2014年6月10日火曜日

福祉国家システムの構築 - ベヴァリッジとケインズ 


       
福祉国家システムの構築 


ベヴァリッジとケインズ


                                     平井俊顕


          1.「ニュー・リベラリズム」


 戦後イギリスの社会体制は「ケインズ= ベヴァリッジ体制」と呼ばれることがある。いうまでもなく、これは『一般理論』の著作で経済理論・経済政策の分野で「ケインズ革命」を引き起こしたケインズ、ならびに『ベヴァリッジ報告』により戦後イギリスの社会保障体制の礎石を築いたベヴァリッジの名を冠するものである。1940年代、ケインズとベヴァリッジは協力的な関係を築きつつ、それを支援する若手の経済学者、官僚達とともに、彼らの構想を実現させていった。本章では、このうちのベヴァリッジ案について、その策定過程、ならびにその後の経緯を中心に検討することが狙いである。そのさい、ケインズ達がこの立案の具体化、実現に果して寄与に、とくに注意を払うことにしたい。
 20世紀の初頭以降、イギリスでは「ニュー・リベラリズム」と称される社会哲学が支配的になっていく傾向がみられた。それは、貧困の責任を個人に帰し、そして自由放任思想を是認する旧来の「リベラリズム」にたいするアンチ・テーゼであり、市場経済にたいして国家が積極的な役割を演じることは可能であり、かつ演じなければならないことを強調する社会哲学である。このような哲学は、ホブソン、ホブハウス等によって代表されるが、ケインズやベヴァリッジもその大枠においてこの流れに属している。
  ケインズの場合、市場社会のもつ効率性を容認しつつも、自由に放任しておけばよいという姿勢にたいしては批判的であった。ケインズは、市場社会のなかに(個人と国家のあいだの)中間的な組織の成長してくることを歓迎するとともに、必要に応じて、(個人の自由を犠牲にしない範囲内で)国家の介入を容認しようとした。「完全な自由放任システム」と「国家の指令で動く社会主義システム」を両極端にもつスペクトラムを考えたとき、その中間の位置をとろうとするのである。1940年代のケインズには、市場経済の役割を以前よりも重視すると同時に、社会的公正をも重視する傾向が明瞭に認められる。
  ベヴァリッジの社会哲学は、『ベヴァリッジ報告』の策定途上の重要な草案である「再建問題: 路上の五大巨人」(1942 6 ) に鮮明に表れている。「五大巨人」のうち、「窮乏」、「疾病」、「無知」は現在克服可能な状況になりつつあるが、「不潔」と「無為」は市場経済のもとでは克服が困難であり、「国家による計画策定」(土地の国有化ならびに基幹産業の国有化を含む)が必須であるとされている。
 ベヴァリッジは長年にわたり、社会における貧困・失業(雇用) 問題に関心をもち続けるとともに、戦間期の「失業保険」法制の中心的存在であった。他方、ケインズは失業(雇用) の理論的分析、ならびにそれに対処する経済政策で大きな衝撃を与えた経済学者であるとともに、次第に社会正義の問題への関心を深めていくことになる。かくして、両者の問題認識が歯車の両輪のようにかみ合うことになり、時代と社会の要請に押されて大きな力を発揮することになったのである。
  ただ、両者のあいだでは、市場経済にたいする信頼の度合いには明確な相違がみられる。このことは『雇用政策白書』(1944 年5月) にたいし、ケインズが「民間企業の役割が強調されていない」点をやや遺憾としているのにたいし、ベヴァリッジは、まさにそれが市場経済に信頼を寄せすぎているとして批判(上記の「不潔」と「無為」を参照)している点に象徴的に認められる。

           2.戦間期の社会保障立法

 第二次大戦後のイギリス福祉国家体制を構築するうえで、『ベヴァリッジ報告』は『雇用政策白書』とともに画期的な役割を演じた。その功績は、今世紀の初頭から漸次的に進められてきた社会保障立法を一元化・体系化したところにある。したがって、戦間期に社会保障システムがどのように展開されたのかをまず簡単に振り返っておくことが必要である。
  すでに第一次大戦前には、「老齢年金法」(1908年)と「国民保険法」( 1911年。健康保険と失業保険からなる) が成立していた。「職業紹介所」の初代所長(1909-1916) ベヴァリッジは、このうちの「失業保険制度」の立案者であった。同法では業種はかなり限定されていたのであるが、1920年に成立した「失業保険法」で、被保険者の数は375 万人から1110万人に拡大した。それは次のような給付条件を有するものであった

