2014年6月7日土曜日

彼の回顧話を聞いてみようか



   彼の回顧話を

   聞いてみようか


                                    平井俊顕


        §「メムワールクラブ」§

193899日は素晴らしく晴れた日であった。ロンドンから南に汽車で1時間ほど下った所にあるティルトンの別荘に、10数名の人々がある会合のために集まってきていた。別荘の持ち主はケインズであり、会合は「メムワールクラブ」であった。
 「メムワールクラブ」は1920年に設立されている。このクラブは「ブルームズベリーグループ」メンバーのためのものであり、各人の自伝的回想を読みあげることを目的としていた。そこではグループの信条であった「真実をつつみ隠すことなく話すこと」が義務付けられていた。会員は外部への発表は禁じられていた。
 「メムワールクラブ」は、ゴードンスクウェアにあるケインズの家、ウェリントンスクウェアにあるデズモンドの家、フィツロイストリートにあるダンカンとヴァネッサのアトリエ等で開かれてきた。
1938年といえば、クラブが設立されてからでも、すでに18年の歳月が流れている。99日はケインズが読みあげたが、これが今回取り上げる「若き日の信条」である。
  この日の参加者は本来のメンバーであるレナードウルフ、ヴァージニアウルフ、ヴァネッサベル、クライブベル、ダンカングラント、ケインズ、デズモンドマッカーシー、モリー(メアリー)マッカーシーのほか、クラブ設立後、かなり経過してから参加が許されたリディアケインズ、クェンティンベル、アンジェリカベル、ジェインブッシー、ディヴィッドガーネット、モーガンフォースターであった。
 ブルームズベリーグルーブの主要なメンバーは、社会的活動の表舞台であるロンドンのほか、生活の舞台をサセックスにもっていた。彼らはグループのプライバシーが守られ、静かな地での交遊を楽しみことのできる、そして思索や芸術に耽ることのできるカントリーハウスを求めたのである。クライブ、ヴァネッサ、ダンカンはケインズの邸宅のあるティルトンからほんの数百メートルの所にあるチャールストン(そのあいだを隔てる人家はない)に1916年以来住んでいたし、レナードとヴァージニアはすぐ近くのロドメル村にあるモンクスハウスに居を構えていた。
  「若き日の信条」はケインズ自らの手になる思想的自伝ともいえる。彼は優れた伝記をいくつも残している マルサス、ジェヴォンズ、マーシャルのものが、とりわけ有名 が、自叙伝は書かなかった。それに「若き日の信条」は、遺言により死後公表されたものでもある。この貴重なエッセイを検討することで、若き日のケインズ達の思想ならびにその推移をたどることにしよう(以下、引用は『ケインズ全集』第10巻『人物評伝』から)。          
 § 青年期の信条 §

「若き日の信条」は1902 - 1914年の期間、つまりケンブリッジ大学に入学した19歳から大蔵省に入省する32歳頃までのケインズの精神史を主題としている。その中心は「ソサエティ」でのムーアの影響をめぐるものであり、それを現在(1938年頃) という視点から振り返ったものである。以下、時期別にケインズ(達)の考え方を検討することで、彼(ら)の思想がどのような変化を遂げていったのかをみていくことにしよう。

1903三年(20歳)の頃
ムーアの主著『倫理学原理』(『プリンキピアエティカ』)は1903年に刊行されている。この書物はヘーゲル観念論哲学および功利主義哲学批判のうえに打ち立てられており、今世紀の英米における倫理学の出発点となった記念碑的な業績である。
 ムーアが当時のケンブリッジの若者に与えた衝撃はきわめて大きかった。1、2、例をあげよう。ムーアは1894年「ソサエティ」の「使徒」に選ばれているが、そのデビューについて、ラッセル(1872-1970)は電撃的な衝撃を覚えたと述べている。彼との出会いを機にラッセルはヘーゲル哲学を離れ、やがて新しい哲学(分析哲学)の創造へと進んでいった。またケインズは1903107日、友人の手紙で『倫理学原理』を倫理学についての「最高の作品と称揚している。ケインズが20代に最大の知的情熱を傾けた確率論研究は、この頃から始まっている。
  1903年頃のケインズ達の立場について、ケインズは次のように述べている。

