同僚は資本主義を
どうみていたのだろうか
平井俊顕
§ はじめに §
本話が対象とするのは戦間期ケンブリッジ学派の市場社会(資本主義社会)像 ― 難しくいうと社会哲学 ― であり、その代表者であるケインズ、 ピグー、 ロバートソン、ホートリーを取り上げる。彼らは、自らの生きる市場社会をどのように評価し、そしてそれはいかなる点で変革していく必要があると考えたのであろうか。
§ ケインズ §
¶ 市場社会の本性
ケインズの市場社会観の原点をなすもの、それは、市場社会は本質的に諸個人の金もうけ本能および貨幣愛本能への強力な訴えかけに依存している、とみる視座である。それは貨幣愛本能を重視するがゆえに、道徳的にみるときわめて不快な社会である。だが他方、それはまさに同じ理由により、他のいかなる社会システムよりも経済的効率性を達成するうえで優れている ― これがケインズの目に映じた市場社会の原像である。
市場社会は道徳的にみてきわめて不快なものであると述べるとき、ケインズが抱いていたのは、市場社会ではエセ道徳律が支配しているという考えであった。とはいえ、人類が経済的必要というトンネルから脱け出すためには、これを利用するしか方途がない、とも彼は考えていた。
だが、そのことは自由に放任しておけばうまくいくということを意味するものではない。むしろそうすれば、市場社会は不安定になる性向を内在している。したがって、市場社会を効率的なシステムにするには、「自由放任の思想」からの脱却と、市場社会を賢明に管理する政策技術の探究が必要不可欠である、とケインズは主張している。
¶ 市場社会メカニズムについての認識
ケインズは、まず、自由放任主義的社会哲学・経済学が提示する市場社会像を拒絶する。次に、彼はそれに対峙する「制度学派的」歴史観を承認したうえで、現代市場社会の安定に国家および組織が重要な役割を担っていることを強調した市場社会観を提示している。
自由放任主義的社会哲学・経済学批判 ― 自由放任主義的社会哲学(以下
「自由放任哲学」と呼ぶ)、ならびにそれに依拠する経済学にたいするケインズの舌鋒は激しく、かつ鋭い。自由放任哲学は、個人が啓蒙された利己心に基づいて最大限の私的利益を追求することにより最大の公共善が達成されるとする社会観である。ケインズは、自由放任哲学(個人主義哲学および社会契約説が例示されている)の依拠する前提に懐疑の目を向ける。
市場社会にあっては、私的利益と社会的利益を合致させるメカニズムは、
天上からの規制によっても、はたまた地上のいずこにもビルト・インされて
はいない。また個人は必ずしも組織よりも明敏であるとはいえない。社会は
合理的な個人によって構成されているという前提に基づく社会哲学は、実際
の世界が無知で弱い個人によって構成されているという事実を無視した虚構
である。公共的利益の達成は、無知で弱い個人による私的な行動に任せてお
いては不可能である。それは実際の世界のなかに、人々が社会的な単位を組
織することによってのみ可能になる、と。
次に、自由放任主義の経済学(以下「自由放任経済学」と呼ぶ)に移ろう。それは諸個人の独立した利潤追求が社会に最大の生産量をもたらすという主張である。
自由放任経済学にたいするケインズの批判は次の2点からなる。第1は、
それが次の非現実的仮定に基づいて組み立てられているという点である ―
(i)生産および消費の過程は組織的なものではない、 (ⅱ)条件や必要につい
ての十分な予知が存在する、(ⅲ)この予知を得る十分な機会がある。
第2は、自由放任経済学は競争的闘争そのものがもたらす費用と特質、お
よび富は競争的闘争があまり感知されないところで分配される傾向があるこ
とを考慮することなく、最終結果の便益のみに注目しているという点である。
ケインズの市場社会観 ― ではケインズは自由放任哲学に対峙して、自らの市場社会観をどのように展開したのであろうか。
ケインズは自由放任哲学を歴史相対的視点に立って批判を加えている。それは、18・19世紀の現実には適合するものであったが、現代の条件には適合できなくなっている、という旨のものである。非常に興味深いことだが、ここでケインズは「制度学派」のコモンズの歴史観を全面的に受け入れている。
コモンズによると、歴史にはこれまでに3つの時代があった。第1は
15-16世紀の「欠乏の時代」、第2は、個人的取引が割当に取って代わった「豊穣の時代」である。そして第3は「安定化の時代」であり、これがいまわれわれが迎えているものである。そこでは、部分的には政府の制裁により、しかし主として「集団的な行動」により、個人的自由は第2の時代よりも減少する。
