割されてきた機能が1人の強力な手の元に集約されてきているという事実は,彼の生活を規定する諸力からの彼の疎外感を増加させるのに役立つだけである (p.98)

 

 ロバートソンが,現代産業システムにみられる労働者の疎外感に重大な関心を寄せていることは,以上から明瞭であろう。

 

3.改革の方向を求めて

 資本主義システムのなかで進展してきた企業の大規模化,ならびにそれらの統合化に注目したうえで,資本主義システム全体についての評価を終えたいま,ロバートソンが残る諸章で検討を加えるのは,これらの検討のなかで明らかにされてきた資本主義システムの欠陥の是正策である。それは少数の手に産業的権力が集中することによりもたらされる問題を,消費者や労働者の側が権利を獲得していく方法を考案することで,是正しようとするものである。第8章では, 消費者との関連で消費者協同組合が検討され、続く第9章では, 集産主義(コレクティヴィズム)と共産主義が検討されている。ここでいう集産主義は, 国家によるビジネスの所有・経営を指しており,価格と市場という手段は保持されている。また共産主義は, 国家によるビジネスの経営ではあるが,利得計算の無視されたシステムである。

 ロバートソンは,集産主義的組織が有益な役割を果たしうる産業の領域を指摘し,その長所・短所をめぐり詳細な検討を行っている。

 

かくして自由企業の故郷は,共産ロシア以外では,並ぶもののない規模での積極的な国家によるコントロールを実験してきた。そのような取り決めは,表面的には資本主義の黄金律をかなり侵害している。アングロ・サクソンの現実感覚は,これまでそれらが深刻な摩擦を引き起こすことなく運営されるのを可能にしてきた。だが,それらがビジネス組織の安定的な形態を表すものなのか,それとも巨大な権力を獲得している国家がまた所有のリスクを究極的に負う必要はないのか,の判断を下すには時期尚早であろう (p.126)

 

 共産主義については,ロバートソンはその部分的適用の可能性について,長所・短所を指摘しつつ検討を加えている。ここにあってはロバートソンは,価格と生産費のシステムを無視するかたちの全面的な共産主義にたいしては, 否定的な結論を下している。

 ロバートソンは,さらに第10章で,労働者による生産者協同組合,サンディカリズム,ギルド社会主義といった代替的な企業組織について,また第11章では共同コントロールをめぐる試みについて, 様々な検討を加えている。

 かくして「改革者」ロバートソンの結論は,次のような言葉で締め括られている。それは,市場システムを維持しつつも,民間企業の是正のみならず,様々なかたちでの集産主義や協同組合等の充実を通じ,「差別の先鋭化」ならびに「リスクとコントロールの現状」の是正を目指す必要性を唱えるものである。

 

今後も長年にわたって,民間企業が産業組織の支配的な形態であることは,確実であるように思われる。だが,民間企業が無秩序でなくなり,より秘密主義的でなくなり,より専制的でなくなること,そして経済の不安定性や転位をもたらす盲目的な力にたいする真のコントロールを達成する決意をより強くし,公衆のテーブルにその金融的カードをもっとおくように用意し,命令を遂行する幾百万の人々の自発的本能を尊重し,それを産業のサービスに活かすように進んで努めるべきこと, を希望し主張するのも, また合理的であるように思われる。そしてその傍らには,選別された領域での集産主義,ならびに協同組合や生産組織の自治組織…のための多くの空間が存在している(pp.162-163)

 

. 「経済の見通し」(1947)

 

  1.  自由主義的干渉主義(もしくは懐疑的自由主義)

 ロバートソンは, マーシャル=ピグーに代表される「ケンブリッジ学派」の社会哲学 そしてそれはロバートソンの社会哲学でもある ,「経済の見通し」(Robertson,1947. 以降、EOと略記)において描写している。4

