厚生と価値
― ホートリー
―
ホートリーは,何よりもまず,ケンブリッジにあって貨幣的な景気変動論を展開したエコノミスト1として,今日広く知られている。彼は,ピグーの心理的要因を重視する景気変動論とも,またロバートソンの実物的要因を重視する景気変動論とも一線を画し,景気変動を銀行の行動が引き起こす純粋に貨幣的な現象であるとする立論を展開した。また,ホートリーはいわゆる「大蔵省見解」の理論的基盤を提供したエコノミスト2としても
― したがってケインズと反対の論陣を張ったエコノミストとして
も ― 広く知られている。
他方,ホートリーは,『貨幣論』のケインズにたいし,自らのスタンスから厳しい批判を展開しており3,しかもそこで展開されている批判は,『一般理論』の論点を先取りするところがあったのであるが4,この点は今日に至るまでほとんど無視されてきている。こうした無視は,『貨幣論』や『一般理論』でのホートリーの扱いが,利子率に感応的な商人活動の側面に焦点を合わせる
― ホートリーが商人(dealer.卸売り商人および小売り商人)の果たす役割を重視していたことは確かなのだが ― ものであったことにも,責任の一端はあるように思われる。
こうしてみると,(「先取り」という点は,ほとんど注目を浴びることはなかったから),ホートリーもまた, ケインズの新しい経済学に竿さす者として,一方的な評価を受けるに至ったという事情を察することはできる。だが,このイメージは非常に偏ったものなのである。
貨幣的な景気変動論を展開したエコノミストとしてのホートリーについて,上記の領域で検討する作業は別の機会に譲ることにし,本章では,今日ではまったくといってよいほど忘れられているホートリーの社会哲学5に焦点を合わせることにする。
ホートリーはケンブリッジの知的環境下で育った ― とりわけ,彼がアポッスルであったという点は,彼を理解するうえで非常に重要であると思われる6 ― が,ピグー,ケインズ,ロバートソン等と異なり,ケンブリッジで研究に携わったわけではない。彼は,卒業後,大蔵省に入省し,退官するまでほとんど省内唯一のエコノミストとして活動を続けた人物である。多数の著作を残しているが,そこには他の経済学者にはみられない独特の特徴が認められる。参考文献の記載がほとんどなく,本文中でも脚注でも,他の経済学者の理論への言及がほとんどみられない,という点である。そのため,ホートリーがどのような先人から影響を受けているのかを探ることが非常に難しい。これは,ホートリーのエコノミストとしての当時の注目度の高さ,ケンブリッジの経済学者との交流(そこにはケインズとの交流も含まれる)を考慮すると考えにくいのであるが,事実である。このことは,経済学にあって彼がかなりの程度,独学独歩の人であったことを物語っているともいえよう。
本章では,ホートリーの市場社会観を1926年に刊行された『経済問題』(Hawtrey, 1926.以降、EPと略記)により明らかにすることを目的としている。7ホートリーがどのような市場社会観をもっていたのかについて,いまではほとんど語られることがない。だが,それを正確に知ることは,ケンブリッジの経済学者がどのような市場社会観を有していたのかを語るうえで欠かすことのできない作業である。そして以下での検討が明らかにするように,社会哲学という地平にあっては,ホートリーのスタンスは驚くほどケインズとも,そして他のケンブリッジ・マンとも類似しているのである。
ホートリーが『経済問題』を刊行したのは,ケインズが『自由放任の終焉』を発表したのと同じ頃8であるため、一層興味深い。同書ははホートリーの市場社会観[社会哲学]を探るうえできわめて貴重なものである。一読すると散漫との印象をもつが,しばし時間をかけてみるとかなりよく練られていることが判明する。「望ましいと思われる目的のために共同行為を確保するよう人間の動機に働きかける問題」と定義された「経済問題」を題名にもつ同書は,最初の12章で現在の経済システムについての説明がなされ,続く第13-15章で人性(human nature)についての考察が展開され,そして残る第16-31章は現在の経済システムにたいする批判的考察が展開される,という構成になっている。
Ⅰ.経済学にたいする基本的スタンス
ホートリーの経済学にたいするスタンスを理解するうえで決定的に重要と思われるのは,次の3点である。
第1は,関連する社会科学との連携を重視しつつ経済学を構築することが本質的に重要である、とのスタンスが表明されている点である。とりわけ重視されているのは倫理学と心理学であるが,その他,政治学, 社会学,歴史学,地理学,民俗学等が考慮されている。
第2は,(重商主義者による富という理想のみならず),古典派経済学者 ― これは『一般理論』での用法と同じである ― による効用という理想,そしてピグーの満足(satisfaction)という理想のいずれもが否定されている点である。とりわけ後2者は,(新)古典派経済学の基本原理を否定するスタンスの表明であるという点で,そしてホートリーがケンブリッジ出身の経済学者であるという点で,そのもつ意味は大きい。ホートリーは功利主義哲学(したがって効用理論)のみならず,ピグーの『厚生経済学』(Pigou, 1920)の依拠するスタンスにも批判的である。第2点は,倫理学と心理学に関連するホートリーの具体的なスタンスの表明である。
第3は,「権力」,「金権主義」,「慣習」,「慣性」(inertia)等の,政治学や社会学に関連する概念が重視されている点である。
Ⅱ.倫理的スタンス
― 厚生と価値