ケインズはこれを受けて、われわれが突入しようとしているのは確かに「安
定化の時代」であるとみている。ケインズのいう「ニュー・リベラリズム」
とは、「安定化の時代」における社会哲学を指し示すものである。
ケインズは、理想的な組織とは個人と国家のあいだの規模のものである、と考える。そしてその際、市場社会の歴史的進展の結果として生み出されてきた組織の進展を高く評価する。具体的にあげられているのは、「半独立的な組織」の成長と、「巨大企業の社会化」という現象である。市場社会の歴史的進展に伴って、「公共善」を意識的に追求する組織が増大していくとともに、株式会社そのものが巨大化するなかで社会化を遂げ、利潤追求を唯一の目的とすることをやめていく。こうした組織が市場社会の内部に多数現出することにより、従来の市場社会がもっていたエセ道徳性、不安定性が緩和されていく ― ケインズは、市場社会システムの進展をこのように捉えている。
ケインズは、市場社会が上記の趨勢を放任していた場合、公共善がもたら
される保証はまったくない、と考えている。彼は、重要な問題領域として、
(i)リスク、不確実性および無知の存在、(ⅱ)貯蓄額とその配分問題、
(ⅲ)人口問題をあげており、そこでは国家が何らかのかたちで関与していく
必要がある、と主張している。
持続する市場社会観 - 以上の市場社会観は『一般理論』でも持続している。 『一般理論』にみられる市場社会観は、一言でいうならば、市場社会が「不完全雇用均衡」に陥りやすい内在的傾向を有しているというものである。この意味は、次の2つの認識からとらえる必要がある。
第1の認識は、市場社会は不安定な変動をこうむりやすく、また低位での均衡に陥りやすいというものである。ケインズは、この現象をもたらす代表的な要因として、資本の限界効率の異常な変動、ある水準以下に下落しないという(貨幣)利子率の存在をあげている。第2の認識は、市場社会は極端にまで落ち込むことはないというものである。その根拠として4種類の安定化要因が指摘されている。
市場社会観をめぐるケインズのもう1つの特徴は、こうした市場社会の不
安定性は、政策により克服できるという強い信念である。「投資の国家管理」
とか「貨幣政策」の重要性はこの見地から強調されている。
彼は自らの市場社会観を「ニュー・リベラリズム」と表現している。それは自由主義とも社会主義とも異なる。それはいかなる困難を伴うにせよ、両者の中道を目指すものであり、社会正義と社会的安定のために経済力を制御し指導する方法を技術的・政治的に考案することを目指すものであった(第1話で述べた、第2次大戦時の彼の諸提案はまさにその具体的実践である)。
§ ピグー §
ケインズは『一般理論』で、彼のいう「古典派」の代表的論客として同僚のピグーを俎上にあげた。また功利主義者ピグーにたいし、反功利主義者ケインズという構図も提示できよう。経済理論にあっては、こうした対置は誤りではない。だが、市場社会像にあってはそうはいえない。
『社会主義 対 資本主義』(1937年)には、ケンブリッジ正統派のドン、ピグーの市場社会像が鮮やかに示されている。ピグーは社会主義を、(ⅰ) 利潤稼ぎの排除、(ⅱ) 生産手段の集団的もしくは公的所有、(ⅲ) 中央計画の存在、を本質的な特徴として有するシステム、と定義する。ピグーは、このように定義した社会主義を資本主義とさまざまな局面ごとに、比較・評価している。
富および所得の分配 ― ピグーは最初に、現行の資本主義システムには、事実として富および所得の分配に明確な不平等が存在していること、そしてそれが深刻な弊害をもたらしていること、に喚起を促している。彼は、富や所得分配の平等度を向上させるべく資本主義システムに変更 ― 相続税・所得税の累進化、貧困層の購入する財の生産への補助金給付、青少年の肉体的・精神的成長を目的とする社会サービスの拡張等 ― を加えることの必要性を唱える。ただし、彼は富および所得分配の平等化の実現に、資本主義システムは政策的に一定の限界を有している、とみている。そして、ひとたび社会主義システムが確立すれば、こうした懸念は払拭される、と彼はみるのである。
