2014年6月7日土曜日

ケインズってどんな人




ケインズってどんな人

                                       平井俊顕
第1話では、ケインズの人となり、ならびに業績に焦点を(通史的順序に沿いつつ)合わせることにしよう。
ケインズの活躍した時代 それは第1次大戦 で瓦解した「パックスブリタニカ」を回復させようとする努力が結局のところ挫折してしまい、世界は安定したシステムをもつことなく混乱と分裂の度合いを深めながら第2次大戦に突入していく、という時代である。こうした時代状況を打開すべく、ケインズは新たな経済理論経済政策論、ならびに新たな世界システムを次々に提唱していった。これらの点で彼に比肩する人物は皆無である。そればかりではない。周知のように、ケインズは『一般理論』を通じて、その後のマクロ経済学、経済政策論、ならびに社会哲学の領域で「ケインズ革命」と呼ばれる深甚なる変革を引き起こしたのである。
            
§ 子供の頃 §

ジョンメイナードケインズは、1883年、イギリスの大学町ケンブリッジのハーヴェイロードで生まれている。父ネヴィルはケンブリッジ大学のフェローであり、『経済学の範囲と方法』(1890) で知られる経済学者である。母フローレンスはケンブリッジ大学の最初の女子カレッジ、ニューナム出身の社会事業家である。ケインズは、この世に生を受けた瞬間から、ヴィクトリア後期におけるケンブリッジ文化を一身に受けとめる境遇におかれていたといえる。家庭にはシジウィックやマーシャルといった当代きっての知識人が出入りしていたし、両親は子供達の教育に大変熱心であった。
 ケインズは幼少の頃から算数に秀でていた。1897年にイートン校(名門のパブリックスクール)に入れたのも、数学の成績が優秀であったことによる。イートン校での成績も、多数の学術賞の受賞が示すように、非常に秀逸であったが、とりわけ数学、古典および歴史に優れた才能をみせた。

§ 学生の頃、そしてフェロー §

1902年、ケインズはケンブリッジ大学のキングズカレッジに入学している。数学をメインとし古典をサブとする特待給費生としてである。カレッジ時代のケインズを特徴付けているのは、様々なサークルでの活発な活動である。彼には、重要な事柄から些細な事柄に至るまで、何ごとにつけても熱心に、しかも非常に優れた成果をもたらしながら余裕をもって行える天賦の才があった。政治問題の団体である「ユニオン」、秘密団体「ソサエティ」等の会員としての活動はその1例である。とりわけ「ソサエティ」は、彼の生涯を通じての人生観ならびに哲学観を形成するうえで、決定的な影響を与えるものであった。当時の「ソサエティ」は、哲学者Gムーアの影響下にあったが、なかでも彼の『倫理学原理』(1903) は信仰問題で揺れ、それを拒否したシジウィック達の世代の苦闘(「不可知論」) を克服した新しい道徳哲学として、ケインズ達の世代に広く受け入れられた。
  この時期の「ソサエティ」のメンバーは後年有名な「ブルームズベリーグループ」を形成することになるが、ケインズはその中心メンバーである (このグループについては第2話で述べることにしよう)
ケインズが経済学に本格的な興味を示し始めるのは、1905年頃からである。マーシャルは経済学者への道をしきりとすすめたが、結局のところ、1906年、インド省への道を選択した。しかしながら、20代のケインズが知的情熱を傾けたのは確率論の研究であった。それはラッセル= ホワイトヘッドによる分析哲学の手法を利用しながら、確率下での命題間の論理的関係を明らかにし、かつ「帰納法の正当化」を論証しようとする壮大なものであった。その直接の契機はムーア倫理学のある論点への懐疑に端を発していた。
インド省での仕事にあきたりなかったケインズは、余った時間の多くをこの研究に費やしたのであるが、翌1907年、その成果をキングズカレッジのフェロー資格試験論文として提出するに至る。結果は不合格であったが、マーシャルの配慮のもと、その後継者となったピグーから年100ポンドの給料を得て講師に就任した。1909年、ケインズは彫琢を加えたうえで、この論文を再度提出しフェローの資格を得ている。こうして彼は経済学者としてのスタートを切ることになった(ただし、『確率論』の刊行は遅く、1921年である) 1908 -13年にかけて、ケインズは主として金融問題にかんする講義を担当していたが、そのなかのインドの通貨問題をめぐる箇所は、1913年に処女作『インドの通貨と金融』として結実することになる。また1911年には学術雑誌『エコノミックジャーナル』の編集者に選ばれている(生涯を通じてその任に当たることになった)。

