2014年6月7日土曜日

文化集団「ブルームズベリー」って何だろう


文化集団「ブルームズ
ベリー」って何だろう


                                  平井俊顕


§ メンバー概観 §

「ブルームズベリーグループ」は1905年頃から形成され始め、1910年頃より世に知られ始めている。そして戦間期には文学、絵画、経済学、政治等の幅広い分野で、非常に大きな影響をおよぼすに至った文化グループである。
  メンバーは美や愛をめぐって、飽くことなき討論を、共同生活を続けながら行っていく。その結果、男同士でも、また異性間でも、愛情をめぐる激しい、そして複雑な関係が交錯することになる。友情が熱烈な愛情へと発展することもあれば、逆に熱烈な愛情が友情へと後退することもある。メンバー間のこのような交流は、彼らの豊かな才能を開花させていくことになった。
 主要メンバーを紹介しておこう。ケインズは『一般理論』(1936)により、経済学および経済政策の分野に「ケインズ革命」をもたらした。ヴァージニアウルフ(1882-1941年)は『ダロウェイ夫人』(1925)等において意識の流れを描写することでイギリスの小説界に新しい地平を切り開き、ジョージエリオットと並び称される女流作家である。リットンストレイチー(1880-1932年)は、偉人礼賛的なイギリスの伝記に画期をもたらし、『著名なヴィクトリア人』 (1918) 等で伝記文学の芸術的地位を高め、フランスのアンドレモーロアと並び称される。ロジャーフライ(1866-1934)はイギリスに後期印象派を紹介した人物であり、ラスキン以来の美術評論家といわれる。エドワードフォースター(1879-1970年)は、支配するイギリス人と支配されるインド人の越えがたい溝を描いた小説『インドへの道』(1924)等で知られる自由主義、民主主義、個人主義的傾向の強い作家である。また近代美術評論の形式を確立したクライブベル (1881-1964年)、文芸評論家のデズモンドマッカーシー (1877-1952年)、労働党で活躍した政治家政治評論家であったレナードウルフ (1880-1969年)、画家ダンカングラント (1885-1978年)、画家ヴァネッサベル (1879-1961年)の活躍にもめざましいものがあった。
  以下では「ブルームズベリーグループ」の活動を、その前身にさかのぼってとらえていくことにしよう。ケンブリッジとロンドンが彼らの主たる活動の場であった。



§ ケンブリッジ §

ケンブリッジでは「深夜会」および「ソサエティ」が「ブルームズベリーグループ」形成の重要な母胎になっている。
 
¶「深夜会」(「ミッドナイトソサエティ」)
出発点は、18994人の若者がケンブリッジ大学のトリニティカレッジに入学したときにさかのぼる。クライブベル、レナードウルフ、リットンストレイチー、トビースティーブン(1880-1906) である。クライブは炭鉱で財をなした中流階級の家の出身である。ハンティングやフィッシングを熱愛する家庭に生まれたクライブは、血気盛んなスポーツマンであったが、芸術や愛、そして文明にたいし熱い興味をたぎらせていた。レナードは中流階級出身のユダヤ人であり、不正を嫌い、熱心なロンドンの弁護士であった父の資質を継承している。リットンは英領インドの将軍を父にもつ。上層中流階級の出身である彼は、幼少時から風変わりで気紛れな性格の持ち主であった。強い意志をもつ母親と姉妹の支配する家庭環境で育っており、このことは強い男性に愛情を感じるという性格形成に影響をおよぼしている。父親は科学知識に長じた人物であったが、リットンは母親の影響のもとで、文学演劇芸術に興味を示していく。
 トービーは思想家レズリースティーブン(1832-1904年)の長男である(レズリーは1860年代の「懐疑の世代」を代表する1人であり、不可知論の立場のためケンブリッジ大学トリニティーホールのフェローを辞している)。トビーは若くして亡くなるが、重要なメンバーとなるヴァネッサ(1907年クライブベルと結婚)、ヴァージニア(1912年レナードウルフと結婚)はそれぞれ、彼の姉、妹である。
 以上の4人のほか、数名の若者が1900年に開設したクラブが「深夜会」である。彼らの会合には、1つの際立った特徴がある。事実を徹底して追究するという姿勢である。彼らは前世代の不可知論から無神論の立場へと進んでいるし、愛の問題についても、服従道徳的みせかけ曖昧さとして特徴付けられる、いわゆる「ヴィクトリア人の偽善」に容赦のない攻撃を浴びせかけた。