すでに言及したように, ホートリーは「経済問題」を,「望ましいと思われる目的のために共同行為を確保するよう人間の動機に働きかける問題」と定義しているが,その目的として措定されているのはホートリー的意味での「厚生」(welfare)である。以下に示す一文は,ホートリーの経済学における最も根底的なものである。
厚生はここでは倫理的な用語である。それは,…それ自身善く,それゆえ経済的であろうとなかろうと,行為の目的として選ばれてしかるべき経験で構成されている。それは,物的な福利(well-being)に限定されているとか,何か同様の制限に服しているとみなされるべきではない。それは,手段にではなく目的に適用される単純な概念たる「善」(good)と空間を共有している。
このように定義された厚生は,「貨幣という測定尺度」に馴染むものではない。その測定尺度は,貨幣とも,効用とも,また満足とも異なる何かである。それは倫理的意味での価値である。生産物に適用されるときの倫理的価値とは,経済学者が「使用価値」と呼ぶものから ― その概念が功利主義哲学と切り離されているのであれば ―,それほど遠いものではない。いかなる生産物の「使用」も,それを使用する消費者にとって媒体手段であるところの何らかの経験のなかにみいだすことができる。この経験が善い程度において,その生産物は倫理的価値を有する。
われわれはここで,手段としてのみ善い行為である行為のルールではなく,目的として,あるいはそれ自身として善いという経験について,語っている。この識別は哲学者には周知のものであって,倫理学において基本的なものである (EP, p.185)。
ホートリーは目的を措定するにさいして,倫理学的考察の重要性を強調する。功利主義哲学や,それに基づく新古典派の経済学の基底にたいし批判的なスタンスをとるのも,この倫理的考察から生じている。次節で言及する「偽りの目的」にたいする批判も同様の視点からのものである。9
こうした考察は,ホートリーがケンブリッジ時代に「ソサエティ」のメンバー(アポッスル)であったことと,少なからず関係しているものと思われる。
Ⅲ.偽りの目的
― 金儲け崇拝と国力崇拝
ホートリーは,上記の意味での「厚生」,すなわち倫理的な価値こそが目的とされるべきであるのに,これまでの経済学はこの点を看過しており,そして現実の市場社会にあっては,「偽りの目的」(false ends)が支配している,とみている。ここでいう「偽りの目的」とは,次のようなものである。
手段として非常に一般的に,そしてほとんど確実に価値があるため,人々はそれが何の目的に利用されるのかを考えることなく追求し,そしてついには何らかのさらなる目的にそれを使うことなくそれを求めることに満足するようになるようなもの」(EP, p.314)。
本来,手段であるはずのものが,自己目的化してしまったもののことである。その代表的事例として取り上げられているのが,「金儲け崇拝」と「国力(national power)崇拝」である。
金儲け(崇拝)は ― それが最も鮮明なかたちで現れるのは「利潤」追求においてである
― 金権主義(plutocracy)とマーカンティリズム双方の基盤を形成するものとされる。
個人主義システムにあって,金儲け崇拝が自己目的化するのは,金儲け(とりわけ,利潤の獲得というかたちでの金儲け)が企業活動の基本的な動機になっているからであるが,その結果獲得された利潤は,資本として蓄積されると同時に,企業家の手元への所得の過度の集中化をもたらすことになる。金儲けが自己目的化し,それを基軸に経済活動が展開されていく社会,それが個人主義システムであるとされる。
また国際舞台にあっては,商業的拠点・植民地・支配権の獲得といった国家間の競争を通じて,利潤の追求,金儲けの追求が行われてきた。そこでは「国力」の増大が自己目的化し,それと金儲け崇拝が結びつくことで,戦争をもたらしたばかりでなく,平和も潜在的戦争であるという状況をもたらしてきた。
人々が「金儲け崇拝」に基づき,そして「国力崇拝」に基づいて活動しているかぎり,真の倫理的価値の実現,真の平和の実現はありえない,とホートリーは考えており,その意味において,これら「偽りの目的」に基づいて行動している人間社会にたいし是正を喚起している。「金儲け崇拝」については第Ⅳ節で,また「国力崇拝」については第Ⅵ節で,さらにみていくことにする。
Ⅳ.基本的な市場社会観
ホートリーは,文明を,経済問題の解決にたいする人間の意思による合理的な管理(direction)の適用 ― 人間の意思による目的と手段の選択 ― と定義する。市場もまた文明化された機構である。市場の能力の範囲で,消費者の求めるものが提供されるシステムになっているからである。とはいえ,市場を通じた機構は不完全にしか文明化されていない。消費者も生産者も不完全にしか合理的でないからである。彼らはイニシアティブを欠きがちであり,その結果伝統や慣習に従属しがちである。
分業の進展により,主要な経済活動が市場における交換行為として展開されている市場社会システムにたいし,ホートリーが何らかの意味であれ賞賛を投げかけるということはない。彼の基本的な市場社会(個人主義システム)観は,それが何よりも「倫理的な価値」の実現に失敗している,という点にある。この考えが市場社会にたいする彼の批判意識の根底を貫流している。
ホートリーは,市場社会において需要と供給の均衡化を通じて達成される市場価値(もしくは市場価格)は真の倫理的な価値とはほど遠いものである,と考えている。ここでいう「真の倫理的な価値」とは,ホートリーの意味での「厚生」であり,経済社会システムがその目的とすべきものである。この視点は,効用理論に依拠する(新)古典派ならびに「満足」に基礎をおくピグーの厚生経済学を拒否する根本的な論拠になっている点でも注目に値する。
