2013年7月29日月曜日


 

 

『確率論』と「若き日の信条」

 

 

 19399, ケインズは「メムワール・クラブ」で「若き日の信条」(Keynes, 1939a.以降,MEBと略記)を読み上げた。遺言に基づき公表されたこのメモワールは、爾来いろいろな角度から注目を集めてきた。これほど多くの関心を引きつけてきたのは,何よりもそれが、(i)「ケインズ革命」を引き起こした経済学者による唯一の思想的遍歴,()ブルームズベリー・グループの中心メンバーによる倫理的遍歴,()ケンブリッジの哲学ミリウの一員による貴重な哲学的遍歴,の表明であるからである。

 1980年代以降,資料の公開にも促され,「哲学者ケインズ」をめぐる真摯な研究が積み重ねられてきた。そしてこの研究は、『確率論』(Keynes,1921.以降,TPと略記)として展開された「若き日の哲学」がその後の「経済学者ケインズ」をいかに規定したのかという観点から,ケインズの業績をとらえ直そうとする動きを伴った。このさいに立ちはだかる大きな壁がある。20代に最も多くの知的エネルギーを注ぎ込んだ彼に, その後,この領域に関する論文がみあたらないという事実である。そのため,研究者は「経済理論家・経済政策論者」ケインズの論述のなかに,その哲学的痕跡を追うという困難な作業を強いられることになる。こうした状況下,ほとんど唯一 残されているもの, それが「若き日の信条」である。

 本章の目的は「哲学者ケインズ」について,「若き日の信条」で語られていることは,どの程度,自らの哲学的・倫理学的遍歴を反映したものかを検討することである。そのため、最初に『確率論』の理論内容を調べる。続いてその後の彼の哲学的足どりを、ラムゼイによるケインズ批判とケインズの受容を中心に辿る。そのうえで,「若き日の信条」を検討したうえ,「哲学者ケインズ」と「経済学者ケインズ」の関係をめぐるいくつかの問題点をみることにする。

 

. 『確率論』のスタンス

 

 「哲学者ケインズ」が陽表的に、そして全面的に現出しているのは、『確率論』だけであるから、その理論内容を記すことから、本章は始めなければならない。

 『確率論』に大きな影響を与えた人物は3名いる。ムーア,ラッセル,ジョンソンである。まず,ケインズが「確率論」研究を始める契機を与えたのは, ムーアの『倫理学原理』(Moore, 1903)である。「若き日の信条」では,青年期に『倫理学原理』の「宗教」を受け入れ, 「道徳」を棄却したと語られているが,『確率論』との関係では第5章が重要であり,19041月に「ソサエティ」で発表された同章をめぐる批判的エッセイ「行為に関する倫理」を嚆矢とする。1次に大きな影響を受けたのは,ラッセルの『数学原理』(Russell,1903),およびホワイトヘッド=ラッセルの『プリンキピア・マテマティカ』(Whitehead & Russell,1910)である。これは『確率論』の第Ⅱ部「基本定理」に明らかである。もう1人はジョンソンだが,第Ⅱ部に関連して,当初独立して研究は始められたが, 途中で多くの意見交換がなされ,その成果が取り入れられた。2以上のような影響のもと,ケインズは自らの辿った道を次のように表している。

 

私が最初にこの主題[確率論]に歩を進めたのは, 確率は関係であるとの仮説に立って, この主題の基本定理を証明しようとする試みを通じてであった。『確率論』の残りの部分は,確率を形式論理学の一分野として扱うという願いが最初に引き起こした一連の問題を解くという試みから生じた (TP, 125)

 

  何よりも『確率論』は確率的世界での認識論的・論理学的探究を目指したものである。以下では、『確率論』の重要な論点― 確率の定義、確率は客観的か主観的か、対象領域、帰納法正当化の論法―に焦点を合わせてみていくことにする。

 

  1.確率の定義

  確率は「命題間の合理的信条の度合」と定義されている。用語の厳密な定義, その形式論理的展開はムーアやラッセルに従っている。基本的考えは次の一文に明瞭である。

 

…われわれが知っているという命題(例えばq), われわれがある確率的度合(例えばα)の合理的信条をそれにたいして有しているという命題(例えばp)と同じではない。われわれの信条を基づかせるところの前提をhとすれば, そのときわれわれが知っているということ,すなわちq, 命題pが一組の命題hにたいし度合αの確率関係にあるということである。…pのような確率関係についての主張を含まない命題を「一次命題」,確率関係の存在を主張するqのような命題を「二テキスト ボックス: 表1
  q(二次命題)

    α
 h  → p
    (一次命題)

次命題」と呼ぶ…(TP,11)

 

 「前提」hと「命題」pαという合理的信条の度合(確率)の存在することを認識することが「知る」ということであり,これが「二次命題」である。これにたいし「一次命題」は確実な合理的知識である(表1を参照)3)

 「合理的信条」と「非合理的信条」は峻別されており,『確率論』で対象とされるのは前者である。合理的信条の「度合」とは,「不可能性」と「確実性」のあいだの世界における認識の問題である。「度合」が「確実」でない状態が「確率的」とされる。命題間の論理的関係としての確率が1の場合が通常の演繹の世界であり,これを0より大きく1より小さい世界に拡張しようというのである。