 それによると,ケンブリッジ学派の社会哲学は,私有財産と経済的自由のシステムを是認するものであり,根底において経済的自由主義を標榜している。ケンブリッジには, 伝統的に2つの基本的な信条5があり,その1つは,「人間の知識の限界,および人間の予測の可謬性」である。そのため,このきわめて不確実な世界にあっては,資源の利用にさいしてできるだけ責任(意志決定の権力)の分散していることが望ましい,とされる。意志決定の分散は,自由主義哲学の指導理念の1つになっており6, 全産業あるいは全地域は,単一の決定センターの予見や判断に依存すべきではない。分散は,行政的効率性を促進する工夫であるのみならず,すべての卵が同じバスケットに入らないようにすることを確実にするレシピと考えられたのである。

 しかしながら同時に, ケンブリッジ学派の社会哲学は「経済的自由」が無制限に行使されることで,市場社会には様々な弊害が生じていることを鋭く意識するものであり,これらの弊害に対処すべく,「思慮分別のある国家干渉」が求められたのである。次の一文は,以上のスタンスを鮮明に表明している。

 

われわれは,私有財産と経済的自由のシステムに代わるものとか,あるいはそれを縛り付けること…を考えるよりも,むしろそれを修繕する(tinker)ことを考えるように,教えられた (p.44)

 

 事実,1910年代・20年代のケンブリッジにあって,再分配的課税,社会保障政策,労働市場組織の改良,貨幣・金融分野での中央のリーダーシップ,いくつかの分野での経済活動における公的運営,といったテーマはおはこであり,景気変動を緩和するための政府の政策についても然りであった。

 

 先ほど,ケンブリッジ学派の社会哲学は,根底において経済的自由主義を標榜するものである,と述べた。しかしながら実は, この根底にたいするロバートソンのスタンスは,非常に微妙なニュアンスをもつものになっている。というのは明らかに,彼はこの経済的自由主義を「心底」信じているとか,それの堅固な唱道者というわけではないからである。いわば,「懐疑的自由主義」(もしくは「分裂症的自由主義」)とでも評すべきものであり,経済的自由主義にたいしかなり弱々しいスタンスを表明しているからである。この点を象徴的に示すのが次の一文である。

 

血液中にリベラルなウィルスをもつが,さりとて砂漠とか荒野に放り出されたくはないわれわれ(p.47)

 

  ロバートソンは,リベラリズムを「ウィルス」7と表現し,むき出しの競争を「砂漠,荒野」と表現している。いずれも,ロバートソンがもろ手をあげて賛成するという姿勢からはほど遠いことを示唆する表現である。リベラリズムはウィルスであるが,さりとて,それはわれわれの体内をすでに貫流しており,いまさら排除することもできない。他方,むき出しの競争が支配する社会は,砂漠や荒野のようなものであり,われわれはそのような状況を好むものではない。ロバートソンがリベラリズムを「ウィルス」と表現するのは,それがもはや陳腐化したもの,古い体質を有するものであるということを,彼自身,否定できない心境におかれていたからである(本当によいと評価するものを,誰も「ウィルス」とは呼ばない)。少なくとも,そう考え,そう感じるもう一人の「ロバートソン」がいる。だが, ― と,経済的自由主義を信奉するもう1人のロバートソンはいう 根底的な社会哲学としてはリベラリズムが措定されねばならない…。

 ロバートソンの自由主義 彼はそれを「自由主義的干渉主義」(liberal interventionism)8と名付けている , そうした葛藤のもとにおかれている。

 

2.自由主義経済か計画経済か。

 論文「経済の見通し」(1947),戦時体制から平和体制への転換にさいして,どのような経済システムが目指されるべきかをめぐり人々の大きな関心が寄せられていたときに執筆されている。その転換において,「国家計画」と呼ばれるものの必要性が声高く唱道されるようになっているなか,これにたいするロバートソンの疑義が表明されている。

  ロバートソンの基本的な問題設定は次の通りである。

 

[この論文]が目指そうとしている問題は,まさに,[移行期と戦後の正常期という]対照性を描くことに依然として意味があるのか,それとも戦争によってわれわれの経済に引き起こされた,もしくは陥れられた傷害は非常に深くて持続的なものであるため,一時的なものと永続的なものという識別は われわれの気質に応じて,安堵の念をもってか,あるいは後悔の念をもって スクラップの山に放擲しなければならないものとしていまや立ち現れているのか,である (p.47)