「倫理的価値と市場価値の乖離」という市場社会のもつ欠陥は,主として2つの原因に起因する,とされる。
根本的な倫理的意味での価値の試金石としての市場の欠陥は,部分的には消費の対象物を選択するさいの人間の判断の不完全性から,また部分的には所得の不平等から生じる。双方の根拠により,個人主義システム(individualist system)は批判にさらされている
(p.216)。
第1は,消費にたいする人間の判断の不完全性である(因みに,人間の認識の不完全性にたいする着目は,ケンブリッジ学派に広く認められる)。消費者には賢明な支出を行う能力がなく,また生産者・商人には(後述の)「創造的生産物」を提供していく力が十分とはいえない状況にある,とされる。ホートリーは,こうした経済主体によって需要・供給が遂行される以上,その均衡によって達成される市場価格(市場価値)が倫理的な価値尺度を提供することはできない,と考えている。市場社会に,市場価値と倫理的価値の乖離という欠陥を認めるのであれば,その市場社会批判が相当厳しいものになることは容易に想像がつくところである。
消費の賢明な方向づけに個人主義システムが失敗しているという認識の背景には,人々が妥当な物的厚生を確保するうえで必要な「防衛的生産物」(defensive
product)と,人間社会の文化的側面と密接に関係する「創造的生産物」(creative product)を識別することの重要性という主張が控えている。10ホートリーは「創造的生産物」を重視しており,それにたいする賢明な支出が実現するには,次の3点が要請される,と主張する。
(a) 少数者の側での想像力,(b) 多数者の側での鑑識力,(c) 少数者のアイデアを多数者の快楽のための製品に具体化させる人々の側での技術力。
ホートリーはW.モリスの唱える「製品を美しくする」という目的をもつ社会主義に同調的であるが,それは彼のいう「創造的生産物」と軌を一にするところがあるからである。
第2は,所得分配の過度の不平等という現象である。所得分配の不平等は専ら利潤に起因するが,その利潤は,市場システムで活動する経済主体への誘因として,すなわち市場を通じての人間活動という組織・制度として許容されている。そしてこの制度を通じて,所得の益々多くの部分(したがって人間の努力を指図する権力)が利潤というかたちで少数の企業家の掌中に渡っていく傾向が強まっていく,とホートリーはみている。このことは,市場システムが根本的な倫理的意味での価値(厚生)を達成できないこと,すなわち不平等という不公正を生み出すこと,を意味する。
概して,利潤と利子を合わせたものは,市場を通じて組織化されているいかなる進歩的社会にあっても,所得総額の増大する割合を占めていく傾向が認められる。そして市場が成長していくにつれて,所得の不平等はより顕著になっていく(EP, p.225)。
個人主義システムにたいするホートリーの批判の根底には,倫理的価値と市場価値の乖離と並んで,「利潤」動機への批判が存在する。「利潤」をめぐる彼の基本的スタンスは,次の一文に明瞭である。
利潤は,市場に基盤をおくシステムと切り離すことのできない事象(incident)である。個人主義社会にあっては,それ[利潤]は少なくとも3つの別個の方法において顕著である
― (i) イニシアティブを有する人々によるビジネス企画の動機として,(ii) 蓄積の主要な源泉として,および(iii) 所得の不平等の主要な原因として。利潤は,金権主義およびマーカンティリズム双方の基盤である (EP, pp.384-385)。
個人主義システムにおいては,人々は利潤獲得の動機に突き動かされて企業活動を展開する。資本の蓄積は,この企業活動の結果として実現された利潤から行われる。そしてこの利潤は,同時に所得分配の不平等化を招来する。
所得分配の過度の不平等を是正するには,利潤に税を課す方法や,賃金の決定にさいして国家が利潤を浸食するかたちで行う方法が考えられる。だが,前者の場合,貯蓄(蓄積)におよぼす影響のため,また後者の場合,利潤におよぼす影響のため,個人主義システムにあっては限界がある,とホートリーは考えている。かくして,個人主義システムの根底に位置する利潤動機を廃絶し,それとは異なる原理に基づく社会,すなわちコレクティヴィズムへの道が志向されることになる。
しかしながら,ホートリーは所得分配の絶対的な平等を唱道しているわけではない点に注意が必要である。「防衛的生産物」の場合,平等な分配は明晰な原理であるが,「創造的生産物」の場合,不平等な分配が正常である,と考えているからである。
全員にとってかなりよい(tolerable)生活水準,そして金持ちのあいだでの高い趣向水準,というわれわれの想定(おそらくはユートピア的であるが)にあっては,人間の経済活動によって生産される真に善き事物にたいして鋭い眼識力をもち,そしてそれらを調達するのに十分な物的資金を有する金持ちの快楽主義層(epicurean)の余地は存在する (EP, p.229)。
この判断の背後には,(第1点で述べた)大多数の者は消費を選択する賢明な能力を欠いているという見解が存在する。だが,文明が文明たるゆえんは,「創造的生産物」が生み出されていくところにあり,それを担えるのはかぎられた人々である。だから,「創造的生産物」の創出との関連,所得分配のある程度の不平等は正当化される ― ホートリーはそのように考えている。