 「合理的信条の度合」とは,「確率」を「合理的」な思考体系のなかで捕捉しようとする知的営為といえる。一見,「不確実性」の世界を探索しているようにみえるかもしれないが,現実に目指されているのは,この「合理的信条の度合」を論理的な関係としてとらえ,それを可能なかぎり公理論的に展開することである。4)

 この認識論にあって,確率的に知ることと知ることができないことは,識別されている。5)確率現象は,「二次命題」というわれわれが知ることのできる認識過程により捕捉できるという意味で合理的な認識である。「若き日の信条」では,青年期に人性「合理性」を深く信じていた点が繰り返し強調されている。この点は『確率論』が「人性合理性」探究の書であることと完全に符号する。

 

 2.確率は客観的か, 主観的か。

 『確率論』で扱われている「確率」が客観的か主観的かをみるさいの重要な鍵は,「一次命題」と「二次命題」を注視することにある。

 

命題についてのわれの知識は2つの方法で得られる…。知識の対象物を考察する結果として直接的に[得られる知識。一次命題],われわれが知識を得ようとする命題の,他の命題にたいする確率関係を立論(argument)によって知覚することを通じて間接的に[得られる知識。二次命題]である (TP,12)

 

 『確率論』が対象としているのは,間接的知識の方である。6)

 本論に立ち戻ると,ケインズは確率を「客観的」なものとして認識している。これが基本的スタンスである。確率のもつ主観性を否定するわけではないが7),それでもやはり確率は基本的に客観的なものという点が強調されている。

 

…われわれの合理的な信条にどのような確率を帰すことができるのかということは, それゆえ,個人にとって相対的であるという意味で主観的なものである。だが,われわれの主観的力および環境が供給する一群の前提命題,ならびに立論が依拠しわれわれが知覚する能力をもっている論理的関係の種類が与えられるとき,われわれが引き出すことが合理的であるところの結論は,これらの前提にたいして,客観的かつまったく論理的な関係のなかにある(TP,19.下線は引用者)

 

 ここでの力点は,「だが」以降におかれており,前提と命題間の「客観的」な論理的関係が強調されている。8)そしてこの関係を「確率的」領域に適用することで,人間の理性に基づく論理学的な判定のための哲学的基礎づけが目指されている。10)『確率論』の扱う「間接的な知識」は立論を通じて獲得される。その立論がかなり複雑な一連の立論で構成される場合,形式論理学的な知識が不可欠である。かくして合理的人間による公理論的体系というかたちでの認識が要請されてくる。

 

  . 対象領域

 『確率論』でいう「確率」概念は非常に幅が広い。この点は,3章「確率の可測性」で詳論されているが,基本は次の通りである ―「同じシリーズ上に並んでいる場合,数値的に計測可能な領域が存在する。他方,そこからはずれている場合にも,非数値的な確率は存在する。その場合、大小関係はある程度いえる場合とまったくいえない場合があるが、これも確率論の対象領域である」。

 『確率論』は数値的計測が不可能であることを主張したものとする解釈も見受けられるが、実際には確率は計測不可能と述べられているわけではない。確率は,計測可能であれ,不可能であれ、いずれも合理的な認識領域を対象としている。なるほど『確率論』では,計測不可能な領域にも確率概念は有効とする見解が表明されており,そうした可能性を排除する数理統計学への批判が表明されている。だが計測可能な領域は『確率論』の重要な舞台になっていることは,強調しておく価値がある。第Ⅱ部の目的は次のように表明されている。

 

第Ⅱ部での私の目的は, 第Ⅰ部[「基本概念」]での哲学的考察から出発しつつ, 確率の加法定理,乗法定理,逆確率(inverse probability)の定理,といった通常承認されている諸結果が,単純で精密な定義から厳密な方法によって導出できることを示す点にある (TP,125)

 

 『プリンキピア・マテマティカ』の影響を強く受けた第Ⅱ部は,形式論理学的な証明のオン・パレードと,それらにたいする内省的考察からなる。前者では,確率は数値的な計測が可能との前提で,各種定理の証明が(演繹的に)行われている。

 

  4.帰納法正当化の論法

 『確率論』のもう1つの大きな目的は「帰納法」の正当化である(ここでは論理学における「普遍的帰納」をみる。統計学における「帰納的理論」については,第Ⅳ節で言及)。「帰納法」は人間の認識の進展に多大なる貢献を果たしてきたにもかかわらず,論理学者はその正当化に成功していない。ケインズはこの難問に挑んでいる。分析哲学的手法に基づく演繹的・公理的分析と,「帰納法」の正当化というパラドキシカルな課題は,どのように関連づけられているのであろうか。

 注目すべきは、確率と帰納法には論理学的にみて基本的な関係のある旨が強調されている点である。

 

合理的だが決定的ではない立論を扱う論理学の部分を構成するものとしての確率…。そのような立論のうち最も重要なものは,[純粋]帰納とアナロジーに依拠するタイプである(TP,241)

