ケインズの経済学って
どうやってできたの
これまで、第1話でスミスからのイギリス経済学の歴史的概観、第2話でケンブリッジ学派の経済学者がどのような経済理論を展開していたのかをみてきた。本話では本書の最も重要な主題であるケインズが自らの経済学をどのように創り上げていったのかを説明していくことにする。
すなわち、本話は『貨幣論』から『一般理論』に至るケインズの理論的変遷を専ら、この2書ならびにその間に書かれたさまざまな草稿を基にしつつ追究し、そのうえで「ケインズ革命」について若干の考察を試みることにする。
ξ 『貨幣論』ξ
『貨幣論』がヴィクセルの流れに属しているというのは、貨幣数量説にたいする批判(マーシャルの現金残高数量説および投機家の行動を重視した信用循環理論にたいする批判) のうえに、ヴィクセル的な論点を重視しつつ、自らの貨幣的経済理論が展開されているからである。また明確に意識されているわけではないが、古典派の二分法も事実上否定されているとみてよいであろう。
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さて『貨幣論』の理論構造における顕著な特徴は、ヴィクセルの流れに属する理論と固有の理論の双方がみられ、しかもそれらは併存しているという点にある。
『貨幣論』がヴィクセルの流れに属するというのは、次のような事実に基づく。
(i) 自然利子率と貨幣利子率との相対的関係による物価水準変動の説明、
(ⅱ) 価格水準を安定化させるうえでのバンク・レート政策の重視、
(ⅲ) いわゆる貨幣的均衡の3条件(自然利子率と貨幣利子率の均衡、投資と貯蓄の均衡、物価水準の安定)の同値性の承認。
ただし、ケインズが自らの立場をヴィクセルの流れにおく最
大の根拠は、バンク・レートを貯蓄・投資との関係でとらえ
る発想にある。『貨幣論』では、この発想はバンク・レート
政策により、貯蓄と投資の変動を通じて経済の安定( 物価と
産出量の安定) が達成されるメカニズムとして採用されてい
る。
『貨幣論』固有の理論構造は、以下に説明する(メカニズム1)と(メカニズム2)の「TM供給関数」を通じた動学過程として表現できる。
まずある期間における消費財および投資財の価格水準が決定される。
(メカニズム1)- 「任意の期」における消費財の価格水準の決定。
当期の初めに決定されている生産費および供給量のもとで、消費財への支出額が稼得から決定されると、それは消費財の売上げ額として実現され、そのとき価格と利潤は同時に決定される。これは周知の「第1基本方程式」と事実上同じである。
(メカニズム2)- 「任意の期」における投資財の価格水準の決定。
当期の初めに生産費および供給量は決定されている。投資財の価格は株式証券市場で(いわゆる「弱気関数の理論」)、または資本財があげると予想される収益を利子率で割り引くことによって決定される。そのとき利潤も決定される。
(メカニズム1)により消費財の価格水準と利潤が、(メカニズム2)により投資財の価格水準と利潤が、それぞれ決定される。両部門の実現利潤( 損失) に刺激されて、企業は来期の生産を拡張(縮小)するように行動する(これを「TM供給関数」と呼ぶことにする) 。来期にはこのようにして決定された生産量を所与として、ふたたび(メカニズム1)と(メカニズム2)が作動する。
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『貨幣論』で展開されている以上の理論には、3種類の「二重性」がみとめられる。まず消費財価格決定理論の「二重性」( 消費額を決定する理論として、ときには(a) 稼得を、ときには(b)利子率を採用) 、投資財価格決定理論の「二重性」( ときには(c)弱気関数の理論を、ときには(d)予想収益を利子率で割り引くという考え方を採用) が根底にある。この2種類の二重性のうえに、ヴィクセルの流れに属する理論と「固有の理論」の併存という「二重性」が横たわっている。つまり、前者としては(b)と(d)を用い(主としてバンク・レートによる経済政策論の展開に使用)、後者としては(a)と(c)を用いている。