もし人間の判断が支出対象物の賢明な選択を任せられるようなものであれば,所得の甚だしい不平等の除去は好ましいと認めてもよいであろう。だがいずれにせよ,絶対的な平等は望ましくない。そして,人間の気まぐれな知恵・愚かさという見地からは,ある方面での大きな不平等は非常に望ましいかもしれない (EP, p.226)。
ホートリーは,文明・文化の創造はかなり限られた人々によって担われるものであること,そして文明・文化は人間社会にとって非常に重要な意義を有するものであること、を力説している。
…所得の不平等が進展し,有閑階級と,必要な余剰を提供するために依然として低い生活水準に貶められている多数の貧民(yahoo)が存在している,と想定してみよう。彼ら[貧民]の困窮の増大は悪である。だが,人性の困難性への適用力に照らしてみて,それは文化の誕生を上回るほどの悪であろうか。文化を欠く社会は,いやしくも存在に値するといえるのであろうか。蟻やウサギは幸福を享受できる,といえよう。すべての知的・芸術的達成物を取り去ってみよ。そのとき,いかなる点で人は彼らより優れているのであろうか。…さらに進歩自身,思考する訓練と時間を有する人々の存在に依存している。…有閑階級が創出され,進歩が可能になるとき,貧民の運命自身,その結果改善されるかもしれない(EP, p.227)。
以上にみた個人主義システムにみられる2つの欠陥 ― 人間の消費鑑識力の不完全性,および所得分配の過度の不平等性 ― 以外に,ホートリーは,さらに2つの未解決な経済問題 ― 賃金の決定,および戦争の防止
― を指摘している。いずれも,市場社会システムが合理的意思のもとにおけるように改善することに失敗してきている,とされる問題である。賃金の決定については第Ⅴ節で,また戦争の防止については第Ⅵ節で検討することにしよう。
なお,興味深いことに,ホートリーは循環的失業(cyclical unemployment)という問題は,信用の賢明なコントロールにより治癒可能なものと考えており11,これを人智が絶望的に失敗している領域 ― 上記4つの問題
― のなかに含めていない。経済理論としては,これに関連する理論が彼の最も知られている点なのだが,彼の社会哲学全体(もしくは経済問題)のなかで占める位置は,意外なことに高くはない。
Ⅴ.市場の分析
ホートリーは,市場における交換行為を基軸にすえて様々な市場をみようとしている点で,新古典派の経済学者と異ならないようにみえるかもしれない。だが一歩踏み入ると,われわれは,ホートリー特有の見解に遭遇する。あくまで彼特有の理論を作り上げて,その観点から現実の経済システムを説明しようとする姿勢が顕著である。ここでは,財市場と労働市場を取り上げ,ホートリーがどのような立論を展開しているのかをみることにしよう。
1.財市場
財市場では,消費者は終始,受け身の経済主体として扱われており,積極的な役割を演じるのは商人(dealer.付随的に製造者)であることが強調されている。消費者は,財を真の意味で選択する能力も時間もないとみなされている。とはいえ,消費者は消費選択を決定する最終的な意思決定者として,市場の交換にあって重要な存在であることに変わりはない。だから,彼らの趣向に絶えず注目を払う必要があるのであるが,彼らはあくまでも受け身の存在である。むしろ,消費者が欲すると見込まれるものを,商人が日頃のビジネス活動を通じて探し出すことに努め,そうして得た情報・知識をもとに製造者にたいして発注を行う。この意味で市場の交換活動におけるイニシアティブは,消費者でも製造者でもなく,商人の掌中にある、とされる。
一般に,…社会が生産することになる事物の特定化(specifications)は,需要が発するところの消費者によってではなく,商人によって遂行される。……消費者は,いかにわずかであれ,生産における新たな出発を自ら開始する立場にはない
(ER, p.20)。
ホートリーにとって,市場経済システムは,(a)財を生産する製造者,(b)財を発注し,それを小売り商に販売する卸売商,(c)卸売商に発注し,それを消費者に販売する小売商,そして(d)財を購入する消費者,という4種類の経済主体で構成されている,という認識が基本的である。なかでも,卸売商と小売商(以下,これを商人と呼ぶ)が重視されている(因みに,こうした認識はケアンズやママリー=ホブソン等,19世紀後半の経済学者にかなり普遍的に認められる)。商人は,(i)消費者にたいし,彼らが欲すると見込まれる財を考案することを通じて,それを生産者に発注するという役割, および(ii) 消費者の需要を予測し,それに基づいて生産者に発注するという役割,を担う。
卸売商は,…市場の兆候を読みとることに最善をつくすであろう。彼らは,消費者の購買の変化の真の原因をみいだすために,そしてそれらの原因が一時的なのか永続的なのかを知るために,消費者の考え(mind)の秘密を見通すことに努めるであろう
(EP, p.23)。
すべての経済学者によって受け入れられている,市場価格は供給と需要をちょうど等しくする価格になる傾向があるという一般的な原理には,何ら問題はない。だが,現実の事象への適用となると,それは複雑なことがらにつきまとわれる (EP, p.22)。
ここで重要なのは,財の価格が需給で決定されることを承認したうえで,じつは交換行為を通じて達成される価格は,人間(とりわけ消費者)に賢明な選択能力がないために,倫理的価値(厚生)が実現されていないという批判的認識が潜んでいる点である。ホートリーは,(新)古典派経済学の基本的スタンスにたいし意識的に批判的であるという点は,すでに言及の通りである。
