2014年6月7日土曜日

『一般理論』ってザックリ言ってどんな本


『一般理論』ってザックリ
言ってどんな本


                          平井俊顕


本話では『一般理論』(1936
)についてできるだけ分かりやすく説明することにこころがける。正式の題名は少し長く、『雇用利子および貨幣の一般理論』という。どの著者もそうだが、題名には意を用いる。著作で述べたいと思っていること、訴えたいと願っていることを、そこに凝縮させようとするためにである。『一般理論』の題名に登場する単語は、「雇用」、「利子」、「貨幣」、「一般理論」である。ケインズはこれらの言葉をなぜ選んだのであろうか。
               ξξ
それを説明する前に、私たちが生活を営んでいる資本主義経済(あるいは市場経済)の仕組みに触れておくことにする。それは概略、次のようである。私たちは企業に職を得、そこで働くことで給料を得る。企業は、私たちの労働サービス、それに種々の設備を活用して、商品を生産する。そして私たちは給料でそれらを購入する。こうしたことが、無数の人々、無数の企業によって日々行われている。無数の商品サービス取引が、人々が互いに何の面識もないにもかかわらず円滑になされているのは、「市場」のおかげである。売り手、買い手は互いに何の面識がなくても、この市場という機構 ― あまりにも慣れすぎていて、だれもその魔力性に気づかずにいる不思議なもの ― を通じて売買が円滑になされていく。個人的な人的靱帯は解体され、人々が自立した存在となった社会、そして「市場」を通じて結成されたネットワーク。資本主義経済とはこうしたシステムである。
                ξξ
ケインズが『一般理論』で問題としているのも、こうした資本主義経済である。そこにあって、雇用量はどのようにして決まるのであろうか。1つの国民経済で、多くの失業者が長年にわたり存在するといったことはなぜ生じるのであろうか。その原因は、そしてそのメカニズムは等々。これが彼の中心的な問題関心であった。「雇用」という用語は、この意味で用いられており、その雇用が決定されるメカニズムを示す ― 特殊理論ではなく― 「一般理論」を提示するというのが、「一般理論」という語が用いられている所以である。
雇用には3種類のタイプがある。「摩擦的失業」、「自発的失業」、それに「非自発的失業」である。このうち「摩擦的失業」は ― 例えば季節的な変動をこうむる産業の場合 ― 雇用の調整がうまくいかずに生じる構造的な性質のものである。また「自発的失業」は自らの意思で失業を選択するケースである。『一般理論』で問題にされているのはこれらではない。働く意思と能力があるにもかかわらず働く場を得られない状況、すなわち「非自発的失業」である。資本主義経済に大量の「非自発的失業」が発生するのはなぜか、完全雇用が実現しないのはなぜか ― これが彼の中心的な関心であった。  
この背景には、何よりも1920年代のイギリス経済が10パーセントを超える失業率に苦しんでいたという現実がある。それに1929年以降は、アメリカ経済を筆頭に世界経済が深刻な不況に陥っていた。こうしたなか、非自発的失業を解明する経済学が存在しないこと、そしてそれを解明する「一般理論」を提示すること、これがケインズが意識していたことである。刊行直後に、バーナードショーに宛てて書かれた手紙でのケインズの自信の表明は有名である。
                ξξ
さて、「雇用」、「一般理論」の用語の説明は終わった。残る「利子」、「貨幣」に移ることにしよう。そのためには、資本主義経済が貨幣経済であるという点を想起することが肝要である。私たちは、商品を買う際、保有する商品と交換するのではなく貨幣を用いる。企業は商品を売り貨幣を受け取る。私たちは貨幣を渡し商品を受け取る。あまりにも当然のことであり、何が問題なのか分からないほどだ。だが、経済学の世界では、伝統的に貨幣はヴェールのようなものであるという考え方が支配的である。ヴェールは、その向こうに存在する「真実」を覆っているだけだから除外して考えても問題はないというのである。こうした考えに立つと、市場における売買という現象も、商品間の交換としてとらえることができることになる。市場経済を無数の商品同士が交換される場ととらえ ― これは「実物経済」と呼ばれる ―、貨幣抜きで分析が進められていくことになる。そして貨幣については、貨幣の量が物価 ―つまり無数の財の平均的な価格 ― を決定するという理論が付け足されてくることで、役割が出てくることになる。「貨幣数量説」と呼ばれるものがそれである(フリードマンの「マネタリズム」はその現代版である)。つまり、伝統的な経済学では、交換は商品間で決定され、貨幣は物価の決定の場でのみ登場してくることになる。