 

どの帰納の価値も, 厳密に解釈されると,事実問題にではなく, 確率関係の存在に依存する…。帰納法的立論は,ある特定の事実問題はそうであるというのではなく,特定の前提にたいしそれに優位な確率が存在するのを確証するものである。この真実を明確に理解すれば,帰納法問題の解法にたいするわれわれの態度は根本的に変わる(TP, 245.下線は引用者)

 

 ここでは「確率」が命題間の合理的信条の度合と定義され,さらに「帰納法的立論」もそれに引き寄せられて定義されている。さらに帰納法とは,事実問題よりも形式論理(確率関係の存在)の問題であるとの論法が展開されている。

 つまり,各時点での確率は各前提と各結論の関係であって,次の時点での確率からは独立している。帰納とは各前提と各結論のあいだの形式論理の問題であって経験の問題ではないと断言されるのをみるとき,私は驚きを禁じえない。だが,そのようなスタンスに立つからこそ,第Ⅰ部,第Ⅱ部で展開された確率論が,第Ⅲ部「帰納とアナロジー」に直結されているのだと理解することはできる。こうして「帰納法」の問題は, ケインズ的に定義づけされた「確率」にはめ込まれたうえで,第Ⅲ部の主題になっている。

  帰納法的立論は,非常に一般的な含意をもつものであることが宣せられている。10)事実, 帰納法をめぐって展開されている最初の2(19章と第20),次のような性質をもつものであることが言明されている。

2章で行われたアナロジーと純粋帰納の原理の説明では,因果や法則の経験には何の言及もなされなかった。これまでのところ,立論は完全に形式的で,いかなるタイプの命題集合にも関連している(TP,269.下線は引用者)

 帰納法は「アナロジー」と「純粋帰納」で構成されている。このうち重視されているのはアナロジーである。ヒュームの卵の比喩をめぐる叙述―ヒューム的帰納法批判でもある―は,この2要素の意味,およびそれにたいするケインズの評価を知るうえで有益である。11)

  「事例の単なる繰り返し」である純粋帰納が立論を強化する条件は,20章「事例の多数化,すなわち純粋帰納の価値」で詳論されている。同章は次のように位置づけられている。

 

私の判断では,本章の主たる価値は否定的なものであり,有望に思われた路線が,じつは袋小路であることが判明し,われわれは「既知のアナロジー」(known analoy)に投げ返されることを示している点にある。純粋帰納は,一般的な帰納問題の根底に達するうえで,…非常に有力となる援助をわれわれに与えるものではない…(TP,261)

 

  純粋帰納とアナロジーの関係は次のように説明されている。12)

 

実験についてのわれわれのコントロールが十分に完全で,それらの行われる状況が十分に知られているとき,純粋帰納からの支援の余地は大きくない。…

 だが, われわれのコントロールが不完全で,事例が互いにどのように相違するのかを正確に知らないとき,事例の単なる数の増加は立論の助けになる。事例が完全に均一であるのをわれわれが確実に知っているのでない場合,新たな事例ごとにネガティブ・アナロジーの追加…があるかもしれないからである(TP,243)

 

 アナロジーは,いわば知識の空間的広がりであり,純粋帰納は知識の時間的広がりである。純粋帰納による一般化を独自の「確率」理解に基づいて行った後,それが成り立つためには「事前確率」の知られている必要がある,とケインズは指摘する。そして,それを提供するのが「アナロジー」であるとされる。13)

 

純粋帰納の方法が価値ある議論を支援するために有益に用いられる前に,常にみいだされなければならない事前確率は,通常のほとんどの場合,…アナロジーについての考察から得られる…(TP,265)

 

 人は知識の空間的広がりのなかで,アナロジーの考察を通じ事前確率を得るとされる。こうして帰納法は,ケインズにあって,事前確率を得る源泉としてのアナロジーに依存するところとなる。そして「既知のアナロジー」を高めていくことが科学的な方法とされる。14)

 以上を要するに,ケインズは,(i)確率をめぐる議論において最も重要なのは帰納法であること,そして(ii)帰納法は「アナロジー」と「純粋帰納」からなるが,重要なのはアナロジーであること,さらに(iii)事前確率はアナロジーにより得られること,等を明言している。

 アナロジーをめぐる基本的な議論は次のように展開されている。

 

もし何かあるコト(thing)2つの事物(objects)の双方で真ならば,すなわち,それらが同一の命題関数を満たすならば,そのときこの程度においてそれらのあいだにアナロジーが存在する。それゆえ,どの一般化g(φ,f),あるアナロジーは他のアナロジーを伴うこと,すなわち,アナロジーφをもつすべての事物のあいだには,またアナロジーfがあることを主張している。2つの事物の双方が満足する命題関数の集合はポジティブ・アナロジーを構成する。完全な知識が明らかにするアナロジーはトータル・ポジティブ・アナロジーと呼べる。部分的知識にたいしての相対的なアナロジーは既知のポジティブ・アナロジーと呼べよう。