「…われわれがムーアから得たものは、彼がわれわれに提供したもののすべてであったわけではけっしてない。彼は片足を新しい天国の敷居にかけていた〔「宗教」〕が、もう一方の足はシジウィックと、ベンサム主義の功利計算と、正しい行動の一般法則に突っ込んでいた〔後述の「道徳」のこと〕。…われわれはいわばムーアの宗教を受け入れて、彼の道徳を捨てた。じつは、われわれの考えでは、彼の宗教の最大の利点の一つは、それが道徳を不要にしたことにあった」。

「宗教」― ケインズ達が受け入れたムーアの「宗教」について、ケインズは次のように説明している。

「…大切なのはただ心の状態だけであり、もちろんそれはわれわれ自身と他の人々との心の状態であるが、主としてわれわれ自身のそれであった。…それは時間を超越した、熱烈な、観照と交わりとの状態にあり、事の「あと」「さき」とは多分に無関係であった。…熱烈な観照と交わりとにふさわしい主題は、最愛の人、美および真理であり、人生における主たる目的は、愛であり、美的体験の創造と享受であり、そして知識の追究であった」。

  これらの問題は、『倫理学原理』の第6章「理想」で論じられている。ムーアが用いている「理想」は ()絶対善、()人間の善、()高い程度でそれ自身において善い、のうち、(ⅲ)の意味においてであり、「人間の交わりの楽しみ、および美しい対象の享受」が最大の価値をもつ意識の状態である、とされている。
 このことがどのようにして決定できるのかといえば、それは分析することのできない直観によるとされる。
ムーアは、「善いもの」を直観(直覚)によって定義しているが、「善い」は定義できないと論じている。有名な「善の定義不可能性説」である。この直覚主義は、その背景にきわめて論理学的思考を有している。換言すれば、論理学的思考の徹底した追究の結果として直覚主義が存在する。言葉の厳密な使用はムーアの議論における顕著な特徴であった。
  ムーアが『倫理学原理』の第2章で「自然主義的倫理学」を、第3章で「快楽主義」を、さらに第4章で「形而上学的倫理学」を批判攻撃しているのも、それらが「善い」ということが定義不可能であることに気付いていないという点に帰因している。
 ケインズはムーアの「宗教」を次のようにも述べている。

「われわれは上に述べたことがら〔「宗教」のこと〕はすべて、その性質上まったく合理的で科学的なものだと考えていた。他の部門の科学と同様にそれは経験所与として与えられた素材に、論理と合理的分析を適用することにすぎなかった。われわれにとって、善を理解することは、緑という色の理解とまったく同じであった。そしてわれわれは、後者にふさわしい、同一の論理的、分析的手法で善について論じようとした。…ラッセルの『数学原理』が『倫理学原理』と同じ年に出版されたが、前者はその精神において後者の与えた素材について論じるための方法を提供したのである」。
 
彼らは「熱烈な観照と交わり」を重視したのであるが、当時の雰囲気はそれらの言葉から推察されるものとは逆に、厳格、プラトニック的、かつピューリタン的であった。
 これに続いて、ケインズは陽気にふるまおうとしたときに、そうした下劣な習性をたしなめられたというエピソードを紹介している。彼らが最高のものとした心の状態とは、研ぎ澄まされた情熱が苦痛を糧に白く燃えているようなものだったのであろうか。

合理性への信仰 ― この時点のケインズ達の特徴として、人間の本性が合理的であるという点に強い確信を抱いていたことがあげられる。たいていの人のなかには正気を逸した非合理的な邪悪の源泉があるという考えをしりぞけ、人類は信頼に足る合理的な人々によって構成されており、道徳の進歩は今後も続いていく、と当時のケインズ達は信じていた。

「道徳」― ケインズ達がしりぞけたムーアの「道徳」に目を向けることにしよう。これは『倫理学原理』の第5章「倫理学の行為にたいする関係」で展開されている。ケインズはその考えを「ベンサム主義の功利計算と正しい行動の一般法則」と要約している。

「ムーアの第5章「倫理学の行為にたいする関係」のうち,われわれは次の部分を顧みようとしなかった。すなわち、将来の全行程を通じて、因果関係の吟味により、最も確実な終局的な善の極大を生み出すように行動すべき責務を扱った部分…を無視したばかりでなく、また、一般的ルールに従う個人の義務を論じた部分をも無視したのである」。
 
