2013年7月25日木曜日

『論理哲学論考』 (ヴィットゲンシュタイン) 考 by T. Hirai


『論理哲学論考』 (ヴィットゲンシュタイン) 考
Tractatus Logico-Philosophicus

by T. Hirai

この特異な叙述形式は、ベーコンの『ノヴム・オルガヌム』の「アフォリズム」と似ている。
1.「日常言語」、「(写) 像」、「ヴィトゲンシュタイン流の形式論理学」・・・この3つが、『論理哲学論考』を貫流している。
   通常の理解では、「(写) 像」と「形式論理学」が『論理哲学論考』の特徴、つまりは前期ヴィトゲンシュタインの特性として強調され、「日常言語」という特徴は捨象されることが多い。だが、それは誤りである。
   おそらくはヴィトゲンシュタインは後期になると、「(写) 像」と「形式論理学」の箇所を捨てて、「日常言語」を重視した、いわゆる「言語ゲーム論」を全面的に展開していったのではないだろうか。

2. この書のなかには、日常言語にたいする重要な認識はすでに存在する(4.002、3.323)。
これは、すでにラッセル的な論理原子論 (logical atomism) 的認識とは異なるように思われる。
    この書を、ラッセル=フレーゲ流の著作として(のみ)とらえるのは、たしかに誤りである。『哲学探究』につながる道が見え隠れしている。

  例えば、次の箇所
   「言語において自ずから姿を現しているもの、それをわれわれが言語で表現することはできない。」(4.121)

  この意味だが、例えば「ネコ」を言語で定義することは、いかにしてもできない。
  しかし、「自ずから姿を現している」。ある意味で、この認識は、プラトン(あるいはソクラテス) と共通するものがある。プラトンは、われわれが目でみるものについてはそれを「仮の姿」と考え、「ネコ」そのものという「真実在」の存在を、「あの世」(真実界)に想定した。これにたいし、ヴィトゲンシュタインは、この問題を日常言語の特性として捕捉しようとした。解決法は異なるが、問題認識は似ている。

  次のような発言は論理的原子論と明確に対立する。
  「われわれの日常言語のすべての命題は、実際、そのあるがままで、論理的に完全に秩序づけられている。」(5.5563)
  「哲学者たちの発するほとんどの問いと命題は、われわれが自分の言語の論理を理解していないことに基づいている」(p.40)。
      「すべての哲学は「言語批判」である」(4.0031)
     「人間は、各々の語が何をどのように指示しているかにまったく無頓着でも、あらゆる意味を表現しうる言語を構成する力をもっている。-ちょうど、個々の音がいかに発せられるかを知らなくとも喋ることができるように。
 日常言語は、人間という有機体の一部であり、他の部分に劣らず複雑である。日常言語から言語の論理を直接に読み取ることは人間には不可能である。
   思考は言語で偽装する。すなわち、衣装をまとった外形から、内にある思考のかたちを推測することはできない。なぜなら、その衣装の外形は、身体の形を知らしめるのとはまったく異なる目的で作られているからである。
    日常言語を理解するための暗黙の取り決めは途方もなく複雑である。」(4.002)

日常言語は不完全なものであり、それを「理想言語」によって置き換えねばならない、というのはラッセルの見解であるが、上記にみられるように、そうした立場はヴィトゲンシュタインによってとられてはいない。 
3.(写) 像という認識 (4.01) はこの書において重要なものである。
「命題は現実の像である。命題は現実にたいする模型であり、そのようにして
 われわれは現実を想像する」(4.01)

     「命題は現実の像である - なぜなら、命題を理解するとき、私はその命題が
   描写している状況を把握し、しかもそのさい意味の説明を必要としたりはしないからである。」(4.021) 

     「命題は、それが真ならば、事実がどのようであるか・・・を示す。そうして事実がかくかくであるということを語る。」(4.022)
      