生産資源の配分 ― この問題でピグーが注目するのは、「現行の所得分配にたいしての、生産資源の諸用途への配分の適切さ」である。彼は最初に、「理想的な配分」について語る。それは、所得と趣向が同一な人々からなる社会にあって、あらゆる分野で限界純生産物が均等になるような配分形態を指している。そのうえで問題になるのは、この理想的配分からの実際の資源配分の乖離度である、とされる。それは、私的限界費用と社会的限界費用の乖離や、独占・不完全競争により生じてくる。
だが、資本主義システムにあっても、両限界費用間の乖離は、補助金や課徴金により適切な方策を講じることでその是正は可能、とピグーは考えている。他方、独占・不完全競争については、(i)民間企業による独占がもつ弊害是正のために公的所有の実施、および(ⅱ)不要な広告競争に資源を浪費している産業へのそのような領域の拡大、の必要性を論じている。
社会主義中央計画のもとでの生産資源の配分問題 ― ここで、ピグーはランゲ流の社会主義論をもちだしてくる。ピグーは、中央計画当局の(名前は出てこないが)ワルラス的な模索過程操作により、「理想的な配分」の実現は可能である、との論理を展開している。
彼は、問題を2つに分けて論じている。第1は、諸産業への資源の配分を所与としたうえで、中央計画当局が諸個人に消費財を配分する方法である。ここで推奨されているのは、諸個人に毎週、貨幣所得を強制的に交付する方策である。第2は、諸個人への貨幣所得の配分を所与としたうえで、諸産業へ資源を配分する方法である。ここでのピグーの提案は、上掲の「理想的な配分」に近付けることであり、完全競争状態にもっていくというものである。さらに彼は、社会主義経済の青写真も提示している。
失業 ― 失業の解消について、ピグーは社会主義に軍配をあげている。その立論は以下のとおりである。
比較は、国家による介入の認められた資本主義システムと社会主義システムのあいだで行われている。
まず最初に、社会主義システムでは、中央計画当局により集約的に行われるという点がもたらす優位性が論じられる。次に、失業を解消させる政策として、公共投資政策では、明確に意思決定の統一が可能な社会主義システムに軍配をあげ、他方、金融政策での効果は同等であろう、と評している。最後に、社会主義システムのみがもちうる治癒策 ― (ⅰ)産業間での生産資源の強制的移動、および (ⅱ)貨幣賃金の引き下げ ― が論じられている。
以上の検討から想像できると思われるが、そしてそれでもなお意外に思われるかもしれないが、これらの検討をしたうえで、ピグーは総合的にみると社会主義に優位性がある、と結論付けているのである。
§ ロバートソン §
ロバートソンは、『銀行政策と価格水準』(1926年)で展開された独創的な景気変動論で何よりも有名である。そして大規模生産のもつ近代産業の特性に着目した動学理論を展開したがゆえに、ロバートソンは、『貨幣論』、そして『一般理論』へと進むケインズには批判的であった。
ロバートソンの市場社会観は本人の呼称を用いれば「自由主義的干渉主義」である。この点を『産業のコントロール』(1923年)でみることにしよう。
産業の大規模化 ― ロバートソンが現代資本主義経済の本質的特性とみているのは「工場システム」である。
ロバートソンは、分業の利点、標準化ならびに特化現象の進展、ならびに頭脳労働の分化の進展が中小企業にたいする大企業の優位性を加速化してきている点を強調する。彼は次に、垂直統合・水平統合、および企業合同現象に注目を払っている。
ロバートソンは、企業の大規模化、そしてそれがもたらす独占を、なかば自然的、合理的な進展とみている。そのうえで、彼がこの傾向に批判の眼を向けるのは、大企業にあっては、リスクを負う多数の人々が産業の「統治」に何の参加資格も有していないという状況にである。彼が目指したのは、リスクとコントロールの公平な負担を可能にすべく市場システムを改善することであった。
資本主義観 ― 彼によると、資本主義システムは3つの特性 ― 「非-調整」、 「黄金律」、 「差別の先鋭化」― を有する。
第1特性 ― 資本主義は「非-調整」のシステムである。今日の市場システムにはますます大規模化した組織が存在するが、それでもなおそれらは大海に浮かぶ小島である。
ロバートソンは、資本主義システムの長所(例えば、多数の経済活動の民主化)および欠点 (例えば、金銭で表現されない欲望は満たされない)に言及したうえで、次の2点を指摘する ― (i)さらなる多様化ならびに実験 (産業的権力の少数者への集中の緩和)の余地が多く残されている、(ⅱ) [産業のコントロール]を追求する際に、価格と利潤、信頼と期待というデリケートなメカニズムの運行を損なわないようにする責務が改革者にはある。