§ 第1次大戦 §

19148月、イギリスはドイツに宣戦布告した。第1次大戦の勃発である。19151月、ケインズは大蔵省に入省することになり、やがて戦争の金融的管理を扱う第1課、さらにはそこから独立したA課の長に任命され、国際金融問題を担当することになった。この時期、イギリスに生じていた緊急事態は、戦争遂行に必要なドルをいかに有利な条件でアメリカ政府から借り出せるかという点にあったが、ケインズはこの交渉において指導的な役割を演じたのである。
  191811月、第1次大戦は連合国側の勝利で終結し、翌19191月に、パリで講和会議が開催された。ケインズは大蔵省首席代表として、この会議に出席した。彼は主として、戦前のドイツ経済を支えていた諸要素の組織的破壊、およびドイツが連合国に加えた被害にたいする賠償請求の問題に携わった。だが彼は、講和会議において採択されることになる条約(「ヴェルサイユ条約」)、とりわけドイツにたいする法外な賠償請求額に反対して途中で辞任するに至る。そして帰国後、直ちに講和会議における予想外の進展状況の描写をまじえつつ、ドイツにたいする賠償請求額が法外なものであることを具体的かつ経済的な根拠を示しつつ論じた警世の書の執筆にとりかかった。これがかの有名な『平和の経済的帰結』である。
 戦後の国際経済にあっては、難題が山積していた。賠償額と戦債をめぐる問題はなかでも重要であった。賠償額の場合、ドイツの支払い能力の実情に合わせるかたちで、修正に次ぐ修正が重ねられていった(最後はヒットラーによる一方的な破棄宣告で終わっている)。また戦債の場合 - それは、戦争の遂行に必要な資金を、イギリスがアメリカから借り入れたことにより生じた - その返済条件は19236月の英米戦債協定によって決められたのであるが、これも最後にはうやむやになっている。賠償や戦債という問題は、結局のところ、戦争の結果、アメリカが国際金融面においても、イギリスに取って代わる地位に立ったという事実を抜きにしては解決することのできない問題であった。
  ケンブリッジに戻ったケインズは、これらの問題にたいし、在野から積極的な批判を展開している。賠償額戦債をめぐっては『条約の改正』(1922) が、また金本位制をめぐっては復帰反対を唱えた『貨幣改革論』(1923) 、ならびにイギリスの旧平価での復帰(19254) を批判したパンフレット『チャーチル氏の経済的帰結』が、代表的なものである(同時期、ケインズは生命保険会社の会長やキングズカレッジの会計官としても活動している [しかも生涯を通じてであった])。

§ 経済学者 §

1920年代の初頭以来、ケインズは一貫して「自由放任哲学/ 自由放任経済学」を批判し、それに代るものとしての「ニューリベラリズム/ 貨幣的経済学」を提唱していた。彼は、市場社会は似而非道徳律に立脚しているから、いずれは否定さるべき存在であると考えていた。この点については、第3話で言及しよう(もっとも、ケインズは名うての [外国為替、株式、商品の]「投機家」であり、この活動により「経済学者」としては有数の資産を残した、という事実をここで付け加えておこう)。
  1920年代後半のケインズの活動は、当時のイギリスが抱えていた経済問題 - とくに失業問題 - と深く関係するものであった。それを象徴する活動としては、次のようなものがある。第1に、自由党での活動がある。『イギリスの産業の将来』(1928年)という自由党の有名な刊行物があるが、ケインズはこの中心的な執筆者である。第2に、政府委員としての活動がある。彼は、1929年に設置され、当時の重要な経済問題について各界の代表者からヒアリングを行った「マクミラン委員会」の最も熱心な委員であった。また19301月には「経済諮問会議」の委員、同年7月にはそのサブコミティーである「経済学者委員会」の委員長を務めている。
 このような激職にありながら、ケインズは193010月に大著『貨幣論』を刊行している。これは『貨幣改革論』の刊行直後から執筆が始まっており、6年あまりの歳月をかけて完成にこぎつけたものであった。『貨幣論』は、ヴィクセルの『利子と物価』(1898) によって先鞭を付けられた「貨幣的経済学」の流れに属している。
  しかしながら、ケインズは『貨幣論』の刊行直後から、さらに自己批判的な理論的探究を進めており、激しい理論的格闘を伴いながら、ついには19362月に『一般理論』を完成させることになった。それは、不完全雇用量決定の理論を具体的に提示した最初の著作であり、経済理論上の一大画期(「ケインズ革命」) をもたらすものであった。ケインズ革命は、財市場の分析にみられる独自性(「有効需要の理論」) が『貨幣論』以来の貨幣市場の分析との調整を通じて、財市場と貨幣市場の相互関係で雇用量が決定されること、しかもそれは不完全雇用均衡に陥りやすいこと、を提示した貨幣的経済理論の誕生として特徴付けることができるであろう (『一般理論』については第話で述べることにしよう)