引用文のうち、第1の部分が「ベンサム主義の功利計算」に相当し、第2の部分が「正しい行動の一般法則」に相当する。前者についてムーアは、目的はつねに手段を正当化し、結果によって正当化されない行動は正しくない、という考えのもとに展開している。ムーアにとって、「正しい」とは「善い結果の原因」であり、「有用」と同じことを意味していた。この考えは、ブレイスウェイトによって「帰結主義」と呼ばれている。また後者は「規則主義」と呼ばれる。
 『倫理学原理』第5章にケインズ達は注意を払わなかった、とケインズは述べている。と同時に、そこに展開されている「正しい行為にかんするムーアの理論において確率にかんする考察が演じている大きな役割」は(ラッセルの『数学原理』とともに)、ケインズが20代の大半を費やすことになった「確率論」研究の重要な促進エンジンであった、とケインズは明言している。
 このことは資料的にも確かめられる。1904123日に、ケインズが「ソサエティ」で読み上げた「行動にかんする倫理学」がそれである。ムーアはベンサム主義的な功利計算により帰結主義を唱える一方で、その計算を将来にわたって行なうことの困難さから現状の道徳規則に従うという規則主義を打ち出している。ケインズはこの論理を当初から批判の対象にしていた。


ベンサム主義の功利計算 -  ケインズは自分達が同世代のなかで、ベンサム主義から脱却した最初の、そして唯一のグループである、と語っている。このことが可能であったのは、ケインズ達の「宗教」、つまり「熱烈な観照と交わり」が、他のすべての目的を排除していたからであり、経済的動機や経済的基準による活動ということには、まったく重点をおいていなかったからであるという。
 
規則主義 - 一般的な道徳ルールに従う行動が「正しい」行動である、というムーアの「規則主義」は、ケインズ達が激しく拒絶した箇所である。その根本的な理由は、ケインズ達が、既述の合理性にたいして強い確信を抱いていたからである。

以上から, 1903年頃のケインズの考えが次のようなものであったことがわかる。第1に、「熱烈な観照と交わり」を最高に重視しており(「宗教」)、しかも人間の合理性に深い確信を抱いていた。第2に、ベンサム主義や一般的な道徳ルールに従うというムーアの「道徳」を拒絶していた。
 もちろん、「ソサエティ」のメンバーは、各人の育った環境も異なり、個性も大いに異なっているが、この特徴は、「使徒」の個性の違いを乗り越えてみられた1903年当時の「ソサエティ」の共通点であった、とケインズは主張している。

1914年(31歳)の頃
1903年頃、ケインズ達は上述のような考え方をもっていたが、その後第1次大戦の始まる1914年にかけて、ケインズ達の考えはどのように変っていったのであろうか。
 最大の特徴は、人間の合理性にたいする信仰が揺ぎ、ムーアの「宗教」からの逸脱が生じたという点である。人間の合理性にたいする信仰が人性についての軽薄で皮相な見方であるという反省は、「若き日の信条」の随所にみられる。
  合理主義にたいするケインズの懐疑は、後述するように1938年に近付くにしたがって、ますます深くなっていく。しかし、この懐疑がどのようにして生れたのかについては「若き日の信条」では語られていない。1つの要因として、1909年、ロジャーフライが開催した「マネと後期印象派展」をあげることができるかもしれない。「ソサエティ」の合理主義に対抗して、後期印象派の芸術家達の直覚的自由奔放な気風が「ブルームズベリーグループ」のなかに入り込んだからである。
 ここで次の点に注目することにしよう。ケインズの『確率論』は合理性にたいする懐疑とは直接の関連をもっていないという点がそれである。ケインズの「確率論」研究は、『倫理学原理』第5章に展開されている帰結主義と規則主義の関係にたいする疑問から出発しており、合理的な確率判断の可能性を追究しようとしたものである。この追究は、すでに言及したように、1904年から始まっている。『確率論』はあくまでも合理的思考の産物であり、論理学に属するものである。
 「若き日の信条」をケインズが読むことになったきっかけは、DHローレンスとの1914年の出会いであった。ローレンスが自分達を嫌悪した理由として、当時根強く保持されていた合理主義(それにたいしてケインズ達は懐疑的にはなっていたものの、外部からみえるほど顕著ではなかった)、および放蕩をケインズ達のなかに感じたことがあげられている。もちろん、この考察は1938年の時点でのケインズの当時についての回顧であり、当時ケインズがそう考えたわけではない。「若き日の信条」の冒頭で述べているように、ローレンスとの出会いが「失敗」であったこと以外、ケインズの心にさしたる印象を残さなかったからである。