(i) 最低12週間分の保険料の拠出、(ii)6週間分の拠出にたいして1週間分の給付、(iii) 年間最大15週。この法律の制定にあってもベヴァリッジは大きな役割を演じている。彼は、「復興省の民間戦時労働者小委員会」の委員長として1918年2月に失業保険の一般化を勧告しており、1919年には労働省任命の省委員会の委員として、失業保険の一般化を目的とする計画の枠組みづくりに携わっていた。
  だが実際は1921年からのイギリス経済の悪化に伴う失業の急増により、上記の給付条件は適用されず、給付の制限条件の適用免除・緩和がなされるといった事態が1931年まで続いた。失業者にたいする公的な金銭的援助の大部分は、1920年代を通じ、こうして「引きのばされた」失業保険給付によりなされ、「救貧法」の占める割合は大幅に減少することになった(なお1925年には「拠出制年金法」が成立している)。
  失業の急増に伴い、「失業保険基金」の財政は悪化の一途を辿った。このために財政緊縮政策の一環としてとられたのが、1931年の「失業保険(国家節約)命令」1 号・2 号である。1号では、拠出額の50パーセント引き上げと給付額の10パーセント引下げ、ならびに年間最大26週の給付が決定された。また2号では、1号の衝撃を緩和すべく全額国庫負担になる「過渡手当て」の導入が決定された。この結果、失業者にたいする公的な金銭的援助は、失業保険給付、過渡手当て、それに公的扶助(=救貧法) によって行われることになった。
  だが、過渡手当ては「ニード判定」を要件としており、これにたいする民衆の抵抗は激しかった。その結果、成立したのが「失業法」(1934年)である。同法は第1部「失業保険」と第2部「失業扶助」からなる。第1部では、「失業保険法定委員会」による保険基金の管理が規定され、給付条件の緩和が図られた(委員長はベヴァリッジ)。また第2部では、「失業扶助委員会」の創設が規定された。費用は全額国庫負担で、「世帯ミーンズ・テスト」が要件とされた。しかし、失業扶助による減額査定にたいする民衆の怒りが爆発することとなり、1935年に「停止法」(過渡手当てと失業扶助の高い方が得られる) 、さらには1941年に「ニード決定法」(事実上の「個人ミーンズ・テスト」への変更)が制定されることになったのである。