第2特性 ―「黄金律」とは、リスクを負う者がコントロールの権利を有する、という原則である。 だが、現在の資本主義にあっては、次の3点においてこの黄金律は浸食されている、とロバートソンは指摘する - (i)所有と経営の分離、 (ⅱ) 産業のリスクの若干を負うが、産業のコントロールのいかなるシェアも所有していない生命保険会社や投機家、(ⅲ) 産業のコントロールのいかなるシェアも所有しないが、重要なリスクを負う労働者。
とくに問題視されているのは(ⅲ)である。彼の結論は、コントロールのどのような委譲計画も、リスクの委譲が伴わないかぎり確実なものではない、というものであった。
第3特性 ― 「差別の先鋭化」とは、命令を下す人とそれを遂行する人への社会的分化という現象である。ここでは、現代産業システムにみられる労働者の疎外感に関心が寄せられている。
改革の方向を求めて ― ロバートソンは、 少数者に産業的権力が集中することでもたらされる弊害を、消費者や労働者側が権力を獲得していく方法を考案することで、是正しようと考えている。
ロバートソンは「集産主義」と「共産主義」を比較検討している。ここでいう集産主義は、国家によるビジネスの所有・経営を指しており、価格と市場は保持された状態にある。他方、共産主義は、国家によりビジネスは経営され、かつ利得計算を考慮しないシステムである。
ロバートソンは、集産主義的組織が有益な役割を果たしうる産業の領域を指摘し、その長所・短所を詳細に検討している。共産主義については、その部分的適用の可能性について長所・短所を指摘しつつ検討を加えている。彼は、価格と生産費のシステムを無視する全面的な共産主義には反対であった。
§ ホートリー §
ホートリーは、何よりも貨幣的な景気変動論を展開したエコノミストとして知られる。また、いわゆる「大蔵省見解」の理論的基盤を提供したことでも有名である。ここでは彼の市場社会観を『経済問題』(1926年)でみることにする。
倫理的スタンス ― ホートリーは「経済問題」を、望ましいと思われる目的のために共同行為を確保すべく人間の動機に働きかける問題と定義しているが、その目的として措定されているのは「厚生」である。ホートリーは、倫理的な価値こそが目的とされるべきなのに、これまでの経済学はこの点を看過しており、そして現実の市場社会では「偽りの目的」が支配している、とみる。
基本的な市場社会観 ― ホートリーは、文明を、経済問題の解決にたいする人間の意思による合理的な管理の適用と定義する。市場は消費者も生産者もイニシアティブを欠きがちの不完全に文明化されたシステムであるとされる。
分業の進展により、主要な経済活動が市場における交換行為として展開される市場社会システムに、ホートリーが賞賛の声を投げかけることはない。それは「倫理的な価値」の実現に失敗している、というのがその理由である。
市場社会において需給の均衡を通じて達成される市場価格は、真の倫理的価値とはほど遠い。「倫理的価値と市場価値の乖離」は、2つの原因に起因するとされる。
第1は、経済主体の能力である。消費者には賢明な支出を行う能力がなく、また生産者・商人には「創造的生産物」を提供する能力が十分にはない。
第2は、所得分配の過度の不平等化現象である。これは市場システムで活動する経済主体への誘因として許容されている利潤に起因する。所得分配の過度の不平等を是正するには、利潤に税を課す方法や、賃金の決定に国家が介入する方法が考えられるが、個人主義システムにあってはそれには限界がある、とホートリーは考えている。
コレクティヴィズム ― コレクティヴィズム(ホートリーにあっては社会主義と同義)は、利潤に攻撃を仕掛ける思想である。それは、利潤動機を排除し、それに代る動機を国家に求めるもの、とされる。ホートリーは、社会主義を、厚生を実現するための手段として国家を用いる思想とし、それに同調的である。
§ むすび §
ケンブリッジの指導的な経済学者に共通するのは、市場社会システムのもつポジティブな側面を理論的・社会哲学的に正当化することにではなく、むしろそのもつ悪弊に注目し、いかにしてそれを除去できるのかに力点がおかれている点である。彼らの経済理論が激しい論争と分裂を引き起こしたのにたいし、 社会哲学的にはかなりの共有点が存在することは強調されて然るべきである。