ケンブリッジの経済学を
のぞいてみると
平井俊顕
本話の目的は、20世紀前半のケンブリッジ学派に属する経済学者が主要課題の1つとして取り組んだ景気変動論の検討を通じて、当学派の特質の一断面を明らかにすることである。そのさい同学派にみられる2つの潮流に注目してみたい。1つは始祖マーシャルに関連する流れであり、もう一つはヴィクセルに端を発する貨幣的経済学の流れである。
ξマーシャルの流れξ
1. マーシャル
マーシャルの経済学体系は、需給均衡による交換の理論、現金残高アプローチによる貨幣数量説および信用循環理論から構成されている。このうち貨幣理論である後2者は『貨幣、信用および貿易』(1923)で展開されており、通貨にたいする一般的信用が正常な状態、正常ではない状態で各々成立するものと位置づけられている。
マーシャルの信用循環理論は公衆の心理と乗数波及過程を基本に説明されており(公衆心理の変化が変動を引き起こす要因であり、乗数波及過程は経済の基本的なメカニズムとされる)、それに投機家の行動が変動を激化する要因として追加されるかたちになっている。そしてマーシャルは確信の欠如こそが不況の主要な原因であると考えるのである。確信の欠如は信用を動揺させ、ひるがえって信用の動揺により経済は総供給を総需要に調整させることに失敗する。
だがマーシャルの貨幣理論は断片的であり、その一層の発展は弟子達に委ねられることになった。ここではその流れに属するものとしてピグーおよびラヴィントンの理論を取り上げることにする。
2.ピグー
ここではピグーが『産業変動』(1927)で展開した理論(これは主著『厚生経済学』(1920)の第5部の拡張である) を対象とする。ピグーは産業の変動を失業の変動、そして失業の変動を雇用量の変動ととらえる。雇用量は労働の供給関数と需要関数の交点で決定される。ピグーはこの基本命題から議論を出発させ、産業変動の近因は労働の需要関数にあり、さらにそれは「産業支出」から得られる利潤に関しての企業家の予想の変化に依存すると結論づける。こうしてピグーにあっては、企業家の予想変化が景気変動の最も重要な要因として抽出されることになる。
ピグーの景気変動論は2つの分析で構成されている。1つは景気変動の大きさを規定する要因の分析である。景気変動の大きさは、景気変動を始動させる原因とそれらが作用する複雑な機構としての環境条件に依存するとされる。前者(これが「産業支出」から得られる利潤に関しての企業家の予想の変化の背後に存在する原因である) としてピグーは、実物的原因(収穫の変動、発明等)、心理的原因(楽観、悲観という過誤)ならびに自律的な貨幣的原因をあげる。また後者としては、貨幣的・金融的制度(主要な問題はいわゆる「強制貯蓄」である) 、市場を阻害する産業家の政策、賃金率の硬直性をもたらす労働者の政策をあげる。この分析においてピグーはとりわけ、企業の心理が不当に振動することによる影響ならびに乗数波及過程を重視している。もう1つは景気変動の規則性を規定する要因の分析である。1つはそれ自身は散発的であるが一度生じると波状運動を引き起こす原因(一定期間の使用後廃棄される人工構築物の性向、企業家のあいだでの楽観的および悲観的過誤の交代、ならびに貨幣の側面における過程等)であり、もう1つはそれ自身周期的に繰り返される原因(収穫の変動等)である。
以上からも分かるように、ピグーの景気変動論は心理的要因を非常に重視している。だが実物要因や金融的側面さらには乗数波及過程を視野に入れた分析でもあるのである。
3. ラヴィントン
ラヴィントンは『イギリス資本市場』(1920)の著者として知られる。彼はそこで貨幣市場の機能を、貨幣の創造と資本の運搬(これは「強制貯蓄」と関連する)としてとらえ、「正常」な状態、および正常ではない状態でのその働きを分析している。後者はラヴィントンの景気変動論を構成しているが、叙述は分散している。そのためここでは『景気循環』(1922)を取り上げることにする。それは主要な考えをマーシャル、ピグーおよびロバートソンからとったとされており、それゆえ当時のケンブリッジにおける支配的な考え方が集約的に示されたものになっている。
ラヴィントンの基本的な命題は2つの部分から構成されている。1つは産業活動の周期的な変動の発生にとっての重要な条件である。現代の産業組織には経済の周期的な変動や累積的変化を促進する特徴(独立した企業家による生産組織、企業判断の、事実よりも予想への基礎づけ、企業の相互依存性等)が備わっているとされる。もう1つはこれらの条件のなかで周期的な変動を実際に引き起こす原因である。それは企業確信の水準の変化であるとされる。この基本的な命題をラヴィントンは次のように敷衍している。