3.『ベヴァリッジ報告』の策定過程 ケインズ達による援護

  1941年6月、無任所大臣グリーンウッド (A. Greenwood) は、下院においてベヴァリッジを議長とする省庁間委員会( 以下「ベヴァリッジ委員会」と呼ぶ) の設置を表明した。これは労働組合会議ならびにいく人かの議員からの圧力に答えようとするものであった。当初の目的は、社会保険ならびに関連サービスの現状を調査し、行政的な改善を勧告することにあった。調査は9月には完了していたが、ベヴァリッジはその後、包括的な社会保障計画の策定へと踏み出していった。このため、委員会に派遣されている各省庁の役人は困難な立場に立たされた。彼らに与えられた権限をはるかに超えてしまっているからである。その結果、大蔵省の主導でとられた解決策は、各委員は技術顧問として協力するが最終報告書は議長が単独で署名する、というかたちでの委員会の再編であった。1941年の12月にはベヴァリッジは提案の概要「社会保障の基礎的諸問題」を書き上げており、その経済的側面にかんして経済部の意見を求めようとした。
 経済部(1939年設立)はフル・タイム雇用の経済学者を主力とする史上初の経済諮問機関であり、戦後の経済体制の構築に主導的な役割を演じることになった官庁である。ミード(James Meade)は、1941年の2月に初代部長ジュークス(1939-41年。J. Jewkes)の要請に応じて、戦後解決しなければならない緊急問題として4点 - 失業問題、社会保障問題、産業構造問題、世界貿易・金融問題 - を提示していたのであるが、以降、第2代部長ロビンズ(1940-45年。Lionel Robbins) の支援を得ながら、経済部による政策立案の中心者として活躍していくことになる。そしてその多くはイギリス政府の政策として採用されることとなり、戦後のイギリス経済・社会の辿るべき道筋に大きな影響を及ぼすことになるのである。社会保障問題にあっては、経済部からはベヴァリッジ委員会の秘書としてチェスター(Norman Chester)が参画しており、少なからぬ役割を演じている。そして、経済部の依拠する経済理論・経済政策の産みの親であり、かつ熱心な支援者であったケインズは、ミードとともにベヴァリッジ案の金融的側面を中心に重要な貢献を果たしている。
  1942年の3月、ベヴァリッジは彼の構想の骨格を記した2つの覚書、「社会保障の基礎的諸問題」(1941 12) 、および「社会保険給付基準と貧困問題」(1942 1 ) をケインズに送付した。構想の金融的問題につき意見を聞くためである。その返信から明らかなように、ケインズは最初から熱心な支持者であった。
  「あなたの覚書を読んで、その全般的な計画にたいし私がひどく感激した
ということをお伝えしておきます。それは非常に重要かつ雄大な建設的改革である、と思います。しかもそれが金融的に十分可能なものであることが分かり安心いたしました」(JMK.27, p.204)
  ミードの文書(ベヴァリッジ案の経済的側面についての経済部文書) を読んだ後、ケインズはミードに次のようなコメントを認めた(1942 年5月8日付) 。第1に、理論的にみて拠出金は税よりも劣っているとするミードの見解に同意するが、計画の初期段階では拠出金を保持することが予算に負担をかけないようにするために不可欠である。第2に、不況対策としてミードは消費の促進策を重視するが、その効果は疑問である。第3に、ベヴァリッジの提唱している「解雇賦課金」に大いに賛成である。第4に、ミードの提案している景気の状態に応じて拠出金を変動させるという案について、理論的長所を認めないわけではないが、数量効果は疑問である。
 そして5月12日には、ベヴァリッジの社会保障案をめぐり、ケインズはロビンズならびにミードと話し合いをもった。経済部案はそれを参考にしつつ改正がなされた。改正案読んだケインズは、既述の拠出金変動案にたいし賛意を表明するに至った。さらに6月17日、ミードは社会保障改革の経済的側面にかんする経済部文書の最終版をケインズに送付している。なおこの頃、ベヴァリッジは「再建問題:路上の五大巨人」と題する重要な文書をジョウィットの「内政問題諮問会議」に提出している。
  経済部文書の最終版は6月24日のベヴァリッジ委員会で検討がなされた。その結果を受けて、ミードはケインズに意見を求めるべく手紙を認めた。論点は予算にかかわるものであり、大蔵省との見解の食い違いを示すものであった。ミードの主要な論点は次の3点である。 (i)「歳入」をめぐり大蔵省は悲観的な見通しを抱いており、その見地からミード案を批判しているが、その根拠は不合理である(とりわけ、国民総支出の増大が個人消費の増大をもたらし、間接税の自然増が見込まれるとの論点の欠如) (ii)高度に累進的な所得税と、ずっと低い累進性の資本課税を提唱。 (iii)巨額の公的支出の財源として「財産の社会化」(国債の没収や鉄道・農地・公益事業の国有化) の提唱。