 ポジティブ・アナロジーが類似度を測るように,ネガティブ・アナロジーは2つの事物の相違度を測る。各々が事物のうちの1つによって満たされ, もう1つによって満たされないような関数の集合はネガティブ・アナロジーを構成する。以前と同様,トータル・ネガティブ・アナロジー既知のネガティブ・アナロジーの識別が考えられる(TP,248)

 

 以上を分かりやすい事例でみてみよう。犬と猫を2つの事物とする。このとき,「あるコト」が「4本足」とすると,命題関数φ「もしAならば4本足」は,犬も猫も満たしている(犬と猫はアナロジーφを有する)。「他のコト」が「毛が生えている」とすると,命題関数f「もしAならば毛が生えている」も,犬と猫は満たしている(犬と猫はアナロジーfを有する)。このとき,命題関数の集合g(φ,f)[犬と猫は「4本足」であり「毛が生えている」]がポジティブ・アナロジーになる。知識の「完全」,「不完全」という識別だが,これは,ケインズの意味での「確実性」,「合理的信条の度合」をそれぞれ指すものと考えられる。知識が完全な場合に「トータル」,そうでない場合に「既知の」が冠せられている。

 上記にたいし,ネガティブ・アナロジー(要するに, 似ていないという意味)が対置されている。犬と猫の事例でいうと,「あるコト」が「寒がり」とすると,命題関数φ「もしAなら寒がり」は,猫では満たされるが犬で満たされない。「他のコト」が「ワンと鳴く」とすると,命題関数f「もしAならばワンと鳴く」は,猫では満たされないが,犬では満たされる。このとき,命題関数の集合g(φ, f)[犬と猫は「寒がり」であり「ワンとなく」]がネガティブ・アナロジーと呼ばれる。

 ケインズによれば,知識が完全なら,トータル・アナロジーが実現しているから,純粋帰納の登場する余地はない。他方,知識が部分的なら,純粋帰納の余地が生じる。それにより,ネガティブ・アナロジーがみいだされ,ポジティブ・アナロジーは,これがない場合よりも,トータル・ポジティブ・アナロジーに近づくことができるからである(とされる)

 以上の議論において,ケインズは知識が不完全なケース, つまり「確率」的状況を問題にしている。そのような状況下での「ポジティブ・アナロジー」は2つの事物のあいだで「あるコト」が「確率」的な命題関数の形態をとることを意味する。その確率(似ている程度)はいかにして知覚しうるのであろうか。

 アナロジーが完全であれば純粋帰納は必要ではない。この状況下では, アナロジーは「直知」によって得られる。直知はある意味で個人の内観であるが,同時にそれは万人が共有する客観的なものとされる。ケインズは,確率の機能する領域でこの直知を語っている。

 

われわれは, われわれの一般化が拡張される分野の事物が無限の独立した特性を有してはいないという仮定を採用することで,完全なアナロジーの方法, ならびにそれに近接させることができるかぎり,他の帰納的方法を正当化できる。…帰納法の使用は,有限のシステムを想定できる理由をもつものに適用される場合,正当化できる(TP,285.下線は引用者)

 

 上記において,「完全なアナロジーの方法」とは「純粋帰納」をまったく必要としないという意味であろう。知識が不完全であれば,アナロジーは純粋帰納の助けを借りて,より高次の状態になっていく。ここにケインズは,「事物の特性」(例でいえば,「四つ足」,「毛をもつ」といった特性)の数が有限であるかぎり,「完全なアナロジーの方法」(それは個人の内観による),もしくは「他の帰納的方法」(純粋帰納の助けを借りてネガティブ・アナロジーをみつけていき,完全なアナロジーに近接させていく方法)により,帰納法は正当化できる、と主張するに至る。

 この立論に感じる疑問点,もしくは特異点は次のとおりである。

 第1,「確率」はケインズ的に定義づけされ, そして「帰納法」もケインズ的に定義づけされ,そのうえで両者の基本的関係が強調される結果,帰納法は通常のものとは異なったものになっている。帰納法はアナロジー中心で語られる世界とされ,経験は無視されている。 第2,アナロジーは「確率」的な命題関数のかたちでとらえることができるとする考え方のもつ特異性があげられる。経験の世界ではなく形式論理の世界が考察の中心をなしているのである。

 

.『確率論』の後 ラムゼーによる批判の影響

 

 ラムゼーは『確率論』にたいし,論文「確率と真理」(Ramsey,1926)で根底的批判を展開した。15)そして,それをケインズは受容している。公の紙面を割いて,こうした表明を行うのは,ケインズにあって異例である。既述のように、ケインズの哲学的論文はその後発表されてはいないこともあり、そしてケンブリッジの哲学にあって重要な位置を占めるラムゼーの批判であることもあり、このできごとはこれまで多くの注目を集めてきた。以下、ラムゼーの批判のポイント、ならびにそれにたいするケインズの反応をみることにしよう。

 

 1.ラムゼーによる批判

 ラムゼーによるケインズ『確率論』批判は、主として3点で構成されている。

 第1,命題間の確率関係といったものは存在しない,という批判が来る。ケインズの「確率」の定義そのものの否定である。

 