(i) 企業確信の増大は企業活動の増大(生産の増大) を引き起こす。
(ⅱ) 企業確信の増大と乗数波及過程の2点から企業の相互依存性を重視する(しかも社会における有効な購買力に着目する)。
(ⅲ)景気変動における貨幣的要因は重要ではない。
(ⅳ)景気変動の大きさと周期性にとって根本的に重要なのは
企業確信の水準の変化である。
以上にみたように、マーシャルの流れでは、企業家のいだく確信という心理的要因ならびにそれらが波及する枠組みである乗数波及過程が重視されている。
ξヴィクセルの流れξ
ここでいうヴィクセルの流れとは、相対価格の理論と貨幣数量説から構成される新古典派経済学にたいする内在的批判から発生した一群の貨幣的経済学のことであり、ヴィクセルを嚆矢とするものである。
ヴィクセル自身は相対価格の理論を「ワルラス理論+ベーム- バヴェルクの資本理論」のかたちで継承する一方、絶対価格決定の理論としての貨幣数量説に批判の矛先を向け、それに代わるものとして累積過程の理論を提示した。リンダール、ミュルダール(ストックホルム学派) やミーゼス、ハイエク(オーストリア学派) に代表される多くの経済学者がヴィクセルの発想を批判的に受け入れつつ、新古典派の二分法体系そのものを批判し、それに代わる貨幣的経済学の構築をめざしたのである。
ケンブリッジ学派に属するロバートソンやケインズの業績もこの流れのなかに位置づけることができる。
ロバートソンは1926年に『銀行政策と価格水準』を発表した。これは『産業変動の研究』(1915)の「非貨幣的議論」(いわゆる過剰投資理論) に、貯蓄、信用創造ならびに資本成長のあいだの関係についての議論を織り込んだものである。同書はヴィクセルから直接の影響を受けたのではないが(実際にはアフタリオンやカッセルから大きな影響を受けている) 、理論内容からみて多くの共通点を有する。そしてこのロバートソンの理論から大きな影響を受けて成立したのがケインズの『貨幣論』(1930)であった。ケインズはそこで展開した自らの理論を明示的にヴィクセルの流れに位置づけている。なおマーシャルの流れとも、そしてヴィクセルの流れとも異なる景気変動論(ただし後者の流れに近い)をきわめて早い時期から独自に展開したのがホートリーである。彼はケインズ『一般理論』(1936)の成立に大きな影響をおよぼしている。
1. ロバートソン
「銀行政策と価格水準」という題名は、銀行組織による貨幣創造政策は、生産物のうち生産拡張のために必要な部分を企業家が購入することを可能にさせ、その結果生産物の価格水準を上昇させるという主題を集約的に表現したものである。彼の基本的な考えは、銀行組織による不足資金の供与により、企業は生産の増大に必要な(実物)流動資本の購入が可能となり、したがって次期にはその増大により生産の増大を実現できるというものである。このとき貨幣量は増大し、そのため消費財価格は上昇する。
ロバートソンの景気変動論は実物要因と貨幣要因の関係を重視する。実物要因は生産量変動の独立的な要因と考えられており、景気変動の出発点におかれている。彼は生産量の変動を「適切な変動」と「不適切な変動」に分ける。生産物の適切な量は規則的な性質の「正当化されうる」一連の増減を伴うものであり、現代経済の技術的ならびに法的な構造に深く内在している。現実に生じる生産量の変動のうち「適切な変動」を上回る「不適切な変動」は近代産業の技術的特徴である巨大で高価な耐久生産手段の使用に起因する。他方、貨幣的要因は銀行組織の行動との関係でとらえられている。生産量を増大するにはそれに見合う流動資本が予め必要であるが、その購入にはそれに見合うラッキングの調達が必要である(ラッキングという特有の概念は、生産物のうち消費されない部分に対応する「何もしないですます」行為を指している。この部分を購入するのは企業である。貨幣経済ではそれは貨幣で購入されるから、ラッキングとはそのための資金であると考えてよい)。必要なラッキングに不足が生じる場合には、銀行組織がそれを補う。生産された消費財は、公衆によって消費されるか企業によって流動資本として利用される。流動資本にたいする企業の需要が強い場合、公衆から消費財を奪う必要が生じるが、これを可能にするのが銀行組織による企業への信用供与というわけである。