 ケインズはこうした伝統的経済学 ― 彼はそこに、経済学で通常いうところの「古典派」と「新古典派」の双方を含める ― を批判し、それに代わるものとしての貨幣的経済学を提示する。「雇用の一般理論」は貨幣的経済学として展開しなければならないこと、この点は一貫して主張されている。資本主義経済において、貨幣は本質的な役割を演じている。なぜなら、貨幣は、将来にたいする期待(予想)を抱いていま行動を起こすことが基本となっている資本主義経済において、現在と将来をつなぐ結節環だからである。
 「将来にたいする期待を抱いていま行動を起こす」事例を2つあげておこう。1つは、企業家により行われる設備投資である。設備投資には多額の費用がかかる。そしてそれは何年にもわたり使用され、それを用いて生産される商品の販売から費用を回収し、なおかつ利潤を得なければならない。だが、そうした何年も先のことは実際には分からない。それでもなお、将来にたいして何らかの期待(予想)を設定して、いま資本設備を購入するという決定を下さなければならない。ケインズはこの期待を「長期期待」と呼ぶ。
そして投資は次のようにして決定されると論じる。企業家は、「長期期待」のもとで、もし当該設備を購入して生産活動を行ったとき、将来にわたりどれくらいの収益(「予想収益」)があげられるかを見込む。これと、当該設備の現在の取引価格(置換費用)から、どれくらいの利潤が見込まれるのかを計算する(これは「資本の限界効率」と呼ばれている)。他方、この投資を行うために、企業家は必要な資金を銀行から借り入れるが、そのためには利子を支払う必要がある。結局、企業家は予想利潤率(=資本の限界効率)が利子率と等しくなるところまで投資を行う ― これが彼の投資理論である。ここに「貨幣」、「利子」が登場してきていることに注目されたい。
  もう1つの事例は、家計(および企業)の「資産選択」である。どの経済主体も資産をどのような形態で保有するのかには神経を使う。ケインズはこの問題を、利子を生まない貨幣と、利子を生む債券とのあいだでの資産選択としてとらえる。次にケインズが問題としたのは、経済主体はなぜ利子を生まない貨幣を保有するのかという点であった。その解答として用意されたものが、「流動性選好理論」である。ここで「流動性」というのは、「貨幣」のことである。「選好」は「需要する」ということだから、「流動性選好理論」というのは貨幣需要理論という意である。「流動性」とは、いつでもその価値を減じることなく他の資産と交換できる性質のことである。たいていの商品は、一度購入すると、なかなか売ることはできないし、たとえ売れるとしても、相当な値引きが必要である。これは流動性が低いということである。ケインズはあらゆる資産のなかで最も流動性の高いものが貨幣であると考えたのである。
 では貨幣にたいする需要(流動性選好)は、どのようにして生じるのであろうか。それは3つの動機 ― 取引動機、予備的動機、投機的動機 ― に基づいて生じるとされる。取引動機は日常的な営業活動のために、また日々の生活のために必要とされるもの、予備的動機はまさかのとき、あるいはいい機会に備えて用意しておこうとするものである。これらに基づく流動性選好は、経済活動の水準(国民所得)に依存するとされる。最も特徴があるのは投機的動機であり、貨幣と債券間の資産選択に関係している。利子率が高くなると、人々は自らの資産をより多く債券の購入にあて、貨幣保有を減らそうとする(逆は逆)。したがってこの動機に基づく流動性選好は、利子率の減少関数であるとされる。
 以上は貨幣需要についての説明である。これに貨幣供給が対置する。これに関しケインズは、貨幣当局が裁量的に決定できるものと考えている。そして、上記の流動性選好と貨幣供給の交点で利子率は決定される。これが「流動性選好理論」である。そこでは、利子率は貨幣という流動性を手放すことにたいする対価と理解されている。
                ξξ
これまでの説明で、4つの用語の意味は明らかになったものと思う。繰り返すと、貨幣的な経済である資本主義経済における雇用の一般理論を示すこと、これが『一般理論』の主題である。