もし誰かが一方の命題が他方の命題にどのような確率を与えるのかと尋ねた場合,私はそれに答えるために[ケインズ氏のように]これら命題を注視し,それらの論理的関係を見分けようと試みるかわりに,むしろ,私が知っているのが一方だけと想定して,その場合もう一方の命題にどれだけの度合の信頼をおくべきかを推量しようとするであろう (Ramsey,1996,83-84)

 

  つまり,ラムゼーは命題間の確率ではなく,個人がもう一方の命題に寄せる主観確率について語っている。そこには,確率とは個人による判断をめぐる問題との主張がみられる。16)

 第2,その主要な諸原理の論述においても整合性が保たれていない,という批判が来る。『確率論』にみられる確率の客観性・主観性をめぐる曖昧性を突くものである。17)

 第3, 帰納法の世界を演繹法の世界に包摂しようとする試みにたいする批判が来る。

 

…推論を正当化する論理的関係とは,帰結の意味…が,その前提の意味に含まれているということである。だが,帰納的論証の場合には,このようなことは少しも生じていない。これを[ケインズ氏のように]演繹的論証に類似していて,ただその度合が弱いものとするのは不可能である。そこでは帰結の意味が前提の意味に部分的に含まれているというのはばかげている(Ramsey, 1996,115-116。下線は引用者)

 

 命題Aと命題Bの間に確率を設定するというのは,命題Bが命題Aから演繹的に(しかも部分的に)導出されるということを意味しない。それをあたかもそうであるかのようにみせるのはおかしい,というのである。

 ラムゼーの批判は,私にとり非常に明快で理解しやすいものである。

 

 2. ケインズの反応

 ケインズがラムゼーのこの批判に応じたのは,ラムゼーにたいする追悼文「哲学者ラムゼー」(Keynes, 1931b)においてである。これは, 193110月時点での「哲学者ケインズ」のスタンスを知るうえできわめて重要な証言であり,「人間論理」(human logic)へのラムゼーの着目にたいする高い評価と,「形式論理」(formal logic)に基づく『確率論』にたいする自己批判とが混在するかたちで語られている。

 

…彼[ラムゼー],「形式論理」とは識別される「人間論理」を考えるに至った。形式論理は整合的な思考ルール以外には何ら関心をもたない。だがこれに加えて, われわれは,われわれの感性や記憶,およびその他の方法で供給される素材を処理するための, そしてそうして真理に達する…ための,ある「有益な精神的慣習」をもっている。…そのような慣習についての分析もまた一種の論理である。こうしたアイデアの確率論理への適用はきわめて有益である。…ここまでのところ,私はラムゼーに譲る 私は彼が正しいと思う(The Collceted Writings of John Maynard Keynes(以下,JMKと略記),Vol.10,338-339)

 

  ここには、「形式論理」を中核にした,命題間の客観的関係としての確率よりも,ラムゼー的な「人間論理」に着目した確率論への賛意がみられる。「私は彼が正しいと思う」という発言は,『確率論』が哲学者ケインズの長期間に及ぶ思考の産物であったことを考慮すると, 非常な重みをもっている。

 

.「若き日の信条」をめぐって

 

 次に「若き日の信条」をみることにしよう。そこでは,自らの思想的遍歴が概略,次のように語られている。18)

 

(i) 1903年頃 ―「熱烈な観照と交わり」(ムーアの「宗教」)を最高に重視していた。それは合理的で科学的なもの。他方,ベンサム主義や一般的ルールに従うというムーアの「道徳」を拒絶した(人性の合理性に信をおく個人主義の立場に立っていた)

() 1914年頃 人性の合理性への信が揺らいでいき,人間の感情を重視し始める。

() 1938 人性の合理性への懐疑はますます深まっていく。これに比例して慣習にたいする信頼が高まっていく。合理主義の適用と個人主義の行き過ぎは抑制されるべきであり,ムーアの「宗教」も狭小であると考えるようになる。

 

 「若き日の信条」を通じて最も目立つターム、それは「人性の合理性」である。これにたいする信頼が年を追うにつれ薄らいでいったという点が,思想遍歴を語るさいの基調になっている。青年期,人性の合理性に信をおきすぎていたことへの反省が,繰り返し強調されている。19)

 『確率論』の根底には,「人性合理性」への深い信頼があった,と私は思う。『確率論』では「不可能性」と「確実性」の間の領域を「合理性」の枠内に取り込み,それに厳密な形式論理を適用することで,壮大な認識論を構築しようとした。そして帰納法をもケインズ的意味での「確率」からとらえることで,その形式論理的正当化を試みた。「若き日の信条」における,青年ケインズの人性合理性にたいする信頼は,『確率論』の根底を流れる人間観を通底している。

 

われわれにとって,善を理解することは緑という色の理解とまったく同じであった。そしてわれわれは[緑色]にふさわしい,同一の論理的, 分析的手法で善を論じようとした。…ラッセルの『数学原理』が『倫理学原理』と同年[1903]に出版されたが,前者は,その精神において後者の与えた素材を論じるための方法を提供した(MEB, 438-439)

 