ロバートソンの景気変動論では、「ラッキングの需給」という考えが分析の中枢を占める。景気の局面に応じて、ラッキングにたいする需要と供給の量に変化が生じるが、その差額に経済がどう対処するのかは専ら銀行組織の行動に依存する。産出量増大の実現には流動資本が必要であるが、そのためにはラッキングの調達が不可欠である。他方、ラッキングの供給は退蔵(当期の生産物を販売して得た貨幣が資本の創出に適用される保証もなく貯蓄される場合のラッキングのこと)により生じる。だがラッキングの供給は、ラッキングにたいする需要の大量かつ不連続的な増大に対処できるほど弾力的には増大しない。この需給ギャップを埋めるのが銀行組織である。景気上昇局面で発生するラッキングの大幅な超過需要は、銀行組織の信用供与によってのみ満たされる。その、経済への帰結が「押しつけラッキング」(「強制貯蓄」)である。もしこのようにしてラッキングが満たされる場合には、必要な流動資本の調達が実現し、したがってしばらくの後生産量も増大する。そのときには貨幣量も増大しているから価格水準の上昇が生じる。他方、もし銀行組織が信用をまったく供与しない場合には、企業は必要なラッキングを調達できないため、流動資本の調達は実現せず、生産量も増大しない。そのときには貨幣量も増大していないから、価格水準は安定したままである。かくして生産量の安定と価格水準の安定はトレード・オフの関係にある。
いま銀行組織は必要なだけ貨幣を供給するとしよう。このときラッキングにたいする超過需要は解消されるが価格水準は上昇する。そしてひとたび価格上昇が始まると、企業による消費や投資の増大、生産期間の長期化、消費者の非退蔵および企業による直接的なラッキングの実施といった要因により、たえずラッキングにたいする超過需要が発生する。これに対応して銀行組織が貨幣供給を続けていくと、価格水準は累積的な上昇を続けていく。これがロバートソンによる景気変動論の骨子である。
2.ホートリー
ここでは2冊の著書によりホートリーの景気変動論をみることにする。『好況と不況』(1913)では銀行の行動が決定的に重視されている。銀行は現金保有との適正感で信用貨幣量の調節をはかろうとする。両者の関係が不適正であると考えた場合には、信用貨幣量を減増しようとして利子率を上下させるのであるが、銀行のこの行動が景気変動を引き起こすとホートリーは考える。景気変動の根本的な原因は、現金(中心は賃金支払い) の変動が信用貨幣(これは購買力になる)の変動にかなりのタイム・ラグを伴って生じるという点にある。このため銀行のとる行動が、景気の変動を防止するのではなく景気変動を引き起こすとされる。
いま銀行が、保有現金に比べ信用貨幣量が多いと考えたとしよう。このとき銀行は、過剰な信用貨幣を削減しようとして(短期)利子率を引き上げる。この結果引き起こされる経済変動を、彼は主として2つの側面から説明する。1つは、商人が在庫保有コストの上昇により生産者への発注を削減し、ひるがえって生産者も生産を削減するという側面である。このため両者は銀行からの資金借り入れを減らすため、信用貨幣量が減少する。もう1つは、信用貨幣量の減少により社会にある信用貨幣残高が減少するため、財にたいする購買力が減少するという側面である。この2つの側面の相互作用により経済は累積的に下降していく。この過程では、卸売価格、小売価格および賃金の下落が続く。換言すれば、これは、利潤率は利子率から乖離すると累積的に乖離幅を拡大させるということである。利子率、賃金および物価のうち最も下落するのは物価であり、したがって利潤率は利子率からの乖離幅を拡大していく。また失業の発生するなかで賃金は下落を続けるが、その変動は物価の変動よりも緩慢である。こうして銀行の現金保有は信用貨幣量に比べて過剰になっており、そのため銀行は信用貨幣量を増大させようとして利子率を引き下げる。この後は、上記とまったく逆のメカニズムで好況過程が進行する。
もう1つは『取引と信用』(1928)である。ホートリーはそこで『一般理論』に先駆ける理論を、「消費者所得」と「消費者支出」(投資支出も含む概念) をキー概念として展開している8 。彼は景気循環の実体を「有効需要」の変動(消費者支出の変動) ととらえ、その変動の原因を銀行信用の不安定な動きに求める。景気の変動は「消費者所得」と「消費者支出」に乖離が生じる「過渡期」において生じる。銀行による信用の縮小は、消費者支出を縮小させ、消費者所得との乖離が発生する。消費者所得は縮小するが、商人の現金残高は新しい状況に徐々に調整していくため両者の乖離は続くのである。そしてホートリーは不況の原因を有効需要の不足に求めるのである。興味深いことにホートリーはケインズの『貨幣論』批判をこの立論に基づいて展開しているから、彼の考えは『貨幣論』よりも『一般理論』に近いといえる。ケインズはホートリーからの影響についてはほとんど触れてはいないが、以上からも『一般理論』に至る過程でホートリーの影響は非常に大きかったことを窺い知ることができるであろう。