  ケインズは、6月30日付のホプキンズへの手紙において、戦後の国民所得の推定に言及している。それによれば、楽観論者のケインズ= ストーンは1946年のそれを65億ポンド±2 億ポンドと推計し、以降毎年1億ポンドずつ増加していくと考えている。他方、悲観論者のヘンダーソン(Hubert Henderson)63億ポンドでも高すぎると考えている。この推計値はその後も重要な論争点となった。それは歳入、したがって社会保障関連に用いられる財源に大きな差をもたらすからである。また、ベヴァリッジ案について、総額6億8千万ポンドのうち、事業主・被用者の拠出金が3億1千万ポンド、国からの拠出金が2億7千万ポンド(家族手当てはここから支給)であるから、差し引き1億ポンドの財源が不足することになる。したがって年金を同額節約できるならばベヴァリッジ案は非常に説得的なものになる、とケインズは述べている。
 拠出金変動案をめぐり、ミードはさらに詳細な案を作成し、「繰り延べられた所得税控除」案(これも需要安定策として考えられている) と共にケインズに送付した。だが、拠出金変動案は、ホプキンズの示唆でベヴァリッジ案から切り離されることになった。
 6月30日、ホプキンズはベヴァリッジに、復興との関連でベヴァリッジ案のより広範な金融的含意の検討を要請した。それを受けベヴァリッジとケインズのあいだで話し合いがもたれたが、ケインズはその結果を7月7日付けの手紙でホプキンズに報告している。注目すべき論点は次の通りである。(i) 当計画を金融的に可能なものにするために、「社会保障予算」にかんする非公式の委員会の設置にベヴァリッジは歓迎。(ii)児童手当ての対象を第1子以降にすることに、ベヴァリッジは反対ではない。(iii) 年金率をずっと低くすること(ベヴァリッジ案の2/3)にベヴァリッジは反対ではない。(iv)拠出金を支払ったことがなく、かつ年金を必要としない人々に年金を支払うべきではないという原則にベヴァリッジは賛成。
ケインズとの話し合いを受けて、ベヴァリッジはホプキンズ宛に第4部「社
会保障予算」を修正する旨の手紙を書き、さらにその後、改正草案を各省庁に送付した。だが、ここでホプキンズは、「基金原則」という「擬制」を止め、総合課税を主たる財源にすべき旨の覚書を配付するに至った。ケインズはこれに直ちに反応し、ホプキンズを説得しようと試みた(7月20日付の手紙)。「拠出金か税金か」をめぐっては、(ミードとの既述の意見交換にみられるように)ケインズはホプキンズに同意している。拠出金制度は擬制であり、とくにそれが人頭税という性質をもつため、拠出金が不十分なものになる危険性があると。だが擬制としての利点もある - (i) それは生産コストとみなしてしかるべきである。(ii)公衆がすでに妥当なものとして承認しているという既成事実を尊重すべきである。
 続いてケインズは、(国による運営ないしは支援のための)「予算外の基金」という概念を出してくる。これは一種の独立採算制度であり、経済の社会化が進むほど必要になってくることが強調されている(輸送システムや、中央電力庁等とともに社会保障をその試みの1つとして位置づけている) 。また予算編成において、均衡に保たれるべき「通常予算」と、雇用にたいする需要とともに変動すべき「資本予算」への分割という考えが披露され、社会保障予算は後者の一項目として位置づけられるべきである、とされる。さらに、ケインズは興味深い所得税の改革構想にまで立ち至っている。これが受け入れられない場合、旧来の拠出金方式がよい、と結ばれている。
  これを受け取ったホプキンズは、直接税体系の改造案の提示に驚くとともに、結局「拠出原則」に立ち戻ることになった。
  さて、既述の非公式委員会は、ケインズ、ロビンズ、エップス(保険統計局長)で構成されることになった。8月10日の初会合に合わせて、ケインズは「社会保障計画」と題する提言を用意した。その目的は国民純所得がかなり増加するまでのあいだ、金融的に実行可能な範囲内に抑えるために、ベヴァリッジ計画をどの程度分割できるのかを調べることにあった。そこでは、(a)被用者階層ではない階層への即時の適用の延期、(b)保健給付金・失業給付金の即時増加の抑制、(c)年金の即時増加の制限、(d)児童手当の抑制、により3億5千万ポンドの節約が可能である、と産出されている。このとき大蔵省からの拠出金は1億1100万ポンドで済む。
 初会合でベヴァリッジは次のように反応した。(a)には反対。現在の被保険者の範囲を超えて即時に拡張すべき。(b)については25シリングより少なくてもよい。(c)ケインズ案は低すぎるが、年金の削減は可能である。(d)第1子の除外に賛成だが、給付金率の削減には反対。