  『確率論』の研究を始めた頃のケインズを取り巻く環境は,このようなものであった。「緑」と「善」を「同一の論理的, 分析的手法」で論じるというスタンス,そしてその精神において『倫理学原理』の与えた素材を論じるために『数学原理』の手法を活用するというスタンス、これは『確率論』のスタンスにほかならない。

 だが,1914年が近づくにつれ,こうした「人性合理性への信頼」は薄れていった、と述べられている。こうした哲学観の変化に密接な関連をもっているのは第一次大戦ではないだろうか。20)第一次大戦が,ブルームズベリー・グループに及ぼした最大の出来事に,いわゆる「良心的徴兵拒否」問題がある。ケインズはこの問題をめぐり,グループ内で微妙な立場に立たされた。さらにヴェルサイユ講和会議における交渉過程で,国際政治のあり方に大きな幻滅を味わっている。このことは,永遠の進歩を続けるかにみえた西欧文明が喧噪・混乱・革命の渦巻く坩堝に投げ込まれたことの,ケインズ的体験であった。

 ケインズの人間観に明白な変化が認められるのは,社会哲学関連の論文であろう。「私は自由党員か」(Keynes, 1925)や『自由放任の終焉』(Keynes,1926)等はその象徴的存在である。これらの論文でケインズは,社会は合理的個人で構成されているという前提に基づいた社会哲学を,実際の世界が無知で弱い個人からなるという事実を無視した虚構にほかならないと批判し,公益の達成は,個人による私的行動に任せるだけでは困難であり,社会的単位の組織化によってのみ可能となる,と論じている。

 『確率論』の哲学は「合理的利己心の倫理学」であり,個人主義哲学の潮流に属していた。それは明確に,「合理的な信条」を対象としており,不合理性は対象外におかれていた。ケインズが哲学から経済学にその関心を移動させていくにつれ,第一次大戦以降彼を襲った様々のできごとが,結果として彼を人性合理性への懐疑と人間感情の重視に導いていったように思われる。

 『自由放任の終焉』で唱道されているのは「ニュー・リベラリズム」である。それは無知で弱い個人に経済社会を任せておくことへの危惧に根ざしている。ケインズは,個人と国家のあいだの規模の組織を理想的と考えている。そしてそのさい,資本主義社会のいわば歴史的進展の結果生み出されてきた組織形態を積極的に評価している。そのうえで,国家が何らかのかたちで積極的に関与していく必要のある分野(の1つ)としてあげているのが,「リスク,不確実性,無知」である。

 「人性合理性への信頼」は,時が経つにつれ一層薄らいでいったようである。1938年のケインズは,次のように述懐している。

 

人間の本性を合理的とみなしたのは,今にして思えば,人間性を豊かにするどころか, むしろ不毛にしたようである。それはある強力で価値ある感情の源泉をないがしろにしていた。人性の自発的で不合理な噴出のあるものには,われわれの図式主義とは無縁なある種の価値がありうる (MEB,448-449)

 

  人性を「図式主義」的にとらえることの誤り,人性には不合理ではあっても価値ある感情が存在するという点の承認が,ここには明瞭である。

 と同時に,人性の合理性への懐疑の深まりは,「規則」や「慣習」を重視するスタンスを伴っている。1938年のケインズに特徴的なもう1つの点は,現存秩序の維持の強調である。この保守化は,かつての自分達の個人主義が極端であったという反省を伴いつつ生じている。理性にたいする懐疑が生じることで個人主義への信頼も揺らぎ,それに代わるものとしての伝統や慣習に依存する傾向が強まっていったように思われる。21)この転換には、少なからず,ソヴィエト社会主義への失望があるのは確かであろう。とりわけ,1920年代に資本主義社会のもつ「似非道徳律」を糾弾していたことを考えると,1930年代・40年代のケインズの資本主義観には少なからざる変化が認められる。この点は『一般理論』(Keynes, 1936)の第24章を『自由放任の終焉』と比較すれば一目瞭然であり,「金儲け」動機の許容,個人主義のもつ重要性の強調が認められる。

 

 

. 哲学者ケインズ」と「経済学者ケインズ」をめぐって

 

  1.『一般理論』

 

 1920年代後半のケンブリッジは,ラムゼーからの批判を大きな契機として,ヴィトゲンシュタインが「前期」から「後期」に変身するという哲学上の大きな変化を経験した。この場にケインズ自身,居合わせ相互の議論を通じ深く関わっていたという事実が存する。

 こうした事情から,哲学者ケインズにも前期と後期が識別されるという見解が発表されている。22)ラムゼーの批判を受け入れ,『確率論』を棄て,それに代わる哲学を「共同体的プラグマティズム」として構想したという見解である。23)

  これにたいして,『確率論』で展開された哲学は『一般理論』に至るまで貫徹しているという見解が存する。24)オドネルは,「一度この1931年以降の作品を考慮に入れると,ケインズのこの論評[Keynes(1931b)]についての字句通りの解釈は皮相である」(O'Donnel, 1989,140)と述べ,『一般理論』に至っても『確率論』の本質的論点は維持されていると主張する。同様にカラベリも,「ケインズは,ラムゼーにたいする彼のエッセイにおいて,ラムゼーの批判に払ったリップ・サービスにもかかわらず,確率についての自らの見解を実質的には変えなかった」(Carabelli, 1988,97)と評している。