§ 第2次大戦 §

2次大戦時、ケインズは請われて大蔵省にアドバイスを与える役職を引き受けた。19407月のことである。正式の官僚としてではないが、大蔵省が対処していかなければならない重要課題に具体的な構想を提案していくことを要請されてのポストであった。爾来、彼は、このポストから実に多岐にわたる重要な活動を展開することになる。
 その活動は3つの分野に分けることができる。

1の分野は差し迫ったイギリスの国際収支の悪化にかんするものである。彼は事態打開のためアメリカからの借款交渉の陣頭指揮に立った。

2の分野は戦後の世界秩序形成にかんするものである。このなかで最も有名なものは、第2次大戦後の国際通貨体制として提唱された「国際清算同盟案」であるが、それ以外にも、救済復興問題、一次産品問題(商品政策)通商政策、賠償問題等の領域で注目すべき提案を行なっている。その多くは大蔵省の、そしてイギリス政府の公式見解として採用され、ケインズ自らが代表者となってアメリカ側に提示され協議された。ここでは、そのうち国際清算同盟案、救済復興問題および商品政策(1次産品問題)について、言及しておくことにしよう。
 
(i) 国際清算同盟案 ― 1942828日に作成されたケインズの国際清算同盟案 (ICU) は次のようになっている。最初に、メンバー国間での合意によってそれぞれの「平価」が決定され、あとは基礎的不均衡が生じた場合に、合意のうえでその変更を当該国に許すシステムである。したがって固定為替レートシステムである。
メンバー国は「バンコール」表示による口座を有し、それにより国際的な決済を行っていくことになる。すべての対外取引は各国中央銀行のバンコール勘定に持ち込まれる。そこに行く過程で業者は代金を固定レートで受け取ったり、支払ったりする。したがって、為替レートが売り手と買い手が参加する外為市場で決まるという今日のような変動為替相場が主要な役割を演じるということはない。もちろん個人が外貨を両替することはできるが、それも固定されたレートで行われるだけになるであろう。
       そして、メンバー国で国際収支の赤字や黒字の累積的慢性的増加が生じるのを防止するために、一定額を超過するメンバー国にたいしてはペナルティを課すこと、ならびに当座貸越 (オーバードラフト) を許容し、世界経済の成長に資するような通貨システムにすることが標榜されていた。
 
英米の国際通貨体制をめぐる交渉は、国際清算同盟案案とアメリカ側の「国際安定化基金案」(ホワイト案)の対決というところからスタートしたが、最終的には後者の採用で決着をみた。

() 救済復興問題 ― 戦後の救済復興問題をめぐるケインズのスタンスは非常に複雑な軌跡を描いている。当初、ケインズは「中央救済復興基金」構想(様々な国からの現金もしくは現物拠出に基づく共同基金による運営) を提唱していた。だが1942年のはじめになると、考えは大きく変わっている。イギリスの戦後の貿易収支がきわめて困難なものとなり、外国からの借入れなしにはイギリスの拠出は難しくなるから、救済復興問題をめぐるこれまでの考えを改めるべきである、との判断からである。そこで、「中央救済復興基金」構想は放棄され、代わって「レンドリース制度」(アメリカからの、軍事物資購入資金)の継続を重視する方針が採用されている。戦争が長期化するなかで、いわばなし崩し的に実現をみたレンドリース制度を拡張させるという現実主義的な路線への転換である。その後、ケインズは、レンドリース制度の継続を希望するという現実主義的な路線をベースにしつつも、他方で「中央救済復興基金」構想がもつ若干の特徴を「連合理事会」という既存の機構に担わせる、という中間的な案を提示している。これは若干の修正を経て大蔵省の正式案となった。