2.労働市場
現実の労働市場にたいするホートリーの評価もまた厳しい。「労働市場は故障(break down)してしまっている」というのが,彼の診断であった。労働市場では,価格の需給調節メカニズムが緩慢であるため,均衡価格(「経済的賃金率」)に到達する傾向が認められない。それに,誰も均衡価格が何であるのかを確定できない。さらに,異なった職種にたいする適切な相対的報酬率を確定することもできない。これらは,労働市場の自由な働きによっても,労働組合と雇用主連合との権力バランスによっても解決することができない。交渉による決定であれ,調停による決定であれ,その決定はいかなる道徳的力ももちえない、等々。12
ホートリーは,ほぼこのような認識を示し,個人主義システムにおける労働市場に深刻な欠陥が存在することを指摘するのである。
こうして,個人主義システムが依拠する,市場を通じての交換行為は,財市場にあってはその成果が倫理的価値の観点からみてはなはだ疑問が多いこと,また労働市場にあってはその機能が「故障している」ことを示すことで,少なくない欠陥を有するものである,とホートリーは判定している。彼にあって,市場を通じた諸個人の自由な交換行為が望ましい成果をもたらしている,との評価はほとんどみられないといってよい。
Ⅵ.国家観と国際関係観
ホートリーは,国家の本質的な機能を権威による人間行動の規制(regulation)に求めている。社会のメンバーは,権威を有する個人にその権威の範囲内で従わねばならない。国家の権威を利用することで,社会全体にとって有益と思われる人間行動についてのある規則を社会のメンバーに強制することが可能となる。国家は「組織化された力」(organized force)を有しており,それによって社会のメンバーにたいし規則の遵守を強制することができる。
ここでホートリーは問いを発する ― このことが,個人主義システムに適用されるとき,どのような意味をもつことになるのだろうか、と。個人主義システムを維持するため,国家は必要な規則
― 財産の安全や契約の遵守等
― を諸個人に遵守させるように努めなければならない。だが,「組織化された力」は,それを遂行する人々のあいだでの規律を必要とするだけではない。それは装備のために,そしてその維持のために,莫大な物的資源を必要とする。そのため,国家は徴税権 ― 法による貨幣の強制的拠出権 ― を行使することになる。
徴税権は, (i) 個人主義原理にたいする直接的な侵害である, (ii) 個人主義原理にたいする妥協でもある, そして(iii) 強制的なサーヴィスよりも軽い形式の個人の自由にたいする侵害である。ホートリーは徴税権をこのようにとらえ,そのようにして徴収された税金は,当初は攻撃と防御の手段として用いられたが,その後,他の目的 ― 教育((i)業種,もしくは職種にたいする適性の育成,(ii)社会生活の必要性にたいする適応性の育成,(iii)個人の厚生が存する趣向,能力の開発等)や社会福祉関連の活動
― にも使われるようになってきた,と論じている。なお,個人主義システムに任せておくと,有効に,そして円滑に作用しない分野として,国家による公的企業(public utilities)の分野の活動が指摘されていることを,ここで言及しておこう。
すでにみたように,ホートリーは個人主義システムの重大な欠陥として,所得分配の過度の不平等をあげている。この問題を個人主義システム内で解決する方法として,彼が,利潤への課税強化,および国家が利潤を浸食するかたちでの賃金の決定をあげたうえで,いずれも利潤動機に基づいて組織化されている個人主義システムにとり、超えがたき限界を有している ― 個人主義システムのもつ欠陥を個人主義システムの枠内で解決することの困難性
―と考えていることは,すでに述べた通りである。
これらの検討を通じ,ホートリーが自らに問いかけているのは,個人主義システムを前提として,国家はどこまで個人主義システムの欠陥を是正し,真の倫理的価値の遂行を行うことができるのだろうか,というものであった。そしてその問いにたいするホートリーの結論が非常に懐疑的なものであったことは疑いを入れない。すでにみたように,ホートリーの個人主義システムのもつ欠陥にたいする批判は,より根元的な基盤から発しているからである。
これらの経済活動は,国家をある程度,経済問題についての代替的な解決案として示すものである。金銭的利得を追求する個人的動機は,必要とされることをするのにそれだけでは十分ではなく,国家の権威が助けとして狩り出される。そのようなケースは,それ自身,個人主義にたいする批判を含意している。だが,われわれの哲学的探究を開始するまでは,あれやこれやの解決策にたいするいかなる陽表的な批判も行わないでおこう (EP, p.132)。
国有化問題を考えるさいにも,同様の問題意識がホートリーの根底を流れていることは明瞭である。とりわけ次の一文の傍点箇所は,ホートリーの評価が「移行の手段」としての方におかれていることを示すものとして興味深い。彼は,国有化が個人主義システムとのあいだに引き起こす相克を強く意識している。
もし社会主義の意味を…厚生の手段として国家を用いることを含めるように拡張するならば,われわれは,この描写に適合した,だが完全なコレクティヴィズムには至っていない政府の非常に多様な機能を説明しなければならない。そのような機能は,コレクティヴィズムへの移行の手段として提唱されるかもしれない。そしてそのときは,コレクティヴィズム自身のメリット,および移行を円滑にそして有効なものにする適切性によって評価されねばならない。