  さらにベヴァリッジは、拠出金を8シリングに増額(ケインズ案は6シリング) することを提案した。これにたいし、委員会はそれは政治的に不評を買うと反対した。しかし、ベヴァリッジは、高い給付金率は高い拠出金率に依存させるべきであり、過去に拠出してこなかった人々の権利が制限されるのは理にかなっている、と応えた。なお、児童手当について第1子を除外するのは政治的に不安定であると委員会側は論じたが、ベヴァリッジは第1子は除外すべきことを力説した。
 最も意見が交わされたのは年金案であった。委員会側は、ベヴァリッジ案は、「最高額の支出と最低額の国民的満足の獲得に同時に成功するような年金計画」である、と評した。ベヴァリッジ案では、拠出金を支払わない人々にたいしは何もせず、かつ現在拠出金を支払う階層と将来支払う階層とのあいだに非常な不公平感が引き起こされることになるからである。こうして、拠出金を支払ってきた階層の将来の年金水準をいかにすべきかは、両者のあいだでの重要な継続課題となった。ベヴァリッジは以上を勘案しつつ、「年金の諸問題」(819日付) を執筆した。この文書は「最終報告書に本質的位置を占めるにいたるベヴァリッジの年金構想がこの時期にほぼ固まったことを確証する」(毛利、1990年、206 ページ) と評されている。
  8月21日、ケインズはベヴァリッジと単独で話し合いをもった。ベヴァリッジは当初の金融コストを削減する目的で様々な変更を加えていた。ケインズはさらなる改訂が必要であると考えたが、ベヴァリッジは次の4点については考えを変えないであろう、と記している。(i) 直ちに全住民を組み入れること、(ii)高い水準の児童手当、(iii) 時間の経過とともに年金水準が上昇していくという契約的な権利、(iv)退職条項。
 8月24日、委員会とベヴァリッジとのあいだでさらなる話し合いがもたれた。この時点でのベヴァリッジ案は当初の案に比べて相当な譲歩がなされており、金融的にみて問題点はほとんどなくなっている、とケインズは判断している。ケインズの主要な批判点は次のとおりである。(i) 年金受給者を生涯にわたって、彼らが最初に受給資格者になった年次の年金率を適用するという案は、政治的に不安定である。(ii)8シリングの児童手当は高すぎる。ケインズは児童手当を低くして、その代わりに第1子にも適用するという方に賛意を表している。
  最終の話し合いはロビンズ同席のもと、1012日にもたれた。そこでの検討内容は次のようなものであった。(i) 低い物価水準の上昇予想(1938 年より25パーセント高いとされているが、ケインズは35パーセント高くなると予想) に依拠した計算になっている。あまり、25パーセントを強調しない方がよい。(ii)2年ごとに増加するという提案された率は確約されたものではない旨を明示すべきである。ベヴァリッジはこの点に同意した。(iii) 週8シリングの児童手当は高すぎる。さらにケインズは、ベヴァリッジ案の大蔵省への正味の追加コストについて、減少要因として、(i) 児童手当を相殺するものとしての所得税の増収、(ii)5シリングの児童手当、(iii) 医療専門家の社会化ならびに全国民の組み入れを前提とした保健サービスの即時実施の不可能性を、また増大要因として、(iv)行政的・立法的理由により、現行の拠出金支払い階層への計画の限定、(v) 「退職条項」の削除、を指摘している。
  ケインズのベヴァリッジ案にたいする総合的な金融的評価は次のようなものであった - この計画の財政は、社会的に受入れ可能な拠出金率の増加に本質的に依存しているが、提示されている額は十分に妥当なものであり、しかもこれが「かくも広範囲に及ぶ計画を、大蔵省の負担するコストが非常に控え目な額で実行可能」にしている。しかし、ケインズは、この提案のまったく新しい特徴である、給付金および拠出金を現在の拠出者階層にたいしてだけではなく全国民に拡張すること、ならびに医療職の即時の社会化については延期した方が得策であり、まずはありふれたことを大幅に簡素化することに専心した方がよい、とアドバイスしている。
  翌10月14日、ベヴァリッジ宛の手紙で、ケインズは次のようにベヴァリッジ案を評価し、その前途に惜しみない賛辞を表明した。
「この報告書は堂々としたものであるという思いをいっそう強くいたしております。それが現在のままで採用されることはほとんど期待できませんが、あなたはそれをきわめて実行可能なかたちにしたように思われます。そしてその主要な、そして本質的な部分が、あなたが構想したとおりに実質的に採用されることを、私は願っています」(JMK.XXVII, p.255)