 () 一次産品問題(商品政策) ― ここでは「商品(一次産品) の緩衝在庫案」の立案者としてのケインズの活動が中心的なテーマとなっている。この点については、その案の背後に、ケインズが「ニューリベラリズム」(第3話で言及)ならびに「貨幣的経済学」を提唱していた点に留意する必要がある。
「商品の緩衝在庫案」の基本的な発想も、競争的市場制度は緩衝在庫を嫌うため価格の激しい変動を引き起こしており、それを防止する(ならびに生産者の所得を安定化させる)ためには「国際緩衝在庫案」が必要である、との認識に立っている。
        ケインズはこの案をめぐり都合八度の書き直しを行なっている。ここでは第5次草案に言及する。原材料の国際統制を行なう方法としては「制限」(生産規制)を目指す方法と「安定化」(価格の安定化) を目指す方法があるが、制限は全般的な利益をもたらすことはないので、主として個別的ならびに全般的の双方における安定化が目指されている。その中心的な構想が「コモドコントロール」と呼ばれる国際機関の設置である。それは緩衝在庫を保有し、その操作を通じて世界市場での需給の変動を吸収することにより、商品価格の安定化を図ることを目的としている。しかし、緩衝在庫計画だけでは、事態が悪化するような場合があるかもしれない。そのような場合には、制限計画が緩衝在庫計画を補完する(あくまでも)一時的な救済手段として用いられるべきである、とされる。この計画にはもう一つの重要な主張が込められている。それは、関係する生産者に適切な所得を保証することにより彼らの生活を安定化させるというものである。
 
3分野は戦後の国内秩序形成にかんするものである。雇用政策と社会保障計画がこの分野に属している。

(i) 雇用政策 ― 雇用政策におけるケインズの理論政策両面においての影響力は圧倒的であったといえる。それは、ケインズの影響を受けて育った若手のミードやストーン、それに戦間期の市場経済のみじめなパフォーマンスにたいする懐疑から国家による積極的な政策を模索していたロビンズやベヴァリッジ等の精力的な活動を通じて、そしてそれを熱心に支持するケインズ自らの活動を通じて、波及していった。このことは大蔵省の反対にもかかわらず、経済部はもちろんのこと,商務省をはじめとする他の省庁の閣僚達が熱烈にミード案を支援するという状況があればこそ、実現できたことである。興味深いことに、そしてパラドキシカルなことに、失業の分析を主題として展開された『一般理論』は、インフレ期における総需要分析のかたちをとりながら1940年代に雇用政策の基本的な原理として浸透していった。

() 社会保障計画 ― 社会保障計画といえばベヴァリッジの名とともに知られるが、ケインズはベヴァリッジ案の成立に際しての重要な貢献者の1人である。彼のベヴァリッジ案にたいする総合的な金融的評価は次のようなものであった ─ この計画の財政は、社会的に受入れ可能な拠出金率の増加に本質的に依存しているが、提示されている額は十分に妥当なものであり、しかもこれが「かくも広範囲に及ぶ計画を、大蔵省の負担するコストが非常に控え目なもので実行可能」にしている、と。
しかし、ケインズは、この提案のまったく新しい特徴である、給付金および拠出金を現在の拠出者階層にたいしてだけではなく全国民に拡張すること、ならびに医療職の即時の社会化については延期した方が得策であり、まずはありふれたことを大幅に簡素化することに専心した方がよい、とアドバイスしている。
ケインズは、ベヴァリッジ宛の手紙で、ベヴァリッジ案を高く評価し、その前途に惜しみない賛辞を表明している。


これらを検討していくと、政策立案家としてのケインズが、当時のイギリスにあっていかに指導的な立場にあったのかが明らかになる。それは、国内での強力な指導力の発揮、および国際舞台での(アメリカの力を前にしての) 挫折の繰り返しであった。一方でケインズ的な社会哲学の浸透と、他方で世界政治経済の舞台での大英帝国の惨めな敗退 - このコントラストをケインズは身をもって味わったのである。19463月に「国際通貨基金」および「世界銀行」の創立会議に理事として出席したが、帰国直後、持病の心臓病で亡くなっている。