しかし,それらはまた,それ自身有益なものとして提唱されるかもしれない。そしてそのときは,依然として圧倒的に個人主義的であるままの社会にたいする変更として批判されねばならない(EP, p.353.傍点は引用者)。
ホートリーは,国家の機能を厚生(welfare)と国力(national power)からとらえているが,以上にみたのは主として前者に関係する領域である。そして彼が国家の機能として最も重視しているのは,倫理的価値の実現をめざす手段としてであった。
一国内にあっては,2つの機能のあいだに対立が生じることは,それほど多くはない。だが,一国以上になると(国際舞台になると),両者の乖離は明瞭になる。富や領土は権力の構成要素として高く評価されることになり,国力という権力が各国を動かす原動力となるというのが,これまでの人類の歴史であった。そしてそれは諸国間での対立抗争の激化,そして戦争の発生を招来することになる。そこでは,「偽りの目的」である貨幣愛と国力崇拝が原動力として機能してきたことが批判的に語られている。偽りの目的を追求する結果,戦争が間断なく生じ,そのあいだに横たわる平和は潜在的な戦争状態にほかならないという事態に,われわれは陥ってしまっているというのである。13
ホートリーはこの問題を,世界史を振り返ることで検討している。それは,マーカンティリズムの歴史でもある。マーカンティリズムは貿易 ― 輸入よりも輸出を重視 ― が国力の基礎をなすとみる思想であり,戦争のために国の資源をいかにすれば最良に利用できるのかを重視する。これはヨーロッパ諸国の経験を通じて展開されてきたものであり、ホートリーは,これが実際に国策を指導する人々によって重視されていたと考えている。
ホートリーはマーカンティリズムについて,時代ごとにその特徴を検討している
― (i)中世には,商業国家(ヴェニスやジェノア)が外国市場を飽くことなく追い求めることで利潤を得ようとし,そのために種々の特権確保に懸命であった, (ii)大航海時代以降は,世界の市場化は征服と植民地化によって行われた, (iii)帝国主義もマーカンティリズムの一形態であり,政治的主権と商業機会の密接な関係を前提とした政策をとる政治形態である。
マーカンティリズムは,先進諸国内で展開された個人主義システムから発生した,世界を対象とした経済活動である。個人主義システムは,すべての経済活動が利潤動機に駆り立てられて展開されているシステムであるが,マーカンティリズムも,同様に利潤動機,金儲け崇拝に突き動かされて行われる経済活動である。ただし,国内での経済活動にあっては表面化することのない国力が,マーカンティリズムにあっては前面に出てくる。相手を倒して自国の権益を確保するためには,どの国も同様の動機に駆り立てられて活動しているかぎり自らの国力に頼らざるをえないからである。
ホートリーがめざすのは,国内にあっては「金儲け崇拝」の廃絶であるが,国際舞台にあっては「国力崇拝」の廃絶である。そのためには,制度ならびに人々の考えが改められなければならない。
戦争を廃絶するためには,紛争が生じたときに暴力を用いることなく解決する手段を提供することのみならず,平和を潜在的な戦争ではないもっと真の何かに変えることが,本質的に重要である。われわれは制度の変更と人々の考えの変更を希求しなければならない。もし国力崇拝の心理的基盤をめぐるわれわれの読みが正しければ,制度の変更は考えの変更をもたらすであろう。というのは,もし国力崇拝が究極的には合理的なものであるならば,それを状況の変化によって変えることが可能であるからである。前提の変更は結果の変更をもたらすであろう (EP, pp.391-392)。
Ⅶ.コレクティヴィズムにたいするスタンス
コレクティヴィズム(ホートリーにあって,これは社会主義と同義である)は,市場社会システムにおける利潤に攻撃を仕掛ける思想である。それは,利潤動機を排除し,それに代わる動機を国家に求めようとするものとされる。社会主義者は,利潤の消滅が人間性の変化を引き起こし,そして新たな動機 ― 社会にたいする奉仕精神のようなもの ― をもたらすことを期待している。ここでもホートリーは,社会主義を,厚生を達成するための手段として国家を用いる思想とし,それは厚生の政策を強調するものであって国力の政策を強調するものではない,として社会主義に同調的である。
事物の性質上,社会主義政策が国力の追求に順応しない理由はないが,現実には社会主義は,断固として厚生の政策であって力の政策ではない。それは,国の動産を敵にたいして用いるべく集中させるためにではなく,人々のあいだに行き渡るようにするために,利潤を個人から逸らすことをめざしている。そのような政策は,国力という大事にされてきたタブーにたいしきわめて敵対的なものである
(EP, p.390)。
社会主義の主要な目的は,人々の経済状況を平等化することである。ただし,必ずしも所得の厳密な平等を確立することではなく,個人主義システムを特徴づけているような大きな不平等の原因を消滅させることである
(EP, p.337)。
…資本の私的所有の抑圧は,ほとんどのコレクティヴィスト的社会主義者によって彼らの信条の本質とみなされている
(EP,p.337)。