 「貨幣的経済」の意味をいま少し考えてみたい。それは貨幣が経済のメカニズムに本質的に関与してくることを意味している。伝統的経済学のように、貨幣を捨象して実物経済で分析し、その後に、貨幣には物価を決定する役割を付せばよい、という考え ―これは「古典派の二分法」と呼ばれる― では、資本主義経済は分析できない。それは、貨幣が生産や雇用に大きな影響力をおよぼす経済である。ケインズは、伝統的経済学を様々に批判している ― 「セイ法則」(生産されたものはすべて売れるという考え)を当然視している、完全雇用を前提にしている等々 ― が、煎じ詰めれば、貨幣的経済の視点から資本主義経済を分析しているのである。「貨幣が経済のメカニズムに本質的に関わってくる」という点がどのように展開されているのかは、すでに言及のケインズの投資理論と流動性選好理論からも検討がつくところであろう。流動性選好理論で決定される利子率が資本の限界効率と均等するところで投資が決定するとされているからだ。それだけではない。こうして決定される投資量が低いために失業が生じている(この点は後に説明する)という主張につながっている。そして利子率がある水準以下に下がらないことが、失業を引き起こしている、と主張されている。


              ξξ
『一般理論』がどのような問題意識をもっているのかは、以上で明らかになったであろう。そこで次に、雇用量決定の理論の具体的な展開をみることにしよう。
 それは、雇用量は2つの関数 ―「総需要関数」と「総供給関数」― の交点で決定されるというものである。横軸はともに雇用量、縦軸は、それぞれ総需要額、総供給額がとられている。総需要額は、任意の雇用量のときに、それから期待できる売上額、また総供給額は、任意の雇用量のときに、その雇用量で生産されたものの予想販売額のことである。総供給関数は、「労働の限界生産力は実質賃金に等しい」 ― これは「古典派の第1公準」と呼ばれている ― という命題から導出される。これは完全競争下にある企業が利潤を極大化するという内容をもつ。この関数にはとりたてて論じることはないとして、それへの言及は非常に少ない。
 重要なのは総需要関数の方だ。国民経済全体の生産物にたいする需要は消費需要と投資需要からなる。投資は、「資本の限界効率」(投資はこの関数である)が利子率と等しくなるところで決定される、というものであった。他方、消費財にたいする需要を決定する最大の要因は、人々が獲得する所得である、とされる。そのさい、彼は、消費に影響をおよぼす要因を2つに分けて検討している。1つは「客観的要因」で、これは国民所得以外に消費需要に影響をおよぼすと思われる要因のことである。もう1つは「主観的要因」で、これは制度的慣習的に維持されていると思われる要因である。
消費と所得のあいだには、次のような関係がみられるという。所得の増加につれ、消費需要は増大していくが、増加率は減少していく。限界消費性向(増加所得にたいする増加消費の比率のこと)という用語で表現すると、その逓減として表現できる。この現象は「基本的心理法則」と呼ばれている。
 以上をまとめよう。総需要関数は、消費関数と投資関数の和である。消費関数は逓減的な右上がりの曲線であり、投資が上乗せされるから、総需要関数も逓減的な右上がりの曲線になる。他方、総供給関数は、「古典派の第1公準」から導出されるが、ここでは収穫逓減(雇用の増大につれて生産は増大するが、増加率は減少するという現象)が想定されているため、逓増的な右上がりの曲線になる。そして雇用量は、両関数の交点で決定される。これが「雇用の一般理論」であり、「有効需要の原理」と呼ばれるものである。
 こうして決定される雇用量は、完全雇用には至らない(非自発的失業が存在する)のが資本主義経済の常態である、とされる。この現象は「不完全雇用均衡」と呼ばれる。こうした事態が生じるのは、有効な「総需要」 ―「有効需要」― が不足するからである。これが不足するのは2つの原因による。1つは消費需要の不足、もう1つは投資需要の不足である。消費需要は雇用量が増大するにつれて、伸びは減少していく(そのため、高い雇用維持のためには、投資需要が総需要と消費需要のギャップを埋めることが要請される)。投資需要の不足は、利子率が高すぎるからであるとされる。利子率が低くなれば、資本の限界効率表が一定であれば、投資は増大し、したがって有効需要も増大し、雇用量が増えるから非自発的失業を減らすことが可能となる。ケインズはこのように考え、利子率の低下しないことが、不完全雇用均衡をもたらしている、と考えたのである。