¶「アポッスルソサエティ」(以下「ソサエティ」と呼ぶ)
「ソサエティ」は1820年に12人のメンバーによって創設されたケンブリッジの学生団体である。キリスト教社会主義運動の創始者として知られるJモーリスは1823年に使徒 (メンバーのこと) に選ばれた、創草期における最も影響力の強い人物であった。
  「ソサエティ」には、時代を超えて共通する特徴があった。「真実」を追究し徹底的に討論を重ねるという姿勢である。討論のための討論ではなく、討論を通じて「真実」と思われるものを追究していくことが最も重視された。
 とはいえ、「ソサエティ」を支配する思想的潮流は時代とともに変わっている。1830年代には、コールリッジやワーズワースが重視されていた(ただし、彼らは会員ではない) 1880年代に「ソサエティ」で支配的であった思想は、マックタガートとディッキンソンによって代表されるヘーゲル観念論哲学であった。これに戦いを挑み勝利するのが1894年に「使徒」に選ばれたGムーアである。彼自身、一時期ヘーゲリアンであったが、そこからいちはやく脱却している。バートランドラッセルが脱却したのはムーアからの影響による。ムーアは真理の探究に際して徹底した議論を行う人であった。彼は無神論者であったが、日常生活ではピューリタン的であった。「深夜会」のメンバーのうち、「使徒」になったのはリットン、レナードである。ケインズは翌年に「使徒」になるが、推薦者はリットンとレナードであった。
 1904年、リットンの同窓は卒業し、それぞれの道へと旅立っていった。クライブは「ヴェロナ会議(1822年)におけるイギリスの政策」という論文を執筆するため、1902年の秋ロンドンに出ていった。だが彼はその後、ルーブル美術館通いと美術家との交流を通じ印象派絵画にたいする関心を深めていった。レナードは、文官試験に失敗の後、セイロンの士官候補生になった。彼は植民地セイロンで、6年半にわたり勤務についている。植民地の高官として、法を厳格に適用することに努めたが、そのなかには死刑の執行や財源として重要な塩の検査も含まれていた。リットンは1903年文官試験に失敗している。次いで、彼は1905年トリニティカレッジのフェロー資格試験を受けたのであるが不合格であった。
  この時期までの彼らが「ソサエティ」で熱く論じたのは哲学上、美学上、および文学上の問題であった。「ソサエティ」が性的問題で大きく変化していくのは、ケインズが参加するようになった頃からである。
  ケインズの生涯には、2つの対照的な気質が共棲している。1つは伝統への従順さである。保守的気質の父にたいして、そして勝ち気な母にたいして、メイナードは生涯を通じて非常に従順であった。ケインズは行政的ないしは世俗的なことがらにも卓越した才能をもっており、少年時代から父親の収集した切手の市場評価を一任されたりしていた。
 もう1つは、伝統への反抗である。ケインズは学問思想の分野でも生活実践の分野でもつねに新しいものを追究していくという姿勢を取り続けた。たとえば、彼が20代に知的情熱を傾けた確率論はムーアの新しい哲学に触発されたものである。また、『貨幣論』(1930)は「ヴィクセルコネクション」に属する当時の貨幣的経済学を代表するものとして、さらに『一般理論』は不完全雇用均衡を論証しようとする新しいタイプの貨幣的経済学として、ともに主流派である新古典派経済学を批判する立場に立つものであった。思想的にもケインズは、第3でみるように、「ニューリベラリズム」の立場をとり、「自由放任主義」にたいし批判的な論陣を張っていった。
 ムーアの「宗教」― 第5話で言及する はケインズ(達) の生活実践を支えるバックボーンになった。ケインズ(達)にみられる同性愛志向も、ある意味ではこの延長線上にあり、明らかにヴィクトリア的な道徳観に抵触するものであった。さらにケインズ() は、ヴィクトリア時代の支配的な倫理であったベンサム主義を終始嫌っていたが、それは経済的価値観を最優先させるような倫理観にたいする嫌悪であり批判であったといえる。