 この問題について, 私は次のように考えている。一方でケインズは『確率論』の根底を流れる基本的な哲学(とりわけ第Ⅰ部から第Ⅲ部)を放棄した。その点に関し,ラムゼーの批判は大きな意味をもった。だが翻って,ケインズに『確率論』に代わる哲学を考案しようとした形跡は認められない。ケインズの変化は, 第一次大戦時の出来事によってもたらされた可能性の方が高い。したがって,『確率論』の後,ケインズが哲学的にどのように変わったのかを,彼の経済学の著作に探す作業にどれほどの意味があるのかに関し,私はいささか懐疑的である。哲学的に変わったにせよ, 変わらなかったにせよ, そのことが「経済学者ケインズ」25)に大きな影響を与えたとは思えない。26)むしろ彼の社会哲学の側面の方が,経済学者ケインズを考えるうえでは重要であると思われる。

 因みに,『一般理論』について私は次のような認識をもっている。

 

 (i) 操作可能な理論システム ―『一般理論』は,ケインズの著作にあっては珍しく純粋理論的であり,政策的分析は非常に少ない。だが,政策立案者の視点が組み込まれるかたちでモデル構築がなされている点に変わりはない。

 ()不完全雇用均衡の貨幣的経済学 ―『一般理論』の最大の特質は,「不完全雇用均衡の貨幣的経済学」として特徴づけられる。ケインズはこの「不完全雇用均衡の貨幣的経済学」を,因果分析に基礎をおく同時方程式体系として提示した。

 () 雇用量決定モデル ―『一般理論』が提示した理論は雇用量決定モデルである。

 ()2つの対照的な局面 ―『一般理論』に示されている市場社会像は, それが2つの対照的な局面を具有するシステムである,というものである(一方に「安定性,確実性,単純性」, 他方に「不安定性, 不確実性, 複雑性」を有する)

 

 『一般理論』の刊行後,ケインズは「雇用の一般理論」(Keynes, 1937)において,従来の理論との相違点を2点にまとめている。1つは,将来は不確実であるという点の強調,もう1つは,全体としての産出物についての需給理論の提示である。この2点は,上述の「2つの対照的な局面」に対応している。

 

  2.経済学の特質をめぐるケインズの見解

 

 『一般理論』の刊行からしばらくして,Tinbergen(1939)をめぐり,Keynes(1939b)が激しい批判的見解を展開したことは,よく知られている。そこでは2点が強調されている。1つは,経済学は「モラル・サイエンス」であるという主張であり、もう1つは,経済学は「論理学の一分野」であるという主張である。

 ここでは後者に注目しよう。彼は,経済学はモデルの改善によって進歩すると考えている。だが,可変的な関数に実際の数値を埋めるべきではない。そうするとモデルは一般性を喪失し,思考法としての価値を喪失してしまう。統計的研究の目的は,予測のために欠けている変数を満たすことではなく,モデルのレリヴァンス・有効性をテストすることにある。27)

 この見解には,『確率論』のスタンスが濃厚に看取される。『確率論』には,確率を頻度説的に展開することにたいする批判的認識が存在する。Keynes(1939b)と直接的に関係するのは,第Ⅴ部「統計的推論の基礎」である。ここでは,第Ⅲ部「帰納とアナロジー」で展開された(論理学での)「普遍的帰納」に対応するものとして,統計学における統計的推論が唱道されている。そのさい,事後確率を決定するために統計頻度を利用する2つの方法が比較・されている。1つは,「数学的利用」(もしくは「ラプラスの方法」)であり,他は「帰納的利用」(もしくは「レクシスの方法」)である。ケインズの立場は後者(統計的推論)であり,前者にたいし厳しい批判を展開している。『確率論』における帰納法は、事例の豊富さにのみ頼って確率をとらえる頻度説を批判し、「アナロジー」ならびに「レクシスの方法」を重視するものである。

 何よりもケインズは,確率に変数を用いることが非常に危険であるというスタンスを取っていた。これは次の一文に明瞭である。

 

確率ではなく真理を扱う含意の論理学にあっては,変数について真なることは,その変数のすべての事例について等しく真である。他方,確率にあっては,変数が生じる場合はいつも注意を払わなければならない。…もしxがφ(x)が真であるいかなるものをも表すとすれば、xに何か特定の値…を確率に代入するやいなや、確率の値は影響を受けるかもしれない。以前無関係であった知識がいまや関係があるようになるかもしれないからである(TP,62)

 

 「経済学は論理学の一分野」という主張の背景には,こうした『確率論』で展開されている見解が存在するものと思われる。ティンバーゲン的手法はまさしく彼がはるか昔に批判の対象にしたものであった。

 