 

 現在,価格メカニズムはほとんど機能していない。これは戦時経済という一時的な事態から生じているのか,それともこれが常態という事態が出現しているのか,という問題である。

 ロバートソンは,『タイムズ』誌に投稿された手紙に記されている次の考えに同意しているところからも明らかなように,価格メカニズム,もしくは市場経済の漸次的復活を願うスタンスに立っている。

 

もし,賃金が上昇し,必需品にたいする支出が補助金によって引き下げられるならば,彼の余剰購買力は非-必需品以外のどこに使えるのであろうか。価格メカニズムは機能していない…。われわれは一撃のもとに価格システムを回復させることはできない。しかし,われわれはそれに向かって動いていくことはできるのであり,それから離れていくことはできない。それが自由社会で労働を指図する唯一の方法であり,またいかなる社会にあっても比類のない最も有効な方法なのである (p.58)

 

 またロバートソンのスタンスは,ロビンズが『平和と戦争における経済問題』で示した以下のような見解9に同意をみせているところからも,うかがい知ることができる。

 

 (i) 戦時にはただ1つの目的しかなかったが,平和時には多くの目的が出現してくるという相違がある。その解決は市場に委ねられる必要がある。

 (ii) だが自由政策は積極的な側面を打ち出す必要がある。経済動機の影響を是正するために, 政府のはたすべき役割・余地は種々存在する。

 (iii) 戦時統制の拙速な解除,レッセ・フェールへの拙速な回帰よりも,膨れあがった諸計画の再考,および市場メカニズムの加速度的増大が必要である。

 

  だが,上掲のロビンズがいうように,移行期と平和期の違いに依拠して論じてよいのであろうか。ロバートソンはその点に確固たる自信をもつには至っていないようであり,自由主義的干渉主義と計画経済の相違が質的なものなのか,それとも程度問題にすぎないのかは, まったく明らかではない,と述べている。明らかにロバートソンには,次の一文が示すように, とまどいと不安が認められる。

 

[自由主義的干渉主義のもとで育ってきた]われわれは,支配的な風潮[計画経済]にたいし,どこまで誠実に, われわれの考えや教えを順応させることができるのであろうか。そしてそうすることに失敗するかぎりにおいて,われわれは,砂漠にたたずむフクロウや荒野にたたずむペリカンのようなスタンスをとり,過去を賞賛し,破滅を予言するしかないのであろうか (p.46)

 

 このような戸惑いと不安をみせつつも,ロバートソンは, 他方で,現在支配的な潮流となっている計画経済的思考にたいし批判的姿勢をみせるとともに,こうした傾向に自分は与し得ないことを これまでみたきたことから推察されるように, いささか弱々しい論調で 論じている。この点に関連して,2人の論者 ヘンダーソンとフランクス の見解とそれにたいするロバートソンの感想をみることにしよう。

 ヘンダーソンは,計画化の本質を,相当な将来にまで及んで正確な数量的計画を策定することとみており,平和時に,そのような計画が有益な行動手段として機能することを期待できる範囲を調べようとした。10ロバートソンはこのヘンダーソンの見解にたいし,次のような感想を述べている。

 

私の趣向からして,[ヘンダーソン],自由システムのもつ積極的なメリットを軽視しすぎており,それに代わるものとしての彼の貧弱な武器にあまりにも依拠している,との印象をもった (p.49)

 

 フランクスは,計画経済の本質を,計画のかたちで数量的に表現された政策決定,ならびにこれらの計画の遂行を確実にするのに個々の場合に必要とされるかもしれないような方策の決定にある,と考えている。11これにたいするロバートソンの感想を示す次の言葉には, 彼の心境がうまく示されている。

 

その道[価格システムの回復への道]に沿って動くことを試みるまでは,とにもかくにも私は,フランクス的な共同体主義(corporatism)という, 縫い目のない衣装が唯一の,もしくは最も効率的な衣服である, と認める気持ちにはなれない (p.58)