          § ロンドン §

ブルームズベリーグループはロンドンで開花するのであるが、その前にスティーブン姉妹のことに言及しておく必要がある。

¶スティーブン姉妹
レズリースティーブンは1904年この世を去った。彼の子供であるヴァネッサ達4人はゴードンスクウェア46番地にあるフラットに移り住んだ。
 ヴァネッサは口数の少ない落ち着いた感じのする女性であるが、内には激しい情熱を秘めていた。自然と自由を愛し、言葉によってではなく絵画と生活実践により自然体でそれらを満喫していく、そしてそのことで人を惹き付ける魅力をもった女性である。
  ヴァネッサとは対照的に、妹のヴァージニアは生涯を通じて非常に不安定な精神状態のなかで生涯を送った。極限に達すると、鬱状態に陥り、無気力になったり、あるいは逆に凶暴になったりした。ヴァージニアは31歳のときレナードと結婚したが、処女作『船出』(1915)完成直後に睡眠薬自殺を図っている。そしてついに1941年、入水自殺で世を去っている。ヴァージニアの性格形成には、3つの要因が重要な影響をおよぼしたと考えられている。父レズリーからの圧迫感、慕っていた母ジュリアの突然の死、それに異父兄から長年にわたって受けた性的虐待である。
  だが、ヴァージニアは普段、とても陽気に振る舞うことができた。そして生への力強い衝動が確かにヴァージニアには認められた。このような点では姉ヴァネッサの存在が大きい。だが様々の事物にたいする恐怖心にとりつかれる傾向のあったヴァージニアには、わが道を進んでいく姉の自信に満ちた自然体を手に入れることはできなかった。

¶ブルームズベリーグループ
出発点 トビーは1905年、かつての「深夜会」をブルームズベリー地区の自宅で再現する計画をたて、実行に移した。「くつろいだ木曜日」と名付けられた集いがそれである。
 デズモンドはイートン校を卒業後、トリニティカレッジに進み「使徒」に選ばれている。年令が若干上であったため「深夜会」のメンバーとは面識がなかったが、ムーアとあいだには親しい付き合いがあった。彼は非常に心根の優しい、社交的で巧みな話術を操ることのできる紳士であった。
 当初、「くつろいだ木曜日」は女性の参加を考えていなかったが、やがてヴァネッサとヴァージニアが加わった。この会合は「深夜会」的であり、「ソサエティ」的であった。
 ヴァネッサは画家であった。彼女は「金曜クラブ」という会を組織した。画家ダンカングラントがヴァネッサと知り合いになるのは、リットンの姉を通じてであった。ダンカンの父親はリットンの母の弟であり、母親は絵画や音楽好きの女性である。ダンカンは幼少時をインドで過ごした後、ヒルブロウ予備学校に通ったが、そこでルーパートブルックと知り合っている。その後、ダンカンはレナードも通ったセントポール学校に入学している。両親はインドに赴任していたため、ダンカンはストレイチー一家と暮らすことになった。彼は、既成の観念にとらわれることのないボヘミアンであった。内気でもの静かなタイプの男性であったが、芸術や生活については自由奔放に自己の目指す方向に突き進んでいったのである。
 こうして、トビーやヴァネッサのまわりに多くの有能な若者が集まることになった。これが「ブルームズベリーグループ」の出発点である。グループは知的には「ソサエティ」の特徴を継承しているが、芸術的にはヴァネッサやダンカンに代表される特徴を色濃くもっている。