      「命題は、あとはイエスかノーかを確かめればよいというところまで、現実を確定しているのでなければならない。」
      
     「一見したところ命題は - たとえ紙の上に印刷されている場合など -、それが表している現実にたいして像の関係にあるようには見えない。しかし、楽譜もまたみたところ音楽の像にはみえず、われわれの表音文字(アルファベット)も発話の音声にたいする像になっているようには思われないのである。それでもこれらの記号言語は、それが表すものにたいして、普通の意味でも像になっていることが知られよう」(4.011)

  「論理学は学説ではなく、世界の鏡像である」(6.13)
4.他方において、形式論理学的な考えも濃厚に認められる。
「要素命題」、「真理値」等々。
  この領域において、ラッセル=フレーゲの形式論理学の影響を受けている。しかし、この領域においてすら、ラッセル=フレーゲ批判(誤り、不十分などの指摘)は、相当多く認められる。
   またラッセルの「序文」について、ヴィトゲンシュタインは非常に多くの誤解がみられる、とラッセル宛に語っている。

  「命題は、要素命題の総体から(そしてもちろん、それで要素命題がすべて尽くされているということも含めて、そこから)導かれるものですべてである。(それゆえひとは、ある意味であらゆる命題は要素命題の一般化であると言うことができる。)」(4.52)
    「すべての真な要素命題の列挙によって、世界は完全に記述される。世界は、すべの要素命題を挙げ、さらにどれが真でどれが偽かを付け加えれば、完全に記述される」(4.26)
  「論理学の探求とは、[可能な]すべての法則性の探求にほかならない。そして論理学の外では、いっさいが偶然的である。」(6.3)
 
5.この書が「ウィーン学団」によってバイブル視されたのはなぜか。論理実証主義の立場をこの書がとっているとは思えないからである(この書はガチガチの形式論理学の書ではないし、他方、実証について何かを語っているわけでもないから)。

6.「言語ゲーム論」・・・これは『哲学探究』の中心テーマ。言語とはゲームのようなものである。ゲームというコンセプトには、トランプ、縄跳びもあればサッカー、野球もある。これら全部に共通するものを見出すことは困難である。しかし、あるもの同士には共通するものがある。われわれの言語とはそういう性質を有するものである、という認識、これが「言語ゲーム論」のいおうとすることである。
 「数学の問題を解決するのに直観は必要か。この問いに、ひとはこう答えねばならない。言語こそがここで必要とされる直観を与える。」(6.233)
7. 帰納法について
「いわゆる帰納法則は、およそ論理法則ではありえない。というのも、それは明らかに有意味な命題だからである。それゆえまた、それはア・プリオリな法則でもありえない」(6.31)。
  「帰納的探求の核心は、われわれの経験と一致しうるもっとも単純な法則を採用するという点にある」(6.3631)
8. 「世界は私の意志から独立である。」(6.373)
9. 「倫理が言い表しえぬものであることは明らかである。倫理は超越論的である。(倫理と美はひとつである。)(6.421)
10. 語りうること以外は何も語らぬこと。自然科学の命題以外は - それゆえ哲学とは関係のないこと以外は - 何も語らぬこと。」(6.53)
11. 「だがもちろん言い表しえぬものは存在する。それは示される。それは神秘である。」(6.522)
12. 「語りえぬものについては、沈黙せねばならない。」(7)
(参考メモ)
 「ヴィトゲンシュタインはなぜ『論理哲学論考』の立場を捨てなければならなかったのか。理由はほかでもない、像の理論および真理関数の説という、二本の支柱に重大な欠陥のあることを自覚したからである。1932年の七月、彼はワイスマンにこう語っている。「私は『論考』では、論理的分析と直示的説明のことがよくわかっていなかった。私は当時、<言語の現実との結合>というものが存在すると考えていたのである。」… つまり、世界と言語の結び目として要素命題がある、その構成要素である単純記号は言語外の現実に属する諸対象とじかに対応づけられる、そして論理的分析とはあらゆる命題をこういう要素命題の真理関数的な結合に書きかえることである、という『論考』の基本見解が、この段階ですでに捨てられている。」 (黒田、p.28)

   言語     要素命題        世界(現実)
          単純記号

       あらゆる命題
       (要素命題の真理関数的な結合)