30年前[1908],私は単純相関の場合において,統計的記述から帰納的一般化へ至るという滑りやすい問題を調べること[TP,362を参照]に専心していた。そして今日の多重相関の時代にあっても,この点で慣行が大きく改善されているとは思えない。…ティンバーゲン教授は帰納的推移のためにまったく何の準備もしていないことを指摘しておく価値はある(JMK.14,315-316)

 

  Keynes(1939b),確かに『確率論』での重要なスタンス(「レクシスの方法」)1939年においても存続していることを示している。われわれは,一方にラムゼイの批判を受容したケインズをもち,他方に「レクシスの方法」に立つケインズをもっている。この2つの側面を矛盾したものとみるべきなのであろうか,それとも両立しうるものとみるべきなのであろうか。

 私の当面の回答は以下の理由で両立しうるというものである。「命題間の合理的信条の度合としての確率論」,ならびにそれに基づくところの「帰納法」の正当化を棄却したとしても,ケインズには「数学的利用」としての頻度説を批判し、「レクシスの方法」を重視するというスタンスは残っていたと考えられる。そのことで,第Ⅲ部と第Ⅴ部のあいだの論理的関連性には亀裂が走っているのである。

 

 3.2つの問題点

 

 最後に,『確率論』をめぐる研究にみられる問題点を2つ指摘しておこう。

 第1は,『確率論』ならびに『一般理論』にたいする次のような見解への疑問である。すなわち,『確率論』を「不確実性」を論じた著作とみ,そして『一般理論』の核心を「不確実性」に求める理解である。私の理解によれば,『確率論』は「不確実性」を論じたものではなく,「合理的信条の度合」として確率をとらえるもので,それゆえ「合理性」の範疇に属する。『一般理論』での『確率論』への言及(148の注1)では,「きわめて不確実」と「確率のきわめて小さい」とは異なる概念であることが明言されている,「不確実性」は合理的信条の枠外に位置している。また,『一般理論』の核心を「不確実性」にのみ求めるのは,ケインズの理論体系が既述の「2つの対照的局面」を具有するものという重要な視点を欠いている。

 第2,『確率論』と『一般理論』の関係をみようとするとき,『確率論』の後,哲学畑での仕事が行われていないという問題がある。資料的にみて、社会哲学次元からケインズの経済学を論じることは可能であるが, 哲学的・論理学的次元で論じるのは,相当の無理があるという点である。経済学にたいするケインズのスタンスに起きた変化は、彼の経済理論・社会哲学を調べることから得られるべきではないかと思われる。28)


 

                                    

 

  1) TP, 341-343を参照。なお、ケインズが同時期に指数問題についてきわめて深い研究を行っていることも、ここで記しておく必要がある。Keynes(1909)を参照。

 2) TP, 126;166-171を参照。ジョンソンについてはKeynes(1931a)を参照。

  3) TP, 11も参照。

  4) TP, 356も参照。

  5) TP, 35を参照。

  6) TP, 13-14を参照。

 7) こうした曖昧な発言については, 例えば, TP, 56;312を参照。

  8) 同様の趣旨はTP,56;76にもみられる。

  9) TP,3を参照。

 10) TP,242を参照。

  11) TP,242を参照。

  12) TP,267-268も参照。

  13) TP,265も参照。

  14) TP,267を参照。

  15) 『確率論』刊行直後に、ラムゼーは書評(Ramsey, 1922)を発表している。

  16) いわゆる「現代の心に関する機能主義的見解」(Ramsey,1996,p.xv)である。

  17) Ramsey(1996, 85-86)を参照。

  18) 平井(2000, 7)を参照。

 19) MEB, 447を参照。Braithwaite(1975,318)も参照。

  20) ラムゼーの批判は1922年以降のことであるし,それにたいするケインズの自己批判も,人性合理性への懐疑と直接的関係があるとは思えない。ラムゼーの批判はケインズ的意味での「確率」概念批判であり、ラムゼーの代替案自体も合理性を有するものである。

  21)この点をBell(1995),ケインズが保守的になったと感じ,批判的にみている。「若き日の信条」についての近年の評価については,Fitzgibbons(1988),Skidelsky(1991),Carabelli(1988),O'Donnel(1989),Bell(1995),Rosenbaum(1998)等を参照。

  22)こうした立場はDavis(1995),Bateman(1996),伊藤(1999)等によって表明されている。

  23) Davis(1995), 伊藤(1999), これが『一般理論』の根底をなす「哲学」としている。

  24) この見解をとる代表にCarabelli(1988), O'Donnell(1989)がいる。

  25) 『確率論』にみられる高度な数学的知識をみるとき,それが彼のその後の経済学にほとんど生かされていないという事実には興味深いものがある。そしてそれを解く鍵の1つとして,第Ⅴ部で展開されている「ラプラスの方法」批判と「レクシスの方法」の擁護をあげることができるかもしれない。それに、ケインズが比較的単純な統計手法を多様しているという点(例えば『貨幣論』(Keynes,1930))と、ティンバーゲン批判との関連をどう理解するのかも、追究するに値する論点であろう。

  26) この見解をとる者にBateman(1996)がいる。

  27) 193874日付のハロッド宛の手紙(JMK.14,296-297)を参照。

  28) この点についての私の解答が平井(2003)である。