 

 ロバートソンは,自由主義的干渉主義に立っている。だが他方で,自由主義を「ウィルス」と評価するロバートソンがいる。そして計画経済には批判的なのだが,かといって,もしかすれば,戦時経済で生じた経済現象は一過性のものではなく,不可逆的なトレンドなのではないかとの疑念をもつロバートソン ケンブリッジの社会哲学のもとで思索を続けてきた,真摯な, そして疑念に振り回された経済学者 がいる。

 彼は正直である。様々な迷いが表明されることで,資本主義システムにたいするわれわれの認識は― そこから確定した方向を与えられることはないが システムが抱える多くの問題を考察するうえで必要となる鍵を提供されている。

 

. 補論:経済学者ロバートソンのスタンス

 

 本章では,ロバートソンの市場社会観をみてきたが,ロバートソンがどのような経済理論を有していたのかについて補足的に言及しておくことにしよう。そのために,1937年に発表された論文「景気循環 アカデミックな見解」と, その10年後に出版された『貨幣』(1948年版)の第8章「景気の問題」を取り上げることにする。

 経済学者としてのロバートソンの中心的な関心と業績が,景気循環にあったことは,周知の事実である。ロバートソンにとって景気循環という現象は,人間が物質的進歩を達成しようとする努めることに伴って生じる不可避的な断続性に根差したものである(利子率は重要な問題点ではない)。そのさい,企業規模の大規模化という既述の認識は,彼の経済分析にあっても本質な位置を占めている(そして経済の変動には「適切な変動」と「不適切な変動」があり,前者は良好なリズムであって干渉すべきではないが,後者は政策的な抑制が必要であるとの見解が,主著『銀行政策と価格水準』(Robertson, 1926)で表明されている)。当該論文でのロバートソンの基本的なスタンスは,次に示される通りである。

 

産業変動にあっては,われわれは資本主義的産業の 資本主義的であろうとなかろうと,おそらくすべての現代的な産業の 特性に非常に深く根差した困難な問題に直面している。私自身は,それを解決できるとは思っていない[,]その結果を緩和することはできると思う。だが,もし有効に緩和すべきだとすれば,より深い困難は好況の爆発ではなく消滅であることを最近発見した人々[ロバートソンもここに入る],ロビンズ教授のコルセット[不況を起こさないためには好況を起こさないようにすること。好況になったときには利子率を上げるべし],自らの発見にうぬぼれて,軽蔑するほどまでに思い上がるべきではない。また好況時にコルセットの使用を唱道する人々は,不況はまったく防止の可能なばかばかしさや強欲によるものであることを分からせようとしたりすべきではないし,また民間企業が,その究極の回復力や適応力にもかかかわらず,その前進の後に残すのを回避すべく学ばなかったし,おそらくは学ぶことができないであろう峡谷を埋めるのに,公的企業が果たせる役割を不当に制限しようとすべきではない。そしてもし,ある循環的失業が,依然として進歩の対価であることが判明するのであれば,一方はそれをシステムを叱咤する鞭として使用するのを止めるようにしなければならないし,他方はその犠牲者にたいする寛大な処置が引き起こすかもしれないいかなる不幸な副次的効果についても無益な不満をいわないようにしなければならない (p.131)

 

 ロバートソンは,好況と不況は, 洪水と干ばつのような両極端に位置する悪ではない,と述べる。そのようにみせかけようとしても無駄である。景気変動そのものは , ロバートソンはいう ,現代の経済システムの本性に根ざすものであり,根本的になくすことは不可能である。だが,好況と不況のいずれが問題かといえば,好況が消滅することにあるから,好況の消滅を防止しようとする政策には一定の意義がある。その意味で,彼は不況期に政府が失業対策をとることに賛意を示している。

 