シュムペーターが『資本主義・社会主義・民主主義』で社会主義の青写真を描写したのと同様に,ホートリーも青写真を提示している。14それによると,消費財の市場は残されるが,生産者と小売商のあいだ,および生産者間の市場は廃止されることになる。労働者と消費者のあいだには,国家およびその代理人(delegate)のみが存在する。国家は唯一の資本家であり,唯一の地主であり,そして唯一の雇用主である、等々。このような検討の後、彼は次のような結論に達している。
コレクティヴィスト的政府は,その負担の主要部分を除くことはできない。生産,在庫,価格,賃金に関するすべての基本的な判断は政府にかかっている。もし新製品が供給されるべきならば,政府は必要な固定資本を設置し,必要な労働を確保し,そして全企業を組織するイニシアティブを発揮しなければならない。その決定にさいして,政府はその国のすべての専門家の意見を掌中におさめねばならないが,そのことは,それが目的のために適切な準備を行うことができるということを意味するにすぎない。専門家を選び,彼らがコンサルティングを行いアドバイスを行う適切な機会を与えられるのを確実にするような組織化の責任および必要性は残る (EP, p.352)。
ホートリーは自らを社会主義者と名のっているわけではない。だが,個人主義システムにたいし非常に深刻な欠陥を認める一方で,社会主義にたいしほとんど批判を展開していないことから鑑みて,彼が社会主義に非常に同調的であったことは疑いを入れない。次の表現はこの点を象徴的に示している。15
…コレクティヴィスト・システムは,蓄積を,個人的動機という偶発的な作用に委ねるのではなく,国家の直接的なコントロール下にある機能にするという利点があることを指摘してもよい。[コレクティヴィスト・システムにあっては]蓄積と人々の即時的な厚生のあいだの相克は,より直接的なものとなる。だがそれは,[個人主義システムとは異なり],納税者のむら気とか,増大した生産性が因習的で余計な物に適用される可能性によって複雑化されるということはない(EP, p.379)。
ホートリーの市場社会観は,ケンブリッジの誰よりも深く厳しい。何よりもそれは,ホートリー的意味における倫理的価値(=厚生)を根底基準におき,その見地から個人主義システムの欠陥を批判する,というスタンスに立っている。彼は,人間のもつ鑑識力の弱さにより財市場で決定される市場価値は倫理的価値との乖離を引き起こしているという認識,そして労働市場は「故障」しているという認識(賃金決定の困難性)を示すことで,個人主義システムのもつ根本的な欠陥を指摘する。
これが個人主義システムのいわば「静態」的側面の欠陥であるとすれば,次に「動態」的側面の欠陥についての指摘が続く。個人主義システムが利潤獲得を動機として企業活動が行われ,それにより資本の蓄積,そして所得分配の過度の不平等を招来しているという点の指摘がそれである。それらの根本は,結局のところ利潤16にあり,それを廃絶することが厚生の達成という真の目的にとって必須となってくる。こうして利潤に基礎をおかない,したがって偽りの目的である金儲け(金権主義)を廃絶し,真の目的である厚生の達成を国家を中心にしたシステムによって目指す道,すなわちコレクティヴィズムへの道が志向されることになる。
ホートリーが金儲け以外に注目するのが,「権力」である。とくにこの概念は,国際舞台で展開されてきた事象をとらえるさいのキー概念になっている。拠点(interpost)を設けての諸国家間の争い,そして植民地獲得競争や征服活動は,「国力」を自己目的化することで,戦争への道をひらくことになった。これらの行為は,「権力」獲得と「金権主義」が密接に結びつくかたちで展開されてきた。ホートリーは,権力獲得行動や金権主義が自己目的化し,偽りの目的であるにもかかわらず,実際上の目的として志向されてきたことに警告を発している。ここでも,「金権主義」と「権力」を自己目的化する人間の思考様式を改める必要性,そして潜在的戦争状態になってしまっている今日の平和を真の平和に変える必要性が説かれている。
ホートリーが市場社会のもつ欠陥を非常に鋭く突いている点は高く評価されよう。だがその反面,その代替システムとしてのコレクティヴィズムへの言及になると,彼の舌鋒は勢いを失っていることも確かである。それはともかくとして,本章での検討を通じ,ホートリーが新古典派の経済理論と意識的に一線を画しつつ,市場社会にたいし鋭い批判的考察を展開している点が明らかになったものと思う。
1) 『好況と不況』(Hawtrey, 1913)がその代表作である。さしあたり平井(2003, pp.116-117)を参照。
2) Hawtrey(1925)がそれである。
3) Hawtrey(1932)がそれである。
4) Hawtrey(1928)がその代表作である。平井(2003, pp.334-336)を参照。
5) ホートリーを対象とした著作はDeutscher(1990)があげられるのみであるが,そこではマクロ経済学への貢献が主題的に扱われており,社会哲学への言及はない。
6) レナード・ウルフやリットン・ストレイチー(ともに1980年生まれでアポッスル)と同様、1才年下のホートリーはムーアの熱烈な信奉者であった。この世代(ケインズも含まれる)の思想を考えるさい、ムーア倫理学は非常に重要な意味をもっている。
7) 同一の領域についてのホートリーの後年の著作に『経済的命運』(Hawtrey, 1944.以降、EDと略記)がある。脚注で若干言及していくことにする。また注目すべきことに、ホートリーは倫理学上の著作を2冊(未刊行)残している。一冊は『正しい政策