      4.『ベヴァリッジ報告』と『社会保険白書』

 A.『ベヴァリッジ報告』
 『ベヴァリッジ報告』の主たる特徴は第17パラグラフに明らかである。それは、稼得力の中断や出生・婚姻・死亡時の特別支出にたいする社会保険である。この社会保険は次の6つの基本原則に基づく。(i) 均一額の最低生活費給付、(ii)均一額の拠出金、(iii) 行政責任の統一、(iv)十分な給付、(v) 包括性(人および必要性にかんして網羅的)、(vi)被保険者の分類。この社会保険を主とし、「公的扶助」ならびに「任意保険」を従として、「窮乏」を根絶することが、同報告の目的とされる。以上のような手段により、「ナショナル・ミニマム」を全国民にたいして保障しようというのである。
  『ベヴァリッジ報告』は、均一拠出・均一給付という「拠出原則」による「社会保険」を中心とするものであって、けっして国家による救済に重点をおいたものではない。事実、国家による助成である「公的扶助」は、自らを助けることのできない人々にたいする特別な事例に対処するものと位置づけられている。したがってそれは「ミーンズ・テスト」を要件としており、「劣等処遇の原則」に基づくべきことが強調されている。また行政組織的には、ベヴァリッジ案は「社会保障予算」という独立基金により運営される。それは、被用者、事業主、および国家の拠出金を財源とし、各種の年金、給付金を支出項目とするものである。この点は第4部「社会保障予算」ならびに補論A「社会保険ならびに保障給付にかんするレポート案の金融」(保険統計局の覚書。執筆者はエップス) で論じられている。
  『ベヴァリッジ報告』は、「窮乏からの自由は人類の本質的な自由の1つにすぎない。狭義のいかなる社会保障案も... 多くの領域での共同の社会政策を当然としている」(第 409パラグラフ) と述べ、社会保障の前提として、児童手当て、包括的保健サービス、ならびに雇用の維持(大量失業の防止) を強調している。この点は第6部「社会保障と社会政策」で論じられている(最も重視されているのは「雇用の維持」)
 児童手当ては、児童の維持のために親にたいして支払われる。児童手当ては、ナショナル・ミニマムが賃金システムだけでは保障されないこと、また雇用時と失業時の稼得格差をできるだけ大きくするために、雇用・失業に関係なく出されるべきであること、さらに人口維持の見地から、重視されている。児童手当ては、税でまかなわれるべきであり、第2子以降に各8シリングが給付されるべきである、とされている。
  包括的保健ならびにリハビリ・サービスであるが、前者については所得制限を付けない強制社会保険計画が提案されている(第431 パラグラフ) 。また後者については、医療段階から、医療後の段階を経て、稼得能力が最大限回復されるまで継続されなければならないことがうたわれている。
  雇用の維持が重要である理由として、ベヴァリッジは次の5点を指摘している(第 440パラグラフ) (i) 社会保障案は短期間の失業給付しか考慮していない。(ii)大量失業下では、失業にたいする唯一の満足な試金石たる「仕事の提供」が不可能となる。(iii) 労災・疾病・不具者の就労は労働市場の状態に依存している。(iv)国家の力で、万民に生産的雇用のための妥当なチャンスを保障するように努めること。(v) 社会保障案のコストは、「浪費」が追加されれば支えられない規模になる危険性があるが、失業はその最悪の形態である。ベヴァリッジは以上のうち(iv)を最重視している。
  なお、件の拠出金率の変更案は第442 パラグラフで、また「退職条項」は第244 249パラグラフで、それぞれ言及がなされている。