基本的には,好況についての困難は,それが生じないということではなく,それが止まるということである。それが爆発するとき遺憾である。だが,たとえ爆発しないとしても,それが消滅するときも同様に遺憾である。好況の高みにあるときですら,爆発をいかにして防止すべきかのみならず,消滅に直面しているときに 爆発が起きようと起きまいと いかにして活性化すべきかについて考えていくことは正しい (p.128)

 

 続いて, この論文のおよそ10年後に刊行された『貨幣』の第8章にみられるロバートソンの基本的な経済政策のスタンスを示すことにしよう。

  そこでは,景気循環に関連して,金融政策としてどのような手段を用いることができるのかについて,主として好況時の局面に焦点を合わせて論じられている。だが金融政策だけでは経済の好況・不況に対処するには不十分であり,政府による他の政策手段の遂行が不可欠である。貨幣は従者であって主人ではない。社会の真の経済的悪弊である不十分な生産と不平等な分配という問題は,金融政策で治癒できる性質のものではない。金融政策だけでは,企業家にたいし十分なインセンティブを与えることも,また額に汗して働く人々にたいし心の平和を提供できるような産業システムを与えることも難しい,とロバートソンは述べている。

  第8章では,借入れ需要(これは流動資本と固定資本のために用いられる),公衆の貯蓄+銀行システムの貸付けで,基本的なモデルが考えられている。好況時に借入れ需要が過度になることで物価の累積的上昇が生じるが,それをコントロールする方策が,金融政策手段を中心に種々検討されている。また逆に,不況期に対処する方策として,銀行システムが投資や消費者信用の供与に積極的になることが勧められ 公衆の貯蓄意欲が非常に高く,民間産業が解放された生産諸力の対処に苦しんでいるときに,政府が貨幣システムを利用して介入することほど意義ある方策はない,とされる ,さらに財政政策の必要性 中央政府が電話設備にたいする全体的な需要を組織化したりすることは,民需の落ち込んでいる時期にあってこれほど意義ある方策はない,とされる も強調されている。これは, I+G(Iは投資,Gは政府支出)を積極的に増大させようとする政策である。

 こうした政策的スタンスは,ケインズのそれと変わるところがないという印象をもつ。 いずれも貯蓄と投資の関係で 経済をみているからである。

 

 

  1) この点でケインズとも,またホートリーとも対照的である。

 2) この点で,第Ⅱ節で検討を加えるRobertson(1947)とは対照的であり,挑発的かつ断固たるスタンスをとっている。

  3) ホートリーよりもロバートソンの理論の方が取り上げられる機会は多い。青山(1953),菱山(1965),Presley(1978)をはじめとして,下平(1996),小原(1997;1998)等をあげることができる。だが,ロバートソンの社会哲学を主題とする文献はほとんどみうけられない。このことはFletcher(2000)でも妥当する。『銀行政策と価格水準』については,さしあたり平井(2003, pp. 111-116)を参照。

  3) この経緯については平井(2003, pp.243, 247,310, 558)を参照。『一般理論』刊行の頃の,ロバートソンの基本的な考えについては,Robertson(1937) ただしケインズへの言及はない が有益である。

 4) ただし,ロバートソンはピグーを自らに引き寄せてとらえている。第Ⅰ節で明らかなように,ピグーはロバートソンよりも社会哲学的にみて社会主義寄りである。

  5) EO, p.45. なお,もう1つの信条は「進歩は主として,人間性の最高の力のみならず,最強の力が社会的善の増大に利用できる範囲に依存している」である。

  6) EO, pp.45, 51, 52を参照。

  7)「自由主義という虫(bug)の羅災者たるわれわれ」(EO, p.48)という表現も,同様の雰囲気を漂わせている。こうした表現を多用するロバートソンの性格分析については,Fletcher (2000, Parts 1 and 2)を参照。

  8) EO, p.51.

  9) ロビンズについては,経済部(Economic Section)での活動を念頭におく必要がある。平井(2000, 補章2)を参照。

  10) EO, p.48を参照。ヘンダーソンの経済思想については小峯(1999;2003)が詳細かつ有益である。平井(2000, 補章2)も参照。

 11) EO, p.53を参照。