展開 1906年、トビーは突然の死を迎えた。最愛の弟を失ったヴァネッサは、翌年クライブからの求婚を受け入れた。彼らはゴードンスクウェア46番地に新居を定めた。このためヴァージニアと弟のエイドリアンは、そこから歩いて10分ほどのフィッロイスクウェアのフラットに移り住むことになっり、その結果、「くつろいだ木曜日」は両地で交互に開かれることになった。
  以前は、同性愛や複雑な異性愛はあったとしても、それは個人的な問題であった。同性愛については、「ソサエティ」で指導的な影響力をもったケインズ-リットンのもとでその色彩は強くなったとはいえ、まだ「ブルームズベリーグループ」の特徴というものではなかった。
ところが、1907年頃からは非常に大きな変化がみられるようになる。変化が話の段階にとどまるものでないことは当然であろう。言葉の選択は思想の選択でもあるからだ。話題の選択も、かなりの程度、話者の価値観に依存する。変化は、グループ内部での複雑な性的関係を生み出していくことになった。それは、ある時は友情から恋愛へ、ある時は恋愛から友情へと複雑なジグザグ模様を描いていくことになった。だが驚くべきことに、彼らのあいだには決定的な分裂訣別絶交というものがみられない。「非常に大きな変化」があったとはいえ、「ソサエティ」以来培われてきた哲学的文学的討論は維持されており、彼らの知性の発露発展を妨げるということはなかった。
 グループが世に知られるようになった最初の契機は、最も遅くグループに加わったロジャーフライの活動を通じてである。1909年グラフトンギャラリーでロジャーが開催した「マネと後期印象派」展がイギリスの美術界に一大センセーションを巻き起こしたのである。このときデズモンドが秘書として働いている。
 ロジャーの家系はクウェーカー教徒である。ロジャーは「ソサエティ」の「使徒」に選ばれており、ヘーゲル哲学者で後年、国際連盟の唱道者として知られることになるディッキンソンはそこでの親友であった。当初、ロジャーはイタリア絵画を勉強したのであるが、1905年、セザンヌの絵画をみることで印象派絵画のもつ現代性斬新性に大きな衝撃を受けたのである。

愛と政治 ブルームズベリーグループはこうして社会的な存在になった。そして時とともに益々有力な文化グループに成長していった。だが、メンバーにとってこのグループが決定的な意味をもったのは、「日常的」な生活の場であり、そこでの知的心的関係であった。このことを愛情と第一次大戦時における行動の2点を通じて垣間見よう。

(i) 交錯の愛 - メンバー間の愛情関係はジグザグ模様を描き、複雑な交錯をみせている。中心の1つはヴァネッサである。1907年、ヴァネッサはクライブと結婚し2子を設けるが、やがて彼女は1911年にはロジャーと恋に陥る。しかし、それも破局を迎え、1914年頃からはダンカンとの関係が深くなっていく。そして1916年以降、ヴァネッサとダンカンはクライブとともに、ブライトン近郊のチャールストンに居を構えた。1918年、ヴァネッサとダンカンは女子(アンジェリカ)をもうけるが、戸籍上の父親はクライブになっている。
        一方、クライブはというと、ヴァージニアと恋に陥る。しかしヴァージニアは1912年、レナードとの結婚を選択するに至る。やがてクライブはメリーハチソン(リットンのいとこ)と付き合うようになり、2人の関係は1928年頃まで続くのである。
       もう1つの中心はダンカンである。当初ダンカンはリットンと恋愛関係にあったが、1908年にはケインズに切り替わった。その後ダンカンはヴァネッサと同棲生活を始めることになる。
       ケインズの行動も大変活発であった。彼は1925年にロシア人バレリーナ、リディアロポコヴァと結婚し、新居をゴードンスクウェア46番地に構えている。
   仲間が次々に頭角をあらわすなかで、リットンは自らをみじめな存在と考えていた。このような状況下の1915年、彼は女流画家ドーラキャリントン(1893-1932年)にめぐり会う。1917年、2人はティドマーシュ村に移り住むが、家賃はケインズ、ヘンリーノートン、サクソンターナー達が協力して支払っていくことになった。リットンが『著名なるヴィクトリア人』を刊行して、一躍時代の寵児となったのはこの頃である。翌1918年には軍人ラルフパートリッジがリットンとドーラの前に出現する。この3者は不思議な関係に陥る。19215月、ドーラはラルフの求婚に応じるが、リットンを交えての3人での共同生活という形態をとった。そして1931年にリットンの病死とその直後のドーラのピストル自殺で、この複雑なドラマは終りを迎えたのである。
 