  B.『社会保険白書』
 『ベヴァリッジ報告』は公衆に熱狂的に迎え入れられた。それは刊行後、1ヵ月で10万部、1年間で256 千部が売れたことに象徴される。これにたいし政府の態度(閣議の了解事項)は消極的であった。19432 16-18 日に行われた下院での討議は混乱をきわめ、政府支持決議と非難決議に分裂する有り様であった。
  ケインズは、このような状況下、2月24日に上院で演説を行うべく作成した草案において、ベヴァリッジ案よりも国庫財政に負担をかけないような代替案が提示されることなく下院での議論が行われている、と述べている。そしてベヴァリッジ案ほど、戦後初期の期間、安く済む計画は存在しないことを力説している。
 「この案〔ベヴァリッジ案〕が低い予算コストでその成果を達成できるの
は、その基本原則の一つ、すなわちわれわれは今日の年金受給者の数よりも多い労働人口から今日の年金拠出金を徴収するという原則から生じています」(JMK.XXVII, pp.258-259)
その代わり、ベヴァリッジ案は将来、多くの負担を引き受けることになるが
、そのときには、国民所得がこの案のもとでの負債の数倍の速さで増大するから何ら問題はない、というケインズの年来の楽観的な予想で応えている。だがこの演説は大蔵省からの圧力のため実現には至らなかった。
  政府の公式見解は、最終的には、T.フィリップス(Phillips) を議長とする「ベヴァリッジ報告書検討委員会」( 以下、「フィリップス委員会」) での討議を経た後、最終的には『社会保険白書』として公表されるに至る。
  「社会保障システム」をめぐる議論は、戦後の「雇用政策」をめぐる議論と同時平行的に、しかも密接な関連をもちつつ行われたという点に注意を払う必要がある。「雇用政策」をめぐる議論は、経済部のミード案「全般的失業防止のための国内手段」(1941 7 ) をめぐって開始され、その後、19435 月にミードの手になる経済部案の「完全雇用の維持」が「復興優先順位にかんする省庁間委員会」に提出された。それは大蔵省内に激しい反発を引き起こした。大蔵省の官僚は社会保障計画案に反対し、ヘンダーソンは「社会保障基金」の不均衡化に反対する論陣を張った。こうした対立が続くなか、「戦後雇用に関する運営委員会」の設置が図られ、そこで議論が継続されることになった。以降、かたやケインズ、経済部(ミード、ロビンズ、ストーン [Richard Stone]、チェスター) 、そしてそれを援護する閣僚・官僚(内務省のモリソン [Herbert Morrison] 、商務省のドールトン [Edward Dalton]、ゲイツキル [Todd Gaitskell])、それにベヴァリッジ、かたやそれに批判的な大蔵省閣僚・官僚( ウッド [Kingsley Wood]、ホプキンズ、イーディ [Craufurd Eady]、そしてヘンダーソン) という陣営に分かれて、激しい議論が展開されたのであるが、最終的には前者の勝利が『雇用政策白書』というかたちでもたらされた。
  以上の経緯からも推定されるように、『ベヴァリッジ報告』にたいして最も批判的な立場をとったのも大蔵省であった。
「大蔵省は、すでに委員会発足当初から同委員会[ベヴァリッジ委員会] の論議内容を秘匿すべく、かつまた、報告書の公表を戦争終結時まで引き延ばすべく全力をつくしたし、報告書の第一次草稿(19427 ) は大蔵省に一種のパニックを惹き起こしたとさえいわれている。また同年9月に完成していた報告書が、保守派閣僚の「革命的にすぎる」との反感から12月まで公表を遅らされたことも周知の事実に属する」( 毛利、1990年、239 ページ)
フィリップス委員会では、大多数の委員は、『ベヴァリッジ報告』の「最低
生活費保障原則」に反対した(その結果『社会保険白書』では『ベヴァリッジ報告』より25パーセント高くなった) 。これにたいし、それを支持し、この原則からの乖離は政府の負担を増加させることになる、と論じたのは経済部のチェスターであった。また経済部は、年金受給者よりも若壮年層への配慮を優先しようとしたが、委員会の大勢は、それとは逆の方向をとった(その結果『社会保険白書』では、児童手当は5シリングと少なめに、他方年金率は十分な拠出金を払ってこなかった人に多めのものとなった) 。さらに、同委員会では、『ベヴァリッジ報告』で重視されていた「雇用の維持」は無視されてしまっている。とはいえ、フィリップス委員会は『ベヴァリッジ報告』のその他の多くの原則(「普遍主義」、「均一額拠出原則」、「均一額給付原則」、「社会保障省の設立」等)を継承したし、それらは『社会保険白書』のなかに取り込まれることになった。
  『社会保険白書』の起草過程では、上記のフィリップス委員会でのやりとりの再現がみられた。このことはチェスターとの会話を記した、ギルバートならびにホプキンズ宛のケインズの手紙(1944 5 15日付) に明らかである。これにたいするケインズ自身の評価は次のようなものであった。
 「私自身は、年金にたいする非常に大きな譲歩は遺憾であるとの考えをも
っています。しかし私は、ベヴァリッジあるいは他の誰でも、それが本来のベヴァリッジ案を超えているからという理由でそれを安易に批判することはできないであろう、と思います。他方私は、年金にたいする気前のよさと児童手当にたいする厳しさとのあいだの不整合性は、たしかに弁護が非常に難しいであろう、と感じます。私はまた、拠出原則の放棄にも等しいやり方はわれわれを海図のない海に導くことになる、という点で彼 [チェスター] に同感です」(JMK.XXVII, p.263)