ξ『貨幣論』から『一般理論』へξ
ケインズはどのようにして、ヴィクセルの流れに属する『貨幣論』から『一般理論』に至ったのであろうか。そしてその結果、出発点としての『貨幣論』と到達点としての『一般理論』は、どのように異なったのであろうか。
1. 変遷過程
『貨幣論』の理論構造(上述の「固有の理論構造」を指すものとして用いる) が維持されている時期は、1932年中葉の草稿「生産の貨幣理論」(『ケインズ全集』第13巻所収 [以下、第13巻と略記する]。最初の章の題名からこう呼ぶことにする) ないしは1932年度のミカエルマス学期の半ば(11月中旬) までである。ケインズは「TM供給関数」の概念を非常に重視していた。J・ロビンソンからの手紙に答えて曰く、「わたしがいいたいことは、… 全体としての利潤の増加は、全体としての産出の増加をもたらすと考えることが合理的であるということにほぼつきます」。
『一般理論』の世界への「転換点」は1932年末の草稿「貨幣経済のパラメーター」(第13巻所収) に求めることができる。ここにおいて「TM供給関数」は財市場の分析から実質的に姿を消しており、その帰結として『貨幣論』とは著しく異なる理論モデルが提示されている。「TM供給関数」の消失は小さな転換ではなく質的な転換である。そのことにより価格や生産量の決定に利潤は関与しなくなり、モデルは投資・貯蓄の均衡を前提にした同時決定の体系になっているからである。
1933年に執筆された3つの草稿から判断すると、この時期ケインズは、『一般理論』の第3章「有効需要の原理」の源流に到達しており、雇用量の決定に関して、その均衡および安定条件を論じている。だがケインズの立論には多くのあいまいな点がみられ、その意味でケインズは「模索」状況にあった、といえる。第1草稿「雇用の貨幣理論」(第13巻所収) では有効需要の原理に通じる最初の方程式体系が展開され、第3草稿「雇用の一般理論」(『ケインズ全集』第29巻、第13巻所収) では「有効需要」の概念を中心に議論が展開されている。3つの草稿を検討するさいの核心的問題は、ケインズが「会計期間」という期間概念を用いつついわゆる「古典派の第1公準」を承認するとともに、「準TM供給関数マーク2」(利潤の関数として雇用量を示すものであり、均衡雇用量の、決定ではなくその安定条件を扱っている。これをこう呼ぶことにする)をも継承している第2草稿「雇用の一般理論」(第13巻所収)をいかに整合的に説明できるかにあるであろう。
1933年末から1934年前半にかけての「2つの日付け不明の草稿」(いずれも第13巻所収) の頃に、『一般理論』は「確立」したと考えられる。消費理論の事実上の完成と投資理論の改善がみられ、これらの領域が確立しているからである。さらに1934年春の草稿「雇用・利子および貨幣の一般理論」(第13巻所収) の頃は、「生誕前夜」ということができる。有効需要概念と雇用量決定理論をめぐり立論は錯綜しており、その意味でケインズの苦闘の跡が最も鮮明にみられる時期である。
『一般理論』の校正過程は、1934年以降『一般理論』に至るまで続いている。「初校ゲラⅠ」(1934年9月から12月にかけて分散しているゲラをこう呼ぶことにする) では、有効需要、投資、主要費用の定義は、使用者費用を含むか否かにより『一般理論』の定義とは異なる。たとえば、初校ゲラIから第3校ゲラ(1935年6月頃のゲラをこう呼ぶことにする) に至るまでは一貫して、実現値である所得と予想値である有効需要は使用者費用の分だけ異なっており、使用者費用を含む有効需要が雇用量の決定にとって重要であると主張されているが、この考えは『一般理論』にはない。
以上の変遷過程のなかで、とくに重要なのは雇用量の決定理論である。ケインズが分析の中心を雇用量の決定におくようになるのは、1933年の第1草稿からである。それより以前では価格が重視され、数量の決定は「TM供給関数」によって担われていたのである。