― 政治における価値判断の位置』,もう一冊は『思考と事物』である。後者は1912年に「金曜クラブ」で読まれた「諸側面」(Aspects)に源を発する,とホートリーは述べている。Deutscher(1990, p.2)を参照。
8) ケインズの社会哲学については、平井(2003, 第5章)を参照。
9) 厚生と偽りの目的は、ED,
Chapter 12でも詳細に論じられている。
10) EDでは、防衛的生産物が「ユーティリティ生産物」(utility product)と改名されたうえで、同様の識別がなされている。ED, Chapter 13を参照。
11) EDにも同様の認識がみられる。「競争主義的機構を機能させる第1の条件は、貨幣当局がこの悲惨な行動を禁止することである。十分に安定的な貨幣フローを維持することは実行可能である。そしてもしそれが達成されるならば、最悪のトラブルは克服されるであろう。不況や全般的な失業が回避できるのみならず、国際貿易および外国為替の混乱は、管理可能な範囲内に抑えることができる」(ED,pp.359-360)。
12) EDでも、現在の賃金理論が不満足なのは、利潤への配慮がまったくなされていないことに原因をもつ、との指摘がなされている。利潤論の未発達と賃金理論の未発達とは密接な関連を有しているとの指摘である。ED,pp.250-251を参照。
13) EDにおいて、戦間期の経済的混乱の最大の要因としてあげられているのが「国際的アナーキー」であり、Chapter 10で分析されている。例によって、ホートリーは(ディッキンソンの名のみがあげられているだけで)関連文献をまったくあげていない。国際政治をめぐるイギリスの当時の論争の状況は、吉川(1989)で詳細に分析されており、われわれはこれらの助けを借りながら、Chapter 10を読む必要がある。
14) EDには次のような叙述が認められる。「完全なコレクティヴィズムとそれほど離れてはいない何かに相当する政府からの積極的な行動が要請されるかもしれない。もしそうであれば、それが競争主義からの一時的な乖離であろうと、あるいは恒久的なコレクティヴィズムへの移行であろうと、コントロールを実施する最も有効な方法は、政府が卸売商の役割 ― 販売するために購入するという厳密な意味での卸売商のみならず、小売商に直接供給する生産者の販売側面をも含む ― を肩代わりすることであろう。そして卸売の機能をすでにもっており多数の独立した生産者から直接購入している大きな小売商が存在する場合には、政府は彼の購買ビジネス…および材料の提供に干渉する必要はないであろう」(pp.354-355)。
15) EDで、ホートリーはコレクティヴィズムに向かう道と、「第3の可能性」(これがNew Liberalismに相当すると私は思う)に向かう道を示している。そのどちらがいいのかという判断は下していないが、競争主義(competitivism.これはEPでは、「個人主義システム」と呼ばれていた)にたいする批判意識は明確にもっていると思う。「産業が通常の能力と通常の需要を回復するにつれて、一歩一歩政府のコントロールを引き上げるか、あるいはそれを恒久的なものにするために利潤稼ぎを抑圧し、利潤稼ぎをする商人(trader)を国家からサラリーを得る官吏に変えるか、のいずれかが可能であろう。この強大な変更を深刻な政治的論争なしに一撃で行うのは不可能であろうし、暴力なしにそうするのは困難であろう。人々が運命的なステップから引き下がり、しかもなおドアをそこへと開いているコントロールを諦めたくはない、ということはありそうなことである。かくして第3の可能性、すなわち政府のコントロール下での利潤稼ぎの継続がある。確かに、もしコレクティヴィズムが究極的な解決であるとすれば、政府の行政スタッフが商業や産業の手法を学び、商人が彼らの営業を公共政策に適応させることを学ぶ中間段階という相対的に長い試行を支持する多くの事由が存在する。おそらく数年の後、当該国は何ら深刻な論争なしにコレクティヴィズムに苦痛なしに入るかもしれない。他方、たとえ究極的な選択が競争主義に戻るべきものであるとしても、経験は有益であったことが判明するであろう。そしてコントロールの再確立の可能性は、利潤稼ぎの濫用にたいする制限として残るであろう」(p.358)。
16) EDは、利潤稼ぎをめぐる次のような一節で締めくくられている。「利潤稼ぎはがまんすべきものなのだろうか。競争主義の支持者は、それは企業動機として不可欠であると主張する。その濫用は、それにたいし社会サービスのために一括税(ransom)を課すことによって部分的には是正されてきた。それは、実施可能な限界を超えて直接課税を引き上げることで、財政機構を不安定にしようとしているのであろうか。そしてそうであるとしても、一括税は、利潤稼ぎと賃金政策のあいだに何らかの真の調和をもたらすことになるのではないだろうか。これらの質問にたいして決定的な解答を与えることのできる人は誰もいない。しかし、これらの問題が公にされ、選択に参加する人々がその帰結についての理解をもって、選択することが望まれる」(p.360)。
1)ホートリーを対象とした刊行物はDeutscher(1990)があげられるのみであるが,それはマクロ経済学への貢献のみを扱っており,社会哲学への言及はない。
2) ホートリーは,熱烈なムーアの信奉者であり,また哲学上の著作を2冊(未刊行)を残している。1つは『正しい政策
― 政治における価値判断の位置』,もう1つは『思考と事物』である。後者は1912年に金曜クラブで読まれた「諸側面」(Aspects)に源を発する,とホートリーは述べている。Deutscher(1990, p.2)を参照。