() 政治問題 - ブルームズベリーグループは政治的な集団ではない。だがそのことは、彼らが政治問題に無関心であったということを意味するものではない。19147月に第1次大戦が始まったとき、ヨーロッパ各国の国民が歓呼の声をあげたことはよく知られている。それは19世紀末葉以降、帝国主義列強の拡張路線が引き起してきた軍事的緊張感の爆発であると同時に、長年の平和にたいする倦怠からの解放感でもあった。ブルームズベリーグループのメンバーのほとんども反戦論者ではなかった。レナードはドイツに対抗しなければならないと考えていたし、リットンも肉体的に適格な知識人はイギリスのために戦うべきだと考えていた。このなかでただ1人の例外はクライブである。彼は鮮明に戦争反対を唱え、1915年には『即時平和を』と題するパンフレットを刊行している。
  戦いは長期化し、1916年には、英国史上初めての徴兵令が施行された。グループの多くは、次第に戦争目的に懐疑の念を深めていく。1915年から大蔵省に勤務していたケインズと他のメンバーとの緊張は、この頃に高まりをみせていた。リットンが19162月にケインズの食事プレートに「良心的徴兵拒否」を象徴する「白い羽」とともに「なぜ君はまだ大蔵省にいるんだ」と書いたメモを置いたり、「真の良心的徴兵拒否者なんているはずがない」というケインズの発言をめぐって、ヴァネッサやヘンリーと対立したエピソードが残されている。
       メンバーの多くは「良心的徴兵拒否」の申請をすることになった。リットン、ジェームズ、エイドリアン、ジェラルドショウブ、ヘンリー、ダンカン、ディヴィッドガーネット、それにクライブがそうである。ケインズ自身、戦争の継続に次第に疑問を抱くようになり、その結果、19162月、「良心的徴兵拒否」に基づく書類を作成し、ホルボーン兵役免除審査局に提出するに至っている。原則的な平和主義の立場に立っていたのはクライブだけであるから、その他のメンバーを「良心的徴兵拒否者」というのであれば、ケインズもほとんどそうであった。
       レナードは良心的徴兵拒否者にはならなかった。労働党の中枢にい
たウェッブ夫妻と懇意にしていたレナードは、この頃「国際連盟」として結実することになる構想と似た構想について思索をめぐらして

                § グループの特質 §

ブルームズベリーグループは「ソサエティ」の合理的哲学的気風と、後期印象派の芸術家達の直覚的自由奔放な気風とが、複雑な人的関係を通じて融合することで、知的文化的価値観を共有していた。もちろん、グループの1人1人の家庭環境は、これまでみてきたように一様ではない。にもかかわらず、後期ヴィクトリア時代に生まれ育った彼らは、ある知的文化的価値観を共有することになった。
  第1に、彼らは「ブルジョア的な価値観」を有していない。ここで「ブルジョア的な価値観」というのは、家長たる夫の権威のもと、妻は家政に尽くし多くの子供をもうけ、共に家庭を第一義とすること、そしてプロテスタント的な禁欲で勤労に従事することを尊ぶというような意味である。このような価値観は「ヴィクトリア女王」一家の出現によって、大きな具体性を付与された。これにたいし、グループの大半は、通常の意味での「家庭」の構築維持に意義をみいださなかった。「ヴィクトリア的道徳」、「ヴィクトリア的偽善」にたいし、彼らは日常生活を通じて批判的な実践を展開した。
 第2に、彼らは「企業者的な価値観」を有していない。むしろケンブリッジ出身のメンバーは19世紀後半のイギリスの時代精神である「ジェントルマンシップ」教育の享受者であり、イギリス社会の知的エリートである。彼らにとって企業者的な営利追求行為は、「人間的交遊の享受および美的対象物についての享受」という至高の目標に比べると色あせたものであった。むしろ彼らは知的な「貴族」であった。
 第3に、彼らは「労働者的な価値観」を有していない。20世紀初頭以降、イギリスにあっては労働者階級の社会的政治的地位は著しい向上をみせていたが、ブルームズベリーグループの人々の価値観は労働者階級のそれとは著しく異なるものであった。そして「集産主義的な動き」が強まるなかでも、グループとしてはとくにそれに与するということはなく、自らのグループ内部での個人的な交遊に意を注いだのである。
  新しい文化を創造することに多くの情熱を燃やした彼らの知的根源には、ケンブリッジ的な「ジェントルマンシップ」教育があった。彼らはそれを自らが育ってきた「ヴィクトリア的価値観」に反旗を翻すことで、そして後期印象派の芸術的価値観を組み入れることで、その文化的創造のエネルギーを噴出させることに成功したのである。