2. 比較
『貨幣論』と『一般理論』との比較を、後者を基準として貨幣市場と財市場に分けて行なうことにしよう。
貨幣市場については、「弱気関数の理論」は「流動性選好」の登場により消失するが、資産選択という基本的な発想は『一般理論』に継承されており、断絶がないわけではないが概して連続的である。両書に展開されている理論は、貨幣のもつ役割を重視する貨幣的経済理論である。『一般理論』においても、利子率のもつ調整機能は重要である。ある利子率のもとで、投資の変化は所得の変化を通じて同額の貯蓄の変化をもたらし、そのことによって国民所得が創出される。さらに利子率は、均衡国民所得に至る調整過程でふたたび重要な役割を演じる。
財市場については、両書のあいだに理論上の連続性はみられない。ケインズは雇用量の決定メカニズムを提示した最初の経済学者であり、これが「ケインズ革命」の実体である。本話の立場は、『貨幣論』は流動性選好の本質を含んでいるが「有効需要の理論」を含んでいないという認識においては、パティンキンと同じ立場である。『貨幣論』は過渡期の分析に重点をおいており、その動学性を担っているのが「TM供給関数」であった。他方『一般理論』は雇用量の決定に重点をおいていた。だからこそ1933年の第1草稿における雇用量決定の方程式(上記で「有効需要の原理に通じる最初の方程式体系」と呼んだもの) がもつ意義は重要なのである。
ξケインズ革命ξ
ケインズ革命を理論史的見地から語るさいには、本話で取り上げた範囲内では2つの問題に答える必要がある。1つは『貨幣論』を当時の経済理論の潮流のなかでどのように位置づけるかであり、もう1つは『貨幣論』と『一般理論』の関係をどのようにとらえるかである。
第1の問題について - 何よりも『貨幣論』は、新古典派体系批判に基づいた貨幣的経済理論の構築をめざしたものであり、その理論構成も半分はヴィクセルの流れに属している。ただし弱気関数の理論にかんするかぎり、それはマーシャル的貨幣理論の精緻化としてとらえることができる。
第2の問題について - 『一般理論』では、新古典派体系にたいする批判は、『貨幣論』とは異なり、明示化されたうえで、新しい貨幣的経済理論の構築がめざされている。そのかぎりでは『一般理論』もヴィクセルの流れの延長線上にあるといえよう。だがここでより重要なことは、『一般理論』においてはじめて雇用量決定の具体的理論が提示されたという点である。そしてそれが確立された時期が、すでにみたように、1932年末から1933年初めにかけての頃であった。ケインズ革命は、財市場の分析に独自性がみられ、それに『貨幣論』以来の貨幣市場分析が調整されることにより生まれたものであり、それは両市場の相互作用で雇用量が決定されることを提示した貨幣的経済理論の誕生としてみることができるであろう。
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最後に、ケインズを取り巻く当時の経済学の環境に関連して重要と思われる論点を2つ記しておくことにしたい。
第1に、景気変動論を特殊分野の問題ととらえるべきではない。むしろそれは理論経済学の根本的なあり方をめぐる問題である。ヴィクセルの流れにおいては、景気変動論は、古典派の二分法ならびに貨幣数量説にたいする強烈な批判意識に基づきつつ展開されたのである。ただしケンブリッジ学派では、『一般理論』に至るまではそのような意識は弱かったといえる。
第2に、本話で言及したマーシャルの流れとヴィクセルの流れという分類は、ケンブリッジにおける景気変動論の流れをとらえるうえで有効なものであるが、そのことはすべてを完全に白黒をつけて分けられるということを意味するものではない。たとえば、ロバートソンや『貨幣論』のケインズがヴィクセルの流れに属するといっても、両者がケンブリッジ特有の現金残高アプローチを継承しているという事実は、厳然として存在するのである。