           § 1938年(55歳)§
合理性への懐疑
「若き日の信条」によると、人間の合理性にたいする懐疑は、ますます深くなっていった。この点についての反省こそが、「若き日の信条」において最もめだつ点であり、繰り返し強調されている点である。より具体的には、合理的でない人性の側面を重視し始めたのである。
  誤解してならないのは、ケインズは合理主義を否定しているわけではないという点である。ケインズがいわんとしているのは、あらゆることを合理主義の立場から判定することには問題があるということであろう。人性を合理主義の視点からのみとらえようとするのは、「浅薄な」合理主義だと反省しているのである。ケインズは、他人の感情と行動に、非現実的な合理性を認めようとする性癖から抜け切れないで悩んでいると述べているが、このときも合理主義全部が非現実的なのではなく、本来合理主義の適用できない領域に合理主義を適用することは非現実的だと述べているのである。


¶「宗教」
ケインズは1938年においても、ムーアの「宗教」は内面的には自分の「宗教」であり、いかなる他の「宗教」よりも真実に近いと論じている。そこで展開されている「基本的な直観」を、ケインズは重視するのである。
 このことが基本である。そのうえで、ムーアの「宗教」のもつ狭隘性についても明確に自覚している。この批判は、上述の「合理性への懐疑」にもつながっている。「価値ある感情」についてのすべてのカテゴリーが、ムーアの「宗教」からは欠落している、とケインズは論じ、かつての自分達は豊かな種類の経験を、美的鑑賞の領域内で解釈していた、と反省するのである。

ベンサム主義
ベンサム主義への嫌悪は、1903年の時点においても明確にみられたが、この点は1938年に至ってもまったく変っていない。
ケインズは「経済的基準」を最優先させる種類の思想をひどく嫌っていた。このことはムーアの「宗教」を奉じるケインズからみれば当然であろう(だが彼が偉大な経済学者であり、経済的パースペクティブから社会分析を行なった人物であることを考えると、この点は奇異に思われるかもしれない)。
 ケインズは、マルクス主義を「ベンサム主義の極端な帰結の決定版」としてとらえ、嫌悪している。さらに、これを「経済上のいんちき信仰」とまで酷評している。マルクス主義にみられる下部構造が上部構造を規定するという社会観、生産力と生産関係を軸とした唯物論の歴史観を「経済的基準の過大評価」とみなしたからであろうか。

慣習への回帰
「若き日の信条」に示されているケインズの1938年の考えのなかで最も特徴的であるのは、現存の秩序の維持を強調している点である。
 それまでのケインズは人間のもつ合理性に信頼をおき、自らの判断で事態に対処していき、したがって道徳や伝統にたいしては何の敬意も払ってこなかった。ところが既述のように、人間の合理性にたいしての懐疑が深まるにつれて、「規則」や「慣習」の重要性にケインズはめざめていくのである。伝統の無視から尊重への転換をもたらしたものが何であるのかについては、(合理性にたいする懐疑の深まりを除けば)「若き日の信条」ではとくに語られていない。
 もっとも、ケインズはこれまで外部の世界との関係で長年インモラリストとして生きてきたので、それから抜け出たいと思いつつも、体に染みついたものであるため、今後もインモラリストのままでいるであろう、と複雑な心の内をも吐露している。
 ケインズのこの「保守化」は結果からみると、ムーアの規則主義に回帰したことになる。しかし、それは『倫理学原理』の規則主義をめぐる論理にあらためて感服したために生じたものではないであろう。
 最後に、この保守化は、これまでの自分達の個人主義が極端にまでいってしまっていたという反省を伴いつつ生じている。このことも合理性にたいする懐疑と関係がある。理性にたいする懐疑が生じると、個人主義への信頼もその分揺らぎ、伝統や慣習に依存する傾向が生じてくるからである。
                          
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以上に述べた「若き日の信条」についての考察を要約しておこう。1903年頃のケインズは、ムーアの「宗教」を受け入れていた。それは合理的で科学的なものであった。他方、ケインズはムーアの「道徳」を拒絶した。人間の合理性にたいする信頼をもった個人主義の立場に立っていたからである。
やがて、ケインズは人間の感情を重視し始め、合理主義にたいして懐疑的になっていく。このことは慣習にたいする信頼の度合いをケインズが高めていくことと関係がある。合理主義の適用と個人主義のいき過ぎに歯止めをかけ、ムーアの「宗教」も狭小であると考えるようになる。このこともすべて、合理主義にたいする懐疑から発生している。一貫して変らないのはベンサム主義批判であった。