「貨幣」、「利子」が「雇用」の「一般理論」においてもつ意味、貨幣的経済である資本主義経済における「貨幣」と「利子」のもつ意味は、こうしてさらに明確になる。だから、『一般理論』で展開されている理論は「不完全雇用均衡の貨幣的経済学」と表現することができるであろう(以上、総需要関数と総供給関数という概念を基軸に、『一般理論』の雇用理論をみたが、これは投資と貯蓄が等しくなるところで雇用量が決定されるというかたちでも表現できることをあわせて記しておこう)。
                 ξξ
こうして資本主義経済は、自由に放任しておくと、有効需要の不足により、非自発的失業を生む傾向がある、という結論が引き出される。だが、ケインズは20世紀最大の経済政策立案家であったという事実を思い起こしてほしい。彼ほど、イギリス経済、そして世界経済(20世紀前半のイギリスは世界経済の一大中心であった)の実践に関与し、かつ指導的な影響力を発揮した経済学者はいない(この点は、第1話から明らかであろう)。
たしかに、ケインズは経済学の一大中心地であったケンブリッジ学派の輝ける星であった。それに20代の頃、ムーアの倫理学、ラッセルの分析哲学の影響を受けて「確率論」(それは、命題間の信条の度合いとして確率を規定するという内容をもつ)の研究に没頭したが、それは非常に抽象性の高い形式論理学的研究であった。ここでいいたいのは、ケインズが非常に現実的な政策思考を有する人物である前に、非常に抽象的理論的思考に優れていた人物であったという点である。
経済学に関する彼の3部作といえば、『貨幣改革論』(1923)、『貨幣論』(1930)、『一般理論』(1936)であるが、すべてに共通するのは、理論システムが政策立案者的視点から構築されている点である。それらの理論システムには人間が操作できる要因が明示されており、それを動かすことで経済にある影響力をおよぼすことができる ― そのような組立になっている。
                ξξ
『一般理論』は、ケインズの経済学の著作としては、珍しく純理論的な著作であり、政策的分析は非常に少ない。だがその理論は、政策立案者的視点が組み込まれるかたちで構築されている点には変わりはない。このことを強調するのは、先ほど述べた、自由放任経済が非自発的失業に陥る傾向がある、というケインズの言明はそこで終わらないからである。こう述べたうえで、資本主義経済は、有効な政策を打てば完全雇用を達成することが可能であり、またそうすべく努めるべきである、という考えが続いている。彼は生来、自信に満ちた楽天家であった。
『一般理論』には、いくつかの政策的立案が示されている。まず利子率の引き下げである。それには貨幣政策による貨幣量の増大が考えられる。そして貨幣のもつ特性により利子率が下がりにくい点を解決するために、「日付入り貨幣」案の提案もみられる。利子率の引き下げに限界があるとすれば、政府による公共投資の実施がある。これはケインズの名とともによく知られている政策であるが、これにより完全雇用達成のために必要な投資不足を穴埋めするという考えである。
                ξξ
かくして『一般理論』は、大不況下に苦しむ資本主義世界にあって、その苦境に何ら有効な政策を提示できない伝統的経済学に失望した若い経済学者、政策立案者の熱狂的な信頼をかちえることになった。それは言葉の広い意味での「革命」であり、経済の分析的枠組みのみならず、資本主義社会をみる見方をも大きく変えることになった。
そして彼の考えは、1970年代に至るまで支配的な影響力をもつことになった。以降、ケインズ理論に批判的な経済学の流行をみて今日に至っているが、それはケインズが提起した問題設定、資本主義についてのヴィジョンが、いわば「止揚」されるかたちで生じたのではない。それらをひたすら無視拒絶するかたちで進行しているのである。ケインズは眠らされているのであって死んだ訳ではない。
 大きな転機は20089月のリーマンショックによって生じた。「新しい古典派」というマクロ経済学が長い間支配的であったのだが、未曾有の世界的金融危機を前に何もなしえないという状況が現出したからである。いま、「新たなケインズ」の出現が待たれるのも、こうした状況に世界経済がおかれていることによるところが大きい。現在も、シャドウバンキングシステムは温存されており、第2のリーマンショックが襲来する可能性はかなりの程度高いのである。